File No.4:発掘原稿その1「URCレコードお引っ越し事件」

Original Written 1987/Re-Write 1998/TEXT by ICHIRO HOSOYA from WONDERFUL WORLD

○はじめに:この原稿は、元々1987年3月10日に発行されたミニコミ誌『POP SUE』増刊号Vol,3(発行:SUMIYA藤沢六会店/制作:CHIRO'S HOUSE)に掲載されたものです。今回このHPに掲載するにあたって、当時の発売日など具体的に現在の状況と合わないものに関しましては若干の修正や注釈を加えてありますが、'70年代初頭のインディーズ・メーカーの状況が皆様に伝わればとの思いから、基本的には一部を除き原文をそのまま掲載しております。


特別手あて、壱万円也。

 商業ベースにのらないが、すぐれた唄をあつめてレコード化し、会員制をとって通信販売を始めたのがURC、アングラ・フォーク・クラブである。その母体は高石音楽事務所(*註1)。そしてどうしたこうしたと云う話は、最近(*註2)白夜書房から『資料 日本ポピュラー史研究 初期フォークレーベル編』(*註3)というのが発刊されてますので、是非そちらをお読み下さい。「POP-SUE」ではその本にも載ってなかった、貴重なインタビューを取りましたので、あわせてお読みいただくと、より一層URCがわかるってぇもんです。一体、誰のインタビューが取れたんだ?! まぁ何てぇことはない、URCの偉い人は誰一人知りませんので、どないしようと思いましたところ、私の友人I君が当時「URCレコードの引越し」という一大イベントに参加し、壱万円もらったという事を思い出し、さっそく会いに行き、インタビューを取ってきたのであります。では...

--いやー、久しぶりー。

I:どうも。もうどっぷりサラリーマンだぜ、オレも。

--I、おまえサラリーマンつとまってるの?

I:なんとかね。でもつらい時は飲み屋で唄っちゃうんだ!

--カラオケ?

I:ちっがうョー。「山谷ブルース」(*註4)

-- ・・・・・・。

I:「くそくらえ節」(*註5)も唄っちゃうョ。

--完全に20年前で止まっちゃってるねー。

I:だってさ、そん時オレ中学生ョ。それまで♪くそくらったら死んじまえ〜♪なんていう歌詞あった?ないでしょ。魅力的だったよ。大声で唄っていいんだもの「くそくらえ」って。フォークっていうより、アングラフォークね。何でも思っている事を唄にしていい、フォークというか型式。なんかとても自由に感じたね。

--オイ、あんまり今の世で"自由"なんて言葉使うなよ...。

I:いや、使うよ、自由、フリー、平和、ピース、ハッピー!はっぴいえんど!! 日本語のロック。そう云えば、レコード屋さんにも「日本語のロック」なんていうコーナーあったもんね。中学・高校とカレッジ・フォークと洋楽のロック聴いてたから、日本語のロックって真っ先にとびついたね。

--そうだね、深夜放送なんか聴いてても、カレッジ・フォークやレッド・ツェッペリン、一緒だったもんね。亀渕さん(*註6)なんか特に...。

I:カメ&アンコーと「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」(R.ストーンズ)同時期にコピーしてたな。

