File No.3:はっぴいえんど関連のレコード・レーベルについて


●URCレコード

 URCレコードは'69年に設立された、日本初のインディーズ系レコード会社。当時はレコードを発売するためには大手レコード会社と契約し、その会社が持つ販売網を使って特約店(レコード店)に商品を流すのが一般的だった時代に、このURCは独自の考え方で通販を中心に活動を開始した、特異な存在だった。このURCの母体となったのは、フォーク歌手の高石ともやが所属する高石音楽事務所で、'67年に開設。当時のフォークの曲は、大学紛争や安保闘争といった社会的事件と連動して人気を得ていたが、そのため過激な歌詞が災いとなって大手レコード会社からリリースできない曲が多くあった。これを解消するため会員制通販組織「アングラ・レコード・クラブ」を設立し、そこでレコードを配布する事を考えついたのが、高石音楽事務所の社長、秦政明だった。'69年2月から配布が開始された「アングラ・レコード・クラブ」は大好評で、入会希望者が膨れ上がったため、そこでURCレコードが設立される。これにより'69年8月から、独自のルートによってURCの商品がレコード店に並ぶようになる。そしてこのURCには、フォークの神様と呼ばれた岡林信康や、彼のバックをつとめたはっぴいえんど、ジャックスの早川義夫、遠藤賢司、高田渡など個性の強いアーティストが所属、やがて多くの聴衆の支持を得るまでになる。しかしながらメジャーレコード会社によって、売れてきたアーティストの引き抜きや移籍が相次ぎ、URCはその独自性を失うこととなり、'74年12月にはURCの販売をエレック・レコードに委託して事業を縮小、'77年まで細々と制作を続けたもののやがて消滅となる。

 しかしながら、はっぴいえんどをはじめその後のJ-POPSシーンをリードする事になる多くの有能なアーティストを発掘し紹介した功績は、計り知れないものがある。さらに現在話題のインディーズの基礎をこの時期に既に作り実践していたという点では、メジャー・レーベルよりも自由な発想で運営された画期的なレコード会社だった。


●エレック・レコード

 エレック・レコードは元々、エレック社という出版社を母体として'69年に永野譲によって設立された。元来、朝日ソノラマなどに封入されるソノシートや通販教育講座等を事業の一部として行っていたが、それを出発点としてレコード制作にも乗り出し、当時深夜放送で絶大な人気を誇った土居まさるのレコードを制作、土居が自分の番組で盛んにかけてヒットしたことから、会社は急成長を始める。'70年には当時話題になっていたフォーク・シーンの中から、広島フォーク村の中心的存在だった吉田拓郎を発掘、これがヒットする。またこの頃フォーク系シンガーを中心に、古井戸(RCサクセションのチャボこと仲井戸麗一が在籍したグループ)や泉谷しげるらが集まり、エレックは一躍注目を浴びるレーベルに成長。しかし'72年には看板だった吉田拓郎がCBSソニーへ移籍、また次第にフォークが下火になるに連れ、エレックの経営は悪化。'75年に大滝詠一のナイアガラ・レーベルを傘下に設立、大滝やシュガー・ベイブの新譜を発売したものの経営悪化は止まらず、'76年6月に倒産、エレックは終焉を迎えた。約10年間という短期間のレコード会社ではあったが、'70年代初めの激動の時代にフォークの一般化を図り広めたエレックの功績は大きかった。


●キング/ベルウッド・レコード

 メジャー・レコード会社として講談社の傘下に設立されたのがキング・レコード。'70年代初頭、その中心は当然のことながら歌謡曲だったが、'60年代後半からのフォーク・ブームにいち早く目をつけ、当時人気を集めつつあった小室等と契約したのがキングのディレクター三浦光紀だった。先見性を持った三浦のディレクションにより、'71年4月には小室のシングル「雨が空から降れば」5月にはファースト・アルバム『私は月には行かないだろう』を発表、またURCから原盤を借りて三浦がかねてから気に入っていたはっぴいえんどのシングル「12月の雨の日」も4月に発売、ここからキングも本格的にフォークやロックの制作に乗り出す事になる。翌'72年春、三浦を中心としてキングの傘下にベルウッド・レーベル(この時点では独立会社ではなく、キングの社内レーベル)が設立され、あがた森魚の「赤色エレジー」が大ヒット、またURC系のはっぴいえんどや大滝詠一、友部正人、六文銭、高田渡などの作品をリリースし次第に注目を浴びるようになる。さらに'73年5月にはベルウッドが独立会社化し、細野晴臣のソロ第1作『HOSONO HOUSE』などを発売、URCやエレックなどのアーティストを引き継ぐ形でリリースを続けていった。しかしこの頃からフォークの世界もメジャーとマイナーがはっきりと別れ始め、ベルウッドはマイナーの部類に数えられるようになる。事実、メジャー会社では吉田拓郎や井上陽水がヒットを飛ばし、その格差はもはや明白なものとなったが、ベルウッドをメジャー化したくなかった三浦が退社し、これにより急速にベルウッドは終息へと向かうことになる。ベルウッドはディレクター三浦光紀の感性によるところが大きかったが、独自の視点でアーティストを獲得・開発していった点では今日のレコード会社やレーベルの基礎を作ったとも言える。


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