監督、役者、評論家等々の映画に関する名言集です。

ジャン・リュック・ゴダール
「テレビは対話というか、そうした話題をめぐって話をする能力を確かに高めはしました。だが、見る能力、聴く能力の進歩についてはなにももたらしていない。(中略)(私は)美しい映像に惹きつけられて、ああ、これは何だろうと人々に思ってもらえるような映画を作ってみたい。」

本当は見ること、聴くことが映画の基本なんです。そこに、いろいろな雑念が混じってきて映画の感想とか批評ができていきます。誰でも最初は動いている映像を見ること、音を聞くことが面白くてたまらなかったはずなんです。でも見る側も作る側もそんな気持ちを忘れてしまったし、映像の渦に巻き込まれている私たちにはそういった気持ちを取り戻すことも無理な話です。たぶん、ゴダールもそれには気づいているでしょう。それでも「美しい映像を見せたい」という願望を持っているゴダールは究極のロマンチストなのかもしれません。


ジム・ジャームッシュ
「流れがあるという点で映画と音楽は共通している。映画には独自のリズムがある。編集の仕方にも、カメラの動かし方にも、目に見えるものすべてにリズムがある。」


当たり前といえば当たり前のことなんだけど、結構忘れてしまっていることが多い。映画はテーマとかストーリーで語りきれるものじゃない。映画中毒者は、映画独自のリズムの虜になっている人ともいえるかも。だって、いい話を聞きたいだけなら、何も映画じゃなくてもいいわけだから。映画を見ていい話なのに心に響かないとか、理由はわからないけどなんかいいと思った時、映画独自のリズムに注意してみたらその理由がわかるかもしれませんよ。


小林信彦
「『スティング』の結末が、途中でわかったと口走るような人々がいたが、この種の人には、推理小説の読者が、<うまくだまされたくて>読む、という心理が分からないらしい。想像力に欠けていれば、かえって、結末や犯人は見抜けるものである。そして、<結末=オチ>が分っても、そこまでのプロセスをたのしむのが落語のファンである。そうでなければ、同じ落語をくりかえしてきくことはできないではないか。」

「想像力に欠けていれば、かえって、結末や犯人は見ぬけるものである。」かどうかはわからないが、オチが途中で分ったことを自慢気に話す人を見ると、正直に言ってその人がなにを考えているのかよくわからない。誉めて欲しいのだろうか?途中で分ったことを話したい人は映画の話ではなく、途中で分った自分の話をしたいのだろう。そういう人は、「スティング」や「シックス・センス」を見ている間、起こりえる展開を無限に考えているのではないだろうかと思う。そういった人は本当に映画を見ていると言えるのだろうか?何気なく見ていて気づいた人が、自慢気に話すことはけっしてない。基本的に映画は(すくなくとも1回目は)何気なく見るものだと私は思っている。頭を働かせるのは見終わってからでいい。

プロセスを楽しむためにはその人に余裕がないとだめなのだろう。あらゆる時間を有効に使いたい人には、映画を見てだまされたり、結末がわかっていてもプロセスを楽しんだりするだけの時間は無駄なのかもしれない。


ゲイリー・ロス
「自分の住む社会と自分を切り離しては生きてる意味が半減するんじゃないかと言いたかった。現実逃避の方法の一つとして世をすね、突き放し無関係を装う。若い人は自分の回りのことを冷笑するのがクールだと思っている。まるで他人事みたいに距離をおいてシニカルな態度で”こんなもんさ”と突き放すのがカッコイイと思っている。その手の映画だっていっぱい作られている。そんな態度はクールでも何でもない。逃げてるだけ。アーティストがシニシズムを盾にして世の中を語るほど安全なことはないんだよ。でも、『カラー・オブ・ハート』はその反対を狙ったつもりです。自分の生きている世界を認め、その中で精一杯生きようじゃないかと言いたかった。」


このゲイリー・ロスという人は「カラー・オブ・ハート」の監督で、他には傑作コメディ「デーヴ」なんて映画も作っている。シニカルな態度が逃げだということにはとても共感した。シニシズムを盾に語るということは、それに対する反論もシニカルな態度でかわすことができるわけだから、キャッチボールにならない。それじゃあ、そこから何かが生み出されることはない。「カラー・オブ・ハート」のラストは非常に甘いのだが、シニシズムを盾にして世の中を投げ出すような態度よりは何倍も共感を抱くことができるものだった。


