★★★★(2002.01.21)
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『ムーランルージュ/オリジナルサウンドトラック』 僕はムーランルージュに憧れていた。浅草六区に通じる“闇を持った娯楽場”ってな意味合いで。でも、僕が描いていた印象は所詮、ガイドブック的なもので「象・風車・ロートレック」といった紋切り型なアイテムに過ぎなかった。 映画『ムーランルージュ』は、そんな“オノボリさん”の度肝を抜いてくれる、容赦なく。 まず、フランスを舞台とした英語劇である点、フレンチカンカンの場面でビッグビートが使用される点、そして、19世紀を舞台としたミュージカル映画でありながら20世紀のヒットポップスを歌いまくる点。そう、この映画は19世紀のナイトクラブを史実として再現する気などさらさらに無い。「19世紀のモダン」を「21世紀のモダン手法」で、「21世紀に感じるレトロ」として交錯させる過激な娯楽表現。異常なカット割に込められた執念の情報攻撃。破壊と再生が目まぐるしく展開し、解説を排除。クールでホット。毒々しく人工的なライティングが照らし出す仮面の下の心情。ロートレックをはじめ異形の登場人物達。しかし、ストーリー自体はオーソドックス。 映画全体が丸ごと飲み込むこの矛盾はサントラ楽曲にも素敵な混沌をもたらす。お馴染みの古典ヒットポップスを再構成。各楽曲の歌詞は劇中で重要なメッセージを孕む。そう、熟知した楽曲の存在自体が暗示的に変貌。(マッカートニー楽曲の『心のラヴソング』に感激する日が来るとは!) 選曲にあたっての原曲に対する手放しの信頼感に驚愕。つまり、原曲への愛情と同時にひたすら楽観的で禁欲的な姿勢を貫いて破壊&再編集に徹したスタッフの信念と我慢強さがヒシヒシと伝わる。 生産を明確に目的とした破壊作業とは徹底した独善と狂おしい快楽嗜好でしか裏付けられない。それは毒々しく、人工的。なおかつポップで愛情に富む。グロテスクな光と闇の誕生、混沌。つまり、僕の憧れのムーランルージュ。 全曲未収録だけが不服。DVD、100回観て、聴く覚悟!
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〜歌謡曲を聴く9〜
★☆(2002.01.21)
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『俺は男だ!/ミュージックファイル』 「ミュージックファイル」っつう発想が好きじゃない。映像と劇中BGMを切り離す行為や、それをありがたがる姿勢が僕には卑屈に思える。DVDで映像全話を見ればいいことじゃん。(BGM抜粋が盲人の方々への配慮とは思えないしね・・・) 本作は昭和46年放送同名ドラマのBGM集。意外にもリスニング対象として楽しむことが出来た。SE的ではない音楽的な構成だからなのだろうな。 同一テーマ楽曲のバージョン違いや、主題歌『さらば涙と言おう』のアレンジ違いによるインスト楽曲を多数収録。涙ぐましい創意工夫、お察しします。BGMを全部新録音してたのかぁ。パイロット版映像とか数話分の脚本を基に監督と打ち合わせして作っちゃうんでしょ?
