思い出ばなし5 掲示板のお話、見逃したまま消えていった、、そんなことさせません!みなさまのお話で甦る、このちゃん像です。
でも、困る、極秘だから、という方はご一報くださいませ。

「思い出ばなし1」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。最初のタイトルで飛べます。あとの2つは、その1、2つ先にあリます。
噂の殺陣に目を丸くした! 月影兵庫のころのインタビューは、 月影兵庫のころのインタビューその2
不遇の剣士、近衛十四郎! CM親子共演 CM親子共演の裏の悲しいお話
鯉自慢 鯉騒動 近衛邸?
アフレコは苦手 しかし、剣さばきは随一! 刀の重さ=3kgだってだす! 
目黒さんが語るには(サンテレビ’95年)  クルミ疑惑 お気に入りの殺陣師
「素浪人」の相棒といえばこの人! このちゃんの素顔を聞いた半時 引き続き、東映太秦映画村・近衛レポ
またまた、東映太秦映画村・近衛レポ ワイドショーのこのちゃん 不器用な生き方
ある晩の写真 「おもいっきりテレビ」のこのちゃん25回忌 「おもいっきりテレビ」その2・刀
戦前の目黒家・東京 生年月日はいつ? 映画界復帰についての推測
でも、やっぱり先輩の前では緊張? 素浪人シリーズの終わりと芸能界引退の理由 引っ越しマニア
松方さんが語る思い出 「怪談 お岩の亡霊」の直助権兵衛 松竹時代に見抜かれていたコメディー資質
ご自身が語る人生 大好きな釣りの時も、さすがプロ! 芸名の由来
クールな品川さん 右太衛門さん親子とこのちゃん親子 愛弟子・阿波地大輔さんのお話
「いつみても波瀾万丈」での目黒さんのお話 目黒さんの著書の後書き「オヤジの弁」 松方さんインタビュー(「星にスイングすれば」より)
「松方弘樹いいたい放談」より 上原げんとさんと松方さんと五木ひろしさんと 「ぶらり途中下車の旅」で目黒さんのお話
親父は厳しかった 松方さん目黒さんの思い出ばなしなど1〜8
「思い出ばなし2」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
ちょっと話しにくいこと 厳しい! 釣り堀の名は「釣り天国」
殺陣のうまいのは 品川さんが語られた思い出 目黒さんとの初共演
目黒さん出演の「ごきげんよう」 迫真の演技は本当に痛かった! 川野知介さん&小指のツメのこと
「我が人生に乾杯!」での松方さんのお話 品川さんにとっての半次は 小西博之さんのお話
十兵衛役目黒さんの決意   大都時代の近衛邸と撮影所 「俺は用心棒」ゲスト出演の経緯
目黒さんの十兵衛衣装、「月影兵庫」最高視聴率、「ローニンサムライ」、松方さんの殺陣評 誰が一番殺陣が上手いと思われますか?の問いに
映画界復帰作品と松竹端役の頃 「浪漫工房」の松方さんインタビューで  沢田音楽学院発表会(’04)での品川さんレポ
二度の召集の意味 大都移籍直後、時代劇ポスターの中で紹介される 丹下左膳をやらせたい俳優
錦之助さんとの関係 寄付に大枚だされてびっくり 殺陣師・上野隆三さんのお話
京都映画祭・目黒さんと山内監督のトーク 京都映画祭レポ2 京都映画祭レポ3
一時保存資料 カラミ役に斬りかかる殺陣 大都映画の意義
柳生十兵衛の片目と殺陣について 「博徒対テキ屋」の楽屋おち このちゃん譲りの目黒さんの性格
にしすがも活動写真館レポ 品川さん最新インタビュー 金子吉延さんから伺ったお話
松方さんのコメント(歌謡番組ゲスト) 小野監督の切ない思い出ばなし(1) 小野監督の切ない思い出ばなし(2)
「俺は用心棒」第一話のエピソード 沢田音楽学院発表会(’05)での品川さんレポ 福本清三さんのお話
「花山大吉」リメイクの複雑な思い 近衛さんとこの坊や S20年代ごろのご近所
「アニー」の楽屋で 「天下太平」の原題 釣り堀
萩原流行さんが語ったこのちゃんの殺陣 かなりの子ども好きだった 「柳生武芸帳」への意気込み
「大都映画撮影所物語」 母子のいいお話 満点!パパ
東映歌舞伎「油小路の決闘」と長年の想い 藤純子さんのお話 愛のキューピット?!
「華麗なる一族」の猟銃は・・ お茶目な一面 デン助さんとの親交
『全員集合』のライバル 長嶋番記者とこのちゃんの関係は? 『覇剣―武蔵と柳生兵庫助―』縄田氏の解説
松方兵庫を演じるにあたって チャンバラトリオ・山根さんのお話 近衛十四郎の弟子?
親子で斬りまくる近衛・松方 京都市民映画祭の記事3つ 猟犬がほしい
「思い出ばなし3」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
『城取り』の桝田利雄監督が語る近衛十四郎 おからと言えば・・・ 『寄席放浪記(色川武大著)』より
「ぴったんこカン★カン」の松方さん 「テレビ探偵団」の朝潮関 森田新さんインタビュー
「わが街 わが友」より 「戦国の剣豪」上映会レポ いろんな写真のお話
「近衛松方対談」 ある夜の品川隆二 剣聖小川金之助とこのちゃん
殺陣の工夫 「ぶらり途中下車の旅」その2 骨の髄まで剣豪だった
殺陣師 伏見の釣堀で 「意外に評価が低い近衛十四郎の実力」
抜き打ちタイムNO.1 病後に出た味 3代つながった「君を信ず」
「一場の夢・・・」より 「東京人」より 「月影」放送時の品川さんインタビュー
松方さんの座長公演時のケガ 少年の思いは・・ 星を喰った男
別冊近代映画「ひばり捕物帖 折鶴駕籠特集号」 福本清三さんインタビュー かなわぬ夢
水の江瀧子さんの訃報で 「開運なんでも鑑定団」に出た刀 素浪人シリーズの影響
目黒さん親子インタビュー 北島三郎公演(’10・6〜7)で 松方さんの楽屋の写真
「十三人の刺客」の松方さんは 品川隆二さんトークショー 目黒祐樹さんトークショー
松方さんの額の皺 北沢典子さんトークショー 上野隆三さんトークショー
もうひとつの「浪人独り旅」 「超近現代史3」で 清水一角と柳生十兵衛評
実現しなかった近藤勇役 ディープピープル「時代劇をいろどる殺陣」 「ごごばん!」でのお話
テレビ時代劇60年の軌跡 高田宏治先生トークショー 生まれ故郷西新町の今昔
「思い出ばなし4」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
近衛十四郎逝去報道と忘れられない殺陣 面影を求めて 「アフタヌーンショー」の葬儀レポート
知らされなかった訃報 かつての同僚、水島道太郎さんのコメント 松方弘樹さんのお話
葬儀の日は仕事を休んで  高田浩吉さんのお話 週刊各誌の訃報記事
新聞各紙の訃報記事 お墓と天国池のこと
「思い出ばなし5」のタイトル(一部タイトルは短くしてます。)
「大宅壮一のおしゃべり道中」 近衛十四郎一座のころ 「十兵衛への愛着」
「親の私が言うのもおかしいけれど」 松竹時代のインタビュー 「喧嘩も我が青春のスポーツ」
ちょっと遠慮がち?な座談会 松方さんデビュー当時の話題、2つ 素浪人の頃
ご夫婦の歴史 写真記事4つ 「スタジオパークからこんにちは」目黒さんのお話
「落語時代Vol.2]の品川さん オニワバン!(時専ch)で ご近所の品川さん
「スタジオパークからこんにちは」の松方さんのお話 甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集 ”剣豪”近衛十四郎の子弟愛
近衛邸を垣間見る写真記事 「時代劇まつりin巣鴨」 趣味も豪快だった
小野監督のこと 東映のシステム 殺陣についての自負
スタッフから付き人へ、そして俳優へ 「スタジオパークからこんにちわ」のはなさんのお話 レジェンドトークなど
大吉・半次の声帯模写 近衛邸を訪ねる 小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき
「時代劇オニワバン」品川さんインタビュー 京都映画祭レポ(2015年) 「市川、近衛のデビュー時代」より
「近代映画」の松方さんの記事より 「時代劇は死なず・・」でのこのちゃん評 釣り堀・天国での記念写真
「ファミリーヒストリー」 「ザ・インタビュー」 「徹子の部屋」(2017年6月)
『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 「ザ・ドキュメンタリー〜松方弘樹」 ラジオ深夜便(2018年3月)
ラジオ深夜便(2018年6月)


「大宅壮一のおしゃべり道中」 (「娯楽よみうり」昭和33年5月2日号より


●「地平線(’39年10月大都)」の制作ばなし
(大宅さんは、このちゃん主演の「地平線(’39年10月大都)」の原作者。蒙古ロケに一緒に行かれた。)
大宅:撮影をやった大都映画というのは、あきれたところだったね。とにかく映画一本つくるというのに千何百円しか持ってこなかった。・・・製作費から宿泊費からなにからなにまで一切含めて千何百円。いくら物価の安いときだからって、君、映画一本作るのに千何百円とは驚いた。
近衛:たしか北京までの汽車賃が六十何円かのときでした。
大宅:だからみんな現地調弁ですヨ。軍から車かウマなんかも貸してもらったりしてねネ。それでとにかく一本作ってきたんだからネ。よく無事に帰ってこられたよ。まあしかし楽しいといえば楽しかったな。
●実演のはなし
近衛:太平洋戦争が激しくなってフィルム統制の激しくなった時代に映画をやめまして・・・・合併とになって大映という会社になったんです。それで会社としては京都へ行けって言うわけですヨ。ところがフィルムはすくないし、京都へ行ったら偉い先輩がたくさんいるし、これはとてもじゃないと思って、実演を組織したんです。やっぱりそういう不平組がいたんで、それを集めましてね。それ以後実演を十年間・・・。もうとにかく十年間ですから北は北海道の利尻から南は九州、五島列島までいきました。不思議と行かなかったところは長野、山梨、鳥取、島根の4県です。
(巡業では、暇がなくて”品行方正”だったというお話に続いて、一座の構成について)
近衛:大都映画の連中と浅草なんかの腕の達者なのを2,3人入れまして、かなりがっちりした座で出発したわけなんです。退職金がありましたから、女房と二人の分を全部投じまして座組みをしたんです、十年後くずれましたけど、一時映画があまりふるわないんで、映画界から実演を組織して出たり、またそれを解散して映画に帰ったりした時代がありましたね。結局それを最後まで押し通してきたのは私一人だった。大体僕としては、一辺出た映画には帰るつもりはなかったんですが、、例のストリップにはどうしても勝てないんですよ。浅草で僕らの方はガラガラなのに向こうのストリップは列を作っているとう工合いで・・・。
大宅:それは戦後?
近衛:戦後兵隊から帰って来てからです。
●戦時中のはなし
近衛:(兵隊で)1年9ヶ月ほど行ってきました。・・満州です。朝鮮の羅南から行ったとたんに終戦になりまして、すぐ捕虜になったんです。捕虜の時はひどい待遇で、代表的な病気は全部やりましてね。栄養失調はもちろん、壊血病、発疹チフス、それに頭が狂うヤツがありまして、とにかくひどかったです。(*ファミリーヒストリーによると、昭和20年3月〜昭和21年10月の1年8月)
大宅:それはシベリアで?
近衛:いえ、満州です。延吉です。(そのからシベリア連行は)芝居をして逃れたんです。僕はここで連れて行かれたらかえれないと思ったもんですからね。それで向こうで健康状態を調べるんです。ところが向こうの医者というのはひじょうにデタラメなんです。皮膚をつねってみるだけで決めちゃうんです。(いたそうな演技をした?)そうなんです。あそこは食事といったって大豆ばかりなんですが、それも喰わずにいたりしましてね。やっぱり実感が出ないと行かぬというので、腹を減らしてとうとう逃れたんです、シベリア行きは。ですから割合に早く帰ってきました。
(そこからまた実演で「武蔵」や「石松」などをはじめる。)
大宅:台本は自分で作るんですか。
近衛:いえ、文芸部がふたりほどおりましたので・・・。(原作は)ほとんどかわらなかったですね。吉川英治先生の本が三本くらいありました。「一乗寺、巌流島の決闘」「般若坂」「二刀流開眼」などですね。
●ホンに困ったはなし
近衛:同じ所に2回も3回も行くことがありますから、そうすると前にやったものはちょっと困るわけです。それに「武蔵」とか「石松」の再演を望まれる場合もありますけど、良心的に新しいものを出したいわけですから・・・。
大宅:別に台本通りにセリフをいうわけじゃないでんでしょう?臨機応変にやるんでしょう?
近衛:いえ、僕は絶対それを許さないんです。自分も覚えるが、座員にも絶対覚えさせるんです。(台本は)がっちりしたものを作るんです。大体、二、三日は稽古しますから、そんなにひどい間違いは起きてこないです。
●実演の失敗談
近衛:(師匠の白井戦太郎が)いろいろ調べて「坂本竜馬」を書いてくれたんですが、それで揚幕から刀を持たずに出たことがありまして舞台に出てしばらく進行したところで、気がつきまして困ったことがあります。持っていた短銃でどうにかごまかしましたけど。
大宅:「誰かもってこい」とか言うセリフを臨機に入れるわけにはいかんですか。
近衛:それはちょっと・・・。
(奥さんもいっしょだと憲兵隊つきのようなものという大宅さんのお話のあと、話題は映画界に再度入ったことに)
近衛:なんとか僕だけ意地張り通して実演をやろうと思ってましたけど、結局だめでした。ですからカムバック組の中では、現在各社を通じて僕が一番後輩ですよ。
●右太プロのころ
(生まれ、同郷人の話のあと)
大宅:それじゃあなただけ東京にでてきたんですか。お父さんやお母さんは?
近衛:私一人です。おやじは小さいときに亡くなりましたから・・・。
(そこから右太プロの研究生募集に応募した話、右太プロの菖蒲ヶ池のステージがその後売られて全焼になった話のあと)
近衛:研究生ですから全然(役は)ありません。それこそマユ毛の引き方なんか習っていたんですから・・・。
●大都へ
近衛:白井のおやじが何遍も京都へひっぱって、右太プロから日活へいれてもらってそこに1年ほどおりまして、それからおやじがああいう気性ですから、独立しようというんでマキノというところへ亜細亜映画というのを作って独立したんです。そこで3本ほど撮りましたけど、おやじが映画より競馬の方が面白いらしいんで、そこへばっかり行っちゃったもんですから、それで解散して大都へ入ったんです。僕らが大都へ行ったときはあれで良くなったと言うんですけどね。他社へ行くとか辞めるとかいうと、ピストルで取り巻いたとか、とにかく右翼団体で、淡徳三郎というのは顔役でしたね。
あのくらいもうけた会社もなかったですね。とにかく一週間か十日でしあげちゃうんですから。雑誌かなにか見て。ぱっと切って、それを監督に渡して、これを撮れ。
(自分の関係者を連れてきて映画を撮るという同族プロダクションだね、という話のあと)
大宅:巣鴨にプロダクションだかボロダクションだか分からないのがありましたね。
近衛:ええ、刑務所みたいなのが。
(大宅さんがジャーナリズムから初めて大都の映画作りを目の当たりにしたときはびっくりしたという話になって)
大宅:千何百円で一本作るんだから、どう考えても・・・
近衛:しかし、あれは蒙古だけで一ヶ月かかりましたね。
大宅:ところで今何をやっておられますか。
近衛:この間「江戸群盗伝」という6本目の主演映画があがりましたので、もう長いこと東京へ来なかったもんですから、ちょうどいいと思って・・・。
(もう映画界も長いですね、というお話)
●実演と映画の違い
(普通のスターより経験がある分、こうかがあったのではという話から)
近衛:苦しむばっかりでしたけど、でもやっぱりね。無理しちゃ行けないと思って実演でも僕は割合に生地にしてやっていたわけです。
大宅:映画の演技と実演の演技というのは、どこが違うんですか?
近衛:僕は実演の場合は、相当荒れるんじゃないかと思うんです。
大宅:露出過度というか、アクションがオーバーになるんですか?
近衛:もちろんそうなりますし、客をつかもうとする意識が働きますね。座長としては責任があるし、座員を養って行かなきゃならぬ。ですからどうしても客にこびたような芝居をすることになる。そんなことが映画に帰るときとても怖かったんですけどね。自分はそれを避けていても、知らず知らずのうちに身に付いているんじゃないかと思うんです。でも映画に入ったら思ったより演技荒れないですね。
大宅:あなたはやっぱり奥さんがついていたから、あまり荒れなかったことが1つの救いであったのかもしれないね。(一度きついところへ行き着いてまた出てこられた人は強い、やがて、右太衛門さん、千恵蔵さんが退く時代で、42才のこのちゃんはまだまだこれから、やりたいことは?という質問に)
近衛:仕事です。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


近衛十四郎一座のころ (「警察時報 「近頃土根性巷談聞書(十七)忍と努力で華咲く再起」」1979年10月放送作家・松浦善三郎より)

(前略)「私が近衛十四郎と初めてあったのは、戦後の不安な社会情勢がまだまだ落ちつかぬ二十七年の後半あたりであったろうか。・・・当時彼は、”近衛十四郎一座”を率いて、浅草公園六区の「百万弗劇場」で1ヶ月の公演をしていた。「百万弗劇場」は浅草六区といっても通称国際通りの方に面し、その国際劇場の斜め右手前に戦後作られた木造の芝居用の小屋である。」と始まる。
・・・・芝居小屋の由来に続いて・・・近衛十四郎一座がここにかかった頃は、劇場側としても気合の入っていたころで、劇場前のビラや絵看板も華々しく、たまたまこの前をとおった人も、「あれ?近衛十四郎?まさかあ?}とつぶやきながら入場券を買うという按配。
その頃のこのちゃんは、敵役として通の中では人気があったが、「セリフがはっきりしないのでトーキー全盛と共に多少疎まれる傾向が出てきた」が、軍国主義の世の中で映画スターなどに構っていられないご時世に。このちゃんも忘れられつつあったが、そんな中で浅草の舞台に現れたのは、びっくりすると共に、なつかしく思われた。
芸能関係の仕事をしていた筆者のもとには、その頃、浅草の小屋に出演する漫才(芝居の合間にサービスで一席ご機嫌伺いをやっていた)が「ネタをきいてくれ」とやってきていたが、「芝居は誰?」と聞くと、「それがオドロキ、往年の映画スター”近衛十四郎”」「え?”近衛十四郎”・・・生きていたのか」「自分で一座を組んでいい芝居やってますよう。それでね、『ぜひ一ぺん見に来てもらいたい』といってます」「僕にか?・・・・なんで?」「芸にうるさく、すごく厳しい批評をする人だと話したら、一ぺんあって、ディスカッションをさせてもらいたいって」ということになって、行ってみたそうだ。
「行ってみて驚いた、さすがに戦前時代劇映画で名を売った近衛十四郎だけあって・・・敗戦後の萬物みな不足の世の中にあって、かつらから衣装から持道具の端々に至るまですべて自前で、しかも本格的に結構な品を取揃え、座員も二十四、五人という大一座、『天保水こ伝』のうち「勢力富五郎鉄砲往生」を大熱演する舞台は大いに受けていた。
幕間でこのちゃんにあった時の印象は、「特徴のある大きな澄んだ目、筋の通った形の良い鼻、引き締まった唇、ドーランを落とした色白の顔は、見れば見るほど好男子」で派手な浴衣楽屋着を着ていた。
これじゃあ経費がたまらんでしょう?という質問に、「はい、』持ち出し(赤字)です・・・でもそれを覚悟でやってるんです (略) 実は、戦争で私たちは皆さんに忘れられてしまったので、こうやって近衛十四郎健在なりを多くの人々に知ってもらいたいと思いまして・・・ええ、そうすればいつの日にか、映画に復帰する機会がつかめるかもしれないと・・・」
筆者の松浦さんは、ずばり、そのためには「口跡を直さなければダメ、セリフが口ごもってしまってはっきりしない」と切り出す。「その通りです。ですからこうして実演をやているのもそのための勉強もあるんです。舞台ですとお客の反応が直接響いてきますから」その時のこのちゃんは「切々と心情を吐露するその態度は、まるで新人俳優の如く真剣そのものであった」その後、3回、ディスカッションを重ねた。
その後、「じっくりと芸談をやりたいと思いまして」と、迎えを寄越したこのちゃんは、北区(略田端か滝野川あたり)の自宅でビールを進めながら話す。「日差しの暑い日で、一座のヒロインをつとめる美人の妻君が歓談の間、始終手を休めずに団扇であおいでくれたのが何よりの馳走であった」
(さて辞去しようとする時、)彼は、きちんと正座をして両手をつき、例の大きな目からそれこそ涙を流さんばかりに「どんな端役でも結構です。映画の方へ帰れますようお力添えを願います」と、(松浦さんが特に映画界にコネはないと知っていながら)深々と頭を下げた。部屋を出ると、ランニングシャツとパンツ姿の日焼けしたおとなしそうな坊や(=のちの松方弘樹さん)が「お辞儀をして」というこのちゃんの言葉に恥ずかしそうに黙って頭を下げた。
それから半年たって、松浦さんはすっかりこの映画界復帰のお願いを忘れていたころ、「京都にて 近衛十四郎」というペン書きのはがきを受け取る。「お陰様でやっと出場の機会を得まして」という言葉に早速その映画を見に行くと、映画にはらしき姿も見えない、このちゃんの名前もでない(心機一転、芸名を変えたか?)、目を皿にしてみていると、なんと、御用御用のとり方の一人で、「皮肉にも、監督が前官礼遇(?)したのか、一瞬、彼だけにカメラが向けられ、十手を振りかぶって主役めがけて「御用っ」と踏み込んだもののバサッと切られておしまい・・・」怒りにも似た惨めな気持ちと、「あんな酷い役でも喜んで出演した彼の根性は立派だ、よく我慢したと、飛んでいって手をとって励ましてやりたい気持ち」が入り乱れながら映画館を出た。
それから2ヶ月後、「役がつきました。ぜひ見てください」というはがきが来る。タイトルには「武士一、二」の一人に近衛十四郎とあり、その登場シーンはこうだった。「さる武家屋敷の門をくぐった武士一、二が、玄関先にたって案内を乞う。奥から主役が現れると、二三のやり取りがあって、武士一、二、矢庭に抜刀して主役に斬りかかる。が、主役の白刃一閃、一、二はあっさりと右と左に斬り倒されてしまう。」その間30秒ほどで、ちょい役には惜しい貫禄だった。(略)
それからとうとう、このちゃんの名は昔日の準主役の扱いを受けるまでになった。自力で勝ち取った執念のカンバックである。
更に、テレビ全盛時代に「素浪人 月影兵庫」と続き、近衛十四郎の人気はついに戦前を凌ぐに至ったのである。(略)(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「十兵衛への愛着」(「人物往来歴史読本」 ‘64年12月号)

