Coffee and Cigarettes   コーヒー・アンド・シガレッツ  (2004年6月)
Coffee and Cigarettes ジャームッシュの新作を劇場で見なくなってどれくらい経つだろう。いくら「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「ダウン・バイ・ロー」の時のような完全な同時代性は感じられなくなったとはいうものの、ジャームッシュの新作なら何をおいても劇場に駆けつけるのに吝かではない気持ちはまだ持っているのに、それなのにジャームッシュの新作が劇場にかからない。

あるいは、劇場にかかってもたったの一週間でもう次の週には消えていたり、私の住む場所では上映されないといった状況が続いている。おかげでスクリーンの上でジャームッシュ作品をスクリーンで見るチャンスを何年にもわたって逃し続けるという忸怩たる状況に甘んじる結果になってしまった。「10ミニッツ・オールダー」は元々TV番組だったとはいえ、「デッドマン」も「ゴースト・ドッグ」も、別に最初からヴィデオでなんか見たくはなかった。

それで今回、「コーヒー・アンド・シガレッツ」が近くの劇場に来ますように来ますようにと願をかけていたのだが、ついに念願かなってチャンスがめぐってきた。それでも来週までやっている可能性はかなり低いだろうと、とにかく上映初週に勝負をかけるしかない。ジャームッシュって、マイナーな監督になってしまったんだなあ。それでも一応間隔があくとはいえ、定期的に作品を撮っていられるだけましなんだろうか。

「コーヒー・アンド・シガレッツ」は、読んで字の如く、コーヒーとシガレッツを小道具として、何本もの短編を寄せ集めた作品である。これが一本一本の間になんらかの伏線や共通する重奏低音のようなテーマがあったり、あるいは一本一本がこれほど短くなかったりしたら、作品はオムニバスと呼ばれるのかもしれないが、「コーヒー・アンド・シガレッツ」にはそれがない。本当に、ただコーヒーとシガレッツを媒介に、十何本もの、まったく独立した短編が紡がれるだけだ。これはオムニバスというよりもコラージュという感覚に近い。

元々「コーヒー・アンド・シガレッツ」は、86年にその第一編はでき上がっていた。その後89年、93年とパート2、パート3と撮り次がれており、ジャームッシュ・ファンには既によく知られている作品だった。インディ映画専門チャンネルのIFCとかを見ていると、空いた時間にそれらの作品を流してくれることがあって、別になんの説明もなくその断片を見ただけで、これ、ジャームッシュだろうとすぐにわかる独特のオフ・ビート感覚が横溢しており、うーむ、やっぱりジャームッシュって面白いなあと思わせてくれた。今回、それらにさらに新しい断片を撮り足し、一編のフィーチャー作品にしてしまったものだ。

だから全編を通したテーマというようなものは特にはなく、それこそほぼ全員がシガレッツをふかしたり、ふかそうとしたりしながらのいわゆるトーキング・ヘッズもので、それが延々と続く。他に全編を通した特徴としては、モノクロで撮られ、それぞれの一編に登場する人物はせいぜい二人から三人、あるいは一人二役で、ほとんどアクションはないといったところか。いくら最初の数編が好評だったとはいえ、こういう企画がよく通って現実に上映の運びとなったよなと感心せざるを得ない。いずれにしても、同様にニューヨーク派の一方の雄であるウッディ・アレンとはまた別の、独自の道を進んでいるのがジャームッシュだ。

アレンとジャームッシュを並べてみた場合、まったく異なるこの二人の作品に共通なことが一つだけある。それは登場人物の多弁性だ。むろん、登場人物の誰もがのべつまくなしに喋り続けているわけではなく、特にジャームッシュの初期の頃の作品では、逆にセリフを廃した絵作りの印象が強かったりもするのだが、それでも、登場人物のセリフ回しが作品の印象を大きく左右していたことは否定できない。「コーヒー・アンド・シガレッツ」は、そのセリフ回しのみで全編を撮ってみたらという試みを実現してしまった作品のようだ。

要するにコーヒーとシガレッツは、登場人物の会話を円滑に進めるための潤滑油として存在するという意味合いが最も大きい。シガレッツはそこにあっても、禁煙中だったり、禁煙の場所だったり、そばに子供がいたりするなど、登場人物の何人かはシガレッツを手にしても、実際に火をつけるわけではない。また、コーヒーの場合でも、はっきり言ってあれらのコーヒーは、煮詰まっているようで、まずそうだ。なんか、コーヒーというよりも、タールのように見える。

モノクロ画面におけるコーヒーとシガレッツの煙は、実は、道具立てとしてはともかく、視覚的には相反する効果になりやすい。煙はモノクロ画面で最も格好よく映えるが、コーヒーはただ黒くなって、煮詰まってどろどろになった、まずそうなコーヒーにしか見えなくなる。だから、実は、コーヒーとシガレッツを両方一緒に映すというのは、実は視覚効果としては難しい道具立てだ。両方うまそうに見えるようには、どうしても撮りにくい。

ただし、それもニューヨークだけを舞台としているなら、それなりの効果がないこともない。ニューヨークのレストランで食事をした者ならわかるだろうが、ニューヨークのコーヒーはまずい。最近はスターバックス等の影響もあり、コーヒーにうるさくなった者が増えたからそうでもなくなってきたようだが、一昔前までは、わりといいレストランで食事をしても、煮詰まった、とてもじゃないが飲めるようなものじゃないコーヒーを平気で出すところがかなりあった。

だから、「コーヒー・アンド・シガレッツ」の舞台がニューヨークだけに限っているなら、まずそうに見えるコーヒーが、逆にいかにも少し前のニューヨークという感じを出していると言えなくもないが、今回は全米中で撮っているからなあ。最も説得力があるのは、実はジャームッシュが味覚音痴で、シガレッツの煙の撮り方には凝っても、コーヒーをうまく撮ろうという意図は最初からないのではないかという仮説であるが、実は、この仮説はかなり信憑性があると私自身は思っている。「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で、あんな死ぬほどまずいTVディナーを主食にしている登場人物を平気で撮っていたのがジャームッシュなのだ。

実は今、ニューヨークでは、この作品に描かれているようには、レストランでシガレッツを吸うことはできない。そういう風に法制化されちゃったのだ。現在シガレッツが吸えるのはバーでだけで、そのバーも禁煙にしちゃえという動きもかなりある。おかげで愛煙家は、どうしてもシガレッツを吸いたければ、食事の合間やグラスの合間に外に出なければならず、かなり肩身の狭い思を強いられている。コーヒーにしても、ヘンにグルメやコーヒー通が増えた結果、シュガーやミルクの種類にこだわるだけじゃなく、シナモンをちょっとだけ振るだとか、端から見てるとどうでもいいようなことまでいちいち口出しするような輩も増えた。煮詰まったようなコーヒーでも、コーヒーであればたぶん満足して飲み、禁煙の進む時代の趨勢に逆らって好きなだけシガレッツを吸っていると思えるジャームッシュから見れば、それはきっと退行か軟弱化の現れに見えるに相違ない。「コーヒー・アンド・シガレッツ」は、そういう時世だからこそこういう作品を撮るという、ジャームッシュの体制に対する宣言に見えないこともない。でも、やはり、酸化して煮詰まったコーヒーが飲みたいとは、私はまったく思わないが‥‥



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