メレンゲ今週のCDご紹介25

リック・ジェームス、上田正樹と有山淳司、ベースメント・ジャックス、デュラン・デュラン、
エール、桑名正博、ロキシー・ミュージック、フォーカス、ビョーク、スーパー・フューリー・アニマルズ
評価は5段階です。(★が得点。☆はオマケ)

 

★★★(2001.7.09)

『ベスト(Bustin' Out)/リック・ジェームス』 いつか扱いたかったんです。97年のアルバムを最後に沈黙状態のリック・ジェームス。彼に関するニュースなんて全く聞かないし、娑婆にいるのか“塀の中”にいるのかさえもよくわからない。 なまじ過去にヒット作があるだけに“一発屋”のような形で歴史に名を残してしまったような状況。少なくとも“功績者”という称号は享受していないよなぁ、と常々同情していた僕でした。 2枚組CDで総括されたリック・ジェームスのヒストリーが本作。哀しいくらいに安い価格で中古市場にポツンと俯いていた。 幾分単調で冗長な本作を聴いて、やはり81年の『Super Freak』がピークを作っているな、と再認識。80年代のディスコかくあるべし、と言わんばかりのワンパターンなビートをこれでもかと酷使する時代のリック・ジェームスは力強い。カッシャンカッシャンと2拍4拍だけを打つデジタルなビート。不思議な色気がある。 彼の音楽の特徴とは、このビートそのものではないか。ビート以外の要素はソウルやファンクのマナーを継承し、デジタルなムードの音色に置き換えたような印象。これ自体が凄まじい“発明”であったはずだと思う。ジェイムズ・ブラウンの“発明”を進化させたわけだからね。しかし、時期が悪かった。80年代の軽薄なエレディスコにヒントを提供したまま、オリジネーターの資格を剥奪されたようなもんだ。 ソウルファンクを根絶やしにさせない為の中継役を果し、“驚異の新人”の前に立ちはだかる“壁”として胸を貸し、結局はその新人に食われる形で姿を消した。そう、彼は“驚異の新人プリンス”の噛ませ犬だ。“ニール・ヤングの歴史”を語る上での重要人物でもあるが、それも“キワモノ”としての扱い。悲劇のスター。 本作を聴いて、彼のあまりにも器用すぎる才能が裏目に出たのかなと感じた。 しかし、そう遠くはない未来に音楽界はリック・ジェームスが発明したビートを必要とするだろう。(予言)

 

★★★(2001.7.09)

『ぼちぼちいこか/上田正樹と有山淳司』 昔、本作のジャケットを音楽雑誌で見た時、同時にタイトルを目にした時、僕は人生の中で一回も聴くことはないだろうと思った。だって、クサいじゃんか。 しかし、強力な嫌悪感を植え付けたインパクトというものは侮れない。僕の脳裏に「食いだおれ人形・太郎」の姿がクッキリと焼きついた。テレビでも大阪の象徴であるかのように映像が頻繁に登場する太郎ではある。グリコ・カニ道楽・太郎は御三家。しかし、僕にとって何故か太郎は別格。音楽が絡んだ処で触れた姿だった為に、特別な印象を残したのだろう。 さて、2001年6月に僕は生まれて初めて太郎と対面した。大阪の町を歩きながら、梅田・宗右衛門町・御堂筋といった固有名詞に昭和の歌謡曲を思い出し、ゾクゾクしていた僕であったが、呑気な顔して無気力に太鼓を叩く太郎はなんだか懐かしかった。初対面なのに、大昔から知っているかのように太郎は懐かしかった。 さて、本作。大阪から帰って、即購入。単純な僕。 初めて聴いた。予想以上にクサいのな、これ。 泥臭くって、生活臭がプンプンする。貧乏なくせにノホホンとしている。でも、不快感は全く無かった。いや、むしろ僕は羨ましいと感じた。この世界観は大阪を舞台に大阪弁で歌われることによってしか成立しないはずだ。 70年代のいわゆる四畳半フォークに漂う湿り気が無い。そう、悲壮感が無い。不思議な生命感が満ち溢れ、“絶不調の自分”をゲタゲタと笑いものにしているような明るさ。 これはいいね! 喜納昌吉&チャンプルーズのファーストを初めて聴いた時にも似たモノを感じた。沖縄の生活や生命感に触れたような気がして、僕は羨ましいと思った次第。 それから10余年を経て、僕は沖縄と深く関係することになった。さて、大阪と僕の関係はいかに? 音楽が先行した場合、関係は何故か後から自然についてくるんだよね。 そう、初対面でも懐かしかった太郎のように。