戦国時代とかいつの時代とかは別にして、私が実際に調べ歩いてではないことなので、どうもハッキリこれがこの時代一番強くてこの人はこんな実力とこんな生き方をした剣客だったと言い切ることは笑い事になりそうだから、先ず自分の好きな剣豪とか剣客を思い浮かべながら自分勝手なおしゃべりをしているのだと言うことを知っていただきたい。
先ず戦国の剣豪と言うことだから、私の好きな剣豪、これはすごく沢山で、枚挙にいとまがない。と言うのもこの時代、つまり戦国時代は剣とか、一筋の槍で一国一城の主になれた時代なので大変結構な時代だったと思う。もし私(近衛十四郎)が戦国時代に生まれていたとしたら、最高の剣客を夢見て、寸暇も、いや夜も眠らず剣の道、槍の道、武芸百般の修練に終生を過ごしたことと思う。
戦国の剣豪と言えば、いやすべての時代を通じてと言っても過言ではなかろう。不世出の剣豪これはなんと言っても上泉伊勢守信綱を上げたい。これを主人公とした連続テレビ映画「戦国の剣豪」(主演嵐寛寿郎さん)がある。現在放送中だが、大変好評のようだ。最終の十三話に出演交渉を受け承諾した。私の役は剣豪ではないが、小田原の城主北上氏康で、伊勢守と最後の一騎打ちになるのだが、わずかに伊勢守が勝っていたという設定である。
劇・構成とはいえ、虚疑で形成された剣客では矢張り抵抗を感じる。伊勢守という剣豪を相手に、互角に剣を交える人は、先ずなかったろうと思う。
そのあとに現れた宮本武蔵にしてもどれほどの人物であったか、実力如何は見る人によって大きな違いがあるように思うし諸説まちまちである。ずいぶんPRのうまい浪人であったらしい。また勝つためには卑劣な手段も平気でやってのけ、正当な武芸者として名を列するに値しないものだとも言われている。
吉川文学によって、世に出た宮本武蔵の人間性は強く一般に知れ渡った。多くの人は野人武蔵の魅力にとりつかれた・・・私もその一人である。
吉岡清十郎にはじまる蓮台寺野。伝七郎との三十三間堂、吉岡一門と一乗寺下り松等における決闘、そして佐々木小次郎との巌流島等、私は十年に渡る舞台生活を、武蔵をこよなく愛し研究し、武蔵が剣の修行で歩んだ道を、数百年後私は、また彼の歩んだ棘の道を偲んで、真剣と竹光の大きな違いはあっても、きびしい芸の道に邁進したのである。
武蔵のことはさておき、昭和29年映画界にカムバックしてまもなく、松竹で与えられた「柳生十兵衛」。これはまた武蔵とは好対照である。剣聖といわれた上泉伊勢守信綱の高弟、柳生石州斉を祖父とし、但馬守の嫡男として、徳川将軍家のために青春を犠牲にし、剣をとってはその時代に並ぶものなき剣豪とうたわれた。その豪快無比な太刀筋は、現代に通じる男性的魅力がある。
松竹から東映に移り現在まで11本、シリーズを重ねていくうちにいつか現実と混同してしまうほど愛着を覚えるようになった。
この片目というのもすごく愛嬌がある。先日五味康祐氏と歓談のおり、十兵衛は片目のため、初太刀は弱く、にの太刀で必殺という剣法をとったと聞いた。強いと思っていた十兵衛のイメージの中からいわゆる今迄の類型的な英雄ではなく、ウィークポイントがあったということは、十兵衛がいかに片目のハンディに苦しみかつ錬磨したかが想像され、私の演じている十兵衛に身近なものを感じさせられた。
永々と稚拙な文章、淺学非才で恥ずかしいが、お許し願いたい。
「我が生涯竹光と共に」(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「親の私が言うのもおかしいけれど」(「女学生の友」‘61年8月号)

タイトルが示すとおり、以前は「男なら人に負けるな」という教育方針の下、ご自分はもとよりご家族にも余計な手助けはしないようにといいつけられていたのに、最近は「弘樹くんのことさえ話していれば、オヤジさん機嫌がいいんだから」と言われているこのちゃんによる松方さんのお話。時代劇に対するお考えなどもちらほら垣間見えます。
小さい頃は変に我慢強いところがあって、このちゃんが実演から映画に戻るときに、財を売って借金をして映画を作った頃、生活は苦しく、今迄のように小さなものでも子供に買ってやるという事が出来なくなったが、松方さんは、まったくぐずることがなく、かえって、それがいじらしく思えた。
5〜6年生のころは、プールに松方さんを放り込むようなスパルタ教育(一夏でカッパに)を続けていたが、ガキ大将になっていく。ただ、弱いものいじめをするというものでなく、クラスの意見をまとめて引っ張っていくような統率力のあり、「子供たちの間に人望があったことは確かなようです。」
その後、プロ野球選手になるという夢は「プロ野球の世界は簡単なものではなさそうだ」とあきらめさせたが、高一の時、歌手になりたいと言ったときには「子供が自分の道を自分で切り開こうとしているときに、親がそうそう邪魔立てするべきではないと思ったから」反対はしなかった。
松方さんが一人上京し歌の勉強をするうちに、東映の大川社長のめにとまったが、「この仕事のむずかしさは私自身が一番よく知っていますし、小さいときから見慣れているせいか、映画スターという柄ではない」と心配だった。しかし、「オヤジよりずっといい声だよ」などと言われると、「そこは親バカで、自分も俳優のくせに、そういわれればそうかな、とうれしがっている始末です。」
時代劇に進んだころは、このちゃんから教えてもらえるのではと思っていたようだが、このちゃんは「わざと何も教えませんでした。・・・私が持っているものは私が長い間積み重ねてきたもので自分ではそれに誇りをもっているが、若い者がそれをそのまま学ぼうとすれば、かえってマイナスになる。弘樹は弘樹で、現代劇と時代劇の違い、時代劇の型などというものを意識せずに、十八歳の若さをそのままスクリーンにぶつけた方がいい、若い人のための時代劇は、そこから生まれてくる、こう思ったのです。・・・例のサウスポー剣法なども、私が教えたわけではありません。かえって私が手を取って指導していたら、ああいう新しいものにいつまでたっても到達できなかったのではないかと思います。」
十八歳の松方さんは、自分の問題は自分で解決するという大人っぽいところもあれば、国体に出られるような腕前という鉄砲に連れ歩く飼い犬のしつけが悪いと、このちゃんにくってかかるような子供っぽいところもあり、撮影所でも、おえらがたにも裏方さんに対しても、同じ口の利き方をするので、「若造のくせに頭が高い」と陰口をたたかれているが、「これなどは、妙に処世術のうまい大人になってくれるよりどれほどいいかしれないと、親バカの私は内心ハラハラしながらも喜んでいるのです。」
今、松方さんのために家を建てているが、自分の好みを何一つ注文しない。「『オヤジがたててくれているんだから、オヤジの好きなようにやらせてやらなくちゃ悪いよ。自分の好きな家は、そのうち自分で稼いだ金でたてるさ。』それを聞くと、親バカの私は、『うむ、なかなか見上げた了見だ』など悦に入っているのですが、一方では『金の出所がどうだろうと、弘樹のためにたててやっているのだから、注文ぐらい出してもいいだろう。バカなやつだ』などとブツブツ言っているのです。どうやら私たち親子のようなのを“親バカ子バカ”というのかも知れません。」(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


松竹時代のインタビュー(「近代映画」‘59年10月号)

「スポットライト」と題して、大友さんと対のインタビュー。
―最も苦しかった時代は?
亜細亜映画プロを興して独立した頃が、経済的にも精神的にも最も苦しかった時代でした。白井戦太郎監督に厳しく鍛えられ、これだけ好きな俳優をいっそやめてしまおうかとさえ思いました。「大根」「バカ」呼ばわりされ。愛情のムチで徹底的に教え込まれました。
―ロケで思い出に残る場所は?
終戦後劇団を作って巡業をしていましたが、自分の金で一本映画を作ってこれを土産にカムバックしようと考え、故郷の長岡へロケした時です。主演しながらヒマを作っては自転車で資金集めに走り廻りようやく三千フィートカメラを廻したのですが、結局金が続かず中断、今でもネガが残っていますが、苦闘時代のロケ地として強い思い出が残っています。
―松竹のカラーについて?
若い俳優を育てるにしても、悪い言い方をすれば根気がないというのでしょうか、諦めが早く思いきりが良すぎます。ある程度の犠牲を払っても押してやれないものでしょうか。企画にしても猫の目のようにかわりファンもついてこられないんではないでしょうか。
―どういう作品をお望みですか?
松竹では最初は仇役でスタートしましたが、今ではあまり仇役はやりません。そうかといってきれいなものは僕のものではなく、汚れた体ごとぶつかれるものをやってみたいと思っています。じっくりかまえてぶつかれるもの、痩せるような思いの役にぐっととりくんでみたいんです。例えば、現代劇なら背広を着るものでなくアクションものか兵隊ものなどですね。
―ファン気質について?
昔のファンはいつまでも応援してくれたように思います。と言うことは今のファンが移り気だと言えましょうか。今でも子供がお嫁さんにいくような年になった昔の方が手紙をくれます。もっとも今ではどんどん若い俳優がでてきますし、昔と映画界の状態が違うので仕方がありませんが。
―お子さんの教育方針について?
あくまで本人の意志に任せます。上の子は上原げんと先生について歌を習ってますし、下の子は東映さんが映画にどんどん出るように言ってくれますが、本人が学校があるからというので無理強いはせず、本人が納得したので出るようになりましたが・・・すべてのことは本人の意志と家族会議で決めるようにしているのです。
―健康法について?
まず寝ることです。だいだい8時間の睡眠が理想ですが、日中でも暇さえあれば休みます。スポーツは野球、ゴルフ、鉄砲、なんでもやります。特に冬は山を歩きまわるのが一番です。水泳などは今でも子供に負けないほどやります。
―恐妻度について?
実演時代に相手役に困らなかったのも女房のおかげ、貧乏時代にも愚痴ひとつこぼさず、性格的にも明るく尊敬もしているし愛しています。こういう気持ちからの恐妻でワンマンと言われますが、このワンマンも恐妻からきているのです。まあ、相当の恐妻度でしょうね。
―お家の環境について?
近所に下の子の学校があり、静かなところですし、名所もありますし、絶好の環境と言えましょう。その上近所の人も良い人ばかりで、非常ベルを押せば全部の人が駆けつけてくれるといった理想の環境です。
―大友さんについて
両御大とともに大東映を背負っているボリームにあふれた人ですし、自分が納得しなければ本番をもう一度廻してもらうというほど芸熱心だときいています。この点僕も大いに学ばなければならない人だと思っています。これも実演時代の努力が血となり汗となって今日の地位を築かれたものだろうと尊敬しています。
ちなみに、大友さんの「近衛十四郎さんについて」のこたえは、「近衛さんは私と役柄がよく似てらっしゃる。特に戦後、時代劇制限の枠の中で巡業などなさって随分苦労なさったことだと思います。そして映画界にお帰りになり脇役から主役俳優にカムバックされ、健闘されていることはまったく御同慶の至りです。殊に家庭にあっても奥さんを大切に、子供さんを愛する良きパパでありお父さんであると聞いて、わが意を得たりという親近感を抱いています。最近ますます好調で、重厚見を増した演技を拝見して、わが心友健在なりと喜んでおり、心からご健闘をお祈りしています。」
2枚写真があり、1枚は「無頼千一夜で河内山に扮して」(「無頼千一夜」は「江戸遊民傳」のこと)、もう一枚はハンチング帽らしきものをかぶったスナップ写真。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「喧嘩もわが青春のスポーツ ボクの青春時代」(近代映画 ‘67年4月号)
         (掲載写真子守唄赤城嵐帰ってきた銀平スナップ地平線愛憎乱麻大空の遺書

猛烈な喧嘩の末、ブタ箱にぶち込まれ、主役を一本棒に振った大都映画時代が、私の青春の一番思い出多い時代といえます。
この当時、二十歳前後の元気盛り。主演スターで金廻りがよく、独り者が家族と離れてアパートで一人暮らしときたものだから、それこそ文字通りのしたい放題。まあ人の三倍は我が青春を謳歌したと思っています。
人はよく、道楽者のことを飲む、打つ、買うの三拍子揃った男などといいますが、渡しの場合、この三拍子にもう一つ、喧嘩が加わって、飲む、打つ、買う、喧嘩の四拍子が揃っていたのですから、いま考えてみますと、よくあんなに暴れ廻ったものだと冷や汗がです思いがします。
最初に書きました、ブタ箱に入れられて主役を一本棒に振った時の事件などは、今でしたら完全にマスコミに叩かれて、芸能界から、近衛十四郎の名は完全に消え去っていたのではないかと思っています。
そんな暴れん坊だった私ですが、さすがに自分の作品がクランク・アップするまでは、仕事一本槍でおとなしくしていたようです。
そのかわり、作品と作品の間のひまなときは、のばせるだけ羽をのばしたものです。
そのブタ箱事件も、たしか、主演作品を一本撮り終え、次の作品の主役に決まり、クランク・イン街のちょうどひまな時だったと思います。
例によって、小遣いをたっぷりポケットに忍ばせ、悪友数人と手当たり次第のハシゴ酒、カフェ、居酒屋、屋台のそれぞれ一軒を、ハシゴの一段として、ちょうど二十段、大屋根の上に上れるほどのハシゴが出来上がったとき、あるカフェで、やくざが女の子にしつこくからんでいるのを見たから、まあそのままではおさまらない。敵、味方十人余りが入り乱れての大乱闘がおっぱじまった次第。
なにしろ、血の気のおい向こう見ずの時代だったものですから、相手がやくざ者であろうと全くのおかまいなし。ドスを抜いて突っかかってくる奴を、こちらは椅子を武器に防ぐやら、投げつけるやら、西部劇もどきで暴れ廻ったものです。
この大乱闘、映画や芝居だと、主役のミスター・ジューシロー・コノエなる西部男が、鮮やかにならず者どもを投げ飛ばし、なぐり飛ばし、手のほこりをポンポンと払って、大見得を切るといった結末となるのでしょうが、現実はきびしく、カフェのママさんの急報で駆けつけた景観に忽ち御用となって、ブタ箱へ直行という羽目になってしまったのです。
このブタ箱の中で、おとなしくしていれば事は穏やかに済んだのでしょうが、自分はやくざにいじめられていた女の子を助けたのだという大義名分があると思い込んでいたものですから、当時の鬼より怖い取り調べの刑事さんに向かって、とことん喰ってかかる始末。一日が2日、2日が3日とブタ箱泊まりの日数が増え、遂に五日間も泊められてしまったのです。
さあ、この間、撮影所では大騒ぎです。
刻々クランク・インが迫るのに主役が行方不明、撮影所全員が手分けして、心当たりを探しまわったのですが、全然手がかりなし、の有様。もっとも、こちらはブタ箱の中で威張っていたのですから、手がかりないのは当然です。
そうこうするうち、とうとう刑事さんのほうが根負けしたのか、ブタ箱から解放してくれましたが、この解放してくれたのが、クランク・インの当日だったのです。
私もさすがに、仕事のことが気になって、その足で撮影所へ駆けつけましたが、撮影所の面々が、私の顔を見て二度びっくり。
5日前の大乱闘で、自慢の鼻筋がボクサーのジョー・ルイスのようにはれあがったままだったからです。
さて、私の鼻が治るまで、クランク・インを伸ばすかどうか、撮影所で大評定を開いたようですが、なにしろ封切日が迫っている急ぎの撮影でしたので、とうとう代役がたって私は見事に主役を一本棒に振ってしまったというお粗末の一席。
軍隊でもしたい放題
喧嘩っ早いのは、軍隊に入っても少しも変わりませんでしたし、連隊は始まって以来の暴れん坊といわれたものでした。
私の出身地が新潟県だったものですから、新潟の十六連隊に入隊したわけです。
当時大都映画の専属スターだった私に、会社から毎月五十円のサラリーを送ってくれたものですから、軍隊に入っても小遣いに不自由しない毎日でした。
当時の五十円といえば、親子三人が三十円で楽に生活できた時ですから、相当使いごたえがあり、隊内で飲む、打つ、喧嘩の三拍子。さすがに買うのだけはできませんでしたが・・・。
外出のたびに門限に遅れ、ラッパ手がラッパを吹くのをまってくれたことも度々で、それも一升瓶を二本両手にぶら下げての御帰隊という有様。
その一升瓶をデンと机の上にすえ、持ち込んだパイを取り出して、隊員にマージャンを教えるちう大変な兵隊だったのですから、連隊始まって以来の札付きといわれるのも無理からぬはなしでした。
おまけに、上官と喧嘩することもしばしばで、演習はさぼるといったこの一等兵には、全く大日本帝國陸軍もお手上げだったようです。
しかし、暴れん坊だった割には、案外気性がさっぱりしていたせいか、かえって上官に可愛がられ、一度も営倉にブチ込まれなかったのが不思議なような気がします。
たとえ営倉にブチ込まれても、例の事件で、ブタ箱の経験のある当時の私にとって、たぶん平気だったこととは思いますが。
かくして、私の青春は、仕事もバリバリやりましたが、喧嘩に明け、喧嘩に暮れ、全くのしたい放題のうちに過ぎ去ったのでした。考えてみますと、したい放題したという点で私の青春に悔いはなかったと思っています。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


ちょっと遠慮がち?な座談会 (「時代劇ひとすじに チャンバラ映画縦横談」 明星‘59年1月)

出席者:近衛十四郎さん、黒川弥太郎さん、原健策さん、沢村国太郎さん(4人一緒の写真とともに。このちゃんは白っぽいスーツ姿)
まずは、一番古いと言われる沢村さんの経歴自己紹介から、それぞれ皆さんが自己紹介。
それから、今は映画人が尊敬されている、昔は沢村さんのこどもなど、学校にいくのを嫌がった、でも今は、みんなに注目されるようになって、「だからデタラメもできなくなったね(このちゃん談)」
昔は、奇人がいたという話から、変わった俳優さんや監督のお話など。
このちゃんは、遠慮してか、話を振ることはあっても、あまりご自分のお考えなどは話されてない。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


松方さんデビュー当時の話題、2つ


●「ボクは二本のフランク・シナトラになりたい」 (週刊平凡 ‘60年5月2巻21号)
‘60年5月12日、東映の時代劇スター近衛十四郎氏の愛息、浩樹くんが、松方弘樹という芸名でコロムビア・レコードの専属歌手、東映スターとして、華やかに二重のデビューをした。という出だしで、松方さんの生い立ちから、歌にかけるため、家族で涙して合格を喜んだ同志社高校から東京の夜間校へ転校した話、鉄砲の話など。
“フランク・シナトラのようになりたい”という夢を持つ松方さんについて、このちゃんは「はじめは歌だけでもと思っていたのですが、こうはやく映画の方にも出演できるとは思っていなかったので、実のところ心配です。自分の力で体当りすると、元気の良いことを言っているので、やれるだけやれと言ってやったばかりです。なんでもオートバイに乗るシーン(主演が決まった「暴力の正体(「十七歳の逆襲」?)」で)が多いとかで、私の気持ちとしてはからだには十分気をつけてもらいたいと思っています」と松方さんを気遣っておられます。

●「勢ぞろいした父子鷹 がんばれジュニア剣士」 (明星‘61年6月号)
「名コンビとしていよいよスクリーンにお目見えする東映城のハイティーン剣士を迎え、お父さんたちも大張り切りー親子水入らずのたのしい一夜を語り明かしました。」という設定で」の座談会。
「このたびは欣ちゃんのご入学おめでとうございます」という緊張気味のこのちゃんの挨拶から始まり、もう大人だし、これでますます飲む機会が増えそうだという話に。松方さんの「現代劇もやらせてくれるといいのに」に、このちゃん「会社がこれだけ力を入れて売り出してくれるというだけでも滅多に無いことなのに、贅沢を言っちゃいけないな。バチが当たるよ。(笑)
現代劇は地で、という右太衛門さんの話から”地”がらみでガールフレンドのはなしへ。このちゃんが「うちに連れてきなさい、といっているんです。だけど、未だに誰も連れてこないところを見るとまだできないらしい・・・かげで何やってるかわかりませんからね。」
松方さんと北大路さんは仕事が多く、それどころじゃないという返事に、右太衛門さんが、いっしょにすると何やるかわからない、このちゃんが、「一緒にしたり、はなしたり、いろいろ考えんと、そのへんが難しい所ですわ。(笑)でもこうして先生とこの欣ちゃんとウチのとが、こうした形で一緒に売り出される・・何かのインネンですね。」と感慨深げに。
東京に行くほどのヒマがないときは野球をやってますから、という北大路さんの話から、「今の若い人達はスポーツで体を鍛えているから、立ち回りの時、フットワークはいいし、運動神経もあって覚えが早いですね。」でもまだ習いたいことがたくさん、という松方さんに、「とくに馬は必要だね。馬だけはやっておかないと、ロングは吹き替えでいいけど、アップの時に手づなさばきができてないとカメラのフレームからはみ出しちゃうからね」と右太衛門さん。
松方さんは左利きで「サウスポー剣法」だが、「赤穂浪士」で大石主税をやったとき、松田監督から右でやりなさいと言われてやった。「やはり、立ち回りが一番つらいらしいですね」とこのちゃん。続いて「ぼくらも右太プロ時代、ずいぶんしぼられましたからね。・・・なにしろ、今みたいに立派な道場があるわけじゃなし、・・・冬なんか5,6センチの霜の中で、ハダシで稽古させられましたからね。」
松方さんと北大路さんが、互いに助けあってやっていこうとしていることに、このちゃんは「こんないい相手を得たことは、これにとってしあわせですよ」、右太衛門さんも、二人で助け合っていくことだと助言。最後に、「だけどねえ、近衛くん、親には頼るなというけど、親のほうからすればたまにはちょっとぐらい頼って欲しいときもあるよね」「頼られないのは、うれしいような、寂しいような・・・」(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


素浪人の頃 

●「今週のスター 酒と朝風呂が大好きな近衛十四郎 人気ドラマ『素浪人 月影兵庫』の主役の素顔」(週刊平凡‘68年2月1日号)
『素浪人 月影兵庫』(NET系)の人気がこのところすさまじい。ストーリーのおもしろさもさることがら、主役の近衛十四郎の持ち味が茶の間のファンに喜ばれているようだ。劇中では、二枚目半的な役柄を演じているが、仕事をはなれた彼の素顔をのぞいてみると・・・・・というはじまり。(松方さんがこのちゃんにお酌するのを水川さんが眺めている写真、兵庫の写真、衣装のまま品川さんと談笑中の写真などあり。)
平均34〜36%は、民放の全ドラマを通じてのトップクラスで、『ザ・ガードマン』(TBS)と『月影兵庫』が、現在のドラマ界を二分していると言われている。しかし、第一シリーズは、 「失敗とは言えないまでも、大成功じゃありませんでした。というのは、主役の近衛十四郎の役柄が、以前からの彼の持ち味通り、硬派の二枚目だったんです。で、いまのように彼のキャラクターを出し切ることができなかった。」と、東映京都撮影所テレビ室の宮川輝水プロデューサー。
しかし、『月影兵庫』再開にあたっては、「強くて頼りになるが、おもしろいオッサン」を狙う。再開まえのときも、相手役を務めていた相手役の品川隆二の三枚目的演技に、近衛の二枚目半的な味をぶつける方向にイメチェン。「かけ合い漫才的な話を盛り込んで、つまり意識してかなりコミカルな脚本を作りました。」と宮川プロデューサー。このちゃんも、「長い間かたい役ばかりやって来ましたがねえ、ほんとうはいまの役のほうが地なんですよ。だから演技もやりいいし、ぼくにあってると言われるのも当たり前ですよ。」
そこで、素顔の近衛十四郎は?ということで、簡単な経歴が紹介されている。
大正五年(正しくは、3年か)4月10日生まれ。五十一歳、新潟県出身。技師になりたいと上京、ある工業専門学校に入る。(卒業後、上京というプロフィールもある「年表 1929年」)当時、つまり昭和一桁時代から十年前後は活動写真(映画のこと)の全盛時代である。彼、志を変え、工業学校卒業後、市川右太衛門プロにはいってしまった。180度の転換だ。デビュー映画は亜細亜映画の作品『血煙り荒神山』。その後、日活→実演→松竹→東映と各社を渡り歩いたが、その間一貫して時代劇に出演、チャンバラばかりやってきた。
「殺陣をやらせたら、いまの映画俳優の中で最高。豪快で華やかな立ち回りで、実に男らしいんだなあ・・・。とにかく時代劇役者多しといえども、あれほどチャンバラが出来る人は他にいないし、それは自他ともに認めるところですね。」と宮川プロデューサー。
実際には、正式に師匠について剣道を習ったことはない。だから、ほんとうのチャンバラをやらせたら“剣豪”とは言えないかもしれない。が、とにかく演技の上で彼の剣は最高なのである。
<我が生涯竹光と共に>これが、彼の座右銘。
三十年を通じて、脇役、準主役が多かった。主役らしい主役にこんなに長期間取り組むのは今度が初めてだという。だから、というわけでもないが、いま京都郊外に家を新築中だそうだ。「いま、息子(松方弘樹)と同じ京都にいながら、はなれて生活しているんですよ。だからこのあたりで家でも建てて、一緒に生活したいとおもいましてね。・・・」いかにもうれしそうだ。
奥様のこと、いま一人上京して勉強中の目黒さんのことに話はうつる。そして、松方さんのこのちゃん評。
「ものすごく無口ですね。1年のうち1ヶ月くらいしか顔を合わせないけど、一緒にいる時でもしらふじゃ何にも喋らない。ブランデー一本あけてから、やっと喋りだしたと思ったら、釣りと鉄砲(鳥専門)のはなしばかりなんですからね。一日顔を合わせていて、“おはよう”と“いってくらあ”のふたことだけなんていうのもザラですよ。だから仕事の話や、ぼくの演技についてなんて、ぜんぜんしゃべらない。お説教も三年に一回くらいかな。息子としては大いに助かるオヤジだなあ。」
「釣りは日曜ごとに早起きして出かけていく。「日本中ほとんど釣って歩いてるね」と言う割に、「釣りが趣味の割には短気ですね。つまらないことにも真剣に腹を立てる。これがオヤジの欠点といえば言えますね。」という松方に対して、オヤジ近衛としては、「役者になれ。マスコミにもてはやされるスターでなくてもいい。重宝がられる、息の長い役者になってほしい。」と希望する。もっとも、面と向かっては言わないそうです。
それから水川さんのこのちゃん評。
「完全なワンマンです。亭主関白の典型みたいなものですね。私は役者ってみんなそうなのかと思っていましたけど・・・。とにかく、日曜大工とか、子供の連れて散歩なんて言う世間のダンナさまみたいなところはぜんぜん。家にいるときは寝てるか、一人でお酒を飲んでいるかどっちかなですよ」
好物は“酒と朝風呂”で「このごろは体のことを考えて控えていますが、若い頃は、ビール二ダースくらい飲みましたね。一度、800ccの大ジョッキで20杯以上飲んだことがあったなあ・・・。だけど強い割に残るんですよ、翌朝まで。で、二日酔いを覚ますために朝風呂(毎朝欠かさない)にとびこむ。」
最後に仲間のこのちゃん評。
「酒は大変好きなようですが、とりまきをぞろぞろ引き連れて、街に飲みに行くというタイプじゃない。ロケなんかの時は、一本かついできてみんなに振るまうこともあるようですが、、あまり外で飲まないのは、意外にテレ屋だからかもしれませんね。」宮川プロデューサーの、「酒を愛し、釣りを愛し、家庭を愛する熱血漢」という言葉が、いちばんよく彼を表現しているようだ、としめくくっている。

