初恋 −1/19/08更新

あるテレビ番組で『青春の思い出の一曲』というリクエストを募っていて、一位に選ばれたのが村下孝蔵さんの「初恋」だった。
私はこの曲を90年代半ばに初めて知ったのだったが、今回“1983年”というテロップが出ていて、なるほどと思った。沖さんが亡くなったその年は、テレビをあまり観なくなっていたのだ。
1999年に故人となられた村下さんは、くしくも沖さんと同い年。先日観たその番組では違う人が歌っていたが、何気なく歌詞を目で追っていた私に 放課後の校庭を走る君がいた という一節が心の琴線を激しく揺らした。

透き通るような青空の下、真っ青なトレーニングウェア姿の沖さんが校庭にいた。赤く染めすぎて傷んだ髪が風に舞って乱れ、それをかきわけた額には、うっすら汗が流れていた。
美しいと思ったのではない。カッコイイとか素敵とかいう形容詞もあてはまらない。ただもう、胸がはりさけそうに好きだった。
歌は続いた。

遠くでいつも僕は君をさがしてた

そう、私はその日からずっと沖さんを捜している。この世のどこを捜してもみつからないのに、今も捜し続けている。

名前さえ呼べなくて とらわれた心 みつめていたよ

愛という字書いてみては ふるえてたあの頃

この曲が青春の一曲の第一位に選ばれるということは、人それぞれに青春や初恋の形は違っても、気持ちは同じなのだ。私の場合、相手がたまたま芸能人だっただけで、普通の初恋と何ら変わりはしない。私は沖さんに普通に恋をして、片思いをしていた。普通の初恋と違うところがあるとすれば、「遠さ」のほかに、初恋が自分の運命の人だったということだろう。届かなくても、実らなくても、それが私の人生で一番の恋であり、誇りだ。
沖さんの笑顔が見たくて生きていた。沖さんが笑ってくれるなら私は何でもしたと思う。それは初恋の「浅い夢だから 胸をはなれない」という感情よりも、ずっと激しいものに変化していたのだが、当時の私は自分を客観視することが出来ているつもりで、ちっとも出来ていなかった。ほんの少しずつ、私は狂って行ったのかも知れない。


 最後の誕生日 −9/7/07更新

沖さんの死後、沢山の女性が「関係を持った」と名乗りを挙げたが、その中でも関西にあるお店の女性の告白は、かなり生々しいものだった。
そんな告白のなかで、沖さんが最後の誕生日にお店を訪ねて来たことも語られていた。

「いちばん最後に来たのは6月の12日。なんではっきりおぼえているかというと、沖さんがポツリと“今日は俺の誕生日なんだ”といったからなの。“あら何歳になったの”と聞くと、“31歳の誕生日だよ”とこたえてね・・・」

彼女の“部屋”で手の空いた女の子2〜3人を集めて、誕生日のお祝いが開かれた。
ワーッと騒いだ後にまた二人きりになってラーメンを食べていると、
「こんどはボケーッとして落ち込むふうなの。“睡眠不足やないの?”と聞くと“前日も三時間ぐらいしか眠っていない”というんで、“ありがとう”とポツンと答えるだけでしょ。話がトギれたわね」
その後沖さんは三万円を出してサービス料二万五千円とラーメン代を払って、“残りは皆で何か食べてくれよ”と言ったという。残りが少ないので他の女の子たちは見くびっていると言ったそうだが、彼女は世間知らずだったのかも知れないと回想している。細かい話だ。
それはともかく、撮影のために京都でホテル住まいをしていた沖さんが、最後の誕生日をこんな風に過ごしたということに、私は愕然とした。
京都にいたときのことだから、呼び出せる人がそばにいなかったということなのかも知れないが、あまりにも寂しいではないか。
あまり人付き合いの良くない私ですら、誕生日とクリスマスを一人で過ごすと、言い知れず寂しさに襲われる。マッチをすりながら、窓からよその家庭の団欒を眺めている気分だ。
人が周りに沢山いて祝ってもらっても、お金を払って最後にラーメン。
私は沖さんがそういうところに行っていたことは何とも思わないし、独身の大人の遊びとしては、素人をだまして遊んだりしている人よりずっとつつましくて真面目なものだと感じるが、これが最後の誕生日の夜だったことが悲しい。好きな女性がいて、その人とラブラブな誕生日を過ごしていたことがわかっていたら、それはそれでジェラシーで胸がつぶれそうになっただろうが、それでもこんな過ごしかたをされる位なら、いい恋をして幸せになって欲しかったと思う。
できることなら、その日に戻って駆けつけたい。何も出来ないけれども、一人でホテルに戻る沖さんの横を歩いてあげたい。


 窓から心の闇が見える −7/30/07更新

つい先日、友人と70年代の歌謡曲の話をしていて、ジュディ・オングの「魅せられて」の話題になった。あれは故・池田満寿夫氏が監督した「エーゲ海に捧ぐ」の主題歌だったのか、ただのイメージソングだったのかという話になり、早速ネットで検索してみた。
「魅せられて」」「エーゲ海に捧ぐ」で検索すると、「窓からローマが見える」という文字が目に入った。その瞬間、私の中で何かのスイッチがカチリと入り、頭の中をあの音楽が流れて来た。

「窓からローマが見える」は話題作だった「エーゲ海に捧ぐ」に次いで池田満寿夫氏が監督した映画なのだが、私がこの映画を観たのは、1983年6月25日の夜だった。
前日に誕生日を迎えた私は、6月29日をもって沖雅也という俳優から距離を置こうと決心していた。事故や病気で再起不能とまで言われた沖さんのテレビ出演が再び増えはじめており、「大奥」「蒲田行進曲」と、再び大きな役をもらえるようになっていた沖さんを見て、今までのように沖さんを私の全てと考えずに、静かに見守るファンとして生きて行こうと決めたのだった。もう安心だ。あさはかな私はそう思ったのだ。
そう考えたのは、私自身の生活にも変化が生じていたからなのだが、22日の「蒲田行進曲」の前編を観て、心が揺らいだ。沖さんは全然本調子ではないことが画面から観てとれた。滑舌が悪くて聞き取れない台詞があるし、力みすぎていることが明白だった。これは本来の沖さんの演技ではない。
だが、28日には「大奥」で家光の臨終シーンがあり、翌29日に「蒲田行進曲」の後編がある。それが区切りと決めたのではなかったのかと、私の中の私が問いかける。しかし、もう一人の私は沖さんへの思慕でいっぱいになっていた。
25日は土曜日で、沖さんは大阪で八月の舞台の打ち合わせの後に、ファンの集いに出席しているはずだった。その後東京に帰っているだろうかなどと考えている時に「窓からローマに見える」の放送が始まった。

