田宮二郎[1935-1978]

 昭和53年12月28日、田宮二郎は、当時夫人と2人の子供を青山のマンションに別居させ、港区元麻布の自邸に一人で住んでいた。午前11時ごろ、田宮は付き人の西村豊に弁当をとってきてくれと頼んだ。西村が赤坂の仕出し屋から弁当を買って来て、午後1時半ごろ2階に上がってゆくと、10畳の寝室のダブル・ベッドの中で、赤いパジャマを着た田宮が死んでおり、銃身の先が、胸までかかった毛布からのぞいて見えた。
 田宮は、趣味のクレー射撃に使うアメリカ製散弾銃をベッドの中に入れ、足の指でひきがねをひいたものらしく、弾は心臓部に直径ほぼ3センチの穴をあけ、即死の状態であった。ベッドの中と右腕は血まみれになっていた。

 彼は身長180センチ、空手は初段で、英会話も自在で、映画『白い巨塔』などでもその演技は好評を受けていたが、日本のハワード・ヒューズを志して、俳優以外にも映画製作、開発事業など種々事業に手を出し、それがうまくいっていないといわれ、前年の3月ごろから強度の躁鬱(そううつ)病にかかり、しばしば誇大妄想的な異常な言動があった。

 最後の出演作はフジテレビのやはり『白い巨塔』であったが、最終録画は11月15日に行われ、彼は自分の死ぬシーンを、「うまく死ねた」と自賛していたという。このシーンは、田宮の死後9日目の翌1月6日に放映された。

 生前つきあいのあった代議士佐藤文生は、毎年田宮邸で行われるクリスマス・パーティについて電話すると、田宮は「ことしはやめます。とても出来るような状態ではありません」と涙声で答え、佐藤が何をいっても「どうしてもだめなんです」といったという。

 妻幸子(元女優藤由紀子)に残された遺書。
「…12月1日の夜、青山のマンションから、僕が麻布に戻る時、『ひとり置いていかないで!』と幸子はいった。
 涙をふき乍ら、そう云った幸子の顔はいままでに見せたこともないものだった。『もちろんさ!』と僕は答えた。しかし心の中を見透かされた僕は、あなたの左手をぎゅっと握ることしかできなかった。
 もう自分でもとめることはできないところへ来てしまった。
 生きることって苦しいことだね。死を覚悟するのはとても怖いことだよ。
 43歳まで生きて、適当に花も咲いて、これ以上のしあわせはないと自分でも思う。
 田宮二郎という俳優が少しでも作品の主人公を演じられたことが、僕にとって不思議なことなのだ。そうは思わないか?
 病で倒れたと思ってほしい。事実、病なのかもしれない。そう思って、諦めてほしい」

 何だか気持ちの悪い遺書である。
 田宮には躁鬱病的気質があって、数年前から躁状態のときに無計算の事業欲に熱中し、それが鬱状態にはいって虚脱的心理におちいり、自殺したものと見られる。

 彼は自殺10カ月前に3億円の生命保険にはいっており、生命保険は1年以内に自殺した場合、保険金は支払われないという規約があるが、彼のケースは鬱病という病気と認められて、保険金が支払われた。

「人間臨終図鑑」(山田風太郎・徳間書店)


一つ戻るトピックのインデックスへトップページへ一つ進む