★★★(2000.7.16)
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『インディアン/羅生門』 どうも新譜の購入ペースが落ちている。CDショップの店頭に心トキメク新譜が並んでいないことも事実だが、それにもまして本質的な要因は僕のリスニングが後向きなのかも知れない。 と、言うわけで、今更ながら「ニューロックの夜明け」シリーズを蒸し返す。 羅生門。 近田春夫が在籍(右から2番目。ジャケ写&ライヴメンバーと録音メンバーは別らしいんだけど…)。作詞はかぜ耕士(たむたむたいむ!)。中途半端なトータルアルバム。 売れっこないわな。まさに“時代の仇花”。日本でグラムロックやっちゃった、なんつー話よか恥ずかしい。 などと茶化してみせるのも、僕の照れ隠し。 だって、ジャケ写を見て判る通り、羅生門のメンバーは前向きに風を受けて立っているんだもん。四人囃子みたいにスマートなイメージ戦略じゃないんだもの。「芸術」じゃなくて「ロック」なんだもの。 斜に構えて笑ってみたいのはヤマヤマなんだが、何故か僕は真正面から受けとめてしまった。後向きなリスニングが出会った前向きなオールドロック。 しかし、冷静なリスニングはオールドロックを冷静に解析してしまう。昔の演奏家はお上手だけど作曲センスは洗練されていないなぁ、と。明らかに詞先の楽曲はスイートスポットなんぞ皆無。説教がましい歌詞にも辟易。ムズムズする。このムズムズを現代のリスナーは理性や理屈で埋める。 すなわち「古いレア音源」としてならば価値が有るなぁ、などと。 ゆえの「ニューロックの夜明け」シリーズ。古い邦楽音源に評論家がケチをつけない風潮の根本的な原因がここにある。 皆知ってるはずだ。はっぴいえんどはパーフェクトじゃない、と。
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★★★(2000.7.16)
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『夜明け前/TOKYO NO.1
SOULSET』 「J-RAP」ってのもシャラ臭い言葉だ。イメージするのは“ドラゴン・アッシュ以降”。 ♪だよね〜♪とかやっていた人達は「J-RAP」とは違うよね。スチャダラパーも違う気がする。もちろんビブラストーンは全然違う。(蛇足だが、小室哲哉作品のラップは別の意味で100%違う!) 「J-RAP」の特徴は4拍目の頭(つまり最後拍)にアクセントを集中させるイントネーションで韻を踏むラップ。ライムのスキルは驚くほどに高い。そして、僕が感じる「J-RAP」ライムの基本主旨は「ストリートB-Boyの英雄・俺様/こう見えて結構真面目/講義得て説教始め。」(←さりげに韻を踏んでみました)ってな感じ。 降谷健志の志がシーン全体の思想を代表するのはどういうものか。まあ、僕は「J-RAP」を熱心に聴いているわけではないので、これは僕の思い違いであると信じたい。 さてと…。TOKYO
No.1
SOULSET(以下、TNS)。98年のリリース。「J-RAP」前夜の音。 この時点でHIPHOPと邦楽の距離が全然遠いという事実に今となっては驚く。そうだよな、スチャダラも苦戦してたんだよな。HIPHOPのテイストはループするリズムのみ。 TNSの本質は“歌”なんですね。バックトラックにHIPHOPを導入しただけで、志は“歌”にあると見た。歌詞もメロディも声も優しくて、柔らかいけど明確な意志を持っている。(当然、後発のくるり等にロールオーヴァーされちゃう手法なんだけどナ。) それにしても、中間に登場するラップには腰を抜かしそうになった。 そうか、日本のラップってこんなレベルだったのか! 「J-RAP」の登場が必然だったような気もしてきた。 しかし、敢えて思う。HIPHOPとの距離感が不自由な98年ゆえの“圧倒的に自由な音楽(HIPHOP)”が存在していたんじゃないか、と。 サウンドの洗練(ニューミュージック)がグループサウンズを駆逐した時代を思い出す。 ところで今回のレビューは「まきんこ」サンからのリクエストで実現しました。 今後も広くリクエストを募集します。