いきなりレイプシーンだ。「エーゲ海に捧ぐ」もそんなシーンがてんこもりだったので、ある程度予期はしていたが、親子で観るにはなかなかキビシイものがあるほど過激だった。そしてテーマソングが流れ始め、出演者の名前が出る。背景はローマの壁だ。光の加減で何かの物体に見える心理テストのような壁。そしてその時突然、闇が私を襲った。

このテーマソングは故・ポール・モーリア氏によるものだが、私にとっては地獄からの誘いだった。抗おうとするのに惹き込まれて行き、醜い自分が露になる。

映画自体は芸術的だが難解で、懲りすぎた感があって私の好みではなかったが、映画が終わっても私の闇は去らなくなってしまった。その闇にかぶせるように、沖さんから離れることが出来ない自分が立ちはだかり、いとおしい気持ちや心配な気持ちが交錯した。
翌日は日曜だったが仕事だったので、その翌日27日、いても立ってもいられないような気持ちで雨の中電車に乗った。
あてがあったわけではないが、何かケジメをつけられるものを探そうと、とりあえず都内へ向った。やはり沖さんとすれ違った女になった新宿か?そう思ったりもしたが、私が乗った電車は地下鉄へ乗り入れて、銀座方向へ向っていた。そうだ、それなら沖さんのプロマイドを銀座で買おう。以前、銀座のデパートにプロマイド売り場があったのだ。
だが、その売り場はなくなっており、私はその足で本屋へ向った。手にしたブルーの沖縄ガイドブックを覚えているほど、何故か記憶が鮮明だ。小雨があがらない灰色の銀座の街は、沖さんと何もつながりがなかった。やはり縁がなかったのか。そう思いながら帰途についた。

翌28日、私の中からあの音楽が消え、心が軽くなっているのを発見した。
ああ、もう大丈夫だ。そうして笑顔で働いていた時、生涯で一番つらい言葉が耳に入ることになったのだ。

しばらく私はそのスイッチが入った音楽のことを忘れていた。というか、当たり前だがそれどころではなかったのだ。だが、後年、日景さんがテレビのインタビューでこう答えていたのを聞いて、胸に刺さるものがあった。
6月25日に大阪から帰った沖さんは、日景さんと「窓からローマが見える」のテレビ放送を観始めたが、沖さんは映画がつまらないと言って、寝室に入ったという。その後の沖さんの行動は当時の報道に詳しいが、女性を呼んで夜中にあのホテルへチェック・インしている。
映画がエロティックだったこともあるが、私には、あの音楽が回復に向っていた沖さんの心の闇を蘇らせたように思えた。
あの音楽が私に自分を責めさせたように、沖さんも自分を責めてしまったのかも知れない。「今の自分は誤った方のものを求めている者」で終わっているあの遺書は、私が数週間前に沖縄で手にとった仏教経典で心に刺さった部分が、そのまま用いられている。私はどこまで沖さんの心の琴線に同化してしまったのだろうか。

3日前までファンの集いで八月の舞台の宣伝をしていた沖さん。出口はすぐそこだったのかも知れない。今でもこの音楽が私を手招きするたびに、そんなことを思い出すのだった。


 当時の報道 −今なら見える −6/20/07更新

先日テレビを観ていたら、子供番組で報道のありかたについて、わかりやすく解説をしていた。
インタビューでも編集の仕方によって視聴者の受け止め方がすっかり変わってしまう例や、流れる音楽によって、白くまの親子が楽しそうに見えたり、困難の中にいるように見えたりする例を見せていた。
いつものことだが、それを観て沖さんが亡くなった当時の報道を思い出した。この時期ということもあるのかも知れない。
書きにくい話だが、えーい、勇気を持って書いてしまおう。

沖さんが亡くなられた後、最初に記者会見を開いたのは当然日景忠男さんだった。混乱していたのはわかるが、その話し方は物真似をする人が出るほど特徴があった。そして出て来た時に意外に感じたのは、日景さんは表舞台に出ることが嫌いではなさそうだったことだ。
突然の自殺ということで、マスコミは理由についての説明を日景さんに求めたが、それに対して時に声を荒げて語る姿には、何か違和感を持った。
これは遺族や事務所の記者会見ではない。もちろん悲しみはあっただろう。だが、初めてスポットライトを浴びたことに対する恍惚感が感じられたのも事実だ。
事実、その後すぐに日景忠男というキャラが一人立ちしてしまい、「私のプライバシーと彼のプライバシーは別にして下さい」と拒否はしたが、「沖は同性愛者ではない」と日景さんが声を大にして言っても、ますます事態はそちらの方向に動いてしまった。
「寝る前の頓服はこの何年間、ずっと彼も僕も飲んでます」という説明でも日景さんが服薬しているという説明はいらないはずだが、「僕も」の部分はむしろ強調していた。
「涅槃で待ってる」という言葉も、日景さんが「俺について来いっていうこと。二人っきりで頑張って生きて来たんです」と言ったことで、同性愛者の別れや逢引きの合言葉だとまでまことしやかに書かれるようになったが、私がその道ン十年の方に聞いたところによれば、「そーんな言葉、きいたことないわよ」だった。
しかも日景さんは「二人っきりで」と強調することで、沖雅也の成功の半分を自分のものにしようとした。
私は日景さんのファンになったのではない。それこそ彼のプライバシーとあなたのプライバシーは別にしてくれと言いたかった。裏方の人間に徹してくれれば、あそこまで事態を悪化させることはなかったはずだ。
だがマスコミはもっとしたたかで、サービス精神旺盛な日景さんから話を引き出すのが上手かった。
沖さんが女性が好きだったと日景さんが訴えても、その後に「私とは上半身だけの愛だった」などといえば、それが雑誌の見出しになることで異様な響きを持った。要するにマスコミの情報操作も手伝って、沖雅也イコール同性愛者というイメージを作ることに成功してしまった。
極めつけは、一年するかしないうちに日景さんがワイドショーにレギュラー出演して、「美少年を探せ」などという幟をつけた自転車を漕いで街へ出るコーナーを持った時だった。
生活のためとは言わせない。では、何のためか。初めてその映像を観た時は、情けなくて涙が出た。
最近日景さんが三面記事に載ることになった時も、ある作家が「沖雅也の恋人だった日景忠男氏」と書いていたので、キレて出版社に意見メールを送ってしまった。要するにそういうイメージが今も定着しているということだ。
日景さんが美形だったらここまでファンも拒否しなかっただろうという人もいたが、日景さんが醜いのはその容姿ではない。沖雅也という名前に便乗して、自分を前面に出して来たことが醜く映るのだ。
ただ、そんな日景さんを「今じゃ本当の親父ですよ」と慕った沖さんのことを思うと、私の糾弾の手もつい緩み、ちゃんと生活しているだろうかなどと心配までしてしまう自分がいるのも事実だ。私がこうして書くことも、沖さんが喜ばないかも知れないと思って今まで控えていた。色々噂がある方ではあるが、実際お会いしてお話しすると、沖さんが頼った気持ちがよくわかる雰囲気を持つ方ではあることは付け加えておく。



