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     狼疾について―――中島 敦論

宇 藤 和 彦






         1

  独特の味のある佳品をのこして、若くして死んでしまった中島敦は、『かめれおん日
 記』の中に次のように書きつけた。「全くの所、私のものの見方といったって、どれだ
 け自分のほんものがあろうか、いそっぷの話に出てくるお洒落鴉。レオパルディの羽を
 少し。ショーペンハウエルの羽を少し。ルクレティウスの羽を少し。荘子や列子の羽を
 少し。モンテエニュの羽を少し。何という醜怪な鳥だ。」
  しかしこれは、洋の東西を問わず、文学や思想を志す青年に共通している一時の状況
 でもあろう。とりつけた羽の色が各人によって違っているだけでもあろう。(『自殺に
 ついて』・引用の旧字旧仮名は、新字現代仮名遣いに改めてある。傍点原文、以下同じ)

 と、唐木順三が記したのは昭和二十五年だった。こう批評されて、あの世の中島はどう
反応したのだったか。苦笑したろうか。膝を打って同意したろうか。それともただ単に彼
らしく快活にからからと笑ったろうか。
 しかし、ここで確実に言えることは、『かめれおん日記』を執筆している時の中島は、
唐木のように受け止められるのを望んではいなかったに違いないということだ。なぜなら、
「青年に共通している一時の状況」を描いているだけだったら、この作品の価値はない。
住む環境によって体色を変える動物にちなんでつけられた「かめれおん日記」という題名
からしても、行間に流れる主人公「私」の「私不在」の切迫感こそこの作品の生命線だか
らである。作品の主人公の裏には明らかに中島の懊悩がある。苦しみ、不安によって裏打
ちされている。またそのことは、唐木も引用しているが、中島が「遍歴」なる名のもとに
「ある時は」で始まる「戯れ歌」五十首余を作っていることからも窺える。
 ただ、私がここで問題にしようとしているのは、唐木の側の読みの問題ではなく、中島
敦の研究者にとって「常識」と思われている、中島の独特な「形而上学的不安」が、唐木
によって「青年に共通している一時の状況」として一括されているということの意味は何
か、ということなのである。確かに、「青年に共通している一時の状況」を描いていると
いう意味で、『かめれおん日記』は、青春小説と捉えることが可能な側面をもっている。
同時代の梶井の『檸檬』で、主人公の頭を押さえつけていた「憂鬱」がそうだったように。
更に、後に詳しく触れるが、李徴という青春を描いた『山月記』がそうだったように、で
ある。したがって、唐木の立場からすると、中島自身の青春の証しともいえる、今流の言
葉でいえば「私探し」が、一般的な問題として、ひと括りにもできるのである。
 しかし、読書家で、博覧強記の中島がそのようなことに自覚的でなかったわけはあるま
い。漱石の『私の個人主義』の中に次のような一節がある。漱石がそれまでの自分の生き
方を振り返ってみて、《今までは全く他人本位で、根のない 萍 のように、そこいらをで
たらめに漂よっていたから、駄目であったということに漸く気がついたのです。……近頃
流行るベルグソンでもオイケンでもみんな向うの人がとやかくいうので日本人もその尻馬
に乗って騒ぐのです。……他の悪口ではありません。こういう私が現にそれだったのです。
……つまり鵜呑と云ってもよし、また機会的の知識と云ってもよし、到底わが所有とも血
とも肉とも云われない、余所余所しいものを我物顔に喋舌って歩くのです。……元々人の
借着をして威張っているのだから、内心は不安です。手もなく孔雀の羽根を身に着けて威
張っているようなものですから。》 ここでは「羽(羽根)」という比喩まで同じである。
中島にとって、日本の近代化に当たって、知識人たちが、一方でただただ焦燥感に駆られ
て、西洋の思想をとりいれつつも、目まぐるしく変わる状況の中で、等しく自己のアイディ
ンティティに悩んでいる姿は自明のことではなかったのか。
『自殺について』の中で、唐木は『きけわだつみの声』に載った戦没学生と、巣鴨のA級
戦犯たちが同じ陥穽――心情と論理の乖離に陥っていることを指摘しているのであるが、
すでに、漱石自身が日本の知識人が「神経衰弱」にならざるを得ないことを述べていたの
だった。その意味で唐木の所論はことさら新奇なことを述べたのではなく、漱石の延長線
上にあるものである。
 中島の大学院での研究対象だった森鴎外の『妄想』にも次のような一説がある。《……
その自我というものがある間に、それをどんなものだとはっきり考えても見ずに、知らず
に、それを無くしてしまうのが口惜しい。残念である。漢学者の謂う酔生夢死というよう
な生涯を送ってしまうのが残念である。それを口惜しい、残念だと思うと同時に、痛切に
心の空虚を感ずる。なんともかとも言われない寂しさを覚える。/それが煩悶になる。そ
れが苦痛になる。/自分は伯林のgarcon logisの寝られない夜なかに、幾度も此苦痛を嘗
めた。そういう時は自分の生れてから今までした事が、上辺の徒ら事のように思われる。
舞台の上の役を勤めているに過ぎなかったということが、切実に感ぜられる。そういう時
にこれまで人に聞いたり本で読んだりした仏教や基督教の思想の断片が、次第もなく心に
浮かんできては、直ぐに消えてしまう。なんの慰藉をも与えずに消えてしまう。》
 ここにも、「痛切に心の空虚」を感じ、このままでよいのかと問いつつ苦悩している青
春がある。「仏教や基督教の思想」にも哲学にも「なんの慰藉」も与えられない青春の不
安がある。明治国家の期待をじかに背負った鴎外の青春は、確かに特殊のものだったに違
いない。鴎外は、自分は「舞台の上の役を勤めているに過ぎな」いのではないかという疑
いに生涯つきまとわれていたのであった。《一寸舞台から降りて、静かに自分というもの
を考えてみたい》、自分を操っているように思われる《背後の何物かの面目を覗いてみた
いと思い思いしながら、いつも舞台監督の鞭を背中に受けて、役から役を勤め続けている》
自分がいた。
 そういう鴎外の《背後の何物》が明らかに実体ある明治国家と想定できるのに対して、
一般のそれは自我自身の中に存在する、という違いがあるだけだ。いずれにしても、等し
く、鞭打たれるように西洋の文物を受け入れてきた知識人たちの姿がある。ひとたびその
内面を覗くと、中島が言うところの「醜怪な」自我像が写っていたはずである。次から次
に西洋のその時の流行を追うことに夢中になって、ふと気づくと自分の心の中は空洞で、
「いそっぷの話に出てくるお洒落鴉」そっくりでしかない。漱石が「神経衰弱」にならざ
るを得ないと説く所以である。多くの知識人たちがやがて日本回帰を起こしたのも故なし
としないのである。
 時代は昭和に入って、漱石が言うように「ぴょいぴょいと飛んで行く」(『現代日本の
開化』)ようなことはなくなったかもしれない。しかし、依然として、親の世代が信じら
れず、生活のまわりすべてに前近代的な因習が残っているとすれば、そこで成長して行く
青年はすべてを疑い、0から出発するしかなかったはずである。「常識」や「習慣」への
不信。依然として、それらをすべて点検、体験した後でなければ信じられず、そのことは
とりも直さず、「自己の中で人類発展の歴史をもう一度繰返して見なければならぬ」
(『かめれおん日記』)ということなのだ。それら、青年の気の遠くなるほどの道のり。
焦燥と不安と絶望。
『かめれおん日記』の主人公が、自己の健康と資質への不安の中で、ついに寄って立つと
ころを見いだせず、しきりに「コンベンション」との妥協を図ろうとするのはやむを得ざ
ることなのだ。しかし、「大きな――時に不可解な――ものの中に(組織、慣習、秩序)
晏如と身を置いている気易さ」、それは文字通りの「転向」であり、自己放棄であること
を知るがゆえに、「我と自らを噛み、さいなむ」という、相反するものの格闘が生ずるこ
とになるのである。巻頭に、「韓非子」の「虫有*者。一身両口、争相*也。遂相食、因
自殺。」という句が引用されている。我執と自己呵責。そして、「我はもはや石とならむ
ず石となりてつめたき海を沈み行かばや」という、絶望の歌。それは、南洋の「原始的な
蛮人」のように「すべてを知らないで一生を終えること」への羨望と裏腹である。この作
品で、俗物を最も嫌ったであろう中島が、俗に徹した「高等小学生的人物」吉田の価値を
見いだそうとする主人公を描いていることは、逆に、「私」のよって立つところの不安定
感を表現してあまりあると言うべきであった。
 では、『かめれおん日記』は単に、そういう知識人の内面の典型を描いただけに過ぎな
かったのか。すでに明治の近代文学の黎明期から繰り返し描かれてきた「自我」の問題を、
中島はまたどうして私小説的と思える手法で描かなくてはならなかったのか。いったい、
中島は何を『かめれおん日記』に託そうとしたのか。
 私は、唐木順三に引きずられて、『かめれおん日記』にこだわりすぎているのかもしれ
ない。中島の代表作は『李陵』や『弟子』であるし、それらを抜きにして、論じることは
片手落ちであろう。しかし、第二次筑摩全集本三巻のうち、作品として纏まっているもの
を収録しているのは、一巻に過ぎず、それら少ない作品群を幾度となく読むにつけ、私は、
作品の完成度の高い『李陵』などよりも、中島の、『かめれおん日記』と『狼疾記』まで
の前期の作品に引きつけられるのをどうしようもないのである。それは作者が夭折してい
るために、その可能性――生きていればもっと充実した作品を生み出したであろう資質、
天稟を感じるからなのかどうなのか、それは分らない。ともあれ、梶井などとは違った意
味の、青春の時にしか書けない種類の輝きといったものを感じるのである。輝きというに
は作品の色調は暗く、戦争の時代という洞窟の中で、一条の輝く鉱脈を発見した時のよう
な煌めき、といえばいいだろうか。
 中島を論ずるに、必ずしも適切ではないと受け止められるかもしれない唐木のエッセイ
を最初に引用したのは、中島を「文学や思想を志す青年に共通している」その典型、「無
類も無類な日本学生のすがた」と強調する、その捉え方に私が興味を覚えたからである。
 青春の特徴を感受性の鋭さ、新鮮さ、才能の輝き、未来の可能性としての豊饒さととも
に、その思考の観念性をあげるとしたら、唐木がそのような青春の典型を中島に見たのも
当を得ていたのではないか。その中で、中島的特徴とでも言いうるものは、自ら「狼疾」
と呼んだ、「なぜ自分は他の人間ではありえなかったのか」といったような存在の不安、
「形而上学的不安」であったろう。この小論では、中島の「狼疾」とは何で、その「狼疾」
とどのように戦い、それがどのようにして『李陵』のような秀作に結びついていったのか
を論じてみたい。