★★★(2001.7.16)

『ルーティ/ベースメント・ジャックス』 最近、TVでゴリラの映像をよく見ますね。ティム・バートンの『猿の惑星』の影響? あ、どうでもいいッスね。 もう生誕10周年なんて時間をとっくに経過し、とっくに風化してもおかしくないハウスなんだが、こいつらの音楽を聴くと、なかなかどうして・・・。ハウスは未だ現役バリバリですね。R&B、ヒップホップ、サルサといった栄養分をガツガツと雑食的に食いついて吸収しまくっている。可能性に満ちた音楽。まだまだ余地はありそうだ。 案外、タフなんじゃねぇか! 見直したぜ! ダンスミュージックってのを構造的に分析していくと、実はかなり理屈っぽい理論に裏付けられていたりするわけなんですよ。いや、新しいサウンドが発明された瞬間はただの偶然”だったにしても、理屈で説明できてしまうんですよ。その舞台裏(理論)の解明も楽しいリスニングスタイルではあるんだけれど、本来の目的はフロアでのダンスに他ならない。しかし、理屈っぽい新発明”がなければ新しいフロア”には受け入れてもらえない。あ〜、面倒くせぇ! ベースメント・ジャックスの音楽も詳細に分析すれば、かなり理屈っぽいし、オタクっぽいと思う。しかし、フィニッシュはポップで楽しいのよね。 何だかんだ言ったって、とどのつまりはダンスミュージックでしょ、っつうアッケラカンとした無邪気さが最後に残っている。これは単純なことなんだけど、すっごく大事なことだと思うなぁ。 本作はかなり楽しいですぜ。 え?こんなのもあり?って感じのムード歌謡風楽曲もサラッとね。 僕の感覚ではハウスもテクノもヒップホップも無いよ、混ぜろ混ぜろ!って思うんだけど、ハウスに固執する姿勢ってなかなか美しいもんなんだね。 昔、たかがアダルトCD−ROMのBGMに「ハウスしか作る気はない!」と突っ張っていたクリエイターがいた。 本作を聴いた僕は、そのエピソードに「馬鹿でぇ」とは思えない気分だ。

★☆(2001.7.16)

『ポップ・トラッシュ/デュラン・デュラン』 ねぇ、お父さん、デュランデュランって誰? もはや、彼等を知らない子供達も多いはず。世界中でバカ売れしてたんだぞ。かつては松本伊予の楽曲の歌詞にも登場したんだからな。(♪人影の無いカフェバーで最後に聴いたデュラン・デュラン・・・♪) ねぇ、お父さん、松本伊予って歌手だったの? カフェバーって何? あぁ、そんなことさえ過去の歴史かよ。 と、溜息をついているお父さんにお尋ねします。2000年にデュランの新譜が出ていた事実、知ってました? 今、デュランのメンバーって誰と誰が残留しているか知ってます? どうせ、誰も購入しないんだろうし、あんまり優れたジャケデザインでもなかったので、表2を掲載しました。これが“今のデュラン・デュラン”です。 歳はとりたくないもんだなぁ、ジョン・テイラーがこんな顔になっちゃうのかぁ・・・。 いやいや、心配はご無用! もう、ジョン・テイラーは脱退しています。左の人物はギターで中途参加したウォーレン・ククレロです。ザッパ・バンドやミッシング・パーソンズに在籍したテクニシャン、ね。 で、中央がサイモン・ル・ボン、右側がニック・ローズ。 あの大ブレイクから20年も経っているわけですが、未だに彼等はマッチョでグラマラスな“ポップスター”の風情。 で、音なんですけど…。この音をデュラン・デュランとして聴かなければいけないわけなんですね? バリエイション幅の広い楽曲上で甘ったるく響くル・ボンの声。うまくはないとは思っていたけど、ここまで情けないとは・・・。 打ち込みのセンスもギターのカッティングも全て古臭いくせに、80年代の栄光とはダブるところがない。 いたたまれないなぁ。居場所が無いってわけかぁ。 結局、脱退したパワステ組の存在意義が露呈。アルカディアってつまんなかったもんなぁ。 ねぇ、お父さん、パワステとアルカディアって何? うるせー、黙ってろー! お父さんは不機嫌なんだー!

