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      kuronekoの死刑廃止論



 (注)以下は、99/11/29から00/02/05まで、niftyのフォーラムに発言した内容を
  まとめたものです。分かりやすくするため、発言には、新たにゴチックでタイト
  ルをつけました。「>」は引用であり、引用の最後に発言番号と発言者名を示し
  ました。なお、私のハンドル名は、kuronekoを使っています。一部敬称は略させ
  ていただきました。
      フォーラム名:<本と雑誌リーダーズフォーラム>
      会議室名    :( 8 )【読者会議】週刊金曜日 電脳通信組つぐみ





1,殺人者は死をもって償うべきか
  (発言番号    :16198(発言番号16194へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/11/29)



GTRさん、こんにちは。

>総理府の世論調査によると死刑制度反対と考えるわずか8.8%しかなく、容
>認する人が79.3%で大きく上回りました。この数字は過去最高だそうで
>す。最近の凶悪犯罪の増加を反映した数字なのでしょうか?
(発言番号16194  発言者 GTR)

 私も、死刑廃止論者ですが、「新聞」の報道(私が見ているのは「朝日」)だけで
は何とも言えませんが、世論調査の仕方が悪いのであって、死刑制度に代わる、例
えば、恩赦および仮出獄のない絶対的終身刑を対置して、調査しないから、現行法
では、それに代わりうる重い刑罰がない以上、賛成論が多くなるのは当然だという
主張があります。また、死刑に特別な犯罪抑止力がないという研究者の調査結果が
一般に知られていないことも、その原因として考えられます。今回の新聞報道で
も、犯罪抑止力を理由とする死刑賛成論が多かったようです。
 殺人を犯した以上、死をもって償うべきという俗説も耳に入りやすいのでしょう。
だから、私は、運動する側に問題があるとは思いません(逆に言うと、運動する側も
「神」ではない以上、誤りは多いとは思いますが、それが原因で、死刑制度存置論
が多いのだ、とは考えないという意味です)。

>私は基本的には死刑制度を廃止すべきだと思ってます。国家が合法的に人の命
>を奪うことが可能だと言うのは(例え極悪非道な犯罪者でも)疑問に思います
>し(緊急非難時はやむをえないこともあるでしょうが)、「目には目を、歯に
>は歯を」と言う考えは文明国家のやることではないでしょう。まあよく言われ
>る「冤罪だったら取り返しが」と言う意見は、死刑制度があろうが無かろうが
>冤罪は問題ありと思ってますが…。
(同上)

 GTRさんの言うとおりで、団藤重光元最高裁判事の1パーセント以下の冤罪の可
能性であっても、その可能性を残したまま、死刑判決を言い渡すのは(最高裁は最
終審なので)、とても心が痛んだという、文章(「死刑廃止論」有斐閣)を最近読
んで、最高裁判事ならでは、の言葉と思ったことでした。
 別に、冤罪だけが死刑廃止の論拠ではありませんが。



2,死刑存廃論は被害者の感情を追体験することなしにあり得ない
  (発言番号    :16206(発言番号16205へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/11/30)


 おしょーさんこんにちは。
 死刑反対の立場からコメントします。

>私は、死刑廃止を提唱する方々の善意を信じて疑いませんが、その善意があまりに
>無邪気すぎると結果的に被害者と被害者の遺族を傷つけたり、大きな苦しみを与え
>ることになるのではないかと危惧します。(被害者その人はもういないから苦しむ
>こともないでしょうけど)
(発言番号16205  発言者 おしょー)

 死刑廃止を訴えることが、「傷つける」とか「大きな苦しみを与える」とか、一概
に言えるものでしょうか。たとえば、団藤重光氏の「死刑廃止論」を被害者が読ん
だとして、その反応はさまざまのような気がします。
 ま、こういうことを言っても、きりはありません。

 死刑廃止論は、私の感覚だと、「善意」ではありません。中には「善意」の人もあ
るかも知れませんが。国が行うにせよ、人を「死刑」にする論理(それを正当化する)
が見つからないということです。読んだ感想では、団藤氏もそれが結論のようでした。

>犯罪の被害者の遺族になるなることというのは、どんなことなのか。
>(本当は、被害者そのものになるとはどのようなことなのかと言いたいのですが、
>なにか宙に浮いたような考えになってしまいます。)
>そのことを経験したこともなく内面的に乗り越えたこともない人たちが、それに
>ついて「客観的」に語ることがどこまで「正しい」のかなと私はいつもどこかで
>懐疑的に思います。
>死刑廃止を言う方々には失礼な言い方だったかもしれませんが。
(同上)

 以上の、おしょーさんの言い方は、そのまま死刑存置派の人にも当てはまりますよ
ね。「そのことを経験したこともなく内面的に乗り越えたこともない人たち」とい
うのは、お互いさまではないですか。むろん、「内面的に乗り越えた」被害者の遺
族で、「死刑存置」の方もいらっしゃるし、「死刑廃止」の方もいらっしゃるので
しょう。だけど、はっきり言いますと、死刑存置派あるいは死刑廃止派の多くは、
「経験したこともなく内面的に乗り越えたこともない人たち」です。だから、こん
なこと云われても、埒あかないのではないですか。

 あるいは、おしょーさんは、実際に「経験」された方かも知れませんが、もし、そ
うであるなら、それでは聞きますが、実際に「経験」した者しか、「死刑制度」は
議論できないと言うことなのでしょうか? もし、議論できないとすると、戦争を
実際に体験した者でないと、戦争を語れないと云う理屈になりますが……。

 ただ、いうまでもありませんが、死刑存置あるいは死刑廃止の論は、想像力の中でせ
よ、被害者(あるいは遺族)の感情を追体験することなしにはあり得ません。戦争論
が、人を殺し、殺されることはどういうことかという、様々の状況下の戦争の追体験
なしにはあり得ないように、です。

>私は、「死刑制度廃止」は伝統的にキリスト教が影響力をもっている国々のなかで
>流れになっている(だけ)だと思いますがその考えは間違っているでしょうか?
(同上)

 欧州における「死刑制度廃止」は、確かに、キリスト教の影響はあるでしょう。し
かし、日本におけるものは、それとは関係ないでしょう。私もキリスト教ではあり
ません。



3,死刑は国家による殺人である 1
  (発言番号    :16220(発言番号16214へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/01)