         2

 いったい、中島の「狼疾」とは何だったのか。『狼疾記』を読んでも、これはそれほど
はっきりしているわけではない。中島はこの作品の中で自分の「狼疾」とはこれこれだと
明示していないのである。
「狼疾」とは、巻頭の「孟子」の「養其一指、而失其肩背、而不知也、則為狼疾人也」か
らくる。指一本惜しいばっかりに、肩や背まで失うのに気がつかぬ、それを狼疾の人と言
う、という意味である。だから、「孟子」のこの句だけを見ると、考えようによっては、
この世の中、いくらでも該当するものがありそうである。日々の生活に追われて、自分の
人生の行路を見失う。目先の施策に囚われて、国家百年の計を考慮に入れぬ。快適な生活
だけを求めて、いつしか地球上で、自然破壊が進行しているのを知らぬ。人間の限界、大
自然の中での人間の有限性。愛に溺れて、他のものに盲目になる。人がもっている業とか
原罪とかいったものを考えて見た時、人は「狼疾」から免れられないのではないか。「狼
疾」はなにも中島に限ったことではないのではないか。
 また、こうもいいうる。人が自分は「狼疾」を患っていると認識するには、ひとえにそ
の人の内省力にかかっていると。人はなにも「狼疾」なんか見つめなくとも生きていける。
自分の「狼疾」に気づかず生きていけるのである。「狼疾」を人間の業や原罪のようなも
のだと考えた場合、人はそれに気づく場合もあるし、それとは関係なく生きてもいけるの
である。愛に溺れて、南海の小島に泳ぎつくことだってある。
 いや、「孟子」の句に引きずられて、あまり問題を一般化しない方がいいだろう。また、
業や原罪と言い換えるのはまだ早いし、語弊がある。ただ、これだけははっきりしたので
はないか。「狼疾」を主観の側の問題だとすると、次のように言いうる。すなわち、中島
が考えていた自分自身の「狼疾」とは何だったのか、と。「一指」とは何で、「肩背」と
は何に相当すると考えていたのか、と。たぶん、「狼疾」のかかる主観性が、青春を連想
させるのである。
 今まで、たぶんに習作的なものと解釈されていた『過去帳』を初めて評価した武田泰淳
は、「狼疾」に関して、《指一本とは中島の自我であり、その自我にこだわる文学的状態
である。肩や背とは生活体としての中島の全存在であり、また彼がまさにそこに自分の外
にあると目する文学、悟空的自由と三蔵的宏大さを持つ文学である》(『作家の狼疾』)
と述べた。
 中島は果たして、自分の「狼疾」を《悟空的自由と三蔵的宏大さを持つ文学》の欠如と
捉えていたのであろうか。『狼疾記』で語られているのは《文学》ではないように思われ
る。語られているのは「不安」であり、「形而上学的」と形容された存在の「不安」であ
り、小学四年の時聞いた「人類絶滅」の「不安」であるように思われる。その「不安」か
ら逃れられぬ「自我」であるように思われる。

  小学校の四年の時だったろうか。肺病やみのように痩せた・髪の長い・受持の教師が、
 或日何かの拍子で、地球の運命というものに就いて話したことがあった。如何にして地
 球が冷却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるかを、其の教師は、
 意地の悪い執拗さを以て繰返し繰返し、幼い三造達に説いたのだ。(『狼疾記』)

 これが心的外傷として残ったのである。しかし、この教師が「意地の悪い」「嗜虐性」
をもって生徒に説いたとしても、このように鮮明に心的外傷として残るためには、それを
受け入れるなんらかの心的状況、さらにはそれを生み出すある特殊な生活がなければなら
なかった。それに中島は触れていない。ただ、子供心にすべては無意味だという「漠然と
した不安」、「何のために自分は生れて来たんだ?」という思いに締め付けられる様子が
描かれている。そして、「子供の時に中毒ったことのある食物が一生嫌いになって了うよ
うに、この様な・人類や我々の遊星への単純な不信が、もはや観念としてではなく、感覚
として、彼の肉体の中に住みついて了ったのではないか」と述べる。

 このどうにもならぬ漠然とした不安が、往々にして彼の生活の主調低音になりかねない。
 人生のあらゆる事象の底には此の目に見えぬ暗い流れが走り、それが生の行手を、前後
 左右を劃っていて、街の下を流れる下水の如くに、時々ほんのちょっとした隙から微か
 な虚しい響を聞かせるように三造には思われた。(『狼疾記』)