--そりゃおまえぐらいだろうな...。

I:ジョン・メイオールとかフリーとか来日した時、岡林(信康)(*註7)とか日本のミュージシャンが共演したでしょ。それで日本語で、はっぴいえんどをバックに従えて、はっきり云って下手クソだったけれど、ROCKしていたと思うんだ、岡林は。それからFM東海から流れてきたはっぴいえんどの1st。通称『ゆでめん』(*註8)。これ聴いて、はっぴいえんども気になったけれど、URCレコードっていう存在がすごく気になり出したんだよね。それで友人に誘われるがまま、ジャグ・バンドをやり出したんだ。洗濯板やタライをひっくり返したベースを使って。その友人が高田渡(*註9)とか聴いていたから、それじゃあって聴き出したら、これもURCレコード。それでかたっぱしからURCレコードを聴きはじめたんだ。ギターのオープン・チューニングを知ったのも、CSNじゃなくて遠藤賢司(*註10)だった。フォークブルースを聴き出したのも、高田渡とか加川良(*註11)の元唄がそっちの方だっていうんで聴きだしたんだよね。唄の詩、言葉が気になったのも、URCのレコードを聴きだしてからだった。渡もそうだけど、友部正人(*註12)の詩は、ぐさりときたな。友部を聴いてからだ、阿佐ヶ谷に住みたい、と思ったのは。中央線に乗ってどこかへ行ってしまいたい。決して中央フリーウェイ(*註13)でじゃぁなくって。よく四畳半フォークとか、暗いとか云われてたけど、あれは南こうせつとか松山ナニガシとかが、せせこましい歌をよりせせこましく唄ったからだよ。加川良なんか「屋台じゃ焼ソバ二十円〜」をどなりまくって唄ってたもの。ダイナミックにね。

--それじゃ、エレック・レコードも...。

I:ダメダメ、拓郎、ケメ、ピピアンドコットだかヒョットコだか、大〜嫌い。彼らがっていうより、エレックが売ります!っていう体質が嫌いだったんだな。商売してますっていうか。最後には村八分と山口富士夫(*註14)リリースしたから許してやるけど...。大瀧詠一のソロ(*註15)もエレックじゃかわいそうだったよね。

--ところで、そろそろURCの引越しについて...。

I:そうそう、その頃ちょっとした紹介でURCレコードでバイトしてたんだ。

--いつ頃?

I:たぶん'73〜74年ぐらいだったと思うよ。もうURCレコードも末期。営業の人がもうやってられないっていうんで、一人一人辞めていった時期だった。タクシーの運転手になる人、実家へ帰って酒屋を継ぐ人、みんな在庫のレコードを1枚づつ段ボールに詰めて退職していった。朝、事務所に行ってオーダーの受け付け、その頃でも1日平均20店ぐらいから10枚ぐらいのオーダーが入ってくるのね。ほとんどが、はっぴいえんどと五つの赤い風船(*註16)と岡林、そしてなぎら健壱(*註17)。なぎらはよく売れてたね。なぎらはその頃独立して、ゼロ音楽出版ってところにいて、ほぼパーソナルな事務所だったから、小回りがきいて、コンサートも多かったみたい。高田渡氏がよく「おたく売れてていそがしくて、大変だねー。」ってからかうと、例の調子で「いや〜そんなでも〜困っちゃうな〜。」なんてしなつくりながら答えてた。

--ひょうきんの元祖。

I:そう、フォークの連中って、友部正人と中川イサト(*註18)斉藤哲夫(*註19)を除いてみんな笑いがあったね。唄なんだか、漫談なんだかわからないところがあった。レコーディングだっていいかげんだよ。

--なぎらの?

I:うん、金も無かったせいもあるんだろうけれど、「今日、なぎらちゃんのレコーディングあるけれど遊びに来ない?」って夕方ゼロ音楽出版社の人から電話があって、それじゃあっていうんで、そこら辺にいる人たち引っぱってスタジオ行くんだ。「うーん、じゃあちょっと暇そうな人、中入って歌ってよ。コーラスで。そう、20人ぐらい、こんな感じで。」それで2分もたたぬうちに「ハイ!」プレイバックして同じ事やって「ハイ!」もう1回くり返して...。「どうも!200人の大合唱ができた!」

--和気あいあいと...。

I:渡ちゃんだって何度コンサートで寝ちゃったか...。

--ギター抱えてね...。

I:洗面器ステージに置いて。ステージに上がるまでにもうすっかり出来上がっちゃってるんだ。みんなそんな感じだったからっていうわけでもないだろうけれど、URCでLP出してキング・レコードやビクターでシングル盤を切る(*註20)っていうのも別に問題なかったんだろうね。社長の方針なのか、売れたにこしたことはないんだろうけれど、芸能プロ屋さんになるつもりはなかったんだろうな。歌ごえ運動出身の人だから。「アングラ」っていうか、あくまでも世の中で埋もれている唄やシンガーを紹介していく姿勢を貫きたかったんだろうね。本音はよく知らないけれど。だから岡林をはじめ、はっぴいえんどや遠藤賢司、高田渡らみんな知らないうちにメジャー・レーベルからアルバムが出ていて、本人たちがよくわからないうちに、メジャー・レコード会社が売りまくって儲けていた。売れ線アーティストが抜けていけば、会社もなかなか維持していけないよなぁ。

