★★★☆(2000.11.27)
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『HALFWAY BETWEEN THE GUTTER
AND THE STARS/ファットボーイスリム』 うーむ。これは反動なんだろうねぇ。最近、ロックが面白い。この10年程も避け続けたロックをよく聴く。コンピュータ制御に比べ人力ドラムのフラフラと安定しないハイハットが良いなぁ、などと。 そんな耳で聴く本作に僕は複雑だ。 ノーマン・クックは“新しいロック”を提案する。いや、“新しい”とは違うかな? ロックの要素を断片的に調達して、独自の解釈で再構築。ロックの要素とクールな打ち込みとが特殊な空間を生み出す。『ロックフェラースカンク』(1・2←Click!)で提示した手法に自ら落とし前をつけようという意気込みだろう。 ゲストは予想通りのブーツィー・コリンズ。ウニョウニョのエレファンクワールド。クラブで聴きたいネ。 更に意外なゲスト。ジム・モリソン! ポエトリーリーディングにループをかませて、ジムを蘇生。ドアーズの残党が同様の主旨で制作したアルバムよりもジムの声が生々しい。あ、いや、サンプリング状態はバリバリに不自然なんだが、声の生命感が向上しているんだよね。 と言うわけで、本作はバラエティ豊かで、全編に声をフューチャー。ダンス機能万全にして、歌モノ。打ち込みの新アイディアも満載。言うこと無し! しかし、僕には単調に聴こえた。うーむ。時期が悪かったなぁ。だって、最近ロックを聴いてるんだもん、僕。 本作はダンス音楽サイドから聴けば十分にロックっぽいのに、ロックサイドから聴くと全然コンピューター音楽なんだな。 え? ロックサイドだってぇ!? ぼ、僕がぁ!?
(関連1・2)
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★★★★(2000.11.27)
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『NIAGARA
MOON/大滝詠一』 名作の誉高い本作。初めて聴いた。 ご本人(及び多良尾伴内)のライナーノーツが多弁にネタばらし。はは〜ん、これが大滝クローンを増長させていたのかぁ、と今更納得。 ごまのはえ解散によって、ナイアガラ一派のノベルティソング担当が欠員し、御大自らがノベルティソングを担当したアルバム、らしい。 そんなわけだから、1曲1曲に蘊蓄が満載。(主に)アメリカンポップミュージックのノベルティ音楽見本市の様相。 これを74年に制作していた事実に驚愕。今ほど情報が多くは無かった時代、驚くばかりの学者肌だ。ヴァン・ダイク・パークスを思い出す。 で、だよ。 僕は幸か不幸か2000年にこのアルバムを聴いてしまったのよね。大滝詠一を気取ったリスナーもワンサカいる状況。取得しようと思えば、いくらでも情報は手に入る時代。 大滝風リスナーと大滝詠一は違うよね。全然、違うよね。 アメリカンポップスの体系を熟知して、その体系に基づいてポップスを製造している工程に大滝が照れているような気配を僕は感じる。恥じている、と言っても間違ってはいないかも知れない。明確、かつ有意義なアウトプットを出力しているにも関わらず、だ。 一方、大滝風リスナーは単に自慢げ。この時代にCDで大昔の楽曲を回顧するなんて、全然当り前のことなんだけどねぇ…。 売り上げ枚数の少ない旧音源を所有して悦に入っている奴の多いこと…。ポップじゃねぇなぁ。 ま、いいや。せいぜい通ぶってチョ! 自身の多すぎる情報をポップな表現に昇華させる大滝詠一とオマエは全く違うよ。
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★★★★(2000.12.05)
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『mama's
gun/エリカ・バドゥ』 ♪リムショット、チキチキ♪ エリカ・バドウと言えば『リムショット』。前作のライヴ音源を僕はヘヴィローテイションで聴いた。シンプルな構成のコンボをバックに、存在感のある歌唱を聴かせてくれたエリカ。その母性の強い声に僕は依存しまくっていた。(カーティス・メイフィールドは父性の強い声だよね) さて、スタジオ盤としては2枚目となるエリカの新譜。澄みきった清涼感って言うのかしら? すっげぇ、耳に優しい音楽。いやいや、安易に“癒し系”なんて思わないで欲しい。 ドラムス(打ち込みもあり)+ベース+エレピの3リズムにギター、バイオリン、トランペット、フルートなどが的確に1台加わるシンプルなサウンド構成。実にそれだけでビートは深いし、音楽の幅が広い広い!