●まだまだ若い近衛十四郎(53)(週刊平凡‘68年6月20号)
(水川さんのお点前でお茶の茶碗を見ているこのちゃんの写真〜静かな京都の自宅でこうして八重子夫人とくつろげる日はかぞえるほどしかないという。連日剣をふりまわす撮影に追われている身だというコメントの写真と、兵庫のスチール)
「兵庫のあの笑い方がいい」「品川隆二との軽妙なやり取りがおもしろい」「いや、あの豪快な剣さばきがステキ」と、近衛さんは大モテだ。『素浪人月影兵庫』の平均視聴率は34.5%、実数に換算すると、なんとファンの数は一千万人。「ありがたいことですなア」と本人は連日撮影に忙殺されているが、「ぼつぼつ息子(松方弘樹)さんにお嫁さんをもらって孫の顔が見たいでしょう」とたずねてみたら、「なんの、なんの、おじいちゃん扱いはかんべんしてくださいよ」

●貧乏なわりには大酒飲みだネ 「月影兵庫」(NET)のケンカ・コンビ 近衛十四郎さん(兵庫)品川隆二さん(半次) (近代映画‘68年11月号)
猫ぎらいにクモぎらい
近衛 この素浪人・月影兵庫ももうすぐ百三十本になるんだから、今更ながらよくまあこれだけ続いてきたと思うよ。
品川 百三十本といえば、百三十週だから、えーと1年52週として、130÷52で、1年と6ヶ月、生まれたばかりの子供でも1年半経てばもう一人前に口をきくようになるんですからね。いやまったくあきもせずよくやってきたものです。(笑い)
近衛 相変わらず?襪舛磴鵑老彁擦垢襪里?イ?世福???品川 役の焼津の半次のほうは計算はサッパリだめですが。(笑い)
近衛 その点、月影兵庫のほうも、金の勘定には弱い方だな。もっとも、いつもピーピーで金勘定する必要もないがね。(笑い)
品川 おかげで、焼津の半次のほうは、いつもたかられてばっかり。
近衛 お世話になってます。(笑い)
品川 えーと、百三十本として、一作品今の金に換算して、今迄39万ほど兵庫に貸しがある計算になる。(笑い)そのうち請求書を回しますからよろしく。(笑い)
近衛 また計算かね(笑い)まあ計算はそれぐらいにして、来年度の第一週から、この月影兵庫もいよいよカラーになるんだから楽しみだよ。 
品川 そうですね、カラーになるんだからますます私達もがんばっていかない・・・。
近衛 テレビ映画の代表的な高視聴率番組だからね。他の各局も目の敵にしているだろうから、よほどしめてかからないと・・・。
品川 それに、カラーになると、製作日数も少しは余計にかかるでしょうし、ますます忙しくなりそうですね。
近衛 そう、一週間に一本は必ず放映され。消化されていくんだから、大変だよ。
品川 うっかり病気もできない。病気といえばm兵庫が猫嫌い、半次がクモ嫌いという奇病(笑い)が名物になってしまったようですね。
近衛 こうやって、ロケーションに来ても、子供が、アッ猫の嫌いなおじちゃんだなんていって、名前を呼んでくれないほどだから(笑い)
品川 ボクも同じで、品川隆二がきているというより、アッ、クモ嫌いがいるって言われちゃいますよ。
近衛 猫とクモという、どこにでもいるものを大の男が怖がるというところがうけているんだな。
品川 これが、蛇とかトカゲとか、一般の人でも嫌いなものでないのが、いいんだと思いますね。子供が見ていて、なあ〜んだ、あんなものが怖いのかというわけで、兵庫や半次に対して優越感を持つ・・・。
近衛 とにかく、テレビの場合は、お茶の間のファンの皆さんに、親密感を持ってもらわないといけないからね。その点我々は貧乏人だから親近感を与える。
品川 そのとおりですね。それにしても、貧乏な割には、年中ふたりともお酒のんでいますね(笑い)
近衛 全くだね。よくまあ、毎回毎回、あれだけ飲めるもんだと、演ってる本人があきれるよ(笑い)。
品川 この番組が始まってから、いったい全部でどのくらい飲んだか、また計算したくなってきた(笑い)。
近衛 この作品のシナリオ・ライターの人たちが、皆のんべえだから、実によく酒飲みの心理を表現するのが上手だな(笑い)。
品川 それに演るほうもネ(笑い)。
近衛 この間ファンレターに、おもしろいのがあったよ。あんなに毎日お酒ばかり飲んでると、身体をこわしますから、もう少しおひかえなさい、なんてキビしい手紙をもらったよ。
品川 そういったファンレターは、よくありますね。劇中の約と本人をごっちゃまぜにしちゃうんですね。
近衛 そうなんだよ。まあ、本人の方も、仕事に差しつかえないように、ほどほどに飲んではいるがね(笑い)。
品川 いずれにしろ、この番組がこれだけ受けたのはファンの皆さんのおかげで、本当に感謝しています。
近衛 ファンの皆さんあっての番組だからね、その点、今後も、ファンの皆さんによろこんでもらうよう、いっそうお互いにがんばっていくことにしましょう。

デラックスな“素浪人“邸 くれないお仙松山容子を迎えた近衛十四郎 (週刊平凡‘68年12月10巻52号)
「松竹のニューフェース時代から近衛さんには、いろいろお世話になっています。あたしには先生みたいなかたですね」という松山さんが、近衛邸を訪ねての写真が4枚。ちなみに、近衛邸は、京都市鳴滝の小高い丘の上にある鉄筋2階建て、眼下には仁和寺の五重塔が見えるというもの。「こんど素浪人とお仙で対決したいもんだね。きっと大ウケすると思うんだ」とこのちゃん。写真は、このちゃんが仕留めたという鹿の頭の剥製のある玄関、松方さんのお部屋が2枚、家に2ヶ所もあるというホームバーの1つ?をいずれもこのちゃんが松山さんに紹介して歩いている。松方さんも写っている。

●青い目のお付きさん 近衛十四郎に弟子入りしたニッキー君の忙しい一日。(週刊平凡 ‘69年10月11巻23号)
ポーランド国籍の16歳の少年、ニッキー君は、2歳の時母親と日本に来て、子供の頃からタレント志望。芸能人のそばで修行するのが早道と、思っていたところへ、このちゃんが付き人を探していると聞き、この世界に飛び込んだ。「そのうち、ぜひ、時代劇をやってみたい」と目を輝かせている。
大吉姿で椅子に座るこのちゃんのそばで竹光を持つニッキー君、同じく、座るこのちゃんに鏡を差すニッキー君、車を磨く、松方さんの肩を揉む、竹光で稽古をするニッキー君の5枚の写真があり、「いまの日本の若者より、ずっと礼儀を知っているよ」「ボクのところにいるうちに(=このちゃん宅に住み込み)、彼の才能を個性に合わせてのばしてやりたい、外人だからといって甘やかさない」とコメントしている。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


ご夫婦の歴史 (「あるスター夫婦の記録/第19回 素浪人月影兵庫 近衛十四郎 番外篇 『オレには過ぎた女房だった』」 週刊明星 ‘68年6月)

暴れん坊のこのちゃんの、おきゃんな下町娘の水川八重子さんとの出会い、求婚、新婚時代、松方さんの誕生、戦争、映画界へのカムバック、そしていま(当時)を、水川さんとこのちゃんのお話で紹介した記事。「オレには過ぎた妻だった」と過去形なのは、「ぼくは運がいいんですよ」と女房運自慢のこのちゃんの言葉を月影兵庫風に表したもの。
(このちゃん、水川さんのそれぞれの写真の下には、「女房はどんなことにも負けない明るいヤツで」「昔は暴れん坊でずいぶん苦労しました」というコメント。松方さんと3人で庭のようなところで腰掛けたスナップ、昭和16年結婚式の時の写真、水川さんがこのちゃんに背広を着せている写真、右腕の袖をまくった兵庫の写真あり。)
水川さんは、浅草の象牙問屋に生まれ、上野学園卒業→銀行→大都の研究生に応募して合格(S12年)。このちゃんは、その水川さんより、1年はやく右太プロから大都にスカウトされていて、まだハタチそこそこで、主演スターとしては、映画界を通じて最年少。「所内の女優さんをはじめ、撮影所まで押しかけてくるカフェーの女給や芸者さんに十重二十重と取り巻かれて、まるで女の垣根の中にいるみたい。駆け出しの私なんか、めったに顔も見られませんでした。」と水川さんがおっしゃるほど、モテモテだったが、ロケバスなどに乗るときには、「ポコちゃん(水川さんの愛称)、ここへおいでよ」と声をかける。
『清水の28人衆』という映画で、森の石松とその恋人役で共演してから、2人の仲はぐんと近くなり、翌13年、新潟の新発田連隊に入営した2年間の空白後、映画界にもどって、2人きりのデートが始まる。
しかし、王子、飛鳥山あたりから上野のお山までを行ったり来たりのデートでは、話は映画や芸事のことばかり。反面、毎晩のように大酒を飲み、女遊びにハッスルし、下宿にかえって寝るのは、月のうち1日あるかないか。酔っ払って街頭で立ち回りをやり、留置所のお世話になることもしばしばで、そのたびに撮影所からもらい下げに行く。さすがに、水川さんの前ではバツの悪いそうな顔はするが弁解はしない。その繰り返しだった。ただ、水川さんはこの「ガキ大将がそのまま大きくなったような」このちゃんが、ご自分だけには人が変わったように接することが、「私にホの字じゃないかと、娘らしい自尊心をくすぐられているようなところもありました。」そうだ。
そして、水川さんがこのちゃんの煮え切らない態度にイライラし始めた頃、突然結婚の申し込み。しかしそれがなんと、夜中、へべれけのこのちゃんが、水川さんの家を叩いて大声で呼び、水川さんのお父上に、結婚の申し込みに来たというとんでもないもの。「そんな大事な話に酔っ払ってくる奴があるか。第一、いま何時だと思ってる、野中の一軒家じゃないんだ」と怒っても、「大事な話だから時間構わずやってきたんだ、酔っ払って本性なくすようなオレだと思うか。」
このちゃんはもちろん、閉めだされ、水川さんも、これでおしまいだと思った。おまけにそれからまもなくこのちゃんは、また酔っ払って武勇伝を演じ留置所入り。それがでかでかと新聞に出て、お父さんに見つかる。だが、水川さんの心配を他所に、お父さんはクスリと笑って、「乱暴なやつだが、根はさっぱりしたいいやつだ。男が喧嘩で留置所入りする分には恥ずかしがるにも及ばない。お前さえ良ければ一緒になってもいいんだよ」と、めでたい結末となった。
結婚式は昭和16年4月15日、有楽町・三信ビル5階の結婚式場で、媒酌人は大都映画監督の白井戦太郎氏。すでに日華事変も6年目、太平洋戦争は8ヶ月後に迫っている。水川さんはかろうじて文金高島田で挙式できたが、そのあとはもんぺ姿で三三九度という味気ないことに。
しかし、結婚までの道のり以上に、きびしかったのが「新婚特訓時代(水川さん弁)」。
新居は、滝野川の撮影所に近い2間のアパート。関西方面の新婚旅行を終えて帰ってきた翌日から夫は蒸発、芸者に取り巻かれて宇都宮の方へ遠出したらしい。下町娘の意地で実家へは帰らなかったら、3日後に大威張りで帰ったきた。
水川さんが先に寝ていると、枕を蹴飛ばして怒る。「味噌汁を音を立てて吸うな」「女のくせに横座りする奴があるか」と、それこそ箸の上げ下ろしに小言。ただ手を上げたことだけはない。後年「あの頃はどうしてあんなにいばってたの」と聞くと、「いやなに、女房なんてものは最初のしつけが肝心だとみんなからけしかけられたもんだから」と白状した。
翌17年、長男(もちろん松方さん)誕生。このちゃんは撮影所からひっきりなしに電話で様子を聞き、男の子が生まれたと聞くと、大喜びで撮影所中、お祝儀を配って歩いた。
19年、招集を受けて新発田連隊に入隊、あっという間に満州へもって行かれる。「オレは要領がいいし、悪運が強いから絶対死なないよ」といって出ていったが、そのことばどおり、20年10月、ソ連の捕虜になり収容されたというのに、「この人はほんとにそんな苦労をしてきたのかしら」と水川さんが半信半疑だったくらいにケロリとした顔で帰ってきたそうだ。
戦後の10年間は、ご存知のように近衛十四郎一座として、旅回り。「いつかは時代劇が復活して映画に戻れる日が来るだろう」というの心の支えも、26年頃にはストリップに食われて解散寸前まで打撃を受ける。28年に、月形竜之介さんの紹介で生命保険に入ろうとしたところ、糖尿病だというので契約を断られたことがある。「健康には自信があっただけにこいつはショックでした。苦労らしい苦労といえばこの頃でしょうか」と回顧される。
30年、松竹に迎えられて映画にカムバック、35年、東映に移籍してからは、完全に主演スターに返り咲く。
「そして映画のほうがそろそろおかしくなってきたと思うと、ちょうどうまい具合にテレビから『月影兵庫』の話があり、これが自分でもびっくりするほどの大当たりというのだから、僕はよくよく運がいいんでしょう。なかでもよかったのは女房運です。二人の子供(22年に次男・祐樹君が誕生、現在はアメリカのボストン大学で勉強中)を抱えての旅回りなど、女の身としては随分つらいこともあったはずだが、女房のそういう顔を見たことがない。それもじっと耐えているというのではなく、苦労を苦労と感じないらしく、いつでも明るい。男にとってこんなありがたいことはありません」
趣味はこのちゃんが釣りで、水川さんが温泉。今では日曜ごとに、釣り場のある温泉を探し、“かあちゃん温泉、パパは釣り”というレジャーを楽しんでいる。たまには松方さんに、「お前もどうだ」と声をかけても、」まあ二人でいっておいでよ」と、敬遠されるほどの仲の良さである、という一等亭主に大変身したお話。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)



写真記事4つ


●マイ・ホーム拝見 / 近衛十四郎 (「週刊平凡」‘74年10・10号)
“古都にふさわしい趣きのある家“として、鉄筋2階建てのおうちの正面、立派な門構えの前にタバコ(葉巻?)をくわえて背広姿で立っているこのちゃん、畳の間で松方さんと釣竿を眺めているこのちゃん、応接セットやテレビ、壁には「いただき勘兵衛旅を行く」のポスターがある大きなリビングでソファに座る松方さんとこのちゃん、狩猟でいとめたキジを飾った玄関、銃ケース、「いびきがすごいので」シングルベッドが一台だけの寝室、「釣った魚は自分で包丁を振るう」という台所、渡り廊下のすぐ下まである四角くて大きな池に錦鯉が60匹の、計8枚の写真が載っている。
それまで住んでいたところ(嵯峨の大覚寺付近)が手狭になり、京都右京区に2年前に建てた、敷地660平方メートル、建築延べ面積248平方メートルのお屋敷には、松方夫妻やお孫さん、仕事で東京と京都を行き来する目黒さんの部屋もある。

ライバル同士の父と子 (「週刊平凡」‘75年2・20号)(関連したお話が、「このちゃん本 松方弘樹奮闘公演」にもあります)
大阪梅田コマの「松方弘樹奮闘公演」の楽屋と思われる場所で、首にタオルを掛けて浴衣で左手に台本、右手にタバコを持つこのちゃんと、同じ台本を右手にもち、左手でタバコを持っている松方さんが座っている写真には、「舞台の休憩時間も、松方、近衛親子は台本片手に綿密な打ち合わせ。役者としてふたりはライバル同士なのだ」とコメントがある。
小さな写真には、「同期の桜」の舞台で共演の様子。

サミー・ディビスJRに対抗して (「週刊平凡」‘75年4・17号)(関連したお話が、「思い出ばなし1 CM親子共演」と、「このちゃん本 スコッチウィスキーB&Wのコマーシャル」にもあります)
松方弘樹が、父親の近衛十四郎とスコッチ(ブラック・アンド・ホワイト)のCMに初出演、1日、東京・赤坂のTBSスタジオで撮影された。松方はタキシードから靴まで黒、近衛は白で統一し、見事なコントラスト。「昼間から酒が飲めるなんて役得だね」と二人でアット・ホームな雰囲気をそのまま再現していた。ちなみに出演料は年間契約で3千万円とか・・・という紹介記事に、スコッチのおいてある丸テーブルを前に、ハイチェアに座るお二人の写真。このちゃんは、ぴっちり撫で付けたオールバック。

●たった一枚の思い出〜スターの秘蔵写真初公開!第71回 (「週刊平凡」‘75年6・5号)
17、8年前の写真だなあ。たしかクリスマスの日で、うちで、女房、女房のおふくろ(のぶさん)と長男の弘樹(中3)、次男の祐樹(小2)が集まって、家族全員でパーティーをやった時の写真だなあ。(ケーキや飲み物の置かれたテーブルを囲んで、水川さん、このちゃん、目黒さん、松方さん、のぶさんが乾杯している写真)
当時の私は、映画の仕事が忙しすぎて、なるべく家庭的な行事には積極的に参加していたんですな。この日はこのあとで、息子たちに将来の抱負を聞いたら、浩樹は「歌手になりたい」っていいまして、この時がきっかけで芸能界入りすることになったんですな。祐樹の方はまだ小さくて具体的には何もなかったようで・・・。結局ふたりとも親のあとをついてくれて満足してますわ。というインタビューが載っている。(2012年2月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「スタジオパークからこんにちは」での目黒さんのお話

簡単に、今日のお話の流れの紹介があったあと、早速このちゃん関係のお話。
<俳優の家に生まれて>
よく出てくる、お座敷でこのちゃんが釣り竿を持ち、松方さん、水川さんが右横、目黒さんがお父さんの後ろから覗いている写真で、家族の紹介。「お父様が銀幕の時代劇で大活躍されて、剣劇といえばこの人と言われるほどにになった近衛十四郎さん」「お父さんに右手を肩そえて、左手を肘で」というアナウンサーに、「結構偉そうな態度とってますねえ。でも父はほんとに家庭内では怖い存在だったんですよ。オヤジの前では正座しかありませんでしたからね。当時の父親というのはそれくらいの存在感というかまあ・・ハッキリ言って怖かったですね」「銀幕でも東映の大スターでもありまして、家の中では厳しいお父さんだった」という問に、「優しいんですけど怖いというなか不思議な存在だったですね、当時は父親というのは」「でもそんなお父さんにこれ(写真でこのちゃんに後ろから手をかけていること)は?」「どうしちゃったんでしょうね、この写真。自分でもびっくりしました。たぶんこういうポーズつけられたんじゃないかと思いますけど。これね雑誌の一家団欒の時に撮った写真で、カメラマンさんがちょっとこうやっててことがあったんじゃないかなと。普段ちょっと考えられません。」
<銀幕スターの子として俳優デビュー>
「わがままな子役でした。(ここで、「まだら頭巾剣を抜けば乱れ白菊」でまだら頭巾のこのちゃんが、共演の子役・目黒さんに指さして笑っているスチール)たとえば当時大スターだった嵐寛十郎さんと初めて共演させていただいた時に、『どうも気分が乗らないから僕今日撮影中止にしてかえる』なんて言っちゃうんですよね。」そして、寛十郎さんにゴキゲンとりをさせてお菓子屋おもちゃ、漫画の本をもらったお話が続き、その後、「風小僧」のスチールが出て、山城新伍さんの話になる。
「小さい頃から父親の仕事の関係で、父親と母親に連れられてよく映画なんか見ていたもんですから、好きだったんですよね。最初に『こういう話が撮影所から来たんだけど、おまえ映画に出る気あるかい』ってオヤジに聞かれたときに、もう迷わず『うん』ってこたえたんだそうですね。だからそれほど好きだったんでしょうね。ほんとに、常に撮影所に遊びに行ってるような感覚だったので、大スターたちに頭なででもっらったり、声かかけていただいたりすると、そういうのが嬉しくてしょうがなかったんで、撮影所で自分がその中には入れるというのは、飛び上がるほど嬉しかったんだと思います。もうほんとに遊園地のようでしたね。すてきな美しお姫様たちもいっぱいいらっしゃいますしね。」
<一から出直し アメリカ留学>
それなのに、高校の時、演じるのを辞めてアメリカに留学へ。役者の家という特殊な環境で、自分が浮いている感じが嫌で、違う世界を求めて。しかし、そこで、映画の世界が好きだという自分に改めて気づき、「それでかえってきて、お話いただいてこの世界に躊躇無くはいったということでしょうか。」
「そのなかで実はこのあとお父様、近衛十四郎さんと共演もされるわけですよね。」「お父様が主演されたドラマの『いただき勘兵衛旅を行く』こちらで共演されて、26歳の時ですか。」「そうですね、私がデビューしてから数年経ってましたけども、『少々俺と一緒にやってみるか』とオヤジが声かけてくれたので、共演させていただくことができたんですけど、オヤジから見るとほんとに至らないところだらけで、さぞかしハラハラどきどきの日々だったと思いますね、父親にとっては。」「大先輩ですしね、父親といえどもね。今考えると、一緒にやってるシーンは結構緊張してたんじゃないかと思いますね。」

