田中絹代[1909-1977]

 65歳の田中絹代は昭和49年の映画『サンダカン八番娼館』、テレビ『りんりんと』で、鬼気せまる演技を見せ、観客を感動させた。『りんりんと』が放映された翌朝、脚本家の倉本聰が電話すると、田中絹代のさけび声が聞こえた。

「ああ倉本さん、倉本さん!ほめられましたよ、ほめられました!みなさん感激して下さいまして田中の電話は鳴りっ放し!みなさん”インテリア”の方々で−」(倉本聰『さらば、テレビジョン』)

 昭和51年のNHK連続ドラマ『雲のじゅうたん』に彼女はナレーターとして出演したが、その途中9月ごろ愛猫のエサを買いに鎌倉駅前のデパートにいったとき、足がよろめいて転んだ。それ以来吐き気や頭痛を訴えはじめ、自宅で横になっていることが多くなったが、不調をおして『雲のじゅうたん』総集編のナレーションも無事録音した。
 その年の11月末、日本テレビ『前略おふくろ様』の撮影で倉本が立ち会ったとき、しかし、田中絹代はすでに異常を呈していた。倉本は書く。
「その日の仕事はめちゃくちゃだった。辛いことだが田中さんはもうセリフを云うことが出来なくなっていた。しかし田中さんはよくしゃべり、よく笑った。いや、正確に云ってしまうなら、異常に、と表現すべきだろう。田中さんは明らかに精神の均衡を失っていた。何でもないことにプッと吹き出し、かと思うと急にギュッと口を閉じ、更に突然すさまじい口調で人の悪口を次から次へ云った。麹町から代々木の稽古場へ一緒の車で向かう中でも、田中さんは1人激しくはしゃぎ、激しく怒り、そして笑った。
 僕は田中さんに懸命に合わせながら、どうしてこんな田中さんを(テレビに)引っ張り出すようなことをしたのか、錯乱の中で後悔していた。田中さんの背に手を廻して鎮めよう鎮めようとさすりながら、熱い塊を必死に抑えた。田中さんの身体は異常に小さく、僕の腕の中にすっぽり入った。(中略)
 激しい神経的躁状態が田中さんの内部からほとばしっていた。『あいつは何だ』とか、『あのヘタ監督が』とか凄まじい表現が機関銃のように田中さんの口から奔走り出た。」

 暮の27日、彼女はついに本郷順天堂病院に連れてゆかれ、翌52年1月に入院した。彼女自身は聞かされなかったが、病名は脳腫瘍であった。
 入院後の2月ごろ、つきそいの映画監督小林正樹につぶやいたことがあった。「セリフをしゃべらず、じっと動かないでつとまる役はないかしら」小林は答えた。「それはできますよ。セリフがなくても動かなくても、名女優は名女優です」
 むろん小林は、絹代のことを考えていたのだ。

 自分の病名を知らず、早くよくなろうとして彼女は、うなぎやアナゴを必死で食べた。
 しかし3月にはいって彼女は、箸を使うことが出来なくなり、手で食べはじめた。しかし、それでも田中絹代らしく、それはいかにも可愛らしかった。
 トイレにも立てなくなると、おしめをあてがわれたが、17歳のときから付き人をしている仲摩篤美が手をのばして具合をたしかめようとすると、首をふっていやだといった。その一方で仲摩の手で毎日顔にクリームをぬらせた。

 倉本は記す。
「ただ1つ書いておきたいことは、その時田中さんに全く金がなかったことである。鎌倉の家と、三崎に建てかけて中座したままの別荘はあったが、田中さんには使える金がなかった。それどころか借金を抱えていた。入院費すら全くなかった。抵当に入っていた鎌倉の家すら、放置すれば人手に渡るところであった」
「田中さんは恐らく三崎の家に、最後の夢を注いでいらしたのだと思う。だが、不幸にも資金が続かなかった。九分通り出来上がったその家は、ここ2、3年放置されていた。それでも田中さんは時折少しずつ、気に入った電気器具や小さな家具を買い、三崎のその家に運び込んでいた。未完成の家の中に、それらの品が、店の包装のままちょこんと置かれていた。(中略)いずれにしても日本映画界を代表するスターの、これが最後の夢だったのかと思った。そしてその家へ恐らく一度も、足を踏み入れずに果てられるであろう田中さんの口惜しさを思った」

 いったい、半世紀にわたり一代の名女優として彼女が稼いで来た莫大なギャラはどこへ行ってしまったのか。

「田中さんの病室を最後に訪ねたのは、あれは2月の何日だったろうか。
 田中さんは既に口がきけなかった。それでも壁のレリーフ(51年度の芸術祭最優秀賞として彼女主演の『幻の町』が文部大臣から受賞した盾のレリーフ)を指さし、そして必死に笑おうとされた。でもその笑いはすぐに涙に変わった。田中さんは自分の袖をまくってみせた。何か仰ったが、ききとれなかった。その二の腕のあまりの細さに僕は何も云えなかった。田中さんは自分のその腕の細さを窓の光にかざすようにし、永いことじっと見つめておられた」

 最後には眼も見えなくなった。痰がつまって苦しむので、のどに穴をあけた。
 3月21日午後2時15分、彼女は順天堂病院で息をひきとった。
 口がきけるうち、従弟(いとこ)にあたる監督の小林正樹にいった最後の言葉は「桜の咲くころは、きっと鎌倉の家へ帰ってお花見するからね」というものだった。

 やはり映画監督の中村登はいう。
「お通夜のとき、小林正樹さんが言いました。『とても良い顔をしています。見てやって下さい』白布を拡げた時の絹代さんは、60年という修羅場を女ひとりで戦い抜いて来たとは見えない安らかな顔でした。不覚の涙がこぼれました」

 その翌日の夕方、倉本ははじめて田中の鎌倉の家を訪れた。

「−その部屋はひどく寒かった。寒いのに暖房の設備が殆どなかった。寒い上にやたらに暗かった。(中略)洋間に続く四畳半があり、そこに小さな置きごたつがあった。こたつのすぐ脇に電話があったので、田中さんはいつもここにいたンだなと判った。古びたテレビが1台あったが、驚いたことにそれは白黒テレビだった。それがたったの1台きりだった」

 40年間田中につきそい、彼女がボディさんと呼んでいた老優隼信吉はべろべろに酔い、泣くように話しかけた。
「先生ごらんよ、ここにいたんだよ、田中絹代はいつも独りでね。俺がたまに来るとこの暗い部屋で、こたつに当たって頭かかえてンだ。両手でこうやってさ、電気もつけずにさ、田中絹代はいつも独りで、頭抱えて坐ってたンだ。え、判りますか。天下の田中絹代がですよ!頭抱えて坐ってるんですよ!」(倉本聰『さらば、テレビジョン』)

 築地本願寺の葬儀には、しかしカッポウ着姿といったおばさんたちをふくめファン2000人が集まり、みな焼香台の上に100円玉を置いていった。ああ、これこそファンが、昭和期最大の映画女優田中絹代に捧げた最高の勲章ではあるまいか。−この金は遺骨とともに墓地に埋葬された。
 死後に「楢山節考」と「愛染かつら」が再上映された。映画が終わると劇場内には期せずして万雷の拍手が起り、いつまでも鳴りやまなかった。

「人間臨終図鑑」(山田風太郎・徳間書店)


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