 おしょーさん、コメントありがとうございます。このフォーラムでは既に議論済みか
も知れませんのに。

 まず、以下は私の考えが至らない点があるのか、それをはっきりさせるためにもう一
度私の先の文章から引用します。

>>以上の、おしょーさんの言い方は、そのまま死刑存置派の人にも当てはまりますよ
>>ね。「そのことを経験したこともなく内面的に乗り越えたこともない人たち」とい
>>うのは、お互いさまではないですか。むろん、「内面的に乗り越えた」被害者の遺
>>族で、「死刑存置」の方もいらっしゃるし、「死刑廃止」の方もいらっしゃるので
>>しょう。だけど、はっきり言いますと、死刑存置派あるいは死刑廃止派の多くは、
>>「経験したこともなく内面的に乗り越えたこともない人たち」です。だから、こん
>>なこと云われても、埒あかないのではないですか。
>
>この点私は、「そうかなあ??」と思ってしまいます。
>もっとも、確かにお互いの主観的な思いをいくら言い合っても埒があかないのは
>そのとおりかもしれません。
>私は犯罪の被害者になったことも被害者の遺族になったこともない幸福な人間のひ
>とりなのですが、でも、だからそれを「お互いさま」ではないかという捉え方が私
>にはよく理解できないのです。
(発言番号16214 発言者 おしょー)

 いったい、おしょーさんは、何のことを指して、「「お互いさま」ではないかという
捉え方が私にはよく理解できない」とおっしゃっているのでしょうか?
 上の私の文章は普通のことを書いてあるだけに過ぎないように、私の感覚では思われ
るのですが……。これは議論ではなくて、教えを乞うているものと考えて下さい。

 次は、議論です(笑)。

>私には、人の命を奪ったものは、その報いとして自分の命を失うことがあってもお
>かしくないという因果応報的な考えを一種当然のことと考えるメンタリティがあり
>ます。そこから私は「死刑制度」というのはもともと人間の自然な感情に合致して
>いる側面があると思っています。
(発言番号16214 発言者 おしょー)

 おしょーさんの言い方は、たぶん、半面の真実でしょう。私自身、人を殺す場面が
あったとして、その殺人が、已むを得ざるものだったとしても、私は「自然な感情」
として、死をもって償うべきであるという想念が去来するだろうと思うからです。た
だその結果、私が自死を選ぶか(あるいは死刑を自然に受け入れるか)、死にきれず
無様に生きながらえようとするかは、それはその時にならないと分かりません。
 ただ、ここで言えることは、その時、わき上がるだろう「死をもって償うべきであ
る」という想念は、極めて私的な(内面的な)もので、それを、他者に当てはめ、
「人の命を奪ったものは、その報いとして自分の命を失」え、死刑にせよ、とは、と
ても言えないという事です。これが、私が考えるおしょーさんの言説の、真実でない
半面です。
 人の命を奪うには、絶対的かつ確実な根拠が必要です。たとえ、それが人を殺した
殺人者の場合でも、です。なぜなら、それを執行するのが国家にせよ、国家を構成し
ているのは、人であり、だとすれば、それを執行する人も、「殺人者」に他ならない
のではないかと思うからです。

 私の立場からは、現在の最高裁の死刑容認の態度は残念ですが、11/29に国立市主婦
殺害最高裁判決が言い渡されましたね(私はその日の「朝日」の夕刊を参照していま
す)。この事件そのものは、強盗強姦したあげく、全く罪のない主婦を千枚通しで突き
刺し、さらに牛刀でとどめを刺すという残虐きわまりないもので、被害者の夫は、法廷
で「同じように殺したい。ぜひ死刑にしてほしい」と訴えたそうですが、にもかかわら
ず、最高裁の判断は、死刑を避け、無期懲役でした。
 私はその記事を読みながら、最高裁判事の、死刑容認の現行法制下でも、なるべくな
ら死刑を避けたいという心理が見え隠れしているようで、彼等に一種同情もしたので
した。このことは、最終的に執行の許可を下す法務大臣、さらに死刑を執行する死刑
執行官にも言えます。彼等は、もうその時は、大方の死刑受刑者が自分の罪を悔い、
それなりの反省もしているだろう、そのような極めて人間的な受刑者たちを目の当た
りにして、「法」による裁きという形であれ、死刑を執行しなければならないからで
す。特に、死刑の執行に当たる仕事に就いている人は、寝覚めが悪かろうと思います。
そのことは、結局、「法」による裁きであれ、人の命をとることに違いがないからなの
です。

 といって、それでは、自分が被害者の夫だったらどうするか、という問題もあります
ね。その残虐きわまりない犯人を許すことが出来るかと。
 それは許すことは出来ません。私も「同じように殺したい」と言うでしょう。しか
し、それは、「私」が殺すのであって、「私」の犯人への憎悪や、怒りは、自分が殺
すのでなければおさまらないだろうと思います。しかし、それは、この事件で検察官
が述べている「正義」の念では絶対にありません。私は、自分の手で殺して、しかる
のちに、同じように裁きを受けたいと願うでしょう。そのような感情です。

 すなわち、結論を言えば、私は、「死刑」を「正義」と結びつけるところにまやかし
が潜んでいると思うのです。個人的な殺人も、国家による死刑も、許されていないの
に、あたかも、国家による死刑は「正義」であるかのような言説が容認できないので
す。

>でもそれが最終的根拠のようになっているから日本では死刑廃止が世論の多数派にな
>らないのではないでしょうか?
>死刑にする論理がみつからないからという論理だけでは、人の心を捉えるに至らな
>いのだと思うのです。
(発言番号16214 発言者 おしょー)

 私は、「死刑廃止が世論の多数派になる」ことについては、かなり悲観的です。もう
長文になったので、やめますが、死刑廃止が多数派になるのは、コソボ紛争で、お互
いに肉身を殺されて、憎悪の念に燃えているアルバニアとセルビアの民族紛争をやめ
させるのと等しいくらい難しいと思います。肉身を殺された人間の報復感情は抜きが
たいものだからです。にもかかわらず、やめさせるために、とにかく人間の理性(何
という心細いこと!)に訴えるしかないのではないかと思います。
 長文失礼しました。



4,死刑は国家による殺人である 2
  (発言番号    :16257(発言番号16251へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/04)