「いろんなことを教わったんですか?」「あまりねえ。昔のタイプの人間なので、自分であれこれ教えることよりも自分の目で見て現場で自分を含めていろんな先輩を見て、言葉は悪いですけど盗めと、いうようなことをいってましたね。」
「まるで職人ですね」「ほんとにそういう世界だと思いますね。ですから、具体的にはほとんどああしろこうしろと細かく指導してもらった記憶はないです。ただこう、そばで必死になってこう見ていて、オヤジから少しでもエキスを吸い取ってやろうと思ってたのはたしかですね。
「実際どんなエキスを吸い取ったのか、こんなものを用意したのですが(と、小道具の竹光を取り出す)」「実際に使って」と目黒さんに渡す。
<父から受けた一度きりの教え>
「今申し上げたみたいに、あまり具体的に教えてくれる機会はなかったですけど、たった一度だけ、ある朝、雪が降ってた日だったと思うんですけど、『ちょっと庭へ出ろ』父親が言うんで、『何だろうこんな寒いのに』って下駄はいて庭に出たんですよ。そしたら『俺にかかってきてみろ、斬りかかってこい、ゆっくり』で、ちょっといいですか?(と男性アナウンサーに当時の再現のために協力をお願い)ゆっくり斜めに私に斬りかかっていただけますか?」アナウンサーは竹光をとり、「こういう風(目黒さんがご自分の右上から左下に手をおろして)に斬りかかってきてください」「普通、こういう風によけるんですよね(と、刀の外側に刀のほうを向いた姿勢でよけてみせる)、(刀の行方を)見切って。うちの父親というのは、時代劇の人なので、いかに観客の方にそのように見えるか、常に立ち回りだとか芝居だとか考えていた人なので、今斬っていただきましたよね、こう来ましたよね(とさきほどの再現)。父親のよけ方はより大きくよけたように見えるんです、もう一回同じことやってみてください。」
ゆっくり。こうよけるんです。一歩踏みこんで肩でこうよけるんです。(と一歩前に踏み込んで、先ほどとは逆に刀に背中を向けてよける)そうすると、こうやって(と前にやった刀のほうを向いてよけてみせる)よけたよりも大きく(と背中を見せてよけてみせる)よけたように見えるんです。そういうこととかね、たとえば、らしく見える、斬ったように見える、(目黒さんのほんの至近距離にアナウンサーがたつ。アナウンサーの左向こうを行きながら刀を抜く)この場でこうやって斬るんです。このくらいの距離でも当たらずに、こっからこうやれば(と、刀をアナウンサーの左向こうにぬく)斬れる」アナウンサーが感心して、「しかも抜いたところでぽんと伸ばすとまるでしっかり切っているように見えるんですね」「そうなんです。でね、うちの父親を見てて思うんですけど、こうやって斬りますよね、斬ってこのまま(斬ったあと、そのまま刀を下げた状態で)なんですけど、これをもっとスピード感豊か斬るとすると、ここで(斬ったあと手首を返す)スナップをきかせてパンと(自分のほうに刀を振り上げる、ホームラン斬り)。たとえば、ぐっとこうやって斬るんですよ(と今やったのを速くやってみせる)」「野球かゴルフのスイングのように?」とアナウンサー。「同じように。最後にびゅっとここで返すと(と今度は、水平に刀を振り、最後に手首を返す)とここ(手首を返した時)のスピードが増して倍ぐらいのスピード感で見えるんだって言うことを教わったんです。」「この近さで見て、後ろで見ても(と後ろに座っている女性アナウンサーをみる)スピード感わかるでしょ」「ブーンととんでいきますから」と女性アナウンサー。「これがね、ですから、立ち回りは上手な方だって父親は言われてたんですけど、近衛さんの立ち回りというのは最後のスナップがきいているから、ものすごく速い速く見える、いうようなことを。」「ありがとうございます」「父親はそういう風にやって、ある朝突然見かねてですね、ちょっとこれだけやってみろと、それから僕、こうやってよけてます。」
「共演する中でただの一度ですよね。それをいまだに持ってらっしゃるというのは相当強烈だったんですね」
「いまだかってそのあとも、父親に芝居に関することは立ち回りに関することはそれ一回だけだったので、ひじょーーにここ(胸をたたく)に残ってますね。よけかた、それから刀の切っ先の使い方、ちょっとだけ教わりました。」
「剣道とか立ち回りは基本的に違うんだという考えの人ですね。剣道は実際にあてたりするし、だけと、立ち回りというのは相手に当てることはほとんど無いですから、いかにこう斬ったように見えるか、斬られたように見えるか、つかれたように見えるか、というのをカメラの位置からいかにリアルに見えるかということを常に考えながら立ち回りをやってた人じゃないかなと思います。
<父の当たり役を演じて>
「お父様も目黒さんが29歳の時にお亡くなりになって、その後、目黒さんがお父さんの当たり役、この柳生十兵衛(このちゃんの「片目水月の剣」の十兵衛と目黒さんの十兵衛のスチール2枚が映る)、これを演じることになりました。「似てるのかな?でも迫力はもう遙かに負けてますよね、やっぱり。強そうだもんなあ、オヤジ。」そして、衣装のエピソードを披露。
「これじゃ着てないんですけど、私が着ている羽織がありますよね、これ実は、オヤジが東映時代に柳生十兵衛を演じたときのものなんですよね。衣装部さんが、僕、東映で祐ちゃんていわれてたんで、『祐ちゃんせっかくオヤジさんの十兵衛の役をやるんで、オヤジさんが着ていたこの衣装をセットに分けるから、これを着て是非やったほうが』っていって、僕はオヤジが着た柳生十兵衛の衣装を着て柳生十兵衛を演じているんです。私には、これは宝物ですよ。」「着たときはいかがでした?」「なんかね、後ろからオヤジが優しくというかな、重くね、ずしりと覆い被さってきてるような気持ちがしましたね。これを袖通したときはね。」「
「そんなお父さんの存在って今、振り返ってみていかがです?」「う〜〜〜ん、もう一回会いたいですね。まあ怒られると思いますけど、いろいろと。でも、思いっきりまたしかられてみたいですね。オヤジからみたらほんとに至らないことばかりで、何をやってるんだと言うようなことばかりだと思うんで、具体的に本人の口からがつ〜んとこう言われてみたい、会いたいですね、やっぱり。」
その後、NHKでご出演の「団塊スタイル」の話や、奥さんの江夏さんとの話、江夏さんの目黒さんについてのアンケートなど。今は、時代劇を構成に伝えていけるといいなと、活弁をお勉強中とのことで、「高田の馬塲」のさわりを披露。(2012年8月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「落語時代 vol.2」の品川さん


時代劇専門チャンネルの「落語時代vol.2」公開収録の寄席に行ってきました。
何人かの前座の落語家が話した後、真打ちの柳家喬太郎師匠の話があって、ちょっと休憩の後、いよいよトークの時間になりまして、品川隆二さんが少ししてからご登場!いやぁ、品川さんの話は本当に流暢で、下手な落語家さんよりもぜんぜん上手いのにはビックリでした。客席からは「ほ〜っ!」「わっはっは!」と言う声がしきりに上がっていました。
話の内容はこれまで既に品川さんが話されてきたことがほとんどでしたが、かつて古今亭志ん生師匠と競演された時のエピソードや、「焼津の半次」のキャラの原形が『次郎長血笑記』での森の石松役で、当初は別の役を演じるはずが、何故か石松役しか残っておらず、そこではじけたキャラを演じたのが「半次」につながったとのことでした。あと、『忍びの者』を1年間撮って石川五右衛門を演じていて、それが気に入っていたことと、『素浪人花山大吉』が終わって自分では気に入っていた役の『さむらい飛脚』で大コケしたことを自ら笑って話されてました。『花山大吉』でのアフレコの話や、「下から目線」を心がけた「半次」の演技など、本当に有意義な話を楽しく聞くことができて、最高でした!
品川さんへの質問タイムは設けられず、当然のことながらワテが書いた質問事項も闇に葬られました(笑。品川さんが舞台上で話されたのは30分くらいでしたが、先に楽屋に下がって、これから京都に直ぐ帰るとのことで、ワテも「燃えていこうよ/男が命を賭ける時」のレコードと本を持って会場から出てサインを頂こうとしましたが、スタッフに伺うと「難しい」とのことで、諦めざるを得ませんでした。その後も寄席は続き、最後にもう一度喬太郎師匠の話があって、9時近くになって全てのプログラムが終了しましたが、品川さんはもう楽屋を出られて帰路につかれていたので、サインは後日の課題になっちゃいました(;´д`)。
(2012年11月 トプ・ガバチョさま)

(↑のお話の補足)
>下から目線
品川さんは「お客様に媚びてはいけない。お客様は絶えず上にいて、それにすがるのではなく、自分の力でお客さんを楽しませるように、下から目線で(自らを辱めても上の人を立てると言った意味で)演技するように心がけていた」と言う旨の話でした。
>ご健康のこと
司会の女性アナの「年齢はおいくつですか?」との問いに、「去年80で、今年も80、来年も80(笑)。80から歳はとらないんです」とおっしゃってました。でも、同時に「今癌を患っていて、これまで3回手術しまして、この後も4回目の手術が待っている」とのことで少々心配ではありますが、現在は本当にお元気そうで、一緒に連れて行ったワテの母も、「80になっても鼻筋がピンと伸びていて男前のまま年を取っているねぇ」と言っていました。ワテも正にその通りだなと思いましたよ。
品川さんのトークは15分くらいを予定していたのか、お話が盛り上がって25分くらい話されていて、予定が少し変わったのかも知れません。
柳家喬太郎さんが少しだけ時代劇に登場したシーンが映し出され、それについて「カメラを固定するのではなく、こちらに移動させて顔のアップを一瞬でも挟むべき云々」のように、プロ中のプロの目線での真摯な指摘に、喬太郎師匠も感激されてました。(2012年11月 トプ・ガバチョさま)



オニワバン!
(時専ch 2013年5月放送)

本日(5月13日)、時専チャンネルで放送された『時代劇ニュース オニワバン!』は、25日からレギュラー放送される『素浪人花山大吉』特集の第一弾!
司会のえなりかずきは、開口いちばん「近衛十四郎と品川隆二の掛け合いが面白く、明るい気分になる作品」と紹介し、あわせて、近衛の殺陣の凄さも強調していました。そして、これを受けての、『となりのトトロ』のような(笑)時代劇プロデューサー能村庸一氏の談は、「よく、我々チャンバラ好きが集まると、史上最大のチャンバラスターは誰かということが話題になる。テレビの時代では丹波哲郎、杉良太郎ということになるんだろうけど、やっぱりチャンバラということになると、戦前戦後の(時代劇映画)全盛期の阪妻、大河内伝次郎、嵐寛寿郎が三横綱。これが定評。しかし、四天王としてもう一人加えるとなると、近衛十四郎の名前を挙げる人が非常に多い。近衛はずっとチャンバラ一筋に来た凄い人で、大したもんだと思いますヨ」というもの。
当然でしょう/( ̄ ∈∋  ̄)\
さらに、VTR出演をした、近衛のお気に入りだった殺陣師・土井淳之祐氏が、「近衛さんの殺陣はスピードがあり、腰のすわりもドッシリとし、やはり僕らにいわせると一番上手かった!」と絶賛し、そればかりでなく「使う刀も、普通のものより20センチほど長く、また、ふつうの人と手首のグリップの使い方が違う。釣りが好きで、竿を扱うからなんです」と、笑いをも誘っていました。
それにしても、土井氏はかなり年を召しており、村夫子然とした、まるで民俗学者か考古学者のような風貌で、とても殺陣師という激しい仕事をしていたようには見えませんでしたねえ〜。(2013年5月13日 三四郎さま)



ご近所の品川さん その1

私の家は、京都ですが、実は周囲に東映に関係のある人が近くに住んでおられるという大変不思議なところだと人に言われました。
故結束信二先生のお宅、故河野寿一監督のお宅、林彰太郎さん、品川隆二さん、小田部通麿さんたちです。少し離れて、40分ほどバスに乗ると太秦映画村ですが、近所に友人がおり、「ガマ法師やくぐつ甚内、闇姫、鬼念坊さんらの素顔でこの辺で生活していたら道で会うよ」といっておりました。汐路章さん、阿波地大輔さんらは惜しくも亡くなられましたが、思いで話が少しあります。林彰太郎さんはお会いしたことがありますが、映画やドラマの話はあまりしたことがありません。もっぱら町内会のことが多いです。品川さんは友人宅の背合わせで庭木の水やりのときに声をかけさせて頂いてサインをねだったりお話をしました。小田部さんはお寺の住職さんです。とてもやさしい方です。また、機会があれば皆さんにお知らせします。
過去に関西では夕方と深夜の1日2回月影兵庫の再放送がありました。確か深夜の方は第2シーズンからの月影だったと思います。日記帳で確認しなくては…。
品川さんのレコードに皆さん、注目していただきありがとうございます。レコード番号並びにデュエットしている歌手のフルネームをもう一度、田舎のレコード箱にて確認いたします。
あと、兵庫の猫嫌い、半次の雲嫌い、大吉のおから好き等は、上月先生、故田口先生にお聞きしました。上月先生はやさしい人ですので、一度正式にお話を伺われることをお薦めします。近衛さんがいかに十兵衛の2枚目役にかけておられたか。近衛さんや品川さんがいかに第2シーズン月影に抵抗を感じられたか。また、プロデューサーとしての上月先生の苦悩等、きっとお話をしてくださると思います。(3月6日 京さま)

ご近所の品川さん その2

私もお話をしたことがありますが、それは同じ町内に住んでいたときにたまたま回覧板を持って行ったときに、それから市内の病院で待合時間が長く、ぼやいていたときに一緒にぼやいて戴いた思い出があります。しかし対談という何か目的を持ってお話をしたのではなかったので残念でした。時折、(本人は嫌がられるかも知れませんが)焼津の半次を彷彿させる表情とうなづきをされるので、錯覚を起こします。でも話の中身は結構深い話をされますので事前に出演された映画などを知っていればよかったなぁ、なんてということがありました。
「情け無用の」、「砂絵呪縛」、テレビ「忍びの者」などは今も大切にされています。
また品川さんが戦後最後に復活したポリドールレコードで数枚、あと「風来坊笠」、「さむらい飛脚」などレコードを吹き込まれておりますが、私が申したのは「もし品川さんが歌われたポリドールレコード初期の「さんさ木挽き」があればぜひ聞きたいのですが」と尋ねたら、「実は私もあの曲は良かったので探してるんだ」とのことでした。国立国会図書館にもポリドール時代のレコードは「情け無用の雨が降る」以外ありませんでした。
もし皆さんの中で「さんさ木挽き」を聞かれたら語り合いたいものです。この曲が歌われたのは、昭和34年頃でした。(2015年10月28日 京さま


スタジオパークからこんにちは(NHK総合2014年1月8日放送)の松方さんのお話

このちゃんのお話としては「仕事でも家でも とにかく怖かった」「楽屋で挨拶しても鏡越しに『む』と言うだけ・・もう戦闘モードに入ちゃってますからね」「近衛さんは立ち回りを覚えるのが早くて新人の自分はよく怒られた『お前は役者じゃない!クシャクシャだー』って・・・」と言われてました。
生誕100年について何か言うかしら・・?と思ってたけど何もなし
松方さんは最近の時代劇に出る役者のレベル低下を嘆いておられました(私にはそう云うニュアンスで聞こえました)(2014年1月9日 のりりんさま)



「甦る!チャンバラ映画 永遠の時代劇スター名場面集」
(BSジャパン2014年3月9日放送)より

●息をのむ!剣豪対決
「宮本武蔵 巌流島の決斗」「鞍馬天狗 角兵衛獅子」「十兵衛暗殺剣」の3本が紹介され、そのうちの「十兵衛暗殺剣」から、クライマックスの琵琶湖での殺陣シーン。
(松方さん)大友柳太朗さんが敵役をやるのはあまりなかったものですから、うちの父親が頼んで、二人の対決をみたいというファンの方もいらっしゃって、実現した作品ですけど、ちょうど二人とも脂がのりきっているときで、現場も見に行きましたし、十兵衛も十数本やってますけど、僕は一番印象に残っている。
(山根貞男さん)(松方さんは)ほかの十兵衛に出てらっしゃいますよね?
(松)前半の方の十兵衛は、20代前半で、結構出させてもらってます。・・・立ち回りの稽古は僕と殺陣師さん(=近衛役)で20回くらいやるんですね。父親はこうやっていすに座ってみてるだけなんですよ(と、足を組んで座ってる格好)。「お、いいか?」って僕にきくわけですよ。よくはないんですよ、僕もね。でも何とか覚えたから、それで「お願いします」というといすから立ち上がってきて、じゃあ軽くテストっていって、両御大と同じように、こうな、ここで間を持てよ、ここで俺がぐいと、この左足のつま先がぐいと動いたときに掛かってこいとかね、あるわけですよ。で、それはテストですから、流れだけ。本番っていったら、あの顔するんですよ、もお、ほんっとに怖いですよ。あれでぐーっとにらまれたら、あたしは、今迄覚えていた手をもう忘れちゃう、っていうのが何回もあって、おまえはね、役者じゃない、ほんとにしょうがないやつだってよく怒られて。
(山)あのあと(殺陣シーンは)ずーっと、あの三倍くらいあるんですよ。僕らのようなチャンバラについてものを書いてるものの間では、戦後のチャンバラの対決ベストワンなんですよ、これ。(そうなんだ、という感じで頷く松方さん)
(松)ありがとうございます、父親喜んでるかも(と上を見る)。
● 庶民喝采!アンチヒーロー
「丹下左膳 妖刀濡れ燕」「座頭市 血煙り街道」「眠狂四郎 勝負」の3本。「座頭市」(冒頭の追っ手を倒す殺陣シーン)では、カツシンのたっての希望で近衛十四郎が招かれ、圧巻が繰り広げられていると紹介。
(松)逆手斬りってのやってますよね。あれはうちの父親が「柳生十兵衛」でやりました。で、御大にあったとき聞いたんです。「お父さんの盗ませてもらった」って。座頭市の時に言ってました。ですから間違いなく、うちの父親が逆手斬りをやったのを見てて、御大がこうこうなったんですね(と、逆手斬りの格好)。
(山)今の座頭市、近衛さん、隠密で出てるでしょ?
(松)はい。そこは、僕大映に行って見ましたから。すごかった。
(そこでこのちゃんとの対決シーン。)
(松)これは殺陣師が宮内晶平さんっていうかたなんですけど、結構宮内さんの言うこと聞かなかったです、二人とも。二人でつけてましたから。こういうのは(と、背中で上から刀を受ける格好)、近衛さん大好きな型なんです。こう言うのとか、大好きなんです(と、下から背中で刀を受ける格好)。二人でほとんどつけてました。面白かったです、その現場は。すごい立ち回りですよね。
(山)すごいです。大映のセットいいから、雪もいいでしょ。結構カット割ってないですよね。
(松)はい。
(山)気迫が持続できるってことですよね。役者にすれば
(松)この日は朝、おい今日は勝さんとちょっと勝負してくるわ、ていきましたから、うちの父親は。
●凄絶!!!集団決闘
「赤穂浪士」「大殺陣」「十三人の刺客」の3本から「赤穂浪士」
(松)あれが(松方さんの)時代劇2本目です。片岡千恵蔵先生って背が小さくて顔が大きいんです。僕はたまたま、四十七士が吉良を討って、引き上げの時に、2列ずつ四十七士が行く、僕は千恵蔵先生の横なんですけど、歩幅が合わないんです。どうしてもあわないんです。千恵蔵先生を追い越しちゃうんだ。牧野監督に怒られてねえ。だめだろ、御大を追い越しちゃだめだろって。でも歩幅が合わないんだもん。僕普通に歩いたら絶対に追い越しちゃうんです。千恵蔵先生は、どうしても歩幅が狭いんです。僕は狭い歩幅にすると、病人みたいな歩き方になっちゃうんですよ。それでこの四十七士の引き上げは千恵蔵先生と歩くときは苦労しました。なんかこう威圧感があるんですよね、で、ゆっくりあるくわけですよ。ところがこっちは普通に歩きたいわけで、全然あわない。怒られた怒られた。赤穂浪士、ほんっとに覚えてます。歩くだけでどれくらい怒られたか。
たとえばの話、千代兄とか、みんな立ち回りの手が早いんですね。千代兄が3手の時は、僕は2手も出来ないくらいなんです。千代兄が5手くらいの時は、僕が4手くらいやるとちょうど着数が会うんです。それくらい皆さん立ち回り速いんです。だから先輩とやるときは同じ手数でやると全然寸法が合わない、そいういのを殺陣の先生方はちゃんと計算してやってくれる。
(アナ)あの場面だけでも相当な時間でしたか?
(松)あれは10日くらいかかってますよ、討ち入りは。オールスターの時はだいたいそのくらい掛かりますから。セットも何杯もかかりますんで。セットも1杯のセットじゃないんで。3〜4杯くらい。オールスターの時は、最後の殺陣はだいたい1週間から10日くらいやってましたね。
「大殺陣」の松方さんのシーン
(山)この松方さん、近衛十四郎をやってると思いましたね。腰が定まってるていうか。腰からやってるからそれがものすごい迫力になってるんですよ。それが近衛十四郎さんと似てると思うんですよ。
(松)いろんな方とやらせてもらうんですけど、力が入りすぎ。一太刀一太刀、力が入ったら、刀の先は動かんわけですよね。刀の切っ先をいかに走らすかなんです、立ち回りでは。(かかってくる人との息が大切、でも、できる人はいないという話で)これ正味かかってる人は3人くらいなんです。13人対200人ですけど、立ち回りできる人は3〜5人しかいません。13人に全部絡んでます。その人たちのほうが大変。
時代劇の場合、乗馬と立ち回りは特殊技能ですから、そう簡単にできるものじゃないと思いますし、やっぱり時代劇というのは継承文化で、これからどんどん滅んで行きそうな思いを僕はもってるんですけど、やっぱり続けて作っていかないと、スタッフも俳優さん女優さんも育たない、と思ったりはしてますね。立ち回りなんかするともう切実にわかります。
(アナ)チャンバラの魅力は?
予算の問題で、現代劇と同じ尺数出とると、1.5とか1.8倍かかるんですよ。どうしても衣装だ、カツラだ、ロケ現場も電柱あっちゃまずいでしょ。アスファルトを歩けませんから、遠方に行かなきゃいけなかったり。でもある程度続けてもらわないと、今ハリウッドが西部劇が全くなくて単車乗れる人います、でも馬乗る俳優さんいないですよ。そんなことにならないように、日本はせめて馬とか立ち回りの稽古が出来るところもいっぱいあります。制作の皆さんにお願いしたいのは、時代劇を忘れないで。これだけ楽しいじゃないですか、こんな楽しいものをどうして続けていかないの、って思うんで、これからいろんな方が取り組んでもらって、これからの時代劇を盛り上げてくれたら嬉しいなとおもってます。



”剣豪”近衛十四郎の子弟愛
~陽の当たる場所”に出たお弟子さん〜(週刊 娯楽よみうり 4(44)より)

長い下積み生活から、”陽の当たる場所”に出た大部屋さんの一人、松竹時代劇俳優佐藤賢(27)と、剣豪スター近衛十四郎との間に結ばれたこの世界には珍しい子弟愛物語ー。
中学校の先生から転身:”映画俳優になって、スターを夢見るなんて大変な苦労だよ。血のにじむ生命がけの努力が要るんだ。まあゆっくり考え直してみるんだね”剣豪スター近衛十四郎氏の押し付けるような言葉に、取りつくしまもなく、トボトボと近衛氏のアパートを去ってゆく青年があった。昭和二十八年、そろそろサクラのつぼみがほころびようとする京都の春の宵だった。足取りも重く今日の町を歩む俳優志望の青年佐藤賢の背に、おぼろ月がさびしく光を投げるばかりだった。
秋田県学芸大学を中退して、横手市館合中学校で英語を教えていた彼は、フトしたことから秋田県出身で元松竹下加茂にいた細谷八洲男氏と知合った。
そして撮影所の面白いことを聞いてから、性格に合わない教員生活におさらばを告げ、まず東京へ出て来た。
東京の生活を半月するうちに、やはり日本映画のメッカである京都へ行き、あこがれのスターである近衛十四郎氏の門をたたこうとチャンスを待っていたのだった。
六度目の正直、ついに入門:ー明日からどうしよう、下宿代を払ったら、もう金はない。故郷へ帰るなんてとてもーはじめての訪問に玄関ばらいを食った彼は、歩きながらこれからのことについて考えつづけた。そしてーオレはあきらめないぞ、裸一貫から体当たりで近衛さんにぶつかってみようーとネバリ強い東北魂を燃やすのだった。洋服を売り、次はズボンを売った。三度、四度・・・近衛氏の門をたたいた。六度目、ついに成功した。
”よしっ、そのネバリならやれるだろう、アパートへ来て勉強してごらん”ということになり、京都の西方のアパートで二人の師弟生活が始まった。それは二十八年七月、映画「花の生涯」撮影の最中である。
三十年には北区北野紅梅町の新居に移り、東京から近衛一家が集まると、書生の仕事はふえてきた。メシ炊き、庭掃きが終わってホッとするまもなく朝食前の殺陣の練習・・・クタクタになってからの食事は、こえまでの仕事に報いるようにうまかった。夜は撮影の都合で御膳二時、三時となった。疲れ休みだ、と酒豪の師の相手をしていると、早くも明方の四時すぎになることもたびたびであった。ねむるひまもない全くはげしい修行だった。
これで”服を出して来い”:反面、師の修行は気づかないところに、父のようにやさしくにじみ出た。”おい、あの洋服見えんがどうしたんだ””ハイ洗たく屋へ出ています””うそつけ、そんなに長くかかるクリーニング屋なんてあるか。まあいい、若いうちだ、遊ぶのもいいが程度をわきまえろよ。大事な体だからな。そらこれで洋服出して来い”小づかいが足りなくて、質屋へ洋服を持ちこんだ時のことである。こうして三十一年春、晴れて松竹京都撮影所に入ることができた。
きびしい仕出し時代が続き、それとともに、まじめな演技は、次第にひと目につくようになったのである。
そして「落下剣光録」で抜擢されることになり、江戸の剣術道場指南番伝八郎(近藤)その門弟梶兵衛(佐藤)の役柄そのままの美しい師弟愛の花が、スクリーンの上に実を結ぼうとしている。ー大阪・溝口記者ー  (2014年5月14日 中村半次郎さま)


近衛邸を垣間見る写真記事

『婦人生活23(15) 1969−11月号』:2ヶ月ぶりに京都の自宅へ帰った目黒さんとして、水川さん、このちゃん、目黒さん、松方さんが、大きな岩に囲まれたご自宅の池の側で談笑している写真。このちゃんは、白っぽいシャツをズボンの上に出して、下駄履きというラフな出で立ち。

『潮(416) 1993−11月号』:私モノ語り「マイディア・3」という記事で、目黒さんが、このちゃん、水川さん、江夏さんにもらったものをあげている。このちゃんからは、旧式の水平二連銃。このちゃんが猟が好きだった影響で、目黒さんも趣味に。この銃はこのちゃんが亡くなるまで大事に愛用していたチャーチルという英国王室御用達の骨董としても価値のある由緒ある銃で、マニアの間では「幻の銃」と言われているのだそう。あるとき、「わしはもう山はあるかんからお前にやる」と言われ、それから一年経たずにこのちゃんは亡くなり、あとで思うと、「形見のつもりだったかな」という気もされたそう。
ちなみに、水川さんからのは湯のみで、ハワイの留学でお世話になった弟子の女性が、水川さんからもらったもので、水川さんがなくなった後譲り受けたもの。