楽しいぞぉ。 そして、なによりもエリカのボーカル。 上手に聴かせようなどと力まないスタイルが魅力。可愛いくせに母性の強い声。子供をあやすような優しさや無邪気な天真爛漫さなど、独特の表現を持つ優れたシンガーだ。声もさることながらメロディラインに愛敬があるので、すごく愛らしいんだ。ライヴ盤のジャケ写は妊婦姿のエリカであって、現在の彼女は母親なんだが、僕の印象は“愛情の強いヤンママ”。世界中が彼女の赤ん坊を志願。あれ?僕だけ? あぁ、つまり“マザコンな気持ち”をそそのかす声なんだよね。 日本で言えば、チャラが早くこの領域まで来て欲しいと思う。 そして、エリカはニッポンのR&Bディーヴァ達が21世紀に目指すべきステージを提示した、と言える。それは優しいR&B。つまり、ニューソウルの新次元的展開…。
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★☆(2000.12.05)
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『CORACAO
TAMBOR/Ian Pooley』 ブラジルテイストで、ハウスで、モンド。“好き者”には堪えられないっすネ。根本的にハウスマナーなんだけど、サンバとボッサを強引に掛け合わせた挙句に軽いアウトプットに仕上げたセンスが買い。でも、正直に言うけど、4つ打ちキックの主張が強すぎるとゲンナリするね。 いや、ユーロビートもパラパラも存在意義を認める、ってよりも支援しちゃう立場ですぜ、僕ぁ。 本作の“Radio
Edit”に顕著な、4つ打ちキックがバランス上優先された結果、かっこよく鳴っているベース音をかき消すってMIXはどうかと思う。ベースのタイミングは4つ打ちじゃないわけさ。勿体ねぇなぁ。 ラジオのオンエアで絶賛はされずとも否定もされない、という消極策に思えてしまって…。リスニングよりも、ダンスシーンを強烈に想定しての“Radio
Edit”なんだろうねぇ。クラブでかけるから踊りにおいで、ってなプロモート。 結局、ブラジルテイストはネタなのさ。Doopのシュビドゥビや、RedNecksのカントリーの頃から発想は変わっていない。ナメられてるぞ、ハウスファン。 タイトル曲以外の収録曲を聴く限り、優秀な職人であることは理解できる。エレピとクラヴィネットの連携や、要所で使うスラップベースなんかはセンス良いなぁ、と感服。 そうか、シングルヒットに固執したのネ。うーむ。惜しいなぁ。楽曲良いのになぁ。コーネリアスなら、どんな料理をしたかなぁ、などと僕は想像してしまった。
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★★★★(2000.12.13)
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『ベスト・バイ・ファー/オマー』 オマーと言えば90年頃に流行ったアシッドジャズ。つまりはトーキンラウド勢。UKソウルですね。 終ってる。まだ、いたのか、って感じ。 そんな偏見をバリバリに持った僕を、本作は力強く説得。 これは20世紀ソウル音楽の総括だ。スイートソウルやソウルファンクのエッセンスを抽出・再配置し、HipHop以降のロウファイな低音でトリートメント。 印象はすこぶるゴージャスでスタイリッシュ。 カタログ的発想の総括行為であるならば、僕は感激できなかったと思うんだが、本作はリスペクトに満ちた“最新モード”の体を成す。細かく神経が行き届いたサウンドへの配慮。曲中の展開ごとにサラッとしたアレンジ意図(2ステップと生ホーンの絡み、とか)が盛り込まれていて、その度に僕は身を乗り出してしまった。カッコいいんだもん。そう、渋くないところが良いんだ。 R&Bソウルは今や音響完成度的には頂点にいるし、ポップフィールドにおいては最も歌唱力を誇示できる領域。でも、所詮は下品な娯楽じゃん。この前提を忘れていないところが本作の勝因だと思う。 「下品な娯楽」は本気の制作メンタリティが無ければ成立しない。オーティス、JB、スライ、カーティス、マービン・ゲイ、P-FUNK、プリンス…。20世紀のR&Bソウルの歴史は輝かしい。偉大なアーティストの殆どが下世話だったからね。R&Bの“芸術指向”なんて糞くらえ! 先週紹介したエリカ・バドゥとのデュエット楽曲(1テイクで完璧だったとか!!)も収録。こーいう傑作でエリカの声が聴けるなんて嬉しいネ。タイムリーだしさ。
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★★☆(2000.12.13)
