File No.5:発掘原稿その2「春よこい〜僕にとっての「はっぴいえんど」体験」

 '60年代末〜'70年代初頭にかけて、日本では当然の事としてロックは英語で歌うものだという固定観念がありました。しかしながら、はっぴいえんどや遠藤賢司らの登場によってこの固定概念は覆され、それに反発する英語派との間で論争にまで発展することとなります。(『ニュー・ミュージック・マガジン』'71年5月号に掲載された対談「日本のロックの状況はどこまで来たか」/出席:福田一郎、ミッキー・カーティス、内田裕也、大滝詠一、松本隆、折田育造、中村とうよう、小倉エージ/などはその一例として有名。)一般的に音楽誌などでは、当時の音楽界でのこういった日本語ロック論争について触れている特集を多く見かけますが、果たして当時のリスナーたちは日本語のロックについてどう受け止め、どういった音楽の聴き方をしていたのでしょうか。そこでこのあたりを証言する貴重な文章を発見したため、以下に掲載することにしました。なおこの原稿も1987年3月10日に発行されたミニコミ誌『POP SUE』増刊号Vol,3に掲載されたものです。当時の発売日など具体的に現在の状況と合わないものに関しましては若干の修正や注釈を加えてありますが、基本的には原文をそのまま掲載しております。


「春よこい〜僕にとっての「はっぴいえんど」体験」

Original Written 1987/Re-Write 1998/TEXT by GO "BRIAN" WASHIO

 僕の話は、いつも唐突にはじまる。だから今日も、いきなり話の本筋へと入ってしまおう。時の経つのは早いもの。現在の"ニュー・ミュージック"のルーツと云うべき「日本語のロック」が音楽雑誌で話題をまいていたのは、かれこれ17〜8年位前(*註23)になろうか?

 あの内田裕也氏などは、1970年頃「前に日本語でやった時があるんですよ。やっぱり(ロック)歌う方としては、"のらない"というんですよね」という発言で「日本語のロック」(*註24)の将来性を否定し、当時有数のロック・バンドと自負していたモップスの鈴木ヒロミツ氏に至っては、「現実に日本語では、波にのらない」「ロックで日本語をどなっても"アイツバカじゃねぇか"といわれるのがオチ」とまで言い切っていた。もちろん現在、内田裕也は日本語の「ロック・アルバム」を何枚かリリースしているし、彼の周辺のシーナ&ザ・ロケッツとかジョー山中、桑名、ルースターズ、みんな日本語で「きちん」としたロックン・ロールしてます。モップスもこの発言から確か2〜3年後には、吉田拓郎作の「たどり着いたらいつも雨ふり」を代表作として残しており、しかもKODOMO BANDにより取り上げられリバイバルしている。

 が、しかしだ。1969〜70年、日本国においてはだ、ハッキリ云って日本語のロックは完全にマイナーな存在で、これを演る人も聞く人も、それは肩身の狭い思いをしていた。だもんだから、皆さんもご存知の大瀧詠一、細野晴臣、鈴木茂、松本隆から成る、今や伝説のスーパー・グループ「はっぴいえんど」も知る人ぞ知る、知らない人は石すら投げられない、ほとんどアンダーグラウンドなフォークの亜流的類別だった。

 と、当時の今からは想像もつかぬ「日本のロック・シーン」すなわち「英語で歌うのがロック」なのだよという状況を思い返していたら、モーレツに言葉が頭の中に充満して来て、このままだと話があらぬ方向へ飛んでしまいそうなので、とりあえずこの話はこの辺で終いとするが、だけどだぜ。「はっぴいえんど」そしてそれを聞く優しき「はっぴいえんど」支持者を馬鹿にしていた諸君!今ごろ演歌をカラオケで唄って「"雪国"って本当に良いネ」なんて「心のふるさと」風スナックでカウンター越しにママに迫ってたりしたら、僕本当に怒りますよ。もっともあの頃「ロックはやっぱり英語でなくちゃよォー」なんて云ってた連中の75%は、松山千春の「長い夜」をそらで歌えたりするんだよ、これが...。

