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仮面の時代――『他人の顔』論

宇 藤 和 彦







         1

 対偶表現としての仮面と素顔という語彙に、思想的、心理的意味を付与したのは近代以
降のことであろう。もともと素顔とは化粧をしない顔を意味し、仮面は伎楽面のようなお
面以外のものではなかった。実際、素顔も化粧した顔もその人の顔には違いない。人は自
分の中に「内面」の世界を発見し、外界との亀裂を意識するようになって初めて、素顔と
仮面を対偶表現として使うようになる。むろん、昔の人に内面的世界がなかったわけでは
ない。『かげろふ日記』にも、『源氏物語』にも溢れんばかりの人の内面が描かれている。
素顔と仮面に分けて考えるのが新しいのである。
 その意味で、『他人の顔』が平安の昔だったら一インテリゲンチアの物語だったものが、
今日一階級の物語として意識されないのは、現代人が等しく、自意識や内面と外界の分裂
に苦しんでいるからである。苦しまないまでも、疎外された社会、人間関係の中で、我々
は自分の素顔ではない仮面をかぶったような意識に囚われるのである。外向けの顔と内向
きの顔、知らず識らずのうちに社会の中で幾通りもの顔を使い分けている。いみじくも辺
見庸が『ゆで卵』で書いたように、あの地下道の中で、サリン中毒で倒れた人々がいても、
無関心にそれを跨いでサラリーマンは自分の職場に急ぐのである。仮面をかぶったという
比喩そのままに。サラリーマンが悪いのではない。つめかけた報道人もまた、同情と深刻
面の仮面をかぶって、マイクロホンを突きつけていたのだった。
 こういう社会だからこそ、『他人の顔』は、研究所の所長代理という一人の平凡なサラ
リーマンに過ぎない主人公が、偶然の事故から自分の顔面を喪失し、仮面をかぶることに
よって、仮面と人格の分裂に苦しむという普遍的な問題を象徴的に表現することができた。
主人公の言葉を借りれば、「顔の喪失という、ぼくの運命自体が、すこしも例外的なこと
ではなく、むしろ現代人に共通した運命だったのではあるまいか」ということになる。
 現代人が「互いに顔を失った同士」であり、また、必然的に仮面と素顔の分裂を強いら
れていると言っても、現実には、例えば、一般のあるサラリーマンが、サラリーマンとい
う仮面の下には隠された素顔があるなどと、大げさに公言でもしたら、失笑を買うに違い
ない。人には秘密の一つや二つあるし、そのこと自体は私生活を公にすること以上の意味
はありはしない。だれも仮面の裏には素顔があると信じているものはいないのだ。たとえ、
会社では公表していない内密の趣味があったとしても、それが素顔だとは考えない。彼に
女装する趣味があったとしても、家で小説を書いていたとしても、会社で見せている顔は
決して仮面ではない。ましてや、私生活で見せている顔が仮面ではありえない。もちろん
本人の内部で、会社で見せている顔は仮面にすぎないという価値観をもっていても自由で
ある。それは個人の内部の問題に過ぎない。
 しかしそれでもなお、人は、仮面と素顔という二元論を弄したくなるもののようだ。ど
こかにか自分の「本質」があるかのように思いがちなのである。私が言っているのは、ど
こかに理想の自分があるというような、いわゆる「青い鳥症候群」のことではない。人格
の形成過程の青年期に、理想的な自我と現実の自我が分裂するためにこの二元論に陥りや
すい。例えば、三島の『仮面の告白』は理想的な自我というわけではないが、本当の、内
密にしていた素顔の「私」の告白体で、小説が書かれている。ここには嘘はない。我々は
この小説に、一つのみずみずしい青春の姿を見るだろう。「仮面」が青年の心を強く引き
つける観念であることを知っているからだ。「仮面」という言葉は使わなかったが、太宰
もまた、他人に晒している自分と本当の自分という、引き裂かれた自我が描かれていると
いう意味で優れた青春文学だろう。実際、これから論ずる『他人の顔』においても、主人
公が思春期の初期、姉の髢を焼き捨ててしまったことが書き込まれている。これは自我の
分裂を意識し始める頃の、化粧に対する一つの妬みと反撥であり、思春期特有のものと考
えることができる。
 素顔と仮面を分けた近代の思考は、仮面を仮のものとして、常に素顔に重点をおいて考
える傾向を醸成する。素顔に自我の中心があるかのように思うのである。他人に晒してい
る自我――仮面ではなくて、自分によって見られた自我、そしてそれを見ている自分、こ
れらを含めたその総体としての素顔を本当の自分と思い込む。
 『他人の顔』の主人公も例外ではない。四十歳の彼は、液体空気の爆発事故によって顔
面を喪失しても、自我の同一性は揺るがないと思っていた。顔面という他人に晒している
部分に損傷を受けても、自分という本質は変らないと思っていたのである。しかし、主人
公の、そういう楽観的ともとれる思惑を越えて、次第に、仮面と素顔の分裂に苦しむこと
になる。
 もちろん、ここに描かれているのは前述した思春期特有のものでも、現実離れした理想
主義の観念論、空疎な二元論でもない。世評に反して、安部公房は超現実という趣向を凝
らしたリアリズム小説家であるというのが私の見方であるが、この『他人の顔』も、高分
子化学技術によって製作された、人面そっくりの仮面をかぶるという、際物的、荒唐無稽
な、単なる物語に堕することがないのは、他ならぬ、本人をもっとも良く知悉しているは
ずの妻を仮面をつけた状態で誘惑するというサスペンスを織り交ぜつつ、顔面の全面的な
ケロイド状の損傷が次第に人格を変えるほどものであることが、時とともに本人に自覚さ
れてくるという、その心理的過程を丹念に、かつ極めてリアルに追っているからなのであ
る。
 そのリアリズムという観点から見た場合の、この小説の特徴は、高分子化学の専門家た
る主人公による仮面製作という、技術面だけが先行し、いったい仮面をかぶってどうしよ
うというのかという肝心の問題が後回しになっていることにある。それは、一般の科学者
技術者が、往々にして、ハード面の開発ばかりに目がいき、それを開発してどうするのか、
人間に与える影響はどういうものなのかというソフト面をおろそかにしがちなことに似て
いる。この小説が、主人公の妻に宛てた「ノート」、それは仮面をつけて妻を誘惑した後
の告白という体裁をとっていて、すでに仮面が妻を誘惑するものとして知られているため
に、読者には自明のこととして勘違いをしがちなのであるが、実は、この《仮面劇》が他
ならぬ自分の妻を相手にしたものであることが、主人公自身に明確になってくるのは、仮
面製作の最終段階すなわち顔面を決定する段階なのであって、それまでは、《仮面劇》そ
して仮面のそもそもの意味を考えあぐねていた過程だったのである。その、常にハード面
に遅れてやってきはするものの、その主人公の再三再四反復し、螺旋状に成長する思考過
程こそこの小説の中心部分なのである。
 その過程で、図らずも、いったい人にとって、顔とは何か、顔面を喪失するとはどうい
うことか、そして仮面をかぶることはいかなることかという、哲学的、思想的思惟とでも
いうべきものが強いられることになる。「顔面の喪失」という偶発の事故が、主人公にそ
ういう思考を強いたのである。その思考過程は、一技術者らしい特徴を備えているという
意味でも、また顔面の事故に対する防衛心理と、仮面製作の心理に与える影響がそのまま
主人公の思考の成長を促しているという意味でも、この小説が単なる観念小説に堕するこ
とから免れさせているといえる。

