12月のあらすじ

誤って12月の「独り言」を消してしまったので、これまでの経緯をダイジェストで書いておく。

予備校の帰りに「エキストラ募集」の広告を見た私は早速登録、当時国際放映で撮影中だった「太陽にほえろ!」(スコッチ刑事登場編)の仕事をゲットした。
やっととれた「太陽」の仕事だったが、沖さんは午後の撮影をサボって自宅に帰ってしまう。自宅に追いかけて行った大阪のファンYさんと私は、マンションの中まで侵入、ノックまでしてみたが、応答はなかった。

後ろ姿 1-12-02

その日のエキストラは別の撮影所だったが、俳優さんの都合で撮影は中止となったので、その足で国際放映に行ってみた。もちろん、もしかしたら沖さんが「太陽にほえろ!」の撮影をしているかも知れないと考えたからだ。

撮影が中止になっても少々のお手当とお弁当が支給されたので、お弁当持参で撮影所に行った。撮影所の隅では別の番組で主人公の飼い犬として出演している犬が無造作につながれていて、私が行くと人恋しさに懸命に尾を振って暴れていた。本当はいけないことなのかも知れないが、お弁当を分けてあげると気が狂うような勢いで食べる。少し撫ぜてあげてから「じゃあね」と立ち上がると、鎖が切れそうな勢いで立ち上がって私の後を追おうとする。撮影のない日はこんな陽の当たらないところで放置されているその犬が気の毒で、もう一度しゃがんで撫ぜてあげた。
「お前もひとりぼっちなの?」

当時の私はひとりぼっちだった。友人は沢山いても、悩みを打ち明けられる人は一人もいなかった。七階にあった自分の部屋の窓から、この同じ空の下に沖さんがいるのだと想うことだけを支えに生きていたのだ。

その少し前、私は自殺を図った。冬の海を一人で見に行った時、ふっと冷たい冬の海で死にたい、と思ってしまい、服も靴も身につけたまま、岬の突端から海に飛び込んだのだ。
すぐに激しい頭痛がやって来た。泳ぎは得意だが、靴をはいていると全くといって良いほど泳げない。浮いていられないのだ。体が痺れて海水を勢いよく飲んだ。パニックになってもがいていると、視界が白くなってくる。
だが、自分は死ぬのかと思った瞬間に浮かんだのは、やっぱり沖さんの笑顔だった。もう一度会いたい!その気持ちが私を生への執着へと引き戻した。
「助けて!」沖さんの名前を呼んだ。

岩場まで自力で戻って来たところを、叫びをききつけた人が引き上げてくれた。近くで釣りをしていたらしい。
その若い男性は一言も私に語りかけず、自分のたき火をたいてあたらせてくれた。駅前で変な服を買ってきてくれて着替えたら、とだけいってくれた。
そうか、私は沖さんにこうして欲しかったのだ。そう理解した時、自分がしようとしたのは自殺ではなく、ただの無理な甘え願望だったこともわかった。惨めで涙も出なかった。

犬の背中を撫ぜていた時、懐かしい愛しい背中がその先に見えた。夢中で走り寄ったが、近くまで来た時、私の足は止まった。その背中はぴゅうぴゅうと風が舞うような背中で、どんな言葉も拒絶するように、いつまでも動かない。
沖さんは壁をみつめていたのだ。

どうして私はこんなに沖さんを好きなのか、その後ろ姿を見てわかったような気がした。その背中は私自身だったのだ。
ふと、何事もなかったかのように沖さんが振り向いた。あまりにも突然のことだったので、その背中にみとれていた私と目が合ってしまったが、沖さんの表情には何の変化もみられなかった。怒りもせず、かといって笑顔を送ってくれるわけでもなかった。まるで他の世界から今帰って来て、意識が戻りきらない人のようだった。

デビュー前の沖さんを知る人のインタビューが出ていたことがあったが、海に連れて行くと、一日中黙って海を見ていたそうだ。22歳頃のインタビューでも、
『一週間、家の中に一人だけでいて、誰にも会わなくても、寂しくないし、平気です』
と語っている。
「『沖雅也は生意気だ』と、よく言われるんだけど、なぜ、そう言われるか、自分自身がいちばんよくわかるんだなあ。僕はしゃべる口調がきついし、社交性はないし、人との間には壁を作って、自分をさらけ出さないんですよ。」