--それで第1回目の引越し...。

I:原宿セントラルアパート219号から3階の小さな事務所に移った。在庫のレコードは全部タカセというディストリビューターに移して。'75年ぐらいだったのかなぁ。これは無料奉仕。

--そしてすぐにエレックと合併...。

I:そう、営業面をエレック・レコードに渡して、制作だけやってた。新宿に引越して、エレックの奥の方でロッカーなんかで仕切っちゃって...。だけどこの頃はもう、ユーミンとかニュー・ミュージック勢というのがものすごい勢いだったでしょう。URCの時代じゃないんだよね。

--はっきりと変わった。

I:みんなハイカラ指向。歌の価値観が変わってきたんだろうな。

--そしてエレック・レコードも倒産。

I:うん。このエレック・レコードからの引越しはきつかった。もう引越し手伝おうなんていう人はいなかったね。しょうがないから、オレはその時やってたバンドの連中に声かけて、日当壱万円也で手伝った。そん時ROCKバンドやってたけれど、この引越しがギャラもらった初仕事じゃないのかなぁ。

--なさけねぇバンドだねぇ。

I:うーん、確かに。バンドの連中になんて云って話したっけなぁ。「オイ!仕事だぜ!」「やったー。」「どこのライヴ・スポット?」「あ〜それがね、URCレコードの引越しなんだ。」「………。」それで倒産した会社って初めて見たけれど、すごいねぇ。もう警察の手入れか、ヤクザのなぐり込みか、ビートたけしの討ち入りっていうか、もうめちゃめちゃ。まぁ、URCの一角は整然としていて、マスター・テープが1本なくなっていたぐらいだったけど。

--まぁそれで、URCレコードっていうのはレーベルだけ残って音楽舎になって、原盤管理会社になった。そして東宝レコードを経て現在のSMSレコードへ販売権(*註21)が移り変わったわけですねー。時代だねー。

I:そう、そういった意味じゃはっぴいえんどはキャラメル・ママ、そしてティン・パン・アレイとなって、ユーミンをはじめ数多くのニュー・ミュージックの人達と関わっていくわけでしょ。彼らが時代を創ったのか、時代が彼らを創ったのか、すごく大きな功罪を背負っていると思う。URCレコードもその存在は大きいね。そこのアーティストの影響を受けて、陽水や拓郎をはじめ、現在のニュー・ミュージックを代表するシンガーが生まれた訳だから。また販売システムは、現在のインディーズの原点だし、制作会社と原盤管理会社、またプロダクション〜マネージメント管理会社とかを一人で創りあげちゃった、秦政明(*註22)っていう人もすごい!

--とにかくURCレコードは、現在の音楽業界に大きな足跡を残したという事で結論づけて...。

I:よい!

 

●11年後のあとがき TEXT by ICHIRO HOSOYA from WONDERFUL WORLD

1998年10月某日

今度のVAIO欲しいよね・・・・・。あっ!「Talvin Singh」の新譜買いにいかなくっちゃ。今日のデイリーどれくらい?タイアップまだ取れねーのかよ・・・・・。Tourに持っていく器材リスト出しておけっていっただろ!!!!