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『星くず兄弟の伝説/近田春夫』 このアルバム、フルで聴いたのは初めてだ。近田春夫の活動期は大雑把に3つに分類されるね。ビブラトーンズを真ん中に置いて、その前と後。 本作は「前」。近田春夫&
BEEFの活動が本作以前であったことにより、ジューシーフルーツも「前」。 「前」の特徴はロックンロール、だね。“ビートルズ以前”というか…。ハルヲフォンの楽曲がクールスのレパートリーに流用されたことは象徴的。既存の歌謡曲のテンポを上げて8ビートをパターン化し、“パンクの正体”を暴いてみせた『電撃的東京』のコンセプトもロックンロールが根底にあってこそ。(『天然の美』は例外だな) そして、全3期を通じて近田が固執するテーマが“芸能界”。ハルヲフォン時代には味付け程度に扱われていた素材(『グローリア』等)だが、本作ではアルバムコンセプトがずばり“芸能界”。しかし、HipHop期の“芸能界”の扱い方を思えば、まだまだ寓話的だ。 本作制作時って近田が最もメディアに露出した時代だったわけで、タレントの真似して“芸能界”を茶化したポーズとは裏腹に、実は“芸能界”が好きだったんじゃないのかね? 僕が最も過激だと思った近田の“芸能界ソング”は小泉今日子に提供した『好奇心7000』。『なんてったってアイドル』で“芸能界の真実”をアイドルが表明した、なんつう“寝言”に落としまえをつけた楽曲。あんな暴露はカムフラージュだぜ、と。(事実、そうでしょ!) 近田は“芸能界”を愛着対象から攻撃対象に転換した。 …という意味で本作はメルヘンとしての“芸能界”アルバム。
(関連平山みき)
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★★★(2000.12.22)
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『吟遊詩人/ガロ』 ガロを扱うのは2回目! 僕ってガロが好きなのね。好きなんだよ! 悪いかよ?
迷惑かけたかよ? 開き直ったりして…。 さて、ガロと言えば奇数番目のアルバムは自作楽曲集、偶数番目は職業作家の作品集をリリースするという戦略が話題になるわけです。(「学生街の喫茶店」は偶数アルバム『GARO2』に収録の職業作家作品。) 本作は6枚目の偶数作品。メンバーの自作楽曲が半数を占めているのに、外部に制御された印象。 ガロの特異性は“音楽的にマニアックな作風”と、“歌謡曲サイドの需要に対応する大衆性”が奇妙に同居していることだ。(頭脳警察と共演経験があり、紅白歌合戦にも出演!) 本作の目玉は大人の耳に耐え得るハイセンス&都会的な歌謡楽曲。う〜ん、言ってみれば寺尾聡の前哨戦…。 “大衆性”という点で汎用性の高い大野真澄がその任務を遂行。 本作以前には大野の泥臭さがガロのトータルイメージから浮いていた場面も多いが、本作の主役は大野だ。 ティンパンアレー、シュガーベイブの編曲や演奏がガッチリした本作において、細野晴臣の太いベースラインとマッチングする声は大野ただ一人。 一方の堀内護、日高富明は旧来のガロのイメージを貫く。“マニアックな作風”の実態が英米ロックの器用な引用であるという限界や、声が細い為に音楽的な作風の変化に耐えられないという脆弱さも露呈。細野ベースとの相性は悪い。マニア路線を守り通す姿勢は、むしろガロを古めかしくさせている。 大野路線に切り替えつつ、時代を読んでいたならばガロは少なくともアルフィー級の大御所として残れたんじゃないかな?(アルフィー好きじゃないけど…)
(関連)
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★★★(2000.12.22)
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『ローデッド/ヴェルヴェットアンダーグラウンド』 歌詞の無いコーラスってあるでしょ? 「ラララ」「シャララ」「ナナナ」「わわわ(クールファイブ!)」とか…。
どれが好き? 僕は「パパパ」派です。「パ」はトランペットにも似た破裂音でインパクトとアクセントを作り、伸ばした時には「(パ)ァ〜」と速やかに母音として機能してくれる優れモン。優雅でスタイリッシュでユーモラス。 で、僕が“パパパ派”に名乗りを上げた契機は、本作収録の“Who
Loves The
Sun”に相違無い。 さてと、こんな導入でヴェルベッツ(以下、VU)を語るのが不服な貴方。VUは1枚目?
2枚目?