        2

 当初、顔面を失った小説の主人公は、「顔面の喪失」が本質的な喪失ではないと思い込
もうとする。

 たかだか、人間の容器、それもほんの一部分にすぎない顔の皮膚くらいに、なんだって
 そんな大騒ぎをしなければならないのか。むろん、そうした偏見や、固定観念は、べつ
 に珍しいものでもなんでもない。たとえば、まじないの信仰……人種的偏見……蛇に対
 するいわれのない恐怖(あるいは、さっき手紙でも触れた、ゴキブリ恐怖症)。……だ
 からといって、憧れに生きているニキビ面の青二才ならともかく、れっきとした研究所
 の一部門をあずけられ、船の錨くらいの重さでは、しっかり世間に結びつけられている
 はずのぼくが、いまさらそんな、心理的蕁麻疹に悩まされたりするようでは困るのだ。
 蛭の巣に対する、直接の嫌悪以上には、べつだん理由がないと知りながら、それでも苦
 悩を断ち切れずにいる自分が、なんともやりきれなかったのである。

 これが、目と口を除いて全面ケロイドになった顔面の損傷への、主人公の最初の心的対
応である。ここには、自分の顔面の損傷を直視できない逃避傾向と、その損傷をなるべく
軽く見ようとする自己合理化が働いている。それは、「ゴキブリ恐怖症」並みの「心理的
蕁麻疹」という言葉に典型的に現れているといってよい。高分子化学研究所の所長代理と
いう仕事、研究にはなんら影響は及ぼしていないというふうに思い込もうとしているので
ある。「人間の重さは、あくまでもその仕事の内容によって秤られるべきであり、それは
大脳皮質には関係しえても、顔などが口をはさむ余地のない世界であるはずだ」と。顔が
人間の容器の一部分である以上、しかも機能に障害をきたしているわけではないのだから、
「馴れてしまうのが一番」であると。自分も他人も。「こちらが、なんとも思わなくなれ
ば、相手もこだわるのをよすにちがいない」と。
 これは、社会人として当然の、自己防衛的心理機制というべきであるかもしれない。社
会的地位もあり、自分の仕事にも誇りをもっている者にとって、その仕事に直接支障がな
い以上、顔に損傷を受けたからといって、自分の価値が減ずるはずがないと思うのはある
意味で自然である。特に、主人公は所長代理とはいえ、高分子化学の研究者である。
 しかし、容易に想像がつくように、主人公は、顔面に繃帯を巻くたび、無残に損傷した
顔面を鏡に写すたびに、その、他ならぬ自分の醜悪さ、吐きたくなるような嫌悪と闘わな
くてはならないのである。その顔面は妻には見せないように家の中はおろか、外でも常に
繃帯をしているが、主人公は、顔面の繃帯への他人の視線を感じるたびに、その下の醜悪
な蛭の巣を意識させられることになるのだ。実際、それを見る人には、目にサングラスを
かけているとはいえ、顔全体に巻いた繃帯は目が釘付けになるほど異様なものだったろう。
小さい子供だったら、「一と目みるなり、夢のつづきでも見ているように泣きじゃくりは
じめたほど」だったのである。繃帯をしてでさえこうである。高分子化学研究所のK氏が
脅したように、このままでは繃帯を巻いてでさえ、次第に世間に出られなくなり、「生き
たままの埋葬」になるのが現実のものとなるかもしれない。主人公は自分自身にも「馴れ」
ようとし、職場でも繃帯をした顔面を同僚に「馴らす」ように努力した。しかし、それで
もなかなか馴れられないことに違いないのだ。
 実際、主人公は、研究所で、たまたまクレーの《偽りの顔》を見せられて、平常心を保
とうと懸命になっていたにもかかわらず、いきなりその画集を破くという事件を引き起こ
す。また家でも、音楽鑑賞が趣味だったのに、レコードの針を落としたバッハが、機械が
故障したとしか思えないほど、「ほこりまみれの飴細工」のように感じられたのである。
この時、初めて、主人公は「顔の傷が、聴覚にまで影響」していることを知る。
 そして、顔の蛭の侵蝕さながらに、K氏の「生きながらの埋葬」という言葉を「奥歯の
詰物のように」噛みしめながら、おずおずと「ほかにも顔といっしょに失ったものがあり
はしないか」と問い返している。一方で、人間相互に通路が必要だとしても、「百年間、
顔を見合わせているよりも、一編の詩、一冊の本、一枚のレコードが、はるかに深く心を
交わせる道である」はずだと反芻して、必死に平静を保とうと自己合理化を繰り返しなが
ら。
 以上が、主人公の仮面製作までのおおよその経過であるが、そこで、主人公と妻との間
でちょっとした行き違いが起る。それは、主人公が台所仕事をしている妻のスカートにい
きなり手を入れて「拒否」されるという――後に、その解釈が妻と主人公で分れる――事
件であった。この事件で、「顔に、ぽっかりと深い洞穴が口をあけた」ように思う。この
ことがきっかけになって、科学者の主人公は、学会機関誌に掲載されたプラスチックによ
る人工器官の記事を思い出し、仮面の製作を本気で考え始めるのである。しかし、その段
階でもまだ、主人公に危機感はない。それは、次のような記述でよく分る。

 そう、プラスチックの仮面をつくって、顔の穴をふさいでやろうというのが、ぼくのね
 らいだったのだ。もっとも、一説によれば、《仮面》は単なる補填物という以上に、自
 分を超越した何かに変身したいという、すこぶる形而上学的な願望の表現なのだそうで
 ある。ぼくだって、べつに、好きに脱ぎ替えできる、シャツやズボンなみに考えていた
 わけではない。しかし、偶像を信じていた古代人や、思春期の若者たちにならいざ知ら
 ず、いまさら第二の人生のために、仮面を祭壇に飾ってみたりしたところではじまるま
 い。顔が幾つになろうと、ぼくがぼくであることに、なんの変りもないはずだ。ただ、
 ちょっとした《仮面劇》で、開きすぎた人生の幕間を、埋めてみようというだけのこと
 である。

 ここでも意識の上では、「ただ、ちょっとした《仮面劇》で、開きすぎた人生の幕間を、
埋めてみよう」という軽い気持ちに過ぎなかった。仕事の上でも、際立った支障は生じて
いないとすれば、「顔が幾つになろうと、ぼくがぼくであることに、なんの変りもないは
ずだ」と。むろん、これらの主人公の言い回しには意図的に「顔面の喪失」を軽く考えよ
うという、無意識の防衛機制が働いており、そのまま鵜のみにすることはできない。が、
ここで注意したいのは、「顔面」が喪失したのならば、元の自分の「顔面」を回復しよう
というのが自然であるにもかかわらず、主人公は、始めから自分の顔を復元しようとは考
えてもいないことである。高分子化学研究者としての知識と技術を生かし、他人の顔の
「プラスチックの仮面をつくって、顔の穴をふさいでやろう」と思うのである。その意味
で、「ちょっとした《仮面劇》」という表現は、きわめて適切に、主人公のその段階での
気持ちを現わしているといわねばならない。
 そのことは、この小説が、単なる「顔面」の損傷からの治癒の物語ではないことを意味
する。また、同じことだが、この小説から直接、顔または身体による「差別」の問題――
作者は周到にもこの問題にも触れているが、これは小説のリアリティ上触れざるを得ない
からである――を引き出すのも等しく見当違いであるということになる。
 こうして、実物と寸分違わぬ仮面の製作にとりかかるのであるが、この時、主人公は少々
はしゃいでさえいるのである。なるほど、実物と違わぬ精巧な多数の仮面の出現は、もし
それが可能だとすれば、例えば、Aという人物の仮面が多数でまわると、疑似Aが何人も
存在することになり、その結果、社会はパニック状態になり、人間存在を根底から変える
性質のものかもしれない。そのような仮面の製造は、その道の専門家であってみれば、い
ま騒がれている新興宗教の科学者なみに、スリルのある一種の冒険でないことがあろうか。
 また、仮面の選択に当たっても、なにか喜々として、アンリ・ブランの顔の分類にした
がって、内向型、外向型それぞれ二つの計四つを挙げて検討を加えているのである。それ
はあたかも、科学者が仮説を立ててそれを実験によって証明するときのような執着と熱気、
あるいは素封家が金に糸目を付けず物を自由に選ぶときの心の弾みのようなものが感じら
れる。
 しかし、主人公は、意に反して、この《仮面劇》を通して、手痛いしっぺ返しを喰らう
こととなる。顔面のもっている重要な意味、仮面をかぶることがいかなることかを思い知
らされることになるのだ。いかなることを思い知ったのであったのか。これがこの小説に
描かれているすべてであるといってよい。

