伊藤キム+輝く未来ロゴ

●キムは今・・・


[2005年12月15日〜31日]

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2005年12月31日(土)

 一年が終わる。今年はああだったこうだったと、回想して書けなくはないが、止めておく。言葉にすると陳腐になってしまいそうで。胸の奥底にしまっておこ う。
 でも、いろんな意味で節目の年になったのは確かだ。
 午前0時、外はクラクションと爆竹、歓声が鳴り止まず。僕はベッドで文庫本のページを繰る。


2005年12月30日(金)

 バスで国境を越えトルコに入ると、それまでの舗装されていない穴だらけの道が、すべすべのアスファルトに変わっていた。それもそのはずだ、中国に始まった 旧共産圏から初めて抜け出したのだから。そういうわけでここはいままでのどの国よりも発展が進んでいる。トラブゾンのような地方都市にしてそうだ。
 一日に5回ほど、モスクのスピーカーから、街全体を包むようにコーランが流される。でも街の雰囲気はあまり宗教がかってはいない。文明が宗教を圧倒してい る。
 中心からバスで20分ほど、「アタテュルクの家」へ。第一次大戦後、国を建て直したムスタファ・ケマル・アタテュルクが、全国各地を訪れた際に滞在した家が、 そのまま残されていて、ここトラブゾンにもある。
 丘の上の、小じんまりとした、品のいい別荘といった風情。テラスからは黒海が見渡せる。
 カスピ海同様、こちらも「海」となっている。「湖」とよばれないのは、対岸が見えないほど大きいからだろう。島もなく、美しい水平線が、水の青と雲の白を 切り分けている。ほんとうにきれいな直線。その向こうにはロシアが鎮座しているはず。
 新しい靴と、小型のリュックを買う。靴は東京で3年ほど前に買ったのを履いてきたが、底のゴムが裂け、水がしみてくるようになった。麗江で買った400円くら いの安物リュックは、安物らしく見事にファスナーが壊れた。今度はちゃんとしたのを。
 ちゃんとしているだけあって、どちらも値段は日本とあまり変わらず。


2005年12月29日(木)

 昨日昼の12時、無事バスが出る。雪化粧の山々を左右に見ながら走り、グルジア、トルコそれぞれの検問は問題なく通過。目的地のトラブゾンは黒海に面してい るので、登った山は下りねばならず、途中でタイヤチェーンを着け、時速20キロくらいのゆるゆるスピードで坂道を下る。当然、時間がかかる。
 結局トラブゾン着は午前3:30。時差の関係で、実際に要したのは17時間半。出発前のトラブルに始まり、雪山、国境、のろのろ、所要時間、すべてがカシュガ ル〜オシュに酷似。バスの不思議な因縁を感じた。
 ただ、前回のような寝台ではなく普通の座席だったので、身体的にはかなりきつい。もちろん途中で何度も休憩はあったが、退屈を紛らすためか、他の7〜8人の 乗客は途中で酒を飲みはじめ、かなり盛り上がっていた。僕も少しだけもらったが、ほとんどは例のごとくひとりポツン。
 トラブゾンのバスターミナルで、タクシー探しのため警察の詰所を訪れたら「ホテルまで行くなら、送ってあげるから車に乗りなさい」と、警官3人とともに、 脇腹にPOLISと大書きされたバンに乗る。つまり警察に「護送」されたのだ。真夜中だったからだろう。ありがたかったが、面食らった。
 乗ってきたバスには、トルコの旅行会社で働いているという、きちんとした格好のビジネスマン風体のおじさんがいて、英語ができるからトルコの情報をいろいろ 教えてもらう。休憩時にはチャイをおごってくれたり、車内でも「大丈夫か? 何か困ったことはないか?」などと気遣ってくれる。ガイドブックに「トルコ人は 親切」と強調されていたが、このおじさんといい、警察といい、初日でいきなりそれを味わった。


2005年12月27日(火)