『主婦と生活29(3) 1974−3月号』:「”謹粛”・・の館 目黒祐樹」として、掛け軸のかかった床の間の前で、袴姿の目黒さんが正座し、刀を膝に立てて見ている写真。横には小さな屏風がある。近衛邸を塀の外から撮った写真もある。

(2014年6月28日 中村半次郎さま)


「時代劇まつりin巣鴨 オニワバン!スペシャル」より

ただいま時代劇専門チャンネルで「7月1日「テレビ時代劇の日」記念 生中継!時代劇まつりin巣鴨 オニワバン!スペシャル」という番組を見ていたのですが、「巣鴨と時代劇は縁が深い!」という話題の中でなななんと!大都時代の近衛さん、藤間林太郎さんの紹介ががが!
まず大都の巣鴨撮影所の紹介とフリップ、「当時日本一時代劇映画が撮られていた場所」という説明の後、お二方の写真フリップが登場!(お二方ともとても凛々しい顔アップのお写真でした!)
お二方のご子息が皆さんご存知の〜という解説の後さらに能村庸一さんより「特に近衛十四郎という人はこの大都映画で時代劇役者として出てきた」という感じの強調された補足説明もありました。
大都時代の近衛さんの話題が電波にのるのも珍しい!あまりの嬉しさと共に当然録画もしてなかった自分にギャー!!!!!!!と絶叫してました(T▽T)  (2014年7月2日 紅やさま)

番組は1時間あって大半は「時代劇祭りin巣鴨」の中継ですから、そのコーナーは多分ほんの10分?ほどだったと思います。
巣鴨と時代劇との繋がりを短くVTRで流した後(←ここでは大都のダの字も無い)オニワバン3人の現地での生トークに移り、まるで取っておきのネタのように「大都巣鴨撮影所」の話がでて参りました!(フリップには、よく見る撮影所入り口の写真とロケバスの横にどなたか3人が立ってる写真の2枚)
撮影所があった、て話で終わるかな?と思ったら(大都映画の話題がでただけでも大喜び!だったわけですが!笑)先に書き込んだ内容が流れてきて大騒ぎ!!!!!という感じです(笑)近衛さん・藤間さんのお写真も、当然!当時のものでした☆
お二人の話題の後、大都が無くなった流れも能村庸一さんが軽く解説し「もしもちょっと(戦争なんかの状況が)違ってたら、ココが東京の時代劇撮影のメッカになってたかもしれない」というようなコメントを話されてコーナーは終了しました。
時間的には短いですが、普段ホントにスポットの当たらない大都映画や当時の近衛さんについて非常に好意的に、それも大勢の観衆の中ライヴで!っていうのは本当に嬉しかったです(*><)  (2014年7月2日 紅やさま)

先日の「おにわばん!スペシャル」の写真は昭和14年 石山稔監督の「真田十勇士」前・後編のもので兵役からの復帰直後の25歳の時のものだそうです
時専chに問い合わせて教えて頂きました ありがとうございます!
なんかね〜坂妻さんにも似てるかな・・・とも思う(2014年8月6日 のりりんさま)


趣味も豪快だった
〜『釣人かく語りき』聞き手・世良康 (つり人社 2014年6月)より

釣り好きのインタビュー集の本ですが、第一番目が弘樹です。(初出は、月刊『つり人』2012年5月号)十四郎さまのお話が、ちょこっとありました。
弘樹の釣りを見ているうちに、十四郎さまも興味を持ち、「あちこちのダムにグラスファイバーの船を置いて地元の人に管理してもらってね、船外機を付けて自分で操船して。毎週のようにどこかに行っていました。」
2人で和歌山へ行った帰りに、高野山のほうで崖崩れがあって、仕事に間に合わなかったこともあったとか。
小さいですが、ヘラブナの竿の手入れ中の2人の写真もあります。この写真は、説明では弘樹が20代初めとなっていますが、昭和50年前後、すなわち十四郎さまの晩年近くの写真のはずです。雑誌に載っていたのを覚えています。(2014年12月13日 中村半次郎さま)



小野監督のこと

近衛さんゆかりの監督 小野登さんはよく知っています。
近衛さんが、引退を決意なさった時、小野監督も結構いい歳だったのでこの際、一緒に引退するかと二人で決めたと小野さんに聞いた事が、あります。丸顔の小太りの気の良いおじさんという感じの方でした。小野さんは、監督引退後は、俳優養成所で、先生をなさってました。(2015年1月3日 国府 冶三郎さま)

小野さんから私が、直接聞いた話を思い出しました。
テレビで、視聴率を取るなんて簡単だよ ただ、金はかかるけどね 豪華なセット組んで、豪華なゲスト呼んで来てそのスターさんのアップをいっぱい撮っておけばいいんだから 水戸黄門なんて結末、みんな知ってし印籠のアップ映してるだけ
そう!当たってる!
!(2015年1月6日 国府 冶三郎さま)


東映のシステム

このシステムは、近衛さん、松方さんにも当てはまるシステムなんで、お話したいと思います。このシステムは、主役のみに当てはまるシステムです。ですから、花山大吉では、近衛さんのみ、品川さんには当てはまりません。
そのシステムは、スタッフ側には、大変 都合の良いシステムでテレビ番組は、一話を一週間で撮ります。主役は、一話終わるごとにスタッフにビールをワンケース送るんです。24本ですね。
衣装さんに、大道具に、照明さん、小道具さんなどに各ワンケースづつ送るんですよ。別の番組も撮ってましたから結構な量になる訳です。だから毎週土曜日は、仕事が終わってからスタッフルームで宴会です。(おつまみは、自分持ちですけど)
しもちゃんもいつも一緒に飲んでましたから仲が良かったんです。彼は、東映では銭形平次担当の美術監督でした。もちろん他の美術監督も結構いましたが、彼が一番付き合いが良かった訳です。彼は、賢いんですよ。東京芸術大学卒業で時代劇の美術については彼の言う事を聞いておけば、間違いない。性格温厚で怒った姿は、ほとんど見た事ありません。
ただ、酒を飲むとテレビは映画に比べ単価が安い 良いセットが作れない 特に銭形は安い これが、飲まずに いられるか と怒っていませんが、ぼやいてました。銭形の親分ー!投げる金あったら、しもちゃんにまわしてやってーと大川橋蔵さんの部屋の方にむかって叫んでやりたい気持ちでした。
そんな生活を送っていたから撮影所の人間は、みんな酒飲みになってしまう。多分!!(2015年1月8日 国府 治三郎さま)



殺陣についての自負

近衛さんについてスタッフが、近衛さんの口から直接聞いた話が、例のチャンバラが、日本で一番上手いのは 俺だ! チャンバラは、日本にしか無いから 日本一と言う事は世界一と言う事だ!と 近衛十四郎が、自分で言うとったで!と聞きました。
後、日本で一番殺陣を付けるのが、上手い監督は マキノ雅弘監督 殺陣師が、下手な殺陣を付けるとお前らみたいなもんにまかせていたら ええ作品が出来ん 貸してみぃーと殺陣師から刀を取り上げて自分で殺陣をつけていた。
ちなみに、このマキノ監督も酒が好きで、酔っ払った時に 一度猿の真似をして見せてくれ、その猿の真似が、見事だったとスタッフが、証言いたしております。つまり観察力が人よりも優れていた。(2015年1月12日 国府 治三郎さま)


スタッフから付き人へ、そして俳優へ

映画「冬の華」のシーンの中で健さんが、相手方のヤクザ四人に絡まれるシーン すれ違いざまにぶっかって、因縁をつけられ、相手の一人をぶちのめして そいつの顔をふんずけるシーン
その時に、一番手前に映っていた坊主頭の少し痩せていたチンピラ役 その人です。彼は、元々は、スタッフで小道具担当 高津商会の人間でした。小道具をやっていた時、近衛さんに私は、役者をやってみたいんですけど なんとかなりませんかと相談した訳です。すると近衛さんは、解った 家の弘樹の付き人からやってみなさいこう仰って 話をつけてくれ 松方弘樹さんの付き人になった。そして、付き人をやっている時にチョイ役で冬の華に出演した。
普通、こういう相談は人徳のある人物にしますよね。つまり 近衛さんは人徳があった。(2015年1月19日 国府 治三郎さま)


「スタジオパークからこんにちわ」(’15年1月20日放送)のはなさんのお話

まず 家系図が出まして司会者が「お祖父様があの時代劇の大スター近衛十四郎さんで近衛はなの名前はここからですね」みたいな紹介があり、『月影兵庫』の写真がど〜んとアップになったのです! がスタジオ内は特に反応無し (*_*)
このちゃんは はなさんが生まれる3年前に亡くなったので映像でしか知らないけど 「かっこいいなぁ〜」とは思っていたんだそう
目黒さん江夏さんとのスリーショットの写真の目黒さんがこのちゃんに もう〜そっくり!!テンション上がるわ〜特に目元、眉がね・・はなさんも似てると言われるそうで と言うことはこのちゃんに似てると言うことですよね
子供の頃は両親が家で台詞合わせをし始めるとだんだんエスカレートしてきて噛み付き合うんじゃないかと恐かったって
時代劇に目覚めたのは 椿三十郎の三船敏郎でカッコいい〜って惚れて惚れて 照れ屋さんで強いけど優しくて 動き方もすごい好きで歩き方を真似して家の中を歩いていたと言ってました 私がこのちゃんの月影で目覚めたときと一緒ですね〜
後はドラマのお話や生い立ちのお話 剣道初段の腕前 高校時代は馬術部でとのこと
いつでも時代劇イケるやん
本名で「高校講座 理科総合A・B」に出てたときのジェットコースターに乗っての物理のリポーターは天然ぶりがいいですね 笑っちゃいました
親子共演された「獄に咲く花」の写真が出たときに司会の竹下景子さんが目黒さんを見てお爺様(近衛十四郎)にそっくり!って言ってました 私もそう思う
後は脚本家になった経緯とか野菜作りやお料理や畑で昼寝したりするのも好きってお話
なんとも愛らしい人です 今後の益々の活躍に超期待します 本格的な時代劇やってくれないかな〜(2015年1月22日 のりりんさま)



レジェンドトーク(東映ch 2015年3月14日放送 by松方さん)など

昨日の東映チャンネルは、正に松方弘樹デーでした。
最初は、父・近衛十四郎との初めての競演作である『柳生武芸帳・独眼一刀流』。
近衛と弘樹に限らず、この父子共演を見ていつも思うのは、「よくも白々しく赤の他人が演じられるもんだ」ということ。
くわえて、晩年の近衛は自分と弘樹、さらには次男である目黒裕樹とのチームワークの良さを盛んにアピールしていたけれども、しかし当初は、息子がスタッフや他の共演者に迷惑を掛けやしないかと、人並みな気も使うはず。

そして、弘樹のデビュー作である『十七歳の逆襲・暴力をぶっ潰せ!』(かつて、大都映画で近衛と同じ釜の飯を食った本郷秀雄と共演。弘樹は初々しい全くの少年であり、しかも不良っぽさが横溢で、さらに驚いたことには、バイクをぶっ飛ばしている。男女を問わず、同年代の若者の心を引きつけたのではないでしょうか。)の放送を挟み、杉作J太郎との公開対談である『レジェンドトーク』では、日本一を謳われた近衛の立回りが触れられた。
立回りは、阪東妻三郎、月形龍之介、中村勘九郎(おそらく嵐寛寿郎の間違い)とともに特徴的的であり、剣を振るう速さは一番だったとの相も変わらずのモノでしたが、それでも、近衛が一回のリハーサルだけで、刀ではなく殺陣師の足の運びを見て自分の立回りの手を覚えたという、初めて聞く興味深い話もありました。
わたし、時代劇俳優というのは特殊技能を必要とする職業だと思っているのですが、その中でも近衛は職人、正にスペシャリストと呼ぶに相応しい存在だったといっても、決して過言ではないでしょう。

弘樹のサウスポー剣法を、東映剣会のカラミ役たちが時間を惜しまず矯正してくれたこと、また、近衛と作曲家の上原げんとが飲み友達だったというのも、初めて聞く興味深い話でした。(上原げんとさんとのことは前に、こちらにもあります)

追伸
昨夜は日本映画専門チャンネルで、黒澤明監督の『姿三四郎』が放送されてました。
世界のと冠される黒澤映画には珍しく、フィルムの状態は最悪で、聞き取れない台詞があるのにも驚きました。
まあ、それはさて置き、この『姿三四郎』には、三四郎の師の役で大河内傳次郎が出演しています。
剣戟スターである大河内は、この時期、東宝の現代劇への出演が数多い。
同じ剣戟スターでありながら、近衛は時代劇一筋であり、現代劇への出演は大都映画時代を除いて、そう多くありません。
端的にいえば、近衛は万人が認める剣を持たせてナンボの役者であり、現代劇への出演など必要ない、と考えるファンも多いのでしょう。
けれども、剣戟スターの現代劇への数多い出演は芸域を広げることにもなるわけで、これは晩年、東映時代の大河内がよく示している。
その意味において、現代劇への出演が多くなく演ずるキャラがパターン化していた近衛は、晩年になっても演ずるのは兵庫や大吉の二番煎じもしくは、立回りがもうできないのに剣豪ばかりであり、これが、本人が「愛着はあるが進歩がない」と、いみじくも苦衷を口にする結果を招いたとも言えるのではないか、と私は思います。
(2015年3月15日 三四郎さま)


大吉・半次の声帯模写

桜井長一郎と鯉川のぼるの声帯模写での近衛十四郎と品川隆二の掛け合いは、仰るとおり、もちろん大吉と半次。
桜井は、「近衛十四郎。昔はこんなふうに」と言い、刀をカッコよく振る仕草をしながら、
「東映時代劇で渋い二枚目や敵役をやってらした方。でも、変われば変わるもんで、今は違うでしょ。ねえ、品川隆二とコンビを組んで、やいオカラ!ナニを〜この薄らバカタレが!なんてやってますよ」
舞台ではこれを繰り返しやってたんですが、しかし、声色はあまり似てないんですよ(汗)

いっぽうの鯉川は、確か桜井が死去したあと、
「なあダンナ。桜井先生ってのは非常に味のある人だったけど、これ、どんな味してんだかなあ」
「オメエなあ〜、俺は生まれてこのかた桜井先生なんか食ったことがねえんだよ。その俺に、桜井先生の味がわかるわけねえダロ〜が、このバカタレが!」
と、大吉と半次の掛け合いで桜井を偲んだのが、近衛と品川の声帯模写を披露した最初だったように記憶しています。

そしてこれをキッカケに、鶴田浩二の浅野内匠頭と近衛(大吉)の堀部安兵衛で「忠臣蔵」をやったりもし、大吉の声色も非常に特長を掴んでおり非常に似ていました。
また、近衛が死去した後は、声色をはじめる前に、必ず「今頃は世界旅行の最中でしょうか」と言っていましたねえ。
しかし、最近は寄席番組はほとんどなく、鯉川も見かけることがなくなりましたが、元気なんでしょうか。
(2015年5月16日 三四郎さま)


近衛邸を訪ねる

東映時代劇黄金時代〜友達が松方弘樹さんファンでしたので京都に出かけた折に弘樹さん新居まで出かけたことがありました。(確か金閣寺近くでした)
お手伝いさんが近衛十四郎さん宅にと言われましたので今度はご実家の方を訪ねました。
大きな門構えのお家でした。もちろんお会いできませんでしたが若き日の懐かしい思い出の一コマです。(2015年5月21日 桔梗さま)


小説「素浪人 月影兵庫」のあとがき

ヤフオクで徳間文庫素浪人月影兵庫の小説を買って、あとがきに近衛十四郎の事が書いてありました。縄田一男氏の解説を述べます。長いので主な部分だけさせていただきます。

昨年秋、店頭で「素浪人月影兵庫オリジナル・サウンドトラック」なるCDを手に取り、常に"日本人に最も愛された剣豪俳優・近衛十四郎、没後30年記念盤!!と銘打たれたのを見て、思わず目頭が熱くなったくちなのだが、・・・・
タイトルに"素浪人"とあるように、原作から十剣無統流の達人という兵庫のキャラクターを借りて、これを旅の素浪人という設定に変更、これまた道中を行く一本どっこの旅鴉・焼津の半次とのコンビで、一話完結、街道筋で悪を懲らしては去って行く、という物語にしたのである。兵庫を演じたのは、東映の「柳生武芸帳」「十兵衛暗殺剣」「忍者狩り」等で、堂々たる主役を張り、当時、最も脂の乗っていた剣豪スター
近衛十四郎だった。そして、焼津の半次に扮したのは、「砂絵呪縛」や前述の「柳生武芸帳」等で近衛とコンビを組むことが多かった品川隆二。
二十六話続いたのだから、まずまずの視聴率だったのであろう。そうした中、プロデューサーの上月信二は、この番組をこのまま終らせてしまうのはもったいないと考え、とりあえず第一部終了のかたちで、テコ入れをすることにし、コメディ仕立ての弥次喜多道中にすることを提案。
当時はアニメの「オバケのQ太郎」が大評判を取っていた時期で、オールマイティのオバQが、唯一、犬に弱い、という点からヒントを得、兵庫は猫、半次は蜘蛛が嫌い、という設定にし、笑いを取るようにしては、と考えた。
はじめ、硬派の剣豪スターとして鳴らした近衛は、割合シリアスに作られていた第一部からコメディタッチの第二部への設定変更にかなりの難色を示したが、第二部を土曜八時のゴールデンタイムにぶつける、という上月の自信満々の態度にこれを了承。結果としては、これが受けに受け、当時の視聴率ナンバー・ワン時代劇で怪物番組と呼ばれるまでに至ったのである。
近衛は、ここに至り、名実ともに時代劇のトップスターに登りつめたが、もともと彼は不遇なスターだった。・・・・
そして近衛が「素浪人月影兵庫」で、最もコンビを組むことが多かった小野登監督に「俺はとうとう映画でスターになれなかったが、TVでスターにしてくれ」と懇願した、と聞いたときには、思わず涙がこぼれた。
昨年、スカパーの東映チャンネルで、「素浪人月影兵庫」の第一部と、不完全なかたちではあるが第二部が放送され、久々に再見したが、兵庫を演じる近衛の背中には、今、俺が時代劇をしょって立っているのだ、という気迫と誇りがみなぎっていた。当時、土曜の八時となれば、どの家庭でも「素浪人月影兵庫」にチャンネルを合わせ、大人も子供も近衛、品川コンビの笑いと殺陣を楽しんだものである。そして、私を含め
今、五十歳代を迎えた人たちが、子供の頃、絶頂期の近衛=月影兵庫の活躍を通して時代劇の洗礼を受けた世代なのである。・・・・・
(2015年10月5日 yukimente2005さま)



「時代劇オニワバン150話、152話」の品川さんインタビュー(時代劇専門ch 2015年9〜10月放送)
  (聞き手:えなりかずきさん、能村庸一さん、森田涼花さん)

Q:(「月影兵庫」と「花山大吉」と)雰囲気かわらないですよね?
僕は全く同じ番組のつもりでやってました。
役者の計算として月影終わったときのレベルよりも芝居のレベルを1段あげたんですよ、スタートから。むかしの連ドラって長いでしょ、寸法が。ですからプロデューサーに確かめて、「あとどれくらいやるつもり?」「あと2年やるつもり」「分かりました」じゃあ半年に一回とか、自分で計算してじわっとじゃなくてどんとあげちゃうんですよ。だから最初監督がおやっと言う顔しましたよ。どんとあげてそこからばばばばーんと。
そうすると最後にはね、でっけえ声出すか、怒鳴るか、ゲタゲタ笑うか、要するに桁を外れてやらないと人物の構成が成り立たないわけ。だから最後はつらかったですよ。(笑)半年ぐらいでぽんぽんとあげてった、はっきり分かるように。じわじわやってったんじゃ、ぜったいだめなんですよ。まあ、役者のやる漫才だね。(笑)
これは昔流に言えば、5枚目半くらいですよ。この芝居は。だって品がないし汚いしね、ずっこけてるしね。後々コメディアンの人と一緒にやると、芝居しながら、浅草の役者ってきれいな芝居するんだなあと思いましたもん。時代劇の役者でこんなバカげた芝居するのはいなかったでしょう。

コメディリリーフの立ち位置としてね、お客さんの目線よりも絶対上から見ちゃいけない。下から見上げる目線で芝居しないと、必ずお客様には一歩譲って芝居するんです、ということを僕なりに芝居しながら得て、それからきちんと出来るだけ上目目線で芝居するように。
それともう一つ、こびちゃいけない、絶対だめ、サービスをしないといけない。そのサービスのさじ加減というのはその役者の持ってる感性で、ここまでやって認められるかなあ、これ以上やったらきたねえなあ、とか思いながら。そういう尺度はもってました。だけど、そのほかの芝居は、台本からは外れるわ、もうずいぶんひどかった。
浅草のコメディ出身の方がね。いろんな方にしごかれましたよ。むこうは負けてなるものかと入ってくるからね。喜劇に関しちゃこっちは専門家だという。玉川良一なんかね、あいつはほんっとにね、真剣勝負だって言って乗り込んできた。だから監督の小野さんに、台本では1ページぐらいしかないんですよ。監督悪いけど、よーいはい、でカメラ回り始めたら、どこでもいいからカットって言わないでください。
玉川と僕は打ち合わせで、ト書きのない台本ですから、「こことここだけ拾おうか、このネタ用意してくれる?俺はこれを用意する」という打ち合わせをして、本番に入った。
オーバーに言ったら、立ち回りと一緒。秘術をつくして。そこら辺にあるとっくりをね、「このやろうてめえ、どっから来やがった、あ指(とっくりに指がはまった仕草で)、ちきしょう」で、くしゃみしたらぽんと抜けたり、ば〜ん(えなりさんの頭で割る仕草)といっちゃうネタとかね、玉良はずいぶんやりましたよ。

ト書きがないってのはね、書いても無駄なんですよ。
一番最初に、「とある街道、とある茶店」とあるだけなんだ、あと全部台詞。だから必ずよりからは入らない、ひきからはいります。で、近衛さん座らせといて、私が回りをぐるぐる回りながら勝手なことをほざきながらぼん、それでパンとアップに寄ったりね。そんな撮り方してましたね。
近衛さんとの間でもテストは、いわばスタッフのためのテストであってね、特にキャメラマンも、ライティングも全部当てといてくれってどこ動くか分からんから。
Q:じゃあ、舞台で即興でやってるみたいな感じで?
そうそう。そんなこと8年も9年もやってたからね。
Q:近衛さんとの打ち合わせは?
ありません、ほとんど。あの「馬鹿たれ」というのも、あの人は、半次に言ったんじゃないんですよ。品川隆二に言ったんですよ。僕はそう受け取ってます。
Q:それはアドリブが多すぎて馬鹿たれってことですか?
いや、あの人は台詞躓いちゃうと「馬鹿たれ」と背中向いちゃうんですよ。そこで普通は、「ハイ、カット。じゃあアップから裏返しで行きましょう」というのが普通演出ですよね。小野さんはそこで絶対カットしなかった。何とかするだろうという期待感もあったんでしょう。私はぐるっと前に回って、「もいっぺん言ってみろ、この野郎」みたいなことからね、また話を続けていく。

Q:近衛さんとプライベートでのお付き合いは
飲むって言うのは、大勢で何かで食事する以外には個人的にそういう遊びはね。だって考えてご覧なさい。10年も、撮影技師に子供が生まれたってお祝いして、最後に「なんかあの子、中学に入ったらしいぜ」というくらい撮影してたんですよ、明けてもくれても毎朝毎晩、顔眺めている訳ですよ。だから冬なんかカンテキに炭起こして、離れてるんですよ。「おはようございます」「おはよ」で上下に離れて。ゲストが入ってきてね、「あの二人仲悪いらしいよ」ていう噂が立ったんですよね。で上下に分かれているでしょ、どっちに先に挨拶していいかわからなかった。
Q:別に仲悪い訳じゃないのに
そう、だからそのために僕はゲストに謝るために、できるだけ撮影期間中に一晩だけお誘いして、花街をうろうろ芸者遊びしたりね、それを目的で来てた役者もおるんです。仕事もねえのに京都来てね、兄貴兄貴って周りぐるぐる、まあいろんなやつがいましたなあ。

