伊藤キム+輝く未来ロゴ

●キムは今・・・


[2005年11月18日〜30日]


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2005年11月30日(水)

 ここに来てあらためて感じるのは、ロシアの匂いがあること。古い街のブハラはイスラム色が濃かったが、新市街のあるタシケントは都会で、ロシア 語の看板も多い。頑丈で冷たい印象のコンクリート製の建物がゴツゴツし、ガタガタと頼りなさそうなロシア製の車がウジャウジャ。
 ロシアが攻め込むまでこの街はあまり歴史の表舞台には立ってこなかったようで、そのせいもあるだろう。いずれにしてもこの国を含んだ5カ国が 「中央アジア」と呼ばれているのには少し違和感がある。近郊のブハラ、サマルカンドなどイスラムの漂う場所でこそアジア的だが、特にタシケントの ような都会はどう見てもヨーロッパだ。東と西を結ぶグレーゾーン、いやグレーじゃ聞こえが悪ければ、不思議ゾーンか。イスラムとロシア、なんとな く似つかわしくない取り合わせに思える。
 言葉は世界を概念を区切り、国境線は大地を区切る。でも固い肉のようにどうしても噛み切れないものは、そのままグッと飲み込むしかないのだ。


「世界が展示室〜スタンの国々」
 僕は語尾にスタンとつく国に興味があった。ロシア、中国、東南アジア、中東、ヨーロッパにアメリカ。こういった地域はニュースで名前がよく出る し、旅行先としてもポピュラーだ。だが「スタン」の国々は、12月に足を踏み入れることになるアゼルバイジャンなどコーカサス地方もそうだが、馴染 みがなく、得体の知れない雰囲気が漂っている。そうか、じゃあ行って確かめてみよう、となるわけだ。調べるとスタンという言葉は「大地」を意味する らしい。アジア、ヨーロッパ、中東に囲まれ翻弄され、存在感は薄いが、なるほど大地あるところに人の生活ありで、そこには日本と同じように当り前 の日常があった。


「世界が展示室〜中央アジアは美味い」
 キルギス、ウズベクで食べた料理は概しておいしかった。プロフ、ショルポは日記に書いたが、ウズベクではまずパジャルカ。肝(たぶん羊)を煮て、 それにタマネギや青菜、トマトなどが付け合わせてある。この肝が抜群にうまく、別の日に同じ店に行ってみたが、肝が普通の肉に変わっていた。 どっちが本当なのか?
 ウズベクのもうひとつ、料理名は忘れたが、ジャガイモを薄くスライスし、それにトマトの薄切りや肉をサンドイッチのように隣り合せて煮込んだも の。イモやトマトをはがすように食べていくのが楽しい。
 なぜだろう? 中央アジアの料理は僕の口に合う。でも脂っこいので毎日だとさすがに胃にこたえる。ブハラではこういうのばっかだったが、タシケ ントにたまたま見つけた「美登里」という韓国・和食の店があって、高かったがタシケントの夕食はすべてそこだった。韓国料理特有の、最初に出され るお総菜の小皿群には、ホウレン草やモヤシ、キムチ、キュウリの酢の物などがあり、夢中で箸を動かした。う〜んやっぱ、さっぱりしたものはいい。 鉄火巻やうどんなんかもあって、うどんはちゃんとかつをだしの味がした。味はイマイチだったが、しばらく遠ざかっていたのでおいしく感じる。 食べ過ぎて翌朝下痢になったほどだ。しかもこの旅で初めての下痢。旅に出て、和食の食べ過ぎで下痢になるヤツもそういないだろう。


2005年11月29日(火)

 7:00、タシケント着。12月1日に飛行機でこの国を出なけらばならないので、再びここに戻る。
 前回行けなかった博物館・美術館等を回る。


2005年11月28日(月)

