伊藤キム+輝く未来ロゴ

●キムは今・・・


[2005年12月1日〜14日]

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2005年12月14日(水)

 明日、テラヴィという、車で3時間ほどの近郊の村へ行くことにした。近くの旅行代理店で現地の宿の手配を頼む。数日前に打診のため一度出向いたのだが、 今日行ったら「日本からの、特にダンサーのために安い宿を用意しておいた」と。どこまで本当かわからないが、覚えていてくれたのは悪い気がしない。
 で、そこのオヤジが「日本から来て、毎日ここで何してんだ?」というので「歩き回ってます」と返すと「歩いてる? 女もなしで?」。これには「いゃー、はっ はっは」と笑うしかなかった。
 ところで歩く以外にしていたことがある。いや女じゃなくて、ワイン。以前、吉祥寺の山田せつ子さんのレストランで「キム君、グルジアワインというのがある んだけど、飲んでみる?」。彼女に勧められ、ワインといえばフランスやイタリア、チリくらいしか知らなかった僕は、その重厚な風味に魅了された。実はバクー にいる時から、グルジアでこれを味わうのを密かに楽しみにしていたのだ。だからこんなに長くいるんですな。8日間で4本空けた。ワイン浸けの日々。


2005年12月13日(火)

 街を歩いているといろんなものに出くわす。まず古着屋が多い。どれも小さな小さな店構えだが、そこらじゅうにあって、中に入っても見ていて飽きない。 日本から持ってこなかったマフラーを買った。
 それと当たり前だがグルジア文字。でもこれが読めない。絶対に。アルファベットでもアラビア文字でもなく、見たこともない字体。ラテン系の言葉やロシア語 なら慣れれば少しは判るものだが、グルジア文字はまったく手がかりつかめず。
 男と女が腕を組んで歩くのはヘンでもなんでもないが、ここでは男同士のそれが時々見られる。一見、そちら系の人には見えないが。いやいや、聞いてみなけりゃ わからない。誰か代りに聞いてみて。
 そして物乞いの数も多い。薄汚れた格好で道端に座り込んでいる小さな子供。前を通るとサッと擦り寄ってきて「マネー、マネー」とせがむ。少し歩くと今度は、 片手を弱々しく突き出したまま、小声でなにやら呟いて歩道にたたずむ老婆。手の平には誰かが置いたコインが数枚。紛争地域からの難民かもしれない。
 こういう光景を見て、哀れに、可哀想に思わなくはない。でも金は一切渡さない。キリがないからだ。彼らには彼らの運命があり、僕には僕の運命がある。
 だがここでは、通りや地下鉄でそういう老婆や子供に施しを与える光景がよく見られる。先日のエレンさん宅で聞いた「お互いの関係が大切」というのがここでも 生きているのだろう。


2005年12月12日(月)

 グルジア人は親切だ。道を尋ねると実に丁寧に教えてくれ、場合によっちゃ少し歩いてその場所まで連れて行ってくれる。エレンさんの家に行った時もこの パターンだった。レストランや商店、オフィスなどでもみんな笑顔で対応してくれる。この旅で一番親切にしてもらっている気がする。「店員が笑顔」がここまで 徹底しているのは日本以外では知らない。
 それとグルジア人、特に年配の人は男女に限らず体がでかい。タテに、というより前後左右にだ。太っているというのと違っていわゆるガタイがいい感じ。 そういえば町中のポスターや新聞で、オリンピックの重量挙げや「world's strongest man」とかでグルジア選手が好成績を残していると紹介されている。あと、 黒海という力士はここの出身ではなかったか? この体格は伝統なのか?