        3

 ともあれ、主人公が「顔面」の選択に当たって、散々迷ったあげく、そのアンリ・ブラ
ンの分類の「中心突起型、骨質」すなわち、外向型で、外界に対しては敵対もしくは対抗
的な狩人型の顔面、「行動力のある意志的な顔」が、最終的に選ばれているのは興味を引
く。むろんこのことは、小説の最後の「行為」の意味に繋がっていくが、これについては
後述する。主人公はこの「顔面」の決定に半年あまりをかけていて、その間、選択の基準
をめぐってさまざまに思考をめぐらせているのである。自分の失われた顔面を復元する意
図は始めからなかったことは述べたとおりであるが、「顔面」の決定の瞬間を小説では次
のように書き記している。

 こんなふうに、ぼくの内部では、おまえ(妻――引用者)との間に通路を回復したいと
 いう欲求と、逆におまえを破壊してやりたいという復讐心とが、互いにはげしくせめぎ
 合っていたわけである。しまいには、どちらとも区別のつかない状態になり、おまえに
 矢をつがえた姿勢も、ごく見馴れた日常的なものになり、そしてふと、ぼくの心には、
 狩人の顔が刻み込まれていたということなのだろう。

 結局、自分の失われた顔面を復元するのではなく、「狩人の顔」――主人公の「心」に
相応しい「顔面」が選ばれているのは興味を引く。これはどういうことなのか。「ちょっ
とした《仮面劇》」であるなら、なおさらのこと、この決定に必然性はないといえるので
はないか。ただ単に、「顔の穴」を埋めるためだったら、人間として不自然な顔でないな
らよいわけだし、自分の好きな、任意の顔を選んでも《仮面劇》は成立するはずだからで
ある。また、主人公の脳裏を掠めたように、それが劇、遊びであればあるほど、「十円玉
を投げて」決めてもよかったはずである。自分の「心」すなわち心理状態とはかけ離れた
「顔面」こそ獲得したいという冒険があってもよいはずだ。
 もともと我々にとっての「顔」も、何かの基準によって選ばれたものでなく、偶然によっ
て「天」から与えられたものである以上、主人公の仮面も、「十円玉」のような完全なる
偶然に委ねられてもよい。言うまでもなく、このことと人の人生にとっての顔の占める決
定的ともいえる重要性とは無関係である。我々は、偶然によって「天」から与えられた顔
と折り合いをつけ、それを自分の「顔」として必然性に変えているに過ぎないのである。
生きるとはそういうことだからだ。
 ここで急いで注釈をくわえておくと、むろん、今、「過ぎない」と言ったほど、本当は
事態は簡単、容易ではない。現実に生きるという観点からすると、人に偶然与えられたも
の、所与としての身体(もちろん脳細胞も含めて)を自分のものとして必然性に変えるの
は、人生の時間にすれば十年単位のエネルギーが必要であり、それが我々の思春期の意味
でもあるのだが、だとすると、同じように、主人公が全面ケロイドと化した「顔面」を自
分のものと納得すること、そして主人公が新たに作製した狩人の「仮面」を自分のものと
するには同じだけのエネルギーが必要だということになるのである。
 主人公は、そのような偶然性に委ねることを潔しとしなかった。偶然性とは不条理の別
名でもあるからだ。ただ、この必然性とのかねあいでいうと、失われた顔面をそっくり復
元することが自我の同一性を保つには都合がいいのであって、主人公が考えるように、決
して「心」に相応しい「顔面」を選ぶことではないはずである。その理由は後で述べるが、
ともかく、このことは、主人公の「顔」に対する哲学的、存在論的省察がまだ螺旋階段の
途上であることを示している。
 小説では、「顔面」の決定の直前には、妻に好みの「顔」を選ばせようとしていて、こ
のことも興味を引く。
 それはデパートの能面展を見て、「顔」とは、そもそも「自分がつくり出す」のではな
く、「相手によってつくられる」ものだということを発見し――それは他人との「通路」
には顔が不可欠だとの、後にやってくる認識に繋がる――、だとすると、妻に選んでもら
うのが一番よいと思ったからであった。それは同時に、「不当に思われるほど孤独だった、
仮面づくりの作業に、間接的にもせよ、おまえを共犯者に誘う機会」にもなると思われた
し、その妻は、「なんといっても第一号の他人」であり、「まず最初に、通路を回復しな
ければならない相手」だと気づいたからであった。
 ここで初めて、主人公の中で、「顔面の喪失」によって失ったものはまず第一に妻であ
るという自覚が生じてきたのである。それは、我々が病気になって初めて健康のありがた
みが分るというのに似ている。その時に、妻との生活が意識化されたといっていい。それ
は同時に、仮面の製作を通して、「顔面」を喪失したことの意味が痛覚される過程でもあっ
た。

  ぼくらの間に、あのこわれた楽器のような沈黙が支配するようになってから、もうど
 れくらいになるだろう。ありふれた噂話も、日常的なやりとりも絶えてなく、あるのは
 せいぜい、記号のような必要最小限の初等会話術ばかり。

 むろん、「顔面」を喪失する以前の、もともとの主人公と妻の関係はどのようなものだっ
たのかということも念頭に入れなければ、公平を欠くだろう。それについて小説には直接
には書かれていない。普通にある、平凡だが温かみのある夫婦生活さえも暗示されていな
い。また、主人公の顔面の事故がどうして妻との「会話」をなくし、「沈黙が支配する」
家庭にしたのかという経緯も描かれてはいない。ただ、小説には、つつましくも、妻が、
にせの出張中も夫のために顔面の繃帯を洗って帰りを待っている様子が描かれているだけ
だ。

 あの短からぬ歳月のあいだ、いったいぼくは、何を見、何にむかって語り、何を感じて
 暮してきたというのだろう。それほどおまえについて、無知だったのか?……
 ……そう、すくなくも、おまえが、男の顔について選り好みをするかもしれないなどと
 は、思ってもみないような一方的なやり方でしか、おまえに接していなかったことだけ
 は確かである。

 ここで、結婚八年目の主人公は妻に対して、以前から「一方的な」ものだったことに思
い当っている。「もしもぼくらが、事故以前から、すでにそれほど離ればなれだったのだ
としたら、いまさら仮面さわぎまでして、なにを取戻そうというのだろう?」という言葉
を見ると、妻が「第一義的な存在」であるとの主人公の認識にもかかわらず、二人に性的
なものは続いていても、それが「一方的」で、「単なる惰性」でしかなかった夫婦関係が
想像できる。だから、正確には、妻は、当為としての「第一義的な存在」だったのである。
そのことを裏から証かしているのが、「妻の手紙」である。

  あなたに必要なのは、私ではなくて、きっと鏡なのです。どんな他人も、あなたにとっ
 ては、いずれ自分を映す鏡にしかすぎないのですから。そんな、鏡の沙漠なんかに、私
 は二度と引返したいとは思いません。一生かかっても、消化しきれないほどの愚弄で、
 私の内臓はもうはち切れんばかりになってしまいました。