スタンリー・キューブリック
「良い映画には2種類しかない。内容がすばらしいか、撮り方がすばらしいかだ。」

これほど分かりやすい説明はない。そして、そのとおりだと思う。チャップリンは『撮り方を工夫する必要を私は感じない』と言っていたが、それはチャップリンの撮る映画の内容(ストーリーやチャップリンのパントマイム)が飛びぬけて素晴らしかったからだ。『良い映画の条件』という難しい問題に、こんなにも明快な答えを出せるキューブリックはやっぱりただものじゃない。」


村上龍 「音楽の海岸」より
「映画なんてものは誰だって好きさ」、とケンジは人差し指の腹でオリーブの実を転がすまねをしながらいった。
「というより誰だって好きなものが映画なんだ。だから、『わたしは映画が大好き』なんて言ってるような奴は最低のバカなんだ」

今回は直接映画について語った言葉ではなく、村上龍の小説の主人公のセリフから引用しました。

多くの人は自分の好きなものを映画に求めます。好きなストーリー、好きな俳優、好きな音楽などなど。しかしそれは、「自分の好きなものが描かれている映画が好き」ということで、言ってみれば「自分の好きなものが好き」といっているのと同じなのではないでしょうか。それが、「誰だって好きなものが映画なんだ」ということなのではないでしょうか?そして、「自分の好きなものが好き」という当たり前のことを言っているような奴は「最低のバカなんだ」と言っているのだと思います。

たとえば、サスペンス映画見てハラハラドキドキするのが好きな人は、ハラハラドキドキするのが好きで映画を見ているのであって、映画そのものが好きではないのかもしれない。社会派映画が好きな人は、社会について考えるのが好きで映画を見るのであって、映画そのものが好きではないのかもしれない。はっきりそうということは僕には出来ないし、それを「最低のバカ」なんて僕は思わないけれど、そういう一面もあるということは確かだろう。ただ僕は、自分の好きなものが描かれている映画を見て「良い」と思ったことを(そう思うのは自分の好きなものが描かれているんだから当たり前なのだ)、過剰に高く評価したり他の人に押しつけるのだけはやめようと思う。


フランソワ・トリュフォー&アルフレッド・ヒッチコック 「映画術」より
T あなたの映画は確かに具体的なものは何もない<マクガフィン>(物語の契機となるが内容はどうでも良いもの。
  たとえば、主人公が知ることによって命を狙われる国家機密など)の上に築かれているので、
  よく批評家たちからは「ヒッチコックにはテーマがない」とか「ヒッチコックは何も言うべきものを持っていない」
  などと非難されるわけですが、この批判に対する答えはただ一つ、「映画作家は何かを言うのではなく、
  見せるだけだ」ということではないでしょうか」
H そのとおりだ。


ヒッチコックの映画がすばらしいのは、映画そのもののおもしろさを追求したことにあると思う。それはトリュフォーも同じだ。映画を通して何かを伝えたいとか、何かを考えてもらいたいという欲望よりも、面白い映画を見せたいという考えの方が大きかったのだろう。根っからの映画作家2人の、頼もしい映画バカぶりがこの言葉から伺える。


岩井俊二
「そもそも悪役という人間は存在しない。悪役という視点が存在しているだけである」

「人を殺す=悪役」とか「嘘をつく=悪役」といったわかりやすい公式など存在しない。それくらい世の中複雑で、だからこそ面白い。映画を見る観客も「そもそも悪役という人間が存在しない」ことぐらいは、薄々とでも気づいているだろう。同じ殺人犯でも、殺人犯側から映画いた場合と被害者側から描いた場合では印象が異なることくらいは分かる。しかし、後半の「悪役という視点が存在しているだけ」という言葉に岩井俊二の洞察の深さが伺える。映画だって同じだ。「そもそも傑作という映画は存在しない。傑作という視点が存在するだけだ」「そもそもB級な映画は存在しない。B級という視点が存在しているだけある」。すべては視点によって変わるのだ。


スパイク・リー
「語られるべき物語はたくさんある。僕らの物語は本当の意味ではまだ語られていない」

スパイク・リーが言っているのだから、もちろんこの場合の「僕ら」は黒人(アフリカン・アメリカン)を指しているのだろう。しかし、もう新しいものは生まれないという言葉を聞くたびに、すべてはコピーに過ぎないと聞くたびに「本当にそうか?」と思う私には、この言葉は黒人だけのものではないように感じる。語るべき物語はまだまだある。そして、語り方はまだまだある。ということを信じて、われわれは映画を見続けるのだ。安易に悲観的になることはない。まだまだ、見つけようと思えば見つかる。スパイク・リーのこの言葉には、芸術家の執念のようなものが感じられるのだ。


スティーヴン・キング
「ファンタジーなんて読めたものじゃないよ。その手の映画も見ないね。あんなもの子供だましさ」などということをおっしゃる方がいるとしたら,私としては同情を禁じえない。そういう方は、ファンタジーというバーベルを持ち上げることができないだけだ。想像力の筋肉がすっかり落ちてしまっているのだ。