 おしょーさん、こんにちは。コメントありがとうございます。

>>いったい、おしょーさんは、何のことを指して、「「お互いさま」ではないかという
>>捉え方が私にはよく理解できない」とおっしゃっているのでしょうか?
>
>ご指摘を受けてこの前後の部分のやりとりを何度か読み返して見ました。
>たしかに私の思いがうまく言葉になっていなかったかもしれません。
(発言番号16251 発言者 おしょー)

 私が前の文章で、「教えを乞う」という言い方をしたのは(かえって気持ち悪いかも知
れませんが(笑))、何か私に気になること(私の考えが足りないこと)が書いてある
ような気がしたからです。これは、繰り返しますが、詰問!しているわけではありませ
ん! おしょーさんの「思い」がどういうものだったか、気になったもので。ま、今と
なっては、言葉に表せない、名状しがたいというのであれば、仕方ありませんが。
 しつこかったでしょうか?(笑)

 又、これから議論です(笑)。

>>人の命を奪うには、絶対的かつ確実な根拠が必要です。たとえ、それが人を
>>殺した殺人者の場合でも、です。なぜなら、それを執行するのが国家にせよ、国家を
>>構成しているのは、人であり、だとすれば、それを執行する人も、「殺人者」に他な
>>らないのではないかと思うからです。
>
>根拠は明確です。その人が人の命を踏みにじったことです。
>「死刑」という事象は必ず犯罪の発生の後にしか発生しないのです。
>なぜ、犯罪行為による殺人と、その罰として行なわれる死刑による殺人を同列に扱う
>のでしょう?。
(発言番号16251 発言者 おしょー)

 どうして、同列に扱ってはいけないのでしょう?、とこちらが聞きたくなります。同じ
「人の命を踏みにじ」る行為ではないですか。「死」とは絶対的なものです。取り返し
ようがない。元に戻れない。再生不能の。人を傷つける「傷害」だったら、癒すことも
できます。しかし、殺してしまっては、「その人」はいないわけです。むろんここか
ら、殺人を犯したものは、重罪でもって、のぞむべきということが出て来ます。しか
し、その「罰」として、その殺人者を殺してしまうことが適当でしょうか?
 「罰」とは、「罪またはあやまちのある者に科する懲らしめ。しおき。」などと広辞苑
にありますが(「自虐」以来、辞書は引くべきものと思いましたので、つい(笑))、
懲らしめるべき殺人者はもうこの世にはいないわけです。ま、死刑ということは、懲ら
しめが、即この世からいなくすること(命を奪うこと)なんでしょうが、どう見ても、
刑罰として、過酷すぎませんか。
 「傷害罪」の「罰」として、鞭打ちの刑は、今日では、やっていないわけですよ。おま
えは、暴力行為で相手の眼を失明させたので、「罰」として、おまえも同じように失明
させてやるというような、です。これは、考え方として、報復ですね。
 だから、今日、もし、傷害罪による失明に対するに、その「罰」として、その犯人に失
明させることをしたら、同じ失明には違いなく、「同列」になってしまうわけですよ。
ま、失明だったら、命がありさえすれば、眼の代わりに、耳やその他五感の代用がきき
ますので、取り返し不能とまではいきませんが、命は、その点、取り返し不能なわけで
す。絶対に。また「罰」として失明させられた者は、その後、自分の罪を悔いることも
できます。「罰」を受けてよかった、自分のやった行為がどんなにひどいことだったか
初めて分かったということもあるかも知れません。ところが、死刑にせよ、命をとられ
たものは、そのような悔い改める機会も与えられないわけです。
 だからこそ、繰り返しますが、人の命を取ったという、取り返しのつかないことをした
殺人者には重罪でもって臨んでいいわけですが、それを死罪にするということは、国に
よる、「同列」の、報復行為に過ぎないと解釈されても仕方ないのではないですか。

 人の「生」や「死」は、人間が人為で操作してはならないものと私には思われます。そ
のような絶対性があるものと思います。代替不能の(他のものでは代わりようがな
い)。取り返しのつかぬ。生まれることと死ぬことには。生まれたことも取り返しがつ
きません。そのようにして生まれた人間は、どのような人間でも、唯一固有のもので
す。とすれば、一応「法」という(悪法などというものがありますが、ま、人が作るも
のだから不完全にせよ、)正義を体現するものである以上、そのような絶対性を犯して
はならないのではないかと思うのです。
 だから、国家の死刑にせよ、そのような絶対性を犯すものとして、人を殺すことに違い
なく、個人の殺人と同列に扱ってよいものと思うのです。

>>すなわち、結論を言えば、私は、「死刑」を「正義」と結びつけるところにまやかし
>>が潜んでいると思うのです。個人的な殺人も、国家による死刑も、許されていないの
>>に、あたかも、国家による死刑は「正義」であるかのような言説が容認できないので
>>す。
>
>法律の世界の言葉では、犯罪被害者の心を慰謝するために刑法での刑罰があるとは
>書いてありません。刑罰は社会の秩序を維持するためにあると書いてあります。
>検察官は法律言葉で語るから「死刑」を「正義」のためとかいうのでしょう。
>でもそれが全てではないと思います。
(発言番号16251 発言者 おしょー)

 ここでおしょーさんが言っている「刑罰は社会の秩序を維持するため」というのは、世
界中どこの国でも、古来から使われている、わかりやすい死刑の根拠ですね。しかし、
これこそ、いかに、これまで、時の権力者が自分の政権維持のために、その反対者ある
いは政権の秩序を乱す者を死刑にしてきたかを見ると、死刑の、「同列」の殺人的要素
を証すものと言ってよいのではないでしょうか。トルコのオジャラン党首への死刑の宣
告などもその例でしょう。実際やるかどうかは、また政治判断でしょうが。
 また、「刑罰は社会の秩序を維持するため」をもっと広く、刑罰の犯罪抑止力と捉える
と、死刑の犯罪抑止力がないのは、各種、研究者の調査で明らかなので(だから、各国
は死刑廃止に向かっているのだと思います)、今日では死刑制度存置について、「社会
の秩序を維持するため」という理由づけは当てはまらないものと思います。

