伊藤キム+輝く未来ロゴ

●キムは今・・・


[2006年2月15日〜2月28日]

2006.6.1. update

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      『世界が展示室』

「涙が見たい」

 ボルドーの駅を列車で出るとき、ホームで、女性に抱かれた子供が泣いているのを見た。この列車に乗る誰かを見送ったのだろう。わぁわぁ声を上げていた。トルコのサムソンでは、乗ったバスの窓の外に初老の男性が立っていて、僕の前の席の女性に、ガラス越しに手を振っていた。イスラム女性に特有の、頭をスカーフで覆ったその女性は、バスが出ると涙をぬぐっていた。
 別れには涙がつきものだ。たとえ笑顔の別れでも、その人の心は泣いている。
 旅では、華やいだ観光地や、ホテルやレストランの店員の笑顔にしか出会わないことが多いが、たまにこういう、土地の人の涙を見ると、ほっとする。異国に分け入っていくらか肩身の狭い思いをしているので、人間のありのままがむき出された姿に、共感できるから。
 アルルからボルドーに向かう急行列車は、3人がけの座席が向かい合っていて、僕の前はハタチくらいの若い男性だった。彼はヘッドホンで音楽を聴いていて、そこから漏れる音が僕にも聴こえてきた。それほど気になる音ではなかったが、彼のとなりの女性がひと言ふた言苦情を言ったらしく、彼はそれを受けて少し音を抑えた。
 列車がボルドーに着くとき、よせばいいのにその女性がまた彼にヘッドホンのことを言った。その詳細はわからないが、それを聞いた彼は、少し声を荒げてこう言った。
「長い列車の旅で音楽聴くぐらい、自由にさせろよ」
 もちろんフランス語のわからない僕には想像でしかないが、最後の最後でまたつつかれたのだから、彼のキレる気持ちもわからないではない。ただもし彼が 「うう、さっきは悪かったよぉ。迷惑かけてごめん。ゆるしておくれぇ」
 などと涙を流そうものなら、僕の退屈な列車の旅は一変しただろうに。


「私は誰?」

 街を歩いていると、こういう容姿なので「あ、海賊だ」なんていわれる。トルコでは「あ、ダヤンだ」とも呼ばれた。ダヤンとは、イスラエルの昔の将軍モシェ・ダヤンのことで、アイパッチをしていた。日本ならさしずめ伊達政宗だろう。たまに「あ、マイケル・ジャクソンだ」というのもあって、もちろんそういう時はすかさず「アゥ!」かなんかいってカッコよくポーズを決めてみせる、ということはない。恥ずかしいのだ。
 「海賊だ」と言うのはたいていが男子で、小学生から大学生くらいのまでいる。彼らにこう言われると、ちょっとムカッとくる。そのまま無視することもあるが、立ち止まって睨み返したりもする。以前東京でもこれがあって、あやうくケンカになりそうになった。ただそれは例外で、奥ゆかしい日本の都会ではこういうことは滅多に起こらないが、外国にくれば若者はみんな容赦ない。
 不思議なもので、相手が純粋な幼い子供や、立派な大人の場合はちょっと誇らしく感じるが、その中間の、いわゆるティーンエイジャーだと、彼らの単なるからかいの対象に成り下がった気がしてしまうのだ。マンガのヒーローに憧れる子供の好奇心も、ユーモア好きな大人の遊び心も感じられない。たいして違いはないのだが。

内なるA
「そんなことで腹を立ててどうする。私たちはこれがあるから伊藤キムなんじゃないのかね? これを売り物にしてここまでやってきたのは、疑いのない事実だ。それに腹を立てるのは、自分で自分を否定することになるんだぞ」
内なるB
「でもよ、けどよぉ、アタマに来るもなぁしょうがねぇだろがよ」 
内なるA
「ま、それをへとも思わなくなれるかどうかが、器の大きさの違いだな」
 