2005年12月11日(日)

 朝、ひどい下痢だった。飲み過ぎるとお腹が緩むタチなのだ。少し胸焼けもする。そりゃあだって、すきっ腹にいきなりウォッカ。お腹もびっくりするだろう。
 少し痛む胃を抱えながら夜、オペラ劇場でヴェルディの『レクイエム』。普通のいわゆるオペラではなく、オペラ・コンチェルタントといってコンサート形式の オペラ。舞台にデンとオーケストラ、その背後に合唱団、客席側にソリストと指揮者。全く知識がなかったので馴染みの旋律もなく、美術も照明も衣装もなく少し 退屈。知っている曲ならまだよかったが。
 客席にはグルジア大統領ミハイル・サーカシュヴィリ氏の姿も。ちなみにこの人、ものすごく若く見える。後でわかったが、37歳だって! 就任時が35歳、世界 で最年少の大統領らしい。ちなみにこの人の前任がシュワルナゼ、元ソビエト外相だ。それにしても思い切って一気に跳んだもんだ。
 ところでグルジア人の名前、語尾に「シュヴィリ」が非常に多い。聞いてみると「〜の子」(男女問わず)という意味だと。バレリーナのニーナ・アナニアシュ ヴィリもここの出身だそうだ。


2005年12月10日(土)

 こちらで買ったガイドブックに興味深い油絵が出ていたので、地下鉄に乗ってギャラリーと思しきその住所まで行ってみた。するとそこはギャラリーでもなんでも なく普通の家、その画家の自宅だった。本人のエレン・ガンゴニゼさん、兄弟、その婚約者、そしてエレンさんの母親。みんなでにこやかに迎えてくれた。早速エレ ンさんは、家中に飾られている絵を(30〜40枚はある)、各部屋を回りながら片っ端から解説してくれた。兄弟が英語を話すのでその通訳付で。
 彼女の絵は黒を多用し、宗教をベースに、人間の暗部を暴くようなグロテスクなものが多い。
 作家の解説付きという贅沢な鑑賞を終え、ありがとうございます、じゃあこの辺で、と引き上げようとすると
「No,No,No,お茶でも飲んでいきなさい」と、お茶までごちそうしてくれた。家族総出のもてなしだった。何の連絡もなく突然、しかも異国の見知らぬ男が訪ねて いったのにだ。僕がそのことに驚いていると「グルジア人は、お互いの関係をとても大切にするんです」と。単純なことだが、なかなか真似できない。
 世界一周旅行をしている、日本ではダンスの仕事をしているなど話し、彼らからはソビエト時代との違いなど聞く。
 そして勧められたのはお茶だけではなかった。「グルジアには『チャチャ』というウォッカがあって、ロシアのよりも強いんだ。飲んでみる?」と。はっはっは、 こりゃまたまた、滅多にない機会、もちろん「ハイ」。小さなグラスに並々と注いで乾杯。グルジア語で「ガオマルジョス!」。が、文字通りの乾杯で、一気にグラス を空けねばならない。匂いを嗅いだだけでもかなりキツイ。45度だって。みんながやるのでこちらもやらないわけにはいかない。
 乾杯は何回でもする。そして毎回「家族に」とか「平和に」とか、彼らは必ず何か祝う対象を告げる。「じゃあ次は君の番だ」ということで、僕は「このウォッカ に乾杯」と告げて笑いを誘った。しばらくしてエレンさんが「なぜ芸術に乾杯って言わなかったの?」と。う〜ん、これには何か理由があるような・・・後日書こ う。
 で、なんだかんだで3杯ほどいってしまった。
 記念写真を撮り、お礼と別れを告げ、帰路につく。夕方6時、外はもう暗い。地下鉄に15分ほど乗ってホテル近くに戻り、レストランでサラダとビールの夕食を とり、部屋に戻った。不思議と、前後不覚になるほどには酔っていなかった。が、着替えてベッドに腰を下ろした途端、意識がなくなった。


2005年12月9日(金)