 こういう言い回しは、世の女から男に訣別を言いわたす時の常套句であるという見方は
さておいて、妻の言うことに一理あるように思えるのは、小説の中の前半から中盤部分の、
主人公と妻との会話が、確かに、ことごとく主人公の側からの「一方的な」ものであり、
空回りしているからである。その結果が、妻を相手にした「一方的な」《仮面劇》であっ
た。
 主人公には全く妻の心理が見えていない。むろん主人公は、「顔面」が損傷しているた
めに、ナーバスで、自意識過剰になっていることは割り引かなくてはならないだろう。特
に、そもそも人は自分の「顔面」は「鏡」によってしか見ることはできず、「顔面の損傷」
によって生じた心理的打撃を考えるなら、普段以上に「鏡」を必要としていたといえる。
が、しかし、そういう事情を考慮しても、夫婦の会話の行き違いの原因はほとんど主人公
の側にあるといわざるを得ないのである。その典型が自分の仮面が見破られていないと思
い込んでいる誤解であった。
 私は妻の言い分に加担して、一概に主人公が妻を一方的に「鏡」としていたという論難
を肯定しているわけではない。多かれ少なかれ、世の夫婦は知らず識らずのうちに互いに
「鏡」の役割をしているものであろう。それはお互いさまである。自己意識という自前の
鏡では足りないところを補ってやるのが夫婦であるかもしれない。この主人公に問題があっ
たとすれば、妻が言うように、妻に自分の「鏡」役ばかりを要求して、自分が「鏡」にな
りえないこと、この点なのである。
 それに加えて、妻の「手紙」で衝撃的なのは、主人公が仮面を作るきっかけにもなった
セックスの誘いに対して、拒んでいないという証言である。「自分で自分を拒んでいたの
ではありませんか」と言う。これはいったい何なのか。小説すなわち主人公が書いた「ノー
ト」によると明らかに妻が拒んでいると解釈するほかないようになっているので、この食
い違いは非常に奇異な感じを与える。
 が、二人の見方を比較して、ここでも妻の方に軍配が上がるように思われるのは、まず
一つには、主人公が他人ではなくて「鏡」を必要としているという妻の見方の首尾一貫性
である。妻に言わせれば、主人公は他人をまともに認識しようとせず、他人を自分を映す
「鏡」すなわち自分のことしか考えていないということになる。そういう人間は往々にし
て、自分の心理を基準にして他人を見がちであるし、この場合も、自分が拒まれていると
思うから、実際拒まれているように見えてくる、という訳だ。
 それに、前述のように、主人公は、その日の数日前、職場で、若い女の助手が開いてい
たクレーの画集をいきなり破いてしまうという事件を起こしている。これなど普段ではあ
りえない行動であり、「顔面の損傷」が人格には影響しないと強弁していても、心理的に
相当、動揺をきたしていることを示す証左である。だとすると、主人公の方が異常に神経
過敏になって、社会から拒絶されているという感覚をもっていたがゆえに、主人公の、い
きなりスカートに手を入れるという行動に対する妻の瞬間的なリアクションを、拒まれた
と勘違いしたものだと思われる。主人公自身この時のことを「自分でもよく後をたどれな
い」と述懐しているくらいなのだ。妻の側からこの情景を見直してみると、手を払う程度
のことは当然のリアクションだとも言えるのである。
 ただ、「一方的」を云々するなら、主人公がいうように、どうして妻が「あの娘に対す
る兄ほどの協力もしてくれなかった」のかという問題もあるにはある。主人公が陥った絶
望的状況は身近にいて分るほどだったのだから、「協力」ということがあってもよかった
のではないか。確かにその通りである。しかし、妻は協力したのではないか。夫が一年か
けて作った仮面を被って現れたとき、それと知りつつ騙されていたわけであるのだから。
妻から見て、それ以外の「協力」はしようにもできなかったとも言える。夫は、「通路」
などといって、一人で空回りをしているだけであるし、仮面は妻には秘密に製作されてい
たわけなのである。
 結局、主人公の「ノート」と妻の「手紙」を比較検討してみると、主人公の長々とした
仮面と他人の関係の考察にもかかわらず、一番身近にいる妻のことがまるで見えていなかっ
たというしかない。だが、こうは言っても、主人公にモノにこだわる技術者的性向があっ
たにしろ、現代の一般サラリーマンの夫婦認識とそう大差はないと思われる。現代の平均
値をとれば、妻の方が夫婦関係に敏感であろうし、片や、夫は、小説の妻のようにどうし
て「ボタン造り」に熱中しているかなど知らぬ方が普通だろう。その意味でも、「他人と
の通路を遮断した罪」は主人公だけに負わせるべきではないというべきだ。
 そして、問題は、妻の証言が正しいとか正しくないとかいうことではなく、次のことだ。
すなわち、「顔面の損傷」は、主人公にとって、ということはすなわち人間にとって人格
を変えるほどのものであったということ。これは、ある意味で当然の結論ともいえるもの
だが、ただ、以上のように、このことが本人にはしかと知られていないのである。実際、
「ありふれた噂話も、日常的なやりとりも絶えてなく、あるのはせいぜい、記号のような
必要最小限の初等会話術ばかり」という、「沈黙」の家庭にしたのは、顔面を喪失した主
人公が原因に違いなく、妻の方には、家庭をそのようにした原因は見いだせない。少なく
とも、妻に「音を消して絵だけにしたテレビの前で、じっと両手に顔を埋めて」いるよう
な目に合せているのは、主人公に違いないのである。このことは、主人公の中で、無意識
のうちに、妻を、当為として「第一義的」に考えざるを得ない立場に立たせたといいうる。
 さらに、これらからわかることは、私が前述した、作家安部の徹底したリアリズムの姿
勢である。結局、これは、安部のいわゆる「乾いた文体」に関連することにもなるが、主
人公が楽観的に、一技術者のごとく「仮面」の製作後、一旦破棄する、あるいは防衛機制
を働かせるそのさまを越えて、主人公の「顔面の損傷」というほとんど人格を破壊するほ
どの事態、それは家庭を破壊してしまうほどのものであることが直接描かれていなくとも、
暗示的に、全体としてリアルに描出することに成功していることになっているのであって、
読者には、主人公には逃避傾向にあるがゆえに正面から受け止められないその悲劇の深刻
さが、確実に伝わってくる仕組になっているのである。だから、一番分っていないのは、
妻の「手紙」にあるように「顔面損傷」の当事者である主人公なのだ。この、作家安部が
仕組んだからくりは、だから小説の最後の、主人公が初めて「行為」に踏み出していく力
動感へと繋がっていくのである。