 怒りと絶望感をこらえながら、バスターミナルヘ向かう。旅行社に抗議して日付の変更をしてもらうためだ。
 係員の女性は英語ができないので、どこからか英語のできる男がやってきて通訳に入った。
 日付の変更はできないというので、じゃあキャンセルしてお金を返してくれというと、それもできないと言う。「日付を勘違いしたのはそっちのミスであって、 僕の責任じゃない」「でもお金は返せない」。回りにいた他の社員数人も加わって、そっちだ、いやそっちだの押し問答が続く。そしてしつこく食い下がった結果、 観念したのかやっと25ドルを返してくれた。
 それを握ってすぐに隣の旅行社に行き、明日28日12時の便を予約する。が、受け取ったチケットには「27日」と書いてある。またか! 指摘したらすぐに直して くれたが。
 同じことが二度も続けば、外国人客相手にバスターミナルぐるみで詐欺を働いているんじゃないかと勘ぐりたくなる。単なるミスだと思いたいが。
 人を信用することも大事だが、疑わざるを得ない場合もある。
 どうすればいいのかわからなくなってきた。

「世界が展示室〜のけもの」
 北京で見たその少女は、雑踏の中で、路上に置いた一畳ほどの板の上に腹ばいだった。下半身が動かないらしく、上体だけ起こしていた。体には毛布が掛かってい たが、足首から先がちらっとのぞいていて、見るとその足は、ボロボロで斑点だらけで、壊死しているようだった。
 麗江の男は、路上に寝ている、というより転がっているというほうがふさわしく、半裸で片腕片足がなく、その、途中で切断された足の付け根をずっとブルブル 震わせていた。
 トビリシの地下道で、乞食の男が何かわめいていて、人だかりができていた。その中心には、倒れたまま動かないもうひとりの男が、口から食べ物を吐き出した ままだった。わめている男は「こいつ、死んじゃったよぉ!」と叫んでいるように聞こえた。
 一介の旅行者の僕は、ただ見過ごすしかない。見て見ぬふりをするしかない。いや、仮にそこに住んでいたとしてもだ。多くの人がそうであるように。
 トビリシ駅でこんなことがあった。
 アルメニア行きの切符を買うため窓口で手続きをしていると、駅を根城にしているらしき子供の乞食が数人寄ってきて、僕の腕やリュックを引っぱって金をせび る。分厚いガラス板の向こうの、係員の聞き取りづらい英語を把握するだけでも面倒なのに、子供たちがあまりにしつこかったので、ついカッとなって日本語で 「うるさい! 向こうに行け!」と、切符売場のホール全体に響き渡るくらいの、自分でもびっくりするような大声で、怒鳴った。子供たちはしばらくブツブツ言っ ていたが、いつの間にかいなくなり、僕も「やれやれ」と思っていた。
 でも数日後、そのことをふと思い出して「しまった!」と思った。彼らが怒鳴られたのは、しつこかったからじゃない。貧しかったからである。貧しいというだけ で怒鳴られる。こんな理不尽があろうか? しかも子供。
 貧しいというだけで、身体が不自由というだけで、おとなしいというだけで、怒鳴られ、忌み嫌われ、いじめられる。こんな理不尽があろうか? 
 彼らを救うのも人間だし、一方でその理不尽を作り出すのも人間。
 グルジアに住むあの子たちの心に、遠い国から来た、目を剥いた鬼のような形相の僕が、ザックリと刻み込まれたのだと思うと、無念でならない。夜、そんなこと を思ってベッドに入ったら、涙が溢れた。次の日、例の風船を渡そうと思って駅に行ったが、それらしき姿はなかった。 
 でもこれは一介の旅行者の、偽善なのかもしれない。


2005年12月26日(月)

 ホテルをチェックアウト、ネットカフェなどで時間をつぶしてから、タクシーでバスターミナルへ。が、ここでトラブル発生。運転手らしき男にチケットを見せる と「これは昨日のだから使えない」。バカな、と思ってチケットを見ると「12月25日」となっている。昨日僕はバスターミナルの旅行社で「明日のチケットを」と 言って25ドルを払ったのに。係員が勘違いしたのだ。もらったチケットをきちんと確認しなかった僕も悪いが、向こうのミスは明らか。目の前のトラブゾン行きは 出発時刻になってもビクとも動かず、他に客は誰もいない。運転手によると、そもそも今日はバスが出ないらしい。
 なんてこと!
 仕方なく、タクシーでホテルに引き返し、もう一泊することに。カシュガルでのあの日を思い出し、真っ暗な気持ちでベッドに入った。


