伊藤キム+輝く未来ロゴ

●キムは今・・・


[2006年2月1日〜2月14日]

2006.6.1. update

 →写真編を見る

 →この回の『世界が展示室』特別編を見る

      『世界が展示室』

「内なる闘い」

「フレンチはどうした? 食べないのか?」
 値の張る日本料理店の前で、入ろうかどうか迷っている僕に聞こえてきたのは、内なる声Aだった。
内なる声B
「あぁん? フレンチだぁ? そんなもの食ってられっか。おいらは和が食いてぇんだよ」
内なる声A
「せっかくはるばるグルメの国まで来たというのに、君にはその土地の食を楽しもうという旅情のかけらもないのかね?」
内なる声B
「旅情だかドジョウだか知らねぇけどよ、日本を出てからもう4カ月だぜ? こっちは和食に飢えてんだ。ガタガタいってっとハッ倒すぞこのやろう」
内なる声A
「ああ嘆かわしい。私はここでの食事を前から楽しみにしていたのだ。まずプロヴァンスの白ワイン。スモークサーモンの前菜に、少なめのブイヤベース。メインはムール貝のワイン蒸し、そして仕上げはカマンベールだ。ああこうして頭に並べただけでもよだれが出そうだ」
内なる声B
「おうおうおう、さっきからブツブツブツブツ、そんなにハレンチじゃなかったフレンチが食いたきゃよ、今度ひとりで食いにくりゃいいじゃねぇか。え? おグルメさんよ」
内なる声A
「なにを言うか。そもそも君と私は一心同体なんだから、別行動ができないことくらい君にもわかるだろう?」
内なる声B
「あ〜これだからユーモアのわからねぇインテリはやだね。こちとら江戸っ子・・じゃねぇけどよ、しゃべりだけは江戸っ子だけどよ、諧謔ってものをわかってほしいなぁ、わかる? カイギャク」
内なる声A
「ほぉ、君の口からそういう言葉が出るとはね。いつのまに覚えたんだ? では諧謔ついでにいおう。古人はいい言葉を残したものだ。『その土地を知るにはその土地を食せよ』と。いつも日本で日本のものを食べている私たちだからこそ、旅に出たならその土地のものを食べるべきじゃないのかね? この旅にはそういう意味も含まれているはずだが?」
内なる声B
「古人だか土人だか知らねぇけど、そりゃおめぇ、旅に出たんだから食いもんだって千差万別いろいろあらぁな。んなこたぁ百も承知よ。けどよ、モノには限度ってもんがあるだろが。ニッポン人にゃニッポン人の舌の郷愁があるってことよ」
内なる声A
「まぁたしかにそれも分からないではない。だがこのプロヴァンスだけは別だ。暖かな太陽に見守られた芳醇なワイン、地中海の恵みを受けた新鮮な魚介、これを食べない法があろうか!」
内なる声B
「ったくいちいちゴタクを並べやがって。そうそう毛唐の食いもんばっか食ってられっか。つべこべいってっとハッ倒すぞこのやろう!」
内なる声A
「毛唐だなんて、今ではもうほとんど差別用語だ。そういう心構えでいるからいつまでたっても外国から変人の国扱いされるのだ。それに君の場合は諧謔というよりカイギャグだな」
内なる声B
「お、うまい! うまく落ちたところでさっそく日本酒といこう」
内なる声A
「そうはいくか。まだ決着はついていない。ああ、私たちの主人はなんでまたこんな野蛮人と私を一緒にしたのだろう」
内なる声B
「ケッ、そいつぁこっちのセリフでぃ!」

「あんのぉ、なんでもええがらはやぐ決めでげれ。あっすぃ、もうさっぎがらハラがへっでハラがへっで、もう目がまわりそうですズラ」
 ふたりの会話をだまって聞いていて、しびれを切らして口を開いたのは、内なる声Cだった。