すげえなぁ。主題歌さえもが、森田健作のシングルとは別テイクのオリジナル録音。 全曲の作・編曲は鈴木邦彦。ホーンを多用し、マリンバをリード楽器として使用する処理が楽しい。ストリングスとピアノの比率が何故か低いスカスカなサウンド。ドラマを明るく健康的に演出する為にはマリンバの軽快な響きが重要だったのだろう。『快獣ブースカ』『ケンちゃんシリーズ』もマリンバの比率が高いもんね。 さて、ドラマ映像を見直したいなぁ、などという感情は僕には全く興らなかったのだが、確実に反応してしまったBGMがあった。“恋愛的な場面”で使用されたBGM。クラリネットとマリンバがニノ・ロータ風に切なく響く短調のインスト。無意識の刷り込みとは恐ろしいものだ。再放送をビデオに録画して繰り返し見た覚えはないから、短期間のオンエアでBGMが僕に侵入していたわけだ。 当時、僕は子供の作り方も知らない少年だったが、このドラマに登場する女剣士・丹下竜子(小川ひろみ)と妹・小林かおる(松本うたか)にセクシャルな恋慕を抱いていた。少年の淡い恋心ではなく、性的な想いであった事実が楽曲に封印されていた。 BGM集、悪くないね・・・。
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★★★☆(2002.01.28)
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『永遠の愛の歌(hits)/ジョニ・ミッチェル』 “ジャズ時代”の音を好んで聴いていたのだけれど、こういった形で“ポップ楽曲”を立て続けに聴くのも悪くなかった。時代をまたいだ選曲のベスト盤であるにも関わらず、不思議な一貫性を感じる。初期のアコースティックギターだけのバックトラックと中後期のバンドアンサンブル系が違和感無く楽しめる。 あのねぇ、音に対する神経の配り方が木目細かいんだよねぇ。ギターの録音にかける情熱が尋常じゃない、と言うか。自然なアンビエントで成立した暖かい音。ギター弦の振動が耳をビリビリと震わせるような錯覚。マイクも、録音の腕も、演奏の腕も良いんだろうねぇ。当然、ボーカルに対する気配りは更に細かく、歌を中心としたアンサンブル(ミックス)がなにしろ快適。そして、これだけクリアーな録音に完全に耐える編曲と演奏力! 言うことはない。歌詞もメロも歌唱も最高点。 収録された楽曲群が後続のアーティストに与えた影響を改めて思い知った。例えば、こーいうエレピの響き方って“あの曲”にダイレクトに引用されたんだろうなぁ、などと。CSNなんかは彼女の周辺をウロウロして、オコボレを頂戴してたんじゃねえの、なんて気持ちになってくる。ジャネット・ジャクソンがループさせた『Big
Yellow
Taxi』を聴きながら、「あ〜、曲間の照れ笑いとかジャネットは真似したのかな?」てな空想も楽しい。 でもさ、敢えて問題発言をしてみたいんですけど、ジョニ・ミッチェルの音楽って引用されたり、カヴァーされたものの方が聴き易くないですかぁ? もっとポップになって透明感が増す、って言うのかなぁ。いや、本家の音楽的な透明感とは別の意味で・・・。そう!匿名性が増すんだ。匿名性の分だけ、楽曲の“骨格的な良さ”だけが聴こえるの。 ボブ・ディランもカヴァーを聴いて安心することがあるんだけど、あの感じ。 わかるかなぁ? 可愛い女性なんだろうなぁ、と思うんだけど、なんか微妙に痛い。
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〜歌謡曲を聴く11〜
★★★(2002.01.28)
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『ザ・ベスト/シブがき隊』 僕はシブがき隊のベストCDを3セット所有している。集大成の2枚組である本作の発売が早ければ重複しなかった中途半端なベスト盤には涙を飲むとして・・・。もう1枚には『HISTORY OF SIBUGAKI-TAI』というノンストップミックスが収録されている。これが『スシ食いねェ!』のB面曲『Together! SIBUGAKI』(本作に収録。超カッコいい!)という類似主旨のノンストップメドレーと別物なんだねぇ。曲間のトーク(照笑)で、“3人の声質的な役割”が地声で既に確立している事実がアリアリと確認できる代物。以前にも指摘した通り(←Click!!)、ボーカルグループとしてのシブがき隊の資質は素晴らしい。中央からユニゾンで聴こえる3人の声が完全に識別可能(揃わないっつう要因もあるけど・・・)。誉め過ぎるのもナンだから、言い換えます。フックンの声が悲しい程に聴こえてしまうんだよね。モックンが表現力を獲得する過程で、ヤックンのぶっきらぼうな濁声とフックンの素っ頓狂声とのバランスが、絶妙な刺激となる。 ♪NAI NAI NAI 恋じゃNAI♪という奇天烈な楽曲でデビューした宿命を躍起になってフォローし続ける楽曲群は、タイトルの奇天烈さ(『男意ッ気』等)も仰天だけれど、音楽性の幅広さに舌を巻く。インスタントなジャポネスクも、洋楽系ロック歌謡も演歌(!)さえも、拡散させつつ一極に収束させてしまう強引な路線戦略は、彼等のボーカルスタイルが鍵だ。アイドル人気を盾に何でもアリ、の状況をここまで有意義に遊んだ事例は稀だと思う。彼等の声が混じる以上、冒険は許されたのだと察するが、当時の機材とリズム認識における過激の上限を目指す姿勢にリスペクト。むしろ、初期のワルぶった歌詞の戦略が彼等の資質をナメているように感じるね、僕は。(どこか、ホモっぽいしな。) 最強の名曲は『Zokkon命』。他にも『ZIG ZAG セブンティーン』『渇!』『月光淑女』『KILL』『恋人達のBlvd.』が好きだ。 関連(フォーリーブス・郷ひろみ)
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★★★★(2002.2.04)
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『ロックステディ/ノー・ダウト』 録音技術が発明された時、天地は引っ繰り返ったのだろう。ステレオ技術の登場で左右に音が分離した時には、辺りをキョロキョロと見回してしまったかも知れない。スピーカーの中に誰かがいるんじゃないか、と解体してしまった人もいたかも知れない。 んな奴ぁいねぇか・・・。 時代は5.1チャンネル。映画館に行けば、サラウンドシステムによりアチコチで音が鳴り出す。『エクソシスト』の新編集版を観て一番驚いたのはバーの雑踏で会話する場面のBGMが左側からクッキリと聴こえてきたこと。オールマンの『ランブリングマン』の間奏と確認。かくも音響技術の進歩は表現の向上をもたらせたのだ。あんまり説得力の無い事例だったか・・・。 さて、本作。ヘッドフォンで聴いてみそ! すごいよ、頭の中にプラネタリウムがあるみたいだ。球状に音が配置されているような感覚。何度か振り返りそうになった。前作(←Click!!)でも変テコなミックスを指摘したけれども、今作は更に変。広がった空間の分だけ得した気分になる僕は貧乏性? ボーカルとリズム以外は中央に居ることを許されないかのようなミックス。隅っこで微弱に鳴るシンセのフレーズを追っていると、何故かいとおしく感じる。しかし、拡散した音像が芯を喪失していることも事実。ミニ宇宙の中で心細くなる、と言うか。 楽曲毎に著名アーティストがプロデュース。ネリー・フーパー、スライ&ロビー、ウイリアム・オービット、リック・オケイセック(!)、プリンス(!!)。。。 各自の持ち味を前面に抽出。完全に味付けを任せたような制作姿勢。 カーズ風の単音シンセ&ギターが登場した瞬間には思わず頬が緩む。プリンスの声が左右から流星のように耳を刺す。 バンドサウンドとケミカルな処理の配合や、ポップ楽曲の破壊度という意味でガービッジ(←Click!!)と類似。 相違は宇宙空間か否か。 宇宙ったって、プラネタリウムに張り付いた星なんだけどね・・・。
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〜歌謡曲を聴く12〜
★★★(2002.2.04)
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『シングルズ/早瀬優香子』 世の中には“偉い楽器”がある。フレットレスベースだ。80年前後、我々は恐ろしいフレットレスベース奏者と出会った。ジャコ・パストリアス、パーシー・ジョーンズ、ミック・カーンの3名。(僕の感覚ではスティングはエントリーされません) アタック感が潰れた音にスライド奏法・ハーモニックス奏法やエフェクト処理を加えた独特のベース音色が楽曲全体を支配する様は圧倒的だった。それほどオイシイ音を利用した国産音楽が少ないことが、むしろ僕には疑問だった。一風堂・土屋昌巳(←Click!!)が有名だけれど、あれは本家がベースを弾いているんだ。もっとロマンティックに歌謡曲と融合することを僕は欲した。 『サルトルで眠れない』が深夜の気象情報番組のBGMとして流れてきた瞬間に僕は凍りついた。パーシー・ジョーンズ奏法を丹念に研究したようなベースフレーズと音色の躍動をバックに、ロリータボイスが思わせぶりにエキゾチズムを撒き散らす。 大慌てで購入した早瀬優香子のデビューアルバム。フレットレスベース奏法よりも、当時にはあまりに珍しかったロリータ唱法に参ってしまった。フレンチポップを大らかに解釈した楽曲群も素晴らしかった。“渋谷系”が登場する遥か以前の物語。 以降、エキセントリックで、エキゾティックで、舌っ足らずなポップ世界が優雅に展開していく様を本作で確認できる。 『セシルはセシル』『マリー・ラフォーレはもう聞かせないで』といったタイトルに顕著なスノッブ感はむしろ嫌味。しかし、早瀬優香子は最後まで感情を押し殺し続ける。 「大人の戦略」が自らのDNAを汚染していく過程で自己を喪失していったシンガー。彼女の末期オリジナルアルバムでは優秀なフレンチポップ作家として悲劇的に完成された彼女と対面できる。矢野顕子(『私は女』)・細野晴臣(『椿姫の夏』)とは違う次元で完成し、彼女は消えた。 01年に復活。 僕の早瀬優香子は戻らなかった。