2005年12月25日(日)

 13時すぎ、トビリシ駅。雪まじりの小雨。前回とは別のホテルにチェックイン。すぐにバスターミナルに足を運んで、トルコの黒海沿岸の街・トラブゾン行きバス チケットを購入。出発は明晩22:00。
 今日初めて、物乞いに金を渡す。なにも信念を曲げたわけじゃない。ラリが余ったからだ。なんだそんな理由かと思わないでほしい。お金というのは、使うべき人 の手に握られなければ意味がない。資産家の1億円だろうが、乞食の1ラリ(50円)だろうが同じこと。僕は偽善が嫌いだから、人助けをしたなどとは思っていな い。単なる経済活動をしたまで。
 食事をしてホテルに戻ってシャワー。テレビをつけるとBBC。ローマ法王やエリザベス女王がクリスマス・メッセージを喋っている。インド洋の津波、アメリカの ハリケーン、パキスタンの地震、ロンドンの同時テロ、そして今日またバグダッドで爆弾テロ。
 今年も残りわずかだ。


2005年12月24日(土)

 なぜトビリシに戻るのか? 次の目的地はトルコなのだが、アルメニアからは行けない。歴史的に両者の仲は悪いらしく、国境が封鎖されているのだ。情報は事前 に日本で仕入れておいた。
 地図を眺めていて気付いたが、この旅で立ち寄る街としてはエレバンがバグダッドに最も近い。約800?、東京〜札幌くらいの、近からず遠からず。ゆうべのTV ニュースに、バグダッドで法廷に立つサダム・フセインの姿があった。
 エレバンにはもう少し長く滞在するつもりだったが、結局5日間。短くなった理由は、なんとなく。しいてあげれば、朝食のない、バカでかくて殺風景なホテル、 太陽があまり顔を出さず、どんよりした天気。どちらも、たまたまそうだっただけの話で、けっしてこの国が気に食わなかったわけじゃない。現にトルマは美味かっ たし、美人も多かったし。旅なんてこんなもんだ。
 同じコンパートメントのタマラさんは、旦那さんがエレバンの大学で天文学の教授をしているという、初老の上品な女性。アルメニア人とじっくり話すのは初めて なのでいろいろ質問してみた。

Q「ソビエト時代と比べて今はどうですか?」
A「私たちの世代には、ソビエト政府がすべての面倒を見てくれていた昔のほうが良かったかもしれない。だって独立後の一時期、電気のない生活が5年も続いたん ですよ」
 想像を絶するその5年の闇は、ソビエト70年の闇よりも深かったのかもしれない。
 「ただ私の娘は、今はアメリカの大学で教師をやっていたりして、若い世代にとっては良かったんだと思う」

Q「アルメニアの歴史がそうであるように、隣国と陸続きというのは、常に危機に直面している気がしますが、そういう『恐れ』を感じますか?」
A 少し考えてから「私は親類がグルジアやロシア、ポーランドにいて、そういう環境にあるからかもしれないけど、あまり恐怖というものは感じない」
Q「でもあなたと違って、アルメニアしか知らない生粋のアルメニア人はまた別なのでは?」
A「うーん、そうでもないと思う。今はトルコとの関係、それとナゴルノカラバフをめぐるアゼルバイジャンとの関係がおもわしくないだけだから」

  Q「グルジアには教会がたくさんあって、みなさんとても信心深いですよね?」
A「ハハハ。でもね、ソビエト時代あれほど宗教から遠ざけられていたのに、独立したら急に宗教ベッタリ。私にはちょっと不自然に映るわね」

 これら彼女の答えだけですべてを把握するつもりはないし、僕のようなバックグラウンドを何も知らない人間が、短い時間でひとつの国家や民族を理解するのは 到底無理な話だが、生の声を聞くのは、勝手な思い込みを正し、その世界を知る手がかりのひとつになるのは確かだと、実感した。
 寝台車で過ごす、歴史の果てしない重さを感じた、クリスマス・イブ。


2005年12月21〜23日(水〜金)