「ヨーロッパ右往左往」

 さて18年前、ボルセーナでのワークショップが終わり、その後のローマで何が起こったか?
 「古川あんずとダンスバターTOKIO」には当時4〜5人のメンバーがいて、僕を含めたそのうちの3人が、あんずのイタリアでのワークショップ公演に同行することになった。踊り始めてまだ2年目の僕には、海外のダンサーたちと交わり踊れる貴重な機会だった。
 ボルセーナでのワークショップ公演を無事終え、あんずはヨーロッパの他の街での仕事に移動し、僕たち3人はローマで数日観光をすることにした。一緒だったのはどちらも女性。ロー子さんにマー子さんとしておこう。
 当時僕はロー子さんと恋人同士で、いや正確にはボルセーナの日々でそういう関係になったのだが、3人とも仲は良く、ローマでも3人でひと部屋を借りた。
 ところがローマに着いて翌日くらいにマー子さんが行方不明になった。3人で街を観光し、夕食のあと僕とロー子さんは「もう少し街を歩いてみる」というマー子さんを残してホテルに戻ったが、深夜になっても彼女は戻らない。翌朝になっても。
 実はこの日、僕ひとりが帰国することになっていた。東京に残ったメンバーと次のリハが始まるので、帰らないわけにはいかない。それには参加しないロー子マー子を残して。ロー子さんとの別れはつらかったが、それ以上にマー子さんが気掛かりだった。
「いったいどこに行っちゃったんだろう?」
「このままローマの闇に埋もれて、そのうち香港に売られちゃったりして」
 ローマからわざわざはるか遠くの香港なんかに売らなくてもいいのだが、「香港に売られる」というのはなんだか裏びれた危険な響きがあって、この状況にぴったりだった。そんなアホな会話をしている場合ではなかったのだが。
「わたしひとりで探してみるから、先に帰ってて」
 というロー子さんにあとを託し、列車に乗った。
 飛行機のチケットは行きも帰りもフランクフルトからになっていて、ローマからフランクフルトまでの約1000?(青森〜福岡くらい)を夜行などを乗り継いでいかねばならなかった。
 ローマを夜遅く出て深夜、列車がボローニャの駅に停まったままなかなか動かないので、近くにいた乗客に聞くと「ストライキらしい」という。おいおい冗談じゃない、こっちは明日の夜(正確には今晩)のフランクフルト発に乗らなくちゃいけないんだと慌てたが、発車する気配もないので「飛行機なら間に合うかもよ」というその乗客の言葉に押されるように、駅でタクシーを拾って空港に向かった。今ではずいぶん改善されたらしいが、イタリアの鉄道は遅延とストで有名で、いったんストに入ると何時間も動かないのだ。
 深夜(2時くらいだったと思う)にもかかわらず空港は開いており、でもカウンターは終了しているので、待合室のベンチで持っていた寝袋にくるまって夜を明かした。
 朝になってチケットオフィスが開き、すぐにフランクフルト行きのチケットを買って乗った。これで夜にはじゅうぶん間に合う。
 フランクフルト空港で成田行きのチェックインを済ませ、荷物を預け出国審査を通り、ゲートの前で搭乗の案内を待つばかりとなった。ベンチにすわってタバコをふかし始めたとき(当時は喫煙していた。これもボルセーナで覚えた)、急に不安になった。
「このまま日本に帰れば、俺はひとでなしになってしまう」
 行方不明のままのマー子さん、ひとりで探させることになったロー子さん。このまま本当に見つからなかったら、香港に売られていったら・・・ 
 よしっ!と立ち上がった。タバコを消し、ゲート前にいる航空会社の係員に事情を説明し、小さいリュックを抱えてゲートから走り出て、出国審査を逆戻り、すでに預けたはずの、飛行機に載せる直前だった大きいリュックを取り戻し、空港を出て鉄道駅につなぐ電車に乗り、フランクフルト駅に着いてローマまでの切符を買い、もういちど1000?の青森〜福岡を乗り継いで、翌日ローマに舞い戻った。
「まだ見つかってないの・・でも帰ってきてくれてうれしい」
 ロー子さんの顔が曇ったり明るんだりした。マー子さんがいまだに見つからないのは気が重かったが、関係が始まったばかりの彼女と一緒にいられるのは僕も文句なくうれしかった。 
 翌日、ふたりで街を探し歩き、途中で彼女だけ先に返してひとりで探し続けた。結局見つからず宿に戻ると、マー子さん、帰ってきていた。ロー子さんによれば帰還後の第一声は 
「ああ、しばらくだね」
 だったそうだ。あの日彼女は、近くのバーで女の扱いのうまいイタリア男に声を掛けられ、そのまま彼の家までついて行っていままで過ごしたが、つまらなくなって帰ってきたのだという。四日も五日も姿をくらましておいて「しばらくだね」はないが、僕とロー子さんの仲を気遣ってというか、自分だけ疎外された気がしてすねてというか、3週間のワークショップを終えた解放感というか、まあいろいろあっての行動だったのだろう。ともかく無事でよかった。香港に売られずにすんで。
 東京で僕の帰りを待っていたメンバーからは文句をいわれ、ボローニャからわざわざ飛行機まで使ったけど、フランクフルトから引き返してよかったと思っている。あのとき本当に僕は「ひとでなしになってしまう」と思った。居ても立ってもいられなくなる、というのはあれをいうのだろう。それくらい、心がぞっと騒いだのだ。ローマの街やボルセーナの記憶があまりないのは、この事件が全部吹き飛ばしてしまったからかもしれない。
 どうも僕は平時ではなく有事向きのようだ。「非常事態」とか「絶体絶命のピンチ」なんかに遭遇すると、なぜか血が騒ぐのである。ワクワクするのである。楽しくてしょうがないのである。
   若気のいたりというか、昔はよくこういう大胆をやったものだ。今の僕にはとても考えられないが。