★★★★(2001.7.26)

『10 000HZ LEGEND/エール』 コッチとアッチの間に「扉」があったとする。で、僕はアッチに行きたいと願っているとする。つまり、アッチ側は「理想の地」だ。コッチ側に身を置いてアッチ側を夢想する際に、たぶん僕は「扉」を見つめるんじゃないか、と思うわけなんですよ。 アッチ側を具体的に想像する、或いはアッチ側にたどり着く努力の前に、さしあたって「扉」そのものを見つめるのではないか、と。 これを音楽に置き換えて考えてみると、「扉」とはすなわち「理想」にたどり着くにあたっての手法そのものなのではないか、と。例えば、ビートを生成する、音像を構築する、といった手法そのものなのでは? そして、今現在市場にある音楽の中でも優秀なものは、実は優秀な「扉」なのではないか、という気がしてきた。 なんだか、ワケのわからない理屈を並べていますね。と、言うのも「扉」の向こうを見てしまったんですよ、僕は。アッチ側の音楽に出会ったわけなんですよ。 エールの音楽は「扉」を開き、その向こう側(=アッチ側)に行き着いた音だと思う。アッチ側の空気のおいしさをコッチ側の僕に伝えてくれる音楽だ。 桃源郷という言葉が浮かんだ。 何もかもを突き抜けた挙句の「最後の音」を鳴らしているように思える。御伽噺に出てくる楽園の空気を思わせるシンセの音色を思う存分に吸い込むようなリスニングは幸福だ。ベックやバッファロー・ドーターの参加自体は楽園に住む妖精としての役割程度のものだろう。彼等の役割を手法(=「扉」)で説明してしまうような野暮は今の僕には出来ないや。キャスティング云々なんてどうでもいい、彼等もエールと一緒にアッチ側で音を鳴らしたんだ、ってこと! 「音楽の魔法」の前では、ガタガタと能書きを言うもんじゃあないよ。 ふと思ったんだが、レディオ・ヘッドの『キッドA』(←Click!!)や、一連のピンク・フロイドのアルバムもアッチ側で鳴っている音なのかも知れないね。

★★☆(2001.7.26)

『RCA BEST CLLECTION/桑名正博』 あれは確か・・・、1979年の春だったっけなぁ。僕が勝手に選定した“哀愁ロック3部作”というのがあった。列挙する。『さびしい遊戯/バウワウ』『あなたに沈みたい/松村雄策』『サードレディ/桑名正博』の3曲。僕は3枚ともアナログシングルを所有していた。う〜ん、一言で言えば、ロックサイドの人達が歌謡曲市場に向けて放った“歌謡ロック”って言うのかな。ツイスト、チャー、原田真二という御三家や、ダウンタウンブギウギバンドのヒット市場を想定した路線、ってとこだろう。しかし、僕の中で“3部作”は別格だった。僕がいかに子供であっても、それなりの嗅覚で嗅ぎ分けていたつもりだ。演歌ロックとも、AOR的ニューミュージック指向とも違うライン。 70年代的な“恋愛環境”や、当時の僕自身の事情ゆえに歌詞世界に激しく感情移入したことは当然認める。しかし、歌詞なのかメロディなのかサウンドなのか、あの時代にしか在り得ないモノが“3部作”には宿っている。それを確認する為に本作を聴いた。 クレジットを眺めただけで、簡単にその答えが出てしまった。 松本隆と筒美京平。 歌謡曲を洋楽方向にシフトする志と、ロックを歌謡曲市場にシフトする志の“合流ポイント”が桑名正博だったのだ。 ディスコ風味とロック風味と情感が交錯する変な音楽だとは思う。でも、これは日本の音楽史上グループサウンズ以来の“屈折した美学”なんじゃないだろうか? その“恥部”を指摘するのは簡単だけど、本人達の本気の熱意が圧倒する。 本作は歌謡曲中心だった市場を狙い打つ桑名の戦略的なシングル楽曲集。僕はくすぐったいような気持ちで、でも、心地よく聴くことができた。個人的には嫌なことしか無かった時代と記憶しているが、アレはアレで良かったのかもな、などと。 もう、このタイプの音楽を聴くことは出来ないのかな? 淋しいな。 あぁ、『京都ブルース/山本翔』がたまらなく聴きたくなった。

