マイケル・フラトッレーのロードオブダンス

 

元リバーダンスの主演ダンサー、マイケル フラットレーがリバーダンスをレイオフされた後、自ら創作、振付、演出、監督を行って作った 「LORD OF THE DANCE〜ロード・オブ・ザ・ダンス」 の日本公演が2000年1月26日から東京の国際フォーラムで始まった。

リバーダンスがアイルランドの音楽とダンスを中心テーマに置きながらも、フラメンコや黒人ボーカル等のアイルランド以外のモチーフも取り入れインターナショナルな広がりを持つダンスパッフォーマンスに仕上がっているのに対しマイケルフラットレーのロードオブザダンスは、ストーリや音楽をケルティックなテーマに絞り込み、それを現代風(ロック調?)にアレンジしたアイリッシュ色の強い内容になっている。

ストーリは古代ケルトの神話をベースに善と悪の対決がパワフルに演出されておりハードケルト、メタリックケルトとでも表現したくなるような、どちらかというと若者向けの内容で現代アイルランドエンターテイメントの全く新しい方向性を打ち出しているともいえる。古典的なケルト音楽を期待している聴衆にとってはマイケルフラットレーのハリウッド的な大げさな演出と舞台装置は、いささか好き嫌いが明確に分かれる性格のものかもしれない。しかしながらアイリッシュダンス大好き人間、ケルティック音楽大好き人間にとっては感動のダンスショーになることは世界で過去行われた公演の結果が確約する。

ロードオフザダンスの主な関連ホームページは以下のとおりである。

 マイケルフラットレーはロードオフザダンスのショーのプログラムの中で「ようこそ僕の夢へ」と題する以下の文章を寄せている。

「ロード・オブ・ザ・ダンスを見に来てくれた世界中の何百万人という観客の皆が、僕と共に夢を見てくれた。ロードオフザダンスが上演されたあらゆる場所でエキサイティングでスリリングな感動を呼び起こしていることを知り、僕は言葉に表せないほどの歓びを感じている。一番大切な人たち、つまり観客から万雷の拍手をされることは、僕自身夢にも思わなかったことだ。しかし、長期のも厳しい作業をやりとげる力を与えてくれたのも、舞台でロードオフザダンスを上演する力を与え、創作意欲をかきたててくれたのも観客の拍手なのだ。公演のたびに、このインスピレーションが夢と出会い、夢はエネルギーを生み出す。今僕達が共有しているものは、このエネルギーであり、これれはショウが終わった後でもいつまでもあなたの心に生きつづけることだろう。」

この文書のみからは、マイケルフラットレーのロードオブザダンスという「夢」にたどり着くまでの苦難の歳月を知る由もないが、彼が歩んできた困難に満ちた生い立ちを知るとき、僕達は初めて彼の「夢」が実現した事に対する真の喜びの意味を理解することができる。

マイケルフラットレーはアイリッシュなまりの独特な柔らかい母音で話すが、米国は シカゴの南地区生まれのアイリッシュアメリカ人である。5人の兄弟の2番目として生まれた。彼の父親は、1947年に建設業者としてアイルランドからアメリカに移住した。

マイケルフラットレーはダンスの道には入る前、アイスホッケーとボクシングをしていた時期があった。

マイケルは言う、

「ボクシングを始めたのは、僕がアイルランド人で、そして白人だったから、罵られ、そして戦わなくてはならなかったからだ。」

「僕は自身を守ることを学ばなければならなかった、それで僕はボクシングを始めたんだ。」

「アイリッシュだということで地元の不良達からいじめを受けているのを知った父は 、僕と兄弟をボクシングジムに連れて行った。 数週間トレーニングした後、不良グループと鉢合わせした。 僕は、真っ直ぐ一番大きなやつの所に行き1発のパンチを打ち彼をノックダウンさせた。次に他のやつらにも立ち向かったが、彼らは一目散にみんな逃げ去ってしまった。それからというもの彼らは再び決して僕には触れなかった。この出来事は生活について僕にとてつもなくたくさんの事を教えてくれた。自分自身を信じることを最初に教えてくれた出来事であった。」

マイケルフラットレーは11齢の時から踊りが好きだった。それを知った彼の親は祖母の熱心な薦めもありマイケルフラットレーを兄弟と共にアイリッシュダンス教室に行かせることにした。こうして マイケルフラットレーのアイリッシュダンスにおけるいばらの道が始まることになる。