 そんなこんなで結局今日が6日目。なぜこんなに長く? 理由はいろいろだが、まず朝食付だということ。わりと美味いし、毎晩、次の日の朝食の 心配をしなくていい。また、街のどこへ行くにも10分の徒歩圏内という小じんまりさがいい。
 バックパッカーの間では、こうして一カ所にダラダラ長居するのを「沈没」というのだそうだ。数カ月沈む人もいるらしい。今回はせいぜい、船体が 傾いてちょっと浸水した程度だったが。
 18:45タシケント行き列車までの時間、ネットカフェなどでつぶす。
 列車は来た時と同じ二等寝台。向い合せの二段ベッドが僕のスペースだったが、そこに大きな荷物を抱えた若者が5人ほどドヤドヤと攻め込んできた。 チョコンと腰掛けた僕の回りを、わけの分からないウズベク語を投げ交わす男ばかり若者がズラリ取り囲む。僕のいちばん苦手とするパターンである。 案の定「ヤポーニャ?(日本人か)」「tourist?」などと話しかけてくる。もちろんそれなりにちゃんと反応はするが、一人だけの空間を期待していた こちらとしては煩わしいだけ。これが若者でなく年配の人なら多少違うが。まぁ、二等寝台だから仕方ない。この性格はどこに行っても治らない。


2005年11月27日(日)

 例のごとく寒かったが、毎日部屋でじっとしているのも不健康なので、アルク城という城跡へ。途中にあるバザールにも寄る。小さな街だからもう ほとんど見るものはない。明日の夜、タシケントに戻ることにする。ウズベクに来たならサマルカンドにも行くべきだったが、日程が中途半端になる からやめる。


2005年11月26日(土)

 と思ったら今日はムチャクチャ寒い。曇りだし、風もある。東京の真冬くらい。この先、季節が進めば更に寒くなる。どうしよう?
 結局外に出ず、ほとんど部屋の中で過ごす。テレビと本を取っかえ引っかえ。


2005年11月25日(金)

 それほど寒くもなく、オフシーズンで観光客も少なく、ホテルも安くて快適で(朝食付20ドル)、街は大きすぎず、車も少なく落ち着いていて、 趣深い。今回の旅で初めて、穏やかな気分でゆったり過ごす。あまりに気分がいいので、ウズベクワインを買ってきて部屋で開ける。この旅初めての ワイン、意外に美味のロシアチーズで。


2005年11月24日(木)

 いやぁすごいすごい。ははぁ、ふぇ〜、ほぉ〜、うわぁなんと。ブハラの街を歩いた印象である。いやぁもうだってあなた、街がそのまま中世なん ですから。タシケントは、メドレセなどイスラム建築は旧市街にしかなかったが、ここは街全体が旧市街みたいなもんで、イスラム建築がズラリだ。 茶色レンガの塀が続き、青タイルの巨大なメドレセがあちこち、そしてそいったものすべての輪郭できっぱり分け隔てられた青空。もう、ため息でしか 反応できない。みやげ物屋の店頭の英語表記以外はすべて、中世のままと思われる。
 カラーン・ミナレットとよばれる塔に昇る。46m。下を見おろすと足がすくむ。チンギス・ハーンは、自分を脅かしそうな実力者や罪人を、袋詰めに してここから突き落としたそうだ。古今東西、権力誇示の最大最適の方法は人殺しだ。
 地上に降りて塔の真下、そのとき血で真っ赤に染まったであろう、今では跡形もなく静かに薄茶をにじませる石畳を、じっと見つめる。


2005年11月23日(水)

