★★★☆(2001.12.17)
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『ディスカバリー/ダフトパンク』 今ごろになって扱う。今ごろ聴いたんだっ! 中古で国内版を安価にゲット。待つべき時には辛抱! 「One
More
Time」は聴いていたんだからねっ!って、言い訳がましいか・・・。 アルバムを通して聴いて、“完成度の低い傑作”だな、と思った。完成度って言い回しはドギツイかな? 確信犯的に洗練や整合性を回避している、と言うか・・・。音圧を安定させない為、ステレオバランスを不安定にさせる為に、あの手この手が駆使されている、と僕は感じた。 モジュレーション処理されたボーカルに被さるモジュレーションギターが巧妙に隠し合う瞬間なんか、大リーグボール2号を思い出してしまった。「青い虫が青い葉にとまる。」ってネ。 それどころか、これは隠しトラックかっ!?と言いたくなるほど微弱なリズムトラックがピアノの後ろで鳴っていたり。 映画の粗探しをしたり、ゲームの隠しコマンドを発見するようなマニアには堪えられないのかも。ともかくフェーダーの上げ下げもパンポットスイッチの回しっぷりも大胆。すごい位置まで音が振られている。(それと、僕の耳には曲によってドラムトラックがやや左に寄って聴こえるのだけれど、気のせいかしら?) シーケンスやサンプルループとリズムのシンクが微妙にずれているような箇所もあり、思わず「えっ?」と反応してしまう。エフェクターのツマミ(パラメーター)も大胆なセッティングなんだろうなぁ。かと思えばM6のように10ccを彷彿とさせる、まともなチューンも。なんか、すっごく挑発されている気分。 ゲームクリエーターが一般ユーザーとは別に、同業者を意識した隠しコマンドを仕込むような、そんな挑発。しかし、一般のゲームユーザーは隠しコマンドの在り処を嗅ぎ取り、クリエーターとユーザーの距離を縮めてしまったんだったよね。ダフトパンクのサウンドはクリエーターとユーザーの距離を縮める可能性がある、と確かに思う。 皆、暴け!
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〜歌謡曲を聴く4〜
★★☆(2001.12.17)
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『魅力のすべて/中村晃子』 キャッチフレーズは「和製ブリジット・バルドー」。熱烈なBBファンである僕は言い返したい。ふざけんな! でも、実は中村晃子も好きなんだよね。ポッテリと厚い唇、奔放な眼差し、スレンダーな肢体、気前の良い脱ぎっぷり。まぁ、BBとの共通点は多い。 恐らくはデビュー段階から60年代フレンチポップを意識していたのだろう、『虹色の湖』にはフレンチポップから摘出したアイテムを発見できる。ガリガリとしたピック弾きのベースギターや“イエイエビート”、単音フレーズのストリングスなど。 ボサノバ調の『ローマの灯』や浮遊感を伴う『旅路』(エレキシタール使用か?)など、60年代のアイドル歌謡にしては風変わりな曲調。ただし、着地点は見事に歌謡曲。僕はそーいう手法、大好きです。ウブなようでいて、どこかハスッパな心情を描いた歌詞世界と相まって中村晃子という歌手の独特な商品性が決定されている。「主流の流行歌の範疇で捉えていただきたいんですけど、まぁ、そのぉ、何と言うか、ちょっぴり垢抜けているとでも言うか・・・。そうそう、都会的なんですよぉ。」って感じ。って、僕がキングレコードの営業マンになってどーする? 遠慮しながらも、確かなSEX表現はある。その遠慮に迷いが見えますね。以下、ハスッパ度を調整しつつ前進。好きだからハッキリと言ってしまうけど、結局、歌表現に限界があったんだよね。『裸足のブルース』なんかは平山みきが歌ったら意味が違ったはず。 本家のBBがゴダールの洗礼により大人の女優に脱皮したように、中村晃子も“最後の切り札”を切る。(と言うより、アイドル歌手としての峠を下った時点での最終手段だったんだろうけど) 『甘い囁き』。ダリダとアラン・ドロンのカヴァー。溜息歌唱で急場をしのぎ、「和製ドロン」細川俊之の気障な台詞が七難隠す。決定打だが企画モノだ。これが歌手・中村晃子の頂点。 推薦曲は『虹色の湖』『甘い囁き』。←まともすぎる?