 まだまだ修行が足りん、ということのようだ。


「ゴッホとアルル」

 アルルはゴッホが過ごした町だそうである。「だそう」なんて頼りないのは『歩き方』を見ながら書いているからである。オランダから移ってきた彼は、ここで多くの代表作を描き、狂って耳を切り落としたのもここらしい。
 すぐ近くに「ゴッホ記念館」がある。入ると、オマージュ展をやっていて、ベーコンやリキテンシュタイン、他にも若い作家の作品があった。
 その中に、地元の小学生たちのもあって、画用紙にクレヨンなんかで、教室の後ろに貼ってあるような、ああいう感じでずらっと可愛く展示されていた。彼らにとっては、耳切り事件がやはり印象的なようで、紙の中央に、根元から血を垂らした大きな耳だけが描かれているのが、何枚もあった。
 大画家の作品と、なぐり描きのような小学生の作品を同時に展示するというのは、美術界では珍しいのかどうかは知らないが、この国ではいかに生活と芸術が密着しているか、そしてアルルにとってゴッホの存在がいかに大きいかが分かって、なかなかに粋である。 
 それはそうと、耳を切り落とす、というのは、いったいどういう精神状態だったのかと、考える。ここから先は僕の推測。

 行き詰まった。もうなんもかんもイヤになった。こうなったらいっそ死んで、いや、そんな勇気もない。ちくしょう! 俺は俺が憎い! どうしてくれよう!
 この手が、指が、足が、この脳みそが、憎い! この、顔の横に出っ張っている、これはなんだ? くそ、こんなものいらない!

 集音の機能こそ失えど、聞こえなくなることはない。画家としては被害程度の少ない耳を標的に選んだのは、やはり最後まで自分の可能性を捨て切れなかった、苦悩の芸術家の妥協だったのかもしれない。たまたま出っ張っていた耳には、不運だったが。


「内なるその2」

「おう、なかなかの味じゃねぇか。こんなにうまいもんなら、もっと早く食わせろぃ!」
 久しぶりの魚のスープをうまそうに口へ流し込んでいるのは、内なるBだった。
内なるA
「君の勝手ぶりは相変わらずだな。でもやはり美味だろう。13年前を思い出したかね?」
内なるB
「きのうのことなら覚えちゃいるが、13年前じゃちと分からねぇ・・髪の長い女だってぇ? そんなのはこの辺にゴマンと・・」
内なるA
「ああわかったわかった、もういい。若者がついて来られないようなセリフを吐くんじゃない。ハマのリーゼントじゃあるまいし。それにしても半分バーの安食堂だが、さすがフランス、それなりの味だ。これでやっとこの国にきた甲斐があるというものだ。ところでC君、相変わらず無口だが、味のほうはいかがかね?」
内なるC
「ズルズルピチャピチャフゥゲップ、もいちどズルズルゲップゲップ」
内なるA
「おっと、聞いても無駄だったな。さて、魚のスープも堪能したし、クロック・ムッシュウもまぁまぁだったし。そろそろデザートを頼むとするか。・・ん? 給仕の婦人が見当たらないな。どこだろう?」 
内なるB
「・・あんた、あのコに惚れてるね」
内なるA
「もう、だから違うって!」
 
 ミナトノヨーコヨーコハマヨコスカ〜

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2006年2月28日(火)

 今日は海を渡る日。ジブラルタル海峡を越えモロッコへ。グラナダ朝9時発のバスで3時間半、港町アルヘシラス。そこからフェリーで2時間半、タンジェに入港。アフリカ大陸だ。そしてまた、あの濃いコイこゆーいイスラムなわけだ。
 「船を降りるとあちこちからガイドやホテルの客引きが寄り集まってきて払いのけるのが大変」という話を聞いていたので、少し緊張して街に入ったが、誰も来てくれない。観光シーズンじゃないからだろうか。少し拍子抜け。中国や中央アジアのほうがえげつなかったくらいだ。
 モロッコ滞在は2週間の予定。タンジェからマラケシュに出て、山脈を越えて砂漠方面に向かい、ぐるっとひと回りして再びタンジェというルート。



2006年2月27日(月)

 昨日は日曜だったので避けたが、今日はいよいよアルハンブラ宮殿へ。でも混んでいた。スペイン有数の観光地だからしかたない。自分もそのひとりだし。
 ここ最近は『アルハンブラ宮殿の想い出』(タレガ作曲)が鳴っていて、優雅なギターのメロディを抱えて現地に向かったが、人の想い出を追体験するものではないと実感。観光客が多く、目玉の王宮に入るのに1時間も並んだ。『アルハンブラ宮殿の想い出』というより『アルハンブラ宮殿の想い入れ』だった。出すと入れるじゃ正反対。想い出はやはり自分でつくるものだ。



2006年2月26日(日)