 一晩寝て8時、ブハラ着。さて、ブハラなどと聞いても日本人にはさっぱりイメージが湧かないだろう。僕もガイドブックで初めて知った。このあたり で、中央アジアに関するメモを。例のように『地球の歩き方』からの抜き書き、ご了承願う。
 中央アジアとは、大きな大きなカザフスタンの下に東からキルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンがぶら下がった、5カ国から 成る地域。中国とカスピ海に挟まれ、南にはイラン、アフガニスタンが隣接する。
 紀元前よりこの地域は、西からアレクサンドロス大王、東から唐、南からアラブ、北からチンギス・ハーン、そしてロシアなど、侵略に次ぐ侵略で壮絶 な歴史を辿ってきたようだ。それにはシルクロードの真ん中にあるという地理的要因と、それによってここを制すれば莫大な富が得られるという背景が あった。
 そういう中でこのブハラは、中央アジアの中心都市として中世には大きく繁栄したといわれている。
 以上抜き書きだが、何しろ高校の世界史日本史の時間は8割がた目を閉じた非覚醒状態にあった僕なので、間違いがあるかも。その際はどうか遠慮なく ご指摘願いたい。実は西安・敦煌以降たどってきたルートはシルクロードだ。でもそういう意識はほとんどなく、人に「シルクロードを旅するんですね」 といわれても「ああ、そう言われてみればそうですね」と返すくらいの、単なる歴史オンチである。
 現実に戻す。駅からタクシーで15分、ブハラ市街へ。中央アジア特有のB&B(ベッド&ブレックファスト)と呼ばれるシンプルな宿を確保。


2005年11月22日(火)

 午前中、駅で今晩20時発のブハラ行き列車のチケットを入手、そのままタシケント市街をブラつく。
 「中央アジアの首都」という別名があるほどかなり大きな街。ビシュケクとは随分違う。ただ中国から渡ってくるとより強く感じるが、ビシュケクも ここも、だんだんヨーロッパの香り漂うように。
 クカルダシュ・メドレセというモスクに入る。ちょうどイスラムのお祈りの時間帯で、並んで一緒にやってみる。回りは男性ばかり200〜300人が ずらり(イスラム教では女性がモスクに入るのは許されていない)。
 まず真っすぐに立ち、顔は少し下向き、20秒くらいそのまま。次に上体をかがめ、両手を左右のひざに置き、すぐに直立に戻る。顔は正面。10秒ほど してから、両膝、両手、額を床に着けた後、上体起こして正座。再び額を床、すぐに立って最初の姿勢に戻る。
 これを4〜5回繰り返す。5、6分だ。この間信者たちはずっと、口の中でもごもごコーランを唱えている。僕が参加したのはこれだけだが、この前後の 儀式を含めるとトータル15分程度。リード役のひとりが唱えるコーランが、ガランとしたドームを照らすがごとく美しく響く。
 入口に書いてあったが、6:30、13:00、15:10、17:10、19:00の1日5回、これを繰り返すようだ。なんと信心深いこと。でもこれほど 信仰心の厚い人達が、なぜバザールやタクシーで観光客をだましてボッたくるのだろう? 不思議でならない。まさかコーランに「アッラーの神のため、 人を欺きなさい」と書いてはあるまいに。
 20:00、ブハラ行き夜行列車。


2005年11月21日(月)

 中央アジアでは、ビザの要不要は国によってまちまちで、キルギスは不要、ウズベクは必要。ただしどの国でも、5日以上滞在の外国人は滞在登録を する必要がある。入国した18日から数えて4日間の僕の場合でも「しておいたほうがいい」という助言を受け、午前中に登録オフィスへ。今日の午後に は出国するのだが。まぁ何が起こるか分らないから、やっておくに越したことはない。
 ところでキルギス人の顔は日本人そっくりだ。やはりこういう顔を見ると親しみが湧く。大昔、ふたつの民族は兄弟だったらしいが、本当か?
 午後、一昨日買っておいたタシケント行きのチケットを手に空港へ。15:40、今度は時間通りに飛んだ。1時間ちょっとで隣国ウズベキスタンの首都 ・タシケント着。
 そしてこのタシケントでまた同じことが。次のフライトチケットを買うために、空港〜市内の航空会社〜ホテルのルートを、客引きするタクシーに交渉 の結果4ドルで頼む。ところが頼んでもないのになぜか同乗してきた男が、航空会社のオフィスにもついてきて、窓口でチケットを買う僕の横から口を 出す。ホテルに着いてからほぉらきたきた、案の定この男が「チケット購入を手伝った手数料で10ドル出せ」とぬかしやがる。運転手もそれに加担し、 ウズベク語でまくし立てる。少しでもチャンスがあればここぞと金を要求する。まったくうっとおしいばかりだが、もちろんお断り申し上げた。こちらも だんだん慣れてきた。ホテル入口まで文句言いながら二人がついてきたが、ホテルのドアマンも助けてくれ、無事チェックイン。