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★★★(2001.12.24)
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『東京ジョー/坂本龍一&渡辺香津美』 今となっては接点が判り難い両者のコラボレーション。表題はブライアン・フェリーの楽曲。これもキムタク主演のドラマ『ギフト』の主題歌でヒットしちゃったから、ますます事態が把握しづらいんじゃないだろうか? これが1980年代前後に起こったマジックなんだね。 パンク・ニューウェーヴの上陸によって国産音楽としてのテクノポップが誕生し、音楽界を刺激した。で、当時全盛のフュージョンがテクノに色目を使い出した、と。YMOの構成メンバーは各自フュージョンサウンドでも鳴らした達人であり、テクノポップに音楽的な構築美を導入したわけだ。この点において、僕はYMOが好きじゃなかったんだけどね。プラスティックスやP−MODELに顕著な“苛立ち混じりの初期衝動”が希薄だったんだもん。悠長なテクノポップなんか認めるか!ってなもんで。 そーいう青臭い感情抜きに今の耳で冷静に聴いてもYMOって大人の音楽だよね。 で、ブライアン・フェリーは母体であるロキシーミュージック(←Click!!)ともども、パンク・ニューウェーヴとの距離感を巧妙に計っていたアーティスト。故に、大人が志すテクノポップにとっては格好のネタだったってわけ。(でも、きっと、背後には今野雄二が暗躍したとか言う史実があるんだろうなぁ・・・) さて、本作。YMOがフュージョンの呪縛から逃れようと躍起になりつつ、フュージョンの匂いを残していた事実と対象に、テクノポップの導入に躍起になっているフュージョンサイドの衝動が感じられる。皮肉にもYMOよりこのユニットにテクノポップを感じてしまう。 あの頃、「無機質」「正確すぎる」「人間味が無い」などと嘆かれたテクノポップであるが、コンピュータビートに慣れた今の耳には信じられないくらい人間的な音だ。 矢野顕子の歌唱がなんだか怒っている感じで気持ちよかった。パンクに呼応して怒ったんだろう。 80年は怒るのが正しかったんだ! 関連(坂本龍一)
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〜歌謡曲を聴く5〜
★★★(2001.12.24)
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『グラフィティ/荒木一郎』 「絶望的にセンスのある音楽家」 そんな言葉が閃いた。歌詞とメロディの巧妙な絡み具合、絶妙なアレンジの妙、全てを“荒木一郎ワールド”に収束させる脱力歌唱。唯一無比の音楽。しかも、“突飛な音楽”ではない。きっちりと流行歌の枠の中で個性を放つ。ここが荒木のカッコ良さでもあり、カッコつけすぎた挙句の妙に重い圧迫感でもあると思う。流行歌に重厚なパースペクティヴを与えた張本人が荒木だとさえ思う。 しかし、このセンスは過剰だ。不必要、と言ったら言葉が過ぎる? 所詮、流行歌にパースペクティヴなど不要であったのかも知れない。流行歌手ではなく、芸術家を気取っていれば事態は飲み込み易かったのに。例えばニール・ヤングのポジションを俗っぽくした特等席が荒木には似合う。 本作(および続編)に収録された楽曲群は“流行歌の牧場”を1歩も飛び出ることの出来ない羊の群だ。眠れない夜に数える羊としては、かなり艶めかしい。“アンドロイドの夢”を見るのは“電気羊”なのであって、本作のような温もりとは無縁だ。 馬鹿な言葉の遊びをしているように感じるでしょ? 僕は荒木牧場が素敵なんだ、と言いたいわけです。 ♪寂しいんだよ/抱いて欲しいのさ♪ これは僕にとって邦楽史上最高峰のラヴソング『いとしのマックス』のサビ。例えばエルヴィスが“I miss
you”と歌う時にギリギリ保たれている“男の誇り”を完全に放棄しているかのような情けなさ。この心情をロックのビートに乗せて歌うことを、僕は“男らしい”と思う。 荒木の発想は大人だ。中途半端なイキガリを良しとせず、背伸びなんかしない。 自分の情けない状況を真摯に見つめ、表現に昇華する。 大人の流行歌作家&歌手。 結果的に荒木一郎は第一線には残れなかった。彼は大人すぎたのだろう。 スキャンダルなんか無くたって、彼の居場所は無かったはずだ。 ニッポンの流行歌事情は今だに荒木ほどには成熟していないから。
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〜歌謡曲を聴く6〜
★★★★(2001.12.30)