マイケルフラットレーがアイリッシュダンスを始めた11歳という年齢は、常識からすれば遅すぎる年齢であった。彼のダンス教師は初日に彼の父親にレッスンを始めるのが遅すぎたと率直に語ったという。アイリッシュダンスは幼い頃から技術を磨かなければ会得できない高度な技術を要する民族芸能なのだ。

マイケルフラットレーは言う、

「11歳から始めても遅すぎると先生から言われたが僕はダンスを止めなかった。僕は夢を持っていた。 あなたは、自分の夢を具体的にカラー映像で思い浮かべることができるか?もしできるならばあなたが欲する夢は何でもかなうはずだ。 宇宙は夢が実現されるように働くのだ。しかしその夢が簡単にかなう夢ならば、どんな成功も無い。 夢の実現には常に煉瓦の壁があるのだ。そして皆がチャンスは無いと言うのだ。」

アイリッシュダンスをならい初めた途端、彼は家のガレージで猛烈にダンスレッスンに打ち込む。彼は1日18時間も練習した。彼のアイリッシュダンスは見る見上達し、数年とたたない内に教室で最も優れたダンサーになっていた。そしてついに彼が16歳の時に、世界アイリッシュダンスチャンピョンシップに出場し優勝してしまったのだ。彼は、アイリッシュダンスで優勝した初めてのアメリカ人になってしまった。

しかし当時はこのような国際大会で優勝してもアイリッシュダンスで生計を立てることなどできない時代であった。そのために彼は生活するためにダンス以外のことで日銭を稼がなければならなかった。

マイケルフラットレーは言う、

「僕は土方として地面を掘る仕事についた。」

「そして僕はこのような仕事を過去にしてきたということを恥じない。」

若い頃の彼は貧困のどん底にあった。それはまさにアメリカに移民する以前の17世紀の貧困にあえぐアイリシュそのものであるといってもいいだろう。彼は地面を掘りパイプを設置するという建設関係の仕事に就くために17歳で学校を去った。

マイケルフラットレーは回想する、

「そのころ 僕はシカゴで 冬は零下20度で土を堀らなくてはならず、夏は 蚊が飛ぶ中、45度の高温環境で働かなければならなかった」

「成功することを決心させたこれらの苦難に満ちた日々を僕は決して忘れない」 と語っている。

 自ら認める肉体労働者として彼は常に経済的におい詰められていた。しかしこの苛酷な肉体労働が皮肉にも世界一のタップスピード記録を持つ彼の強靭な肉体を作り上げた。

その後マイケルフラットレーは職業としてショービジネスに入ることを決心する。しかしその道のりも決して容易いものではなかった。後にチーフタンズのフルート奏者になるまではその道は生きるための戦いであった。

彼は当時のことを次のように回想する、

「僕はしばしばペニーを使わなくてはならなかった。 ロスに住んでいる頃は1杯のコーヒーを買う余裕さえ無かった。 僕はダンスを教えるためにアパートから教室まで数マイルを歩かなくてはならなかった。それは想像を絶するほどきつい日々であった。なぜなら僕はバスの切符をを買う余裕さえなかったのだ。」

世界アイリッシュダンスチャンピョンシップ で優勝後しばらくしてから一本の電話があった。その電話はアイルランドの国際的なミュージシャングループであるチーフタンズで働かないかというものであった。彼はチーフタンズに加わることにした。ダンス教室をたたんでチーフタンズと共に各国ツアーに出かけた。どこにおいても彼らは大きな拍手を受けた。

彼は言う 、

「このとき既に僕は生きるための自分の道を見いだしていた。」

彼が心から求めていた成功と名声は1994年にダブリン のユーロビジョンソング コンテスト の数分間の幕間のアイリッシュダンスパフォーマンスのダンサーとして出演することで実現する事になる。リバーダンスの原型がここにあった。マイケルフラットレーはこの短いダンスで大成功をおさめた。ユーロビジョンをテレビで見たヨーロッパの聴衆の間では、ユーロビジョンでの優勝者の話でなくこのアイリッシュダンスの話題でいっぱいだった。これを契機にアイルランドの放送会社によってこの数分間のアイリッシュダンスがリバーダンスという2時間ものショーに発展してゆく。