自分をさらけ出さない沖さんは、壁に向かって誰に語りかけていたのだろう。

はじめてのサイン 1-31-02

当時常連のおっかけだったKさんによれば、
「いつも優しいお兄さんのような人だった。面白くて陽気で、陰なんて微塵も感じさせなかった」
ということだが、私のように初対面から怒鳴られる奴もいれば(笑)、優しいお兄さんとして接してもらえたファンもいた。
Kさん曰く「しつこく追い掛け回すようなファンは嫌だったみたい」だそうだが、私の友人が大阪から出て来てサインを頼んだ時「私、今日誕生日なんです!」と言ったら、彼女の目も見ずに『おめでとう』と書きなぐったことは今も忘れられない。

お陰で私は長い間どんなにチャンスがあっても沖さんのそばに近寄らないようにした。嫌われる位なら遠くからそっと眺めていよう、そう思ったのだ。

「太陽にほえろ!」のエキストラの仕事をゲットした時、大阪の「ふりむくな鶴吉」公演のパンフレットを持参した。
エキストラを本職にしている男性が
「俺、沖ちゃんなら十代の頃から知ってるよ」と言うのでサインをお願いしたところ、「自分で行けばいいのに。沖ちゃんはそんな怖い人じゃないよ」と言う。
『沖ちゃん』?その言葉自体が信じられなかったが、スタッフの間では当時そうやって呼ばれていたようだ。
戻って来た彼は
「やっぱり『自分で来ればいいのに』って言ってたよ。来てお話でもって」
とパンフレットを投げてよこした。私は雲にも上る気分でパンフレットを開いた。沖さんはちゃんと自分の顔写真の横にサインして、パンフレットの「訂正とお詫び」の紙(P16の○○はXXの間違いでしたというような印刷ミスを指摘した紙)を間にはさんでおいてくれた。几帳面だ。これで隣のページの野川由美子とのキス状態も避けられる。

「『Nちゃんはいつまでも変わんないなあ』なんて言われちゃったよ」
「私も言われたいな」
「じゃあ行っておいで。沖ちゃんがこっちに来て話をしようって言ってたんだから」
ここでホイホイと私が行っていたならば、報告できることが山ほどあったかもしれない。しかし、その言葉を聞いた瞬間、私は自分をこの世で一番幸福な人間だと感じたにも拘らず、その場に固まってしまった。

蛇足だが、Nさんは2001年にCSで放映された「クラスメート」で、すでに沖さんの同級生役としてエキストラをやっているのを発見した。これは本放送が1971年だから、それほど長い「お付き合い」だった訳だ。

私は運命的に「男」に縁がなかったらしく(とほほ〜)、父親は出奔、兄弟なし、女子だけの学校、担任まで一度を除いて女性の先生ばかりという環境だったので、ただでさえ男性に対して自然に振る舞うことが出来なかったのに、その私が憧れの沖さんに声をかけられて「沖さぁーん!」と手を振って傍に駆け寄ることがどんなに困難なことだったか、おわかりいただけるだろうか。

撮影が終了するまで待っていたが、沖さんは私のことをチラリと見ただけで、Nさんの方に大きく手を振って、大きなキャデラックに悠々と乗りこんで帰って行った。
「俺になんか手を振っても仕方ないのにね。沖ちゃんは照れ屋なんだよ」
スターがファンに照れる理由も思い当たらないが、とりあえずNさんに慰められて、白馬ならぬ白い車に乗った王子さまの顔を思い出しながら満員電車に揺られて帰って来たのだった。

笑顔 2-9-02

撮影所とはいえ、ただのファンも入れる時はあった。
ある日、他の番組のエキストラで国際放映に行くと、偶然にも沖さんが太陽の撮影で来ていて、ファンたちと談笑していた。
「だめだよ、そんな方法じゃ」沖さんの声が聞こえる。
どうやら怖れ多くも沖さんに悩み相談をしているらしい。何を話しているのか聞きたいが、そばへ行くのは怖い。私は蟹座の特権を活かすべく横歩きでファンの輪のそばへすり寄った。

この頃の沖さんは声が大きく、身振り手振りが大きい話し方をしている印象だった。相談は続く。
「俺だったらそんなことはしないな」
その声が聞こえたのが半径約三メートル地点だった。これ以上近寄ったら溶けてしまう。そう思って足を止めた瞬間、沖さんと目が合った。

何と沖さんはニッコリと私に微笑みかけてくれた。

やっと私の顔を覚えてくれたのだ、そう勝手に思った私は急いで笑い返そうと思ったが、頬の筋肉が緊張して動いてくれない。
そして沖さんの視線はすぐに目の前のファンに戻り、私は着替えのために衣装室に入った。その日の私の衣装は、お腹に座布団を巻いた妊婦だった。以前に時代劇で産気づいた妊婦の役を熱演したことを書いたが、今回は現代劇だ。私は高校生にしてすでに妊婦顔だったのだろうか。