2005年11月20日(日)

 ビシュケクの街を歩く。碁盤の目のように整然とした広い道路、灰色の建物、枯れた木々と落葉。穏やかな空気だけどなんだか味気ない。こういう 季節だから当然だが。15年前まではソビエトだったのだし、華やかなわけがない。おまけに中国がコテコテの国だったから余計にそう感じる。この ギャップの大きさ! でもオシュバザールに行くと、やはり人、人、人で活気がある。でもやっぱり中国よりきれいな気が。
 国立歴史博物館へ。石器、狩猟の道具、じゅうたんやユルタ(民族家屋)などが展示。別の階にはソ連時代の資料。あちこちにレーニンの写真や絵、 銅像。 
 夕食はホテル近くのレストラン。キルギス料理のプロフとショルポ。プロフはカシュガルでも食べたが、細切れの野菜と羊肉の入った油っこい炊込み ご飯。ショルポは、これまた細切れ野菜と羊肉を煮込んだスープ。キルギス料理は本当に油っこいが、中国人同様太っている人はほとんどいない。お茶 のせいだろう。ビールとサービス料含め155ソム、約450円。
 キルギスの通貨、1ソム=約2.9円。


2005年11月19日(土)

 外は何度かわからないが確実に氷点下だ。こんな中でもなんとか眠れるもんだと、少し驚く。5時間ほど寝て朝の7時、ここまで世話になったバスの 運ちゃんふたりに別れを告げ、タクシーで空港に向かう。
 実はタクシーを拾う前に、葛藤があった。
 当初の予定では、11月10日頃にキルギスに入り、陸路でカザフを経由してウズベクのタシケントに20日までには行く計画だった。だが前にも書いた が(11/8参照)中国滞在がカシュガルでさらに延び、このままだとウズベクでのビザが切れてしまう。速くて安全確実な飛行機を選ぶか、国境で面倒 な手続きのあるドロ臭い陸路にするか? 大いに迷ったが、オシュ〜ビシュケク〜タシケントを空路で行くことに。旅の疲れもたまってきたので、安全 策を選んだ。
 8時頃、オシュ空港に。10:30発のキルギスの首都・ビシュケク行きのチケットを購入。
 出発までの腹ごしらえ、空港内の小さなレストラン。テーブルはすべて埋まっていたが、おじさんがひとりだけのテーブルにすわらせてもらう。何を 頼んでいいか分らないので回りの様子を見ていたら、おじさん、店員を呼んでなにやら注文。すぐに揚げ肉まんみたいなのとお茶が運ばれてきた。一皿 に三つ。おじさん、僕にも食べろと勧める。ちなみにここまで二人はほとんど口をきいていない。僕が一つだけ食べると、おじさん、もう一皿頼み、 さらにお茶も注いでくれて、お金を払ってサッと行ってしまった。ごく普通の、60過ぎくらいの人だと思うが、カッコよかった。言葉の通じない右も左 も分らない場所で、こういう温かさに触れると気持ちがとても楽になる。ああいう大人にならねばと、思った。40にしてまだ大人じゃないのか? うん、そうかもね、惑ってばかりで。  もうひとつ、これは可愛い温かさ。待合室で小さな子供が4人、風船で遊んでいた。それを見て、日本から持ってきた紙風船をあげた。喜々として戯れ ていた。するとひとりがお礼にペンダントをくれたのだ。ほんの5〜6歳の子供がこんなことをしてくれる。さっきのおじさんと同じくらい感動した。
 片手に載るくらいの小さな紙風船。最近はしなくなったが、以前は海外ツアーの時必ず荷物に入れ、現地で世話になった人にプレゼントしていた。軽 くてかさばらず、日本のお土産として大人子供を問わず喜ばれる。今回はたくさん持って来たのだ。
 ところでフライト、10:30近くになってもなかなか搭乗案内がない。するとさっきのおじさんがスーッと近づいてきて「悪天候で出発が少し延びそう だ」と身振り手振り。またもやだ。この辺りは山が多く、天気が不安定。それにしてもおじさん親切。少し話し込み、カタコト英語で「アメリカに娘や 息子が住んでいる」と。ひょっとしたら僕に息子の面影を見たのか。アイパッチしてたりして。まさか。いやいや世の中広い、いろんな人がいるのだ。
 ところでそのフライト、延びる延びる。11時に、12時だ、いや13時だよとなって、結局飛び立ったのは14:30。予定通りにならないのが旅だ。 だってtravelの語源はtroubleなのだから(と思う)。
 1時間後、ビシュケクの空港。その場ですぐにタシケント行きの便を手配しようと試みたが空港では叶わず、街に出て21日の便を買うことに。
 ところで空港に降り立って航空会社のオフィスを探し回っているあいだ、トルコ人のタクシーの客引きがずっとしつこくついて回り、うっとおしかっ た。でもオフィス探しなど手伝ってくれたので、街まで彼のタクシーに乗ることにした。値段交渉でもめたが、空港〜航空会社オフィス〜ホテルという ルートを、10USドルの要求を8USドルにまけさせた。でもその金額が気に入らないらしく、車中で「ヘィ、エアポートtoシティ、ロングディスタンス、 but、ユアマネーisスモール!」とか「キルギスガール、ベリーグッド、セックスセックス!」といって手と腰を動かすなど、下品でうるさい。ホテルに 着いて車を降り、8ドル渡すと「プリーズ、ワンモアダラー!」としつこいので「おまえさっき空港で、8ドルでOKって言っただろ!?」と振り切って ホテルへ。二度と顔を見たくない。
 あーいうこともあれば、こーいうこともあるのが、旅。