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★★★☆(2000.7.22)
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『ミラクル・ペティント/スソ・サイス』 情報量が多く緻密なくせにオットリした同名スペイン映画のサントラ。現在公開中でもあることだし、ここで物語には触れない。構図や脚本が豊かな高品位映画であるにも関わらず、均一に整備されノッペリした印象が不思議だった。例えば、積荷落下や列車衝突で少なくとも5人の即死映像を見せながらも悲壮感無きままに情報が淡々と処理される、というマジック。 劇場の音響設備で聴くBGMもクラシックからラテン、スパニッシュフォークまでバラエティ豊かなくせに音像が均一的で遠い。その距離感に僕はちょっとだけイラついたのさ。 さっそく劇場で購入した本作を聴いて、少しの謎解き。 ニノ・ロータやマイケル・ナイマンに賢著な音のデコボコ(トップのバイオリン出力過多やピアノの歪、なんていうサントラにお約束のヘボMIX)が本作には皆無。それは一見完璧な仕上げなんだが、相当に物足りない。 結果、単体のホーンやピアノの音はすっげえユニークなのに全体の印象はすっげえ地味。 その鍵は間違い無くトータルコンプ(マスタリング工程で使用するエフェクト処理。単体の音粒を揃え、ピークを安定させる)。 現代のダンス音楽はトータルコンプ無しには成立しないし、僕自身がコンプ信者であることを白状する。 しかし、コンプに密閉されたオーケストラは殊の外いただけない。整合感は見事だが、メリハリ皆無。 そうか、判明した! 映画に不足していたものはメリハリであって、編集工程で監督は精神的なトータルコンプを使用したに違いない。デコボコ(例えば悪意)を矯正(コンプレス)して洗練したってわけだね。監督がCM制作畑出身と知り、なるほどねと感じた次第。 さてトータルコンプ信者として提案。映画や音楽の制作工程デジタル化によって各パーツがオブジェクト化し、編集工程に重きがおかれる現在。我々はトータルコンプの甘い罠から解放され、独立すべきである。 これは僕なりの独立宣言でもあるのでヨロシク。
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★★★(2000.7.22)
2in1のジャケ写、作っちまいました。
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『ヴィエナ(+1)/ウルトラヴォックス』 80'sの音楽シーンは不毛であった。ま、これが一般論なんだが、1979年には音楽にとって“希望のディケイド”だったはずだ。 「レゲエ元年」なんて言ってたっけな、東芝EMI。レゲエ、パンク、テクノポップ、ニューウェーヴの台頭(ったって汎用性は皆無…)。「リズムの時代到来!」なんてな。 勝負は下駄を履くまでわからない。80'sが産み落とした最大の功績はHIPHOPでしょ。サンプラーに関しては実験期。R&Bを通俗的レベルで啓蒙する時代。 いづれにしても実が無い。 英国パンクに端を発したニューウェーヴが(少なくとも商業的に)帰結したフューチャリスト。80'sにおける数少ない実質的な英国遺産、ウルトラヴォックス。彼等の代表作となる2枚を比較すれば、英国音楽産業が取った戦略が浮かび上がる。そして、80'sの音楽が不毛であった根拠も。 80'sのリズムは結果的に“軽薄”に陥ったわけではなかった。こーいうリズムが理性的に採択され、こーいうリズムを市場が支持したんじゃん! ジョン・フォックス時代のヒューマンな“揺れ”をミッジ・ユーロは躍起になって是正する。(ただし、同期が不完全なアナログ録音時代で、しかも演奏が下手だから是正されたビートも揺れてるんだけどね。やりたかったコトは理解できる…)“グルーヴ”なんぞという概念が微塵も感じられないスクエアなビートは明らかに戦略だ。そのビートに郷愁のメロディやシンセ&ヴァイオリンを被せたことによってエクスキューズも完了。だって、「未来派」なんだからさ。善意も悪意も込めて言うけど、ミッジ・ユーロの商才は尋常じゃない。世界の市場を読み切った戦術だ。 “パラパラ”に興じているガキなんざ、ミッジ・ユーロの掌の上だ。 80'sは“礎”として明確な役割を担っていたんだね。 本作は「肉山田洋」さんのリクエストです。
