<阪神大震災>

1)1995年1月17日の記憶

あの日、私は西宮の下宿で被災しました。下宿は全壊。

私は、生き埋めとなり2時間後、救出されました。その日の記憶を書こうと思います。

あの日、朝5時半に私は、就寝しました。・・そしてその15分後、あの地震が私を襲いました。

「地震」というからには、すごい揺れだったでしょう?と、思われるかも知れませんが、

実際揺れなんてその瞬間は覚えてません。

ただ記憶にあるのは、スローモーションのように崩れ落ちてくる真っ黒な巨大な天井のみ。

なにがなんだか分からないうちに、気が付けば私は生き埋めとなっていました。

今、考えるとドラマのような奇跡的状況なのですが、6畳の和室は私が寝ていた場所に

人一人入れるわずかな空間だけを残してすべて天井に押しつぶされていました。

(さらに私は寝る場所を1週間前に移動したばかりだったのです。

もし、あの日、寝場所を移動してなかったら、間違いなく私は今ここにいないと思います。)

しばらく、ぼーっとしていたと思います。自分の状況がつかめなくて。

そして、隣りの部屋の友達の「タスケテー」という声で

我にかえりました。「大丈夫ーー?」とその子に呼びかけてみますが、応答はありません。

その後、何度かその子の声を聞いたのですが・・・・

・・・あとから聞いた話によるとその子は「即死」状態で、おそらく震災に気づくことなく亡くなったそうです。

では、私が聞いたあの声は・・?

今、考えても切なくなります。

それから、しばらく助けを呼んでみたものの誰も応答してくれません。

「このまま死ぬのかな・・」

「怖いな・・」

「空気は、入ってきてるかな・・」

「・・・お母さん・・」

多分私は、精神的におかしくなりそうな状況まできていたのでしょう。

人間って極限状態になるとばかな事を考え始めます。

そのうち私は

「今日TVみれない・・」

「今日の約束間に合うかな・・」

「お腹すいた、昨日作ったナスのカレー食べたい」

「暇だな・・」

「これってネタになるかな・・」

など、思いだしたのです。TVなんていってる場合か!約束とかいってる場合か!カレーとかいってる場合か!

暇ってあんた・・!ネタにするな・・!!と今思い返すとつっこむとこだらけなんですが、本当にこんなこと思ってました。

そして2時間の間に「底知れぬ恐怖」と「ばかな考え」が交互に私の頭の中を、駆け巡ったのです。

どれくらい、時間が経ったのか・・男の人の声がします。

それに気づいた瞬間、私は狂ったように「タスケテー」とひたすら叫びました。

そして、やっと気づいてもらい「今助けるからなー」と声がし、その男の人は、私の場所を探し始めてくれました。

でも、横で女の人の声がします。

「なに言ってんの!早く逃げないと危ないって!こんな時にいい人ぶってる場合じゃないでしょ!」と。

これを聞いて私は、不思議と、焦ったりせず

「そうだよねえ」「人のこと心配してる場合じゃないのよね・・」と落ち着いていました。

もう、精神的に疲れてて「感情」が無くなっていたのかもしれません。

それでも、その男の人は私を助けようとしてくれました。それからどれだけ時間がたったのか・・・・。

途中で、「やっぱり、だめかも・・」と何度も感じながらも、私は、ひきずりだされました。


2)震災で逝ってしまった隣りの部屋の友達

あの日、私の下宿で生き埋めになったのは3人。そのうちの一人が亡くなりました。

彼女は、私と同じ大学の女の子で、まだ19歳でした。

ここでは、彼女について書こうと思います。九州から、誰一人知り合いのいない土地にでてきた私にとって、

彼女は一番にできた友達でした。

そこの下宿は、アパートとかとは違って大きな家にみんなで住んでいると言う感じでしたので、

(まさに下宿と言う感じでした。)隣りの部屋で同じ大学の私たちはすぐに仲良くなりました。

銭湯にも最初の頃は、毎日一緒に通ってましたし、よるご飯も一緒に食べてました。

そのうち、お互いクラブに入ったりして段々、同じ時間を過ごすことは減っていったものの、

家族のようなつきあいを続けていました。

私は、大学に入ってから性格がかなり変わってしまったのですが、その形成に彼女は大きく関係しています。

彼女は、私が欲しいと思うものをすべてもっていました。

暖かい家族、才能、前向きな心、一生懸命さ、・・・いつも笑顔の彼女の周りには、人が自然と集まってきました。

とても、うらやましかった。

彼女とは結局、10ヶ月しかつきあうことができなかったけれど、彼女から教えられたことはたくさんあります。

あの頃、私はいつもマイナス要因だけを探し出し、自分が何かをできない理由を「自分」以外の所に

見つけだそうとしていました。

いつも、自分が恵まれない環境にいるのだと、自分自身を「かわいそがって」いました。

それを見ていた彼女が私に言ったのです。

「××ちゃんは、いつも自分をかわいそがってる。そんなことしてても何の発展もないよ」と。

九州にいる時はそんなこと、はっきり言う人なんていなかったし、私はまだ子供で(今でも子供だけど)

その言葉を素直に受け取ることができずに「あなたは恵まれてるからそんなこと言えるのよ」と言い返しました。

今思えば、きっと彼女にも悩みはあっただろうし、持っていないものもたくさんあったはずで・・。

それでも、いつも笑顔だった彼女の表面しか見ていなかった私は、それに気づくことなく、ひたすら、

彼女をうらやんでいました。

もうひとつエピソード。

そこの下宿にはもう一人同じ歳で同じ大学の女の子がいてその子が彼女に

「生まれ変わったらこれがしたい、あれがしたい」

と何気なく言っていたところ、彼女が怒り出して(何も怒ることもないとは思うんですが)

