File No.1:はっぴいえんど物語〜その活動略歴〜

 はっぴいえんどを語るには、まず'69年にアルバム『エイプリル・フール』でデビューした、エイプリル・フール(細野晴臣、松本隆、小坂忠、柳田博義、菊池栄二)にまで話は遡ることになる。エイプリル・フールはオリジナル曲に英語の歌詞を載せた実験的なハード・ロック・サウンドで当時の先端をいくものだったが、アルバム発売直後に解散、細野と松本は新バンド結成のためメンバー探しを始める。エイプリル・フールの反動(=ハードなオリジナル曲に英語の歌詞といった方向性への反動)もあり、細野と松本は今度は日本語によるロックを目指すようになる。当時彼らがよく聴いていたのは、バッファロー・スプリングフィールドやモビー・グレープなどに代表される、アメリカ西海岸のロックで、アコースティックとエレクトリックの楽器を併用し、音楽的にも幅広いルーツを兼ね備えた音楽だった。

『APRYL FOOL』/エイプリル・フール

69年発表の、唯一のアルバム。全9曲中、日本語詩は3曲。まだはっぴいえんどのような日本語でロックを歌うという発想には辿り着いておらず、松本隆も英語詩を1曲書いている。セルフ・プロデュース、セルフ・アレンジという形態は、当時としてはむしろ異例。しかしアルバム発表時にはバンドは既に解散状態となり、新たな模索を始めた細野晴臣、松本隆は大滝詠一と巡り会いヴァレンタイン・ブルーを結成する。

 またその当時、細野は「ランプ・ポスト」という名前の音楽の勉強会的グループ活動を行っており、そのメンバーだったのが大滝詠一と、大学の友人である中田佳彦(中田喜直の甥/後にレコーディング・ディレクターとなる)だった。そして'69年のある日、大滝から「バッファローがわかった!」との電話を受けたのを機に、細野は大滝を新バンドのメンバーに誘う。こうしてはっぴいえんどの前身「ヴァレンタイン・ブルー」が結成される。この後、細野、松本、大滝の3人で曲作りを始めるが、リード・ギターの必要性を感じ人選を開始、当時高校生ながら「スカイ」というグループで、林立夫や小原礼らと共に既に活動をしていた鈴木茂に白羽の矢を立て加入させ、バンドの原型が出来上がる。こうして結成された「ヴァレンタイン・ブルー」は'69年10月28日、お茶の水全電通会館ホールでのイベント「ロックはバリケードをめざす」に出演し、ライヴ・デビューを飾る。

また'70年に入ってURCレコードからデビューが決まり、他のURC系アーティストとの交流も多くなる。その中で当時「フォークの神様」と呼ばれ絶大な人気を誇った岡林信康のバック・バンドの誘いを受け、'70年春からはバンド活動と岡林のバッキングを並行するようになり、やがて岡林などのファンも取り込むように人気を増大させていく。また'70年4月にはバンド名を「はっぴいえんど」に改名、さらにこれと前後して遠藤賢司など他のアーティストのレコーディングに参加する機会も増え、レコーディング・バンドとしての成長も遂げていく。そして'70年8月にファースト・アルバム『はっぴいえんど』をリリース。「ニュー・ミュージック・マガジン」'71年4月号の第2回レコード賞で「日本のロック大賞」を受賞するなど高い評価を得る。また同年8月の「第2回全日本フォーク・ジャンボリー」には岡林のバックとバンド単独の両方で出演し、これを機に知名度がアップ。

その後'71年には岡林との関係を解消、同年8月の「第3回全日本フォーク・ジャンボリー」に出演し、その人気はファンの間で不動のものとなる。その中11月にセカンド・アルバム『風街ろまん』を発表、日本的な歌詞とロックを見事に融合し、日本のロック・バンドの第1人者となる。

しかし'72年頃より、バンドとしての方向性にメンバー間のズレが生じ始め、同年10月にL.A.でサード・アルバム『HAPPY END』をレコーディングし帰国後解散が決定的となり、'72年末をもってついに解散。『HAPPY END』は'73年2月にリリースされ、また同年9月21日には文京公会堂で解散ライヴ「CITY-Last Time Around」が行われ、はっぴいえんどは惜しまれつつも正式に解散となった。

活動期間は短かったものの、彼らが日本のロックに残した影響は大きく、また細野晴臣はその後キャラメル・ママ〜ティン・パン・アレー〜Y.M.Oと常に第一線で活躍(最近はCMでもお馴染み)、鈴木茂も細野と同様にキャラメル・ママ〜ティン・パン・アレーを経てアレンジャー/プロデューサーとして活躍、松本隆は作詞家として松田聖子や近藤真彦、太田裕美など多くのヒット曲を手がける一方、映画「微熱少年」の監督や小説家として幅広く活動、大滝詠一はDJとして、あるいはソロ・アーティストとしてナイアガラ・レーベルで独自の活動を続け、『A LONG VACATION』や『EACH TIME』などの名盤を発表しながら、松田聖子、小林旭、森進一などに幅広く楽曲を提供しヒットさせるなど、それぞれが日本の音楽界の第一線で現在も活躍中であることは周知の事実である。

また最近は、これらはっぴいえんどの音楽を聴いて触発されてミュージシャンやスタッフになるケースも多く、この事からも彼らの活動の影響を感じ取る事が出来る。よって最近のはっぴいえんどに対する再評価は、もはや一過性のブームではなく、彼らの目指した音楽や活動のスタイルが日本の音楽シーンで真に根付いた事を物語る、その結果と言えよう。

●はっぴいえんどの功績

 はっぴいえんどは前述のように、歌謡曲やフォーク全盛の'70年代初期に、日本語によるオリジナルなロック/ポップスの方向性を示し、また彼らの曲作りやレコーディングの手法は、その後のニュー・ミュージックのレコーディング方法論の基礎を作った点で大きく評価される。特にレコーディング・バンドとしての側面では、例えばシングルとアルバムで別ヴァージョンを収録する、アコースティックとエレクトリックの楽器を差別無く併用する、サウンドがしっかりと定義された楽曲の中に笑いや遊びの要素を盛り込む、或いはレコードとライヴのアレンジを変えるといった、今では一般的に用いられる方法論をいち早く実践したのも彼らであった。

 また解散後もメンバーそれぞれが第一線で活躍し、その結果大滝はソロで、細野はY.M.O.で、鈴木はアレンジャーとして、松本は作詞家として成功を収めた。特に細野と鈴木に松任谷正隆、林立夫を加えて結成されたキャラメル・ママ(後のティン・パン・アレー)は、はっぴいえんどの洋楽的手法を更に追求し、日本のロックやポップスのサウンドの質の向上に大きな役割を果たした。またはっぴいえんど解散後、彼らのバックアップによって荒井(松任谷)由実や吉田美奈子、杉真理、佐野元春、山下達郎、大貫妙子、ラッツ&スター、松田聖子、南佳孝ら多くの才能とヒット曲が生まれたことは、はっぴいえんどの結果的な成功を物語っていると言えよう。


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