「響きの意味」

 モスクでもそうだったが、あちこちで教会に入るとやはり厳粛な気分になる。いちいち名前を気にせずに入るので、ナンチャラ教会はこうでカンチャラ聖堂はああだなどと解説はできないが、要約するとそこにあるのは、絵画に姿を借りたメッセージ、言葉、そして響きだ。言葉も教義もわからない僕には、特にこの響きに打たれる。宗教施設というのはたいていが大きく造られていて、それは威厳を示すためであろうが、でも僕にはこの響きを聞かせるためのように思える。
 宗教の教義には、象徴的な逸話やたとえ話が多く、それを理解するにはその向こうにある真意を探らねばならない。大きな空間で言葉が発せられると、それが終わっても響きが延々と残り、余韻が空間を満たす。彗星のしっぽがながながと続くように。それに耳をすまし感じることで、一を聞いて十を知るがごとく、人は天からのメッセージを理解するのだと思う。
 もし教会が響きのない小さな空間であったとしたら、世界は大きく違っていたかもしれない。


「ボンベイの遺跡」

 その日は曇りで、風も強かった。初夏のようなローマの日差しは空のかなたに隠れてしまったようで、寒風の舞上げる灰にまみれて歩くしかなかった。
 西暦79年、休火山ヴェスヴィオの大噴火でこの町は灰にうずもれ、2万人の住民のほとんどが6〜7mの灰の下敷きになった。1748年に発掘が始められるまでずっと忘れ去られていたという。
 1700年もの灰の抑圧が取り払われた町には、大きな石の敷き詰まった通りが縦横に走っている。観光客の数も多く、ポンペイ市街では見ない日本人の姿もあった。「死に場所」が人を引き付けるというのも皮肉に満ちているが、墓参りをはじめ、事故現場に烏合するやじ馬なんかを思えば、納得がいく。来るべき自分の未来の姿を、なんとかして見届け、できるだけ親しんでおいて、その時に備えるのである。
 でも歩きながら僕がここで見たのは、屋根のある壁と、屋根のない壁と、そこに切り取られた窓と、そこから忍び込む光と、その後ろに控える闇だった。こういうものが揃えば、当然、空間が生まれるわけで(揃わなくても最初からあるといえばあるが)、そういう空間に僕はいちいち感嘆した。今では崩れ落ちてしまった壁画や、魚の鱗のような土の壁に、なめるように光が落ちる。その隣に、暖かく包むように闇がおとなしくたたずんでいる。
 迷路のように壁が並んだエリアから目を転じ足を進めると、細かい空間が立ち入ることのできない広場に出る。灰が取り去られたあとの土に、鮮やかな緑の雑草が、俺達の出番とばかり勝ち誇ったように生え満ち、取り囲む茶色のレンガ塀とのコントラストは、それだけですでにひとつの世界だった。その外周に、杉のように背の高い松が何本も整然と植えられていた。下半分の枝は刈られ、空の白い肌にチクチク刺さるような高さにだけ葉があって、風が吹くと、まるで遠くから浜辺を見ている時のような、荒波のような音になって聞こえた。
 日差しの恋しくなる寒さだったが、灰に埋もれていた日々には決して吹くことのなかった風を受けて、少し優越感に浸る。でもヴェスヴィオ同様休火山である富士の目覚めを思うと、少し不安になる。