「そんなん生まれ変わったらとかいわんと、今やったらええやん!!」と言ったそうです。

19歳でまだ世の中のことを知らないから言えたセリフかもしれませんが、今でも強烈に心に残ってる言葉です。

他にもいろいろあったのですが、彼女は、とにかく「一生懸命な人」でした。

彼女は、才能にも恵まれ本当に「輝いて」いました。

そんな彼女は将来のこともいろいろ考えていたようです。それなのに、あの震災が彼女から未来を奪ってしまった。

私毎年、どんどん年をとるけど、彼女は19のまま。

彼女の「死」は、私にとって初めての身近な人の「死」でした

でも、正直言うと彼女の「死」をはっきり認識して泣いたのは半年ぐらい経ってからでした。

震災で私自身、精神的にかなりまいっていたので、彼女の死を知った時も涙はでたけど

「心」は苦しくなかったのです。

震災から、半年ほど経って彼女のご両親が彼女が生きた証として本を作られました。

それを読んで初めて、はっきりとした痛みを伴って私は泣きました。

そして、彼女と過ごした10ヶ月を振り返りこのままの自分じゃいけない。

彼女と出会えたことを無駄にしてはいけない。彼女は死んでしまったけど、私の中で生きている、生かさなきゃ・・・。

そう思いはじめました。

彼女みたいな人になりたい。

心から思いました。

そうすることで、きっと彼女は生き続けるのだと、そう思いました。

あれからどれくらいの時が経ったのでしょうか。

以前に比べると彼女に近づけたような気がしています。「昔の私」が時々現れそうになると、

心の中にいる彼女が現れて私を叱るような気がします。

偽善というか、ばからしく思える考え方かもしれません。でも、現在、私は依然と環境や状況は変わっていないのに

昔よりも「幸せ」を感じる力が増した気がしてます。彼女のおかげだと思っています。

うまく言えませんが、人は死んでも誰かの心の中で生き続けることができる・・・。

そう、思います。いつか、私が死んだら、誰かの心で生き続けることができるような人生を歩みたい。

そう、思います。

長くてなんだかまとまりのない文章になってしまいました。

19歳の彼女に今の私は追いつけてません。もしかしたら一生追いつけないのかも。

無くなってしまったものは、輝きを増していくものだから・・・。

それでも、やはり、彼女のように生きたい。

彼女の遺稿の中にこんな言葉があります。


「下らない優越感と意味のない劣等感に振りまわされてもがいている自分が見える。

楽しいだけの毎日に流されながら、あるべき自分の姿に対する焦燥感を抱えて、

右往左往している自分を冷静に見つめることができる。

なんとなく過ごしてしまっている毎日を真摯に生きたいと強く願う。」(一部抜粋)


いつも笑顔でがんばっていた彼女。それでも「なんとなく過ごしている」と思ってた彼女。彼女のような人になりたい。

なれるように生きていきたい・・・。


3)震災の後遺症

生き埋めになりながらも無傷だったほどの幸運の私にもトラウマは残っています。

西宮・から京都・大阪・奈良の友人の家を転々とし、やっと大分に帰り安心した私を待っていたのは

毎朝、6時頃になると心臓がバクバクして苦しくて目が覚めるという日々でした。

生き埋めになった瞬間は、その事実で頭がパニックになっていたため、気づきませんでしたが

震度7の地震を身をもって体験したわけですから心臓にはかなりの負担がかかったはずです。

(あの地震の時、高校生で鍛えていた男の子が心臓マヒで亡くなったそうです。それぐらいすごい揺れだったのでしょう)

とにかく、しばらくの間、毎朝心臓が苦しくて目を覚ますという苦しい日々が続きました。

そして、関西に戻ってまた、一人で暮らし始めたのですが 一人でいるのが怖くて友人にしばらくできるだけ

一緒にいてもらいました。

その、友人によると夜中によくうなされていたそうです。

そして、友人がいない時私は、幻覚というか・・・何かの気配を感じて「部屋にだれかいる」と言いはじめました。

友人はできるだけ側にいてくれましたが、一人で過ごさなくてはならない夜は、寝ることもままならず、とにかく、

辛く心休まる時があまりありませんでした。一番辛かったのは余震です。

震災のあとも、しばらく余震が続きその度に私は泣いていました。恐怖が蘇ってくるのです。

新しく住み始めたところは4建ての4階だったので、もう生き埋めになることないと分かってはいたのですが・・。

今だに地震がくると動揺しますし、泣いてしまうこともあります。

「震災」「復興」この文字を見ただけで泣いてしまう日もありました。

きっと、これから先もこの後遺症は、残ることでしょう。それでも、生きていることだけでも感謝して、耐えるしかない・・・。

こればかりは、消せないものだと思うから。

4)震災から学んだこと

震災で学んだこと・・たくさんあると思うし、たくさん学ばなきゃいけない出来事だったと思います。

でも、一番に感じたのが「次の瞬間にはすべて崩れて無くなってるかもしれない」

だから、一瞬・一瞬を大切に後悔しないように生きなくては・・ということです。

でも、普段残念なことに実践できてません。

震災を通して私は「死」というものを常に意識して生きるようになりました。

いつ死んでもいいように、自分のしたいことをして生きていたい。

でも、現実は、そう甘くはありません。それに、情けない話ですが自分が何をしたいのか分からないのです。

でも、これから、・・・・・・。このままじゃいけない。そう、思ってます。

私が、生き延びたことにちゃんと意味をもたせるために。

友達が若くして、逝ってしまったことを無意味にしないために。

そして、なによりも、私自身のために。