 でそんな1970年、僕と「はっぴいえんど」の出会いを語ろう。実は今だから本当の事を云うが、僕は高校1年になる少し前から高校2年秋ぐらいまで、岡林信康のファンだった。つまり僕にすれば、「日本のロック」への最初はGS体験を別にすれば、ある日、1人の友人(類別するなら、当方が一方的に親しさを込めてエールを送っていた女性の友人ですネ)から借り受けたURC盤『岡林信康アルバム第1集/私を断罪せよ』(*註25)だった。しかも、さらに正確を期する為に云うならば、その中に収録されていた「今日をこえて」から始まった。

 岡林信康というとその当時「日本のボブ・ディラン」=「フォークの神様」というムード一杯だったが、僕は「今日をこえて」のロック感覚いっぱいのサウンドに魅せられたのであって、何も立川君(あー、この人は修学旅行にギターを持ってきて、フォークソングを歌いまくり、最後には自らの歌に酔って泣いてしまうという懐かしい、しかし忘れてしまいたい友人です)の様に「お父帰れや」に感動したわけじゃなかった。

 しかもこのアルバムは、「ミュージック・マガジン」誌(当時は「ニュー・ミュージック・マガジン」)の第1回日本のロック大賞を取ってしまった。僕は驚き、感心し、そしてキャンドヒートやCCR、はたまたBSTのアルバムを買うのをさておいて、小遣いをはたき、何と『岡林信康アルバム第2集/見るまえに跳べ』(*註26)を買うてしもうた。そして「はっぴいえんど」に出会ったわけだ。要は私が買った1,750YENなりの岡林のアルバムのバック・バンドが「はっぴいえんど」だったわけだが、これが実に、前作以上に「日本語のロック」していた。中でも今や若人達のあいだで伝説化している早川義夫(ジャックス)の歌っていた「堕天使ロック」ですか?そのですね、バックのですね、格好よいこと。景気のよいこと。僕は聴いたその日から「日本語のロック」のトリコになってしまった。

 そんなある日、僕はフト気づいた。はたして自分は、あの岡林信康の声とか唄い方って好きなのか?日本のディランと自他共に認める岡林、しかし僕は(今でもだけど)ディランは今ひとつ好きじゃないからして、本当は岡林の歌いっぷりって好きじゃないんじゃないかと、高校生らしい純真さで、僕はつきつめた。結論はあっさりと、しかしキチンと放課後の部屋で出てしまった。実は「バックの音が良かったんだ」とね!

 その「バック」バンド「はっぴいえんど」のアルバム『ゆでめん』を初めて耳にしたのは、確かFM東京が毎日午後4時から1時間やっていた、「ヤング・ハウス80(エイト・オー)」でのことだと思うが、「はっぴいえんど」への想いはますますつのり、1971年に彼らのセカンド・アルバム『風街ろまん』が登場するに至って決定的となった。そして同じ年にリリースされた岡林信康のアルバム『岡林信康アルバム第3集/俺らいちぬけた』(*註27)は、そのまま僕の岡林信康への訣別の辞となった。つまりだ、岡林信康から"俺らいちぬけた"。

 それから「日本のロック」と云えば、何と云っても「はっぴいえんど」と入れ込みつづけ、頼まれもしないのに僕は教室でエンド・ユーザー(つまりお客様=クラス・メート)に、たった1人でプロモーション活動をしたものだった。そして演歌の源流をたどり韓国へ行き着くがごとく、「はっぴいえんど」のルーツをたどり、はるかアメリカはウエスト・コーストへ僕の心は飛び、ついにはホーソン、カリフォリニアの人、天才ブライアン・ウィルソン率いるところのビーチ・ボーイズまで強引にたどり着いてしまったのは、僕だけでしょうか?