 この数日、とにかく歩き回った。新市街に旧市街、美術館・博物館、そこらじゅうにある教会。そう、これまでの街と違い、ここではイスラム色がすっかり消え 去っていて、モスクはない。ほぼ完全なヨーロッパ世界。カシュガル以降、1カ月近くイスラムの匂いを嗅いできたから実に新鮮。そうそう、ヨーロッパってこうだ よなぁと。
 もちろん旧ソビエトだから、西ヨーロッパほどの華やかさはなく、以前公演ツアーで行ったクロアチアになんとなく似ている。そしてトビリシは、丘陵の谷を流れ るムトゥクヴァリ川を挟むように街があり、起伏のある街並みは歩くだけで山や川、教会の塔などいろんな風景が楽しめる。フランスのリヨンを古臭くしたような 感じも。


2005年12月8日(木)

 アルメニア大使館でビザの申請。次はこの国なので。7営業日待って51ドル、21日間のビザが取れる。3日待ちとか5日とか、もう少し早く取ると料金は上がる。 特に急ぐ必要もないので一番安い方法で。まぁその分ホテル代はかかるのだが。でもこの街でゆっくりのんびり過ごそうと腹を決めたのでOK。


2005年12月6日(火)

 コンパートメントにベッドがふたつ。同室の彼はアゼルバイジャン人だが、この辺の人には珍しく流暢な英語。International Crises Groupという、政情不安定な 国に出向いて選挙の監視をしたりするNGOに勤めているらしい。アゼルバイジャンはカスピ海と石油以外何もないとか、アゼルバイジャンとアルメニアは国家単位の 仲は悪いが市民同士はフレンドリーだとか、グルジアはその二つのつなぎ役だとか、ペラペラよく喋る人で面白い話がいろいろ聞けた。やはりこの国は石油でもって いるようだ。
 グルジアの印象を尋ねたら「バクーのような目新しさには乏しい。古くさい、ロシア的なところだ」と。ビシュケクみたいなのか? 少し気が重くなる。
 アゼルバイジャン側の検問に着いたのが朝の7時半頃で、パスポートチェックのみ。15分ほどで列車は動き出す。でも次が長かった。
 グルジア検問着、8:50。僕たちはパスポートチェックだけで済んだが(ビザ不要)、大きな荷物をたくさん抱えた二等車の客のチェックが長くかかった。 「彼らはグルジアにたくさん商品を持ち込んで売るんだけど、そのチェックに時間がかかるんだ。この前なんか5時間もかかった」と同室の彼。そして「トビリシま でそんなに遠くないから僕はここからタクシーに乗る。2人で乗ればひとり10ドルもかからない。どうする?」と聞かれたが、断った。別に急ぐ理由もないし、 まさか5時間なんて。今回は大丈夫だろうと。
 荷物をまとめて出て行く彼を見送る。回りのコンパートメントからはしびれを切らした人たちがどんどんいなくなる。この車両、とうとう僕だけになってしまった 。隣の二等にも客はいない。「この列車、ホントにトビリシまで行くのか? ここが終点なんじゃないか? でも車掌はそのままいるし・・・」などと不安になり ながら待つこと5時間。13:50、本当にきっかり5時間後、列車は動き出した。彼の言う通りだった。あまりに正確に5時間、ひょっとして最初からそう決まって いるのでは?
 14:50、やっとトビリシ着。ホッとした。この列車、運転は毎日だから、こういう不安定なスケジュールが毎日続いているはず。でもそれで何とかなっている のだ。のんびり、あまりにものんびりだ。
 駅から地下鉄に乗り4つほど、ガイドブックに出ている安めのホテルを探し当てチェックイン。朝食付で50ラリ。1ラリ=約50円。


2005年12月5日(月)