 本編へのこだわり −6/5/07更新

沖さんはよく「本編をやりたい」という言葉を口にした。本編とは映画のことだが、沖さんの映画主演作は「高校生無頼控」一本しかない。
これは作品紹介のコーナーで書いてある通り、まだ子供だった私には目がチカチカするだけでなく、内容も理解不能な作品だったのだが、沖さんはこの仕事を、事務所を通さずに自身の判断で受諾したという。それほど映画にこだわりがあったのだ。
確かに沖さんのデビューは映画で、デビューこそ主演女優の相手役だったし、これから売り出そうとしている新人だったわけだが、日活がやくざ路線に転向しはじめてからは、チンピラの役がほとんどになってしまった。渡哲也さんが可愛がってくれたというが、颯爽と登場する渡さんに比べて、あっという間に殺されてしまう自分の役を歯がゆく思ったに違いない。テレビで歌う歌手を観ながら、自分の方が売れると悔しがったという沖さんだから、いつかは自分も映画スターとして、主役をとりたいと願ったのかも知れない。

その後、アイドルになって仕事は沢山来たし、役も主役、または重要なレギュラーをとっていたのだが、それでも沖さんは「本編をとりたい」と言い続けた。テレビは切り花だとも発言しているので、作品として残る映画を残したかったのだ。
映画を「本編」というところにも、沖さんのこだわりが感じられる。

沖さんが活躍した70年代は邦画観客動員数が落ち込んでいた時で、作品も芸術というよりは娯楽性が重視されていた。二本同時上映ということも多かった。
くしくも、沖さんが体調を崩した80年代から邦画は活気を見せ始め、配役の候補の一人として名前が挙がった「戦場のメリークリスマス」が国際的に高い評価を得たのは運命のいたずらとしか思いようがない。
だが、沖さん。あなたはテレビ史上に名が永遠に残る名キャラクターを創り上げた偉大な人なのです。
錠、市松、スコッチ、矢吹刑事、麻生雅人・・・。あなたが演じた沢山のキャラクターは今も人々を惹きつけ、他の追随を許さない個性を放っています。
沖さん、安心して下さい。本編でなくても、あなたが遺した素敵な男たちは、作品の中でずっと輝き続けます。


 運・不運 −3/2/07更新

1985年夏、日航機が墜落したニュースは、日本中を駆け巡った。
4人の生存者があり、テレビでは女の子がヘリコプターで吊り上げられて救出されるシーンが何度も映し出され、多くの人が拍手を送っていた。
翌日仕事場に社長と怪しいと噂されている化粧品販売業者の女性が来て、前日の事故について語りだした。
「私ね、ずっと仏壇の前に座って手を合わせていたの。といっても私のことだから、すっ裸なんだけどね」
どういう経歴の女性か知らないが、まだ三十歳にもならないだろう。家に仏壇を置いているようなタイプには見えないが、誰が亡くなったのだろう。
そんなことを思い巡らせているうちにも、彼女は勝手にまくしたてる。
「お祈りしてたのよ。いい子は助かりますようにって。そしたら、ホントに助かってたの。だから、今日は朝から嬉しくて」
カチンと来た。
沖さんが亡くなる前の自分だったら、きっと同じような感想を持ったに違いないのだから、目くじらを立てることでもない。だが、私には彼女の言葉が許せなかった。
「じゃあ、助からなかった子はいい子じゃないの?」
自分では穏やかに言ったつもりだったが、元々ふてくされたような顔立ちなこともあり、相手はたじろいだ。
「きっと運が良かったのね、その子は」
私は急に悲しくなって、それ以上の反論を諦めたが、本当は「じゃあ、助からなかった子は運が悪かったの?」と言いたかった。だが、もしそう言ったら、彼女はきっと「そうね、かわいそうに」と言ったと思う。あくまで彼女に悪意はないのだ。

よく、臓器移植を求めて海外に旅立つ子供のニュースを見る。無事手術を終えて帰国することもあれば、間に合わずに現地で亡くなることもある。
間に合わずに亡くなった女の子の母親がインタビューに答えている映像を見て、私もこらえきれずに泣いてしまった。
「日本でもし子供の臓器移植が認められていれば、こんなことにはならなかった」という母親の言葉にも、無念を感じた。
わかるのだ。その子が生きていた時の映像も流れ、「幸せなときは?」と訊かれて「お母さんのお弁当を食べているとき」と笑顔を浮かべたその子を見れば、他人の私にだって親がどんな気持ちなのかがよくわかる。
だが、どうして子供の臓器提供が日本では禁じられているのか。それは、提供する側にも親がいるからだ。まだ心臓が動いて体温もある我が子から、臓器を出すことを頼まれたら、倫理的にわかっていてはいても迷うだろう。

運が良いとか悪いとかという言葉は、時に残酷に響く。
生き残ることが運が良くて、死んでしまえば運が悪いと言う定理は、本能的に生きることを選択する全ての生物にとって真実であろうが、それはまた、死に行くものを見下ろす言い方とも言える。
仏教では輪廻転生が説かれており、人は縁によって人生を繰り返すという。
苦しく困難な人生を歩む運命に生れた者は、より高い世界へ行くための修行として、この世に生を受けるのだという宗教観は、沖さんが亡くなった後の私の気持ちに寄り添ってくれるものだった。「神が必ず救ってくれる」という考え方は、もう出来なくなっていたのだ。
短い生を終えたものは不幸ではない。運がなかったとは言いたくない。
沖さんは幸せな人生だったと、私は思っている。そして、沖さんに出会えた自分を、誰よりも運が良い奴だと思っている。


 その日 −6/27/06更新

ご命日を明日に控えて傷口をえぐるような話だが、毎年同じ事を思い出している私の話をしよう。
その日、私はプールで子供達に水泳を教えていた。
子供の背中にヘルパーという浮をつけていた時、アルバイトのU君が嬉しそうにニヤニヤと笑いながら私のところへやって来た。彼は別に嬉しかったわけではないだろうが、いつもそんな感じで笑っているのだ。
「沖雅也が死んだね」
それに対して自分が何と答えたのか記憶にない。記憶にあるのは、電話に走って事務所に電話したことだ。
「沖雅也後援会事務所の電話番号を!」と番号案内に怒鳴った時、その場にいた人がクスリと笑ったのを覚えている。
そして、話し中のツーツーという音。何度かけても電話がつながらないことが、かえって不安を大きくした。U君が私をからかっていたのではないという証拠のような気がしてくる。
私は仕事場から徒歩5分のところに住んでいた。それなのによく遅刻をしていたのだが、その時は上司の許可もなく自転車を飛ばして自宅へ戻り、テレビのスイッチをひねった。どのチャンネルも昼間ののどかな番組を放映している。三時のワイドショー番組を「うそだうそだうそだうそだ!」と叫びながら待った。本当に叫びながら、だ。