VS

「URCレコード御引っ越しっの巻」 んっ?タイトルが違う?ほのぼの、ですねえ。IZAM風に言えば、ほの、ぼのぼの。

喧噪の日々にひょんなことから飛び込んできた、四半世紀前の日常の一こま。当時は、まわりをうろちょろするだけの引っ越し請負BAND KIDで今思えば、ほのぼのだけど、当時は真剣そのものだよね。シーンを変えるのは俺だってみんな思ってました。はずかしながら・・・・ぼくも。いまの、インディーズシーンもシステムこそ違えど、志は同じだと思う。URCは、その源として語り継がれていくだろう。

そしてあのときの状況のなかに引っ掛かっていた身として「御引っ越し事件」は、この私が、責任を持って語りべとなりましょう。この命ある限り・・・。


*注釈 by ドバシカズオ

●註1:高石音楽事務所  フォーク・シンガーの高石ともやの個人事務所。高石ともやは'60年代後半より、主に関西地区を中心に活躍したシンガーで、当初はボブ・ディランなどの洋楽を日本語訳して唄っていたが、後に関西系フォークがブームとなるとこの中心的存在として、いわゆる反戦フォークの旗手となり活躍。学生運動の激化や「受験生ブルース」のヒットとともに、たびたび新聞でも取り上げられる人気シンガーとなる。そんな中で彼と事務所社長の秦政明が中心となって設立したのがURCレコードだった。高石は現在でも「走るフォーク・シンガー」として活躍中。

●註2:最近  この文章が発表された当時の「最近」。1987年当時。

●註3:『資料 日本ポピュラー史研究 初期フォークレーベル編』  白夜書房から'86年に発売された、音楽研究書。URCやエレック、ベルウッドといったフォーク・レーベルについての詳細が掲載されている。またこの他にも『1970音楽人百科』(学習研究社/'94年12月)や、『日本ロック体系 1957-1979[上]』(白夜書房/'90年8月)、『日本フォーク紀』(シンコー・ミュージック/'92年12月)、『フォーク黄金時代』(シンコー・ミュージック/'92年11月)にも詳しく掲載されている。

●註4:「山谷ブルース」●註5:「くそくらえ節」  ともに岡林信康の曲。社会派、反戦フォークなどと呼ばれた、いずれも岡林の代表曲。「山谷ブルース」はビクターから'68年9月に発売された、岡林のデビュー・シングル。「くそくらえ節」は元々デビュー曲になるはずだったが、歌詞が過激過ぎたため発売禁止となり、'69年4月にURCの第2回会員配布(会員制通販)で発表。

●註6:亀渕さん  亀渕昭信氏。当時はLFの「オールナイト・ニッポン」のDJとして、また音楽評論などで大活躍。現在、ニッポン放送の重役。

●註7:岡林信康  「山谷ブルース」でデビュー後、'69年8月に1st.アルバム『私を断罪せよ』をURCから発売。同年、中津川フォーク・ジャンボリーに出演し、関西フォークの火付け役となる。'70年6月、2nd.アルバム『見る前に跳べ』を発売、このアルバムからバックを"はっぴいえんど"が務める。この頃から岡林はフォークの神様と呼ばれるようになり、また岡林と"はっぴいえんど"の関係は、"ボブ・ディラン"と"ザ・バンド"に置き換えられて語られ、高い評価を得た。その後'71年に突如渡米、その後表舞台から姿を消したが、'80年代中期からは自主制作アルバムを発売しながら地方をくまなく回るツアーを敢行、最近は民謡のエンヤトットを音楽的ベースに置き、独自の作品を発表している。

●註8:『ゆでめん』  '70年8月にURCから発売された、"はっぴいえんど"の1st.アルバムの通称。正しくは『はっぴいえんど』。4チャンネルで録音されたとは思えないほど、画期的かつ実験的なレコーディングが実践されている。"はっぴいえんど"の代表曲である「12月の雨の日」「春よ来い」「かくれんぼ」収録。ディレクターは現音楽評論家の小倉エージ。

●註9:高田渡  '69年2月、URCからアルバム『高田渡/五つの赤い風船』でデビュー。(但し高田はA面7曲のみで、B面は五つの赤い風船)'69年4月にはシングル「大ダイジェスト版三億円強奪事件の唄」を、'69年9月には「転身/電車問題」、'69年12月には「自衛隊に入ろう/フォークゲリラの諸君達を語る」といった問題作を立て続けにリリース。またアルバムは'69年10月に『汽車が田舎を通るそのとき』を、'71年6月にはキングから『ごあいさつ』(バックは"はっぴいえんど")を発表。その後も独自のスタンスで活動を続ける。もちろん現役。高田渡の特に初期の作品には事件や世相を反映したものが多く、中には放送禁止になったものもあるが、彼の持つ飄々としたキャラクターと素朴な歌声は、当時のフォーク・シンガーの中でも異彩を放つものだった。