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『心に残る古賀メロディ/VA』 日本歌謡曲史の巨星・古賀政男は戦時中の韓国生活で親しんだ韓国民謡をベースに演歌を発明した。ガットギターを中心に編曲された楽曲群は的確に日本人の耳と心を直撃。『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『湯の町エレジー』・・・、挙げれば切がない。演歌を揶揄する言葉に「感傷的」というものがあるけれども、これは古賀が提唱した“日本人が演歌に向かうべき姿勢”なのではないかと思う。ダンス音楽を聴いて踊るような“姿勢”と変わりは無いのではないか、と。 古賀政男と言えばガットギターと大正琴がトレードマークだが、初期の音源を聴くと“非オーケストラ的”なアンサンブルに興味は集中する。少ない楽器で対位法を多用。装飾音の殆どが古賀流ギター編曲に通じる。♪ン〜チャチャッチャ♪というアレ、ね。クラリネット(歌詞では「クラリオネット」)のリードが明らかにギターの手癖だったり。この編曲が良くも悪くも演歌の規定を徹底したのだと思う。 また、編曲者・古賀はビートに対する欲求が希薄だったのではないか、と感じる。打楽器の使用を避け、手数の少ないウッドベースやピチカートにビートを依存。ジャズの心得があった音楽家としては徹底してクールな演歌啓蒙の姿勢。『丘を越えて』のオリジナル編曲の淡白さに古賀の厳しい自己制御を感じる。 古賀が没後の現在に至るまで音楽産業に定着させたと言われる日本の楽曲使用料の分配システムを嘆く声は多い。また、演歌の台頭が日本の音楽シーンの進化を遅らせた、との声も。年代順に編集された3枚組の本作を聴き、微量な軍国主義や男尊女卑思想の匂いには嫌でも気づく。(山口淑子=李香蘭の歌詞は何故か部分的に削除されているし・・・。古賀は作詞をしないのだけれど。) つまり、古賀の音楽は“昭和の日本”に深く根付いていたのだ。古賀個人の責任とは言えないことなのだろうけれど、だがしかし・・・。 昭和が終わり、20世紀が終わった。古賀政男は純粋に作曲家として、時代を超える“生命”を後世に残した。平成を、21世紀を生きる人々の心をも躍らせる完全なる超名曲。 言うまでもなく、『東京ラプソディ』である。
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〜歌謡曲を聴く7〜
★★★★★(2001.12.30)
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『僕の音楽人生/服部良一(VA)』 僕にとってリスペクトの対象である音楽家は多い。収拾がつかないほどに多い。 古臭い日本的な発想で、尊敬する音楽家に「先生」をつけて呼ぶとする。(僕にそういう習慣は無いけど) 僕は迷わずに「服部良一先生」と呼ぶ。 ジャズ、ブギー、タンゴ、ブルース、大陸歌謡等々世界のポップスのファクターを貪欲に吸収して斬新な解釈を加え、この世の何処にも存在しなかった音楽として着地させた偉大な作曲家。 『別れのブルース』に代表される“服部ブルース”はブルーノートの奴隷ではない。“米国人のブルー”と“日本人の情緒としてのブルー”を明確に識別して創出した日本独自のブルースだ。 『山寺の和尚さん』に顕著なように、特殊な擬音を平然とスキャット化してしまう。 『東京ブギウギ』は電車が走る際の「スタタタンタ・スタタタンタ」というループから閃いた日本独自のブギーリズム。 判るでしょう?
そう、ジャズやブルース、ブギーを世界で最も自由に扱った音楽家は服部良一なのだ。 音楽家・服部良一の知性は海外ポップスのテイスト抽出にあたって、ターゲットとしてのドメスティック市場を見誤らなかったことで開花したと思う。米国人にジャズで対抗する気概よりも、日本人を楽しませる為のジャズ導入という戦略を優先させたことによって“世界初の音楽”の創作者となったわけだ。服部に日本人へのジャズ啓蒙願望があったとして、翻訳前と後のどちらのジャズが日本人の耳を的確に啓蒙したか。考えるまでもないだろう。服部は非常にクレバーな翻訳家であり戦略家だ。 『銀座カンカン娘』の歌詞のアイディアは服部によるものだと言う。日本語が躍動するビート感を持ったモダーンリリックの誕生。 服部の創作した“日本語的な楽曲”の背後でスイングするビートは存分に日本人の音楽的遺伝子を塗り替えた、と僕は想像する。昭和10年の作曲家デビュー以来(コロムビア入社は11年)、彼こそが音楽の楽しさを大衆的レベルで日本に定着させた、言うならば、日本のポップスの「最大の恩人」なのだ。「神様」と呼んでもいいのかも知れないな。さしあたって僕は「先生」と呼ぼう。 服部以降の日本のポップスは全て、服部良一に“借り”があることを忘れてはいけない。 3枚組63曲、全ての楽曲にこめられた緻密なアイディアに息を呑み続ける。 中でも『東京の屋根の下』に僕は胸が一杯になり、『蘇州夜曲』は“永遠の憧れ楽曲”です。