「きれいだね」

 ローマは日本人観光客が多い。これまでと違ってメジャーな大都市だから当然だ。特に若い女性。ブランドショップが並ぶ通りではあちこちで見かける。そして日本の女性はみんな綺麗である。突然また変なことを書くんだなと思われるかもしれないが、このところずっと(見た目の)濃い女性に目が馴れていたので、ああいうすっとした、シンプルな感じは、やはり素敵だと思う。
 でもよく見ると、ローマのような大都市だからだろうが、彼女たちはしっかり着飾り、濃いめの化粧をし、笑顔に溢れている。美しく見えて当然である。雪のゲレンデで見る女性が美しく見えるのと同じ原理だ。つまり(笑顔は本物だろうが)彼女たちは巧みに化けているのだ。
 でもここで「くそ、だまされた!」などと思ってはいけない。むしろそれを、見事な術をほめなくてはいけない。誰だって人から良く思われたいし、美しく見られたい。ファッションや化粧は、そういう願望を実現するためのシステム化された立派な「技」であって、上手な人は職人芸の世界に通じるといっていいだろう。そういう職人の技を見て「うまい!」と思ったらいい気分になるし、職人も喜ぶ。
 僕はなにも化粧を奨励するわけではない。その必要のない人もいれば、必要があってもしない人もいる。その人それぞれの考え方だ。現に僕の関わるダンサーという女性たちは、概して薄化粧が多い。汗をかくからだろうが、汗というのは自然にできる化粧みたいなもんで、汗だくで踊る人はただそれだけで美しい。まさに内側から滲み出る美しさだ。
 化かされようが、だまされようが、踊られようが、美しければいいのだ。



2006年2月14日(火)

 「味」が続く。さすがフランス、食べ物がうまい。ニースの街を歩くと、中華やタイなんかの安い大衆食堂が多くあって、ついつい入ってしまう。ウィンドーの中に並ぶお総菜を指さして、レンジでチンしてもらうだけの安食堂なのだが、なかなかの味。やっぱりアジアは美味い!
 昨日もその前も夕食はそういう所だったが、今晩は少し高めの日本料理店にした。ワインや前菜も頼んだら、なんと29ユーロ(約4000円)もかかってしまったが、やはり美味かったので、よしとする。
 フレンチはどうした? 食べないのか?



2006年2月12日(日)