●註10:遠藤賢司  '70年、URCからアルバム『niyago』でデビュー。当時の主流であった反戦や四畳半フォークとは一線を画し、私小説的な言葉の選び方と強弱をつけた歌い方に特徴を持った、特異なシンガー。特に言葉の使い方では、例えば"はっぴいえんど"で松本隆が多様する「...です」を既に使っていたのも遠藤賢司だった。これらの手法は'71年の『満足できるかな』でさらに昇華し、シングル「満足できるかな」「カレーライス」のような名曲を世に送り出す。今聴いても、彼の歌声は怖いほど鬼気迫るものがある。

●註11:加川良  元々は「フォーク・リポート」の編集からフォーク・シンガーに転身、高田渡に認められ'70年の中津川フォーク・ジャンボリーで高田のステージに飛び入りし「教訓 I」を歌い、これがきっかけとなって人気を獲得。'71年6月に『教訓』でデビュー、「教訓 I」も'71年7月にシングル・リリース。'73年2月には『1970年』、10月にはライヴ盤『やぁ』を発売。その後も『南行きのハイウェイ』など数枚のアルバムを発表し、マイペースで活動を続けている。

●註12:友部正人  東京出身だが、'70年代始めに大阪を中心に活動を開始、特に'71年大阪で行われた春一番コンサートに出演し「一本道」「まちは裸ですわりこんでいる」を歌い、人気を得る。特に「一本道」の研ぎ澄まされた歌い方と言葉遣いは、とても印象深い。'72年には『大阪へやってきた』でデビュー、このアルバムには高田渡、西岡たかしらが参加。'73年には『にんじん』『また見つけたよ』を発表。'75年には『誰も僕の絵を描けないだろう』を発表し、詩人的な独特な言葉づかいで多くのファンの支持を得る。その後も数枚のアルバムを発表、現在も独自のスタンスで活動中。

●註13:中央フリーウェイ  もちろんフォーク対ニュー・ミュージックということで、荒井由実の「中央フリーウェイ」との対比で使われている。不器用さと器用さ、格好悪さと格好良さ、田舎と都会といった意味の対比も含まれているかも知れない。

●註14:村八分と山口富士夫  '70〜71年頃結成された"村八分"は、当時としては異端のパンキッシュなバンドだった。第1期のメンバーはチャー坊(Vo)、山口富士夫(G)、浅田哲夫(G)、青木真一(B)、上原裕(Ds)。なお上原は後に、"シュガー・ベイブ"に加入している。このバンドも"はっぴいえんど"同様日本語のロックにこだわり、また奇抜な衣装やメイクはヴィジュアル系のはしりとも捉える事ができる。当時はカウンター・カルチャーの旗手として一部のファンから熱狂的な支持を得たが度々メンバー・チェンジを繰り返し、'73年には遂にエレック・レコードと契約、'73年5月5日に京都大学西講堂でのライヴを収録したアルバム『ライブ村八分』が同年6月に発売される。人気は上昇したもののこの頃すでに"村八分"は解散状態で、その後山口富士夫は'74年にソロ・アルバム『ひまつぶし』をエレックから発表。また'79年7月に"村八分"は再結成を果たしている。その後チャー坊を中心に"村八分"は断続的に続けられたが、残念ながら'94年にチャー坊が死去。なお『クイック・ジャパン』Vol.7〜に、北沢夏音氏による入魂の"村八分"についての詳細なルポルタージュ「草臥れて-ロック殉教者、チャー坊("村八分")の生と死」が連載されている。