 スペインのグラナダ。リスボン同様ここも雨がちで、昨日も今日も降ったりやんだり。今日は街を歩いたり教会など。そしてゆうべはフラメンコのタブラオへ。女性ダンサー3人、男性2人、歌手を含めた楽隊が5人ほど。
 フラメンコは女の踊りだと思った。3人のうちひとりは、後半で踊った男性2人よりも男っぽく、まるでケモノのよう。結婚したらカマキリのように食い殺されてしまうかもしれない。



2006年2月25日(土)

 ゆうべリスボン市街の中心からバスターミナル行きの地下鉄に乗っている時「はて、ここはどこの国だっけ?」と一瞬自問してしまった。あちこち移動してきたせいか、この街はあまり印象に残っていないのだ。じゃなぜ5泊もしたのか? 答えは、テレビでオリンピックを観たかったから。フィギュアスケートだけは観ておこうと思ったのだ。スポーツ専門のeurosportsが入るホテルはそうそう見つからないので。安藤美姫が転倒の連続だったのには落胆したが、荒川静香が金を取って安心。
 そんなリスボンの6日だったが、ユーラシアの西の端に立てたのでよしとする。
 で、バス。まず朝4時、セビリア着。寒いバスターミナルで時間をつぶして8時発のグラナダ行き、11時着。ここを選んだのは、アルハンブラ宮殿を見たかったから。
   リスボンからの車中で、日本人の大学生の男性と一緒になった。2週間の卒業旅行だそうで、セビリアからスペイン南端のアルヘシラスへ向かい、海を渡ってモロッコに行くという。実は僕もこのあと、行くのだ。



2006年2月24日(金)

 そしてやはり今夜もそれだった。8〜14ユーロ(1000〜2000円)と高めだが、6日連続。ただ、消化の悪い貝などをワインをがぶ飲みして食べ続けたせいか、今朝から腹の調子がよくない。にもかかわらず食べる。ワインも飲む。セイロガンも、飲む。
 そして今夜、リスボンを発ってスペインのグラナダへ移動。夜9時過ぎのバス。



2006年2月23日(木)

 今日までの5日間夕食はすべて港町にふさわしく「魚介のリゾット」。食べたというより、吸い尽くした感じ。エビ、アサリ、タイ、そしてカニ。カニですよカニ。こういう連中が煮込まれたあとに米がぶち込まれる。スープは日本人にも合う、トロッと味噌のような感じ。何味だろう?



2006年2月22日(水)

 リスボン市街から列車やバスを乗り継いで1時間、ロカ岬へ。ここはポルトガルの最西端、つまりユーラシア大陸の西の端ということになる。厳密にいうとアフリカも陸続きなので、地球上最大のこの大々陸の西端は西アフリカ・セネガルのダカールだ。ちなみに東の端はシベリアのウエレンという町。さらにちなみに、そこからベーリング海峡を挟んでわずか100?先にはアラスカ、つまりアメリカ大陸がある。
 ロカ岬を洗うのはもちろん大西洋の波だ。でもここは断崖絶壁の上にあって、船が近づけるようなところではない。その昔、日本に鉄砲やテンプラなどをもたらした船は、ここではなくリスボンやポルトの港から出航したのだろう。
 ここからずっと北に行ったところに、ポルトPortoの街がある。サッカーのクラブチームで有名なところだ。この国やスペインが世界の海を駆け回っていたころ、ポルトを出た船が行く先々の港に、出発点の名前を片っ端からつけて回った。それが英語で港を表す「port」になった、というのは真っ赤なウソである。



2006年2月21日(火)

 昨日は雨が降ったりやんだりで、ほとんど部屋にこもっていたが、今日は地下鉄に乗ったり街を歩いたり。南仏よりも500?ほど緯度が下がったのに(札幌〜東京くらい)、肌寒く感じるのは、地中海がないからだろうか。おまけにこの時期のリスボンは雨が多いようで、ポツポツときてやんで、またポツポツ。



2006年2月19日(日)

 昼12時頃、リスボン着。雨だったので、駅前からタクシーでホテルまで。日曜だからか、商店はほとんど閉まっていて、ちょっと寂しい感じ。ドイツなどもずいぶん昔は、日曜はどこもほとんどが閉店だったが、最近は変わってきたらしい。でもここは別のようだ。イタリアやフランスほど経済が活発でないのだろう。



2006年2月18日(土)