 ニースのカーニバルは、街の大通りで行われるパレードで、毎年2月中旬から下旬にかけてあり、今年は2/11〜28だ。毎週火水土日の4日間、大規模なバルーンを中心に繰り出される、要は仮装行列だ。
 どの日も昼の部夜の部があり、3つほどのプログラムをローテーションで行う。時間はどれも90分。昨日は夜、今日は昼を見た。
 海岸沿いの大通りを2〜300mに渡って海側にだけ客席を組み、反対側は立ち見。その間を、中央分離帯をはさんで次々と巡回していく。
 裸の女や動物、あるいは政治家などを模した高さ5mほどの大きくユーモラスなバルーンのハリボテ、特製のお面やおおげさな衣装をつけたパフォーマー、生バンド等々が、特製の自動車に乗ってどんどん繰り出されてくる。
 観客は観客で、売り子から買った紙吹雪を投げ合ったり、スプレー缶から吹き出る得体のしれない物体をかけ合ったり。
 とにかく派手で、あちこちで笑い声が起こる。寒い冬を吹き飛ばすためのイベントじゃないかと思うくらい。
 僕は去年の3月、愛知万博(じゃなかった愛_地球博)のプレイベントで、名古屋の広小路という目抜き通りのパレードを演出した。その準備段階でニースのパレードのビデオを見たのだが、このようないわゆる派手な演出は無理だろうと感じた。広小路は、通りの両側を大きなビルに挟まれ、それに沿って並木が続き、道の上空には信号機や道路標識をぶら下げたポールが渡され、巨大なオブジェを通すだけのスペースが確保できない。加えて警察や沿道のビルの協力が必要で、なにかと規制が多い。ニースのような道幅に余裕があり、何よりも、長年の経験の蓄積と伝統のある南仏のイベントのようにはいかなかった。
 ならばと、名古屋をはじめとした地元の主婦や子供たちを中心に据え、素人色の強い手作りイベントの方向を目指した。
 もちろんこれだけでは足りないので、美術家の椿昇氏に道路のサイズに合う巨大バルーンの製作を依頼したり、イギリスからもバルーンパフォーマーを招いたりした。
 でもイベントの中心になったのは、やはり土地の人たちで、それは「愛知での万博のためのイベント」という趣旨にもかなっていた。
 こうしてニースのパレードと見比べると、広小路のパレードには、ただ派手で面白いものだけにはない「味」があって、あらためてあの仕事に自負を感じる。なにもニースを批判しているわけではない。それぞれの「味」がある、ということだ。



2006年2月11日(土)

 9:45、定刻どおりニース着。駅前のツーリストインフォメーションでホテルを紹介してもらい、海岸に向かって南へ15分ほど歩いてチェックイン。ここは地中海に面した街だ。
 このニースへもやはり、プライベートで一度訪れている。13年くらい前だったか。「soup de poison 魚のスープ」がやたらと美味しかったという記憶がある。
 もともとここには立ち寄るつもりはなかったのだが、「ニースのカーニバル」がちょうどこの時期にあるというのをガイドブックで知って、急に思い立った。



2006年2月10日(金)

 今晩の夜行でフランスに移動することにした。でもゆううべもその前も、理由は分からないが4〜5時間しか眠れなかった。町を歩いていても体が重くだるく、ホテルはチェックアウト済みなので、教会に入って神の許しを得て長椅子に横になる。
 次は南仏のニース。まずローマに出て、そこで23:50の寝台に乗り換え、ピサ、ジェノヴァ、モナコを経由しニース着が翌9:45。
 ところで今日、トリノオリンピックが開幕しているはず。この列車もトリノを経由していたが、そこには目もくれずに地中海の街に。



2006年2月9日(木)