>私は、「死刑」とは実はある意味でとても人間的な制度ではないかと思うのです。
>犯人を殺したって被害にあった人が生きて帰ってくるわけはない。そのことが分り
>きっているのに犯人を殺さなければ気がすまないと思う、不完全で平凡な人間のた
>めのものです。
>高い道徳的基準を実践できる地点にはいつまでも到達できず、犯人を死刑にして、
>ようやく罪を憎んで人を憎まずという許しの感情が芽生えてくるような、理解の
>遅い不完全な人間が犯罪被害を乗り越えて生きていくために資するものと思いま
>す。
(発言番号16251 発言者 おしょー)

 この部分は、全く納得できませんでした。私には逆のように思われます。憎い犯人が死
刑になったとしたら、犯罪の被害者は、自分が殺したいが、とにかく国が代わって殺し
てくれる(死刑にしてくれる)ので、死刑執行以降は、これでこれは終わったこととし
て、忌まわしい事件は忘れようとする心理が働くものと思います。「犯人を死刑にし
て、ようやく罪を憎んで人を憎まずという許しの感情が芽生えてくる」ことは、とても
信じられません。
 むしろ、国家が、どのような残虐な殺人者でも「死刑」にしないことによって、犯罪の
被害者は、その、残虐な犯人を同じように殺したいという抜きがたい報復感情が批判さ
れ、そのような報復感情だけでなく、本当は、「理性」によって許さねばならないので
はないかと考えるきっかけになるのではないかと思います。むろん、そのくらいで、な
かなか報復感情が和らぐとは思いませんが。
 これは私の死刑廃止の主要な根拠ではありませんが(そのような抜きがたい報復感情が
そのようなことで癒されるとは思っていないので。……このことは、死刑反対が多数派
を形成できない原因だと、前の投書で述べました)、この部分は、おしょーさんの言い
方は逆ではないかと思ったので、述べてみたのでした。
 今日も長文になりました。



5,近代法は報復主義をとっていない
  (発言番号    :16280(発言番号16272へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/05)


 おしょーさん、こんにちは。

 今回は、いきなり議論から……。

>>人の「生」や「死」は、人間が人為で操作してはならないものと私には思われます。そ
>>のような絶対性があるものと思います。代替不能の(他のものでは代わりようがな
>>い)。取り返しのつかぬ。生まれることと死ぬことには。生まれたことも取り返しがつ
>>きません。そのようにして生まれた人間は、どのような人間でも、唯一固有のもので
>>す。
>
>順不同になってしまいましたがこの点について
>
>だって、現に、なんの罪もない人の命を、自分勝手な思いや欲望のために踏みにじって
>しまっている人(犯罪者)が、あとを絶たないのが現実ではありませんか。
>その絶対性がある人の命を弄んでしまった犯罪については問わないのですか?
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 「……人(犯罪者)が、あとを絶たないのが現実」であるのは、その通りです。春奈
ちゃん殺害事件もありましたね。しかし、おしょーさんの、「その絶対性がある人の命
を弄んでしまった犯罪については問わないのですか?」に対しては、私は、再三にわた
って、そのような「なんの罪もない人の命」を「踏みにじっ」た犯人に対して、「重罪」
でのぞむべきと言っているはずです。ただ、春奈ちゃん事件は、社会的要因もあるよう
ですから、その点は裁判で考慮されるでしょうが。
 上のおしょーさんの引用文で、何を言わんとされているのか、今いち、理解できませ
ん。もう少し説明していただけませんか。もし、死刑制度があるから、これでも殺害事
件が少ないのだと考えられていられるのなら、それは全くの事実誤認です。死刑の犯罪
抑止力がないことは、これまでも申し上げています。

>私にも命の絶対性をいうkuronekoさんのその言説がとても高邁なものに思えます。
>しかし一歩間違うとそれが「生き残ったもの勝ち」みたいなものへと転落することない
>ですか?
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 その点は、「法」による裁きには、いつもついてまわる問題だと思います。前の私の投
書で、暴力事件で、失明させた例を挙げました。この場合も、犯人には、現代の「法」の
裁きとして、同じように失明させることはあり得ないわけです。被害者にしてみれば、犯
人が懲役をくらったにしても、失明させられた被害の度合に比べたら、絶対に!納得でき
ないことと思います。これも考え方によったら(被害者の立場からすれば)、「殴った方
が勝ち」あるいは、「失明させた方が勝ち」となりませんか?
 これは現代の「法」が、その思想として報復主義を取っていないからだと思います。
このことを分かりやすくするために、コソボの紛争の例で言うと、仮に、国連の調停で、
紛争が解決したとすれば、アルバニア人の、あるいはセルビア人の、肉身を殺された人
は、「俺たちの肉身を殺された被害はどうしてくれるんだ!」となりますよ。ここでも、
考えようによっては(被害者の側からすると)、「生き残ったもの勝ち」、「やったもの
勝ち」になりますね。
 そういう感情が残るから、和平はなかなか実現しないわけだろうと思います。しかし、
私の考える「正義」(「法」による正義、国連による平和の実現)とは、常にそうしたも
のが伴うんだろうと思います。
 現実に、先の大戦にしても、広島や長崎で被爆した人からすると、確かに日本人の一員
として責任はあったかも知れない、しかし、その結果として、無差別殺人である原爆投下
はないだろう、ひどすぎる、というのが率直な感想だと思います。ま、米国はその件につ
いて謝罪していませんが、「謝罪」して済む問題でもありません。これも、結局は、「や
ったもの勝ち」ですよ。たとえ、米国が個人に賠償しよう(十分なる賠償をしよう)と言
った(そして実行した)にしても、死者は生き返らず、原爆病は治らず、殺人事件の「や
ったもの勝ち」と同じです。そういう事例はごまんとあります。
 その意味で、

>犯罪者には寛容なんですね。
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 という、おしょーさんの感想が出て来ても仕方ないと思います。といって、米国の原爆
投下に対する責任が免罪されてはならないように、私が、殺人犯の「刑罰」を軽く考えて
いるわけではないことは、これまでも申し上げました。

>>3懲らしめるべき殺人者はもうこの世にはいないわけです。ま、死刑ということは、懲ら
>>しめが、即この世からいなくすること(命を奪うこと)なんでしょうが、どう見ても、
>>刑罰として、過酷すぎませんか。
>
>犯罪の態様によっては、過酷すぎるとはいえない場合だってあるのではないでしょう
>か。なぜ、いきなり、どんな犯罪者にも「過酷すぎる」という見解に至るのですか?
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 これについては、前の投書で「いきなり」結論に達しているわけではなく、次のように
言っているはずです。繰り返しになりますが、引用すると、