(関連・ヴィサージ)
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★★(2000.8.06)
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『ホロスコープ/EVE6』 以前、ワールドミュージック系のアーティスト名が覚えられないという話(←Click!!)を書いた。 実を言うと、僕はニューカマーのアーティスト情報を読み取る作業も得意ではない。得意ではないゆえにミスが多い。 本年のフジロックフェスティバル'00で見たEVE6は素晴しかった。 エレクトリック・ヴィオラとチェロとドラムスのトリオスタイルによるポップロック。電気ギターやベースの領域に侵犯しながらも、確実に本来の目的をも果たすヴィオラとチェロの奏法は新しかった。お目当てのバンドを目指して移動中の僕はハタと立ち止まって聴き入ってしまった程だ。 こりゃ、すげえとばかりに後日EVE6を購入。CD屋のコメント文によれば売れてるらしいぜ。そうかよ、ヴイオラ・ロックが売れるかよ! 悪くない世の中じゃん! で、聴いたさ。 …普通にパンクじゃん。1曲だけストリングスが入っていたけれど、そーいう意味じゃなくてさぁ、ヴィオラとチェロが主体の音でさぁ…。 間もなく、フジロックにEVE6が出演できなかった事実が発覚。 じゃあ、僕が観たEVE6っていったい誰だったの…?(デッドウェイトってバンド、だそうだ) さぁ、割りを食ったぞ、EVE6。ポップでキャッチーでアレンジも巧みには違いない。でも、僕は感情的にキミ達を受け入れ難い状態だぞ。それに、もし僕がEVE6の情報を明確に把握していたら生涯接点は無かったはずだし、な。でも聴いちゃったのも何かの縁、と思って何度も聴いてみた。聴いてみたけど、今後のおツキアイは考え憎いかも。 次のアルバムでヴィオラとチェロを主体にするなら、考え直しますが…。 ジャケイラスト、小柳ルミ子か!?
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★★☆(2000.8.06)
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『Plagiarism/スパークス』 世の中には人間1人の人生を変えてしまうポップアルバムがある。僕を変えたアルバムは『キモノ・マイ・ハウス/スパークス』に相違無い。これまでの人生で最も集中的に聴き込んだアルバムでもある。大袈裟に言えば、僕という人間が世の中と折り合っていく為に必要だったアルバムと言うか…。うーん、うまく言えないや。 人生を変えないまでも『キモノ』の中毒になった人達は多いはずだ。そして、その大半の人達が80年代以降のスパークスの存続に心を痛めているのではないか…。 さて、本作はスパークスによるスパークス・トリビュート。ま、リメイクね。 『No1
in Heaven』の楽曲がジョルジオ・モルダーの志を活かしたままにハウス化される試みは陳腐ながらもフィットしている。 っつうか、本作ではコレがしたかったんでしょ? しかし、商業的な要因なのか、精神的な支柱なのか、古いヒット曲のリメイクも収録。『キモノ』からは2曲、3バージョン。 これ、悲しかった。 微妙に変化したラッセルの声が。微妙にしか変化していないラッセルの声が。 80年代以降(明確にはアメリカ期)のスパークスは『キモノ』を否定する、と言うよりも無きモノとして存在していた。だから、本作における80年代楽曲のハマリは自然だ。 しかし、『キモノ』および70年代イギリス期の楽曲はそうはいかない。 あの当時の毒をなぞるように再現してみせるラッセルの窮屈そうな声。 一方、アレンジ的なギャップを演出するロンは、ストリングスやオペラ的コーラスで毒を盛る。 でもね、ロン、それはマズいよ。 キミが影響を与えたQUEENの手法をフィードバックしてしまったら、不利なのはキミの方なのさ。 でも白状しよう。 僕はいつの日か、もう一度『キモノ・マイ・ハウス』級アルバムが聴けるんじゃないかと思って、あなた達のアルバムをチェックし続けているのです。