リバーダンスでの成功。振り返るとこれはマイケルフラットレーにとって初めての実利を伴うすばらしい夢の実現であった。

マイケルフラットレーは言う、

「僕は、この成功を夢見て、壊れた鏡で25年の果てしない長い期間を冷たいダンススタジオで働いてきたのだ。」

マイケルフラットレー主演のリバーダンスは世界を夢中にした。これ以降のリバーダンスの発展と成功の経緯はこのホームページのリバーダンス大学に詳しく書かれている。

彼は幕間の数分のリバーダンスを2時間の壮大なショーに発展させるのにおおきく貢献した。リバーダンスがロンドンで上演されたとき彼は正真正銘のスターになっていた。 彼は1週間に£50,000ポンドを稼いだ。しかしマイケルフラットレーのリバーダンスでのスターの位置は長くは続かなかった。

1995年の秋ウエストエンド (West End) でのリバーダンスの2回目の公演の時、突然彼は事実上リバーダンスのダンサーを解雇されてしまう。彼がリバーダンスを解雇された理由についてリバーダンス側はノーコメントの一点張りだ。しかしマイケルフラットレーが週50,000ポンド(8,000,000万円以上)の報酬に満足せずさらなる昇給を望んだからだという話がある。マイケルにすればリバーダンスの成功と会社の利益からすればその金額はあまりにも少なすぎるものと考えていたようだ。リバーダンス側は、マイケルフラットレーはリバーダンス側の報酬案を断りさらに彼の振付けに対して著作権を取ろうとしたと主張する。 英国の新聞は、マイケルフラットレーを激情しやすいナルシストだとして一方的に非難していた。 彼は混乱した。

彼はそのときの様子を次の様に回想する、

「すべての友人と家族は僕にリバーダンスの契約を更新するように勧めた。しかしその契約内容は、僕にとってアンフェアであったので僕は契約の更新を拒否した。実は、僕は最終的にリバーダンスの経営側が譲歩すると思っていたのである。しかし僕の弁護士からの電話は僕を失望させるものであった。」

リバーダンス経営者側は、マイケルフラットレーの予想に反し譲歩しなかったのだ。マイケルフラットレーは予想外の回答に打ちのめされ涙をこぼして泣いたという。しかしマイケルフラットレーは父からの電話で慰めを受ける。

父は言った、

「マイケル 、自分自身の心の中を見つめろ。おまはリバーダンスを作ったではないか。皆それを知っている。 おまえは更にもう1つのダンスパフォーマンスを作ることができるはずだ。」

この父に言葉がその後のマイケルフラットレーの人生を大きく変えてゆく。彼は自分を取り戻し彼自身のいっそう壮観なダンスショーであるロードオブザダンスの作成に着手する。

彼はこの新しい冒険に彼のすべての財産を賭けた。もしこのダンスショーが失敗すればそれは彼の破産を意味していた。リバーダンスのスタートして築いた名声と財産を失うことを意味していた。こうしてもう一つのダンスショーを完成し成功させるという彼の戦いが始まった。

父はまたこうも言った、

「転んだら、再び起きあがらなければならない。 」

「おまえが本当にそれをしたいと決めるまでは、決して何もしてはいけない。 そして一度始めたら、決してあきらめてはいけない。 もしおまえが成功しなかったら、理由は一つだ。それはおまえが一生懸命でなかったからだ。おまえはもっと一生懸命がんばらなくてはいけない。」

彼の全財産をかけたLOTDのダンスグループは、その40人の一流のタップダンサーの出演者とともに、1996年6月にダブリンで初演された。そして初日から大成功を納めた。

マイケルフラットレーは言う、

「その日は、非常に感動的な日だった。 僕はそれが真の成功であることを望んだ。」

「5回目のスタンディングオベーションを得た時僕は泣いた。それは僕が泣いた唯一の生涯での異質な時間であった。 僕はそれを信じることができなかった。 僕はリバーダンスを去ってからすでに多くの人々にとって忘れられた存在であることを知っていた。 彼らは僕が死んだと思っていた。」

3万人のファンの前でショーを演出するロードオフザダンスのツアーは英国とオーストラリアで2ヶ月以内に売り切れてしまった。利益を生むために必要な時期ではあったが蓄えの金は出ていく一方であった。その後のアメリカツアーでは、1週間に最高1,000通のファンレターに目を通すためにフルタイムの秘書を雇わなくてはならなかった。

彼が作ったロードオブザダンスは、リバーダンスで実現できなかったアイリッシュダンスで塗り固められたダンスショーであった。アイリッシュダンスだけで2時間のショーが作れるのだろうか?誰もが持った疑問であった。マイケルはロードオブザダンスの中であらゆるアイデアを試しそして実行した。アイリッシュダンスの専門家からは冗談だろと思われるアイデアも観客から受けると思えば取り入れた。通常アイルランドのダンスは伝統的な形式で踊られるタップダンスである。しかし、マイケルフラットレーが振り付けたロードオブダンスは、はそうでは無かった。