三時。ワイドショーのタイトルが出て、次に沖さんの顔が大写しになる。ホテルの映像。そして「飛び降り自殺」という言葉が耳に入った。
そんなバカなことがあってたまるかという気持ちと、何故だか「とうとうその日が来てしまった」という気持ちが交差した。
状況が報道され、棺が自宅に担ぎ込まれ泣き崩れる日景氏が映る。
私にとっては世界中でただ一人、一番大切な人だ。その人がこんなことになるなんてあり得ない。許されないことだという気持ちが次にやって来た。
そのまま駅に走り、夕刊を買い漁ってその場で読んだ。スコッチ刑事の写真が三面記事に出ているなんて、あり得ない。これは何かの間違いだ。
その後、確か仕事場に戻ったのだが、自分がどうしていたのか記憶にない。最近になって同僚におそるおそる尋ねてみたところ、「もう声もかけられない状態だったよ。それから暫く、ずっとおかしかったし」と言われてしまった。沖さんのことで頭がいっぱいで、自分が壊れていることにすら気がついていなかったようだ。

翌日、お通夜に出かけた。
表参道の駅から階段を上ったところに、「日景家」という例の指差しの張り紙があった。日景家だ。間違いなく日景家を指している。この張り紙の意味を初めて噛み締めて歩いて行くと、予想通り人だかりがあった。
マスコミの放列と野次馬たち。私は多分幽霊のようにそこを通り抜けて、部屋へと入っていた。
焼香をする人の列に並ぶと、つい先日事務所でお会いした日景氏が私を見て、見覚えがある人間だと思ったからか、あっという表情をして「うう・・」と泣き崩れた。とにかく誰にでもすがりたい気分だったのは、私とて同じだ。
棺は思ったより大きく、蓋の上に何か厚地のものがあり、すでに覆いがかぶされていたために、お顔を拝見することさえままならなかったが、お焼香が出来ただけでも良かったとするしかない。なぜなら、その日沖さんの写真などが沢山紛失していたとかで、翌日は厳戒態勢が敷かれて一般の焼香は断られていたのだ。

翌日は、そんな訳で外から出棺を待った。最愛の人の葬儀にも出席できず、野次馬の心無い言葉を聞きながら外に立って待つ自分を哀れに思うが仕方がない。

棺が霊柩車に運び込まれ、誰かが花を投げ入れた。日景さんが遺影を持って現れ、鳩が飛ばされたのだが、その記憶もない。
私を心配してついて来た知人は迷惑でしかなかったが、彼の車で斎場に行かれたことは、正に不幸中の幸いだったと言うべきかも知れない。
斎場に向かう途中、交差点で乳母車を隣に置き、号泣しながら手を合わせる人を見た。霊柩車が斎場に向かうまで、生中継していたらしい。
焼き場で棺が中に入れられ、ゴォッという点火音。心がやめてと叫んだ。
親族に混じって焼かれた棺の前で焼香をするが、自分も炎の中に飛び込みたい心境だった。

外に出ると、早くも煙突から煙が上がっていた。
城児さん・・・。この日、初めて沖さんを本名で呼んだ自分に驚く。何故だかわからないが、口から出て来た。
本当の地獄はこれからだったのだが、その時はそんなことは知る由もない。
一番覚えているのは、雨上がりの水たまりをよけて自転車を走らせたことと、雨上がり独特の湿った匂いだった。だから今でもこの季節に同じ風を感じると、私の心と体は一瞬硬直してしまうのだ。


唯一無二の人 −5/26/06更新

テレビや映画を観ていて『ああ、この人感じいいな』とか『カッコイイ!』と思うことがよくある。
優しそうな笑顔、鋭い眼光、甘えるような仕草、そして高い身長(笑)。
ツボは色々あるのだが、いつもいいなと感じた瞬間に『沖さんだったらどんな顔で演じるだろう』と想像してしまう癖がついて早や35年。ここまで来れば、もう日常の一部だ。
もちろん、その間には『沖さんのこういうところがイヤ!』と思うことも何度かあった。生意気で気分屋さんなところ、やたら演技論をぶつところ・・・。
ところが、他人から少しでも沖さんの悪口をきけば私は目を吊り上げて反論し、時にはその人との付き合いを絶つことさえあった。沖さんが亡くなられた後では、尚更その傾向が強くなった。話が沖さんのことに及べば、さっと防衛本能が働く。

先日、ある俳優さんが沖さんに似ているという意見をもらった。他の人に尋ねると、「私もそう思った」と言う。
あらためてその俳優さんが出ているドラマを観た途端、私の頭にはその人の悪口が百も並んだ。『線が細い』『眼に力がない!』『時代劇をするにはやせすぎで貫禄がない』等々、それはもう憎しみにも似た感情だった。
誰も沖雅也と並ぶことは許さない。あんな人は二人といないのだ。
全くもってその俳優さんには迷惑な話だが、顔さえブサイクに見えてきて、それまで何も感じなかったのに、今や私の中ではブラックリスト扱いだ。
沖さんならここでこうする、この笑い方じゃない。まるで監督のようにダメ出しをする私は、DNAに沖さんが染み付いているのだなあと思う。

子供を持った途端、友人の性格が変わったように思えることがよくあるが、子供を守ろうとする心には、正義も道徳もない。ただ、子供を悪く言う人への敵対心がむき出しになる。あれはあれで良いのだろうと思う。そうでなければ子供は育てられない。
私が沖さんに感じる感情も、もはやその域に達しつつあるのだと思えば、あらぬ敵対心を持たれた俳優さんも浮かばれる(?)のではないだろうか。


またも『のぞき』の嫌疑をかけられる −1/19/06更新

以前書いたので誰でも知っているエピソードだと思っていたが、どうやら消してしまったらしく、今回のオフ会である方にその話をしたら「そんな話は載っていない」と指摘された。
私には大事な思い出のひとつなので、もう一度ここに記しておく。

それはケンちゃんシリーズのエキストラの仕事をもらった日だった。
ケンちゃんシリーズも国際放映で撮影が行われており、その頃「太陽にほえろ!」に沖さんが前期スコッチ編で出演していたこともあって、ひょっとしたらという期待を抱いていた。前日シャンプーは三度、リンスはほぼ一本まるごと使った。そして、まだ朝もやが立ち込める祖師谷大蔵の駅から、自分の足の遅さが許せないかのように、走って撮影所へ向かった興奮を今でも昨日のことのように思い出す。