 グルジア行き列車は夜なので、ホテルをチェックアウト後、例によって時間つぶし。カスピ海をクルーズする遊覧船など。なにしろ大きな湖なので、いったん岸 から離れると波立たない水面以外特に見るものはない。島もないし。はるか遠くを行くタンカーや、岸辺の石油採掘場の火が小さく見えるくらい。船上でイチャつく カップル達と味気無い30分を過ごしたあと(彼らにとっては濃厚な味だったろうが)、岸に戻り、釣糸を垂れるおじさんたちを眺めたりして過ごす。
 どうでもいい話だが、たまたまクリーニング屋を見つけたのでコーデュロイズボンとセーターを頼んだ。ホテルで出すと高いからと思って町中でやってみたが、 なんと両方で40000マナット、約800円。日本とあまり変わらない。他の物価は日本の半分以下なのに。理由は不明。それにしてもここのお金はゼロが多くて混乱 する。銀行で両替の時など、前の人が数センチの厚みの札束を窓口にドサッと積み上げる光景がよく見られる。それで代りに受け取るのはほんの数枚のドル札だ。 数えるのにも時間がかかるし、効率の悪いことこの上ない。早くデノミを(と思っていたら、来年から数え方が変わるらしいことが判明)。
 もうひとつ。「ツァラトゥストラ」は「ゾロアスター」の古イラン語読みというのが判明した。同一人物だった。少し感動。なにせ歴史オンチなもので。
 20:25、バクー駅をグルジアの首都・トビリシに向け出発。今回は一等寝台。約12時間らしい。「らしい」というのは、駅にもチケットにも所要時間の表示がな いから。地図上の距離や、周りの人に尋ねてみた。


2005年12月4日(日)

 バクー駅から列車で50分、ゾロアスター教の寺院へ。拝火教ともよばれ、祭壇のような建物の中央に火がメラメラと燃えている。この地方は石油とともに天然ガス が多いらしく、ならではの宗教だ。火は何世紀にもわたって燃え続けているという。スタイルは違うが、比叡山の延暦寺に行った時、やはり本堂で千年以上灯され 続けているという火を見たことがある。焚火を見ていて飽きないように、そして宗教になってしまうほど、なぜ人間は火に魅了されるのだろう。自ら光を放つとい う、我々には真似のできない力を持っているからだろうか。
 以前見たパラジャーノフの映画に、これと同じようなシーンがあったが、彼は隣国アルメニアの出身とわかって、納得。
 明日、グルジア行きの列車に乗ることにした。駅で寝台切符を購入。


2005年12月3日(土)

 アゼルバイジャンはロシア以外にトルコの影響が強く、国旗のデザインにもトルコ国旗があしらわれているほどだ。街のあちこちでトルコ語とトルコ料理店が 通りを賑わせ、店のスピーカーから流れるアラビア音階がそれに花を添える。
 だが街の雰囲気はかなりヨーロッパ的でもある。1600キロ(北海道〜九州くらい)を一気に飛行機で西にまたいだのだから当然といえば当然だが、ウズベクや キルギスはイスラム色が強く、発展途上のアジアという感じがする。こうしてみるとやはりカスピ海の向こうは「中央アジア」なのだ。
 裏道を歩く。二階の軒先が通りに突き出し、洗濯物をたなびかせている。両手に買い物袋を提げたふくよかなおばあさんが、ヒョコヒョコ歩いていく。子供が 数人、歓声をあげて走り回っている。狭くて起伏のある路地。あちこちに猫の姿。なんだかパリの裏道を彷彿とさせる。
 道路を走る車にも、ベンツやBMWがチラホラ。ビシュケクやタシケントではそうは見かけなかった(中国には溢れていたが)。道行く人の身なりもきれいで、 質の良さげで高そうな服を着ている。何が違うのだろうか? やはり宗教か? 中央アジアもここも、ロシアからの独立は90年代始めでそう違いはないはず。そう いえばガイドブックには「バクーはカスピ海の油田採掘で発達した」とある。オイルマネーか? 詳しい人がいたら教えてほしい。
 散歩の途中、小雨が。久し振りに雨の匂いをかいだ。ずっと雨の降らない、乾燥した土地にいたから、とても懐しい気がした。


2005年12月2日(金)