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★★★★(2002.01.07)
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『オール・シングス・マスト・パス/ジョージ・ハリソン』 僕は小学6年生の2学期に転校した。転校先の小学校での在学期間はたったの半年。 中学校の入学式で僕は「しめた!」と思った。だって、クラスメイトの中に僕の過去を知る人間はわずか数名、しかも僕に関する情報はせいぜい半年分なのさ。僕の悲しい記憶や、恥ずかしい記憶を共有する者は皆無。僕の(低い)能力を知る者もいないってわけだ。そして何よりも、幼少からの数年間に渡って僕を卑屈に悩ませた“優秀なアイツ”が僕の生活圏から消えてくれたのだ。完全なる“リスタート”。 僕は中学時代をチャッカリと“適度に優秀な人間”として過ごしてしまった。不思議なもので、転校前の小学校時代はカケッコで3位以上の成績を残したことのない僕が中学校代表の中距離選手に選抜された。僕の新しい人格が始まった。 さぁ、僕のこの思い出話がジョージ・ハリソンの何を語ろうとしているのか。 判りますよね? ジョージが長い間、2人の“優秀なアイツ”と共に過ごした事実をあなたは知っている。それは飛び切り優秀な2人だった。 屈服の時代には認識さえ出来ない自身の能力が、環境の変化で爆発することがある。ジョージにとって、ビートルズの終焉が他の3人のビートルズ以上に大きな意味を持っていたことを、本作に満ち溢れている“希望の匂い”が何よりも雄弁に証明してくれる。 本作には呆れ返るほどにビートルズへの執着が無い。時間軸が連続していない、とさえ感じる。当然だろう。リスタートの機会を与えられた人間にとって、過去の財産など忌まわしいものでしかないからだ。そして、ビートルズには本作の方針を許容するキャパシティは残念ながら無かった。本作の制作時に恐らくジョージは認識したはずだ、ビートルズの演奏力の限界を。 彼は超えたのだ。幸運な転校に成功したのだ。 2001年11月30日。ジョージ・ハリソンは再度“リスタート”した。転校先でのジョージは・・・、優秀に決まってるだろ! 関連(1・2)
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〜歌謡曲を聴く8〜
★★★(2002.01.07)
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『Higher and
Higher!/DA PUMP』 本作を初めて聴いた時、全収録楽曲がシングルカット可能だという事実に驚愕した。気の利いたサビが必ず存在し、全体が巧みに翻訳された“ドメスティックR&B”として進行してゆく。パンプにとってアルバム収録曲に過ぎないレベルの楽曲を、他のアーティストが“快心の勝負曲”としてシングルカットするケースは多い。 で、だ。 僕はパンプのクオリティの高さを称える前に市場の在り方を疑ってみたいわけです。つまり、シングル楽曲に対する市場の締め付けが実は低下しているんじゃないか、と。 80年代に圧巻した楽曲タイアップ戦略は、日本の大衆音楽のサビの訴求力を圧倒的に向上させた。15秒のTVCFにおける訴求力とは研ぎ澄まされたものだ。 一方、いわゆるAメロ・Bメロの曖昧さが増幅したと思いません? サビへの展開に転調を用いた場合、事態は更に複雑化する。これは実は巧妙な戦術ではあるまいか? TVCF等で耳に馴染んだサビメロを引き立てる上でA・Bメロに対するユーザーの忍耐期間は絶妙なスパイスであり、そのギャップは劇的な効果をもたらすって寸法だ。いや、こんな話は違う表現で語られ尽くした問題だね。 要は、A・Bメロの曖昧さに対して市場が示す寛容さなんだよね。 楽曲が情報を断片化させたのではなくて、市場が断片化した情報だけを望んでいるのではないか、と。 昔の歌謡曲は良かったねぇ、なんて話に着地させる気は無い。だって、僕は楽しいんだもん、このアルバム。R&Bクラシックに触発されたに違いないメロディが耳を素通りしていく音空間は快適だ。皮肉なんか言ってないぜ。 「聴き流す」という音楽の在り方を市場が飲み込んだのではないか。 本作の緻密に計算された楽曲・歌唱・アレンジ・録音は耳を狙っていないかのようだ。クオリティは勿論高い。 推薦曲は『Crazy Beats Goes