        4

 もう少し妻の問題を考えてみたい。主人公が妻との間に「通路を回復したい」と願うの
なら、妻の知らないところで仮面を製作し、被ることが、本当にそれが有効なる手段であっ
たかどうかということである。なぜ、主人公は妻に相談して、仮面を作らなかったか。ま
た、その後、なぜ、妻を相手にして《仮面劇》をしようと思ったのか。主人公の「ノート」
を読む限り、その肝心な点に関して、必ずしも考えつめてはいない。
 主人公にはなにか錯誤、高分子化学の技術を生かして、仮面を作ることだけに熱中する
技術者特有の、いわゆるオタク的な錯誤がある。普通、夫あるいは妻が、例えば足を骨折
したとかのなんらかの障害者になった場合、夫婦である以上助け合うものであるだろう。
この場合、夫の顔面がケロイド瘢痕で覆われているわけであるから、普段、その醜悪なケ
ロイドは妻の目に触れないよう覆面をして気を配るとしても、覆面に代わる仮面を妻に秘
密にするいわれはどこにもないというべきである。
 それは、一つには、心理的防衛機制から顔の負傷を人格に影響を与えないものとして、
「心理的蕁麻疹」程度の、「ちょっとした《仮面劇》」として軽く考えていたこと。この
程度のことで仮面をかぶることを自尊心から言い出しにくかったのだろう。芥川の『鼻』
の禅智内供が、鼻を短くする法を自分から決して言い出さなかったように、である。もう
一つは、前に述べたように、夫婦の関係が顔面の事故以前から「一方的な」ものであり、
冷やかなものがあったこと。それはそれまで主人公は仕事にかまけて、「惰性」で続いて
いた夫婦関係にあまり関心を払っていなかった事情が推測できる。さらにもう一つは、そ
もそもその《仮面劇》たるや、役者は決まっているが、役所も筋も決まっていない状態だっ
たから、話しようがなかったというべきかもしれない。この《仮面劇》が、妻を相手にし
た誘惑劇であることがはっきりしてくるのは、この仮面の面――「狩人の顔」が決定した
時点であり、当の役者にも分ってはいなかったのである。
 前述のように、主人公が、妻との「通路」が断絶していて、これがのっぴきならない状
態になっているのを痛感させられるのは、仮面を製作し始めてからであり、そこで初めて、
自分の中に妻との間に「通路を回復したいという欲求」を発見するのである。しかし、そ
れは、皮肉なことにも、同時に「破壊してやりたいという復讐心とが、互いにはげしくせ
めぎ合っていた」自分の発見でもあった。ただ、主人公の《仮面劇》は、結果として、妻
は「感謝の気持でいっぱいにな」ったとあるわけであるから、この妻の「手紙」を読む限
り図らずも成功しているのである。むろんこの《仮面劇》を、一方的にぶち壊しにするま
では。
 ではどうすればよかったのか。これを、絶縁状を突きつける最後の行動から、妻の側か
ら逆にさかのぼって推察するに、つまるところ、《仮面劇》の舞台裏の一部始終を暴露し
た「ノート」を、「一方的に」――無傷の妻に対する復讐にも似て、「むりやり手術台に
引き上げられ」るように「ところかまわず切り刻まれているような思いで」読まされると
いう衝撃はさることながら、この破綻は最初に存在したというほかない。すなわち、妻と
の「通路」の断絶を普段から感じ得ず、秘密裏に「ちょっとした《仮面劇》」を始めてし
まった、その最初である。
 見えていない主人公の誤算が最初にあるとして、妻との「通路」を回復したいという足
掻きにも似た、その《仮面劇》に、なぜ、同時に、妻に対して「破壊してやりたいという
復讐心」が込められることになったのか。
 主人公が、過剰な被害意識から、妻に「拒否」されたと受け止めていたことについては
すでに述べた。このような被害意識に侵されている主人公が、「拒否」にあった末に、妻
が無傷であることに対する嫉妬に転化していく過程は人間の心理としてある意味で自然で
あろう。痴漢そのものは、心理学的には屈折したコンプレックスから説明されるが、主人
公が、「顔面」を喪失した自分と同じように、妻に対して「破壊してやりたい」というの
も納得できる。小説の中の映画の少女が自分のきれいな顔半分にも硫酸をかけてやりたい
と思ったように、また、彼女が、自分の顔をこのようにした戦争がまた始まって、「一挙
に事物の価値規準が転覆し、顔よりも胃袋が、外形よりも生命そのものが、はるかに人々
の関心の的になる」そういう状況の到来を心底願っているように、である。週に一日、ボ
ランティアにいそしむ少女をして、である。

  ぼくはおまえに近づきたいと願い、同時に遠ざかりたいと願っていた。知りたいと思
 い、同時に知ることに抵抗していた。見たいと望み、同時に見ることに屈辱を感じてい
 た。そんな宙ぶらりんな状態のまま、亀裂はますます深く内部にくい入り、ぼくは割れ
 たコップを両手で支え、かろうじて形を保ってやっているにすぎなかったのだ。

 結局、このような自己省察も、秘密裏に進行する仮面製作の過程において行われたので
あるから、もう事態は止めようもなく進行していたともいえる。ひょっとすると、この時、
知らぬのは当人同士だけで、妻の心のうちも主人公と全く同じものが芽生えていたかも知
れぬではないか。「近づきたいと願い、同時に遠ざかりたいと願っていた」のは。主人公
の、こういう遅れてやってきた妻との「通路」の回復の必要性の自覚も、嫉妬の感情とあ
いまって、「痴漢」という屈折した形をとらざるを得なかったのだった。
 ここで、主人公が次のように記していることに注目すべきだろう。

 顔に蛭が巣くいはじめて以来、……ぼくの思考の、少なくも七割までは、性的な妄想で
 占められつづけていたのである。

 主人公が言うように、「特定の対象を持たない痴漢的な性の表現は、つまり、死に瀕し
ている個体の、人類的恢復の願望」なのかどうかは別にして、過剰な「性的な妄想」が一
種の絶望的状況から生じてくるのは間違いない。確かに、K氏が「生きながらの埋葬」と
言うように、たとえ、研究所では覆面をしていたとしても、それが通用するのも同僚が主
人公の過去の顔を覚えているからに他ならず、やがて「顔なし」として不気味がられ、社
会から抹殺されるのは時間の問題であるかもしれない。主人公がいかに「顔と、顔の権威
に対する、果たし状」と力んでみても、「顔面の損傷」が結局は人格の崩壊を招くほどの
危機を招来するのは間違いない。かかる絶望的状況を当人は逃避的防衛機制から正確に把
握していないとしても、「顔面の損傷」という決定的ともいえるトラウマが無意識に働き
かけて、過剰な「性的な妄想」を生み出すのは容易に頷けることである。
 そのような「妄想」に捕らえられた主人公が、後先考えずに、自分の妻に向かって、
「通路」の回復を願って、「痴漢」を思いつくのである。この場合の「痴漢」は、正確に
は誘惑というべきであり、かかる「特定の対象」を相手にした誘惑を「痴漢」としてしか
表現できないところに主人公の心理的屈折――無傷の「他人の代表」たる妻に対する限り
ない嫉妬、復讐の念が象徴されている。本来なら、夫として、妻の「手紙」にもあるよう
に、計算づくで妻を誘惑するのなら「通路」の回復もなったろうが、いかんせん、主人公
はあまりに追いつめられ視野狭窄的状況に陥りすぎていた。さらに不幸だったのは、前に
も再三述べたように、やむを得ぬこととはいえ、その絶望的状況から目をそむけ、逃避す
ることによって生じた現実認識の甘さである。
 またここで触れておかなければならないのは、「痴漢」に纏わる主人公の無意識的な破
壊衝動である。「特定の対象を持たない」のは、実は「性」ではなくて――むろん、現代
の性が抽象化され、「特定の対象を持たない」痴漢的要素が近代文明によって醸成されて
いるとする主人公の言説は肯定できる――、たぶん無意識的な破壊衝動の方であって、こ
れは言うまでもなく、「顔と、顔の権威に対する、果たし状」にも繋がっていくし、「一
つの監獄島を形成している」世界全体に広がっていくものだ。それは、「ぼくを生きなが
ら埋葬しかけた、世間」の全的な破壊なのである。だから、主人公が記しているさまざま
な「禁止の破壊」は単なる妄想ではないのである。その意味で、実は、「狩人型」の仮面
は、無意識のうちなる自己の欲望(欲動)とそのあるべき自己を正確に察知した選択の結
果でもあったのである。
 これは現代版ジキルとハイドであって、ジキルほど面貌が醜悪ではないにしろ、主人公
が獲得した「狩人」の面貌こそが、実は自己の欲望に忠実な家来だったのである。その主
人公の無意識性は、仮面の選択する際の、「表情の規準という、まるで手掛りがなくなっ
てしまっていた、あのぼくの迷子が、ひょいとかたわらに立っていることに気付かされた
のである」という表現にも、「ふと、ぼくの心には、狩人の顔が刻み込まれていた」にも
現れている。