Q:近衛さんの存在は?
これは真剣に、時代劇というもの目から鱗が落ちたってのはあの人のおかげです。僕はここまで65年役者やってるんですけど、昭和35年に第二東映はいって、第二東映の中でぶつかった「砂絵呪縛」という作品で、二人の豪快な立ち回りがあるんですよ、むこうは「こんな現代劇上がりの若造に負けてたまるか」というのがありありわかるんですよ。それで手を合わせて「はい、本番行きます」監督が井沢雅彦さんっていうおとなしい監督で、何にもおっしゃらない。
近衛さんの剣ってね、長いんですよ、普通のより。僕のよりだたい4分の1くらい長かったな。それが、あの人は手首強いからね、ぶおーんと回ってくるんですよ、見たら顔斬られちゃう、そらもう必死でこらえて、ただ負けて逃げたりするわけにはいかないから、こっちも若手の代表の勝浦孫之丞という、役名まで覚えています。それで時代劇というものに、まず、近衛十四郎さんの持っている立ち回りの妙技からほかの芝居のことも全部、ほんとに頭からつま先までお風呂入って流して上がったような気持ちで、いろんなことに立ち回るようになった。それで僕は時代劇に少し触れたのかなと。
Q:そんな細かい描写まで覚えているくらい近衛さんが衝撃だったんですよね。
そう。すごかったです、あの人は。(教えてくださいとかは)一切言いません。当てるなら当ててください、逃げますと。その代わりこっちも切り込むときには必死で切り込んでくから。それがスタッフにもつながったんです。伝染したんです。だから立ち回りのシーンなんかでも、強烈にやりとりするときには、みんな真剣にじーっと見ていてくれてた。こんにちあるのは近衛さんのおかげです。

土井淳之介さんのお話
(近衛さんは)松竹の高田浩吉さんの相手役ですごい剣豪が出てきたなというイメージがものすごあったんですよ。こう斬るでしょ、ここで止まるでしょ(袈裟にきって刀を止める)、ところがここまで来るんですよ(さらに伸びる)。そしたら剣が伸びるんですよ。そこから戻すから大きくなるんです。近衛さんは長い刀を持ってたでしょ。あんな剣豪、あんな殺陣出来たらいいなと言うのがずっとあったからね。
(品川さんは)大映から東映に来られたときに、大特訓したわけですよ、そりゃもう道場で血反吐はいたからね、大剣豪が相手にやってるんだからね、自分はおっちょこちょいの旅人であんなんだけど、おっちょこちょいながら暴れまくる、そい言うのを一生懸命やってましたね。
ようやったなというのはね、ドスをぬいてやってるんだけど、あの人のは 直刀なんですよ。反りがないんですよ、まっすぐなんですわ。あれでようあんなチャンバラしたとおもうてね。直刀だと難しいです、ぜんぜん。たとえばこれを斬ろうとおもうたら、直刀だったらまっすぐだからこーんとあたります。ということは、これが人やったらまともに当たるんですよね。反りがあるからこうそっていくんだからね。あの直刀でよくやったよね。仕事はたのしかったですよね、あのシリーズはね。品川さんと一緒になったときは、ほんとに僕の芸能界の中で歴史に残る人ですからね。元気に過ごしてください。わしも何とか生きてますから。またお会いしましょ。

あの、淳ちゃん淳ちゃんって言ったたんだけど、若かったからね、彼も。ずいぶん無茶な剣もつけてたし、
Q:血反吐はいたのはプレッシャーから?
いや肉体的。激痛ですよ。畳が三尺飛ぶなんてことはね、尾籠な話、翌日トイレいかれなかったいたくて。足も腰も痛くて。そのくらい近衛さんに影響受けたってことです。
Q:殺陣の稽古をつけてる人は止めましたよね?
でも頼む、頼む、つきあってくれって。
Q:近衛さんに「いい打ち込みだったね」とか?
ない、あの人はそんなこと絶対いわない。これは出来たなとかといういうの顔見たら分かるからね。

(「花山大吉」のいくつかのサブタイトルからの妄想解説のあと)
実は申し訳ないんだけど、ほとんどいまの覚えてないんですよ。
「ネギがカモを背負っていた」これは麻雀やってるときに飛び出したんですよ。「カモがネギを背負ってきた」って、俺のこと言ったわけ。そしたら「ネギがカモを背負ってきた」とすぐ切り返してきたの。それからタイトルがそれになったんですよ。誰かが何かをしゃべるとそれがヒントになって、タイトルになった。だからタイトルが先に出来て本が出来たのもあります。本が来て、こんなタイトル駄目ってはねかえされて、じゃあ何がいい?みんなでつけたのもあるし。いろんなケースがある。

Q:花山大吉で一番見てほしいポイントは
全部!投げやりでやった芝居、10年間一つもないです。全部、オーバーにいえば精魂込めてやってるんです。だから全部見てほしい。

芸能生活全般について
ミスター日本という企画でなぜか山梨県代表、甲信越代表、渋谷の音楽堂で全国大会やって、ミスター日本というのは5人選ばれたんです。ミス日本が5人。10人が大映株式会社の東西に分けられて、僕は東京撮影所に入ったんです。もう、すぐ主役をやらせてくれるとおもって意気揚々と。あにはからんや、ぼろぼろの大部屋に一人ずつ放り込まれて、毎日毎日びんたの連続で。
僕は東洋大学の学生だったんですよ。詰め襟きていったらエキストラと間違えられてね、復員さんにぶん殴られたり、蹴られたり、日夜連続。4期生集合と声が掛かる。4期生代表北原義郎、5期生、高松英郎、6期が僕、並ばせて、全部びんた、毎日殴られて。理由はないんです、軍隊の名残なんです。よく覚えてるよ、やったやつは。今に俺が主役とれるようになったら覚えてろ、ってなもんでね。
Q:売れると態度がころっと変わる?
(頷く)

市川崑監督の下で「日本橋」に出演して
そのとき僕はたまたま中央線でロケ隊と一緒に信州の松本に向かってたんですよ、美ヶ原へ。電報が入ってね、「品川隆二殿、すぐ帰れ、撮影所へ戻れ」と。進行主任が「なんかやったのかよ」と「いやあ記憶ねえなあ、まさか女のことで撮影所から呼び返されることはねえだろうよ」なんていってたんだ。
鶴田浩二さんがある事情でその作品に出演を、はっきり言えば拒否したんですね、それで誰かいねえかって時にぽんと回ってきたわけ。ところが役の年齢がすごい実年齢より上なのよ。俺20歳か19か、そんな年代です。だから「後朝(きぬぎぬ)のわかれ」なんていうね、意味がわかんないんです、台詞の。まあしかし、つらかったね、あの作品は。分からないんだもん、中味が。要するに俺はあの年代にしてはね、女に関してはほんとにうぶだったんだ。ケンカ、酒たばこはいの一番に覚えたけど、女は一番あとだったからね、だから台本の内容がわかんないんですよ。
忘れもしない、お藤さん(山本藤子)をくどくシーンで、台本で2ページあるんですよ。ワンカットで。本番、何回やり直したか。「7回目と9回目の間ぐらいでやって」そんなら8回目じゃねえかということなんだよね。そういうリクエストを食らったわけ。若いから血がのぼっちゃったんだ、俺。「機械じゃないからそんなのできません」と。「覚えてないんですから」っていって。一所懸命その長台詞で。それを我慢に我慢をしてて口から出ちゃったんだよなあ。
それで監督には徹底的にしぼられた。OKをくれないんですよ。これは一番残酷だ、役者にとっては。最後までなかなかしっくりいかなくてね。従って市川崑監督の中では、下の下にある作品じゃないですか、あれは。主役が悪かったから。しかも女を知ってればよかったんだよ。3人(の役の女性)に対するリアクションが違わなきゃいけないんだ。分からないから。そんな幼さ、経験のなさを見事に監督には見透かされたんですよ。監督はもう、俺を使いたくなかったんだって、あとで聞いたら。だから気に入らない中で1ヶ月半の撮影が。
のちのち亡くなった淡島さんなんか新幹線でばったりあって、「おや元気?おにぎり食べる?」なんていってくれたりね。亡くなる半年くらい前かな。(交流は)あったんです、東映いってからもね。
Q:そうやって絞られてるのって共演の人たちも分かりますもんね。
絶対分かる。ワンカットワンカット、か〜っとなってるのがお藤さん、目の前で見てるんだから。だけど、彼女から助けは出ないもんね。監督に逆らうんだから。

大映でも最後の頃は撮影所とケンカしてね。一本も仕事しなかったんですよ。全部蹴飛ばしてた。大映もさじ投げて。
Q:何でごたごたしたんですか?
ははは・・女だな。某重役がその女に惚れとったんだ。それはしらねえもんね。すぐ分かった。仕返しが来てから。役者干すくらい簡単だもの。仕事させなきゃいいんだから。役をちっちゃくすればいいんだから。(わび入れは)しません。男だもの。

時代劇と三枚目
一種やけくそ。え〜いいっちまえというもう、どこまで出来るかわかんない。でも結果的にそのあと近衛さんに出会って、まあまあ宿命の間柄になって、時代劇に移ってよかった、僕は。
(現代劇から時打撃に移ったのは)軽い気持ちだったね。第二東映としての封切りの4月の一本目が「次郎長血笑記」だったんだ。しかも次郎長が黒川弥太(郎)さん、それじゃあ気軽に一本目からお世話になろうと。で来たら、森の石松ということでびっくり仰天した。まさかまさかだから。どういうしゃべり方をしたらいいのか、わかんねえもん。
Q:月影兵庫からヒットしていくのが分かりますよね、その(二枚目から三枚目に移行した)ジレンマたるやすごいですよね。
もうどうしようどうしよう、俺は離れていちゃうっていう。

Q:東京オリンピックの年で、それまでテレビパッシングしてたけれど、それからはテレビと一緒にやっていきましょうという、その一発目が「忍びの者」。
ゲスト高田浩吉や、東千代之介、里見浩太朗、山城新伍、みんな応援ででてくれた。
Q:これも大抜擢だったと思いますよ。
一つは誰もテレビやりたがらなかった。

鳥居元宏さん(脚本)のお話
最初はとにかく、二軍だと。大川橋蔵さんも佐々木康監督も、河野寿一監督まで二軍落ちかよなんていうような雰囲気はありましたですね。錦ちゃん橋蔵さん千代之介というのが(東映の)三本の柱で一番最初にテレビにいったのが千代ちゃん。その次に橋蔵さんまで行くのって話もあったし。
テレビが出てきたために映画がしょぼたれてきたと。だから、映画にとってテレビは敵であると。おまえは敵をやるのかと。悪魔に魂を売るのかみたいなことをいわれたりして。そのときに先頭に立って文句言った人が、2年ほど経ったらテレビやってましたよ。やらなきゃ食えなくなってるんですよ、二年も経つと。

土井淳之佑さんのお話
なかなか人間そんなに切り替えできるモンじゃないですもん。大変もたいへん。

ただね、下克上の話がずいぶんあってね。たとえば、スタッフでも、キャメラマン照明、みんな本編のセカンドかサードだったんですよ。メインの人は来ないから、テレビに。だから「忍びの者」なんか、キャメラマンでもこうやってた(カメラを回す仕草)人が来てる、照明なんかでも。
そしたら時代が変わってわずかの年月の間に、主客転倒、本編が寂れちゃったからメインの技師が自分の弟子だったやつが照明やってるそこのサードぐらいを、あの重いライトかつがないといけないんだもの。チーフで、はいここ、はいここ、もっとしぼってとか、そういうことをやってた人が一所懸命ライト担いで、そういう下克上がいっぱいあったんだ。
ただ、仲間からはいろんなこと言われる。俺も全部やられたもん。「おまえテレビでちょっと売れたからって、まっすぐ向いて歩くなよ」なんて、やられたもん、年寄りの脇役に。今に見ていろこのやろう、だけどね。2年でほんと見事にひっくり返った。
Q:痛快でした?
品:痛快だね。(ごますりの仕草)みえみえ。

最後に品川さんにとって時代劇とは?・・色紙に艶(えん) 生命(いのち) 情(じょう)と書かれる
情と艶とあと生命だね。役に生命を吹き込む、それと自分の生命をかける、その生命。
情と艶は、どんな役者でも役に対しても人間に対しても、情がなきゃいかんでしょう。
それとやっぱり艶。色気。役者にとって色気って絶対必要なもの。やっぱり色気のない役者は駄目。ただそれを出すか抑えるかのさじ加減でキャラクターが決まってくる。先輩方に言われたんだけど、女を知れば知るほど芝居がうまくなる、そんなことは大嘘だね。芸能界、名優だらけだ。ただ、誠意を持ってラブすること。たとえ一週間で別れても。やっぱり色気は大事です。



京都映画祭レポ(’15年11月5日 於:京都文化博物館)

京都ヒストリカ国際映画祭、特にテレビ時代劇に焦点をあてた「ヒストリカ フォーカス」には、時間が許す限り参加をしてきました。特に5日は「影の軍団」「赤影」「月影兵庫」と私的には至福の一日でございました!
大地監督がトークショーに登壇されることも事前に分かっていたので、前もってFacebookでコンタクトを取っておりましたよ!
「兵庫」の第1話は、何度か放送ライブラリーで観てはいましたが、大きなスクリーンで大勢のファンと一緒に観賞出来るなんて、きっとこの先もないと思うので、大いに笑って楽しみました!
トークショーでは、大地監督が聞き手に回るほど、品川さんが俳優人生を振り返って、ミスターニッポンのこと、大部屋生活のこと、「月影」のことは何も覚えてない話(笑)、「大吉」のニュークなタイトル秘話。今だから話そう「新選組血風録」の話、印税の話、コメディリリーフとは何ぞや、近頃の若手俳優に物申す的な話など84歳とは思えぬバイタリティで1時間のトークショーを務められました!
現在、作詞家としての顔もある品川さんから「もしカラオケに行かれたら、私の作品をリクエストしてやって下さい、4円50銭がボクに入るんです。チリも積もれば何とやらでね」とお願い(?)がありました。
トークショー終了後、ロビーでは記念撮影にも気軽に応じてらっしゃいましたよ。
ほとんどの参加者の方が撮られたんではないでしょうか。
品川さん、そして大地監督お疲れ様でした。ありがとうございました!(2015年11月8日 若影さま)

京都ヒストリカ国際映画祭、終わりました。兵庫、何とか参加できました。トークショー、若影様が仰ってる通りで、品川さん、お元気そうでした。堰をきったようにお話しされましたよ。昨日のことのように鮮明に、数字も固有名詞も淀みなくイキイキと。じゅうよっつ様がアップしてくださったこの前のインタビューとかぶってる話も沢山ありましたが、もう少し自由度が高かった。大地監督は一言二言はさみながら静かに見守っておられる感じでした。ヒストリカのHP のレポートに出してくれるといいのですが。ちなみに昨年の血煙り街道のトークは出ています。
ところで、第一話、もう放映から50年なんですね。品川さんも客席でご覧になりました。瑞々しい初回の映像、溌剌とした近衛さんの姿、改めて魅力的でしたよ。帰りがけに近くにいた若い男性がこの第一話、おもしろかったよ、と言ってましたよ。(2015年11月10日 レンスキーさま)



「市川右太衛門、近衛十四郎のデビュー時代」より
                (南部僑一郎氏の記事 「別冊 近代映画 花笠ふたり若衆 特集号」‘61年6月下旬号)


「近衛十四郎は非運な日のもとに俳優になった」「「そこへゆくと市川右太衛門の出発は、まるで丈夫に作られ食料を手順よく積みこんで港を出た船のようなものである」と明暗をわけたお二人のデビューについて語られている。
このちゃんの始まりは亜細亜映画。
遥かなる岸辺ー昭和9年という年ー
「ここではいち早く撮影を始めた。無声の時代劇「叫ぶ荒神山」という次郎長の一席。おそらくこれは、発声装置を伴い地方の映画館に安く流して儲けようという気だったに違いない。そのころの配給網の穴であり、おそらくトーキーはまだまだ1、2年では全国的に装備を終わることはあるまいという見通しだっただろう。これがえらい当て外れだったことは、後になってわかる。
その第一回の主演者が、新人の近衛十四郎だった。年まさに19歳、花は今咲き出そうとしている年ごろだ、といえばキザになるだろうか。まだこんな世界になれていないような印象を受けた。ほんの一年足らず以前に、奈良のあやめ池にあった市川右太衛門プロダクションの門をくぐって、時代劇の研究生になったのが、この道の第一歩だった。おそらく、白井はその前年の春、なにか事情があって右太プロをやめ、そのとき、近衛も一緒に出たのであろう。なんでやめたか、たしか聞いたおぼえがあるが、今思い出せない。
近衛は新潟県長岡で、たしか、工業高校か商業学校を卒業すると同時に、いわゆる青少年の無分別、とかく大人たちの言う、あの青雲の志をいだいて関西に飛び出してきたものだろう。
なにしろ、この時の他の面々の顔ぶれを見て驚いた。東亜キネマがつぶれたあとの結城重三郎がいる。彼はのちに松山宗三郎の芸名で時代劇スタアになり、小崎政房の名でシナリオを書き監督し、舞台の演出までした。・・(中略)・・近衛は吉良の仁吉をやっていた、これはもちろん、ご存知荒神山、仁吉の斬り死である。さて、それから先はどうなったか。近衛十四郎主演で2、3本毛色の変わった作品をとった、というようなことは風の便りで聞いてはいたが、とんと消息不明になってしまった。東洋(映画撮影所)も亜細亜(映画スタジオ)もどこかに消え失せてしまった。なにしろ、三年たたない間に、ほとんどの映画がトーキーになってしまったのだから、中小企業のうちでももっとも零細な東洋、亜細亜が存続する可能性はなかったものだろう。」
不屈の魂ー悲運を切り抜ける男ー
そのころは、日本も世界も、変わりかけていた。ドイツではヒトラーが大統領に。日本では対中国戦が始まりかけていた。
「近衛十四郎は非運の日のもとに俳優になった。おそらく、浮き草のような不安に、いつも追い回されていたに違いない。古諺に「立ち寄らば大樹の影」というのがあるが、彼は妙に、いわゆる本筋からそれた会社にばかり「立ち寄」らねばならなかった。
亜細亜がつぶれたあと、どうしていただろうか。彼は、そのころから殺陣がうまかった。おそらく血のにじむような訓練のたまものだったのだろう。彼の若いころの才能とあの姿体と演技力をもっていれば、どこの剣劇一座に「駆け込み」をやっても食ってゆけたにちがいない。
その時から1年たった昭和10年の初夏、6月ごろではなかったかと思うが、わたしは、何の都合だったか、珍しく巣鴨の大都映画をおとずれた。これはひどいスタジオで、今から思えば、よくまああんなところで映画を作っていたものだ、と思うほどだ。門をくぐった左側に本館があって、河合竜斎(故人)が撮影所長だったころである。
そのとき初めて近衛十四郎が入社第一回主演作「銀平くずれ格子」を完成したことを知った。白井監督といっしょにはいり、一緒に仕事をしていたところをみると、二人はずっと一緒に生きていたものだろう。この映画は見ていない。
こんな関係から、その翌年の秋、新興キネマのスタアだった杉山昌三九を大都に入社させた。近衛は順調に人気を得てきたが、まだこの上位に、阿部九州男やハヤブサヒデト、大乗寺八郎などがいて、なかなか力を発揮するまでにはいかなかった。何しろ、大変な労力で、それは紡績女工のように働かされるのである。おそらく1年に8本や9本の主演映画をとらされた。
そうして1年近くがたった昭和10年の歳末に、兵隊検査があり、もちろん甲種合格である。これらの文字は、今の若い人々にとって、廃語だろう。永遠に廃語にしておきたいものである。
11年の正月映画「百万石加賀の荒殿(正しくは若殿)」の撮影中途で近衛は彼の出番だけを取り終わると完成試写もみずに、越後新発田(えちごしばた)の歩兵第16連隊に入営してしまった。今の年でいえば、満20歳、この人気の点からも修行の点からも、もっと大切な時期に、彼は、世にいう「新兵さん」で毎日夜、きたわれなければならない身になってしまった。これも不運のきわみである。まず、現在から思えば、三年間の牢屋生活みたいなものだと思っていいだろう。
昭和14年の秋、ようやく俳優として大都に復帰したが、次第に戦争色濃くなってきたころであった。彼の復帰第一作は現代劇で吉村操監督「地平線」である。これは新宿帝都座(現、新宿日活)でみたおぼえがある。
激しい戦争のさなかの時は、ほとんどだれにも会ってないし消息もわからなかった。風の便りでは、「近衛十四郎劇団」のようなものを主宰して、地方巡業をやっているという噂だった。
たしか、昭和21、2年ころだったろうか、久しぶりに壊れかけた汽車に乗って京都を訪れた。その混乱した車中で、偶然近衛十四郎に何年ぶりかであった。元気だったが、苦しそうだった。
「今度松竹にはいって、も一度研究生になった気持ちで出直す」覚悟ですといったいみのことを語っていた。彼はどこかで買ったらしい一升瓶の日本酒を私に飲ませてくれた。経済的にも苦しかったはずだろうにと思ったが、彼の前途を祝って喜んでのみそして酔った。それからの彼のことは誰でも知っているだろう。じりじりとまるでトラクターが土地を掘り起こしてゆくように、力強くカムバックしてきた。彼のこの努力ぶりはまるで不毛な土地を耕して立派な稔りをあげた農夫のような迫力を感じ私は舌を巻いた。
(「最近作「豪快千両槍」の近衛さん」として、同映画で、お殿様の御前で槍を構えて舞うこのちゃんの写真)
(2016年9月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「近代映画」の松方さんの記事より

●「松方弘樹さんのホームライフ」(近代映画 ’61年09)より
京都の北方、静かな住宅街に松方弘樹さんのいお宅があります。もちろん、お父さんの近衛十四郎さんたちも一緒に生活しています。「7月の末に僕だけの家がこの近所にできるんだけど・・」と弘ちゃんがいうようにお父さんも、「若いうちはもっと自由な生活をするのが必要だ」という理由で、弘ちゃん専用の家を建てることになったのだそうです。「もっともまだ自力じゃ建てられないんで親父に建ててもらってんだ」と笑います。
(何枚もある写真の中の1枚は、応接間で、このちゃんの煙草に火をつける松方さん、それを見守る水川さん。もう一枚は、お二人で腕相撲中。「今日は弘樹のダシだなあ!」と近衛十四郎さんは大きく笑いながら応接間に現れました。目の中に入れてもいたくないほどかわいいという形容詞が文字通りあてはまるような、優しお父様とお母様にかこまれて、弘ちゃんはスクリーンにみせる剛快さの反面、ハイティーンらしいナイーブなあどけなさがうかがわれます。お父様との腕相撲は弘ちゃんに軍配があがりました!)
本文では、まず、松方さんの一日の紹介のなかで、
仕事に疲れて家に帰ると、もし十時までに帰った時のにぎやかなことは大変です。「なにしろ存在をしめすんだろうなあ」とはお父さんの近衛十四郎さんの言です。「帰ってきたらまずコークを飲むことになってんですよ。親父のビールと同じなんだね」といたずらっぽくお父さんのほうをうかがいます。家では、お酒はほとんど飲まないという弘ちゃん。「だってノンベエの付き合いはできないもの」というのが理由とか。
休みの日についてのなかで
「野球のチームを欣也ちゃんと一緒につくろうっていってんですよ。資金の関係があるから欣也ちゃんのおとうさん(市川右太右衛門)に総監督になってもらってうちのおやじに監督になってもらおうかと話してんだけど」と現代青年らしいちゃっかりしたところを見せます。

●「わたしの少年少女時代」(近代映画 ’66年06)より
「あわ雪のように消えた初恋」のタイトル記事中、このチャン関係のところを抜粋。
小さい頃は、泣き虫小僧で、けんかして負けて帰ると、「負けてくる奴は家に入れるわけにはいかない。もう一度、行って勝ってこい!」と親父に怒られたもんです。「親父はスクリーンでバッタバッタと人を斬ってましたからね」それで喧嘩が強くなったのです。東京赤羽の第三岩淵小学校に入学したころはガキ大将でした。 (2016年9月 資料ご提供・中村半次郎さま)


「時代劇は死なず ちゃんばら美学考」でのこのちゃん評

本日、大阪梅田まで「時代劇は死なず ちゃんばら美学考」を見に行ってきました。
内容は、時代劇の誕生から衰退までのドキュメンタリーでした。映画関係者からのインタビューがほとんどで、時代劇離れの原因は、殺陣がおざなりになってきたことも大きい、ちゃんばらは日本人の精神性そのものであるというお話が印象的でした。
その中で、戦後最高のちゃんばらスターは誰か、という話で問われた人が皆「近衛十四郎」の名前を挙げ、その中に松方弘樹さんも答えていました。
「近衛さんは刀そのもの、怖い。」
「共演したときに殺陣の手順を教えてもらったのに、向かい合ってグワッとにらまれると頭の中が真っ白になった。」
「勝新太郎さん、鶴田浩二さんの映画に出たときに撮影現場を見せてもらったが、二人とも近衛さんとやるときは逃げ腰だった。」
というのが聞けて、このちゃんの剣豪ぶりを改めて認識できました。(2017年1月 こーじさま