On!』。でも、サビ以外のメロディがなかなか覚えられないんだな、僕は。
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★★★☆(2002.1.14)
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『ブリトニー/ブリトニー・スピアーズ』 満足度の高いアルバム。ズッコンズッコンと突っ込んで来るタフなバックトラックに先制パンチを喰らう。しかし、「アイドルポップ」としての臨界点ギリギリで踏みとどまっているプロダクションが見事。ディスティニーズ・チャイルドのヒットを参考にしたな、と感じさせるしたたかさも含めて、シーンに喧嘩を売っているかのような容赦無い攻撃力。同時にこのアルバムが日本の音楽シーンに与えるヒントも多いはず。その意味では防御力が弱い、と感じた。ブリトニーのシンガーとしての資質、と言うか特性の問題だね。表現力の向上には驚いたが、唯一無二の声ではないかもよ。でも、アイディアがリサイクルされることに防御なんぞする気はないんだろうな。そういう類の攻撃力。ありったけの兵器を集めてカタログ化してしまった、そのこと自体の威力、みたいな・・・。互角の兵器が収集可能ならリングで向かい合いましょう、ってな余裕を感じる。喧嘩を買うのは当人の自由だけれど、兵器の選別眼はかなり鋭いので見くびらないように! 単調な理論でツケいる隙は無い。精神論だけじゃ勝てないぜ。 などと、僕は“喧嘩リスニング”をしているわけなんですが、いやぁこのアルバム、飽きないんだよ。楽しいの。栄養分は豊富だしさ。娯楽に徹した姿勢がなにしろ正しい。 で、僕は楽しく聴くのだけれど、「・・・とは言うものの、これ、名盤なのかなぁ」などと迷うわけです。なにか誤魔化されているような気がするんだなぁ。で、アレコレ考えてみたんだけど、考えていたら、ブリトニーは僕のそんなリスニングを笑っているように思えてきた。臍ピアスして、生意気な眼をした“成功者の若い女”に笑われたら・・・。僕は痛いねぇ。 あぁ、つまりそういうことかぁ。このアルバム最大の攻撃力は“若い女”という特権なんだ。 戦う前にブリトニーは勝利していたんだ・・・。 最終楽曲が終わった瞬間に1曲目を再生したくなるアルバムは久々かも。
関連
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〜歌謡曲を聴く9〜

★★☆(2002.1.14)
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『シングルコレクション/松本伊代』 巧妙に練り込まれた戦略ではあったのだろう。筒美京平から始まり、吉田拓郎・亀井登志夫・尾崎亜美・細野晴臣に至る作家陣の遍歴は豪華絢爛。しかし、音楽的成果は企画を超えた処で実っているような気がする。机上の理論を伊代ちゃんの歌が超えている、と言うか。どんな楽曲でも“伊代ちゃんの世界”に着地。つまり、最大の功績者は伊代ちゃん本人ではないか、と。彼女の歌は声が喉を通過する瞬間に“官能”を発生させる、と言ったら誉め過ぎ? 誉め過ぎだよね。。ま、歌が下手だから何を歌っても同じ着地をしちゃうと言えば、それっきりだけど。 でもなぁ、メロディをストレートに感じさせる上に微弱な感情を表現するユニークな歌唱だと思うなぁ、僕は。むしろ、作家の力量が露呈してしまうんじゃないか。 筒美京平楽曲は同時期の他のアイドルに提供した楽曲との類似点が多すぎるかな。うん、手を抜いていると思う。引き出しの中身をケチっている、と言い直してもいいけど。伊代ちゃん独特の“しゃくりあげ歌唱”に楽曲が救われているんじゃないかなぁ。余談ですが、80年代前半に町田町蔵(INU)の歌い方を真似していたライブバンドが「伊代ちゃんボーカル」って揶揄されていたっけな。 しゃくりあげ歌唱がアップテンポの軽快な楽曲で活かされていたデビュー時に比べ、僕は圧倒的に短調およびミドルでの使用が好き。チャイニーズやラテン風楽曲における“しゃくりあげ歌唱”のマッチングは科学変化を起こしていると思うな。感情表現の薄さがポイントね。ってわけで推薦曲は『抱きしめたい』『太陽がいっぱい』。 尾崎亜美時代は僕にはちょっと淡すぎる。楽曲が前面に出過ぎ。アイドルからの脱皮策だったんだろうね。科学変化は少ない。 それにしても、躍起になって16ビートの“決め”を作るアレンジ(鷺巣詩郎がメイン)が可笑しい。チョッパーベースとタム回しが耳に障るけど、全体に録音はキレイだと思う。
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