        5

 そのことは、主人公が無意識に選びとった仮面を実際に被ることによって、本人には徐々
に自覚させられるのであって、その後は、無意識の発見が素顔と仮面の分裂の中で現れて
くる。ここで注意深い読者には分るように、通常につかう素顔と仮面の意味が逆転してい
ることである。素顔と仮面を本音と建前、内向きの顔と外向きの顔というふうに言い換え
てみるとその意味がはっきりする。ところが、もともと仮面とは、日常性を越えるための
ものであって、中村雄二郎氏がその辺の経緯を『魔女ランダ考』でも記しているように、
神と霊を交わすのもこの仮面を通してであったのである。神と交わすということは、今日
的な言葉でいうと、無意識の領域の言葉を察知するということに他ならない。だから、仮
面を被ったときに初めて、人はその人の本性を現わすのである。
 このことは『他人の顔』の主人公の場合も変らない。「七割までは、性的な妄想で占め
られ」秘されていたものが、仮面を被った途端「行為」として顕現してくる。この「行為」
の推進役は「仮面」であり、「仮面」は「素顔」という意識の統制を破って、現れ出よう
とするのである。ただ、小説の主人公は「行為」に踏み出したばかりといえるが。
 さしあたり、まず、主人公の仮面がどのようにして独立した人格を要求していったのか、
その過程をたどってみよう。まず、仮面の被りぞめのところである。

 ぼくはその顔を、とくに好ましいとも思わなかったが、さりとて、好ましくないとも思
 わず、すでにその顔で、感じたり、考えたりしはじめているようだった。からくりを知っ
 ている自分にさえ、そこに何かのからくりがあることが、疑わしく思われたほど、万事
 があまりにしっくりと行きすぎていた。

 ここで注意してほしいのは、「その顔」すなわち仮面が「感じたり、考えたりしはじめ
ている」とは、比喩でも何でもないということである。それは、後の、妻を誘惑する場面
まで読んでいくとはっきりすることであるが、例えば、「鏡の中にある内供の顔は、鏡の
外にある内供の顔を見て、満足そうに目をしばたたいていた」(芥川龍之介『鼻』)とい
う表現は、「目をしばたたいていたように見えた」と同じ意であり、これは「芙蓉の顔」
と同じ比喩の一種に過ぎないのであって、これらとは区別しなくてはならない。芥川の場
合は単なる修辞上の問題に過ぎず、これらの過剰な意味付与はテクスト全体の誤読を招く
のである。仮面と素顔という二重人格化は、ここではそのまま現実なのであって、仮面を
被った身体(すなわち素顔)の方が奥に隠れて、仮面の思考や行動を制御する立場に置か
れている。それは制御しきれないくらいのわがままぶりを発揮したりするのである。

 ……玩具店での出来事以来、すっかり主客が転倒してしまっていた。手を引いてやるど
 ころか、釈放されたばかりの囚人のような、この飢えきった魂の後を、あっけにとられ
 ながらつけて行くのがやっとの有様だったのである。
  さて、どうしよう……仮面は、指の腹で軽く顎ひげをなでながら、多分、繃帯の覆面
 にたいする反動もあったのだろう、これ見よがしに顔をそらせて、待ち構えるように、
 舐めるように、うかがうように、貪欲に、挑戦的に、たしかめるように、ものほしそう
 に、確信ありげに、ねらうように、探るように、事あれかしと願う、狩人のように……
 いわば飼い主の目を盗んで逃げ出して来た仕付けの悪い犬のような表情で、しきりと鼻
 をひくつかせていたものだ。

 ここには仮面の人格が、素顔だと思っていた自我を越えて、「仕付けの悪い犬のよう」
に一人歩きでもしそうにしている状態がよく表現されている。この記述の前の方では、服
装選びの場面で、「顔面」と黒眼鏡に合せて、少々派手なものを選ばなくてはと思っては
いたが、当人は流行について「多少の心得」もないはずなのに、いつの間にか「当節流行
の、襟の細い三つボタンの上衣」を選び出したこと、また、「そればかりでなく、わざわ
ざ貴金属売場に行って、指輪まで買い込ん」だこと、玩具店では、なんのためなのか分ら
ぬまま、充分に殺傷力のある空気拳銃を買い込んだりしているのである。そして、「仮面
のやつは、わざとポケットの上から、(拳銃の)固い感触を叩いてみせたりしながら、ぼ
くの困惑を笑い、たのしんでいるようでさえあった」のである。そして、仮面をかぶって
妻を誘惑する場面では、

  だが、仮面はちがった。仮面は、ぼくの苦悩を吸収し、それを養分に変える能力をもっ
 ているらしく、まるで沼地の植物のように、こんもりと欲望の枝葉を繁らせていた。お
 まえに、拒否されなかったというだけで、もうくわえ込んだも同然といわんばかりに、
 襟なしの薄茶のブラウスからのびやかに突き立っている、その果汁の壷のようなうなじ
 めがけて、がっちり想像の牙を打ち込んでいたのである。ぼくにとってはおまえでも、
 仮面にとっては、気に入った一人の女というにすぎなかったのだから、その不作法を咎
 めてみても始まるまい。

 このように、身体を共有しているとは言え、あたかも仮面の人格は「ぼく」=素顔の人
格から独立しているかのように、「こんもりと欲望の枝葉を繁らせて」さえいるのである。
主人公にとっては妻でも、仮面にとっては「気に入った一人の女」という事態が生じてい
る。このように、妻を誘惑しているのは仮面の人格であり、素顔の人格はただそれを見て
いるだけというふうに、人格が二重化したために、素顔の人格と仮面の人格と妻という奇
妙な三角関係、すなわち「《ぼく》と、《仮面=もう一人のぼく》と《おまえ》という、
図面に引けばただの直線になってしまう、おおよそ非ユークリッド的な三角関係」に陥っ
てしまうのである。そういう中で、直接手を下している仮面の人格と妻に対し、ただ見て
いるだけの素顔の人格は激しい嫉妬すら覚えるのである。
 このようなことは、昨今注目されている「多重人格」を髣髴させるものがある。むろん
「多重人格」の症状の場合は違う人格が交互に現れて、この場合のように素顔と仮面に人
格が二重化するということはなく、むしろ症状的には分裂病に近いというべきであるが。
また、一応「素顔」が「仮面」を制御しているという意味で、人格が二重化する分裂病を
含めて、制御不能になっている精神障害とは区別される。ただ、精神障害とまではいかな
くとも、「多重人格」や分裂病がなにか現代の自我の危機の隠喩になりやすい、そういう
現代的な背景が存在するのは事実である。
 したがって、この部分を読み替えるとすれば、「仮面」を被ることによって、あらわに
なった無意識の欲望が独り立ちしたために、「素顔」の本来の自我が戸惑って、自己分裂
という自我の危機に陥っているのだといえるのである。主人公の「ノート」の言葉を使う
と、

 仮面の人格は、決して手品師のシルクハットから飛び出した兎のようなものではなく、
 素顔の門衛からきびしく出入りを差し止められていたため、つい意識されずに来てしまっ
 た、ぼくの一部にほかならないはずである。

 すなわち、仮面の人格が、自我の内部で抑圧され「門衛からきびしく出入りを差し止め
られてい」たがゆえに意識されることのなかった無意識を代表し、素顔が、意識された自
我の部分を指すことになっている。もうこうなってくると、仮面と素顔という、通常使わ
れる意味での観念そのものが無効となり、どちらが素顔でどちらが仮面なのか分らなくなっ
ている。だから、主人公の「ノート」の最後で次のようなきわめて正しい認識が示される
ことになる。