 アルメニア大使館でビザの申請。次はこの国なので。7営業日待って51ドル、21日間のビザが取れる。3日待ちとか5日とか、もう少し早く取ると料金は上がる。 特に急ぐ必要もないので一番安い方法で。まぁその分ホテル代はかかるのだが。でもこの街でゆっくりのんびり過ごそうと腹を決めたのでOK。


2005年12月20日(火)

 グルジア側で3時間、アルメニア側で1時間の検問停車。特に問題なく国境を越える。いくら紛争の多い地域とはいえ、毎日ドンパチやってるわけじゃない。
 同室のオジサン、恐ろしく腹がでかい。小さな子供がひとりくらい入りそうだ。いったい何を食べるとこうなるのだろう? 荷物も大量で、ワインの箱をたくさん 抱えている。どうやら商売人らしく、何かブツブツ言いながらぶっとい指で小さな電卓を叩いている。
 9:30、エレバン着。例によって地下鉄で、地図を頼りにガイドブックの宿にチェックイン。


2005年12月19日(月)

 今日はアルメニアへ向かう日。ではこの辺で例によって地理と歴史のウケウリガイド。
 アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアはコーカサス地方とよばれ、西の黒海、東のカスピ海、北のコーカサス山脈に囲まれ、南はトルコ、イランのイスラム 世界に接している。
 旧ソ連の共和国時代はもちろん、その前のロシア時代、さらにその前にはペルシャなどイスラム諸国、こういった異民族の侵略を受け続けてきた地域で、現在でも コーカサス山脈北の、ロシアからの独立を求めて過激なテロを繰り返す「チェチェン共和国」(グロズヌイ)や、アルメニアとアゼルバイジャン国境の「ナゴルノカ ラバフ」などは日本のニュースでもたまに耳にする。とにかく紛争の絶えない地域のようだ。
 だから今回の旅で、この3国の国境越えが最も緊張度の高い1位にランキングされている。ちなみに2位は中央アジアの国境だったが、結局飛行機だったので問題 なし。
 というわけでホテルをチェックアウト。その足で、頼んでおいたビザを取りにアルメニア大使館、そしてトビリシ駅へ。16:20発、アルメニアの首都エレバンに 向け出発。

「世界が展示室〜ヨーロッパか、アジアか?」
 中央アジアからコーカサスに足を踏み入れて感じる変化が、当然ある。
 まず客引きや物売りがしつこくない。中国でこれに出くわすと「いらない」と言ってるのに「なぜだ? うちのは安くてお買得だよ」としつこく、そう簡単には引 き下がらなかった。中央アジアでそれが薄れ、カスピ海を越えると「あ、そう」とあっさり諦める。富んでいるかどうかの違いもあるだろうが、民族的というか、 人間的にというか、経済よりももっと根本的な違いがある気がする。
 モスクの代りに教会、そして中国やイスラムでは必要不可欠なチャイ(お茶)の代りにコーヒーが取って代わる。
 そうはいっても、シルクロードの昔からここはヨーロッパとアジアの接点であり、両者が融合したのは疑いない。アジア的ヨーロッパとでもいうか。
 テラヴィで、ギヴィさんの娘ソフィアに「この辺りはヨーロッパ的でもアジア的でもある気がするけど、あなたはどう思う?」と聞いたら「いえ、そのどちらでも ない、ここはコーカサスですよ」と。そりゃそうだ。外からきた僕と違って、ここに住んでいる彼女にとってはそんな枠組みはどうでもいい。「我が町」があるだけ なのだ。