 思えば「はっぴいえんど」がバッファロー・スプリングフィールドに雰囲気似てたり、ニール・ヤングそのものだったり、あるいはサード・アルバムでの画期的とも云えるL.A.レコーディング、しかもリトル・フィートやあの!ヴァン・ダイク・パークスとの共演などなど、日本人のウエスト・コースト熱を盛り上げたのも彼らですか...。JALも彼らに感謝デスナ。1970年代前半から中盤にかけて、「ニュー・ミュージック」あるいは「日本のロック」の確立に果たした役割の大きいことは、彼らと浅からぬ因縁のあるユーミン、山下達郎が現在日本の音楽シーンの中で占める位置を見ればよくわかるし、いや、わかってもらえぬ様だと困ります。

 いやーまったく人ごとながら(本当に人ごとですけど)現在のニュー・ミュージック・シーンのルーツこそ「日本語のロック」=「はっぴいえんど」であり、今だに彼らのアルバムの色褪せることなきクオリティの高さを見ると、嬉しさ一杯です。あの時、岡林のアルバムを借りてなかったら、あるいは借りても「モズが枯木で」に打ち込んでいっちゃってたら、多分僕も修学旅行にギターを持っていっただろう、とか、いろいろ心配にはなるが、まぁそれはさておき僕自身の「はっぴいえんど」への想いは、これは必ずいけそうだと、こんなに良い音がいつまでもマイナーである訳がない、と確信していただけに、彼らこそ最後までメジャーというのは少し遠かったが、その後の伝説化ぶりを見るにつけ、その伝説の極々、ほんの少しを同時代体験したことに何よりも「ここち良さ」を感ずるところに集約されているのだ。このURC盤は今LP2,000円、CDはファーストとセカンド・カップリングで嬉しい3,500YEN。(*註28)今からでも決して遅くはない。君も今すぐほら!レコード屋さんに駆け込もう。そしておすすめの曲は、「春よ来い」。


注釈 by ドバシカズオ

●註23:かれこれ17〜8年位前  この文章が書かれた1987年当時から見た17〜8年前のこと。つまり1969〜70年当時を指す。

●註24:日本語のロック  '60年代末のこの当時、既に衰退化したGSの流れが細分化しそこからPYGやモップス等のバンドが発生、またこれらGS(=つまり商業主義的音楽)に反発していた内田裕也らのバンドも加わり、アンダーグラウンドではあったもののロック・バンドの結成が相次ぐ。しかし当時のロック・バンドの大半は、洋楽のコピー・バンドで占められていた。つまりアメリカやイギリスで流行った曲を、如何に早くうまくコピーできるかが、そのバンドの評価を左右する時代だった。'70年代に入り、はっぴいえんどや遠藤賢司、ジャックスらの出現で日本語で歌うロック・バンドも増え始めた一方、内田裕也らは「日本語はロックにのりにくい」「世界で成功するためには、英語で歌うことが不可欠」という理由から「日本語のロック」を否定し、ここから「ニュー・ミュージック・マガジン」誌上などで盛んに、日本語ロック論争が行われることとなる。

●註25:『岡林信康/私を断罪せよ』  '69年8月にURCからリリースされた、岡林のデビュー・アルバム。既にビクターから前年にリリースされ話題となっていた「山谷ブルース」や、岡林の代表曲「友よ」「それで自由になったのかい」等を収録。ディレクターは西岡たかし。つのだ☆ひろ、木田高介、中川イサトらも参加している。

●註26:『岡林信康アルバム第2集/見るまえに跳べ』  '70年6月にURCからリリースされた、セカンド・アルバム。このアルバムから、はっぴいえんどや渡辺勝(はちみつぱい)らがレコーディングに参加。ボブ・ディランがフォーク・ギターを捨てエレキ・ギターに持ち替えたのを受けて、岡林もバックにはっぴいえんどのロック・サウンドを採用し、大きな話題となる。

●註27:『岡林信康アルバム第3集/俺らいちぬけた』  '71年8月にURCから発売された、岡林のサード・アルバム。このアルバムにははっぴいえんどのメンバーは参加していない。柳田ヒロ、高中正義、鈴木慶一、和田博巳らが参加。この年の11月に、はっぴいえんどは『風街ろまん』を発表している。

●註28:URC盤は今LP2,000円、CDはファーストとセカンド・カップリングで嬉しい3,500YEN。 この文章が書かれた当時、SMSから発売されていたカタログの価格。現在は東芝EMIからCDが、各タイトル1,835円(税込)で発売中。


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