本作はジョン・ケール不在、ルー・リードに精彩が無い、ミックスがヘボ(後に別ミックス発表)、ジャケがダサい、クレジットを巡る訴訟、等々の味噌がつきまくった最終作品。ビートルズの『Let It
Be』みたいなもん。 しかも、“Who Loves
The
Sun”はルー自身が歌唱を避け、ダグ・ユールに歌わせた為に評価が低い楽曲。VU結成以前に職業作家だったルーが手癖で作ったポップ楽曲なんだろう。絶妙に手を抜いているのがわかる。でも、サビで執拗に繰り返される「パ〜パパパ〜」は“受け”を狙いに行く明確な意思だ。 1枚目のニコ歌唱楽曲も似たような性格を持つと思うんだけど、世間はニコに提供されたポップ楽曲だけは評価するんだよな。僕の想像ではニコもダグもルー・リードからは尊敬されていなかったと思うんだけどね。 さて、名盤としてリストアップされ続けるVUの1枚目ですが、ジャケットアートや世間の評判を無視してまでも、名作だと思いますか? ミレニアムにVUファンの貴方と20年前の僕に問いたい。
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〜100回記念 1〜
★★★★★(2000.12.29)
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『ペット・サウンズ/ザ・ビーチ・ボーイズ』 音楽家の頭の中で鳴る音楽。 それは、対象となる音楽家のクオリティによって千差万別だろう。細部まで完璧なスコアであるケースもあれば、漠然とした“空気感”でしかないケースもあろう。 そして、頭の中で鳴った音楽を大衆に提供する為には“物理的な音楽”と言う器が必要となる。ライヴ演奏を前提としたアレンジや、録音作業によって物理的な音楽は生成される。その工程では、頭の中で鳴った音楽を物理的な音楽に転換できないジレンマが悠然と立ちはだかる。頭の中で鳴った音を再生する媒体は楽器であり、演奏するのは人間なのであって、おのずと限界を持つ。その壁にぶつかったならば、必要なモノはただ1つ。 妥協、だ。 このジレンマの前では、なまじ頭の中に音楽が鳴ってしまったことは不幸でしか無い。 さて、僕達が生きた20世紀に、この不幸を雄々しく乗り越えた音楽が存在することを誇らしく思おうじゃないか。1人の音楽家の頭の中で鳴った音楽が、妥協されることなく完全に再現された録音物。それが『ペットサウンズ』だ。 言うまでもなく奇蹟。 ブライアン・ウイルソンという1人の弱い人間が、理想と現実の狭間で切り裂かれそうになりながら、必死に耐え抜いた成果。 頭の中に音楽が鳴り、物理的な音楽を制御するモチベーションは“神の視点”を一方的に押し付けられたことを意味し、レコーディングスタジオで器材やスタッフを制御する具体的行為は“人間の仕業”に他ならない。あぁ、こんなにも残酷な状況で“絶望しない精神”は何よりも気高い。 自分の魂と引き替えに“完璧な音楽”を創ったブライアンの志は尊い。20世紀の音楽が彼から勇気と希望を与えられた事実をどうか覚えていて欲しい。 『神のみぞ知る』『キャロライン・ノー』は今世紀で最も美しい楽曲。今世紀を生きた僕達の宝。 僕達は報われたのだ。 どうか僕と一緒に感謝して欲しい。 (関連ブライアン・ウィルソン・スマイル・ライヴレポート)
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〜100回記念 2〜
★★★★★(2000.12.29)
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『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド/ザ・ビートルズ』 音楽商品の流通システムと録音テクノロジーの発達によって、“20世紀の音楽”とは即ち軽音楽であった。地球の片隅で制作された音楽が全世界に流通され、共有出来るシステムが20世紀全体を通じて“音楽の進化”を促進した。 奴隷黒人が生み落としたブルーズが産業システムに搾取されR&Bを形成した時に全てが始まった。ビッグバン。そして、今世紀中に我々はヒップホップをメインストリームで定着させることにさえ成功。驚くばかりの進化だ。 軽音楽の進化における“最高峰の試金石”は間違いなく『サージェント・ペッパーズ』。このアルバムが発表されなかったら、20世紀の音楽の進化は10年以上遅れただろう。 録音物に展開する音楽はリスナーを裏切る迄に革新的でも構わない。いや、革新であるべき、というポイントを完全に定義したプロパガンダが『ペッパーズ』の歴史的役割だ。 歴史とは振り替えれば“必然の連続”。しかし、史実の一点一点が発生する際には、限りなく小さな発端に過ぎない。 僕にとって最も嬉しいことは、その歴史的役割が20代の若者の“野心”に端を発していたことだ。個人的な野心がモチベーションであるが故に、軽音楽は著しく進化したのだから。はじめにエゴありき。 “音楽的な世界初”を目指す単純な野心が本作の中に革新となって開花する。既存の軽音楽の作曲フォーマットを破壊し、既存の音響セオリーを不敵に覆えす。 このアルバムが勝ち取った最大の戦利品は“音楽的な自由”だ。この言葉の意味が理解出来ない人は最終曲『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』の中で起こっている全ての事象に耳を澄ましてみたまえ。 この楽曲とこのアルバムが在ったからこそ、今、僕達はココにいるのだ。 音楽が自由であり、革新であること。 それは21世紀にも僕のテーマである。
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