ある新聞は書いた、

「ロードオブダンス、流れるような現代の超大作、完全無欠なダンスとハイテク 照明の効果そして対照的な刺激的な音楽。チーフタンズとは又違う素晴らしいケルト音楽が、2人の女性フィドル奏者によって演奏される。」

マイケルフラットレーは伝統的なアイリッシュダンスの持つ 堅苦しい、無表情なステップダンススタイルが時代錯誤だと考えた。 彼は歴史的に見るとアイリッシュダンスにその堅苦しい規則を課したのはカトリック教会だったということを耳にした。ダンスで少女達といちゃついているのを見られるのを恐れて腕を動かすことを許されなかったというのである。 彼が聞いたもう1つの理由は、英国の侵略の時に捕虜として捕まったアイルランド人が腕を縛られたまま踊らされたということである。いずれの理由にせよ、それはマイケルフラットレーが理想とするダンスでは無かった。マイケルフラットレーの夢は常に彼が心で感じた方法で踊ることであった。

ロードオフザダンスのストーリーは、以下の一幕と二幕からなる(2000年、東京公演)。

第一幕

1.ケルト人達の叫び: 妖精、ロード・オブ・ザ・ダンス、ケルト人、女神エリン

2.女神エリン

3.ゲルトの夢: ソアス、娘たち

4.戦士たち: 闇の神ドン・ドルチャ

5.ジプシー: モリガン

6.炎の弦: バイオリンたち

7.ブレークアウト: ソアス、娘たち

8.将軍: ロード・オブ・ザ・ダンス、将軍

9.女神エリン

10.ロード・オブ・ザ・ダンス: ロード・オブ・ザ・ダンス、ケルト人

第二幕

1.危険なゲーム: 妖精、ドン・ドルチャ、戦士たち

2.地獄の台所: ロード・オブ・ザ・ダンス、ドン・ドルチヤ

3.激しい夜: モリガン、ドン・ドルチャ、戦士たち、戦士の女たち

4.悲嘆: バイオリン

5.シアムサ

6.僕たちの結婚の日: 女禅エリン

7.奪われた唇: ソアス、ロード・オブ・ザ・ダンス、モリガン

8.悪夢: ロード・オブ・ザ・ダンス、ドン・ドルチヤ、戦士たち

9.決闘: ロード・オブ・ザ・ダンス、ドン・ドルチヤ

10.勝利: ロード・オブ・ザ・ダンス、ケルト人

11.惑星アイルランド

ロードオブザダンスのショープログラムには次のようなプロローグが記されている(2000年東京公演)。

「時は止まり、かつてエリン(アイルランド)はすべてのものの女神だった。物語は全て準備された。誰もが自分の役割を知っていた。だが、古代の人々(ケルト人)はストーン・サークルに座り騒ぎを聞いている。妖精の夢がかき乱される。新たな闇の力が現れ、ロード・オブ・ザ・ダンスに挑む。ロード・オブ・ザ・ダンスが神話の中の人々を守る。そのロード・オプ・ザ・ダンスに力を貸そうと、妖精は時空を超えて旅をする。信じられないような冒険、そこには愛、欲望、危険との遭遇が待ち受けている。」

ロードオブザダンスは、1996年7月2日、ダブリンのザポイントでの初演以来、全ての講演で大絶賛を浴びた。英国のコリセウム劇場では4週連続のチケット完売を記録した。さらに有名なウェムブレイアリーナでは21回もの公演を行なった。勿論新記録である。オーストラリアでの8週間にわたるツアーのチケットの売上高は、過去最高を記録であり、アメリカでは、ニューヨークのラジオシティでもチケットは2週間完売を続けた。マイケルフラットレーとロードオプザダンス トゥループは、ロサンゼルスで行われた1997年度のアカデミー授賞式で踊りを被援した。ロードオプザダンスはマスコミからも絶賛を浴びた。

「すばらしい才能」ニューヨークタイムズ、「何十年にー人のダンサー」ロサンゼルスタイムズ、「タップの天才」ロンドンタイムズ、「パワフルだ」ニューヨーク・デーリータイムズ、「電気ショックを受けたみたいだ」フィラデルフィア・インクワイアラー、「雷鳴のようだ」シカゴトリビューン、「畏怖の念を覚えた」ハリウッドリポーター、「感動的な美しさ」アイリッシュ・タイムズ、「ファンタスティックなロード・オプ・アイリッシュ・ダンス」デイリーメール(ロンドン)等々。

