「青少年育成施策大綱」の策定に関する意見



はじめに、「青少年育成施策大綱」の策定に関し広く意見の場を設けて下さった事を感謝致します。

「青少年育成施策大綱」について私からは、メディア・表現物と言った社会環境をめぐる視点や、性意識(性教育・問題対策など)をめぐる視点などの具象的ポイント、ひいてはその根幹となる「育成」の姿勢についての意見を述べさせて頂きます。

私はかつて提唱された「青少年有害社会環境対策基本法案」について、それが表現の自由・情報受領の自由などの自由権の侵害になると同時に、この法案が根本的に持つ「健全育成」の概念と「有害なものとそうでないもの」の公的な線引きで生じる価値観の序列化・多様性への否定視への可能性について危惧しておりました。
今回の「青少年育成施策大綱」に向けての私の意見もこれらの危惧を前提としております。
「健全育成」の概念が内包する、特定の道徳観の優先的な制度化、道徳観に基づいた理想像を「育成」する目的(これは、理想像を基準とした個々人への序列化や排斥をも意味するものと思われます)、これらの方向性が大綱に盛り込まれるべきではないとするのが私の意見の大筋であります。

近年、国民意識を考える上で(取分け青少年育成において)個人主義と生活上の「自由権の拡大」とに対し強いアレルギー反応を示す向きが官民問わず一部に見受けられます。従来のそれらが諸問題を生じ考え直しを要していた点も確かですが、問題解決の道を前述の人たちは反動的に道徳の制度化に求めようとしています。
有識者懇談会報告書を拝見し、この大綱がそれらの反動的逆行を意図したものではなく、むしろ青少年政策の転換、個人の権利と多様性を尊重する未来を意図したものであることは重々承知しておりますが、僭越ながらやはりその検討の過程でそうした「旧道徳の制度化」を求める部分が随所で見受けられる様に思われます。

メディア・表現物に関して私は「暴力的な表現が暴力的人格や行動の形成に結びつく」とする影響論とそれに加えて特定の「健全」観を基準に有害なものとそうでないものとを区別する姿勢とを否定視しています。 昨今の「表現物に影響されて」起こったとされる事件・問題について表現物そのものや個人主義的世界観にその要因を求める言説が多く見受けられますが、私は事件の当事者が被害を受けた人や周囲の人の「個人」を認めなかった事、それを認める為の人格を形成していなかった事こそが要因の本質だと考えています。
この点は表現規制論や道徳制度論を否定視するに留まらず、メディアリテラシー能力とその核になる個人尊重意識の育成の必要として積極的に大綱に要望する所でもあります。
具体例で言うなら
「TV番組内でみんなが楽しげに芸人をいじめていたけど、クラスメートに同じ事をしたらそのクラスメートは楽しく応じてくれるだろうか?彼が苦しんでいても気にする必要は本当にないのだろうか?」
「映画やアダルトビデオで女性を騙して最後に無理やりレイプしたが結果オーライでその女性も喜んでいたって場面があったけど、自分が目の前の女性に同じ事をしても彼女は喜んでくれるだろうか?彼女が苦しんでいても気にする必要は本当にないのだろうか?」
「相手にも、自分と同様に望むことや望まないことがあり、それに伴う判断や感情があるのではないか」
そういうような事を「きちんと」考えられる人間を育成する方策の検討を望む、と言う事です。これは情報からの隔離や旧道徳の制度化による価値観の統制では達成できない(むしろ逆)ものであると思われます。 従来、こうした他者の個人や価値観を意識し認めるための人格育成が広く行われたケースを私は見たことがありません。放任と旧道徳を前提とした統制との両極しかなくその狭間で「人権」「個性尊重」の文言が宙吊りになっているのが現実ではなかったでしょうか。
青少年以前に、社会全体にその意識が定着できていないからであるようにも思われます。大人が理解できないし実行できないから子供にも教えられない、とも言えます。「全ての人が」そうだと言う事ではありませんが。

性意識に関する現状にも同じ側面があると考えられます。「健全育成」の思想の文脈では性的なものはその大半が隔離の対象であり「有害」と見なされていました。また、性的な行動もその問題性は「わいせつ」「逸脱」として捉えられています。何からの逸脱か。これは大人の間でも性犯罪が個人権や個性の侵害ではなく「性秩序の攪乱」に犯罪性・問題性があると見做される事と結びついています。人にではなくある種の「秩序・道徳」に対する問題だとしているのです。ここでの性秩序・性道徳が何を指すのか、これまた「人間」を尊重するものではなく家族制度と(主に男性が一方的に女性に向ける)性幻想を優先するものでしかありません。
無秩序や放任を提唱するつもりは毛頭ありませんが、本当に必要な秩序やルールは何に基づくべきか考え直される必要があるのではないかと私は思います。個人が自分の人生において家族制度や幻想を選択する事には問題ありませんが、性意識に関する秩序の根幹がそれであるという事の深刻さを考えるべきであると。
『青少年育成施策大綱骨子(案)』においてもこうした旧来の道徳の制度化を意図した文言が随所に見受けれるように思われます。
ここでも私は道徳論の盛り込みを批判する発想から一歩踏み込んで、新たな秩序とモラル(家族制度や幻想ではなく、個性や選択肢の多様性を尊ぶ前提)による育成施策を要望する所であります。

前述の通り、私は「健全育成」の文言を、特定の道徳観に基づいた「過ちや汚点のない理想的な青少年像」を前提に育成する、多様性や当人の意思を蔑ろにし、序列化と排斥をも招く発想であると考えております。これは自己決定権を含む基本的人権の発想から離れ、また児童人権擁護の発想からも隔たった姿勢であると思われます。大綱骨子の中に、青少年施策に欠かせないはずの「子どもの権利」に関する言葉が一切使われていない事からもその姿勢が強く感じられます。
今一度、報告書案の段階で打ち出された青少年育成の視点に立ち返って頂きたいと思います。



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