 顔が在ったものではなく、作られたものだとすると、ぼくも仮面をつくったつもりで、
 じつは仮面でもなんでもなく、あれこそがぼくの素顔で、素顔だと思っていたものが、
 じつは仮面だったというようなことも……

 この部分は、妻の「手紙」の次の部分に照応する。

  分らないはずはないでしょう。あなただって、最後には、仮面だと思っていたものが、
 じつは素顔で、素顔だと思っていたものが、じつは仮面だったのかもしれないと、疑っ
 ていらっしゃるではありませんか。そうですとも、誰だって、誘惑される者なら、そん
 なことくらい、ちゃんと心得た上で誘惑されているものなのです。

 前に少し触れたが、どちらが素顔でどちらが仮面か分らなくなるという意味でも、『ジ
キル博士とハイド氏』を連想させる。この小説の場合も、ジキル博士が薬品によってハイ
ド氏を生み出して、ハイド氏は仮の姿に過ぎなかったのに、いつの間にかハイド氏に乗っ
取られて破滅するのだった。言うまでもなく、ジキル博士は意識された自我、ハイド氏は
無意識の領域に抑圧されていた欲望を象徴しているのであり、その破滅は、抑圧されてい
た無意識が顕現して、人格としての統制がとれなくなったがゆえなのである。作者のティー
ヴンスンはこの作品の中で、人間は多元的存在であるという主張を展開しているが、自我
の同一性についての危機が叫ばれる現代、今日的なものがある。

        6

 かつて、和辻哲郎は「面とペルソナ」で、次のように書いたことがあった。《顔面は人
の存在にとって核心的な意義を持つものである。それは単に肉体の一部分であるのではな
く、肉体を己れに従える主体的なるものの座、すなわち人格の座にほかならない。》
 和辻は、同時に、人の「 面 」が「役割」を介して「人格」を表現する経緯を述べてい
る。確かに、我々は社会の中で多様の「面」すなわち「役割」を持っている。『他人の顔』
の主人公に即して言えば、家庭生活では夫であり、仕事の中では高分子化学研究所の所長
代理そして技術者であり、部下に向かっては上司あるいは管理者、統括者であり、そして
これは小説には描かれていないが、対女性関係では一人の男であり、同窓生の中では一人
の学友であったろう。
 たぶん自我の危機と呼ばれるものは、この「役割」の多様性からきているのであって、
「役割」あるいは社会的位置はそのままその人の人格を形成するものであるから、現代人
が分裂的、多元的存在になり、いつの間にか素顔と仮面という便利な言葉を弄するように
なるのは必然であるともいえるのである。
 だとすると、我が『他人の顔』の主人公の場合はどうなるのであるか。K氏も触れてい
ることであるが、幼児心理学の定説のように、自我というものが、「他人の目を借りるこ
とでしか、自分を確認すること」も、自己の形成もできないのであるとすれば、「主体的
なるものの座」たる顔面の損傷した主人公、もしくは覆面の主人公は、理論上は、そのま
までは他人との通路が遮断された状態におかれているわけであるから、人格崩壊の危機に
立たされているというほかないことになる。
 精神病理学者の木村敏氏は、分裂病などの精神障害の分析を通じて、人間の自我がいか
なるものであるかの考察にたって次のように述べている。《自己なるものとしての自己、
同一性としての自己は、そのつどの自覚が絶えずそこに立ち戻る反復運動の収斂点として
のみ、しかもこの反復運動が有効に遂行される限りにおいてのみ、それ自身を保持するこ
とができるものである。》(『分裂病と他者』)
 木村氏によると、自己の自覚と他者の認識とは同時に来るのであり、他者の存在なしに
は自我の認識はなく、その自己と非自己の差異の自覚の繰り返しが自我なるものを形成し
ていく。だから、我々が観念的に考えているように、自我なるものは実体的、固定的なも
のではなく、自我は「そのつどの自覚が絶えずそこに立ち戻る反復運動の収斂点」に過ぎ
ないのである。分裂病や離人症のような精神障害は、「反復運動が有効に遂行され」なく
なったものと考えられる。だとすると、『他人の顔』の主人公の場合は、「同一性として
の自己」を保証する面貌が変形し、仮面を被った状態では、「主体的なるものの座」とし
ての顔面が違うと、「そのつどの自覚が絶えずそこに立ち戻る」ところの自己意識も変っ
てくるわけであるから、「収斂点」としての自我に新たな人格が形成され、古い自我と葛
藤をひき起こすのは必然であろう。

  ぼくは、自分と仮面とが、ここまで分裂してしまったことに、我慢のならない荒廃し
 たものを感じはじめていたのである。もしかすると、来たるべき破局を、すでに予感し
 ていたのかもしれない。仮面は、その名のごとく、あくまでもぼくの仮の顔であり、ぼ
 くの人格の本質は、そんなもので、左右されたりするはずはなかったのに、一度おまえ
 の目を通過した仮面は、はるか手のとどかない所に飛び去ってしまい、ぼくはなすすべ
 もなく、ただ呆然と見送るばかりだった。これでは、仮面を作った意図に反して、顔の
 勝利を認めてしまったことになる。自分を、一つの人格に統一するためには、仮面をむ
 しり取って、仮面劇そのものに終止符をうつ必要があったのだ。

 この本文は、「人格の本質」などという人格(自我)を実体化する近代的、通俗的な思
想に囚われており、それが敗北を用意するものとなる――だから、ジキルとハイドのよう
に「来たるべき破局」を「予感」するのである――が、他方、「一度おまえの目を通過し
た仮面」という表現があって、「反復運動」による仮面の自我の形成過程を証拠立てても
いる。ともあれ、和辻の言う「主体的なるものの座」たる「顔の勝利」は間違いなく、
「顔面の損傷」は人の「聴覚」に影響するだけでなく、例の少女を自殺に追い込むほどの
本質的なものなのだ。主人公の、顔に対する「偏見」への挑戦は、もともと無益なものだっ
たのである。だから問題はこの後にある。このことは、謂われなき差別――顔による差別
や身体による差別、具体的には身障者差別、男女差別、黒人差別、朝鮮人差別――を肯定、
助長するかに見えるかもしれないが、そうではなく、その「謂われ」は、人間が本源的に
感覚的存在である以上、厳然として存在するのであって、それを認めた上で、我々は「顔
の勝利」を利用するしか道はないのである。
 したがって、「自分を、一つの人格に統一するためには、仮面をむしり取って、仮面劇
そのものに終止符をうつ」のではなくて、妻――今や、作者の声を代弁している――が正
しく指摘しているように、「愛する者のために、仮面をかぶる努力をしなければならない」
のである。事実、主人公自身が、「おまえ(妻――引用者)自身が、分裂していたのだ。
ぼくが二重の存在だったように、おまえも二重の存在になっていた。ぼくが、他人の仮面
をかぶった別人なら、おまえは、本人の仮面をかぶった別人だった」という認識も示して
いるのであるから、そこから出発することもできるはずである。
 たぶん、現代社会に生きる我々は否応なく、自己がすでに分裂しているのだというとこ
ろから、それを前提として出発しなければならないのだ。その意味で、妻の「手紙」にあ
る、「誰だって、誘惑される者なら、そんなこと(仮面をかぶっていること――引用者)
くらい、ちゃんと心得た上で誘惑されているものなのです」という言葉は、透徹した現実
主義に貫かれているといわなければならない。だから、妻の「仮面の扱い方を知らなさす
ぎる」という主人公への非難は正当なのである。
 実際、小説の最後はもう一度仮面をかぶり直して、「行為」に踏み出していくのである
が、これは唐突でも何でもなく、書き込まれなくてはならなかった必然のコースであった
ろう。