ショーだけではなくビデオやCDも売れに売れた。マイケルフラットレーの「フィートオブフレームズ(マイケルフラットレー主演のロードオフザダンスの最後のステージ)」と「ロードオブザダンス」のビデオは世界各国で450万本以上販売された。ロードオブザダンスのビデオは、イギリスにおける1996年クリスマス期のナンバーワンタイトルで、これまでに12回のプラチナディスク賞に輝いた。オーストラリアでもビデオは、9回のプラチナディスク賞を獲得しポリグラムオーストラリア史上、最も短い期間に最も多く販売されたビデオとなった。

現在、3つのダンスチーム(トゥループ)が各国でロードオフザダンスを公演している。3つのトゥループは、世界で最も才能あふれるダンサー150名を擁し、世界中には多くのクルーメンバーが存在する。現在ラスベガスには常設ステージが設置され日本からも多くの観光客がロードオブザダンスを見に来ている。

こうして彼は夢を実現させた。ある記者がロンドンのホテルで彼に尋ねた。

「もしかして車のベントレー (A Bentley)を買われましたか?」

「いや」

彼はぶっきらぼうに答えた。

「僕は2台注文したのだ」。

LOTDの成功により彼は多くの「正夢」を手に入れた。アイルランドのウォーターホード (Waterford) にある中世の小塔。ロードオブダンスダンス号と名付けられ美しい131フィート のヨット、180,000ポンドの黒のフェラーリ (Ferrari F550 Marinello)、ハーレーダビットソン、自家用ジェット機。彼はスピード狂であるらしい。それでかどうかはわからないが彼のダンスシューズのかかとはブリテッシュエアロスペース社のコンコルドにも使われている特殊アルミニューム合金で作られている。しかし彼はその靴を一週間で履きつぶしてしまうという。

彼は両親や兄弟に対しても決してケチではなかった。クリスマスには金のカルチェとロレックスダイヤモンドに加え、親にメルセデスベンツ500を購入し兄弟と3人の姉妹に抵当証を送った。

マイケルは言う、

「金をかせぐのは誰でも好きなことだ。しかし稼いだ金を使うか又は人にやることができないなら稼いだ意味がないではないか。」

また彼は豪邸を購入したことを記者に聞かれて次のように言う、

「僕は3年間家を持っていなかった。僕はホテルで、スーツケースの中のものだけで生活していた。それで僕は来年どこかに落ち着いて住もうかと思う。 僕は今のところ2つの家を注文した。アイルランドとロンドンの2カ所に家を持ちたいのだ。」

しかしながら、彼の体は引退前にはボロボロになっていた。すり減ったギアの手巻きぜんまいで動くおもちゃのようにくるくる回っていたのである。彼は本当に驚くべきダンサーであった。 彼のアキレス腱はひどく傷つき、足の筋肉は肉離れし骨も2本も折れていたときでさえ踊り続けていたのである。マイケルフラットレーは、体の傷が年齢とは関係ないものであることを常に主張していた。

彼は言った、

「勿論僕の足は痛い、しかしそれらは僕が16の時から今までずっと痛かったのだ。 しかし今の僕のキックは前より高く、僕のフィートは前よりづっと速くなっている。」

ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアで展開されたロードオフザダンスのツアーは熱狂的な多くのファンを生んだが壮観なスケールで繰り広げられた彼のツアーに対して代償を払わなければならなかった。彼は足に肉離れを起こし1つのショーに出演できなくなった。2千5百万ポンドの保険金が掛けられた。 97年、年末ついに彼の体に大惨事が起こった。、彼がオーストラリアのブリスベーンでぜんそくにより舞台で倒れたその後の公演を全てキャンセルせざる負えなくなったのだ。