2005年11月18日(金)

  バスが出た。定刻より1時間遅れて12:00、とうとう中国から離れられる。到着はキルギス南部、ウズベキスタンとの国境に近いオシュ。 何時到着かは不明、でも多分12〜15時間くらいだろう。僕のカンでは、この国境越えが今回の旅で3番目に緊張度が高い。1〜4番までランキング があるが、それはこれから出てくる。
 3時間ほど走ると中国側の国境検問。パスポートや荷物チェックなどがあるが、それほどややこしくはない。が、バスの乗客7人と運転手2人分の 時間がかかり、段取りも悪くて通過に1時間以上要した。30分ほど走って今度はキルギス側の検問。ここはスムーズ。でもこの検問以降も3度ほど バスは止まり、その度にパスポートチェック。うんざり。陸路での国境越えは、行き来が自由なヨーロッパの鉄道以外では初。
 それはともかく、雪道を走るバスの窓から見えるのは「世の中にはこんなにすごい景色があったのか!」とぶったまげてしまうほど美しく、素晴らし い風景。日没時、雪を被った山脈の上に青黒い空、その境目あたりにキラと光る星。バスを降りて、雪の中に足を突っ込んででも堪能したかった。
 キルギスの検問を出たのは16時。地図上だとほぼ半分来ているから、オシュ着は20時くらいだろうと予想したが、大きな間違いだった。降り積もった 雪は中国側よりも多く、おまけに道路は未舗装。ゆっくり走らざるを得ず、オシュ着はなんと朝の4時。カシュガルから17時間もかかった。キルギスは 中国よりも3時間遅い時差で、つまり夜中の1時にバスターミナルに着いたわけだ。ここは街の中心から離れていて、近くにホテルなんかない。仕方な く、暖房の効かない車中で、麗江で買っておいた毛糸のタイツと長ソデ肌着、その上にズボンと長ソデシャツ、セーター、さらにジャンパーを着、 そのまま布団にくるまって寝る。寝台バスでよかった。

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