 

★★★(2001.8.06)

『Concerto/ロキシー・ミュージック』 昔、聴いた(見た)ライブの印象は曖昧に、また誇張(あるいは過小評価)されて記憶に残る。僕は80年の春に武道館でロキシー・ミュージックの初来日公演を見た。 再結成時のロキシー。当時の新作『マニュフェスト』のプロモーションを兼ね、同アルバムからの選曲中心のセット。 これが僕の印象を悪くした。 あの頃の僕には『マニュフェスト』での音楽的変革を理解出来ず、時代の中でロキシーをどのポジションで捕えたらよいのか戸惑っていた。パンク・ニューウェーヴ勢とのバランスはロキシーにとっても、僕達リスナーにとっても難しい局面だったわけだ。 そんな僕も80年代後半に『マニュフェスト』を聴き返して、こんなに素晴らしいアルバムだったのか、と驚愕した。時代と、僕の年齢と、ロキシーへの(70年代的な)思い入れが耳を塞いでいたとしか思えない。 さて、本作は79年のライブ音源。僕が見たライブと同じツアーの音源。 エディ・ジョブソンは参加していないが、ゲイリー・ティブスがベースを弾いている。これでしょ、これ! 70年代のUKロック枠(プログレ含む)を脱して、ニューウェーヴの波に乗って世界市場を標的に定めた戦略が明らか。 本作はDisc1が『マニュフェスト』を中心にドッシリとした重厚な世界を、Disc2ではベスト選曲でカラフルに、という構成。僕の記憶ではライヴの進行もこのままだった。 そう、僕を含む観客は後半の“極めつけナンバー”までおとなしく座席に座ったままだったんだ。『Do The Strand』までジッとしていたんだよ。“再解散”時のアヴァロンツアー、AOR風楽曲で観客を乗せるまでのロキシーの道は困難だったってわけだ。 そうか、『Ladytron』と『Mother Of Pearl』を演ってたんだなぁ。そうそう、『Ladytron』のイントロで僕はゾクッとしたんだった。 あぁ、もう一度あの日の武道館に戻って聴き直したい! 再々結成ライヴ、僕はパス!

 

★★★(2001.8.06)

『ハンバーガー・コンチェルト/フォーカス』 現在、プログレッシブロックが再評価されているって本当なんですかぁ? まさか、相変わらず英国の5大メジャーバンドの天下が続いてたりはしませんかぁ? “名盤”は今も邦題が漢字表記のアレのままですかぁ? そうそう大仰な邦題のアルバムって名盤扱いなんだよね。『原始心母』『狂気』『危機』『太陽と戦慄』『恐怖の頭脳改革』『侵入』…。あ、僕ったら意図的にカタカナ表記作品を避けてリストアップしちまいましたね。皮肉屋さんですので…。 これらの“名盤”を今聴くと「こいつらの演奏が上手いって言った責任者出て来い!」と怒鳴りたくなるものもありますよね。手数・指数は多くて、フレーズの弾き難さもスピードも凄いんだけど、アンサンブルもグルーヴもあったもんじゃねぇ、っつう演奏あるもんね。 で、オランダのプログレバンド、フォーカスです。タイトルもカタカナ。可愛いというか、意味無いというか、わけわかんないタイトル。僕、昔、このアルバムが大好きだったんですよぉ。やっとCDで手に入ったよ。 久々に聴いた本作は音数が適切だな、と改めて好印象。このグループのスタープレイヤーはギタリストとキーボーディスト(フルートとボーカルを兼任)。しかし、ベース&ドラムスを加えた4人の演奏によって、的確にリズムを紡ぎ出すアンサンブルは今聴いても好印象。クラシックとジャズを融合させたような音楽コンセプトはプンプンと臭く匂うんだが、ロックっぽいリズムへの着地が的確なので、頭でっかちではないね。バッハのオルガンで左右の指が弾くようなフレーズをピアノとベースに割り振ったような編曲も、案外いやらしくはない。これ見よがしな変拍子やキメも無い。ピンク・フロイドのアルバムを聴くとシンプルなアンサンブルにファンキーなニュアンスを感じたりするけど、フォーカスもちょいファンキー。 プログレ再評価にはフォーカスも仲間に入れてやってくれってばよぉ。