彼は次のように回想する、

「その時僕は外出しないように言われていたが無視していた。 僕の体は最悪な状態で、悪化した肺の病を持っていたのだ。しかし僕はプロであることを信じた。そしてショーの終わりに僕は倒れた。 僕は気分が悪くなり、そして完全にバランスを失った。 その時は呼吸することもできなかった。 僕は空気をあえぎ求めライトが消えるのを待った。 僕は病院に運ばれ、僕のホームドクターがロンドンから呼び寄せられた。 僕は明日のショーに出演できるようにしてくれと頼んだが医者は僕に翌日のショーをキャンセルするだけでなく一週間の安静を義務づけた。 医師達は僕が極度の疲労で苦しんでいたと言った。 僕の肺の病気は重度の肺炎に発展し始めたところであった。もちろん僕は反論した。108人のロードオフザダンスのスタッフやダンサーが僕を待っているのだ。僕は彼らに対する責任を果たさなくてはならない。 僕はツアーをキャンセルすることなどできなかったのだ。次の瞬間、僕のすべての親友が病室に入って来て言った。マイケルフラットレーどうか自分のことを考えてください。もう十分です。 あなたは自分の責任を果たした。 あなたはあなたが計画したより多くの仕事をした。あなたは自分を仕事で殺してしまう前に休まなければならない。今思うとその時僕は彼らのアドバイスを聞いていて良かったと思う。しかし僕は英国の舞台まで待つことができなかった。僕は自分の体をいたわることを学んだ。」

彼は「正夢」を手に入れたが失ったものがないわけではなかった。彼がそれを失ったものと自覚しているかどうかは別にして彼は妻と離婚した。LOTDの準備と公演により彼の仕事は多忙を極め妻との別居生活を強いられることになった。ついに彼のポーランド人の妻Beataから離婚を迫られた。彼の妻はメイクアップ・アーティストであり、彼の出張中はビバリーヒルズに滞在することを好んだ。マイケルフラットレーは仕事の為に結婚生活を犠牲にした。彼は子供を持ちたかったがあきらめざる負えなかった。今のところ、 マイケルフラットレーは独身で自分自身のためにダイヤモンドのイヤリングを買っている。 メイクアップ・アーティスト のBeata Dziabaとの10年の結婚生活は95年に終わった。その後匿名のアイルランドの女性と関係があったがそれも今は終わっている。

マイケルフラットレーは別れた妻のことについて次の様に語る。

「僕はまだ彼女を僕の親友だとおもっている。 僕は彼女が再び恋に落ちることを希望する。」

「僕は時々舞台裏で他のダンサーの1人が家に帰ると言うのを聞く度に心がかき乱される。 僕は帰るための家に電話もできないのだ。」

彼は妻を失ったが、彼の独特のセクシーダンスは他の女性からの申し出に欠くことはない。

彼は言う、

「ダンスは性のエネルギーである。 僕は女性を愛する。 僕はセックスが好きだ。みんなもそうだろう?」

「ダンスとセックスはそれが偉大な価値があるという点で似ているのだ。」

「 僕は、ユーモアのセンスがあり、美しく、そして大いに知的な女性をもとめる。」

「僕はいつか美しい女性とソファーに横たわりワインの杯をかわすことができることを夢見る。そして僕の子供たちが走り回っていることを夢見る。もし理想の女性が現われるなら、多分世界中の他のものはそれほど重要ではない。」

マイケルフラットレーは自分の夢の実現をする才能を持っている。 この夢も近い将来実現することだろう。

 

参考文献: 

FLATLEY LORDS IT IN SHOW OF DANCE POWER ,Feature article in the Coventry Evening Telegraph ,January 12 1998

THE WORLD AT HIS FEET,Feature article in The Times Magazine, October 25 1997

WHEN THE MOGULS ASKED TO INVEST IN MY SHOW I SAID NO THANKS I'M PAYING.,Feature article in The Sun,October 24 1997

CHILDHOOD FIGHTS MADE ME STRONG ENOUGH TO BATTLE OVER MY CAREER.,Feature article in The Sun, October 24 1997

EPOCH-DEFYING ARTIST COMING TO L.V.,LAS VEGAS BUSINESS PRESS APRIL 28th-MAY 4th 1997

MICHAEL FLATLEY: A DANCER FOR THE AGES,LOS ANGELES TIMES SATURDAY MARCH 29,1997 REGAL FLATLEY PROVES WORTHY OF HIS TITLE,Feature article in the Redditch advertiser,January 28 1998

THE FEET THAT MAKE £1 MILLION A WEEK,The Mirror London,January 18 1998

TIP - TOP TAPPER,Feature article in the Daily News, USA Weekend August 8-10 1997DANCING KING,RIP CITY,JUNE 1997 (PORTLAND)

THE 50 MOST BEAUTIFUL PEOPLE IN THE WORLD 1997,PEOPLE WEEKLY,MAY 12, 1997

2000年,ロードオフザダンス,東京公演プログラムから