 18年前の記憶を辿りに、orvietoを訪ねることにした。アッシジから列車を乗り継いで約3時間、小さな田舎町オルヴィエートに着く。ワークショップの場所は丘の上の古い町並みの中だったので、そこに行く方法を探ろうと駅前に掲げられている地図を見るが、どうもおかしい。町には湖があるはずなのだが、それがない。横にある少し大きめの地図を見て、あっと思った。18年前のあそこはオルヴィエートではなく、そこからバスで40分ほどの、ボルセーナという町だったのだ。オルヴィエートはローマとの行き来で駅を利用しただけだった。急いでバスの時刻表を確認すると、ボルセーナ行きは早朝と午後の1日2本しかなく、しかも2本目は5分後。間一髪だった。
 バスに乗り込む。ウンブリアの丘をうねうねと走る。目の前に広がるのは、通りを挟んで続く枯れた並木と、なだらかなベージュの丘と、緑の牧草と、そこにたたずむ牛と、そういうものすべてを許すように注ぐ暖かな日差し。のどかでのどかで、あぁもうのどかすぎて恋に落ちてしまいそうに美しい。
 ボルセーナに着いたのが午後3時。オルヴィエートで確認した帰りの最終便が4時すぎ。1時間しかない。ここに泊まるつもりで来なかったので、今日中にアッシジに戻らねばならない。  バスを降りると、なんとなく見覚えのある風景。でも記憶はおぼろげ。少し遠くに白く光るものが見える。湖だ。5分ほど歩いて浜に。これもなんとなくで、ちゃんとは思い出せない。この湖には稽古の合間に何度か来ているはずだが。
 引き返して、高台に古い家々が迷路のようにびっしりへばり付いている中に入る。このどこかに、当時僕たちが3週間滞在した家があり、稽古場があるはずだ。もう残り30分もない。いくつかある路地のどれを昇っていけばいいか見当がつかなかったが、ひとつに当たりをつけた。早足に石畳の段々を昇り、折れ曲がった路地を巡り、息を切らしながら導かれるように歩くと、あった。扉が閉まっていて中はうかがえなかったが、30平米ほどの、山小屋のように小さな稽古場。
 そこを離れ100mほど歩くと、あった。舞台。いや正確には舞台を作ったエリア。ワークショップの締めくくりに、もちろん古川あんずの振付で、イタリア、スイス、ドイツなどから集まった受講生たちと作品にしたのだが、舞台は、入り組んだ家々の一角に、これもやはり稽古場と同じくらい小さな、屋根のない空間があって、そこに即席の舞台を組み、夜空の下で踊ったのだ。
 今となっては当時の顔ぶれも、どんな踊りだったかもほとんど覚えていないが、稽古場になった建物と舞台空間だけははっきり記憶がよみがえった。踊りのことより、食材の買出しに小さな店に行ったとか、公演の翌日、残った舞台で近所の子供が遊んでいたとか、そんなことは覚えているのだ。踊り始めてまだ2年目で、余裕も何もなかったのだろう。
 もう二度と来ることなどないと思っていたのに。しかも予定したわけじゃなく、イタリアに入ってから急に思い立って。でもここは、18年前とまったく変わっていなかった。
 アッシジの宿に戻ったのは、夜の10時を回っていた。



2006年2月8日(水)

 曇りで寒く、ちらっと外出しただけ。



2006年2月7日(火)

 12世紀、放蕩な生活から改心して清貧の修道僧となり、地域の多くの貧しい人々に尽くしたといわれる聖フランチェスコの町、アッシジ。中世からそのまま引っ越してきたかのように、大小の路地が入り乱れ折れ曲がっている。町は丘の斜面にあるので坂や階段が多く、まるで大きな積木の城の中を歩いているようだ。
 ここが世界遺産に指定されているかどうかはわからないが、そう思わせるほど美しく、通りにはゴミひとつ落ちていない。巡礼者というより観光客相手の町らしく、土産物屋も多い。オフシーズンだからか、手頃な値段のレストランは少ない。イタリアのレストランには「ristorante tavernetta」という看板が多いが、「レストランで食べるななんて言われたら、よけい食べたくなってしまう」という心理を突いた、絶妙なネーミングである。それにつられて入ると、アッシジでは10ユーロ(約1400円)は取られる。でも「イタリアなんだからいいじゃないか!」という内なる声には勝てない。それに味は申し分ないのでよしとする。フランチェスコが聞いたら何と言うだろうか。



2006年2月6日(月)

 アッシジへ移動。ナポリ、ローマで列車を乗り換え、トータルで4時間ちょっと。駅からバスで10分ほど、丘の上の旧市街に到着。
 ローマからの車中で、ひとり旅の日本人女性と出会った。町に着いて、お互いワインが好きだと意気投合し、夕食を共にした。パスタや羊肉をつつきワインをなめながら、お互いの仕事のことなどを交わす。ウェブ関係の仕事をしていたという彼女は、茶目っ気があってそれでいて聡明で、当意即妙の受け応えは秀逸だった。久しぶりに日本語で楽しい会話ができた。日本にいたらまず出会わなかった人だろう。旅の出会いは実に刺激的だ。ボトルのワインも、最初に出されてテイスティングだけしたハウスワインのカラフェも、きれいに空けてしまった。
 「くすぶったままじゃ、燃え尽きることはできないわよね」。次のステップを見つけられずにいる人たちを話題にした時の、彼女のフレーズ。いい言葉だった。