釣り堀・天国での記念写真

夕刊に読者からの電話投稿のコーナーがあるのですが そこに、今日こんな記事がありました (かいつまんで書きますね)
『松方さんが亡くなられて思いだしました。近衛十四郎さんが二人の息子さんと京都の亀岡の釣り堀におられるところに行き合わせて記念写真をとったんです そのあと少しして近衛さんは体調を崩して・・・するとあの写真のネガがないかと声をかけられ近衛さんの葬儀の遺影に使われた』
と きっとリラックスしたいいお顔だったのでしょう そのご主人は一緒に写真を撮ったことが自慢!(そりゃそうよね)奥様はファンだったのでもっと嬉しかった(わかります!!)
ちょっと 悲しいけど その方にはかけがえのない思い出となられたでしょう
(2017年2月1日 のりりんさま)


「ファミリーヒストリー 松方弘樹・目黒祐樹 〜芸能一家の歳月 兄に送ったエール〜」(2017年2月2日放送NHK)
●冒頭、1月21日、74歳でに亡くなられた松方さんを追悼。2016年1月にファミリーヒストリー(以下FH)の出演が決まった直後に病に倒れられ、病状回復を待って、目黒さんと共に出演予定だったが叶わず。目黒さんは、きっと近くにいてみていてくれると。(以下の放送は、’16年12月23日収録)
●司会の今田耕司さんの「時代劇のイメージから、家系図残っていそう」という問いに、家系図は残ってない、と目黒さん。
(「豪快千両槍」の映像) 品川さんの、「本番になったらブーンと来るんですよ(と、お顔の前を刀がぐんと伸びていく様子を手で表現)NO1は近衛十四郎だ」
●このちゃんの生まれ故郷長岡市西新町で
長岡大空襲(S20年8月1日)で多くの戸籍が消失し、目黒家の戸籍もS、20年以前は残っていなかった。西新町に目黒さん、松方さんと付き合いのある親戚はいない。
が、幼いころ一緒にこのちゃんと遊んだという方が見つかる。「運動万能、体格は良い、顔はきれいで人気者だった。よくちゃんばらゴッコした。セリフがうまくひかれる「おーい、皆の者、集まれ」って」。長岡は豪雪地帯で(「親父はよく2階の窓から出入りしていたと言っていた」と目黒さん)よく映画館へも通った。「好きだったね、チャンバラ映画。「俺は有名になるぞ」と口癖のように言ってました。「狭い長岡じゃダメだと。いつか剣戟スターになりたい」
(白田さまによると、西新町を歩き回って見つかったのだそう。「NHKを騙る怪しい人間がいる」と噂になるほど調査されたのだとか!でも、「話することはないけどお茶でも」というあたたかい町だったそうで。)
●親戚の方々のおはなし
S7年18歳で鉄道会社に就職したが、夢捨てがたく、13歳(S2年)で父・多七がなくなって以来、3人の子供(姉、このちゃん、妹)を農家と副業の髪結いで育ててきた母・ミカに相談。が、もちろん、母も家族もいとこも猛反対(このちゃんの姪御=妹さんのご令嬢のお話)。その反対を押し切りS7年、市川右太衛門プロに飛び込み、2年後(20歳)に初主演。
●従兄弟のご令嬢のおはなし
その頃母ミカは、毎朝人しれずにお参りしていたが、主演を張る役者になったことを感謝して、後輩幕を奉納(長岡市西新町 目黒寅一 近衛十四郎と書かれた幕)。このちゃんは、その幕の存在を母の33回忌に訪れてはじめて知り、S50年9月15日、向拝幕を奉納(京都市 目黒寅一 近衛十四郎と書かれた幕)プロフィール 思い出ばなし3「母子のいいお話」同 思い出ばなし3「生まれ故郷 西新町の今昔」にも関連のお話あり)
●水川さんの家族
「トーテムポールを削って飾り物にしている」という目黒さんの記憶どおり、水川さんの父・角西清太郎は角西武山という名前で主にアメリカへの輸出用の象牙彫刻をほっていた。
(白田さまによると、このちゃんが仕事のないときに彫られた竜の彫刻もあったそうです。絵心は??でも、力強い作品だったとか)
水川さんは上野高等女学校(現・上野学園高校)を成績優秀者に名を残して卒業。浅草で映画を見るのが楽しみで、女優になるのを夢見ていた。S10年17歳のとき、友人の紹介で大都に入社。
●このちゃんとの出会い(週刊明星’68年6月30日号「オレにはすぎた女房だった」 思い出ばなし5「ご夫婦の歴史」に同記事あり
所内の女優さん、カフェの女給さん、芸者さんに十重二十重と取り囲まれたこのちゃんはめったに顔も見られない存在だったが、競演が続き恋仲に。S16年結婚、翌S17年松方さん誕生。
●戦争
S20年3月召集令状。「オレは絶対死なない。生まれたばかりの息子のために必ず生きて買える」と水川さんに誓う。長岡からの出征には、100人近くの人が見送りに来た。
羅南(現・北朝鮮北部)に送られるが、出征5ヶ月で終戦。ソ連軍の捕虜となり、延吉の収容所に送られる。(プロフィール思い出ばなし5「大宅壮一のおしゃべり道中」にもお話あり
●延吉の収容所で一緒だった方(このちゃんより10歳下)のお話
「絶対死なないで2人で帰ろう、ボクは映画を通じてね、色々研究して舞台の装置から。そうして国民の皆さんにご奉仕すると思う。お前も絶対に死なないで、お母さんのところへ帰れ」と励ましあった。皆が生きる気力を失う中、このちゃんは、国定忠治を演る。「本物の舞台でやるようなセリフをはなして、みんな喜んで。その時だけは、頭空っぽになって、うわーってなって。セリフはうまいし、プロ中のプロだからね」
収容所では発疹チフスが流行し、このちゃんもそれにかかりシベリアに送られずに帰国(S21年10月)。(絶対生きて帰るんだという気持ちを持って戦争に行ったというのは何度も何度も言ってましたね」と目黒さん)
一方、この方は、シベリアに送られ、寒さと空腹、過酷な労働で倒れ、銃を突きつけられる。その時、このちゃんの言葉がよぎり、「帰らなきゃいけない、近衛さんと約束した必ず買えるって言ったのが嘘になると思って、立ち上がったんだよね」。そして2年後、帰国される。
●実演
芝居小屋を回るが、舞台の芝居に戸惑い、目の前の客に見せる演技ができずに、このちゃんの一座の実演は、はじめ、あまり流行らなかった。
どうすれば客を喜ばせるのことができるか、当時女剣劇で10代ながら座長を務めていた浅香光代さんに教えを請う。「立ち回りはできるんですよ。だけどね、できても「チャチャチャ」速すぎるの。」眼の前に居る観客の反応を待つという意識が欠けていた。「(観客が)手をたたくまで絶対に動いちゃだめですよって。映画の人は、照れちゃうんですよね。チョンとなってから動いちゃだめ。客が手を叩いてから動きなさいっていうのさ。ウケたから、もう本当に感謝してましたよ。」
S22年目黒さんが生まれた頃は、ストリップが全盛時代。近衛家は再びぎりぎりの生活になる。(4歳の頃のみかんが一山買えなかった思い出)
●松方さんの映画デビュー、目黒さんのデビュー
はじめは両親の職業である俳優はいやだと上原げんとの内弟子になり歌手を目指すが、五木ひろしさんの歌を聞いて見切りをつける。
だが、俳優になった当初は、このちゃんから「お前はダメだ。やめてしまえ」と怒鳴られる。「どこが悪いかなんて言わない、ただ怒鳴られる毎日でした」
子役をしていた目黒さんは、特別扱いされるのが嫌で、外交官を目指し高校はアメリカへ。が、映画館に行って、自分がその中にいたらどうだろう、いいだろうなという角度で見ている自分に気づく。帰国後映画界デビュー。
●殺陣のお話
最高視聴率35.8%の「月影兵庫」などでこのちゃんと共演の品川さんのお話
「時代劇の重みというか、魅力というか、強さというか、それを足元からひっくり返されるがごとく教えてもらった人なんです。ものすごい。本当にね、切っ先がこう、顔を斬られるぐらいに伸びるんです、剣が。時代劇ていうのはこういうもんだと。」
マネージャーの川野知介さんのお話(松方弘樹芸能生活10周年記念公演のポスターを見ながら)
「ババーとやってパット担ぐじゃない。あれはあの家の特徴だよ。かっこいいんだよ。止めるっていうか、間をとってこうね、睨むのがね。(このちゃんが教えた?という問いに)それは見ておぼえたんだよ。役者は親子でもライバルだよって、常にいってたからね。(「いただき勘兵衛旅を行く」で3人ご出演の回のスナップ写真)浩樹さんは「おまえ芸は盗め」って言われてるから。祐樹さんには教えてたけどね。それはかわいいんだろうね、次男坊は」
●元家政婦さんのお話
そのころ松方さんは「仁義なき闘い」で活躍中で、このちゃんもこっそり見に行かれていた。リビングでお二人で「オレにだんだん似てきたよ、とかにてきたよね」とか話していた。
水川さんに40年前にもらったお守り。中から、お守りとともに5千円札が。感激して涙ながらに「いい人でしたからね」と言いながら、大事そうに元に戻される。
●お二人が相次いで他界
再び川野知介さんのお話
役者親子3人を支えていた水川さんが、S51年7月他界。酒に溺れるようになる。「止めても止まるわけがない。先生が「うるせえ」といえば終わりだもん。「人の飲む酒に文句言うな」ってなもんだよ。男は女房に年取って死なれたら終わりだよ。だから先生もお酒飲んじゃったわけだよ。余計にね、余計にさ」としみじみ語られる。
そして、このちゃんもそれから1年経たずに他界された。「途方に暮れましたね。いざ両親いなくなったとき、どう生きていいかわからない。」「やっぱり兄にもボクにも、チャンバラ魂というかな、時代劇が無性に好きで好きでたまらないという、そういう魂みたいなものがどこかにDNAに入っているのかもしれないですね」と目黒さん。
●まだこの時点では闘病中だった松方さんに
「親父からガンガン言われてはね返して来た男ですから。今回も必ずはね返して。まだ若いですからね。帰ってきてくれるんじゃないかな」と目黒さん。
●収容所で励ましあった方とこのちゃんの交流
帰国10年後、このちゃんから連絡が入る。「オレだ、」「近衛さん?」「ああ、ボクだよ、ああ、お前と会いたくて会いたくて。芝居みにこないか?」との誘いだったが、仕事が忙しくて実現できず。プロマイドが送られてくる(2枚のサイン入りプロマイド)。いつか、松方さんにその話を伝えたいと思って居た。
●このちゃんの形見
松方さんからこのちゃんの形見の腕時計と言ってもらった。「おじさんにやるから持ってろよ」と。「(松方さんが)元気になったときにはこの時計して行ってやろうと思ってる。」


ザ・インタビュ(収録日2015年11月11日 放送日12月12日 松方さんご逝去後、再放送))
インタビュアー:石原正康 東京赤坂口悦にて  

写真(このちゃんと水川さん、幼い松方さんと目黒さん、おばあちゃん、犬)
近衛十四郎は昭和のはじめ鉄道会社勤めから映画俳優に転じたたたきあげ。セリフ一つない端役から時代劇のトップスターにまでのぼりつめた。定評があったのは殺陣。通常より10cm長い刀を素早く自在に使いこなす立ち回りが人気。日本一のチャンバラ役者、そのDNAが松方さんに受け継がれた。
石原(以下、石):きびしかったですか?
松方(以下、松):昔の親ですから。今の僕を含めなんですけど、子どもたちにへつらわないですね。もう絶対ですから。ですから母親もいやいやでしょうけど、服従。でも妻という職責をちゃんと全うしてましたね。
石:お酒はお父さんもつよかった?
松:うちの父親は僕が物心ついたときからもちろん飲んでましたし、ビールをだいたい1ダース、ここ(脇)において飲んでました。それが終わってサントリーのだるま、オールドを8分目ですか。それくらい晩酌、うちで飲むときですね。

松方さん誕生の頃、出征中、2年近い抑留生活。帰国後、劇団を旗揚げし地方周り、目黒さんとともに貧しい暮らしを経験。
松:帰ってきてホントは映画やりたい、でも6大スターがいましたんで、一応地方巡業、ぶっちゃけていえばドサ回りを母親と回ってました。学校上がるまではずっと一緒に行ってました。(どうやって芝居をするのかは)知らず知らず、門前の小僧だとおもいます。でも自分は俳優になる気はなかったです。父親が苦労してるのをみてましたし、母親と質屋が良いもしましたから。ほんとうに大変な時代だったですね。今考えるとね。

19050年台、娯楽の王様は映画。このちゃんは東映と契約、柳生十兵衛などの当たり役を得て、再びスクリーンで活躍していた。松方さんは歌手を夢見る
松:17歳になって、大川博という社長のところに、一年契約ですから親父が更改に来る、そのときに「お前ちょっと学生服来てこい」っていうんですよ。で、東京駅まで行って、本社に行くと、父親と大川さんといて、「映画にでてみないか?」というんです。でも、「歌手になろうと思ってます」とその場は。
帰ってから家族会議です。「お前歌手になりたいのか?」「絶対なりたい。」「役者はどうだ?」「役者は興味がない。」母親がうまいこと言うもんです。「歌を出すにはすこしくらい芝居心があったほうがいい。詞も理解できるようになるから1本くらい出たら?」で、「でる」と。

でも、映画最盛期のころで、「「十七歳の逆襲 暴力をぶっ潰せ」をやってるときに、もう次が来る。甘いマスクと父親の後押しもあっていきなりの主演。その後、時代劇でこのちゃんと共演、徐々に力をつけていった。(写真:「柳生武芸帳 独眼一刀流」)でも、殺陣の手ほどきを受けたことはない。松方さんはこのちゃんの言葉を著書「松方弘樹の泣いた笑ったメチャクチャ愛した」に綴っている。「学びはまねびから来てるんだ。優れた技は、教えてもらうよりしっかり観察して、真似ることから始めろ、そして習うより慣れろ、それが近道だ」その教えで鍛えられた。
松:手を取り足を取り教えてもらったことはないですけど、父親の現場は随分見に行ったりはしました。諸先輩の現場は月に10本くらい入ってるんです。僕、左利きなんです。サウスポー剣法やってたが、オーソドックスじゃないからと諸先輩に言われて、大変だったです。毎日昼休み夕方休み、1時間の休憩の間に扮装したまま、剣会の方たちと一緒に毎日やりました。

(映像:十兵衛に扮した松方さんの立ち回りシーン)
松:立ち回りは一番の見本は近衛さんがいるわけで、速く見せるコツがあって、静があって初めて動があるんです。ぱぱっと斬って、この間が大事なんです。止まるときのかっこよさが、歴代時代劇やってきた方々それぞれの型があるんですね。
石:70年台初めの頃はどんな時代ですか?
松:30そこそこは、父親を亡くす、母親を亡くす時代なんですね。今までは父親がいたもんですから、寄らば大樹の陰で安穏としてたんですけど、「俺はちょっと俳優業を真剣に頑張らないと偉いことになっちゃうぞ」。菅原文太さんがやりたいような役を全部持っていく、もんもんとしている30歳です。

映画のプロデュース、監督は、このちゃんが色んな作品残しているし俳優さんとしてもすごいし、殺陣も世界一だと思ってる。超えたいなと思ったとき、同じことやってては超えられないと思い、プロデューサーをてがけた。
石:これからの夢は?
松:とにかく一番は健康で。どういう人生が最後半残ってるかわかりませんが、最後まで健康で。寝たきりというのも嫌ですし、この前人間ドッグにも入って、まだ結果は出てませんけど。

松方さんが人生で最も大切にした言葉として、色紙に「忍、断」。
松:ほとんど死語になってますけど、「忍と断」です。我慢するのと決断するのとです。これは僕が考えたのじゃなくて、父親がこれをずっと色紙に書いてたんです。で、いい言葉だなと思って受け継いで、忍と断というふうに。


徹子の部屋(2017年6月6日放送)より抜粋

〜目黒さんは、ご住職の、亡くなられた方のことを話すのも供養になる、という話を聞いて、松方さんのことを話そうとご出演されたようです。お話は、写真や、松方さんが以前に「徹子の部屋」出演されたときの映像を見ながらすすめられました。〜

黒柳さん(以下、黒):お父様は相当厳しかった?
目黒さん(以下、目):父も若かったし、兄貴もデビューしてかなり芸能界で年を過ごしても、長男であるということで、相当厳しい言葉を。例えば、父が兄の映画を見たりなんかすると、帰ってくると「おまえな、あんなことしてたら明日からいなくなるぞ」って平気で言うんですよ。役者にとってすごく厳しい言葉じゃないですか。そいういことを父は兄に向かって。僕も芸能界に入って父と一緒に仕事させてもらったりしたんですが、僕には、もちろんほめてはもらえないですけど、そんな厳しいことは言わなかったですね。結構落ち込んでいましたよ。父親に言われる言葉って凄い重いので、結構こたえてたみたいです。

(’79年に37歳の松方さんが「徹子の部屋」に出演されたときの映像)
黒:小さい時は野球の選手になりたかったって?
松方さん(以下、松):はい。生まれたとき、うちはわりと優雅だったんです。ある日突然だめになりますんで。
黒:お父様の近衛十四郎さんは貴方がお生まれになった時は非常にお仕事が順調でらした?
松:はい。うちの親父というのは、とても波乱万丈の人生を送りましてね。そういう波というのが非常に大きいんですね。その点、僕もなぜか似てるような気もするんですけど。非常にその波が大波なんです。ですから、その波のどん底にいる時はヒドイもんなんです。仕事ないですし。ですから僕が小学校の高学年のときは、全部売りくい生活でした。
黒:みかん買ってほしいというのは?それもなかった?
松:ええ。買ってくれと行ったのは弟でしてね。

(画面は再びスタジオ)
目:憶えてます。父親、母親、兄貴、私と4人で東京のとある商店街を歩いていたんですけど、正月で、こんな小さい(両手のひらをふくらませる)みかん一山いくらで、あれが欲しくて、欲しい欲しいと言ったんです。みかんが帰る状態じゃなかったんだと思います。それで、兄は僕より5つ上ですから、家庭の事情がわかってるんです。だから、いきなり僕の手をグウァッと掴んでバーって遠ざけるんですよ。あとになってわかったんですけど、あの時は、一山いくらのみかんが厳しかったんだろうな。父親と母親としては僕にそれがだめだよというのが忍びなくてね、それで、兄貴が察してぐっと僕の手を引いたんだとおもいます。
黒:すごいですね。そのときに、父と母に恥をかかせないというか、黙らせるというので引っ張っていこうというのは。
目:僕は、いつもやられてる兄貴に引っ張られるから、グーッと引っ張られるだけなんですよね。



『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』 (週刊文春 昭和57年3月25日号)

もうだいぶ前に北海道での大宮デン助と近衛十四郎一座の話でお世話になった知人から、週刊文春に連載されていた『マキノ雅裕の映画界内緒ばなし』の切り抜きコピーが送られて来ました(昭和57年3月25日号)。そこには、脳出血で死去した剣戟王阪東妻三郎の思い出に引き続き、「川のそばの釣り堀がある家」という見出しで、サイトでもこれまで紹介されたことがないんじゃないかと思われる、近衛十四郎に関する大変に興味深いエピソードが語られています。
全文を紹介します。

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近衛十四郎も、死んだのは脳出血でだったね。
彼がテレビ映画を撮っているころ、一ぺん糖尿病で倒れて、東映の岡田社長から「まだ本数が残っている。立廻りも多いし、何とかならんか」と電話がかかってきたことがある。ワシのかかりつけのいい医者が渋谷にいるもんだから「紹介してくれ」とね。

そのときは近衛がワシの家に「助けてくれ」と這いずるようにして上がって来たな。ワシが「行こ!」と車に乗せて連れて行った。福田先生といって、ワシがいまでも通っている医者なんだけど、二日間特別の治療をしてくれて、動けるようになったんです。
それからは仕事がすむと、新幹線に乗って京都から治療に来ていた。深夜でも「先生お願いします」と戸を叩いてね。

あれは酒が過ぎたんだよ。ムチャ飲みするわけじゃないんだが、家で晩酌を毎晩やるから。
「もう飲むなよ」というと「飲みません」と断言してたのに、テレビのコマーシャルを見たら、息子の松方弘樹と一緒に飲んでるじゃないですか。「ウイスキーならいいと思う」なんて自分で勝手に決めちゃってね。

近衛とは松竹で『浪人街』(三十二年)を撮ったのが最初で、彼が東映に来てから付き合いが深くなった。
松竹では大スターなみのあつかいだったけど、東映に移った最初のころは、かわいそうだったな。
でも『柳生武芸帳』を何本か撮って、シリーズの最後のころは東千代之介や大友柳太朗が近衛の敵役に回ったことがあった。
古くから叩かれている役者だから、演出家も会社も、近衛のほうがよく見えてきたんだよ。一ぺん落ち込んで、またジリジリ這い上がった役者というのは息が長い。

生真面目な男で、早寝早起きだし、浮いた話はあまりない。外で飲むタイプじゃないしね。釣りが好きで、川のそばに家を建てて釣り堀をつくったり、おおらかな生活が好きだったようだ。家庭も地味だったね。
役者らしいハデさはないけど、裏方に評判よかったのは、そういうところでは金を切るからだろうな。自分が苦労を知っているから。
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追伸
この号の『〜映画界内緒ばなし』のシメは、「松方弘樹は離婚してよかった」という見出しによる、弘樹の離婚と再婚の話。ここでも近衛について少しだけ触れられているので、その箇所を抜粋しときます。

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・・・弘樹は立廻りでも相手を本当に殴っちゃったりするから、裏方にはあまり評判がよくなかったな。
だけど、オヤジの前ではピリピリしていたよ。厳しかったんだね。近衛が「同じ道をいくなら厳しくするんだ」といっていたから。普通はいいかげん甘くなるもんだけど。

だから、オヤジが死んでからでないと、あんなふうに女房を代えたりはできなかったんだろうな。
オヤジにすすめられてもらった女房と、子どもまでできた仲でありながら、うまくいかなかった。それでもオヤジが生きてる間はグチをこぼさなかった。死んでから別れる気になった、というのは分かるね。

ワシもあれは別れてよかったと思うよ。だって、亭主のオヤジが死んだのに、葬式に女房が列席しないなんて、どう考えたっておかしいもん。そんな女房を相手にしてたら、自分が死んだときのことを考えると淋しくなるよ。ケガ一つしても面倒みてくれないんじゃないかと思うしね。葬式に子どもも出さないんだから、頭に来るのは当然だよ・・・
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なおマキノ雅裕は、プログラムピクチャーの大御所であるマキノ雅弘監督が、『ちゃんばらグラフィティー 斬る!』を総監修した1980年から1989年まで使っていた職業名。1990年以降はマキノ雅広を使いました。(2017年7月10日 三四郎さま)



「ザ・ドキュメンタリー〜昭和最後のスター松方弘樹〜知られざる素顔」(BS朝日2017年10月5日放送)より

せんじつ放送された『ザ・ドキュメンタリー〜昭和最後のスター松方弘樹〜知られざる素顔』

弘樹の俳優としてのルーツは、父である時代劇スター近衛十四郎の圧倒的な存在。来る日も来る日も目に焼き付けられるのは、「天才剣豪俳優」と謳われた近衛の殺陣。

近衛が石原裕次郎と共演した『城取り』という映画。この姫路ロケへ弘樹が訪れたさい、恐ろしく長い槍を縦横無尽に扱う近衛の姿に、あの裕次郎が「凄い!」の声をあげていたという。

弘樹はそして『徹子の部屋』において、「日本刀を持たせたら親父は日本一、日本一ということは世界一だと語り、戦後、東映で近衛作品のいくつかで助監督をつとめ、弘樹の主演映画のメガホンを取った中島貞夫監督は、「いや〜、(近衛の)立回りには誰も敵わず、弘樹ちゃんなんかは特に恐れてたんじゃないですかね。だって、鶴田浩二さんなんかも皆(近衛の)立回りを怖がってましたから」と、こう振り返る。
しかも、弘樹はサウスポーだったから、「東映で時代劇をやるというのが左利きというのは、近衛さんは許せなかったんじゃないか」ともいい、「時代劇をやるんだったら右利きに直さなきゃいけない。だから、直しながらやってたんですけど、まず出す足から取り組んだ。しかし、共演のときなど、近衛先生が弘樹ちゃんに現場で教えることはいっさいなかった。あえて教えなかったんじゃないかな。もういいかげんに口を出すかなと思っても出さないんですね。アドバイスもしなかった。ある作品で近衛先生が弘樹ちゃんを竹刀で殴るシーンがある。バシッ、バシッと、まともに殴りますからね。まだわからんのか!というしごき方をしていたのを覚えてますよ。だから痛いだろうなと思って、私が少し加減してください芝居なんだからといっても、これでもか!これでもか!と、厳しい方でしたね」とは、東映で近衛と弘樹二代に殺陣をつけた剣会の「怒鳴りの上野」こと上野隆三の話。