あった。そこに駐車してあったのは、間違いなく沖さんの車だ。白いキャディラックが白馬に見えた。
急いで撮影所内を探し回ったが、残念ながら沖さんの姿は見えない。どこかのスタジオにもう入ってしまわれたのだろうか。
私の役はパン屋の客ということで、主婦らしい服に着替えて来るよう助監督に指示されたので、とりあえず諦めて衣装室に行く。

衣装室。それは華やかなスターを誕生させる場所でありながら、学校の用務員室を連想させる、陽の当たらない湿っぽい部屋だった。カビくさい匂いがたちこめる。
衣装担当の人を探そうと一歩踏み込んだその時、思いがけず沖さんがそこにいた。

沖さんはYシャツに靴下、ズボンは下ろしたままといういでたちで、足元に衣装係らしい女性がうずくまっている。見ようによっては危ない図だが、どうやらズボンの裾を調整しているらしい。
「あ・・」予期せぬ出来事に固まって、私は目を逸らすことすら忘れてしまったようだ。立ちすくむ私を、それはそれは鋭い沖さんの目が射抜いた。
「出て行きなさい!」
それは、初めて沖さんに会った日に「そこでのぞいているのは誰だ!」と怒鳴られた以来の出来事だった。どうも私は沖さんとタイミングが合わない。
ここで「別に見ようとしたわけじゃありません!」と言い返すような娘が沖さんはお好きなのだと思うのだが、瞬間冷凍状態の私にそんなことが言えるわけがない。
「えーっと、衣装は・・」などと独り言をいいながら、何気ない風を装って奥の衣装の吊るしてある場所へ向かったのだが、恥ずかしさと悲しさで顔は真っ赤だったに違いない。
その後どうやって外へ出たか記憶にないが、その日はそれから沖さんの姿をみかけることはなかった。パン屋のケンちゃん(二代目)が蹴ったボールが私にぶつかるというダメ押しまであり、うなだれて一日を過ごした。
だが、その時の沖さんの姿は、はっきりと胸に残っている。
白いワイシャツのおかげで危険区域は隠れていたが、ナマ足は目に焼きついた。印象をひとことで言えば、『足が細い!』ということだった。テレビで観る沖さんの姿は細いというより筋肉質な印象だが、その足はむしろガリガリと言っても良い細さだった。テレビは太って見えるというのは自身の姿で経験済みだったが、ここまで細いとは思わなかった。
それにしても、「出て行きなさい!」なんていう台詞みたいな言葉、きつすぎないですかぁ、沖さん。今でも思い出すと涙が出そうになります。


横浜にて −12/13/05更新

そう、私は大丈夫だった。
ホテルに着くと、当時の写真が沢山詰まったアルバムが届けられていたのだが、お墓に近いそのホテルであっても、微笑みながらそれを見ることが出来た。
そのアルバムの持ち主と会ってその頃の話を聞いていた時も、ただただ嬉しかった。
その夜四年ぶりの墓参をしたが、私にとってお墓は、スターの眠る場所としてふさわしい華やかさが常にあれば良いという考えなので、再会という気持ちはなかった。いつだって想っているのだから。
二十二年前にはいつも泣きながら帰った道を、六本木ヒルズの灯りを見上げながら戻る余裕すらあった。
そう、私は大丈夫だったのだ。

オフ会では自分が沖さんを好きであることを隠さないでいられる、とても幸福なひとときだった。いつも一人で観ていたビデオを、他の人たちと一緒に感想を言いながら観られたのも、至福のひとときだった。皆が笑顔で、私も嬉しくて笑顔が止まらなかった。
そう、私は大丈夫だった。
あの瞬間まで。

その歌手は以前から好きだったが、慕う気持ちというよりは、その歌声が私を魅了していて、歌といえば私はこの人の歌しか聴かないと言っても過言ではない。いつも彼の歌が私の人生に寄り添っていてくれた、そんな感じのファンを続けて来ていた。
だから、四年ぶりに彼がコンサートをするときいて、旅の日程をそれに合わせることにした。
「私は彼に恋している」と公言する友人とは何度か一緒にコンサートに行ったので、今回も彼女が切符の手配をしてくれて、一緒に出かけた。

コンサートは素晴らしいものだった。
50歳になった時にベストな自分を迎えたいと言っていた彼は、四年のブランクの間にハードなボイス・トレーニングとダンスのレッスン、そして肉体改造に勤めたことがよく見てとれたし、バラードもよく声が伸びた。

彼のバラードは、いつも私のツボをしっかりと刺す歌詞だ。
そうだよね、そうだよね・・・。私は涙を流したが、それは歌と歌詞に感動したのだと私は思っていた。

コンサートは感動と涙の中で終了したが、せっかくだから「出待ち」をしようと友人が提案し、私たちは裏口へ廻った。
すでに10人ほどの人が出口から駐車場へつながる道のところに並んでいて、最終的にその数は三十人ほどになった。数千人が来ていた割には『出待ち人数』は少なかったので、私たちは前から二列目の見やすい場所を陣取ることが出来た。

アンコールの時に帰るような格好をしていたにもかかわらず、その歌手はなかなか出て来なかった。前列の女の子たちの会話が自然に耳に入る。
「ねえ、足触った?」「ううん、さすがに今日はね」「でもさあ、今日は昨日休みだったから、この前より声の伸びが良かったんじゃない?」
そんな会話を耳にしながら立っていた私に、不意に既視感が襲った。
私はこんな風に立っていたことがある。ドアから出て来る人を待って。

まるでタイムマシーンに乗ったように、私は初めて沖さん本人に会った日に戻っていた。大勢の女の子と一緒に並びながらドアをみつめ続ける私は、水色のワンピースに白いソックスをはいた少女だった。ドアから不機嫌そうに出て来た彼は、紅白のギンガムチェックのシャツに、ジーパンだ。

私が33年前に遡っていると、不意にその歌手が現れて手を振りながら車に乗り込んだ。私は瞬間的に車の方へ走り出していた。喚声と車の中から手を振る後姿。私は走りながら、確かに「沖さん!」と叫んでいた・・・。