関連(1・ライヴレポート)
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★★(2000.8.20)
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『PANTA meets FRANK ZAPPA』 新しい形態のCD編集スタイル、ってことなんだろうな。 対象となる海外アーティストに想いを馳せる国産アーティストが選曲した編集盤。 例えば、ビートルズなんかで実践したならば、選者の選定に一悶着あった挙句、選曲に対しても非難轟々って結末が目に浮かぶ。いや、その前に権利問題のクリアー等々、超厄介な問題が山積みだな、ビートルズ。(ビートルズ編集盤の選曲決定委員会の許諾基準は厳しいらしいぜぇ) そんな事情から選曲編集アルバムは、ポピュラリティの低いアーティストを対象にした方がリスクは少ない。 かと言って、ポピュラリティ皆無じゃ商売にならないし、対象アーティストが存命ならば権利問題が煩雑だし…ってなわけで、フランク・ザッパ。 本作にはザッパ曲が編集やリミックスも無しに収録されている。ただただポイントはパンタ選曲の一点のみ。 僕は過去にパンタを崇拝していた人間だし、「頭脳警察」のバンド名の由来や、警察時代のマザーズからの影響なんかも理解しているつもりだ。 しかし、違和感あるねぇ。 何故、パンタの趣味でザッパを聴かなきゃなんねえんだ? 誕生日にもらった自選カセットテープかよ? 俺、中学生かよ?ってなわけで、本作はザッパのファンにとっては新機軸は皆無。 パンタのファンにとっても特にありがたくはない、はず。(パンタはパワフルなオリジナル新譜を出せ、ってんだよな!) 今回のシリーズは下山淳や山本精一、エルマロ等の選曲で6枚同時発売されている。 もし、エルマロがリミックスを手がけたザッパ集であるならば、その意義を理解しやすい企画だったはずだ。 ま、今後、同様の企画が続かないことを祈る。 だって、わかり切ってんじゃんか。 次の対象がトッド・ラングレンであることぐらい…。 (パンタ1・パンタ2・パンタ3・パンタ4・パンタ5&6・頭脳警察1・頭脳警察2)
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★★★(2000.8.20)
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『ブラジリアン・サウンド/LES
MASQUES』 フレンチなボッサ。 僕は全っ然っ詳しく無いんだけれど、このアルバムは“幻のアルバム”で、アナログ盤が何十万円かで取引されていたんだってね。 晴れてCDのリイシュー。デジタル・リマスター。 リイシュー時に初めて存在を知って、ちゃっかりと便乗っつう相変わらずの僕のスタンス。ごめんなさい、軽薄で。 でもねえ、本作は“幻の名盤”として珍重するような重厚な音楽かっつうと、リゾート指向の軽やかな音楽(つまり本来の目的から言って純粋に“機能的”な音楽)なんだな。 僕は基本的にコレクターではないし、リスナーとして職業的であろうとも思っていない。ゆえにマニアが形成する市場の体温と、僕のユーザーとしての体温には温度差があることは当然。中古市場での価格差(取り引き額が10万円か、200円か)なんぞよりも耳を信じたいもんねぇ。バリュー差をつけるのは俺様に相違無い、ってなもんで。 お陰様で僕はビートルズの珍盤にもカラッキシ興味が無い(ブッチャーレコード、とか)。正式に発表された完パケ以外に“正義”なんて有り得ないじゃん。(リミックスだって、発表時点では正常な工程を経た明確な完パケなんであって、オリジナルバージョンを脅かすものじゃあない) で、本作。ダラダラと流していると、楽しいし・明るいし・ユルいし・お洒落だし…。堪能しました。 僕が購買者の立場から価格を指定できるならば2、300円(税込み)。 意識して低く見積もったつもりはない。妥当でしょ? っつか、1、480円にしないという奥ゆかしさは僕の“評価”ですぜ。