《「傷害罪」の「罰」として、鞭打ちの刑は、今日では、やっていないわけですよ。おま
えは、暴力行為で相手の眼を失明させたので、「罰」として、おまえも同じように失明
させてやるというような、です。これは、考え方として、報復ですね。
 だから、今日、もし、傷害罪による失明に対するに、その「罰」として、その犯人に失
明させることをしたら、同じ失明には違いなく、「同列」になってしまうわけですよ。
 ま、失明だったら、命がありさえすれば、眼の代わりに、耳やその他五感の代用がきき
ますので、取り返し不能とまではいきませんが、命は、その点、取り返し不能なわけで
す。絶対に。また「罰」として失明させられた者は、その後、自分の罪を悔いることも
できます。「罰」を受けてよかった、自分のやった行為がどんなにひどいことだったか
初めて分かったということもあるかも知れません。ところが、死刑にせよ、命をとられ
たものは、そのような悔い改める機会も与えられないわけです。》

 以上の説明で納得されないなら、どの点がおかしいか言っていただかないと、私には、
どの点が反論されているのか分かりません。
 また、「犯罪の態様によっては、過酷すぎるとはいえない場合だってある」というのも、
事例を上げて説明していただかないと分かりにくいです。

>>だからこそ、繰り返しますが、人の命を取ったという、取り返しのつかないことをした
>>殺人者には重罪でもって臨んでいいわけですが、それを死罪にするということは、国に
>>よる、「同列」の、報復行為に過ぎないと解釈されても仕方ないのではないですか。
>
>死刑とは報復行為であると私も思います。でもなぜそれが同列なのかなあ。
>同じ問いを繰り返してしまいます。
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 これについても、繰り返しますが、報復行為に過ぎないからこそ、「同列」になってしま
うのです。「命をとる」という、もう取り返しのつかぬ行為に相当するという意味で、「同
列」です。
 また、コソボ紛争でもいいですが、国連が、肉身を殺された遺族のために、その殺した犯
人をすべて捕らえて死刑にすると(ま、こんなことはあり得ませんが)、目指す和平なんて
どこへやら、になってしまい、結局、コソボ紛争の3番目の当事者になってしまうでしょう。
 おしょーさんが、どういう意味で、「同列」でないと感じているのか、これももう少し説
明していただかないと分かりません。

 あと、

>刑法は、犯罪被害者のために刑罰を設けているのではなく、社会の秩序を維持するため
>にあると自らを規定しています。
>しかし現実の人間社会では、人々は刑罰に対して法学の理由づけとは別の意味を付与し
>ていると思います。たとえば、犯罪者を罰することによって被害者を慰謝することが刑
>罰の意味だというように。
(発言番号16272 発言者 おしょー)

 この点については同意します。私も、判決を下す判事は、常に被害者の感情の慰謝を念
頭に置きながら、判決文を書くものと思います。それは、死刑判決を避ける場合は特にそ
うだと思います。



6,死刑は近代法制の自家撞着である
  (発言番号    :16314(発言番号16288へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/07)


 おしょーさん、こんにちは。

>つまり、命の絶対性を人の命を踏みにじった人にも常にあてはめようとするのは
>バランスを欠いた考え方だと思うと言いたいのです。
>
>kuronekoさんが述べている
>
>>人の「生」や「死」は、人間が人為で操作してはならないものと私には思われます。そ
>>のような絶対性があるものと思います。代替不能の(他のものでは代わりようがな
>
>ということに私も(もちろん)原則的に同意します。
>でも私は、他人の生きる権利を犯罪行為で奪った人は、自分の生きる権利を失うことが
>ありうると考えます。お互いに生きる権利を承認しあうことが人間社会のもっとも根本
>的なルールだと思います。生きる権利にはそもそも、他の人の生きる権利を侵害しない
>という内在的な制約があると考えます。
(発言番号16288 発言者 おしょー)

 「生きる権利にはそもそも、他の人の生きる権利を侵害しないという内在的な制約があ
る」ことについては、もちろん私も承認します。しかし、そのことによって、どうしてす
ぐに「自分の生きる権利を失うことがありうる」となるのでしょう?
もちろん、私が言っているのは、「正当防衛」とかの、個人のレベルの問題ではなく
(「正当防衛」が認められるのは、「法」が定めているとおりです)、「法」の正義とい
う観点から言って、「法」が「人の生きる権利を侵害し」てはならないと規定している以
上、「法」自らこれを破ってはならないのではないですか。
 これは、例えば、他人のプライバシーを犯した人(他人の権利を侵した人)に対して、
「法」が、お前は、他人のプライバシーを侵したのだから、お前は自分のプライバシーの
権利はないのだ、と言っているのと同じです。現行法では、そのような犯罪者に対して
も、プライバシーはこれを保護していますよね。他人の権利を奪ったからと言って、その
権利が奪われることはありません。
 これも、繰り返しますが、被害者にとって見れば、納得できないことでしょう。「他人
の権利を侵した」にもかかわらず、その犯人は、その「権利」は保護されているのですか
ら。

>私には、他人の生きる権利を犯罪のような形で侵害した人に命の絶対性を法律の世界で
>無条件に承認する考え方は、「絶対性」という言葉の整合性に拘泥した観念的な考え方
>に思えてしまうのです。
(発言番号16288 発言者 おしょー)