第二回があるのかわからない第一回オフ会報告 −12/04/05開催

2005年12月4日、わがサイト主催による初めてのオフ会を開催。
私を含めて8名参加、待ち合わせはカラオケルーム。最近はオフ会に対応しているのか、DVDやビデオデッキを搭載した部屋のあるカラオケルームもあるようで、当日も私が受付で待つ間に、それらしき系統の方々が、「今日はS23のを持って来ましたよ」と、それぞれマニアな会話をしながらエレベーターに消えて行く。
かくいう私ら「オキ系」も、「沖さんの子供の頃の写真のペンダントをつけた女性」が目印という、これまたマニアな待ち合わせだ。
初めてお会いする方も多く、ドキドキしながら待つ。
簡単な自己紹介の後、いよいよDVD上映。お題目は再放送が見込めないトーク番組二本と、未だCS再放送がない「姿三四郎」一時間ダイジェスト版とした。
最初は「ミエと良子のおしゃべり泥棒」でオネエサマ方に転がされる沖さんを堪能し、次にちょっとご機嫌ななめ気味が見てとれる「木内みどりのちょっと夜あそび」で、その違いを鑑賞。
まだ、ちょっと馴染まない皆さんは感想があまりなかったので、ここでリラックスを兼ねて“主題歌イントロクイズ”。
「『太陽にほえろ!』みたいに皆が知ってる曲だったらどうするんでしょうかぁ?」という質問もあり、実際その時にはほとんど全員が鋭い勢いで手を挙げた。逆に、誰も知らないという曲も一曲もなく、“一人で家でイントロクイズごっこをしている疑惑”のある人もいるほど詳しくて、さすがはマニアのオフ会だと、主催者も舌を巻くほど。
イントロだけでなく、内容を少し紹介した番組もあり、わっか〜い逸見政孝さんが出演されている「金メダルへのターン!」は、ものすごいターンや沖さんの力泳に、次第に皆さんが和む。
「姿三四郎」はどうしても格闘のシーンが多くなってしまったが、二役の沖さんが画面にいっぺんに登場する“ひと画面で二度おいしいシーン”や、敵役なのに主役よりカッコイイ沖さんを堪能。三四郎のプロポーズや乙美さんが死ぬシーンは沖さんには関係ないので早送りするという管理人の暴挙もあったものの、あまりにも美しい桧垣源之助に、皆さんの目が釘付けになる。

ここで一次会はタイムアップ。二次会は、昭和を感じるという目的で選んだ居酒屋へ。
移動中、俺天のマークを手描きした傘を持っていらっしゃる方に感動。これからも宣伝活動にいそしんでくださいとお願いする。

昭和を感じるといっても、ちょいと時代を遡りすぎたようで、美空ひばりや近江俊郎の歌が流れる中、ブラウン管風テレビからは白黒の懐かしいアニメが。壁には60年代のポスターがずらりと並んでいたが、沖さんの時代よりは十年は前だったのが残念。内田良平さんは沖さんの時代は悪役だったが、ポスターのあまりのカッコよさに、管理人しばしみとれる。

メニューがこれまたユニーク。いくら昭和でも、お通しが「キャベツざく切り味付けなし」はないだろう。ウサギちゃんになったつもりでボソボソと食べていると、ノリが良くなって来た皆さんが、次々に不思議なものを注文する。
「ソフト麺」は究極の茹で過ぎ、逆アルデンテともいうべきパスタ、「メリケン焼き」は小麦粉を水で溶いたものを伸ばして焼いて、ソースをかけたもの、「仙台名物笹かまぼこ」は名前が長い割には、たったひとつお皿に乗ってやって来る。まあ80円だったけどね。
おかげで、満腹になったかどうかはともかくとして、とても割安なオフ会となった。

参加してくださった皆さんに、ここで改めてお礼を申し上げます。今回参加出来なかった皆さんも、この書き込みを読んで参加したつもりになっていただければ幸いです。


いくら年齢が上だからって −9/24/05更新

1999年の末に初めてPCを購入してネット世界を知った私が最初に飛び込んだのは、勿論沖さん関係のサイトだった。
ちょうど地上波で「太陽にほえろ!」のスコッチ編が再放送された後でもあり、「公式」ファンクラブが創設されるほど掲示板は盛り上がっていた。
ご存命中は私なぞまだまだ「若手」だったのに、まだインターネットという媒体が私以上の年齢のファンにはまだ馴染みがなかったのか、掲示板に参加してみると私が最年長。
生前の沖さんを知る人は少なく、知っていても子供だったという人たちは、頭が下がるような図書館通いによる調査で、私より情報を持っていた。
しかし、何より私が驚いたのは、ファンクラブが日景氏の公認を得て発足し、日景氏を囲んでのオフ会も何度か催されていたことだった。
ご存知の方もあるかと思われるが、沖さんがご存命中、ファンの間での日景氏の評判は芳しいものではなかった。ファンから沖さんをガードすることがあったからだし、日景氏の言葉遣いからファンに嫌味を言う人もいたからだ。
亡くなられた後は日景氏の言動が騒動を大きくしたこともあった。
「養子にさえならなければ・・・」という言葉をファン仲間から何度聞いたかわからないし、私もそう思ってしまうことがあった。
娘が手術で亡くなれば、万全を尽くしたと言われようが医師を恨む。
夫が飲酒運転で事故を起こして亡くなれば、こちらに落ち度があっても相手を恨む。
沖さんを亡くしたファンたちが、怒りのやり場を日景氏に持って行っても不思議ではない。
だが、2000年の新しいファンクラブでは、日景氏は「パパ」と呼ばれており、それぞれの内面での思惑はともかく、とりあえず受け入れられていた。
これは昔からのファンである私にとっては意外で、ちょっと温度差を感じてしまったのも事実だ。
だからこそ、沖さんが亡くなられた時の報道について、敢えてこのサイトに残すことにした。
昔からのファンがネットにあまり登場されないのは、前述したネット環境に馴染まない年代である他に、この温度差もあるからだと理解してもらった方が良いからだと考えたからだ。
好きな人について知りたいという気持ちは私とて同じことだし、それがどんな内容であり、その事実をそれぞれが咀嚼すれば良いことだと思うので、敢えてあまり楽しくない内容を掲載してあることをご理解いただきたい。
それから、当時を知らない人に沖さんを語る資格がないなどとは、私は決して思わない。
好きな人について知りたい、語りたいというのは当然のことだ。だからこそ私もこのサイトを持っている。
人間は複雑な動物だから、たとえ家族であっても全て知っているとは言えない。むしろ、近すぎて見えないこともある。
知らないから語れないというのでは、あまりに窮屈ではないか。
好きなんだからそれでいいじゃないの。
そんな気持ちでこのサイトを覗いていただければ幸いだと思っている。


いたずら電話

以前も日記に書いたが、誤って削除してしまったようなので、もう一度書き残しておく。
こんな些細な思い出でも、自分にとっては生涯の宝だから。

それは沖さんが「太陽にほえろ!」から転勤という形で姿を消してから少し経った頃のこと。
事務所へお邪魔すると、なんと事務所の黒板に沖さんの自宅の住所と電話番号がデカデカと書かれていた。
知らんぷりをして番号を暗記し、事務所を出てからとりあえず電話帳に書き残してておいたものの、電話が目に入ればもうその番号にかけたくてかけたくて仕方がない。指がダイアルに向かって伸びて行きそうな毎日だった。
ある日、とうとう我慢できずに電話をかけてしまった。どうせ誰も出る訳がないと思ったのだ。だが、あっという間に受話器から声が聞こえてきた。