●註15:大瀧詠一のソロ  '75年5月にエレックから発売された、『NIAGARA MOON』のこと。大瀧のソロ2作目にあたる。大瀧はナイアガラ・レコードをこの年から立ち上げ、4月には既に山下達郎や大貫妙子らが在籍した"シュガー・ベイブ"のアルバム『SONGS』とシングル「ダウンタウン/いつも通り」を発売している。元々大滝は、'73年から75年にかけて制作したCMソングをレコード化して発売するアイディアをもっており、各社にプロモーションをかけたが、これに乗ってきた唯一の会社がエレックだった。しかしエレック側の強い要望もあり、CM集を出す以前に大滝のソロ・アルバムをリリースすることになってしまう。ちなみにこの後エレックが倒産し、CM集をリリース出来たのはコロムビア移籍後の'77年の事だった。

●註16:五つの赤い風船  '66年に中川イサトを中心に結成。メンバーは中川の他に西岡たかし、藤原秀子、有山淳司ら。'68年に出演した「アンダー・グラウンド音楽界」でのステージが話題となり、'69年に高田渡とのコラボレーションによるアルバム『高田渡/五つの赤い風船』をURCよりリリース。この時のディレクターは加藤和彦だった。「遠い世界に」はこの時期を代表する曲になり、人気は急上昇したが、同年中川が脱退。以後'71年までにアルバム5枚を発表し'72年8月のライヴをもって解散。

●註17:なぎら健壱  今でこそクイズやバラエティ番組で活躍するなぎらだが、元々は歴としたフォーク・シンガー。'70年の中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入り出演し好評を博したのを皮切りに、軽妙なトークの面白さも手伝って人気が出始め、'73年8月にはURCから『葛飾にバッタを見た』でデビュー。'74年1月にはシングル「悲惨な戦い」をリリースするが放送禁止となり、それが話題となって14万枚のヒットを記録。現在の活躍ぶりは皆様ご存じの通り。またフォーク/ロック関係の資料の収集家としても知られ、最近文庫本で再発された彼の著書『日本フォーク私的大全』(ちくま文庫)は、この時代の音楽研究書としても大変資料価値が高いもの。

●註18:中川イサト  '65年に大阪で結成された"ザ・ウィンストンズ"に参加したのが、プロへの第1歩となる。この"ザ・ウィンストンズ"が母体となり翌年結成されたのが"五つの赤い風船"で、中川はサウンド面を支える貴重なギタリストとして活躍するが、'69年に脱退、その後金延幸子、松田幸一、瀬尾一三と"愚"を結成。アルバム『あかりが消えたら』を発表するが、約1年で"愚"は解散。'71年からは村上律と"律とイサト"を結成、'72年『村上律と中川イサト』を発表。'73年には初のソロ・アルバム『お茶の時間』を発売、その後はギタリストに専念。

●註19:斉藤哲夫  '80年代に入って「今のキミはピカピカに光って」が、ミノルタのCMソングに使われ、宮崎美子のビキニ姿と共に大ヒットしたが、元々斉藤哲夫は'70年代のフォーク全盛の時代から活動をつづけたシンガー・ソング・ライターだった。特に'70年代前半は、現ムーンライダーズの鈴木慶一やあがた森魚などとともに行動し、当時としては珍しい、ポップで繊細な都会派のサウンド・スタイルを実践した、数少ないソロ・ミュージシャンの1人。

●註20:URCでLP出してキング・レコードやビクターでシングル盤を切る  当時は単発の契約が多かったせいか、アルバムとシングルが違ったメーカーからリリースされる事がよくあった。

例:はっぴいえんど「12月の雨の日」(キング)/『はっぴいえんど』(URC)

  岡林信康「山谷ブルース」(ビクター)/『私を断罪せよ』(URC)など

●註21:販売権  URCの販売権はその後、東宝レコードに移り、'76〜77にかけて同社から再発。その後SMSに移り'80からアナログで再発、'86年〜87年には一部CD化。また'89年にはキティが獲得、未発表音源を含むCD化が行われる。'90年代に入ってからは業界全体のQ盤やソングライター・ルネッサンスというキャンペーンに合わせてリリースが続き、現在は東芝EMIから発売されている。

●註22:秦政明  元高石事務所、音楽舎、URCレコード、アート音楽出版社長。このインタビューにもある通り、現在のインディーズの基礎を作った。


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