 私が、その意味で、「絶対性」という言葉の整合性だけで、死刑制度に反対しているわ
けではないことが分かっていただけると思います。「法」自らが、「人の生きる権利」を
奪ってはならないと規定している以上、「法」も、また、奪ってはならないものと思いま
す。むろん、人命については、元に戻らない、代替不能であるという「絶対性」があるの
で、なおさらのことです。
 そもそも、おしょーさんの言う「他人の生きる権利を犯罪行為で奪った人は、自分の生
きる権利を失うことがありうる」というのは、どういう事例の場合にあり得るのでしょう
か?
 最近起こった春奈ちゃん事件には、「自分の生きる権利を失う」事例には当てはまりま
せんよね。実際の裁判でも、犯人の女性は死刑にはならないでしょう。しかし、これも考
えようによっては、「バランスを欠いた考え方」なんですよ。なぜなら、殺された春奈ち
ゃんは全く罪もないのに殺され、「人の生きる権利」を永遠に奪われてしまったわけです
から。形式的なバランスだけを考えるなら、犯人の女性は死刑が相当でしょう。いくら、
社会的要因があっても、同じような境遇の女性は、人を殺しもせず、生きているわけです
ので。ある意味で誰にでもストレスはかかっており、人を殺してしまいたいというくらい
の憎悪を感じるのは、人生のうち、一度や二度ではないはずであり、にもかかわらず、ほ
とんどの人は、人を殺さず、自分で何とか処理して生きているわけですので。社会的要因
を言ったらキリがありません。
 では、なぜ、裁判所は、死刑にしないか。それは報復主義をとっていないこともそうで
すが、「人の生きる権利」を奪ってはならないと自ら規定しているからです。「法」自体
が「人の生きる権利」を奪っては自己撞着になるのです。だから、人権を踏みにじった(
プライバシー侵害など)犯人にも、その人権は周到に認められることになります。暴力行
為をなした犯人にも暴力を受けない権利は保護されているのです。
 だから、おしょーさんの言う、「バランスを欠いた考え方」という発想自体が現代法制
になじまない考え方だと言えます。
(また、春奈ちゃん事件の場合のように、犯罪は社会が生み出す(社会的要因がある)と
いう法哲学が現代法制の背後にあることもあるでしょう。だから、なおさら「個人」を死
刑にできない)

>私は、その「絶対性」を規範にするのは、法律が要請する「通常の一般人の社会通念」
>を超えており、妥当でないと考えているのです。
(発言番号16288 発言者 おしょー)

 おしょーさんがここで言う、「通常の一般人の社会通念」が具体的に何を指しているの
か、分かりませんでした。人を殺した犯人は「自分の生きる権利を失」って当然だという
素朴な感覚でしょうか?それとも、肉身を殺された者は抜きがたい報復感情にかられると
いうことでしょうか。しかし、これまでも、そのような素朴な感覚によって、あるいは報
復感情で、「法」による正義が実現されないのは、これまで、何通かの私の投書でも縷々
述べてきた通りです。

>>このことを分かりやすくするために、コソボの紛争の例で言うと、仮に、国連の調停
>>で、紛争が解決したとすれば、アルバニア人の、あるいはセルビア人の、肉身を殺さ
>>れた人
>
>この箇所以降でkuronekoさんが述べている点は「死刑制度」の論点というより「反戦」
>論ではないでしょうか。
(発言番号16288 発言者 おしょー)

 「法」による正義の実現と、国連の調停による和平の実現は、考え方(その論理)が、
人間の理性(実に頼りないが!)に依拠し、人間の尊厳という近代が到達した文明の叡智
に基づくという意味で、本来的に同じなので例として出したのです。言うまでもなく、コ
ソボ紛争を見ても分かるように、戦争もまた、国家単位で行う「他人の生きる権利」を無
惨に奪う行為に他なりません。そして、そこでは、肉身を殺された者の、抜きがたい報復
感情にかられた「処刑」(死刑)はいくらでも起こり得ます。



7,死刑判決は裁判官の恣意によって下される
  (発言番号    :16315(発言番号16300へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/07)


 私も、海眠さんに、横から失礼。
 私の16314は、海眠さんのコメントを読まないで、UPしたもので。
 海眠さんも死刑存置論者らしいので、2対1で、私は不利になった(笑)
 しかし、世の中では圧倒的に不利なので、仕方ないか。
 だけど、海眠さんのコメントの内容を読んでいると、反対論者のようにも見える(笑)
少なくとも、私には、私の、もう一つの死刑反対論の根拠である「量刑の矛盾」の観点
を指摘して下さっている。

>それらか、人の命を奪った者は自らの命も失うことがあり得ないとはいいていないわ
>けですが、たとえば人を意図的に半殺した場合はだれも殺していないから例外的にも
>死刑は適応しないと考えるわけですか。
>
>そうだとすると千人の目をくりぬき舌を抜き耳をえぐり手足を切り取りとったとして
>も殺してさえいなければ死刑にはならないということになりますが、それは千人の人
>間を同じように残酷な目に遭わせた上で殺した場合はおそらく極刑となるでしょうが
>それより罪は軽いわけですか。だとすると量刑の矛盾を感じますが。
(発言番号16300 発言者 海眠)

 16314では、議論が混線するといけないので、意図的に述べませんでしたが、そもそも、
「人の命を奪った者は自らの命も失うことがあり得る」ということで、どこで、死刑と
無期懲役の線を引くかというのは、死刑存置論にとっては非常に難しい問題だと思いま
す。
 日本の現時点での判例では、一人を殺した場合は、無期にし、二人を殺した場合に死刑
を適用する(場合がある)ということになっているようですが、私が16220で話題にした
国立市主婦殺害事件の例でもそのことが分かりますが、この国立の事例など、強盗強
姦、その殺し方から、陰惨極まるもので、さらに、その現場を幼い子供が見てしまった
ということから、被害者の夫は、法廷で「同じように殺したい。ぜひ死刑にしてほし
い」と訴えたそうですが、その陰惨さにもかかわらず、死刑になっていません。
 いったい、そのような、一人とか二人とか殺した人数によって、無期と死刑の線を分け
ていいものでしょうか。あるいは、二人以上殺した場合に死刑適用をするとして、その
残忍さの度合をどのように測るものでしょうか。当然、残忍とか、陰惨とかというのは
感情に関する言葉であり、これを測ることが出来るわけがありません。また、犯人の反
省の度合なども考慮されるのが裁判の現実ですが、結局、これらは裁判官の印象による
しかないわけです。そこに量刑の誤りは生じないものでしょうか。
 にもかかわらず、死刑制度のもとでは、その線をどこかでか引かなくてはならない。海
眠さんが言っている「量刑の矛盾」を現実の判例に適用すると、そういうことになるわ
けです。その「線」たるや、16314で私が述べたように、「法」自体が自らの「法」を
破ってしまって自己撞着を犯してしまう「線」なのです。また、犯人にしてみれば、無
期と死刑では天と地ほどの差があるのであって、要するに「生」と「死」を分けるもの
です。
 いったい、そのような人の主観的といってよい判断(ということは誤りもあり得るの
で、また、さらに、別の死刑反対の根拠である、裁判の誤審(冤罪)の問題も生じう
る)でもって、「法」の正義が決まり、人の「生」と「死」を分けていいものでしょう
か、ということなんですね。どうもその辺にも、死刑制度の矛盾点があるように思われ
てなりません。



