JDS作品のキーワード


電話
電話と存在

『ゾーイー』において、電話はその人間の存在と密接な関係が有る。
母親・ベシーは家に電話をおこうとしない息子・バディに対して
「危なくてしょうがない。」「生きてるか死んでるかもわからない」
と言っている。また、そのバディも、死んだシーモア名義の電話番号を
いつまでも、残しておく理由を「電話帳にシーモアの名前が有ると
安心するから」と言っている。これらは共に電話があると存在し
電話が無いと存在しない、と言う事を述べている。
これを踏まえて、フラニーの電話への態度を見てみる。
フラニーは、人間のエゴに嫌気がさし居間のソファに陣取り、
心配するベシーを余所に一向に心を開く兆しを見せない。
ゾーイーの「誰かと電話で話すべきだ」と言う言葉にも
「わたし、シーモアと話がしたい。」と答えている。フラニーは生への
執着をなくし、死んだシーモアとしか話をしようとしないのである。
ゾーイーは、シーモアの残した電話からバディ(語り部)の声色で
フラニーに電話をかける。フラニーはベシーに「バディからの電話だ」
と聞かされて、両親の寝室の電話でこれを受けた。
フラニーが 、また、かつてのゾーイーが悩んでいたのは、自分は
精神的に畸形だという事で、それは、シーモアとバディの偏った
教育によるものだと思っている。そのシーモアの電話からバディの
声色でゾーイーは電話をかけると、フラニーは、自分が、現在拒絶
しようとしている両親の寝室、自分が生を受けたところ、で電話に出る。
エゴで塗り固められてしまった自分を捨て、真っ更の状態で、かつて
シーモアとバディの受けた教育を考え直す事によって、フラニーは
自分の存在を取り戻したのである。※立ち直ったという解釈ではない。
そして、原始の静寂に勝るとされる、電話の発信音とは、話相手の
いない電話の音、つまり、自立した存在の証なのではないだろうか。

*電話と存在―『フラニーとゾーイー』"FRANNY AND ZOOEY"


手紙・書類
手紙・書類の象徴する事


『ゾーイー』において、手紙・書類は象徴的な小物として扱われている。
物語の冒頭、ゾーイーはバディから貰った手紙を読んでいる。
後にこの手紙は、JDSのエクスキューズを添えて、全文を掲載されている。
この手紙に着いて、かなり詳細な描写が為されている事に注目したい。
まず、この手紙はバディからゾーイーに宛てたもので、ゾーイーによって、
折りにふれて何度も読み直されている形跡がある。手紙の内容は
「教師じみて、訓戒調で、くどくどして」としながらも、「愛情に溢れている」
ものである。これは、ゾーイーのバディに対する見解と一致する。
手紙は、書き手の人格がこもった、その人の存在の象徴なのだ。
バディからの手紙を何度も読み返して育ったゾーイーは、母親に言わせれば
「バディにそっくり」であり、バディの手紙にもそっくりなのである。
ゾーイーはこの手紙を湯船に浸かりながら読んでいる。そして、手紙の入った
封筒をはじいて、浴槽の縁を滑らせる遊びに興じるが、一度失敗して、急に手を
さしのべて捕まえる、というはめになる。これはどういう意味を持つのか。
ゾーイーが手紙を滑らせるくだりの直後には、今度は台本を読む描写がある。
この台本の台詞に『とどき、雨の中で死んでいる自分が目に見える事があるの。』
とある。濡れる事は、『ライ麦畑で捕まえて』でのアリーの墓に雨が降る描写を
はじめとして「死」と結びつけられる、JDS作品のテーマのひとつである。
これは『グレート・ギャツビー』での濡れる事と死ぬ事の関係をなぞらえていると
指摘されている。
手紙は濡れれば判読できなくなる事もふまえ、バディからの手紙が濡れそうに
なるのは、バディのおかれた状態、生きているのかどうかもわからない、事の
書き換えであろう。外出する時のベシーの様子を「彼女の息子が、書類の書き
違いで射殺されて、その死体を引き取りに行く場面にこそふさわしい」と描写
されているのも、書類と書き手の存在と生死の関係を深めている。

*手紙・書類の象徴する事―『ゾーイー』"Zooey"


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