「はい、もしもし」

私がこの声を聞き間違えるはずはない。沖さん本人が電話に出たのだ。
咄嗟に私の口から出た言葉は「こちら局ですが」だった。我ながら何でだと思うが、そう言ってしまったのだから仕方がない。
何も疑わない様子で沖さんの「はい」という明るい声が返ってくる。
高鳴る心臓の音が聞こえてしまうかと思うほど動揺しながら、それでも何とか演技を続けた。
「こちらの番号は○○○の○○○○ですね」
「はい、そうです」
「・・・そうですか、それではまた電話します」
よく考えれば局からの電話にしてはかなり不審な内容だが、沖さんは何の疑いもなく「わかりました」と言って(いたような気がする)電話を切った。
しばらくは破裂しそうな心臓と闘ったが、それが収まるとまた電話をしたくてたまらなくなった。震える手で再びダイヤルを廻す。
沖さんは、またすぐ電話に出た。
「はい、もしもし!」
やけに元気が良い沖さんの声が、今も昨日のことのように甦る。
「こちら先ほどの局ですが」
「はい」
「そちらの住所は○○の○○ですね」
「えーっと・・・ちょっと忘れちゃったんですけどねぇ!」
沖さんは疑う様子もなく思い出そうとしてくれた。もうそれだけで私は天にも昇る心地だ。それなのに愛想もなく私は
「そうですか。それではこちらで調べます」
と答えて電話を切った。

こんな小さないたずらが大事な思い出になるとはその時は思いもよらなかったが、沖さんと一対一で電話で話したなんて、なんて素敵なことだろう。勇気を出していたずら電話をして、本当に良かった。
毎日セールス電話に悩まされても、あの沖さんを思い出すたびに、優しく「いりません」と答えてしまうのだった。


幻の大河ドラマ出演

大河ドラマ出演となれば俳優としても認められた感が今でもあるが、沖さんも出演する予定だった作品がある。1983年の「徳川家康」だ。
1983年といえば、沖さんが亡くなられた年。演じる予定だった真田幸村は急遽、若林豪さんが代役として第45回に登場した。

今日、再放送でその回を観た。登場するなり竹刀を削っている。これが沖さんだったら市松を連想したかも知れない。
真田幸村は言うまでもなく豊臣方に味方して最期を遂げるのだが、負け戦と分かっていても敢えて弱い方に味方する方を選ぶという台詞の向こうに、沖さんの目を感じた。沖さんが演じている姿が見えて来たような気がしたのだ。
また、淀君が夏目雅子さんなので、幻の「雅ツーショット」も拝めたかも知れないとか、谷隼人さんや勝野洋さんの姿に、共演出来たかも知れないのになどと妄想が膨らんだ。

だが、徳川秀忠としてレギュラー出演している勝野さんに比べて、真田幸村はほんのゲスト程度の出演だ。これでは出演していても年末の紅白歌合戦の審査員という可能性も無かっただろうな、と余計なことまで考えてしまう。
沖雅也という俳優は、その程度のランクだったのだろうか。80年代に入ってからは事故や病気が続いて降板が多かった沖さんは、それまでに築いた役者としての地位を失いかかっていたのかも知れない。
だが、私はずっと信じていた。いつか沖さんが大河ドラマの主役を張って登場し、紅白歌合戦で客席に礼をして、大きな拍手をもらる日が来ることを。
「徳川家康」のおかげで、ちょっとブルーになってしまった夜のたわごと。

女性観

ファンなら気になる沖さんの女性観。今回は時代を追って沖さんの女性観についての発言をまとめてみた。

** 18歳 **

(週刊セブンティーンより)
Q:恋に悩んだ経験は?
A:まだないんです。好意を寄せられて、好きだよなんて軽く答えたことはあるけど、真剣に人を愛したことはまだないんです。だってぼくみたいに、人生経験の浅い人間には、まだその資格ないでしょ。
Q好きな人の前では、どんな態度を取る?
A:ベタベタしない。かえって冷たくします。九州男児の性格かも知れないな。
Q:やっぱりボインの女の子のほうが好き?
A:ていど問題ですね。(中略)ぼくは、別にバストをそれほど問題にしません。
Q:じゃ、女性の魅力はどこにあると思うの?
A:目です。キラキラ光る目が最大の魅力。目が死んでる子はだめです。黒い瞳で二重まぶたがいいな。
Q:目以外に、理想的な女性像は?
A:黒くて長い髪、鼻高く、口もとが愛らしくて、そう感じでいうと、オリビア・ハッセー。
Q:もし好きになった子がレズ趣味だとわかったらどうする?
A:そんなのは、男がだらしないんです。そういうへんな趣味から抜け出せるよう努力してやるべきでしょう。それに、ぼくが好きになる相手は、絶対そんな子じゃないですよ。
Q:ともかく、これだけは我慢が出勤怠、という嫌な女の子は?
A:不潔な子。めったにいないけれど、首すじや爪が汚れていたりする子。そういう表面的なことでなくても、何となく不潔感を感じさせる子も、たまにいるでしょ。ああいうのが嫌です。

** 19歳 **

(仲雅美さんとの対談から −週刊セブンティーン)
ボクはワンマン型だから、俺について来いといって、素直について来てくれる女の子がいいな。
シャンプーの香りのする、清潔な髪の女の子。気分にムラ気がなく、いつも微笑んでいるような女の子。流行の服を追わないで、清潔な服を着ている女の子。

(“女のコらしさ”についてキビシク発言! −週刊セブンティーン)
やさしく清潔さのあふれる女のコ。かざらない美しさを持った女のコがいい。

** 20歳 **

(月刊平凡)
『結婚』
30歳ぐらいの予定。家庭は女房に任せる。女性を見る目はまだない。
ただし、顔は二番目に大切。内面的にかわいらしい、男からみて、いじらしい女の人がいいと思う。
不潔なコは嫌い。女の子はみだしなみが大切だと思う。

(近藤正臣さんとの対談 −週刊セブンティーン)
今の僕は、まだ女の子となんだかんだという時期じゃないし、恋をして、結婚するとしても、27が28ぐらいがいちばんいいんじゃないかなあ。

(『結婚しようよ!』−週刊セブンティーン)
めんどうな手順なんかすべて省いて、プロポーズは行動的に、
「おとといも会った、昨日も会った、今日も会った。会うためには家を出て来なければならない。結婚しよう!そうすればずっと会っていられるから・・・ネ!」
えっ?ムードがないだって?!ムードがないと思うような女性は、結婚の相手には選ばないよ。

(森田健作さんとの対談 −週刊セブンティーン)
レギュラー4本で恋愛ができたら、ほんとのスーパーマンだ(笑)。いま恋人がいたって、相手を不幸にするだけだし、仕事だけで手いっぱい。恋人作らなきゃあ、スキャンダルも書かれないしね。どんな女の子と?って聞かれても、全然白紙だな。自分だけ先走っても、イザというときイメージと合わないと困るもん(笑)。