2006年2月5日(日)

 ボンベイの目玉は遺跡である。



2006年2月4日(土)

 10:25、ローマを発って南下、ポンペイに移動。新幹線ユーロスター(ES)で1時間半でナポリ、在来線に乗り換えて20分、ポンペイ着。ESはフランスのTGV同様かなり高速。途中でこんなアナウンスがあったくらい。「ただ今この列車は時速200?で走行中でございますですハイ」。誇示か。「イタリアかて負けてへんで!」
 ポンペイの街を歩いたが、ほとんど何も見るものはない。だが街の中心にそびえる聖堂だけは別。中に入るとちょうどミサの時間と重なって、司祭を前に大勢の人たちが祈りの言葉を唱和しながら立ち上がったり座ったりしている。するとオルガンが鳴り、人々の口から言葉がメロディになって流れ始めた。親しみやすくてちょっともの哀しい旋律が耳に浸み入った。
 この街はソレントという港町からそう遠くはない。昔、中学だったと思うが、音楽の教科書に『帰れソレントへ』という唄があって、後に「名曲アルバム」なんかでも耳にした。聖堂で聴いた旋律同様、こちらも哀愁ただようメロディだった。『飛んでイスタンブール』に代って最近はこればかりが頭の中で響いている。



2006年2月3日(金)

 バチカン。ここも前回来たが、広場を見ただけ。今回はサン・ピエトロ寺院の中に入り昇る。グルジアの小さな教会とは比較にならない大きさ。世界中の子分をまとめる大親分は貫禄十分だ。



2006年2月2日(木)

 トレビの泉、スペイン階段、コロッセオ。18年前の記憶を訪ねて歩き回る。が、思い出せない。定番の観光地だから行っているはずだし「行った」という記憶はあるが、その時の情景が浮かんでこない。初めて来たような感じだ。たいして印象に残らなかったのかも。「階段主義」を着想したのはほかでもないあのスペイン階段だったのに。でもトレビの泉で後ろ向きでコインを投げた記憶はある。だからこうしてまた来れたのだ。
 それにしても暑い。昼間街を歩いている時はジャンパーもセーターもいらないくらいだった。でも次の日になってそれが異常な陽気だったと判った。



2006年2月1日(水)

 フライトは14:40。街から空港まで1時間ほどかけてトラムや地下鉄を乗り継ぐ。
 結局イスタンブールは3週間もの長居になった。もちろんこれまでの最長不倒。K点越えでテレマークも見事に決まった。
 元々ここには長くいるつもりだったのだ。ヨーロッパのガイドブックや、読む本が切れて新しいのが欲しかったので、東京からそれらを送ってもらうとか、ホテルが朝食付で3000円という安さとか、雪だ雨だで部屋ごもりが多かったとか、理由はいろいろ。昨日は「明日、俺はホントに飛行機に乗るのか?」なんて思ったり、今朝荷造りの時も何か不安で、腰の重い自分に気付いた。「沈没」しかかっていたのだろう。
 特にこの街の居心地が良かったというわけでもないのに。旅の不思議その・・・いくつだっけ?
 夕方4時過ぎ、ローマ・フィウミチーノ空港着。電車に乗って30分、テルミニ駅へ。駅を出ると大きな建物がゴンゴン並ぶ。とうとうヨーロッパの真っ只中、北京や上海と並ぶ大都市に来た。今までの「ヨーロッパっぽい」じゃなく、完全なヨーロッパ。
 実はこの旅には「できるだけ今まで行ったことのないところへ」というコンセプトがある。だが初めて、経験ずみの場所にきた。ローマは二度目だ。
 88年、古川あんずのワークショップ公演に参加するため、ローマから列車で2時間ほどのOrvietoという田舎町に3週間ほど滞在し、終了後せっかくイタリアなんだからと、ここを訪れた。そしてここで、生涯絶対に忘れられない出来事が起こった。それはいずれ書くとしよう。


 →「キムは今」リストに戻る

公演情報

プロフィ−ル

作品紹介

もどる

リンク

掲示板

メールを出す