 これを中島は「形而上学的迷蒙」といい、存在の「不安」と言っている。そして、「女
や酒に身を持ち崩す男があるように、形而上学的貪慾のために身を亡ぼす男もあろうでは
ないか」と書く。中島には、これが身に固着した病気、「狼疾」として認識されている。
ここまできて、私は、語の正しい意味で、中島が言う「形而上学的」という形容には違和
感を感じざるを得ない。『狼疾記』に描かれた「迷蒙」や「不安」は、「形而上学的」と
いうより神経症的であり、精神分析の対象になりそうな事柄である。しかしそのことはこ
こではしばらくおいて、中島の言うことに耳をすませよう。結局、中島にとって、「狼疾」
との関係でいえば、形而上学的迷蒙が「一指」だったのであり、そのために「肩背」なら
ぬ「身を亡ぼす」男として己れを認識しているのである。
 このことは『悟淨出世』の中でも追求されている。この小説は、「俺とは一体何だ?」
と考え、すべてが疑わしく不安になる悟淨が、幾人もの妖怪に教えを乞うという遍歴を経
て、最後に、「一切の思念を棄て」た後に、「世界」は「その細部に直接働きかける時始
めて無限の意味をもつ」という答えを得て、そうして、「世の中」に出て行く物語である。
『狼疾記』で私小説的に追求された「形而上学的」問題が、ここでは、「西遊記」の人物、
悟淨を借りて語られている。
『狼疾記』の後に書かれたこの作品では、主人公悟淨にとって依然として深刻な問題であっ
ても、作者にとって適度な距離をもって語られていることが感得できる。『狼疾記』や
『かめれおん日記』で切迫感をもって語られた「狼疾」が、「私」の問題ではなくて、悟
淨の問題として、なにかユーモラスに語られている。それだけ作品に温度差がある。そし
て、『悟淨出世』では「ふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込」むこと
こそ、「狼疾」とのつき合い方であることが語られるのだ。中島はこの作品ですでに自分
の「狼疾」とのつき合い方を会得したかのようである。
 しかし、実は、中島はもうすでに『狼疾記』の中でも、次のように言っているのである。

 「畢竟、俺は俺の愚かさに殉ずる外に途は無いぢゃないか。凡てが言われ、考えられた
 後に結局、人は己が性情の指さす所に従うのだ。その論議・思考と無関係に、である。
 そして爾後の努力は、凡て、その性情の為した選択へのジャスティフィケイションにの
 み注がれるであろう。考え様によれば、古往今来のあらゆる思想とは、各思想家がそれ
 ぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬではないか。…」

 もう答えは出ているのである。あとは、もう「行為」のみであると。「何という醜怪な
鳥だ」と『かめれおん日記』で書かれた当の「古往今来のあらゆる思想」の「羽」が、こ
こでは、「各思想家がそれぞれ自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外
ならぬ」と結論づけられているのである。これは見ようによっては、かなり強引な、かつ
性急な結論ではないか。本当に、「古往今来」の思想家が営々として築き上げてきた「思
想」は、「自己の性情に向って為したジャスティフィケイションに外ならぬ」ものだった
か。その当否は、この場合問わぬことにしよう。中島はそういうことも承知の上だったろ
うから。その意味では、『狼疾記』一篇は、まさしく、その自分の結論を結論として――
むろん誤解のないように急いで付け加えると、「狼疾」が治癒したわけではなく、あくま
でその「病気」とのつき合い方を覚えたのであるが、その決着のつけ方を自分に性急に納
得させるために書かれたのであったのである。その自分に納得させる口調がそのまま、括
弧づき(「……」)にも出ていると読める。それが、中島が生涯の――といっても、この
『狼疾記』の執筆を筑摩全集解題で郡司勝義が述べる昭和十四年だとすると、死ぬ十七年
までの三年間だが、「狼疾」の処し方になる。
 むろんそれは、中島研究者が言ったような「居直り」ではない。まして中島の中で「狼
疾」が「解消」したわけではない。『悟淨出世』の言葉でいうと、「まだすっかりは昔の
病の脱け切っていない悟淨は、依然として独り言の癖を止めなかった」のである。

         3

 私には、先の引用文で三回も使われている「性情」という言葉が中島の後期――すなわ
ち『狼疾記』以降の作品の読解のキーワードになっているように思われる。

 己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊
 心を飼いふとらせる結果になった。人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、
 各人の性情だという。己の場合、この尊大な羞恥心が猛獣だった。虎だったのだ。  
   (『山月記』)

 この『山月記』の本文を、『狼疾記』の先の記述と重ね合わせて解釈すれば、中島敦は、
「性情」がいかなるものであっても、内なる「猛獣」を生きようと言っているかのようで
ある。『狼疾記』では、いかに「愚か」でも「己が性情の指さす所に従う」ほかないと言っ
ているのであるから、「性情」に殉じたすえに、「虎」になったとしても、それはそれで
一己の人生だと言っているようである。少なくとも「虎」になる道を避けようとしていな
い。「人間は誰でも猛獣使であり、その猛獣に当るのが、各人の性情だ」と、李徴一人の
問題ではないことがはっきり述べられているのである。それが、どんなに悲嘆と叫びに満
ちていようと、である。そういう覚悟はできていると言っているように見える。これは生
なかな決意ではない。
 またここで、『悟淨出世』の「妖怪」を思い出してもいいだろう。「自己の属性の一つ
だけを、極度に、他との均衡を絶して、醜い迄に、非人間的な迄に、発達させた」、その
ような「妖怪」を。それは中島自身のことを語っているようでもあるし、人間だれしも、
何かひとかどの仕事をするようなものたちが負わねばならない宿命を語っているようにも
見える。ここでは「虎」が「妖怪」に姿を変えたのである。
 実際に、我々は、「虎」や「妖怪」に姿を変えなかったかもしれないが、己れの「性情」
に生きた者たちを、中島のその後の作品に見ることができる。それは「愚か」かもしれな
いが、「己が性情の指さす所に従」って生きた生涯を、「ふさわしき場所に身を置き、ふ
さわしき働きに身を打込」んだ生涯を、中島が死んだ十七年に書いた『弟子』の子路、子
羔に、また『李陵』の李陵、司馬遷、蘇武の中に見ることができるだろう。
『弟子』一篇は、子路を主人公にして、まことに「己が性情の指さす所に従」って、果敢
に生き、死んだ物語になっている。子路と子羔の運命は、孔子が「柴(子羔)や、それ帰
らん。由や死なん」と予言したとおりとなったのである。孔子はそれぞれの「性情」を見
抜いていたのだった。各人がもっている「性情」は、人間の有限性の中に押しとどめ、各
人の運命を枠づけるものであった。
 次の『李陵』を読むと、さらに事態ははっきりする。ここでは、周到にも、李陵の運命
も、司馬遷の生き方も、あたかもそれ以外に選択肢はなかったかのように、自分の「性情」
に殉じた確固たる人生が描かれている。これはこの作品の傑作たる所以だが、彼らは決し
て他人、例えば彼等の運命を左右した武帝を恨むことはできなかったはずである。小説の
言葉でいうと、《「我在り」という事実だけが悪かったのである。》
 確かに、晩年の武帝は英邁の王ではなかったかもしれない。しかし、ともかくも、武帝
は、李陵の、輜重の役を嫌うあまり、「騎馬の余力が無い」のを承知の上で、「側面から
匈奴の軍を牽制したい」という申し出があったから、これを承諾したのである。「部下五
千と共に危きを冒す方を選び」「少を以て衆を撃たん」という李陵の言葉を良しとしたの
である。輜重という役が、広大な陸地をもつ中国の戦争の歴史の中で、いかに重要である
か言を俟たない。後世の我々は、李陵がいかに勇猛に闘ったかを知っているがゆえに、武
帝の蒙昧さだけが目についてしまうが、この時の武帝にとって、名将李広の孫というだけ
で、まだその能力を見せていないのであり、李陵のかかる申し出を一種のヒロイズムとし
て受け止めるしかなかったものといえる。まずは、お手並み拝見といったところであった
ろう。だから、路博徳のことについても、「李陵は少を以て衆を撃たんと吾が前で広言し
た故、汝はこれと協力する必要ない」と判断したのである。
 また、李陵が捕虜となって、陵の一族がことごとく殺されたのは、二度目の処分の時で
あったことは注意されてよい。「李将軍が常々兵を練り軍略を授けて」いるというはっき
りした裏切りを働いたという讒言があったから、二度目の処分があったのである。捕虜に
なった当初の処分は、陵の一族は「一度許されて家に戻っていた」のであった。
 確かに、周囲には、李陵の能力を見抜けぬ庸主と、「身を全うし妻子を保んずる」のみ
の佞臣しかいなかったかもしれない。しかし、これはこの漢代に限ったことではないので
はないか。いつの時代でも千里の馬はいるが、名伯楽はなかなかいないのである。李陵も
その場合に相当したといえるが、いかんせん血気盛んで、プライドが強すぎた。
 これと全く同じことが司馬遷についてもいえる。司馬遷の、武帝の面前での李陵擁護の
弁も、とりようによっては、武帝の立場からすると、一史官に過ぎぬ者がいくら意見を求
められたからといって、彼我の身分の格差も、さらには武帝の、投降、捕虜となったこと
への落胆した心の内も顧慮せず、直言を申し述べることは、「身の程」知らずと思われて
もしかたがなかったろう。やはり、プライドが強すぎ、男気がありすぎた。だから、司馬
遷の場合もまた、身から出た錆びともいえるのである。史実はどうあれ、小説『李陵』の
場合は、武帝から見て、男気がありすぎたが故の「宮刑」と解釈できるのである。『李陵』
の記述によると、