8,「自由の敵には自由を与えない」という危険思想
  (発言番号    :16351(発言番号16349へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/09)


 おしょーさん、こんにちは。

>>では、なぜ、裁判所は、死刑にしないか。それは報復主義をとってい
>>ないこともそうですが、「人の生きる権利」を奪ってはならないと自
>>ら規定しているからです。「法」自体が「人の生きる権利」を奪って
>>は自己撞着になるのです。
>
>そうでしょうか。私はkuronekoさんとは「法」というものにたいする考
>え方に違いがあると思います。
>
>例えば、旧西ドイツ憲法が、思想・信条の自由を原則承認しながら、
>「自由の敵には自由を与えない」「不寛容に対してまで寛容でない」と
>いう思想に基づく条項により、ナチスと共産党を違憲として解散させた
>例があります。
>
>「自由の敵」「不寛容」を「人の生きる権利を奪った人」に置き換える
>考えは私にとっては自己撞着とは思えないのです。
(発言番号16349 発言者 おしょー)

 そのドイツも、今では、死刑を廃止したのではないですか。

 そもそも、「自由の敵には自由を与えない」という思想と、「人の生き
る権利を奪った人」に刑罰を科すということとは、法的な概念が違うの
ではないですか。おしょーさんの言うように、「置き換える」ことがで
きるのでしょうか。
 我々が今議論している「人の生きる権利を奪った人」すなわち人を殺し
た犯人は、旧西ドイツ憲法が規定する「自由の敵」なんでしょうか。そ
うではないんではないですか。
 旧西ドイツで採用された「自由の敵には自由を与えない」という思想
は、前に私が16257に書いた治安維持法的な発想の刑罰です。再度引用
すると、

《ここでおしょーさんが言っている「刑罰は社会の秩序を維持するた
め」というのは、世界中どこの国でも、古来から使われている、わかり
やすい死刑の根拠ですね。しかし、これこそ、いかに、これまで、時の
権力者が自分の政権維持のために、その反対者あるいは政権の秩序を乱
す者を死刑にしてきたかを見ると、死刑の、「同列」の殺人的要素
を証すものと言ってよいのではないでしょうか。トルコのオジャラン党
首への死刑の宣告などもその例でしょう。実際やるかどうかは、また政
治判断でしょうが。》

 そのような、日本の現在の法制下でいうと、破防法や、オウム新法に当
たるかと思いますが、そのような発想の法律が、非常に危険な性質のも
のであることは認めていただけると思います。



9,死は不可逆的なものだ
  (発言番号    :16364(発言番号16356へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/10)


 おしょーさん、こんにちは。

>でも、余談ですが、破防法・オウム新法・死刑に対する私の考えは同じで
>はありません。
>結論だけ言い放ってしまえば、破防法は廃止、オウムに対する何らかの
>規正法は現時点ではやむをえないかもしれない、そして、死刑制度は当面
>維持すべきという考えです。
(発言番号16356 発言者 おしょー)

 破防法とオウム新法の問題を取り上げるとまた、議論が拡散してしてしまいま
すので、これはまた違うところで議論するとして、おしょーさんが言う「死刑
制度は当面維持すべき」という根拠が、まだ私にはよく分からないのですが…
…。

>何が自由の敵なのか、人の生きる権利を奪った人のなかで実際に自分の
>生きる権利を喪失すべき人はだれなのか、その判定は大抵の場合に難問
>であると思います。

 これは全くその通りです。であるが故に、すなわち誤解のないように繰り返す
と、「何が自由の敵なのか、人の生きる権利を奪った人のなかで実際に自分の
生きる権利を喪失すべき人はだれなのか、その判定は大抵の場合に難問であ
る」が故に、それを裁判官でさえも過ち(判決の時に)を犯す、そのような人
間に、その「判定」が出来るのでしょうか?
 「何が自由の敵なのか、人の生きる権利を奪った人のなかで実際に自分の
生きる権利を喪失すべき人はだれなのか」などということが。
 時には過ちを犯す人間(裁判官)が、死刑判決を下したとして、無期懲役な
ら、後で真犯人が見つかって、無期懲役を取り消すことが出来ますが(相応の
賠償は必要ですが)、死刑が執行された後では元に戻れないわけです。
 また、これは、真犯人が確定している場合にも、裁判官の「心証」によって、
量刑が決まるわけですので、後に戻れない死刑は避けるのが適当ではないかと
いうことなんです。(ま、死刑廃止した後、最も重い刑が無期懲役では問題だ
という議論もあります。そこは考えねばならないでしょう。)

>でも、死刑制度についていえば、いかなる犯罪者のばあいににもその生きる
>権利を絶対に認めるという考えは、私には一種の「判断停止」ともいえる
>態度ではないかと思えてしまうのです。
>その考えが『命の「絶対性」』という言葉に縛られてしまったものでないと
>するならば。

 私は、観念的に「その生きる権利を絶対に認める」と言っているわけではあり
ません。確かにそのように受け止められても仕方ない面があるかも知れません
が(死刑を廃止すると、いかなる犯罪者も殺さぬ訳ですので、結果として生か
すことになるという意味で)、「法」自体に「人の命を奪ってはならぬ」とい
う法がある以上、「死刑制度」は自己矛盾に陥るのではないかといっているの
です。むろん、『命の「絶対性」』から、相対的な(誤りを犯す)人間は、そ
の領域に触らない方がよいのではないかと言うことも、死刑廃止の一つの根拠
ではあります。


 なんだか、水掛け論になりつつあり、私の論も繰り返しになりつつありますの
で、ここは一旦中断して(おしょーさんも死刑が「劇薬」であることを認めて
いらっしゃることだし、ま、そのうち、議論になる話題が出てくるでしょうか
ら)、海眠さんが議論に参加されていますので、海眠さんにこの席に譲ろうか
なとも思い始めましたが、コメントを書いているうちに、結局反論になってし
まった……。



10,冤罪の可能性は有力な死刑廃止論の根拠
  (発言番号    :16483(発言番号16474へのコメント)
    題名        :RE:なぜ「死刑廃止論」は大衆に支持されな
    登録日時    :99/12/25)