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★★★☆(2002.2.11)
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『カム・ウイズ・アス/ケミカル・ブラザース』 鮨詰めのクラブ空間で低音ブリブリのテクノ音を浴びていると妙に閉鎖的な気分になることがある。ないですか? 「フロアの空間=音の有効範囲」と限定されてしまったかのような閉鎖感。音が遠方への飛翔を諦めて、足元にボトボトと落ちて滞積していく重苦しい感覚。その際にループしっぱなしのテクノビートがより閉鎖性を増長。 ハウスやヒップホップでも時折・・・。バンド演奏とは異なるダンス対応の人工音楽であることが卑屈に思えてしまう悲しい瞬間だ。何故か、古い演奏系のネタだと閉鎖的じゃない印象なのが、また悔しいんだ。 しかし。 しかし、だ。フジロック'00で聴いたケミカルブラザーズに閉鎖感はなかった。開放的であったとさえ思う。 苗場スキー場というオープン空間で僕自身が開放的な気分に浸っていたせいなのだろうか? テントに覆われた空間で聴いたエイフェックス・ツインや、アンダーワールドのライヴCD(←Click!!)でも、テクノがフロアを離れて、有機的に拡散する可能性を感じた。 本作をヘッドフォンで静かに聴いていても不思議な“広がり”を感じる。歌やサンプリング等による声の成分が多く、楽曲もダンス音楽でありながら鑑賞向けの構造要素があるという事情も大きいのだろうけど、なんだか、もっと奥に秘密があるような気が・・・。 あぁ、ヤバいなぁ。僕はヤバい方向に話を持って行こうとしている。それは“精神性”に関する話だ。ポップ音楽に重厚な精神性が持ち込まれた時、その音楽は聖なる意味合いを孕んでしまう。僕はピーク時のピンク・フロイドを思い出す。 テクニックやテクノロジーをひけらかすような低い志ではなく、聴き手の精神の襞に直接接触する音要素を幾重にも織り込むような音楽。音が精神を内側に開放する感覚。 もはや、この音楽の目的はダンスではないのではないか。 果たして、本作はフロアで人を踊らせることが可能かな? 「開放」の次のキーワードは「解禁」?
関連
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〜歌謡曲を聴く13〜
★★★(2002.2.11)
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『泉谷しげる登場/泉谷しげる』 僕は過去に3回、泉谷の行動に驚いている。 フォーク全盛期にテレビ出演し、ギターを持たずに大暴れした時。スケートボードスタイルで、スーツ姿のチャーと組んで爆音轟かせ「パンクだ」とうそぶいた時。リアルフィッシュ等をバックにモダンアレンジのアルバムをリリースした時。 “70年代フォーク出身の大御所”になるまいとする明確な意思表明だと僕には思えた。思えたけれども、80年代に『春夏秋冬』をブルージーにリメイクした瞬間、僕の中で泉谷しげるは大御所になった。 そんな泉谷のデビューアルバム、ライブ実況盤。 「俺はギターのチューニングが出来ねぇんだ」と得意気に語っていた割にはギターが下手じゃないのね。「今度はアルペジオでいっちゃうぞ」とか道化たMCと裏腹に練習の成果が見えたりして・・・。 ジョークを言う度に照れ笑いする風情が優しいアンちゃん。フォーク時代の主軸とも言える“負け犬楽曲”の歌詞はナイーブ。 泉谷は必死で自分のイメージを“キワドイもの”にしたがっているように感じる。懸命に毒舌ぶっているような気がする。 デビュー時に彼が東京出身であるにも関わらず、東北出身だとプロフィールを偽ったエピソードを聞いたことがある。実はイラストに才能があることも温存して、彼は必死に「ガサツな人間」を振舞う。 手口は「俺はこんな顔した男なんだ」という投げ遣りな姿勢。自己宣伝に余念のない貴方には信じられない行為ですね? つまりは自信があったのだろうと思う。吉田拓郎の上を行っていると確信出来る自分に照れていたのだと思う。 今となっては、泉谷の音楽活動に興味を抱き難い状況だけれど、時折テレビで見かけるタレントの泉谷しげるは相変わらず照れているように見える。 彼の動機が不自由な脚のコンプレックスに起因しているのか否かは定かではない。 近い資質を持ちながら突っ張り続ける遠藤賢司に負い目を感じているか否かも定かではない。