 

★★★★(2001.8.24)

『Hidden Place/ビョーク』 待ちに待った新譜に先駆けてのシングル。「お、相変わらずのビョーク!」と思いつつ、「あー変わったわ」と思う。 それにしてもサウンド・プロダクションが素晴らしい。静寂と狂騒を区別するわけでなく、並存させてしまう圧倒的な音。アンビエント成分が多いバックトラックがカオス状態を作り、リスナーの神経を支配する。もう、ストリングスを真っ当には聴かせてはくれない。 いや、ある意味、分離の悪いトラックだとは思うんだけど・・・。そんな次元の揚げ足取りは無意味。 考え得る全ての方法をブチ込んで、最も過激なアイディアを採択して、しかし、“過激のピーク”を最終処理でつぶしてみせる、と言うか…。ドス黒い過激が、包み隠されたような不気味な迫力。聴きながら、僕の周囲の空気が変わっていくのがまざまざと判る。 バックトラックだけがすごいわけではなく、ビョークの声が微調整によって世界観をモーフィングさせている。さっきまで聴いていたコーラスに過剰なエフェクトがかかる瞬間に、ビョークの歌唱が“キュー出し”をしている。いや、ほんのちょっぴり声に力が加わる程度の合図なんだけどね。 この人の歌って、一種、宗教じみていると思わない? わざとらしい感情表現なんかしなくとも、感情がピリピリと伝わってくる。歌詞を読まなくとも、言いたいことが伝わってくる。そう、微調整だけで、何かを伝えてくるんだよね。 僕が今、最も崇拝する女性アーティストはジャネット、マドンナ、ビョークの3人(なんか、列挙してみると面白味がないリスティングですね・・・)。今、この3人は何故か近いローテーションでアルバムをリリースしている。今回も1年以内に連続したことになる。3人に言えることとは、抜群のサウンド・プロダクションを持ち、しかし、そのサウンドを制御しているのが声に他ならないということだ。 中でも一番ハンディキャップが高い故に、一番制御力が強いのがビョークだと思う。 でも、聴き手のコンディションを選ぶね。  関連(

 

★★★☆(2001.8.24)

『リングス・アラウンド・ザ・ワールド/スーパー・フューリー・アニマルズ』 メディアの評価があまりにも高いので無視出来ずに聴きました。ビートルズやビーチボーイズを引き合いに出されちゃあ、黙っていられるかい! スーパー・フューリー・アニマルズ(以下、SFA)を知らない人の為に本作を言葉で言い表してみよう。(僕自身、総括しないと頭がグチャグチャなもので・・・) メロディは伝統的なUKポップだね。キンクスなんかも思い出した。確かにビーチボーイズ的なコーラスも入っている。凝っていると言うか、ヒネくれている。構成もなかなか先読みさせてくれない。 そういった先輩の音楽を取り込んで再構築する形式ならば、過去に多くのバンドがトライしているわけなんだが、SFAが彼等と違うのは“サウンドに対する考え方”、なんだろうなぁ。 生バンドなんだが、サンプラーの使用頻度が高い。 大昔、ビートルズやビーチボーイズが録音スタジオを“1つの楽器”として考えたようなコンセプトをSFAはサンプラーに対して感じているような気がする。原始的なテープループに興奮したレノンやマッカートニーの志、ね。 ふと、思い出すのは80年代に言われていたアップルコンピューターとヒッピームーブメントの相関関係。あー、つまり、SFAにとってサンプラーはサイケデリックなツールなんじゃなかろうか、と。いや、過去にサンプラーとサイケを共存させたアーティストはいたよね。でも、SFAは次の段階に入っているような気がするんだな。手法の面白さなんかよりも、結果的なマジックを信じまくっている、と言うか。ロマンティックな言い方をすれば、SFAは2001年に「1967年の魔法」を再生させようとしているんじゃないか、と。 じゃあ、このアルバムが2001年の『リヴォルバー』なのかと言えば、僕の評価は辛い。 下世話さが足りんよ。シングルカットして、歌い継がれる楽曲が不在。 ビートルズはマニアばかりを相手に商売をしていたわけではないのだよ。

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