(『光る海』を題材に −週刊セブンティーン)
ぼくが女の子からそういってキスを求められたら −ぼくはキスするだろう。ぼくに限らず、男というものは、愛情がなくても接吻できるものなのだ。
しかし、ぼくは女の子に美枝子のようなセリフは、いってもらいたくない。そんな言葉は、女の子の口から出るべきものではないと思う。(中略)
ぼくひとりなら貧乏は平気だ。おカユを食っても乗り越えていけるだろう。しかし、ぼくは愛する女の子に、おカユは食べさせたくない。ひとりなら、おカユを食べてもいいが、ふたりでおカユを食べることは、ぼくの性格としては出来ない。(中略)
好きになった −だから一緒にいたい、という気持ちはぼくにもわかる。
しかし、好きになった、いっしょにいたい、という気持ちがすなわち愛か、といわれると、ぼくは、それのみが愛ではないような気がする。(中略)
好きだ −いっしょになろうよ、ということだけが、愛ではない、という気がしていることは確かだ。
愛とは、思いやり、忍耐、相手を理解することなど…しいて言えば、ぼくは愛とは、無限であるような気がしている。

(マイ プライベート タイム −週刊平凡)
恋人は仕事の障害になるから欲しくないし、休みも一日もいらない。

(デートファッション −週刊セブンティーン)
デートのときに、体のかっこうや雰囲気に合わない洋服を着てくる女の子は、ガッカリだな。
身につけていくものに、ティーンらしい清潔さを感じさせることだ。それがセンスだと思う。
“自分”を知り、清潔さを大事にするセンスは欲しいね。

** 21歳 **

(Non−no)
肉体を鍛えるのは、俳優としての原則。それと同時にぼくは、酒を飲みたい、女性と遊びたい、という生身の人間の欲望をぎりぎりまで抑えて、トレーニングをつむことで、その欲求不満を演技にぶっつけます。

(出典不明)
僕は、充実した人間になって、女房が教育できるようになったら結婚するつもりだから、あせったりしませんね。

** 24歳 **

(76年10月13日号 女性セブン)
3年前までは酒をガブ飲み、夜遊びもしたけど、いまはもっぱら自宅で水割り5、6杯ですよ。

(出典不明)
−(15歳で家出して)日景忠男の家にころがりこんで、彼は、すさんだ日々を送りはじめた。
青山や赤坂のゴーゴークラブに入りびたって、毎朝4時5時に家に帰ったらしい −
「とってもロマンチストなんだね、愛情とセックスが一体にならないとできない。
ホントに自分はホレてるんだと思わないと、抱けない。
だから、今でも女にもてませんよ、もてるようでね。バカじゃないかと思うんだ」

(76年11月10日号 女性セブン)
日景忠男氏の証言「日活映画時代ですが、17歳ぐらいのとき、恋をしたらしいんだけど、そのときの口説き文句がふるっている。『おれも九州男児だ。女のひとりやふたりは食わせていけるんだ』っていったそうです。『ひとりやふたり』っていうのはよけいですよね」

多少でも好きになった女性は、3、4人はいます。
ほんとうの意味の恋愛じゃないみたいですね。マスコミに知れたり、仕事に影響が出たりすることを思うと、愛情をかけられないんですよ。
そういう追いつめられた状態の中で恋をするのも刺激があって、仕事によい影響を与えましたがね。
いま、あるところの令嬢と、お見合いの話がもちあがってるんです。ぼくは拒否しませんよ。
年齢的にはまだ早いかも知れないけど、見合い結婚はいいと思いますよ。
恋愛で相手の心のことでくやむよりも、見合いで第一歩から愛を育てていくほうがいいですよ。
愛って育むものじゃないのかなあ。

** 27歳 **

(週刊TVガイド)
どちらかというと熱しやすく冷めやすいタチ。どうも結婚には縁がなくって。おかげでホモの疑いまでかけられたり。

** 28歳 **

(TODAY 『ロマンティック・ヒーローの条件』記事)
条件の三つ目は、気品と卑猥さの同居。
イギリス紳士を完璧に演じきれるだけでは資格がない。その合間に巧妙に埋め込まれたセックスアピールこそがロマンティック・ヒーローを完成するのだ。
ヒロインを感じさせないヒーローなんて、なったってしかたがない。それを受けるかのように、沖雅也が軽く「俺は助平だよ」と言い放つ。そんなセリフが、これほど似合う男もいない。

(出典不明記事より)
「ボクは姉と妹という女性二人の真ん中で育ったんです。だから、ちょっと“女性恐怖症”みたいな部分があるんです。結婚しないのも、そんな点があるのかもしれないなあ。
結婚するなら、健康的で背の高い、それでいて家庭を守ってくれる女性がいい。ボク、甘えん坊だから、そういうタイプの女性が一番、自分には合ってると思うんです。そういう女性が現われたら恋愛すると思いますよ。もう熱烈に恋愛すると思うなあ」

** 30歳 **

(婦人公論の座談会より)
「ぼくが女性としてキマッてると思うのは、母である前に妻であることをしっかり踏まえて生きている人、娘−妻−母を完璧に生き抜いた人だと思うんだ」
「男が本気で女性を選ぶ一番簡単な方法は、女性とセックスした後、ともにいて心地よかったらその人と暮らしても大丈夫。セックスが終わった途端に顔見るのもいやになったらよしなさいというのが、根本の定義としてあるね」
「魅力的だと思って口説いても、その後のことは見極めがつかないんです。なってみなきゃわからない。最近の女性はすさまじいってねえ」
「ぼくは女優や歌手ってだめなんですよ。同じ神経ですからね。だから、ライバルとしか見ていませんね。異性としては見られない。神経的にだめなのよ。自分を鏡に映すような部分が見えると、たまらないですよ」
「前に一竹辻が花を着てる女性とつき合ったことがあるんですね。それも右前に着て、たびをはかずに、京都のヒノキの一枚板の薄いお盆に京菓子と抹茶を、いつも三時になると運んでくる女でね。その女が一番キマッてたのは、ご飯をミネラル・ウォーターで炊いた(笑)」
「ぼくは男にとって自分を成長させてくれなと思う一番の女性って、これは間違いなく童貞を失った女性だと思うんだけど、どうかな」
「ぼくは仕事を離れた所で、自分も男としてもとに戻ったときに初めて、異性を意識するもんじゃないのかしら」
「逆に女から見たキマッた男って考えると、いろんな条件もあると思うけど、簡単にいえば、セックスが終わるだろう、パーッと万札を十枚、ポンとテーブルに置いて、パッと部屋を出たときだ(笑)」