 当時の太史令司馬遷は眇たる一文筆の吏に過ぎない。頭脳の明晰なことは確かとしても
 その頭脳に自信をもち過ぎた、人づき合いの悪い男、議論に於て決して他人に負けない
 男、たかだか強情我慢の変屈人としてしか知られていなかった。

 これが見えたから、武帝の癇にさわったのである。だから、処分は李陵に先んじて司馬
遷の方から行われたのであった。司馬遷の方が罪が重いとでもいうように。
 李陵も司馬遷も、結局、己の「性情」が招いた「身の程」知らずの言動であったのであっ
た。この「身の程」知らず、という言葉にも注意が必要だろう。『山月記』に典型的なよ
うに、中島の作品が悲劇をもたらすのは、総じて、「身の程」知らぬプライド、自尊心ゆ
えなのだが、『悟淨出世』には、「夢の中の菩薩の言葉」として、こうある。「身の程知
らずの悟淨よ。未だ得ざるを得たりといい未だ証せざるを証せりと云うのをさえ、世尊は
之を増上慢とて難ぜられた。さすれば、証すべからざる事を証せんと求めた爾の如きは、
之を至極の増上慢といわずして何といおうぞ。……先ずふさわしき場所に身を置き、ふさ
わしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ」と。
 では、蘇武の場合はどうだったか。それは若い頃からの「片意地」、「滑稽な位強情な
痩せ我慢」の人だったのが、匈奴に捕えられるに及んで、節を屈せず、「大我慢にまで成
長し」たのであった。彼もまた、己の「性情」に殉じた人であったといえる。しかし、李
陵が考えるほど、李陵自身と蘇武の生き方に価値の差があろうとも思えない。蘇武は節を
屈せず、純粋で、李陵は変節漢で、卑怯者であるとは思えないのである。世の理想主義も、
純粋さも往々にして、苛酷な現実からの逃避によって保持されるように、蘇武には、漢と
いう国の実態が見えていないのである。何よりも、李陵の一族が、ことごとく漢の国によっ
て戮せられていることは決定的であったろう。
『李陵』の蘇武の描写が、李陵の目を通してのみ描かれていることを指摘したのは、勝又
浩氏であったが、それは、作者が主に、李陵の内面に目を注がんがための手法であったと
思われる。漢の国の刻薄な仕打ちの中で、李陵の、依然としてある国への忠誠と、次第に
高まってくる匈奴への愛着の心理的葛藤を描かんがためである。蘇武は、あくまで李陵に
とっての影であり、「崇高な訓誡でもあり、いらだたしい悪夢」であったのだ。だから、
ことさら、「蘇武の姿は却っていっそうきびしく彼の前に聳えているように思われる」の
である。『李陵』を読む際に、蘇武は、あくまで李陵に映じた姿すなわち虚像であること
を見落すべきではない。
 なぜ、蘇武を直接描かなかったのか。蘇武は、節を守るために闘い、己の「性情」に殉
じた人ではあったが、己れに対する根本的な疑惑という内面の苦しみを経験していない。
だから、作者によって「陵の心の笞たる」役割しか与えられなかったのである。それに較
べて、李陵の、「己と友とを隔てる根本的なものにぶつかっていやでも己自身に対する暗
い懐疑に追いやられざるをえない」姿に、作者の思いが容易に仮託できた。またそれは、
己の「性情」から発する忿懣のはけ口を見出せない作者自身の姿でもあった。全く同じこ
とが司馬遷にもいえる。司馬遷の「我」はみじめに踏みつぶされ、一度は死ななくてはな
らなかった。「知覚も意識もない一つの書写機械に過ぎぬ、――自らそう思い込む以外に
途は無かった」のである。こうして、李陵と司馬遷はともに、《「我在り」という事実》
への深い懐疑を抱きつつ、己の「性情」に殉じた、かけがえのない作者の分身であったの
である。

         4

 さて、ここで、中島本人の「性情」の考察に移らなくてはならない。
 彼には、『牛人』や『盈虚』といった実に暗いが作品ある。前節で、私は中島の「狼疾」
に関して、「形而上学的」というより神経症的だといった。純粋「形而上学的」疑惑だけ
だったら、中島の作風はもっとアポロン的であってよかったはずである。中島の「狼疾」
にはもう一つの根がある。中島の生を根底から、懼れさせ、不安にしていたものがある。
そうでなければ、小学校の一体験が、繰り返し想起されることはない。
『牛人』は、市井の一美婦と一夜を共にした時にできた男が牛男であり、その男は真っ黒
な牛に似て、傴僂で目が深く凹み、獣のように突き出た口をしているので「豎牛」と呼ば
れている。その男が次々と異腹の兄弟を殺し、ついには親(叔孫豹)も飢え死にさせると
いう、『春秋左氏伝』に材をとる物語である。その最後の場面、

 ……寝ている真上の天井が、何時かの夢の時と同じ様に、徐々に下降を始める。ゆっく
 りと、併し確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。傍を見る
 と黒い牛男が立っている。救を求めても、今度は手を伸べて呉れない。黙ってつッ立っ
 た侭にやりと笑う。……
 ……傍を見上げると、これ又夢の中とそっくりな豎牛の顔が、人間離れのした冷酷さを
 湛えて、静かに見下している。其の貌は最早人間ではなく、真黒な原始の混沌に根を生
 やした一個の物のように思われる。叔孫は骨の髄まで凍る思いがした。己を殺そうとす
 る一人の男に対する恐怖ではない。寧ろ、世界のきびしい悪意といった様なものへの、
 遜った懼れに近い。最早先刻迄の怒は運命的な畏怖感に圧倒されて了った。

 この場面に相当する部分は、言うまでもなく『左氏伝』にはない。ただ、引用の「何時
かの夢」に相当する部分はある。それは、『左氏伝』でも、牛を取り立てるきっかけとな
る夢を叔孫豹が見る。それは、簡単に、次のように記されている。「夢に、天己を圧して
勝たず。顧みて人を見れば、黒くして上僂、深目にして*喙、之を號びて牛余を助けよと
曰へば、乃ち之に勝てり。」(『新釈漢文大系』の訓読による)と。『牛人』の描写はこ
れがヒントになっているのだろう。
 が、『牛人』のリアルな描写は次のことを想像させる。中島は幼児期、天井が徐々に下
降し、逃れようにも足一つ動かせないといった夢を度々見たことがあったに違いない、と。
それは『北方行』に次のようにあることによっても分る。