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★★★☆(2002.2.18)
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『PREGO#1/VA』 ランブリング・レコードのコンピ。レーベル紹介用のカタログCD。僕はこのレーベルを知らなかったのだけれど、ラウンジボッサ系なのね。イタリアのサントラがいかにも、って感じ。 チンタラと流していると、これが気持ちいい。澄んだ空気を意識もせずに吸い込んでいるかのような気分。そんな快感を時間が経ってから気づくほどに神経に優しい。読書にも没頭できる。 まさにラウンジ。 クラブでスカしたDJが回すボッサとして、パーティなどで代用出来そうなアルバムでもある。 これは一見誉め言葉なんだけど、実は皮肉な真実をも孕んでいる。 このCDを聴いた僕が収録アーティストのオリジナルアルバムの購入意欲を喪失している、ってこと。底辺にあるのは「ラウンジボッサって何枚買っても結局は同じなんだよな」という諦観だ。なんとなくボーッと流しっぱなしにするのがラウンジだと思わない? DJの選曲には常に受身で空気感を享受するわけで・・・。つまり、楽曲がコンパイルされた段階でラウンジアルバムとしての目的は達成されているわけだ。本作に収録された10曲のオリジナル盤10枚が各々達成している目的を、このコンピはとっくに達成している。言い換えれば、楽曲をどのようにシャッフルして配列してさえも目的は達成されるんだよね。 これがロックのヒット曲コンピだったら、そうはいかないんだ。←そう、これが結論! ラウンジミュージックの“匿名性”が、楽曲毎の個性や関連性を薄めてしまうんだね。 本作をじっくり聴けば、各楽曲の音楽的な特性を識別することは出来る。出来るけれども、それをする意欲が僕には沸かない。この音楽には「僕の空気」であって欲しいんだもの。 僕が変な話に固執している理由はある。このCD、2枚組10曲収録で価格が1000円なんだよ! そんな太っ腹サービスの挙句に、他のアルバムに手が出ない(カタログの目的を達成していない)状況が不憫でならない。
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〜歌謡曲を聴く14〜
★★★☆(2002.2.18)
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『afropia/小泉今日子(1)』 ベスト盤の紹介でお茶を濁したくないですね、小泉さんは。 と言うわけで、小泉ディスク第一弾に選んだのが本作。91年のリリース。一般的なトピックは『あなたに会えてよかった』の収録。作詞家・シンガーとしての資質を的確に解放した名曲だ。 バラエティに富んだ作家陣と演奏家のクレジットを眺め、今更ながら全盛期の小泉さんの“過激さ、鋭さ”を思い知る。本作リリース後の10年間を通して日本のポップスの中核を成した立役者達を狙いすましたかのように起用。各楽曲の性格が演奏家の選択に至るまで、詳細に立案されていることが判る。プロデューサー小泉今日子は、ただもう鋭い。 アルバムとして本作が担った個性はJAGATARA構成メンバーの参加で実現した“雄大な空気感”と大まかに言えるだろう。時代性を踏まえてみても、これは小泉さんからの「ワールドミュージックへの回答」だ。ブームへの安っぽい迎合とも、啓蒙的な理屈っぽい音楽とも感じられない。ハチロクのビートが国内市場を正確に狙って紡がれる様は心底美しいと思う。正しい意味で自由に扱われた音楽の姿。これは音楽の教科書ではない。ロマンティック、そして、タフ。 非JAGATARA音楽との配分も巧妙で飽きない。全体にパーカッションの使用頻度が高く、アコースティック楽器が乾いたトーンで響く編曲・録音。一貫して迷いの無い制作方針。ホーンアレンジの巧みさには今聴いても唸るね。非常に優秀な音楽だ。 “企画先行型”と思われがちな小泉音楽ではあるけれども、彼女は音楽の力を真摯に信用している人だと僕は思うなぁ。本作の収録楽曲は軒並み5分を超える。ビートの魔力を徹底して信じ、楽曲のクオリティで娯楽性を死守。 アイドルとしての質の高さや、わかり易い“過激パフォーマンス”のせいで、小泉音楽の素晴らしさがスポイルされ続けたことは悲劇的なジレンマだ。 密かにこんな名盤が存在する事実を知って欲しい。
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