マタニティードレスを着せられて衣装室を出る時は、沖さんに会わないよう細心の努力を払った。せっかく笑いかけてもらったのに、コソコソと逃げるようにロケバスに乗むしかなかったとは、ああ、ついてない・・・。

最後の後援会報 2-18-02

大奥の画像を探していて、1983年4月発行の後援会報が目についた。幻となった舞台「一心太助」が表紙になっている。

今回はあえて私のコメントは載せず、この会報での沖さんの挨拶文をそのまま掲載する。
(ちなみに、沖さんが亡くなったのは、この年の6月28日)

寒かった京都の撮影所にも春がやって来ました。後援会の皆さん、元気ですか?
私はこのところ“大奥”の撮影で、週の大半を京都で過ごす生活をしています。この“大奥”はご存じ関西テレビ25周年記念番組のひとつですが、この中で三代将軍“家光”を演じている私は黒一点ともいうべき存在で、女優陣に負けじと頑張っているわけです。時代劇では伝統ある東映京都撮影所での仕事なので、学ぶところも多いんですよネ。おかげさまで充実した日々を送っています。
東京では、このところクイズ関係の番組からお声がかかることが多く、ひらめきと決断を要求されていますが、まあストレートに考えて答えるものではわりと当たっている様なので気をよくしているところです。
先月、雑誌の座談会(注…すてきな女性5月号)に出席したのですが、たまには違うジャンルの人とああやって話す場を持つことも刺激になっていいですネ。かなり地を出して話しちゃった…という感じですがどうでしょうか。終了後、記者の人に「評論家になったら?」なんて言われてにが笑い…でした。しかし、これからもこういう機会があったら、どんどん出席してみたいと思っています。
4月、新しい生活が始まる時期で、皆さんも何かと多忙なこととは思いますが、今のフレッシュな気持ちを忘れず、何事にもぶつかっていくチャレンジ精神で頑張って下さい。
3月27日、“ファンの集い”では、久しぶりに皆さんと会えて楽しいひとときでした。6月25日、関西の皆さんと会えるのを楽しみにしています。8月の舞台の準備も着々と進んでいます。夏休みでもあるし、お誘い合わせの上、是非ご観劇下さい。

1983年・4月
沖 雅也

存在してくれるだけでいい 3-3-02

「太陽にほえろ!」の仕事が入ったら連絡してあげると約束してくれたエキストラ紹介所のおじさんは、急な仕事の時ばかり連絡してきて、太陽の仕事はちっとも入れてくれなかった。
ただの通行人ならともかく、学校にみつかったら退学になりそうな「ラブホの客」もやったし、書道学校の生徒になった時は汗をかきかき習字をする私の字を見た照明のお兄ちゃんに吹き出された。「いいんだ、だから習いに来てるんだからね」そこまで言うか。
そしてそんな時に限って紹介所のおじさんはスコッチに聞き込みをされる役で出ていたりするのだ。

仕事もないのに撮影所に行ってみた。翌日の予定をみると、スコッチは朝5時に○○駅となっていた。朝5時では電車がないが、自転車で行かれる距離かも知れない。

翌朝、まだ暗いうちに家を出て、自転車で疾走した。途中で目の前がくらくらしてきたが、沖さんに会えると思うと力が湧き、ママチャリ自己記録を大きく更新して集合時間の20分前に着いてしまった。息も絶え絶えだったし、急に寒気もして来た。

しかし、もう沖さんはそこにいた。
白い息を吐きながら、付き人と話す沖さん。
その姿を見た瞬間、ぽかぽかと胸のあたりが温かくなった感じを今でも思い出す。

当然のことながら、沖さんは私個人に何かしてくれたことはないし、俳優という仕事自体、沖さんがファンのためにやっていたかどうかすら疑問だ。自己実現の手段のひとつだった可能性の方が大きい。
躁鬱病が悪くなった時には何度も自殺未遂を繰り返した沖さんは、日景氏に「沖雅也で生きるのはもうゴメンなんだよ」と言ったそうだ。自宅に残した遺書には「沖雅也としてではなく、日景城児として死んでいきます」と書かれていた。
ファンは支えになるどころか、負担をかけ続けていたのではないだろうかと悩んだ日々もあるし、今でもそう思って自責の念にかられる日もある。私には何も出来なかった。だが、何もしてあげようともしなかった。こんなにも私を助け続けてくれた人なのに、と。

まだ暗い夜明けの駅に立つ沖さんを見たその日、姿をひとめ見ただけで、こんなにも心も体も温かくなってしまう自分をひしひしと実感した。ひとつの魂が私を救ってくれていたのだ。それはもう理屈ではなかった。 「沖雅也よ 永遠に」トップへ