映画に限らず、小説でも漫画でも想像力というものが受け手にどれだけあるかによって、その映画を(小説を漫画を)生かせるかが決まるような気がする。そうでなくては、受けてはただ与えられるだけの消費者に過ぎない。想像力のない受け手による安易な批判は作品にとってあまりにもかわいそうである。想像力を豊かにすること。それが、私たちにできる映画への礼儀である。それができなければ、賞賛も批判も無意味なものとなるであろう。


クリント・イーストウッド
「観客がすでに知っていることを説明するのは、観客をみくびっているってことでしかない」

観客を信頼しているということは、観客からも信頼できる映画作家だということである。映画と観客の関係も基本的に人間と人間の関係と同じである。信頼してくれるから,信頼できる。子供扱いされると腹が立つ。挑発されると何か言いたくなる。イーストウッドが上段に立ったような映画を作ることがないのは、観客を信頼してくれているからなのだろう。


オーソン・ウェルズ
「私のしゃべったことは、ただのハッタリ。私はペテン師だ。『映画芸術』なんてことまでしゃべってる。友人たちにだってそんなことは話もしないのに」

ウェルズは知っている。世の中など幻に過ぎないと。映画も幻に過ぎないと。ならば、大いにハッタリをかまし、ペテン師として生きていく。そんなウェルズの生き様。しかし、私たちは知っている。ウェルズが自分の理想とする映画を追い求めていたことを、「映画芸術」を追い求めていたことを。もちろん、ウェルズも知っている。それもウェルズの生き様。この言葉にはウェルズの生き様がこめられている。


ピーター・ボグダノヴィッチ
「人はたとえば、アレック・ギネスのよるもののような演技を嘆賞するだろうがそういうものは演技にとどまり、人はその役者を意識する。ボガートは『ケイン号の叛乱』ではうまいが、『三つ数えろ』では彼はボガートである。クイーグ館長はロイド・ノーランによってでも演じることが出来ただろうが、ボガート演じるボガートといったものを他の誰が演じられよう?」

これは映画における演技というものを考える上で非常に面白い一文だ。映画に出る役者たちが名声を得るにしたがって、イメージが固定されていくことはどうしようもないことである。それは、世界的に流通されるハリウッド映画に出演する役者たちにとってはなおさらである。その上で、一体演技とはなんなのであろうか。同じようなキャラクターしか演じられない役者と、どんなキャラクターでも演じられる役者では後者の方が演技力はあるのかもしれない。しかし、他の誰にも誰にも演じられない演技を見せてくれる役者には、その人にしかない価値がある。演技力と、役者の価値はまったくの別問題なのだ。演技力があるからと持ち上げすぎるのは愚かだし、一つのキャラクターしか演じられないからと卑下することはもっと愚かなのだ。


チャールズ・チャップリン
「喜劇は距離をおいて人生を見ることであり、悲劇はクロース・アップされた人生である」

チャップリンの映画はどこか冷めた一面を持っている。それは、滑稽なチャーリーの姿を見つめる監督・チャップリンの目が冷めているからだろう。映画の中のチャーリーと同じように、監督・チャップリンが一緒におどけていたら、見る者は笑えない。そして、味わい深さもでない。同じ人生でも、喜劇が見せるのは哀しさであり、悲劇が見せるのは悲しさである。


渡辺武信
「ロベール・アンリコは映画というものの愚かさを充分に知りつつも、この世界でまだ映画の夢は生きつづけることができるのであり、それを支えているのは映画自身ではなくて、ファンの夢みる視線なのだ、と言いたかったようである」

詩人でもあり、映画批評家でもある渡辺氏のロベール・アンリコ監督作「ラムの大通り」評の一節だ。映画が娯楽の王者だった時代はとうの昔に過ぎ去り、今はゲームにテレビと他にも夢みる視線の行き場がいくらでもある時代。淀川さんのように「映画こそすべて!」という生き方をするのがより困難な時代だ。映画なんてどうでもいいや、とたまに思いつつ、それでも映画から離れられない人々は映画に夢みる視線を有している。夢みる視線を失ってしまったら、目の前の映画たちは死んでしまうことだろう。どうでもいい映画にたくさん触れるとすぐに曇ってしまう私たちの夢みる視線だが、それを取り戻してくれる作品に出会った瞬間の喜びは、私たちが信じる映画がまだ生きてるということを実感できる喜びであり、同時に私たちの夢みる視線が失われていないことを再確認できる喜びだ。私たちは映画に夢をみて、映画はそれに応えてくれる。そんな単純な映画と我々の間に存在する幸せの構図を思い出させてくれる言葉だ。


