最終更新日:2002.04.30
A history of his 89 years


1908年 1月26日 パリに生まれる。

母親は彼が4才の時に亡くなり、やがて父親は第一次世界大戦で戦地へ。グラッペリは孤児院で暮す事になる。やがて戦争は終わり父親と再会し一緒に暮し始めるがたいへん貧しい生活であった。13才の時、父親から中古のヴァイオリンを与えられた。彼は猛烈に練習に打ち込んだ。

15才のころ無声映画の伴奏ヴァイオリニストとして働いていた。映画の伴奏ではモーツァルトを弾かなければならなかったが、あるコミカルな映画の時ガーシュインを弾く事を許された。この時Jazzに開眼したようである。やがてフランスの有名なショーバンドでヴァイオリニストをしていた。また、パリのコンセルバァトワールでヴァイオリンと和声学を習ったという。

1930年〜1940年当時のフランス・パリといえば、ロシア革命やナチスの台頭による影響を受け、社会情勢は非常に不安定であった。しかし、当時の音楽シーンと言えばクラシックをはじめシャンソン・ミュゼットなどの大衆音楽やジプシー音楽というヨーロッパの音楽へアメリカのジャズが注入された頃でもある。そんな時代に青春時代を過ごしたグラッペリはやがて あのジプシーギタリストのジャンゴ ラインハルトと1931年にパリのカフェ「南十字星」で始めて顔を合わせ、クィンテット・オブ・ザ・ホット・クラブ・オブ・フランス(QHCF)を1934年に結成することになる。これは弦楽器のみの編成による画期的なJazz Bandであった。(ギター3台,ヴァイオリン,ベース)

このQHCFはまたたく間に全ヨーロッパに知られるジャズバンドとして有名になる。ここでのスターは勿論ジャンゴ・ラインハルトであった。彼のギターと共演するために、はるばる本場アメリカからパリへやってくる大物ジャズマンがいたほどである。グラッペリのヴァイオリンもまた、アメリカのジャズ・ヴァイオリン・プレーヤーであるエディ・サウスやスタッフ・スミスらと並んで賞された。

第二次世界大戦後はイギリスで病院や軍の施設で演奏していたがフランスへ戻りQHCFを再開し新しいスタイルを模索する。やがてジャンゴ ラインハルトと別れる事になるが、この後も弦楽器によるJazzにこだわりイギリスのピアニスト、ジョージ・シアリングらと独自のヴァイオリンのスタイルを確立していく。

1953年5月、ジャンゴが43歳の若さで他界した。グラッペリの1950年代の録音を探すのが困難であることが、当時の彼の心境を物語っているのかも知れない。(私の知っている限りでは3枚しかない)しかし、1955年4月に録音された「Improvisation」というアルバムを聞くと、即興音楽に打ち込むその自然体なスタイルが既にそこにあり、彼のヴァイオリン音楽へのこだわりが感じられる。

彼の創り出す音楽はジャズ,クラシック,ポピュラー,フュージョンなどジャンルを超えたもので、聞く人の心へ訴えかけ、また心地よくする。彼と共演したプレーヤーはオスカー・ピーターソン、バーニー・ケッセル、ゲーリー・バートン等のジャズマンをはじめ、ユーディ・メニューイン、ヨーヨー・マ等クラシック演奏家など・・・幅広いジャンルの人達との録音が残されている。

日本へは1989年 1990年 1992年 1995年の4回訪れ演奏している。

そして1997年12月1日 パリに死す。 享年89才

世界は偉大な演奏家を失ったが、彼の「愛」は永遠に聞く人の心から離れないであろう。

 

NUAGES Jazz Violin Square 2002