  よろしい、ぼくももう一度だけ、運よく生きのびた仮面に、機会を与えてやるとしよ
 う。なんでもいいから、行為によって、現状を打開し、ぼくの試みを虚無から救い出し
 てやるのだ。幸い、着替えの服も、空気拳銃も、そのままにして残してあった。繃帯を
 解き、仮面をかぶると、覿面に心理のスペクトルに変化がおきる。たとえば、もう四十
 歳だという素顔の気分が、まだ四十歳だという具合にだ。鏡をのぞきこみ、ぼくは旧友
 に出会ったような、なつかしさをおぼえていた。しばらく忘れていた、仮面独特の、あ
 の酔いと自信が、虫のような音をたてて充電されはじめる。

 今や、この主人公によって無意識に選ばれた――ということは、作者によって用意周到
に選ばれた、「狩人」の仮面は、「顔の勝利」宣言をした、この酷薄な世の中を生きてい
くのにまことに相応しいといわねばならない。

        7

  ――おれ一人ではない、おれ一人ではない、おれ一人ではない……
  それらの声を合算してみると、この監獄の巨大さは、どうも只事ではなさそうだ。考
 えてみれば、無理もない。彼等が問われている罪名が、顔を失った罪、他人との通路を
 遮断した罪、他人の悲しみや喜びに対する理解を失った罪、他人の中の未知なものを発
 見する怖れと喜びを失った罪、他人のために創造する義務を忘れた罪、ともに聴く音楽
 を失った罪、そうした現代の人間関係そのものを現わす罪である以上、この世界全体が、
 一つの監獄島を形成しているのかもしれないのだ。だからといって、ぼくが囚れの身で
 あることには、むろんなんの変更もありはしない。また、彼等が魂の顔だけしか失って
 いないのに対して、ぼくは生理的にまで失ってしまっているのだから、幽閉の度合にも、
 おのずとひらきがあるわけだ。にもかかわらず、希望が感じられてならないのである。

 もはや、この小説の最後で、その後、主人公がどういう「行為」をなすであろうかは言
わずもがなのことであろう。そして、何をなすべきであるかも。「仮面」をかぶっている
のは主人公だけではなく、「世界全体」がそうなのであり、当然、主人公が「一人でその
問題を背負い込むわけにはいかない」のである。我々が「仮面」と「素顔」を巧みに使い
分けて、「顔を失った罪、他人との通路を遮断した罪」に苦しむことになったとしても、
もう後戻りはないのである。幾重もの「面」をポジティブに生きるしかない。たとえ自分
が、「顔なし」の「怪物」のごとく意識されるとしても、このような文明をもたらした人
類すべてが「囚れの身」である以上、「希望」は存在するのである。
 その意味で、「問題はむしろぼくの内部にある」ことは逃れようのない事実であったろ
う。主人公が経験したような、「仮面」に対する「素顔」の嫉妬、分裂した自我の苦悩は、
時代がもたらしたこととして、当然耐え忍ぶべき性質のものだったといえる。
 私は、林達夫がかつて「反語的精神」の中で次のように書いたことを思い出す。

 《私は識っている、骨の髄までの反戦主義者、反軍国主義者のなかに、心中深く期する
 ところのある古代支那の刺客のように、今を時めく軍国主義の身辺近く身を挺して、虎
 視眈々としてその隙を窺っていたもののあったことを。
 …………
  自由を愛する精神にとって、反語ほど魅力のあるものがまたとありましょうか。何が
 自由だといって、敵対者の演技を演ずること、一つのことを欲しながら、それと正反対
 のことをなしうるほど自由なことはない。自由なる反語家は柔軟に屈伸し、しかも抵抗
 的に頑として自らを持ち耐える。真剣さのもつ融通の利かぬ硬直に陥らず、さりとて臆
 病な順応主義の示す軟弱にも堕さない。》

 林達夫はこの文章を昭和二十一年に書いている。今とは時代状況も違うし、特にこの箇
所は戦時中の抵抗の仕方について述べているのであるから、唐突であるかもしれない。し
かしそうであろうか。そうではないのだ。林達夫は生き延びるために、むしろ積極的に
「仮面」を被れと言っているのだ。「軍国主義者」の仮面を被り、身を挺して「軍国主義」
の急所を虎視眈眈狙えと言っているのだ。それが自分自身に呪縛されることない、「自由」
の意味だ、と。
 実際、「仮面」をした主人公を受け入れたのは、「仮面」と知らなかった銭湯のやくざ
者や、バーの女だけではない。主人公の妻も「仮面」と知りつつ、「私に対するいたわり」
として感謝したのだった。また、「仮面」を「未分化な直観」で見抜いた知恵遅れの管理
人の娘でさえ、「平気よ……内緒ごっこなんだから」と主人公に囁くのである。最初、蛭
の巣を覆面した主人公を一目見て泣きじゃくった少女をして、である。「源氏物語の中の
女たちが、顔をさらすことを、恥部をさらすのと同じことのように考えていた」ことが、
まさしく時代の産物だとしたら、現代の「素顔」に対する信仰もまた、時代の産物に違い
ない。というのは、そういう「素顔」に対する素朴な信仰が始まった途端、「仮面だと思っ
ていたものが、じつは素顔で、素顔だと思っていたものが、じつは仮面だったのかもしれ
ない」(「妻の手紙」)という事態は、現代、至るところに現出しているからである。こ
れは素朴な「素顔」信仰の顕著な例である「私小説」を想起させもする。主人公の「ノー
ト」には次のような記述もあるのだった。

 昔の死刑執行人や、虚無僧や、宗教裁判官や、未開地のまじない師や、秘密結社の祭司
 や、さらには空巣強盗のたぐいにとって、覆面が欠かすことの出来ない必需品だった理
 由も、それで納得がいく。単に人相を隠すという消極的なねらいだけでなく、表情を隠
 すことで、顔と心との関連を絶ち切り、自分を世間的な心から解放するという、より積
 極的な目的があったに違いあるまい。もっと卑近な例をとれば、まぶしくもないのにサ
 ングラスをかけたがる、あの伊達者の心理に通ずるものだ。心の羈絆から解放されて、
 限りなく自由に、したがってまた、限りなく残酷にもなれるというわけである。

 この部分に作者の小説論(虚構論)を読みとることも可能だが、それはともかくとして、
ここに書かれている覆面の効用はそのまま仮面にも通用するはずである。むしろ仮面の方
が相手に無用な警戒心を抱かせないだけ、より「心の羈絆から解放され」るはずである。
しかし、実際は、覆面にはそういう効用があるにもかかわらず、繃帯をまいた主人公はそ
ういう覆面の効用を結局は発揮できずに、世間から虐待されているという被害者意識のみ
肥大化させたのだった。顔面のケロイド瘢痕を繃帯で覆っている主人公が、自分自身に投
げつけた語彙は、覆面の怪人、異端の徒、闖入者、怪物、半端者等々であったが、これで
は繃帯でぐるぐる巻きにして自分自身を拘束しているようなものである。それは自意識の
肥大という近代そのものの呪縛を物語っているようである。
 だから、「問題はむしろぼくの内部にある」のは確かなことだ。それは、蛭の素顔をもっ
た人格と狩人の仮面の人格という、二重の存在を自明の前提として、現実を生きるという
ことである。今まで抑圧してきた欲望を解放する装置としての「仮面」を被りなおすとい
うことである。「他人の代表」たる「妻」が二重の存在だったように、現代は分裂した存
在を積極的に生きる以外にないのである。林達夫が危惧したように、たとえ、ジキルとハ
イドのように「心理的陥穽」に落ち込もうとも。
                                    (了)




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