 (時には、又、彼の寝ている上の天井が鉄壁のような重みで下ってきて彼を押しつぶそ
 うとしたりする。)彼は思わず声を上げて、目をさますと、布をかけた暗い電燈の光を
 斜めにうけて彼の顔をのぞきこみながら背中を叩いてくれている父親の顔を見出すので
 あった。そんな幼時のことなど思出しながら彼は不安な気持で頬杖をついていた。

 その夢自体は別段、中島独特のものではない。彼の特殊性はそういう幼児期の夢を思い
出し、それが存在そのものの「不安」に結びついていくところにある。『牛人』では、牛
男が傍らに「冷酷に」見下ろして、その男が「真黒な原始の混沌に根を生やした一個の物
のように」連想されるところにある。そこにも、何かしら中島自身の深層心理に起因して
いるものを考えざるを得ない。そしてそれは、「世界のきびしい悪意」といったことを感
じさせる幼児体験がなければならないように思われる。
 このことと関連して、『狼疾記』の、主人公が食堂で出会う拳大の瘤をもった男の場面
が非常に印象的である。この拳大の瘤をもった男は『北方行』にも書かれていることから、
たぶん、中島は、実際に、昭和七年二十四歳の時の中国北部旅行の折に、そのような中年
の中国商人を見たのであろうが、『狼疾記』が成立したのが十四年だとすると、その間、
拳大の瘤が何かの象徴として、中島の頭の中に刻印されていたことになる。なぜ中島はこ
の拳大の瘤をもった男、正確にいうと、拳大の瘤に執着したのであったか。『狼疾記』に
はこうある。

 テラテラ光った拳大の肉塊が襟と耳との間に盛上がっている。此の男の横顔や耳のあた
 りの・赤黒く汚れて毛穴の見える皮膚とは、まるで違って、洗い立ての熟したトマトの
 皮の様に張切った銅赤色の光である。この男の意志を蹂躙し、彼からは全然独立した・
 意地の悪い存在のように、その濃紺の背広の襟と短く刈込んだ粗い頭髪との間に蟠踞し
 た肉塊――宿主の眠っている時でも、それだけは秘かに目覚めて哂っているような・醜
 い執拗な寄生者の姿が、何かしら三造に、希臘悲劇に出て来る意地の悪い神々のことを
 考えさせた。こういう時、彼は何時も、会体の知れない不快と不安とを以て、人間の自
 由意志の働き得る範囲の狭さ(或いは無さ)を思わない訳に行かない。俺達は、俺達の
 意志でない或る何か訳の分らぬもののために生れて来る。俺達は其の同じ不可知なもの
 のために死んで行く。

 その「何か」――ここでは、「人間の自由意志の働き得る範囲の狭さ(或いは無さ)」
として、そのようなものとして人間を存在させている「神々」の悪意の象徴として、中島
の目に映じている。これらは、精神分析学的には、これと等価の「会体の知れない不快と
不安」が、幼年期に「子供の時に中毒ったことのある食物が一生嫌いになって了うように」
刻印されていなければならない。その、「男の意志を蹂躙し、彼からは全然独立した・意
地の悪い存在」が、やがては『牛人』の「世界のきびしい悪意」をもった「真黒な原始の
混沌に根を生やした一個の物」としての牛男に形を変えて行くことを見てとることができ
るだろう。この『狼疾記』でも『牛人』でも繰り返されるこのイメージは、中島の幼年期
を想像させるのである。

 そこで、中島の生い立ちを大雑把にたどってみよう。これを年譜にまとめると、次のよ
うになる。
一九〇九年(明治四十二年)東京四谷区箪笥町に生まれる。
一九一〇年(明治四十三年)二歳、母と離別。祖父母(埼玉県久喜町)のもとに引き取 
            られる。
一九一五年(大正四年)七歳、両親(奈良県郡山町)と住む。郡山男子尋常高等小学校 
          入学。前年に、父、紺屋カツと再婚
一九一八年(大正七年)十歳、静岡県浜松に転居。浜松尋常小学校転入学。
一九二〇年(大正九年)十二歳、朝鮮京城に転居。龍山小学校転入学。
一九二二年(大正十一年)京城中学校入学
一九二三年(大正十二年)十五歳、カツ死去。
一九二四年(大正十三年)十六歳、父、飯尾コウと再婚
一九二六年(大正十五年)十八歳、第一高等学校入学
 一瞥して気づくのは、まず第一に、思春期――自我形成期における絶え間のない転居で
ある。父が旧制中学の教師をやっていたため、小学校を入学から卒業まで三校かわってい
る。また、思春期の一番多感な時期を朝鮮という異民族の中で過ごしている。第二に、二
人の母との離別である。中島は、一歳足らずで、実母と離別し、そのまま七歳まで祖父母
のもとに預けられている。親子関係がもっとも情操的に作られる時期に、父母と別れ、祖
父母のもとで過ごしたことになる。両親と同居するようになっても、その母は継母であっ
た。要するに、母を知らない。これは中島の中で、親に、父親にも母親にも遺棄されたと
思わせたのではないだろうか。少なくとも無意識にそういう体験があったはずである。

 ……彼は十七歳であった。一匹の黒猫を例外として、彼は誰をも愛さなかったし、又誰
 にも愛されなかったように思われる。……
  三造は彼を生んだ女を知らなかった。第一の継母は、彼の小学校の終わり頃に、生れ
 たばかりの女の児を残して死んだ。十七になったその年の春、第二の継母が彼のところ
 に来た。はじめ三造はその女に対して、妙な不安と物珍しさとを感じていた。が、やが
 て、その女の大阪弁を、また、若く作っているために、なおさら目立つ、その容貌の醜
 くさを烈しく憎みはじめた。そして、彼の父が、彼なぞにはついぞ見せたこともない笑
 顔をその新しい母に向って見せることのために、彼は同じく、その父をも蔑み憎んだ。
    (『プウルの傍で』)

 むろん、こういう小説の記述を鵜呑みにしてそのまま中島の実人生に当てはめることは
危険である。また、思春期には、この作品でも「自分自身を」「最も憎み嫌った」と書い
ているように、自己嫌悪や自己憎悪がそのまま肉親への感情に反映するものであることも
考慮に入れなければならない。しかし、中島の書き残した全著作を見ると、多かれ少なか
れ、こういうことがあったであろうと推測させるのである。
 さらに、この作品では、同じ中学生の頃、「決して家族と言葉を交わさな」い時期や、
「彼等(両親――引用者)の破廉恥に対する罰を与え」るためにわざと「自分の学校の成
績を悪くしようと考えた」こともあったことも記されているのである(むろん、長じてか
らの中島の書簡に現れている親思いの姿はこのこととは無関係である)。
 そういう習作を経て、『狼疾記』の次の記述がある。

 ……彼の周囲のものは気を付けて見れば見る程、不確かな存在に思われてならなかった。
 それが今ある如くあらねばならぬ理由が何処にあるか? もっと遥かに違ったものであっ
 ていい筈だ。おまけに、今ある通りのものは可能の中での最も醜悪なものではないのか?
  そうした気持が絶えず中学生の彼につき纏うのであった。自分の父に就いて考えて見
 ても、あの眼とあの口と、(その眼や口や鼻を他と切離して一つ一つ熟視する時、特に
 奇異の感に打たれるのだったが)その他、あの通りの凡てを備えた一人の男が、何故自
 分の父であり、自分と此の男との間に近い関係がなければならなかったのか、と愕然と
 して、父の顔を見直すことが其の頃屡々あった。何故あの通りでなければならなかった
 のか。他の男ではいけなかったのだろうか?……周囲の凡てに対し、三造は事毎にこの
 不信を感じていた。自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けているこ
 とだろう。世界は、まあ何という偶然的な仮象の集まりなのだろう!(『狼疾記』)