「世界が展示室〜愛するテラヴィ」
 彼女は続ける。「私はこのテラヴィに生まれ、家族に見守られて育ち、今は家を出て近くに姉と一緒に住んでるけど、ここを離れるつもりはないんです。仕事もし て稼いでいるし、満足してます。家族や隣人、そしてこのテラヴィが大好きなんです」。僕が「東京のアパートやマンションでは、隣人と顔を合わせてもあいさつも しない人が多い」と言うと、目を丸くして信じられないという表情で「どうして? そんなのここじゃ考えられない」。まあ、東京のような大都会とここを単純比較 するのは無理があるが。
 夕食の時も「乾杯の時に何を告げるかを決めるのは父なんです。父が食卓の主なんですよ」と。そういえば僕が幼い頃、年が明けて元旦には必ず、神棚のある座敷 に家族が集まり、父を前に皆が並んで正座し「昨年一年間、お世話になりました。今年もよろしくお願いします」と頭を下げたものである。
 家族、家、故郷。こういうものから離れて暮らす僕にとって、テラヴィはそれを思い起こさせる場所になった。
 それにしてもソフィアは、歴史の知識も豊富でとてもしっかりした性格。「でもね、古いものに縛られたくはない。私には私の生き方があるし」。僕が「要はバラ ンスだね」と言うと「まったくその通り」。そして「父の前ではタバコは吸わないの」。古風と現代がうまい具合に溶け合った、明晰でしかも可愛気のある女性だ った。

「世界が展示室〜宗教の代りは?」
 タシケントやブハラではモスクをいくつか訪れたが、少し入りづらかった。馴染みがないせいもあるし、イスラム教はアラブ人のイメージと重なってなんとなく 不気味。もちろん先入観だが。それにモスクに入るにはお寺同様、靴を脱がねばならない。文字通り敷居が高いのだ。
 対して教会は入りやすい。グルジアでは7〜8ヶ所行っただろうか。もちろんそれなりの作法はある。まず入口、胸の前で十字を3回切る。これを拝殿の前で、そ して出る時も行う。
 イタリアやスペインにあるような巨大な教会はなく造りもシンプルだが、常に信者が出入りし、拝殿の前では聖書を手に黙々と祈りを捧げる人が多く見られる。
 とにかくここの人たちは信心深い。街を歩いていて教会の前を通ると、必ず立ち止まって十字を切り、また歩き出す。老若男女を問わずだ。テラヴィからトビリシ に戻る時のタクシードライバーも、運転しながらハンドル片手にやっていた。もし片手運転で事故になったら、損害賠償は神に請求するのか?
 それはともかく、彼らの生活に宗教はしっかり根を下ろしている。たまたまテレビでグルジアの空手道場を紹介する番組を見たが、ブロック割りの前にしっかり十 字を切っていた。ちょっと奇異ではあったが。
 ことほどさように、宗教がコーカサス人の心の拠り所であるのは明らか。イスラムの国々もそうだ。そういう人たちを見てくると、さて宗教にはほとんど縁のない 僕の心の拠り所はなんだろう? ちょっと考えてみることにする。


2005年12月18日(日)

 国立パントマイム劇場を観る。パントマイムが国立なんて、まったく羨ましい限りだ。でもキャパ70〜80人の小劇場。例によって読めないプログラム、隣の客か ら聞き出した内容は、テレンス・グレネリという詩人の物語。パフォーマーは10人ちょっと、僕にとってはバレエなんかよりも親しみやすく、面白い場面もあった が、総じて表現は仰々しい。ロープ引きなどお馴染みのマイムと、顔の表情を駆使した驚き・喜び・悲しみの説明的演出。おおげさな音楽と合わせて、ちょっと気持 ち悪くなるくらい。しかし、これも観客からは万雷の拍手喝采ブラボーの嵐。僕はひとりシラッと手を叩く。
 なんだかどの舞台を観に行っても、悪口ばかりが出てしまう。「良いところを見つけよう」というほど親切ではないので。思ったことを正直に書くとこうなってし まう。ちょっと自己嫌悪。


2005年12月17日(土)

 朝食後、グレミという郊外の、これまた教会に、これまた昨日のザウリさんタクシーで。小高い丘の上の教会、すぐそばを小川が流れ、放牧の羊たちが渡る。 僕も渡る。取り囲むのは、もちろん僕の好きな起伏のある平原。これまた、おだやかのどかを享受。
 子供が二人できたら「おだやか」「のどか」と名付けよう。ロマンチスト。でもエアコンみたい。
 ギヴィさん宅に戻って荷物をまとめ、別れを告げる。トビリシに戻るのだ。でも帰りはチャーターではなく乗合タクシー。当然こちらのほうが安い。チャーターは 30ラリ、乗合7ラリ。100kmの距離で約350円!
 ところで、田舎に来たんだなぁと体で実感する瞬間がある。目ヤニだ。中国のカシュガルやウズベクのブハラでは、毎朝目が覚めるとまぶたが目ヤニでバリバリに なっていた。バクーやトビリシではそれがパッタリ止まったが、このテラヴィで再び。車が走ればその後ろは砂ぼこりモウモウだから当然だろう。つまり、目の粘膜 に一日のゴミをいっぱいくっつけたまま眠るわけで、こういうとき僕は「人間は自然と隣同士なんだなぁ」と実感するのだ。そういえば少年時代は今よりも目ヤニが 多かったような気が。