 泊まったホテルは湖沿いにあるから、歩いてすぐだ。湖は市街地に面していて、湖岸は砂浜ではなく整備された海岸公園になっている。少し強めの風を受けながら 岸に立つ。対岸はイランやカザフスタンだが、もちろん見えない。まさに海だ。交通が未発達の昔、人はこの湖の大きさを誰かに伝えるのに、両手両目をこれでもか と大きく広げたに違いない。
 たまたま街でポスターを見かけたバレエの公演に。「アゼルバイジャン国立オペラ・バレエアカデミー劇場」と、れっきとした国立歌舞団だ。その日の演目は オペラはなく純粋なダンスのみで、50人ほどのダンサーと5人ほどの主役たち。古典ではなく新作らしい。プログラムがアゼルバイジャン語でタイトルが分からず、 隣の客に尋ねると『愛と死』。純情そうな青年と女性が恋に落ち、それを邪魔する者が現れ、さらにそこに民族間の争いが絡み・・・ありふれたストーリーだ。 ひょっとするとこの地に伝わる物語をベースにしているのかもしれない。バレエを基本に、アゼルバイジャン舞踊(と思われるもの)やトルコのベリーダンス(この 国はトルコとの関係が深い)などの要素。特徴ある振付や主役級のダンサーには目を見張るものがあったが、演出そのものは退屈。話が話だけにそうなるのも無理も ないだろうが。でも、ほぼ満席の客席からは拍手が盛んに送られていた。


「世界が展示室〜日常、非日常」
 そういえば、いわゆる舞台公演を観るのはこの旅で初めてだ。開演前のベル、舞台を縦横に動くダンサー、それを照らす照明、会場を包む音楽、着飾った観客の 拍手。久しぶりに「劇場」を味わった。まるで自分の家に帰ってきたような気分だ。これまで、舞台や稽古場が僕の日常空間だった。けどそこから離れ、ホテルの 部屋や街・列車の中という、僕にとっては非日常の空間に自分を放り出して数週間。それが今日また、日常に触れた。「自分がいるはずの現実」を目の当たりにして とても懐しく、安心感すらおぼえたのだ。
 ここ数日僕につきまとっていた「ひとり旅の不安」が、こういう形で消えるとは思いもよらなかった。たまたまフラッと入った店で、古い友人にバッタリ出会った ような。が、会場を出て街に足を踏み入れた途端、非日常が、しかも馴染みのない異国のそれが覆いかぶさってくることになっている。


2005年12月1日(木)

 とうとう12月だ。そしてとうとう、カスピ海を越える日がやってきた。
 中国のあと、昨日までの中央アジア巡りはキルギスとウズベクの2カ国だけだったが、本当はカザフも回る予定だった。東京でビザまで取っておいた のだが、日程の都合でどうしても叶わなかった(タジキスタン、トルクメニスタンは治安の事情で最初から除いていた)。でもカザフはより高い緯度に あり、いま思えば行かなくてよかったという気も。軟弱キム。
 タシケント空港、12:45、アゼルバイジャンの首都・バクーに飛び立つ。
 小学生のころから地理が好きだった僕は、ある日社会科の地図帳を眺めていて驚いた。ソ連の少し下に、大きな水色のエリアがある。どの海ともつな がっていないから湖のようだ。その水色を日本列島と比べると、なんと同じくらい大きいではないか。「世の中にはこんなにバカでかい湖があるのか!」 と感動したのをはっきりと覚えている。だって横幅のいちばん広いところが、本州のいちばん広いところ、千葉の銚子と能登半島の輪島のあいだよりも 広いのである。ちなみにこれは東京〜大阪に匹敵する距離だ。
 その日以来僕は「いつかあのカスピ海をこの目で見てみたい」と、静かで熱い夢を抱き続けたのだった。
 バクーまでのフライトは2時間半、その後半で湖の上を通る。上空からの眺めを楽しみにしていたが、あいにく雲が覆って湖面は見えなかった。 明日に期待。

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