 空飛ぶ杭さん、コメントありがとうございまた。

> 死刑廃止論について、冤罪の可能性を否定しきれない問題を根拠に
>あげるものがありますが、しからば冤罪でなければ殺してもよいのか
>という設問をそういう論者に問い質したくなります。
(発言番号16474 発言者 空飛ぶ杭)

 ただ、団藤元最高裁判事の死刑廃止論の核心部分は、「冤罪の可能性
を否定しきれない」ということにあったようです。やはり、判決を下
す側としては、そうなんだろうなと思われます。
 かといって、はっきり冤罪ではない、本人が犯罪行為を認めている事
案は、死刑にして、本人が認めていない冤罪の可能性のある事案は、
それを減刑するというのは、法の下の平等からあってはならないこと
なので、どうしても裁判に「冤罪の可能性」すなわち誤審の可能性が
つきまとうものである以上、死刑制度は、論理的に無実の者を処刑し
てしまう可能性をはらんでいると言えるようです。
 あと、量刑の判断も、間違いを犯す可能性のある人間(裁判官)がや
ることですので、死刑にするか、無期にするか、その線をどこで引く
かは、判決を下す側の「恣意」に任されていることになります。この
点も、「何人も、恣意的にその生命を奪われない」とする『市民的及
び政治的権利に関する国際規約』第六条違反すると言われています。
今朝(12/25)の新聞(朝日)によると、最高裁は死刑の判断基準にか
なり神経を使っているようですが。それもまた、限界のある人間(神
ではなく)がやることなので、中国の死刑基準とどこが違うのか、何
だか、私には五十歩百歩という気がしました。

> 現実に起こる人殺しや、侵略者・虐殺者をどうするのかという反論
>が当然予想されます。

 それで(『市民的及び政治的権利に関する国際規約』から)、今日で
は、どんな虐殺をしたような戦争犯罪人でも、国際法廷では死刑は下
されないとのことでした。
 私には、このような『規約』は、古来、戦争や虐殺を繰り返してきた
人類の文明の叡智の結晶のような気がします。


11,被害者救済の問題
  (発言番号    :16770(発言番号16749へのコメント)
    題名        :RE:懲りない殺人者
    登録日時    :00/02/05)


空飛ぶ杭さん、こんにちは。
同じ死刑反対派として、とても参考になりました。

> タックスペイヤーとしての主権者たる国民は災害や不慮の
>被害に遭遇しないよう保障を国家の諸制度に求め、万一遭遇
>した場合に損害賠償を国家に求める制度を確立する必要があ
>るでしょう。また、補償した国家は加害者への損害責任請求
>の権利を有します。
>
> もちろん、そういった問題だけで被害者遺族の心の問題は
>解決するものではありません。精神的なケアも含まれるもの
>と思います。また、時が経たないと薄まらない悲しみや怨み
>もあるでしょう。犯罪被害でも、完治する傷もあれば、瘢痕
>となって一生消えなかったり、失ってハンディキャップとな
>る場合もあります。
>
> 元には戻すことのできない被害の慰謝は、国家による補償
>が最低限の前提です。これを放置したまま死刑制度の存続が
>何か解決しているような幻想を抱いてしまいがちですが、何
>も補償していません。
(発言番号16749 発言者 空飛ぶ杭)

空飛ぶ杭さんのおっしゃるとおりですね。正論です。

これに、少し補足すれば、確かに、現在、裁判官は「被害者の
慰謝」を考慮に入れて、死刑を宣告するという要素もないとは
言えませんが、しかし、実際は、被害者の遺族は、加害者の死
(死刑)をもって、「何か解決し」たかのような「幻想」を抱
くに過ぎないのです。死刑によって、何か慰謝されたような錯
覚。これが単なる錯覚であることは、少し考えれば、見やすい
心理だろうと思います。


12,(補足)被害者救済の問題

(以下は、フォーラムに発表したものではありませんが、空飛
ぶ杭さんの上記の引用で、納得されない方のために、簡単に補
足しておきます。)


 空飛ぶ杭さんは、殺人事件を、被害者から見た場合、「災害や
不慮の被害」と同等のものとして考えるべきもの、決して、殺人
を犯した犯罪者と、被害者の当事者だけの問題として捉えてはな
らないものと述べています。
 現在の裁判制度において、殺人犯を処罰することは、「仇討ち」
のような報復行動を戒め、社会正義を社会に示すことです。判決
の中で、「被害者の慰謝」が考慮されているとはいえ、肉身を殺
されたという、甚大な被害を被った遺族にとって、判決による「
被害者の慰謝」のみで、その被害は償いようがないというべきで
す。それは、今日の、自賠責制度が整った交通事故による被害や、
その他の不慮の事故による被害が、一応、国家社会による損害補
償制度が整備されているのに対し、殺人事件の加害者に賠償能力
がないからといって、その加害者が「重めに」処罰されること―
―「被害者の慰謝」を考慮した判決のみで、被害者の甚大な被害
が放置されてよいはずがありません。
 先日、地下鉄日比谷線の脱線事故がありましたが、その事故原
因の究明と再発防止策の問題、それに基づく事故の責任追及の問
題と、被害者の補償の問題は、そもそも別問題、別立ての問題と
して考えられているように、個人による殺人事件の場合も、殺人
の動機の解明、事件を誘発した個人的要因、そしてその社会的要
因の究明と再発防止策、個人の責任追及と処罰の問題と、被害者
の補償の問題を別立てで考えられなくてはならないものです。い
たずらに犯人憎しの感情論で、犯人を厳罰に処すること――死刑
にすることで、「被害者の慰謝」の問題が処理されてはならない
ものと思います。それは拙速以外の何物でもありません。そして、
そのような感情論的な処理の仕方は、殺人事件を引き起こした原
因の究明、その個人的要因と社会的要因が十分に解明されること
を阻害し、結局は、事件の再発防止に繋がらないものと思われま
す。
 その意味で、今日、社会的に影響のある殺人事件において、裁
判の長期化を批判する意見がありますが、裁判が、事実上の事件
究明の場である以上、十分なる審理の時間が保証されてしかるべ
きです。個人的、社会的原因の究明をまって、犯人の処罰が決定
されて初めて、社会正義が実現されたというべきです。被害者補
償の問題は、別立てで、肉身が殺されているという事実をもって
ただちに国家による補償制度により、その被害は償われるべきも
のと思われます。            (00年5月24日記)





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