 今日、ポルトガルのリスボンに発つ。もうフランスに用はない。ついでにスペインもすっ飛ばす。すっ飛ばすにはワケがある。いずれわかる。
 アルルを朝8時に発ち、6時間でボルドー。そこで3時間ほど待ち、スペインの国境の町イルンまで3時間。ここでまた2時間ヒマをつぶし、夜行で14時間を過ごしてリスボンへ。中国以来の列車での長旅だ。
 国境の町イルンは、フランスと大西洋に面している。ヨーロッパをこうして旅すると、EU域内では国境はあってないようなものに感じる。列車を降りると駅構内の案内板がすでにスペイン語になっている。日本人としてはやはりこういうのは、列車で眠っていたせいか、催眠術にかけられているようで、不可解だ。
 不可解がもうひとつあった。イルン駅のカフェで食事をしていると、テーブルに小さなプレートが置いてあって「この席は禁煙席です。また、16歳未満の喫煙は禁止されています」と書いてある(スペイン語はわからないが、たぶんこうだろう)。そしてその隣に、同じような意味のことがまったく違う言語で書かれていた。フランス語でも英語でも、独でも伊でも露でもない、見たこともない言葉。隣の席の人に尋ねると「これはバスク語。この国の言葉だよ」。スペイン北部のここはバスク人の住むバスク地方とよばれている。同じくいち地方であるガリシアのように、ここも独立気運の高みにあるのかどうかは知らないが、「この国」はスペインであることは明らかだ。少なくとも法律的には。だから彼の返事は「この国の言葉だよ」ではなく「俺たちの言葉だよ」と聞こえた。
 なんだか、ゴッタ煮のヤミ鍋を食っているような感じだ。



2006年2月17日(金)

 カマルグ湿原というところへ足を延ばす。アルル駅からバスで50分、サン・マリー・ド・ラ・メールという地中海沿いの町に出て、そこから歩く。10分もすると、左右に広大な湿原が現れる。世界中から渡り鳥がやってきて、中にはヨーロッパで唯一ここで巣作りをするフラミンゴがいるそうである。大きな池に、そいつらがいた。
 フラミンゴの飛び方。水の底に立っていて、まず翼をばたつかせる。足が浮いたところで水から抜き、そのままバシャバシャバシャと、水掻きのついた足で六歩ほど水面を後ろに蹴り、浮力がついたところで空中に入る。流麗。浮かずにそのまま蹴っていれば、水の上をずっとどこまでも駆けていけるはず。うらやましい限り。
 湿原を貫く道路を歩いてみるが、どうもこれもピンとこない。麗江やシャングリラの日々を想ってここを選んだのだ。果てしなく広がる田園風景は、僕の得意とする分野のはずなのだが。理由は、起伏がないこと。もうひとつ重大な欠陥は、やはり水だ。どうも僕は水と相性がよくないらしい。伊藤キムは、泳げない人だったのだ。
 明日アルルを出るので、とうとう今夜は例の「soup de poison」にありついた。



2006年2月16日(木)

 町を歩いてみる。ローマ時代の円形闘技場などがあるが、みすぼらしい田舎町、という感じで、あまりピンとこない。もちろん田舎は嫌いではないが、なぜかしっくりこない。
 アルルといえば、女。『アルルの女』。メロディが浮かんでこない。しかし僕には強力な武器があった。僕のザウルスには辞書機能があり、そこに著名な作曲家の代表曲の一節が収められている。この曲名をインプットすると、出た。ビゼー作曲。そうそうそう、ファランドールっていうんだった。ゆったりとした8拍子が、突然16拍子に変わる、聴けば誰もが「ああこれか」と分かる、あれだった。
 小さなアルルの小さなホテルで、こんな小さな機械から大きなオーケストラが聴こえる。不思議、驚き。



2006年2月15日(水)

 今日、アルルに移動する。
 ニースの4日間のうち、パレードを観たのは最初の土日の2日。3日目は月曜で休み。でも5日目まで出発を延ばしたのはワケがある。
 コーデュロイズボンをクリーニングに出したからだ。街のクリーニング店へ土曜日に持っていったら、出来上がりは火曜の午後だという。パレードだけ観る予定でそこまで長くいるつもりはなかったが、旅の途中ではクリーニング店はなかなか見つからない。クリーニングを扱うような大きなホテルではなかったので、結局預けて火曜まで待つことに。そのために、2泊分の70ユーロ(約9800円)を払うのだが。でもどこで預けても同じだし、ニースは暖かいのでよしとする。
 ニースを朝早い列車で発ち、マルセイユで乗り換え、午後アルル着。ニースと違ってわずかに内陸で、ローヌ川に沿った小さな町だ。


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