スティーヴン・ソダーバーグ
「撮影現場のパーティ気分から傑作が誕生するなら、『キャノンボール』は希代の名作になっていたはずだ」

「オーシャンズ11」を監督していた際に言ったという言葉。オリジナルの「オーシャンズと11人の仲間」は、シナトラ率いるラット・パックと呼ばれた仲間たちがラスベガス滞在を活用すべき作られた作品であり、現場は楽しい雰囲気に満ちていたという。が、それはシナトラらだけの話。コントロール不能な彼らに、監督のルイス・マイルストンは「私の映画人生において最悪の経験」と述べている。現場が楽しいに越したことはない。それはもちろんだ。しかし、大事なのはプロ意識。観客に良質の作品を見せたいというプロ意識がないところには、観客を魅了する作品など生まれるはずもない。


マーロン・ブランド
「脚本がしっかりしていて、俳優が正しいテクニックを身につけていさえすれば、映画の出来は変わらないのである。映画館では、その暗闇に魔法をかけられた観客が、俳優に代わって大体の演技をしてくれるからだ」

一見、映画への情熱が感じられないようにも思えるが、映画と映画を見る受け手の関係を的確に捉えた言葉だと思う。情熱とか、野心とかと同じように大事なのはプロの仕事。プロの仕事をすれば、観客はその後を作ってくれるということだ。なげやりなように見えて、観客を信頼した言葉。そして、ブランドの中のプロの役者としての自信がみなぎっている。


セルゲイ・エイゼンシュタイン
「よくあることだ」、そして大体において「やはりありうることだ」というたぐいの「動機づけ」は、無表現の恐ろしい泥沼である。

モンタージュ論で、「戦艦ポチョムキン」で知られるエイゼンシュタインが映画製作についての講義語った言葉である。もちろん、映画の作り手に向けられた言葉で、安易な動機づけで映画を作り上げていくことの無意味さを語ったもの。ストーリーをどう展開するか、カメラワークをどうするかといった理由(動機)の大事さを語っている。エイゼンシュタインに限らず、偉大な監督たちは、才能なだけで偉大になったのではない。その裏には熟考が必ずあるのだ。


ジャック・ドゥミー
「18か19歳の時ある発見をしました。というのはジャン・ルノワールに直接インタビューしたんですが、彼は映画は現実ではないと言ったんです。現実を見たいのなら、シャンゼリゼ大通りのビルのテラスかカフェの方が映画館の席より良いと言うんです。現実は人を見たり、話しているのを聞いていれば見つかります。でも映画を作るならそれとは違う別のことをしなければならないんです」

ドゥミーのというよりも、ルノワールの言葉と言った方がいいような気もするが、ともかく、映画から現実を知ろうとはしない方が良い。とっかかりにはなるかもしれないけど。映画の中で描かれる愛する者の死の悲しみと、現実に自分に降りかかる悲しみとは絶対に違う。楽しさや喜びだって同じ。現実に起こる感情を何かの映画に当てはめることもやめた方が良い。それは、現実によって起こる感情をあまりにも狭くする。映画の中の世界と現実はまったく別で、それぞれ別の魅力に満ちている。それが、映画も現実も楽しむ第一歩。


ロジャー・コーマン

「すべてが終わってしまうと残っているのはフィルムだけだ」

現場がどんなに楽しかろうとも、監督がどんな野心を抱いていようとも、製作費がどんなにかけられていても、あとに残るのはフィルムだけ。人はフィルムを見て、全てを判断する。映画館で上映され、ビデオでレンタルされ、テレビで放映され、フィルムは繰り返し繰り返し人の目に触れる。逆に言うと、フィルムは残ってしまうのだ。これってタイヘンなことだよね。音楽、小説といった他の作品にも言えることだが、最後に完成されたものは残ってしまう。「作品」を作ることの困難さ、責任を感じさせる言葉だ。


ルーベン・マムーリアン
「ここに何でもできるカメラという素晴らしい授かり物がある。なのに何のためにその位置を目の高さに制限したいなんて思うのだろう。人は目の位置で人生を見るからか。これは人生ではない。芸術なんだ」

映画は何でもありじゃなくちゃいけないと思っている。撮られる内容も、撮り方も何でもありじゃなくちゃいけないと思っている。それが現実や常識や社会通念と異なっていようとも。そう、映画は人生じゃないし、現実じゃない。芸術かどうかはよくわからないけれども、映画はとにかく映画以上でも以下でもないんだから。「映画」ができることを追求していかなきゃ、映画の未来はない。