近衛と弘樹のマネージャーだった川野孝右も、「先生(近衛)は厳しく、絶対に褒めない人だった。(弘樹の)立回りは上手くなりましたかって聞いたら、あんなの立回りじゃない。棒を回してるだけだって。弟の祐樹(目黒)ちゃんには手取り足取り教えたことはある。しかし弘樹ちゃんには見て覚えろ盗んで覚えろといつも言っていた。先生は親子でも役者はライバルだと言っていた人だった」と語る。

そんな厳しい父と子を繋いだのは、へら鮒釣り。これが、後に大きなマグロを捕獲する、釣り人弘樹の原点になった。

まあこんな感じで、近衛に関するエピソードは、これまで映画雑誌や数々のトーク番組および『ファミリーヒストリー』で紹介されたものと代わり映えはしません。
それでも、おそらく結婚何十周年かの記念に撮られたのだと思いますが、紋付袴と黒の着物で正装した近衛夫婦二人のものや、弘樹・祐樹と三人で釣りをしているものなど、初めて見る写真が多く紹介されていました。
上野が語っている近衛が弘樹を竹刀で殴るというのは、『中仙道のつむじ風』の最後で描かれる両者の決闘場面でしょうか。
この作品の殺陣をつけたのは、故・谷明憲だったと記憶しているのですが。(2017年10月10日 三四郎さま)



「ラジオ深夜便 銀幕のスター(NHKラジオ第一・2018年3月30日未明放送)」での目黒さんのお話
(聞き手=迎康子さん(以下”迎”と略) 語り=目黒祐樹さん(以下”目”と略)

目:大正3年4月生まれ、新潟の長岡市出身です。

迎:まさに戦前戦後、第一線で映画スターとして活躍されました。映画の当たり役としては「柳生十兵衛」シリーズ。
目:そうですね。映画では松竹時代から自分のシリーズとして東映も引き継き演じさせていただきました。本人も愛してやまなかった役らしいです。その後に、大勢の俳優さんが「十兵衛シリーズ」を演じてらっしゃるけど、家のちちの思い入れの強い役柄だと思ってます。

迎:近衛さんはそういうお話はおうちでは?
目:まだ子供でしたからね。ただうちに、剣豪小説の本が沢山積んであったり本棚に並んでいるんですけど、その中にたしか、柳生十兵衛関係の本が沢山あったような、そういう記憶はあります。読み込んでたんじゃないですかね、ずいぶんとね。

迎:そしてテレビですと「素浪人シリーズ」という1965年から始まったTV番組ということで、私も一家揃って茶の間でみてました。なんとまあかっこいい刀さばきをなさる方だろうと。
目:ありがとうございます。父親の話になると、だいたい多くの方が、「お父さんのチャンバラよかったね」とおっしゃってくださる方がいらっしゃるんで、息子の私としても非常に嬉しいです。

迎:”剣豪スター”という呼び名も近衛さんが初めてじゃないかと思いますが。
目:おそらくうちの父がそういう呼ばれ方では一番めの俳優じゃないかと思いますが、それまで多分、そういう呼ばれ方をした俳優さんはいないんじゃないか言う気がします。

迎:刀の取り扱い方が速いですよね。
目:天性の運動神経があったんですよ、うちの父親は。野球なんかをやってもとってもうまかったですしね。よく考えると刀を振るときのスピードというのは、手首の柔らかさと強さ、手首を刀が止まるはずの位置なのに、ぴゅっと、スナップを効かせたような振り方をするんですけど、そうすると切っ先の部分が、ひゅっとこうスピードが出る、切っ先が走るんですよね。それが映像ですごくスピーディに見えたんだと思います。

迎:カメラマンの方も大変ですね。
目:そうなんです、だから、なかなか画で追いきれないようなスピードがあったと思います。

迎:しかも刀が長いんですよね。
目:そんなに大男ではなかったんですけど、手も足もそんなに長くなかったんだけど、人一倍長い刀を。息子の僕がそばで見ていても思うくらい、よくあのスピードでビュンビュン振り回すなと言う、これはやっぱり天性のものと長年かけた鍛錬と言うか訓練の賜物だったんじゃないかなと言う気がします。

迎:長い刀にしようというのはお父様の工夫だったんですか?
目:工夫するのがすごく好きでした。刀ももちろんですけど、長い刀を、例えば普通の人より速く振れたとしたら、絶対的に映像は美しいですよね、ダイナミックだし。そのために人の何倍も多分稽古に費やした時間があったんじゃないかなと思いますけど。ですから、刀の長さを人の長さより長くすると見栄えもいいと、それプラス、今度のこの役にはこういうかつらがいいだろうと、床山さんと長い時間かけて相談して、今度の映画のこの役にはこういうかつら、衣装はこういう衣装、不思議なことに「素浪人シリーズ」の中でですね、浪人といえども侍なのに、大刀一本しか差してない場があるんですよね。普通は二本差しですよね。それも、多分親父のアイディアで、あれは多分、長い刀を強調する工夫だったんじゃないかなと、本人から聞いたわけじゃないので、私の想像なんですけど。一本ストンと侍のくせに差してると、刀が長いだけにすごく目立つんですよね。しかもズシッとした感じに見えるので、かっこよかったです。

迎:ある種、演出家といいますか。どうしたら見栄えよく、迫力ある映像がお届けできるかと。
目:そういうことを常に頭の中で、次の作品、次の作品の役、次のストーリーにあわせていろんなことを工夫するのがすごく好きだった、まあ、必要に迫られてだったのかもしれませんけど。しょっちゅうそんな事を考えて色んな人と相談してましたね。

迎:刀を逆手にもつというのは。
目:「柳生十兵衛」という映画の中で、刀は順手で持つんですけど、それを画面の中でぎゅうっと柄の部分を逆に持つんですよ。

迎:手のひら返して
目:そうなんです。
これね、剣道やってらっしゃる方とかから大変、最初の頃はご批判があったらしいんですけど。
刀を何というふうに持つんだと。こんなのは邪道だと、結構たたかれたらしいんですけど。それにもめげず何本か続けているうちに、面白いじゃないかという意見もだんだん増えてきて、それで後に、勝新太郎さんがやられた「座頭市」とか忍者もの、今忍者の立ち回りと言うと、必ず刀逆に持ちますでしょ、あれを一番最初に映像の中ではじめたのは、おそらく、うちの父だったと思います。

迎:それも自然じゃない映像で印象づけることを
目:逆に握りかえるところをアップで撮ってたような気がするんですけどね。
工夫するのが苦しんでもいるんだろうけど、楽しんでもいて工夫を重ねてたんじゃないかなと思いますね。

迎:そして、刀だけでなくいろいろな武器といいいますか
目:時代劇で使われるだろう、おそらく侍が使うであろう武器、たとえば槍とか、捕物だと十手とか、棒術だったら棒とか、ありとあらゆる時代劇の中に出てくる武器は何を扱わせても、ほんとに、息子の私が言うのもなんですが、上手だったんじゃないかなと様になっていたんじゃないかと、ある意味格好良かったというか。
それはもう思いましたね、

迎:稽古はどういうふうに?
目:映画に出る前にずいぶんと舞台で全国巡業していた時期があったので、そういう時代に後の剣豪スターを呼ばれるような土台を、、チャンバラ、たとえば二刀流はこうだとか、たとえば刀が折れたときには手近にある棒でどういうふうにつなげようとか、槍を握ったらどういうふうに振り回すとスピードがでるとか、そいういう工夫をずいぶん舞台で何年もやってるうちに、稽古して、多分人の見えないところでビュンビュン振り回したり擦りむいたりしながらやってたんだと思いますね。

迎:では、あまりご自宅では手取り足取りとかは。
目:あまりなかったですね。でも1回だけはっきりと覚えているのは、京都で撮影があって、親父の実家に泊まって撮影所に通っていたんですが、ある朝、庭に雪が3〜4cm積もってたんです。父が一声「お前、木刀持って、庭へでろ」って言われたんです。どうしたのかなと思って。そんな事言われたこと無いし。で、木刀持って庭に出ると、親父が向こうで手をだらんとして、親父も木刀持ってるんですけど、僕に、「ゆっくりでいいから、俺に斬りかかってこい」と。それで言われたとおり、ゆっくり斬りかかったんですよね。そうすると、親父が避けるんですよね。あ、よけたな。「今度は俺が斬りかかるから、お前避けてみろ」で、親父がゆっくり僕に斬りかかってくるんで、僕は避けたんですけど、「俺と違うだろ、避け方が」って。
どう違うのかって、僕は後でよおく見たら、肩が中に入って、ほんとに避けると、カメラに映ったときに、避けたように見えないっていうんですよ。カメラに写ったとき、映像になったときに、たとえば本当に刀で斬るわけじゃないんだから、刀で斬るよりも、より斬ったように見えるように、より避けたように見えるように、より飛んだように見えるように、いろんな”より”があるんですけど、これはあくまで映像用なんだけども、よりらしく見えるのが我々の仕事なんだぞ、というようなことをその朝、親父に教わりました。

迎:お父様の中にはいつも、画面ではどういうふうになるのかということが。
目:そうです。だから、カメラがここにあったときにはこうやれば斬ったように見えるとか、この角度からだったら、絶対に斬れたように見えないとか、そういうことを常に計算したり、頭の中に入れながら刀を振っていたんだと思うんですよね。だから、お前の避け方じゃ、実際には避けてるんだけど、映像で見ると避けたように見えないんだよっていうことを。我々はほんとうに斬合いするわけじゃなからいかに、、ほんとに斬ったように斬られたように見えるかが勝負なんだぞ、というようなことをね、その朝、たった一回だったような気がしますね。

迎:目黒さんがおいくつぐらいのときですか?
目:20代の前半だったかなあ、そんな時代だったと思いますね。

迎:近衛十四郎さんと言うとほんとうに激動の時代を生きてこられた方。
目:戦前、戦中、戦後。
戦争中は兵隊にとられましたし。映画の世界でいうと、最初は無声映画と言って声のないサイレント映画ですよね。弁士さんがいて映像に合わせて語る、横で楽隊さんがいて音を合わせていくという、そういう時代からトーキーの時代、音が出る時代への移り変わりにも親父は真っ只中にいたんですよね。だらか両方経験している。
それとともに、映画の全盛時代からだんだんTVが進出してきて、テレビに移り変わってきた時代も、うちの親父、丁度そこにいたんでしょうね。で、ほとんどの映画人の方がテレビというのはまだ新興で、言葉は悪いんですけど、”電気紙芝居”とか、そういう言われ方をしている時代に、映画人の人は、”本編”といって、これが本物なんだと、これが主役なんだぞと、本編の世界から電気紙芝居の世界に行くのは、まさしく、俳優として都落ちだと、言うような時代があったんですよ。その時代に、「いやこれからはテレビの時代が来るぞ」と父は思ったんだと思います。で、いち早く、他の方々がそういう意見を言われてたときに、「俺。テレビ行く」って、テレビの世界に飛び込んでいったんですね。

迎:先見の明がおありだったと
目:う〜ん、だったんだと思いますね。
それから数年のうちに、いろんな俳優さんがテレビの世界に飛び込んでいらっしゃいましたからね。

迎:周りの方がなにを仰っても、近衛さんて方は、ご自分の生き方考え方を貫くと。
目:反対されてもめげなかったのかもしれませんね。
頑固だったと言うか。わが道ををという感じだったのかもしれませんけど。

迎:で、テレビの当たり役といいますと、「素浪人シリーズ」という本当に当たり役でらっしゃいましたね。
目:ヒットしましたね。大勢の方に御覧頂いてね。

迎:「素浪人 月影兵庫」というのが最初にシリーズでしたけどオープンニングを北島三郎さんが歌ってらっしゃいましたが、その「浪人一人旅」をお聞きください。(音楽)
目:懐かしいですね。

迎:最初いきなり斬り合う音から始まる。
目:そうです。タイトルバックでチャンバラがあって、それからこの音に、ばーんと入って、で、北島さんの歌に。もう(映像が)目に浮かんでます、いま。

迎:もちろん、ご自宅で目黒さんもご覧に名手。
目:はいよく見ました。

迎:近衛十四郎さんの演じられた兵庫、強いけれども普段はちょっと愉快なところもあるという。
目:そうですね。
それまでは時代劇の主人公っていうのは強いし、ほとんど欠点のない正義の味方であり、完璧に近い人が主人公だったっていうケースが多かったんですけど、月影兵庫の場合は、刀持つと強いんですけど、刀を納めてしまうとあとは普通のおじさんでお酒が好きで、相棒の品川隆二さん演じるところの焼津の半次と、漫才のようなやり取りをするというのが非常に斬新で、時代劇の主人公二人がこんなにはめ外しちゃっていいのって言うようなことだったんですけど、それがまた好評いただいて、結構ウケたんですよね。かっこうつけてなくてね、失敗もするしね、お酒飲むとだらしないし。で、相方の品川隆二さんとのやり取りのテンポの良さがね、やっぱり当時すごくウケたんだと思いますね。
もう「旦那、旦那」っていいながらほんとに口喧嘩してましたからね、二人でね。それが僕が今見てもぷっと吹くようなところがいっぱいあると思いますよ。

迎:銀幕のスター近衛十四郎さんとしてはどうだったんでしょう
目:今まで自分が演じてきた時代劇の数々のキャラクター、人物がね、しかも初めて剣豪スターと呼ばれたような俳優がですね、ここまでふざける主人公を演じていいものかっていうんで、最初にこのお話のキャラクター設定を、こういう浪人にしたいんだという話を頂いたとき、やっぱり父親なりに悩んだらしいんですよね。そこで一歩踏み出すか、いやこれは時代劇の主人公としてはふさわしくないキャラクターだと踏みとどまるか、ということで悩んだらしいんですけど、やっぱり今考えると、冒険してよかったのかな、親父にとっても新しい面をね、ただ気難しそうだし怖そうだったそれまでの近衛十四郎という俳優だけど、素浪人を演じることによって、すごく身近になったし俳優としての幅を広げた作品だったんじゃないかなと言う気がしてますけどね。

迎:テレビの時代劇でもお父様のアイディアマンとしての本領は発揮されて
目:そうですね。こういうやり取りが視聴者の皆さんに結構ウケてるんだなということがわかると、だんだん自分も抵抗なくできるようになるんです、ノッてくるし。それにやっぱりボンボンボンボン品川さんがね、絡んできてくれるわけだし、もうあの兵庫と焼津の半次のコンビは良かったですね。

迎:このシリーズは月影兵庫から始まって、全部で4つの
目:そうですね。最初のシリーズが「素浪人 月影兵庫」、その次が「素浪人 花山大吉」、3本目が「素浪人 天下太平」、4本目が「いただき勘兵衛 旅を行く」で、たまたまぼくが親父とですね、初めて親父と一緒に長い間時代劇のレギュラーをやらせてもらってたんですけど。いい経験というか、勉強になりました。

迎:勘兵衛役がお父さんの近衛十四郎さんで、仙太という役どころが目黒祐樹さん。
目:品川隆二さんが演じられたような旅がらすなんだけども、実は侍で、いただき勘兵衛のお目付け役なんだけど、これが、調子のいい男で、すぐ楽したがる、”なんにも仙太”というあだ名があって、そういう役柄でしたね。

迎:で親子でコンビで、しかももうひとりの女性がなんと、当時は奥さまではないけれど、目黒さんとご結婚なさった、江夏夕子さん。だからまさに近衛ファミリー、オールスターキャストみたいな。
目:その時はまだ結婚してなかったので、正確な意味ではファミリーではなかったですけど、でも親父といまの家内と、3人でずっと一緒にシリーズをやらせてもらって、今となってはほんとにいい思い出でもあるけど、ちょっと照れくさいような不思議な感触ですね。

迎:でも親子でも恋人でも、役ってなると、すっと現実を離れて切り替えられるってすごいですね。
目:それはもう、現場に行っていつまでもプライベートな面を引きずっていられませんので、親子といえども芝居の部分では極力そういう部分を見せないように務めていたつもりですけど。でも今考えるとちょっと恥ずかしいし、ちょっと図々しかったかなと。

迎:そういうときでもお父様は、まったく仙太という役柄で目黒さんと接しているんですか。
目:そうですね。だから、すぐ横で父親がちゃんばらしたりするのを見たりするんですけど、そういうときに、悪い人たちに向かってぐっと刀降って構えて睨んだときの顔とかって、やっぱり、横で見ててもぞくっとビビるくらいの迫力ありましたよね。だから、このときは父親じゃなくって、いただき勘兵衛という素浪人の役になりきっているんだなと言うような表情であり、もちろんセリフでありね、動きであり、だからそういうことで父親が、そばにいる息子に自分の背中を見ていろんなことを学べと、まあもっと的確に言うと、「俺の背中を見てこれは必要だなと思うものは盗め」と、いうんですよね。よく芸を盗むっていうんですけど、「背中を見て、いいなと思ったものは、必要だと思ったものは盗め」と、「遠慮なく盗め」って。遠慮はしませんけどね。そういう言い方をしてましたね。

迎:集中力と迫力と目の力といいますか、大変なものがある方ですね。
目:そうですね。息子が言うのもなんですけど、長年培ってきてあるいは鍛えてきたこと、身につけてきたことって、凄いなってそばで見ていて思いましたね。

迎:そして「いただき勘兵衛 旅を行く」の主題歌を目黒さんがOPとEDの主題歌をうたってらっしゃるという。(EDの音楽)
目:声が若いですねえ。恥ずかしい、良く図々しくこんなものうたってたなあ。

迎:とんでもないです。ミュージカルでも大活躍の目黒さんですから。
目:ありがとうごいざます

迎:このシリーズの中で、ご一緒に役を演じる経験をなさって。ただ、この頃お父様はあまり体調思わしくなかったと
目:そうなんです。実は長い間糖尿病を患っていたので、体調的に万全ではなかった時代の最後のシリーズですから、ちょっと体力的に厳しくなってきたときでもあったんですけど、そのときでもやっぱり、いざ立ち回りとなると気を抜かないんですよね。だから、近くで見ている私なんか、見ても、「おっ怖」と思うような顔をしたりですね、特に悪に向かっていくときの目ね、「やっぱり、あ、これを盗めと言ってるんだろうかな」と言うようなものが結構色んな所にありましたね。

迎:まさに銀幕のスターですね。
そしてこの「いただき勘兵衛 旅を行く」のシリーズの中に、お兄様の松方弘樹さんがご出演のも、あって。
目:そうです。一話だけのゲストだったんですけど、兄も。

迎:敵討ちをしようという役で、松方弘樹さんがご出演なられて。ですから皆さんやっぱりお顔がよくにてるなあと言う印象でしたけど。
特に松方さんと目黒さんってなにか双子のように。お顔の感じもにてますよね。
目:若い頃はお互いにそんなに似ていると言われなかったですけど、晩年のほうが兄も僕に似ていると言われたことあるらしいし、僕も似てるねと言われる回数が増えましたね、逆に。不思議ですね。で、父にも似てきたって僕言われますし。たまに東映の撮影所で古い、父親と一緒に仕事をしてくださってた方々と一緒になることあるんですけど、「祐ちゃんお父さんにほんとによく似てきたな」と言う大先輩の方たち。で僕が、親父が亡くなってしまった年をとっくに超えてしまっているんですけど、「あーそうなんだ、あの晩年の親父と僕がだんだんと煮てきているのかな」と、そういう人からの評価で感じ取ることあります。

迎:お父様64歳で。
目:64歳と1ヶ月ちょっとですね。

迎:今の時代だったら若すぎる
目:でもかれこれ30年ですからね。

迎:お父様は家ではどんなお父様だったんでしょう?
目:怖いと言うよりも存在感が大きくて、そばにいると緊張するんですよ、怖そうに見えるし。息子の僕らでも、毎晩一緒にご飯食べたりなんかすると足崩せないし。正座です。父親の前では兄も僕も正座だったような気がするし。いつも怒ってるわけじゃないんですよ。ニコニコするし、僕が小さい頃は、オヤジのあぐらの中によく座らされて、ほんとに優しかった思い出ばかりなんですけど、でもあの・・ただいるとこう、凄いんですよ。誰も我が家では母はじめ、兄も僕も父親にはぜんぜん逆らえないんですよ。父親が白いものを黒と言ったら、「は、黒ですね」ってみんな。そいういう父親でしたね。

迎:じゃあ、いただき勘兵衛のテレビの雰囲気とは違いますわね。
目:いただき勘兵衛とはちょっと違いますね。月影兵庫とも違いますね。あのもっと威厳があったと言うか。

迎:あまりふざけた言葉かけとか
目:いや冗談も言うんですよ。

迎:いや目黒さんがお父様に向かって。
目:僕らも親父に向かって冗談も言うんですけど、やっぱりそれなりに気を使いつつ言うというかね。だから何ていうんだろうな・‥父親たるものの家庭においての存在感の重さが今のお父さんとは全然違った時代ですよね。イメージで言うと”明治の父”っていうか、うちの父は大正生まれなんですけど、でもイメージはみなさんがある程度持ってらっしゃる”明治時代の日本の父”っていう、そういう頑固で。親父がその場にいると、やっぱり家族の中でも一種緊張があるという、そういう存在でしたね。ただひたすら怖いとか、ひたすら怒るとかそういうんじゃないんだけど、親父がいるとなにか違うっていう。

迎:体調悪くなさって、そのあとお母様が亡くされたあと一段と元気がなくなったとか。
目:そうなんですよね。普段威厳のある父が、いかに母と連携というか、強く心を結ばれてたのかなというのを母を亡くしたときに本当にわかりましたね。母は若くて58で亡くなりましたんで。58で亡くなって、その時父が63になったばかりで。それでもう後を追うように8ヶ月後には父も旅立ちましたけど。だから母が亡くなったのが引き金になったような、そういう父親の死でしたね。

迎:でもまだまだ為さりたいこともお有りだったでしょうし。
目:あったでしょうし、僕らをもうちょっと見極めてから、行末を見極めてからと思ってたかもしれませんけど、母を亡くしたことで精神的にもガクッと、ショックが大きかったようですね。うちの家族をガッツリつっかえ棒で支えてたのは、今考えれば母親だったんだなあと思いますね。

迎:でも目黒さん頑張ってらっしゃるって、ご両親共々思ってらっしゃるんじゃないでしょうか。
目:不甲斐ない息子だと思ってるかもしれません。どうでしょうねえ。多分、もともと点数の辛い人ですから、多分、評価低いと思います。
(「月影兵庫」の立ち回りのときの軽快な音楽)    (2018年4月1日)
   


ラジオ深夜便 銀幕のスター(NHKラジオ第一・2018年3月30日未明放送)」での目黒さんのお話
(聞き手=徳田章さん(以下”徳”と略) 語り=目黒祐樹さん(以下”目”と略)

この回は勝新さんについての目黒さんのお話。(このちゃんと共演の「座頭市血煙り街道」の部分を抜粋)

徳:大変な素晴らしいお互いの対決ですね
目:座頭市と、当時父がやっておりました素浪人シリーズの、座頭市と素浪人が、架空の話ですけど、戦ったらどうなるだろうか、面白いなと、勝さんの方から父にオファーがあって、実現した話らしいんですけど、
徳:赤塚多十郎でね。
目:ええ、たしか丸い傘をかぶって、得体の知れない浪人という。最後に二人対決するんですけど、どちらも死なないという、そういうエンディングでしたよね。
徳:ええ。お父さんが公儀隠密ですか。
目:そうそう、実はね。
徳:で、座頭市を斬ろうと思ってやってくるんだけど、そのものすごい戦いの果に、でもその・・
目:通じるところがあったんでしょうね、二人にはね。
徳:最後とどめを刺さないっていうか、「わしの負けだ」みたいなことを
目:当時、父親も殺陣には相当自信があったと思うんですけど、お相手が勝さんだということで、やっぱり好きなお酒を前日か、前々日かくらいからちょっと控えて、その撮影にのぞんだということを人から聞きました。僕らには計り知れない高い位置までたどり着いた、高みにねたどり着いた人たち、勝さんでありうちの父が、ほかの人には感じ取れないような景色の中で、二人だけの世界で立ち回りをしていたんじゃないかなと思いますね。これも直接聞いたわけじゃないんですけど、うちの父が、「久しぶりに気持ちよく立ち回りができた」とぼそっとそのあとつぶやいたそうです。。
徳:かなりあのシーン長いんですよね、他のものに比べてね。
目:長いです、はい。
徳:これは勝さんのリクエストだった。
目:そうですね。
徳:直接お父様からはその頃のことは、お聞きになったことはなかった。
目:直接でなくその場にいた人から聞きました。
徳:お父様も楽しかった。
目:だと思いますね。勝さんもう〜んと思ってくださったんじゃないでしょうかね。





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