 いうまでもなく、このような三造の不安と不信もまた、三造だけのものではなく思春期
特有のものである。自我の目覚めは両親への反抗をもって始まる。これら、「肉身」への
反抗、特に父への反抗は自己嫌悪と自己憎悪の裏返しでしかなく、そういう自我の目覚め
とともにやってくるそのような感情が、血縁で結ばれている親子関係が単に偶然性でしか
ないという認識を導くのである。特に、中島の場合、父との親子関係を認識するのは普通、
母を通してであるのに、その母(実母)は始めから欠如している。親子関係という通常与
えられている自然が欠如している。『かめれおん日記』には次のような記述もある。

  幼い頃、私は、世界は自分を除く外みんな狐が化けているのではないかと疑ったこと
 がある。父も母も含めて、世界凡てが自分を欺すために出来ているのではないかと。そ
 して何時かは何かの途端に此の魔術の解かれる瞬間が来るのではないかと。
  今でもそう考えられないことはない。それを常にそうは考えさせないものが、つまり
 常識とか慣習とかいうものだろう。

 たび重なる父の結婚や、転居だけではない。父の「彼なぞにはついぞ見せたこともない
笑顔をその新しい母に向って見せる」日常の中で、幼い頃、「みんな狐が化けている」と
思うのもやむを得ざることである。大人たちには裏の事情も含めて了解されていても、子
供には何が何だか分らない。恐怖心と不安だけを植えつけたはずである。そういった感情
は、いつの間にか無意識に沈み、中島の中で意識されずとも、ただ「みんな狐が化けてい
る」という感覚だけは続いていたのだろう。そして、ここでは、「常識とか慣習とかいう
もの」で、「世界」は「狐が化けている」のではないことを否定し、なんとか正常な生活
人としてバランスを保って生きていこうとする姿が窺えるのである。「常識とか慣習とか」
というものの権化たる吉田、俗物吉田への羨望がくるのはこういう時である。それはいう
までもなく、「世界」への不信と裏腹である。なぜなら、「常識とか慣習とか」というも
のへの屈伏ほど、最も中島の自尊心を傷つけるものはないし、そのことで「魔術」が解か
れることはないからである。
 こうして、すべてに対するいいしれぬ不信感が来る。世界はなんと「偶然的な仮象の集
まり」でしかなかった。すべてに「必然性」などはないという事実。実は、その「偶然的
な仮象の集まり」に必然性を与えていくことこそ、人の生に他ならないのだが、それはと
もかく、中島の場合は、度重なる転居と母との離別と父の再婚によって、人以上に親子関
係に必然性を欠くことになったろうことは想像に難くない。この痛覚は、普通は、幼い日
の母との肉体的精神的一体感――戦没学生の手記に現れているように、また、近代以来の、
多くの小説家によって表出されたように――の思い出が補償作用となり、和らげてくれる
のだが、中島にはそれがない。であるが故に、ますます世界に一人放擲されていると感じ
てしまうのである。それはいやが応でも、自分の存在の根が断たれていることを意識させ
たはずである。
 中島が『北方行』でも触れている、小学校の教師が執拗に語った「如何にして地球が冷
却し、人類が絶滅するか、我々の存在が如何に無意味であるか」という挿話が、長い間心
的外傷として残ったのは、幼児期から思春期にかけての、父からも母からも遺棄されてい
るという孤独感、そして世界に対する不信感によって増幅されたからにほかならない。

         5

 中島は、横浜高等女学校の交友会誌に「お国自慢」なるアンケートに答えて、次のよう
に言っている。

 生れは東京。その後処々を放浪。従って、故郷という言葉のもつ(と人々のいう)感じ
 は一向わかりません。猛烈な愛郷心、郷土的団結力・生活や言葉の上の強烈な郷土的色
 彩等々をもった方にお逢いする度に、羨望と驚嘆との交じった妙な感じに打たれます。

 要するに、中島には、その経歴からして、文字通り故郷はないのである。小林秀雄も昭
和八年に『故郷を失った文学』という文章を書いている。そこで、《東京に生れた私》に
は《故郷という意味がわからぬ》と言った後、こう述べる。《確乎たる環境が齎す確乎た
る印象の数々が、つもりつもって作りあげた強い思い出を持った人でなければ、故郷とい
う言葉の孕む健康な感動はわかないのであろう。》 これは小林が言うように、《東京に
生れた》者すべてに共通するものではないだろう。《確乎たる環境が齎す確乎たる印象の
数々》を幸運にも所有する者もいるだろう。しかし、小林が次のように述べるのは正しい。
《故郷》を持っている人は、《別に何んの感動もなくごく普通な話をして、それでいて何
かしらしっかりとした感情が自ら流れている。何気ない思い出話しが、恰も物語の態を備
えている。羨しい事だ、私には努力しても到底つかめない何かしらがある、と思う。何等
かの粉飾、粉飾と言って悪ければ意見とか批評とかいう主観上の細工をほどこさなければ、
自分の思い出が一貫した物語の体をなさない……》 これは小林自身のことを言っている
のであるが、それはそのまま中島にも当てはまるはずである。いや、小林以上に《確乎た
る環境が齎す確乎たる印象の数々》を持たなかった。そもそも前提たる《確乎たる環境》
がなかったのである。
「自分を取囲んでいる・あらゆるものは、何と必然性に欠けていることだろう」と中島は
書いた。両親は、二歳(実際は一年足らず)で去り、同居したのが七歳、その後、小学校
を二度転校し、中学は異民族の中の朝鮮だとすれば、「自分を取囲んでいる・あらゆるも
の」が不安定きわまりなく、《確乎たる環境》など考えられようもなかった。その意味で、
『斗南先生』で、斗南先生のような放浪癖のある自分の血を戒めているが、実はそれが先
天的、気質的なものというより、《確乎たる環境》すなわち自分の根底が断たれていると
いう、後天的なものではなかったか。また先に触れたが、匈奴に捕えられ、妻子眷属を惨
殺されて異国の地に露命を繋ぐしかなかった李陵に、中島が容易に自分を仮託できたのも
同じ理由によるのではないか。
 そこにはさらに重大な問題が介在する。「自分を取囲んでいる・あらゆるもの」が移り
行く中で、幼き日の中島は、自身もそれに適応すべく変化を強いられたはずである。「み
んな狐が化けているのではないか」という不信と不安の中で、個的な適応を強いられたは
ずである。その意味で、中島の場合、《確乎たる環境》がないことによる《故郷》喪失が
問題なのでなく、それ以前に、《確乎たる》自己がないことの方が問題だったろうことは
想像に難くない。「全くの所、私のものの見方といったって、どれだけ自分のほんものが
あろうか、いそっぷの話に出てくるお洒落鴉」と自嘲気味に『かめれおん日記』の中で書
く中島は、唐木がそこに「青春」の問題を見出す以上に深刻だったのである。
 だから、「根本的な・先天的な・或る能力の欠如によるものらしい」(『かめれおん日
記』)と考えるとき、また、「本当に、何のために自分は生れて来たんだ?」(『狼疾
記』)と自分に問うとき、それは通り一遍の「青春」の問題のごとく見えながら、その実、
中島は、自分を底なしの不安に陥れている世界に対して、「悪意」のようなものを感じた
はずである。それは、次のような表現にも見てとれる。

 ものの感じ方、心の向い方が、どうも違う。みんなは現実の中に生きている。俺はそう
 じゃない。かえるの卵のように寒天の中にくるまっている。現実と自分との間を、寒天
 質の視力を屈折させるものが隔てている。直接そとのものに触れ感じることが出来ない。
    (『かめれおん日記』)