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★★★★(2000.8.27)
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『オキナワ/ネーネーズ』 ネーネーズのライヴを1回だけ生で観ることが出来た。解散直前に行なわれた1999年の琉球フェスタ。場所は日比谷野外音楽堂。チャンプルーズ、りんけんバンド、大工哲弘などの沖縄ポップスは僕なりにチェックしていたつもりだし、ネーネーズの音楽にも触れていたはずだった。 にも関わらず、あまりに豊穣な音楽に触れて目眩がしたことを覚えている。 東京での最終ライヴを収録した本作のサウンドは当然のこと僕が生で体験したサウンドと同質のもの。 アメリカのルーツ音楽やレゲエと沖縄マナーの歌唱が混合し、深い味わいを醸し出す。これは贅沢な音楽だ。 R&Bで米国進出を夢見る歌姫には出せない味だネ。小さな料亭で心のこもったオリジナル小皿料理にありついた気分。当然、ここまで辿り着く道程は大変なものだったはずだ。 沖縄音楽の重鎮であり、ネーネーズの生みの親でもあるプロデューサー知名定男の執念。沖縄音楽の味覚を失わずにグローバルな存在として証明する、という志がネーネーズを未知の地平線まで導いた。桑田佳祐の楽曲や、有名レゲエ曲のカヴァーなどに知名の大らかな許容力を感じる。アメリカとの距離感覚も寛容だ。精神が解放されている証。 琉球フェスタの大団円でネーネーズ以外のイベント出演者も飛び入りしたステージ端に知名定男はいた。 三弦を弾くでもなく、例によって気難しそうにステージを見つめていた。 音楽で理想を叶えた男の貫禄は圧倒的だった。理想が叶えられた音楽が存在する事実を不満顔の人々こそ知るべきだろう。
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★★★★(2000.8.27)
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『my
dear/さかな』 1999年にリマスター・イシューされた1997年作品。 本作を1回聴いてからと言うもの、僕は言葉を失ったまま、すがりつくように聴き続けている。 音楽は時間の経過を必要条件とし、時間の経過に逆らうことは出来ない。ところが、このアルバムは“時間の呪縛”から自由になっているかのような印象を受けた。その自由は聴き手である僕をも自由にさせてくれる。魔法のように僕を夢心地にさせてくれる音楽だ。 歌手であり、作詞者であるポコペンの表現力の成せる業かと初めは思った。言葉のひとつひとつが強烈に、そして優しく突き刺さる。特に『チョコレートカプチーノ』という楽曲がすごいと思うな。 しかし、何回も聴くうちにボーカル以外のサウンドが既に自由を勝ち取っていることに気付いた。ライナーによると西脇一弘がドラマーの林山人とたったの1日でベーシックトラックを録り終えたらしい。その後、上モノのアレンジと、ポコペンの作るボーカルラインと、益子樹のミックス(エフェクト)作業が行きつ戻りつの状態で半年も行われた、と。 どうやら、この制作工程に秘密がありそうだ。少数の人間だけの価値観を尊重し、しかし迷うべき事柄に対して誠実に迷った、という工程。これは一見して理想的な制作環境だが、作業にあたる少数の制作者の責任は当然のこと重くなる。ま、大概の“エセ音楽家”には耐えられないことだと思うよ。精神力・持続力・理想力・集中力に欠けた輩は真似などしないように! デモの段階で最終形態を想定された音楽には決して出せない豊潤にして緊張感満載の音楽。 耳から鱗が落ちました。 僕が本作から享受した自由と理想の意義は大きい。
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