2005年12月16日(金)

 タクシーをチャーターしてちょっと郊外まで足を延ばす。
 まずツィナンダリ。アレクサンドル・チャフチャワゼという、昔の貴族と思われる人の屋敷と、それを取り囲む庭園。ここもやはり、ミュージアムとして内部が 公開されている。整備された庭園をボーッと散策。おだやかのどかを享受。
 次はシュワムタ、そしてアラヴェルディへ。どちらも6〜7世紀から残る教会がある。管理人以外誰もいないガランとした空間。壁にはキリストや聖者たちの姿が あちらこちらに描かれているが、所々白くまだら模様になっている。壁がはがれ落ちたのか? 管理人に尋ねると「ロシア人がペンキで白く塗ったんです」。剥がれ たのではなく、塗りつぶされたのだ。戦前の日本の教科書のようだ。昔、コーカサス山脈を越えてグルジアに攻め込んだロシア軍は、グルジア正教を許さなかったの だろう。強権の征服者としては、人の心をつかむ宗教を弾圧するのは常套だが、それにしても塗りつぶすなんて、荒っぽいというか、ずいぶん原始的な方法だ。踏み 絵のほうが、残酷だがずっと詩的だと僕は思う。
 秋の収穫期の終わった、茶色いだけのぶどう畑を左右に見送りながらの、半日の小旅行。車はロシア製ぼろぼろヴォルガ。運転手のザウリさんはギヴィさんの幼な じみだそうだ。車中ではふたりともずっと黙ったままだが、ここ、という時だけ、グルジア語もロシア語も話せない僕に大きなジェスチャーでいろいろ説明してくれ る。人の良さそうな、愛嬌のあるじいさんだ。
 夕食。今夜のメニューはジャガイモと肉のスープに、トルマというロールキャベツ。美味すぎて、5つも食べてしまった。トルマはアルメニア料理だそうで、来週 が楽しみだ。
 グルジアの食卓は、その家でつくった食材が多い。マッツォーニというヨーグルト。アイヴァンという、リンゴに似た果物を細かく切ってシロップで煮込んだ(と 思われる)デザート。そしてギヴィさん手製のハム。やっぱり家庭料理はいい。2カ月間、メニューのない街のレストランで(あっても読めない)、量や金額を気に しつつ、注文はしたもののどんなものが出てくるか戦々恐々の、もう冒険のような食生活だった身としては、とても心が休まる。来てよかった。


2005年12月15日(木)

 ホテルをチェックアウトするが、テラヴィに2泊してまたここに戻るので、大きなリュックはホテルに残し必要なものだけまとめ、チャーターしたタクシーに。
 グルジア北東部が、カヘティ地方というワインの名産地で、テラヴィはそこにある。小さな田舎町なのでいわゆるホテルはなく、ほとんどがホームステイのようだ。 僕がお邪魔したのも、朝夕食付で30ラリの、ごく普通の一般家庭だった。
 ご主人のギヴィさんは66歳、年金暮らし。夫人のラリさんは再婚相手らしく、学校でロシア語の教師をしている。ギヴィさんは前妻との間にソフィアという24歳 の女の子がいる。いつもは二人暮らしだが、今日は英語のできるソフィアが来てくれていた。
 3人の出迎えを受け、お茶でしばし歓談後、ソフィアの案内で近くのミュージアムへ。といっても、中世にカヘティを統治していたイラグリ王の宮殿を使ったもの で、当時の居室や調度品がそのまま展示されている。
 夜、ラリさんの手料理をごちそうになる。カツレツにスイートポテト。質素だが久しぶりに味わう本物の家庭料理、とてもおいしかった。

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