 この記述は、自分とまわりの「現実」と直に接触していないという感覚に基づく。こう
いう感受性もまた思春期特有のものであり、必ずしも中島だけのものではない。ただ、
「狐が化けているのではないか」という疑惑に囚われていた中島にとって、「みんな」が
「現実の中に生きている」のに、自分だけは「寒天質」に包まれていなければ自己防衛が
果たせないのである。これは、《確乎たる》もののない自己を、世界の恐怖から守る心理
的防衛機制である。そしてさらに、中島の場合、それは次のような感覚も伴う。

  俺というものは、俺を組立てている物質的な要素(諸道具立)と、それをあやつるあ
 るものとで出来上っている器械人形のように考えられて仕方がない。この間、欠伸をし
 かけて、ふと、この動作も、俺のあやつり手の操作のように感じ、ギョッとして伸ばし
 かけた手を下ろした。(『かめれおん日記』)

 ここにはむしろ、神経症的側面が窺える。なぜ私がそういう側面にここで注目するかと
いうと、「狼疾」の神経症的側面こそ、「狼疾」を「狼疾」として顕在化させる働きをし
ていて、中島の、《確乎たる》自己がなく、自我の分裂に苦しんでいる姿が明瞭だからで
ある。「いそっぷの話に出てくるお洒落鴉」は単なる「お洒落」ではなかったのである。
 先験的に《確乎たる》自己が形成されているところでは、過剰な我執もありえない。我
執は自我の危機が原因なのである。
 そういう自我の危機の中で、ともかくも、自然を信じられぬ中島は極めて主知的、観念
的に自己を形成するしかなかった。家の漢字文化圏の影響下で、自然なる関係として親を
感じていなくても、親は親に違いないことを知的、観念的に納得しなくてはならなかった
のである。しかし、疎外された自然は必ずしっぺ返しをする。『かめれおん日記』で、時
には、溌剌とした「盲目的な生命の意志」への羨望がきたり、逆に、それに委ねることへ
の悔恨がきたりという、「我と自らを噛み、さいなむ」主人公の姿が描かれていることに
なる。その根本原因は、心的外傷によって、世界への不信感、すなわち中島の自然そして
それへの素朴な信頼が失われているためにほかならない。
 それは悪循環となって、『狼疾記』の中で、カフカの小説『窖』に即して、「俺を取囲
む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ時の俺自身の無力さとが、俺を絶えざる脅
迫観念に陥らせる」と書く時、「自分の家にいるからとて安心している訳に行かない。寧
ろ、君は彼等の棲家にいるようなものだ」と『窖』の一節を引用する時、いったいカフカ
の小説の主人公のことを言っているのか、『狼疾記』の主人公のことを言っているのか不
分明なほど一体化してしまっているのである。それは、「自分を取囲んでいる・あらゆる
もの」が移り行く中で、《確乎たる環境》をもてず、自分を取り囲むものすべてが、「未
知」のものにならざるを得なかった、中島の幼児期の心的外傷を生々しく思い起させる。

         6

 私は中島の「狼疾」の神経症的な側面を強調しすぎているかも知れない。実は、根本的
には、「狼疾」が、それに苦しむあまり、神経症的な側面を発症させているのであって、
相互作用があるにしても、その逆ではない。人は、いずれにしても偶然性のもとに生まれ
落ち、所与としての生を生きるしかないのであるが、私がここで中島の「狼疾」の神経症
的側面を言っているのは、中島が特殊な環境、所与のもとに生まれ落ちたことを強調せん
がためでなく、それを心的外傷として受け止めざるを得なかったその感受性の質のことを
問題にしているのである。中島自身、「全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑
を感じはしない。それならば斯うしたことを常に感ずるような人間は不具なのかも知れぬ」
(『狼疾記』)と言っているように、彼はその所与と闘ったというより、そういう自己の
感受性と闘ったのである。それが「狼疾」の本当の意味である。だから、武田泰淳が、
「狼疾」について、以下のように言う時、それは限りなく正確であった。

 《作家の狼疾は作家を苦しめる。それは作家自身、理解できぬほど、あまりにも彼独自
 の疾病であるために、彼はそれによって自らを高めつつも、それを意識せずして苦しま
 ねばならぬ。そして、そのことによってのみ、彼は脱走に成功するのである。狼疾は作
 家をおびやかし、かつ、きたえる。それと反対に、狼疾なき作家は、おびやかされず、
 きたえられず、ついに脱走し得ない。したがって新しきものを創造できないのである。》
    (『作家の狼疾』)

 ここには作家というものの秘密が語られている。創造の秘密が語られている。武田泰淳
もまた、中島とは違う「彼独自の疾病」すなわち「狼疾」を抱えた作家であった。抱え込
まざるを得ない作家であった。であるからこその、この共感と理解があるというべきだ。
泰淳の「狼疾」は何だったのか、それはまた別の問題である。しかし、ここで、泰淳が、
「狼疾」を抱え込んだ作家と「狼疾なき作家」とをはっきり分けて、「狼疾は作家をおび
やかし、かつ、きたえる。それと反対に、狼疾なき作家は、おびやかされず、きたえられ
ず、ついに脱走し得ない。したがって新しきものを創造できないのである」と断言してい
るのは注目されてよい。「狼疾」は創造の原動力になるのである。
 そして、いったい作家は何から「脱走」するのか。泰淳によると、《世のいわゆる文学
形式》からということだが、そうとは限らない。「狼疾」が人様々であるように、様々で
あろうが、それが「紅旗征戎吾が事にあらず」といった種類の「脱走」であったのは間違
いない。それは政治に関知せず、政治から遠ざかるということだけを意味しない。これは、
先に私が問題にした、中島の「己が性情の指さす所に従う」という意味であるほかない。
 死の直前に書かれた『章魚木の下で』では、「南洋呆けがさめないのかも知れぬ」と謙
虚な言い回しになっているが、中島の文学観はもう確固としているように見える。時局が
ら「文学者の学問や知識による文化啓蒙運動」が雪崩をうった時代に、である。これは驚
異というべきではないか。三年前に『かめれおん日記』で「いそっぷの話に出てくるお洒
落鴉」とまで自嘲したことが嘘のようである。そして、作家は「脱走」して何処に行こう
としているのか。依然として「狼疾」に、私の脚下たる「狼疾」に、である。李陵や司馬
遷や蘇武のそれぞれがそうだったように。
 中島は覚悟ができていたのである。「虎」になる覚悟が。そして「私」を無残に踏みつ
ぶされた、「知覚も意識もない一つの書写機械」になる覚悟が。泰淳が言うように、若く
して死んだ《中島はついに自己の狼疾をいかす方法を発見しえなかった》とは思わない。
中島の「狼疾」を見つめていたからこその、『李陵』があると思える。少なくも、「狼疾」
を抱え込んだ作家にしか書けない作品だと思われる。
 この「作家の狼疾」について、最後に触れておかねばならない。私が度々言及してきた
『狼疾記』の中で、印象に残る場面の一つ、「日本名婦伝」なる書物を持参して、自分の
二十歳も若い妻を自慢するM氏がいる。

 年齢は五十を越した・痩せてはいないが丈の低い・しかし容貌は怪奇を極めた人物であ
 る。鼻が赤く、苺のように点々と毛穴が見え、その鼻が顔の他の部分と何の連絡もなく
 突兀と顔の真中につき出しており、どんぐりまなこが深く陥ち込んだ上を、誠に太く黒
 い眉が余りにも眼とくっ附き過ぎて、匍っている。

