マタイによる福音書18章21〜35節
を朗読
2000年11月26日の日曜学校
説教:桑原政道

 罪を赦すとはどういうことか、今日はそうしたことを話したいと思います。
 みんなはけんかをしたときに「罪のなすりつけあい」をしたことはありませんか。だれかがちょっと小突いたら、何すんだよって頭をたたく。そんなに強くぶってないじゃないかと足で蹴る。こうして、だんだんエスカレートして大げんかになった。けんかの理由をあとで聞いてみると、だれかが最初に小突いたから、いや頭をぶったのはあいつだ、というようにまた同じけんかを口で繰り返してしまいます。ちいさな憎悪が許し合わないことで、2倍3倍に膨れあがり、留まることを知らない状況になってしまうのです。
 こうした「罪のなすりつけあい」は聖書によると、人間が罪を犯した最初のときからあったことが判ります。アダムさんとエバさんが、神さまが食べてはいけないよと言っていた善悪を知る実を食べた。神さまがそのわけを聴くと、アダムさんはエバにその実を食うように言われた、エバさんは蛇にそそのかされた、みんながみんな自分が悪いんじゃないよ、と自分のことを人のせいにしています。
 今日の聖書のたとえのなかには、王様と家来のはなしがでてきます。家来は王様に大きな借金をしていました。その額はなんと1万タラントン。1タラントンは1人のひとが1年間、楽に暮らせるお金ですから、この家来は1万年分もの借りが王様にあったのです。そして家来はいろいろ言い訳しては、借金をかえすことを王様から赦してもらいました。一方でその家来は他のひとに100デナリオンを貸していました。デナリオンは人が1日働いてもらえるお金ですから、100万円くらいのお金と考えてください。それはそれで結構なお金なんです。ところが1万年分の借金を赦してもらった家来は、100日分の借金を赦すことができませんでした。このことを聴いて、王様は大変悲しんだといいます。王様は言わずと知れた神さま、そして家来はわたしたちです。神さまに背いた多くの罪を赦してもらったわたしたちが、他の人を赦さないならば、神さまは大変悲しまれるのです。
 一方で聖書にはこうした話しもあります。昔、預言者エゼキエルが神さまからこんな言葉を預かりました。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ」。そう神さまはエゼキエルさんに言いました。エゼキエルさんは悪いことをしている人には、あなたは悪いことをしているとハッキリ言いなさい、そして神さまに立ち帰るように勧めなさい、そういうふうに言われたのです。他人の罪を赦す、また人を愛するということには、そうした責任もまたあるのだと思います。わたしたちは他人の罪を赦すとき、一緒に神さまの前に立って、神さまごめんなさいと言える仲になれれば、いいのではないかと思います。
 イエスさまは、十字架にかかられる前の夜にお弟子さんたちにこういいました。「互いに愛し合いなさい。それがわたしの与える新しい掟である」。この掟のなかから、わたしたちが憎しみを互いに膨らまし合う関係から、神さまの前に立って赦し合い愛し合う関係へと導かれています。わたしたちは互いに嫌なところが眼につき、他人にケチを付けることがしょっちゅうあります。しかしそれをイエスさまが十字架で我慢しているのと同じように、わたしたちも我慢することが必要なのではないかな、そういう風に思います。

お祈り
天のお父様。あなたがわたしたちの罪を赦してくださる恵みは1万年にもおよぶ永遠のものです。わたしたちはそのことを忘れずに、お互いの嫌なところを我慢し、互いに愛し合って生きることができるように導いてください。また悪いことをしているときには正直に悪いと言い、一緒にあなたの前に立って悔い改めるときを与えてください。イエスさまがわたしたちと共に立ってくださり、わたしたちの罪を贖ってくださることを信じて、怒りや憎しみを乗り越える勇気を与えてください。
イエスさまの御名によってお祈りいたします。アーメン。