オペラ座の怪人(1925・米)

一応は歴史的な名画と言われている作品を相手にするときはいろんな苦労が伴うものである。しかも、それが有名な原作をもとにしており、アンドリュー・ロイド・ウェーバー(「アマデウス」の舞台を書いた人ね。ちなみに映画はこの舞台が元になっている)が舞台化したり、それを劇団四季が日本に輸入したりといった超有名な作品となるとさらにその苦労は増す。「オペラ座の怪人」という切り方もできるし、映画の歴史の中での切り方もできるし、有名小説の映画化という文脈での切り方もできるし、「ミスター千の顔を持つ男」ロン・チェイニーの文脈からも切ることができる。んで、ここでは「映画化されたオペラ座の怪人」という文脈で切りこもうと思う。

1920年代に作られた「怪人」は基本的に悪役である。「怪人」はもともと犯罪者で、警察の目を逃れるためにオペラ座の地下に住んでいる。なぜ顔が変わってしまったかという説明はなされず、愛する歌姫への愛もまったく一方的な自分勝手なものとして描かれる。その姿は、あまりにも一面的な描かれ方のような気がしてならない。歌姫・クリスティーヌは自らが主役を演じるために怪人を利用したのに、実際に姿を見たとたん拒否をするという人間の嫌な部分を表していると言えるが、結局はその見た目の美しさの方が映画的には大事なようでそれほど嫌な女としての描かれ方をしていない。結局は見た目がより美しい方が生き残るという、映画の常道を踏み外さないつくりとなっている。

こんなことを言っては身も蓋もないのかもしれないが、結局は娯楽作品として作られたのだろうという気がして仕方がない。なぜそうなったのか、そしてそのことがどんな影響を与えるのかということを描かなければそこには深みは出てこないのだ。この映画の「怪人」は結局のところ、観客を怖がらせることで楽しませる(ちょっとした恐怖は楽しさと同義だ)役割以上のものを与えられてはいない。ロン・チェイニー演じるメーキャップされた「怪人」は、少なくとも当時の観客を怖がらせたのだろう。しかし、「けっこう、こういう人いるじゃん」と思ってしまうこの映画の「怪人」の姿は、その造型がビジュアル的なイメージを決定付けた1931年製作の「フランケンシュタイン」のモンスターと比較すると、インパクトやオリジナリティに欠ける。そう考えると、その「怪人」の姿が今見ても娯楽として通用するものであるかという点について疑問が残る。

映画というものはかなりの影響力を持つメディアで、それがテレビもインターネットもない1925年という年代にあってはなおさらそうだったわけである。そんな時代に作られた映画のイメージは、強い影響力をもって固定化され、今では原点を忘れられて当然のこととなっていることも多い。先に挙げた「フランケンシュタイン」しかはその代表例だ。この映画の「怪人」のイメージが固定化しなかった理由は、そのイメージが強烈ではなかったという証明なのかもしれない。世間的な影響力はもちろんのこと、古典映画はそれから脈々と続いていく映画というメディアに与える影響力の方が大きい。その映画界においても、模倣されないのだから(あの銀色に光る仮面のイメージの方が「オペラ座の怪人」を思わせる)「伝わっているから凄い。伝わってないからたいしたことない」という考え方は、現物に接してから判断しなければ失礼にあたると私は思っているが、この映画を実際に見ると伝わらなかったのも仕方がないのかもしれないという気持ちがする。出来の是非がどうこうよりも、一面的な描かれ方しかされず、ビジュアル的にもインパクトに欠けるこの作品は、当時を騒がせるパワーはあったのかもしれないが、現在の我々を騒がせるパワーまではないのではなかろうか。
(2001,8,25)