 このように、M氏は、文字通り「怪奇を極めた人物」なのだが、これは『牛人』の牛男
に通ずるものであり、その人物が、自分の妻を自慢しようとして、詐欺出版とも知らずに
「日本名婦伝」なる書物を持参する図など、なんとも「やり切れない人間喜劇」を演じて
いる。そういうところも、何か「神々」の悪意というものを感じさせるものになっている。
 が、それでもなお、M氏の不可思議さはそこにとどまらないのであって、「其の表現は
何時もの通り度を越して間の抜けたものであり、其の発声は曖昧で緩慢で、且つ何度も同
じ事を繰返す」「愚鈍」そのものだったが、それを根気よく聞いてみると、「モンテエニュ
でも云いそうな」人生観の一片を披瀝しているのである。しかも、彼は、彼を嘲弄する者
たちを「下の階段にいながら上段にいる者を哂おうとする身の程知らず」と見なしている
ようなのである。ここに至って、次のような結論に達する。

 その鈍重・難解な言葉をよくよく噛分けている中には、我々にも、此の男の愚昧さの必
 然性が――「何故に彼が常に斯くも、他人の目からは愚かと見える様な行動に出ねばな
 らないのか、」の心理的必然性がはっきりのみ込めて来るのではないだろうか。そうなっ
 て来れば、やがて、M氏がM氏でなければならぬ必然さと、我々が我々であらねばなら
 ぬ必然さとの間に――或いは、ゲーテがゲーテであらねばならなかった必然さとの間に
 ――価値の上下をつけることが、(少くとも主観的には)不可能と感じられてくるだろ
 う。……我々の価値判断の標準を絶対だと考えるのは、我々の自惚に過ぎないのではな
 いか。

 これはいったい何であろうか。言うまでもなく、人類は一人一人平等の価値をもってい
るなどという観念を述べようとしているのではない。ここには存在の必然性が述べられて
いるのである。
 実際、M氏に「狼疾」という言葉は無用だろう。彼ほど遠い存在はないだろう。主人公
と対極にいる人物といってよい。しかし、である。かたや、「指一本惜しいばっかりに、
肩や背まで失うのに気がつかぬ」という語の表面的な意味でなら、M氏の、詐欺出版だと
も知らずに「日本名婦伝」なる書物を自慢する図など、「狼疾の人」そのものともいえる
のではないか。主人公の――ここでは作者中島の、といっていいが――M氏に対するなみ
なみならぬ関心はこのあたりから急激になってくるのだが、M氏本人にしてみれば、これ
も「他人の目」から見てのことで、一つの常識的な「価値」規準を当てはめているに過ぎ
ないのである。彼はそんなことに頓着しない。M氏はM氏で、自分の「価値判断の標準を
絶対だと考え」ているに相違ないのである。「他人の目」を気にするようなら、M氏の、
他人に「愚昧」に写るような行動はそもそもあり得ないだろう。彼は確固として、「モン
テエニュでも云いそうな」人生観をもっていて、自分を「上段」にいるものと見なしてい
るのである。それを、ここでは、「M氏がM氏でなければならぬ必然さ」といっている。
 かかるM氏は、まるでドストエフスキーの小説の中にでも出てきそうな人物ともいえる
が、それはともかくとして、ここにきて、あれほど中島が幼年期から苦しみ抜いた存在の
偶然性から解き放たれて、必然性にたどりつこうとしているのか。その糸口を発見しかかっ
ているのか。が、残念ながら、ここでは一挿話にとどまっているだけで、『狼疾記』の主
人公は、「イグノラムス・イグノラビムス」と呟くのみである。
 それにしても、何が主人公すなわち中島をして、M氏に関心をもたせたのか。中島はオ
ルダス・ハックスリィを自ら翻訳しているが、その中に、『スピノザの虫』というのがあ
る。その「虫」は、血液中に住む架空の虫なのだが、その虫が世界をどう捉えているかと
いうと、たぶん血液の流れそのものを全世界と捉え、人間の生命を支える一部分に過ぎな
いことを知らないだろうというのである。いうまでもなく、これは人間の暗喩であって、
人間もまた、知られざる宇宙の中の一個の生物として存在しているに過ぎないわけである。
M氏も、M氏を「愚昧」な人間として嘲弄してやまない我々もまたその一員にしか過ぎな
い。ハックスリィは、虫たるをやめて蝶々になったらさぞかし「愉快なことだろう」と述
べている。しかし、せっかくなるんだったら、鳥の方がいいと思う人もでてこようし、鳥
でも不十分で、飛行機のある現在、やはり人間が一番だという人もでてこよう。要するに、
こういうことはきりがない。ということは、これは相対的な問題で、何になったら幸福か
をいっているに過ぎず、幸福をいうなら、最初に戻って、血液中の虫だって、充分に幸福
かもしれないのである。
 だから、我々はM氏が詐欺出版にひっかかったことを笑えないのではないかというので
ある。宇宙のちっぽけな同じ一員だからというのではない。M氏が自筆で書いた「日本名
婦伝」の写真付きの一頁にこの上もなく満足しているのを我々は笑えないのである。M氏
が「モンテエニュでも云いそうな」人生観の一片を披瀝して、彼を嘲弄している者を「下」
の階梯にいる「身の程」知らずとして見なすとき、M氏自身がいつの間にか我々卑小な人
間の暗喩となっているからである。
 人は、他人から見れば実につまらないことに幸福を見出して生きているものではないか。
その幸福に対してとやかくいう権利はない。人はその何かに幸福を見出すために、その数
十倍ものエネルギーを費やしたろうからである。一見、常識的には、「スピノザの虫」が
幸福だなんてとても信じられないが、その信じられないことがもし起こっているとすれば、
そこには生物の膨大な隠されたエネルギー、すなわち進化の過程での生存競争と淘汰を経
た末にできあがったことであろうと思われるのである。与えられた環境に適応する、所与
としての生を生きるということはそういうことであろう。
『狼疾記』の最初に、主人公が映画を見ながら「土人」に生れていたらどうだったろうと
夢想する場面があるが、これはいうまでもなく単なる空想ではない。偶然なるものとして
の存在に、どのようにして必然性を与えていくかという、その遼遠たる道のりのことが夢
想されているのである。それに費やされたエネルギー、これまでの自己の過去が回想され
ているのである。
 その中島が、「どうしても夢ではないと悟らねばならなかった時、自分は茫然とした。
そうして懼れた。全く、どんな事でも起り得るのだと思うて、深く懼れた。しかし、何故
こんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も判らぬ。理由も分らずに押し付けられた
ものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きもののさだめだ」
(『山月記』)と書くとき、そこには、なんと、中島自身の二十年近い歳月の生がそのま
ま語られていることか。これは「虎」一個のことを言っているのではない。中島の長い歳
月に較べたら「虎」になることは何でもない。実に、彼にとって、すでに動かしがたい所
与として、幼児期に「どんな事でも」起こったこととして、それを「大人しく受取る」た
めに二十年近い歳月が生きるために費やされてきたのである。それは辛苦に満ちたもので
あった。そして、それは、「虎」になることよりも、むしろその叫びに象徴されているが
――叫びというのが大げさなら悟淨にならって「何かブツブツ独り言」をいうといっても
いいが、それは、彼の全作品に満ち満ちているばかりでなく、その溢れ出たものは、死後
も人の心を打っているように思われるのである。
 私はこの小論の最初に中島の作品が青春文学として捉えることも可能だといったが、こ
こでの文脈でいうと、青春という「大人しく受取る」ための過程とエネルギーを中島がそ
の作品に塗り込めたからなのである。中島の所与としての単なる「狼疾」は才能と感受性
と、そして彼の並々ならぬ苦悩と格闘のすえ、「作家の狼疾」として、再点火されたので
ある。
 こうして、中島は「狼疾」に苦しみ、それはあたかも彼が喘息という宿痾につきまとわ
れた如くであったのだが、肉体的にも精神的にも苦しみ抜いて、いつしか「狼疾」を抱え
込んだ者にしかできない作品に到達していたのである。
                                     (了)

(注)Windowsで、漢字表記が制限されているため、一部「*」になっています。



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