人の人生を決定するのは、中学生時代である。 子供から青年への過程、声帯の変性と身体の ホルモンはいよいよ、性を出現させる。陰毛 の誕生である。人は自己の内部からエイリアン が出現する大人への未来におそれをなす。非常 にアンバランスの時間だ。その時期に誕生した のが奇蹟の呪文「ディアラ」であった。わたしは、もう駄目だ!と打倒されたとき、復活の 呪文「ディアラ」と叫ぶ。

90年代総括のために(5)−92年万有引力レミング


寺山修司1992年テキストとは何か


寺山修司・創造力の現在

 1992年・夏
万有引力「レミング」公演・感想
           =スペース・ゼロ、8月14日、夜=


 「レミング」は現在の新宿、「もっと晴らしい都市へ」このCMネオンが輝く、
記憶構造が剥奪された西口広場で演じていたのである。しかしそれが万有引力の戦略
であったのかもしれない。

 役者の身体をノスタルジアが蓄積された劇場に置くのではなく、現在の都市構造・
商品展覧街頭がむきだしの%%%%として無防備な人間を%%%%%%し、記号身体化させる新
宿の交差点に役者の身体をさらすことによって、10年の時間・その意味構造を問お
うとしたのだろう。もちろん現在の新宿で野うさぎは生きることは出来ない。うさぎ
はわれわれエイリアンである観客の前で恐怖に身震えていた。悪意の内部で生活し悪
意構造が精神世界の根底を形成する巨人の集団たる観客にさらされ、うさぎは殺され
ると思ったのに違いない。うさぎは現在の都市構造と観客の鏡だったのである。

 私は少女が抱き指と手の平で恐怖をなだめようとしていた、あのうさぎがやがてわ
れわれ観客を皆殺しにするであろうエイリアンの赤子であればよかったと思った。寺
山修司は最終演劇としてエイリアンとの遭遇をイメージしていたのではないかと思え
たからである。万有引力「レミング」は10年前に回帰しその再演を目指したのでは
ない。現在の観客を突き放し、現在の観客の精神世界の森を見届け体験しようとした
のである。

 宇宙船が爆音を地響きかせ宇宙空間に飛行したどりついたのは、悪意の自動工場が
24時間作動している内部精神を持つエイリアンたちが生活する人口惑星であった。
悪意の文学としてある完成を表出してした三島由紀夫の「豊饒の海」がそこには存在
していた。悪意の工場が消して夢をみることなど出来ない少年の内部に存在していた
のである。 敗戦後の日本文学・日本映画・現代演劇はひたすら東アジアの空間で、
いかに自分たちが大量殺人という快楽を経験したエイリアンかという記憶を消却し、
テキスト存在としてある人間と空間の関係を隠蔽してきた。日本軍(自衛隊)のカン
ボジア派兵は、こうした敗戦後のサブ・テキスト構造を自ら破壊したのである。そし
て50年前の東アジアの復讐の女神を呼び出したのだ。東アジアの復讐の女神がいか
なる生態系をもって、この日本列島に復讐するのか?私は恐怖し畏怖する。あの少女
が抱えていたうさぎはわれわれの壊滅的な未来を知覚していたに違いない。

 私の欲望は日本壊滅後の演劇を万有引力に期待している。既にUSAの未来映画に
おいては、「バトルトラック2053」などではオゾン層が破壊されUSA壊滅後の
空間が表出している。スピルバーグの未来像などは東京デズニーランドのためのサブ
・テキストにしか過ぎなかったのである。

 万有引力の役者を回収してしまう金属機・機械装置はある異様さがある。それはわ
れわれ観客が機械とは企業・工場においてのみ作られる形態であるとする制度によっ
て洗脳されているからである。現代美術のオブジュは固有としての人間があらかじめ
消却され造形作品のみがさらされていることをもってわれわれは安心する。造形作品
はけして人間を襲いはしないからである。かくして美術館は消防法や制度としての行
政機構の制約を受けることはない。美術館がニュースになるとき、それは作品が盗ま
れたときか、ある人間によって破壊されたときである。またはある作品の展示を制度
が拒否したときである。ところが現代演劇は常に都市の制度によって制約を受けざる
をえない。奇人変人の集団である劇詩人や役者たちがいつ市民社会の人間に襲いかか
るかわからないからである。

 寺山修司を近くで一度だけみたことがある。寺山修司はタクシーから美しい女二人
に支えられるように芝居小屋に入っていった。そのころ寺山修司の病状は重かったに
ちがいない。私は寺山が病状にあったことなどしらなかったので、「ちくしょう、い
つもいい女にかこまれていいなあ!」と嫉妬し羨ましかった。なぜなら私は精神も顔
も身体も醜い男だったからである。とうてい女から好かれるタイプではない。198
2年冬・早稲田大学の裏に存在していた湿原の匂いがある芝居小屋だった。

 その夜、私はある愛の構造にあった女の歌を体験するために早稲田に来たのである
。それは私の妄想において誕生させた一方通行な日本的形態の妄想と幻想の思考に誕
生させた固有の愛の構造であった。いや思考だけでなく身体の全面を動員したフェテ
シズムであった。私は2千回以上、その女の身体を妄想の生成において抱き締め女の
子宮めがけて、おのれの勃起し武装したきんたまから、決して固有の卵巣に届くこと
はない精子を発射した。いわゆるマスターベーションである。マスターベーションの
し過ぎで私のきんたまの頭は内出血し赤紫色に充血している。私はマスターベーショ
ンと共に今日まで生き抜いてきたのである。私の妄想のエネルギーはこのマスターベ
ーションにあるといってよい。

 私が現代演劇に接近したのは、音楽詩人であったその女の%%を、動物的本能で追い
かけたからである。その日、早稲田の裏の夜、芝居小屋では女の歌と寺山修司作/演
出による昭和精悟の演劇が始まった。私は歌う女の瞳に向けて燃えるような射精をし
た。そして鍛えられた昭和精悟の身体と寺山修司に燃えるようなジェラシーを持った。

 この8月の「レミング」公演会場で私は不思議な体験をした。それは演劇が開始さ
れてまもないころだ。黒い役者たちが観客席の後から舞台におりてくる時、肩を小さ
く叩かれたのだ。私は振り返った。黒いコスチュームの女優が後から歩いてくるのが
見える。おそらくそれを気付かせるために、ある観客たちの悪意を持ったゲームとし
て後から前へと肩の叩き合いが記号ゲームとして進行しているのだろうと私は判断し
た。私は前の観客の肩を叩くかどうか迷ったがやめた。実にくだらない行為だからだ。
隣の列をみてもそんなゲームは進行していない。しかし今でも私はあれは何であった
のだろうか?その意味構造を考えているのだが、もしかしたら寺山修司が「おれはこ
こにいるよ」と気付かせるために私の肩を小さく叩いたのかもしれないという妄想に
結論をだした。彼が宣告したように寺山の詩的言語は現在も生きているからである。

 しかし私がフエテシズムの愛の構造として愛した音楽詩人は何処かに今も隠れてい
る。生きているのか死んでいるのかもわからない。私はもはやその女を愛してはいな
い。固有の女に恋をして恋愛をする経験など私は永遠に出来ないであろう。

 89年事態が日本の現代演劇の現場にとってどのような過程であったか私はわから
ない。マフィア政治経済においては85年以降、円高ドル安の変換を決定したG7プ
ラザ合意を利用して、大蔵省と日本銀行は印刷機経済へと生成させ、紙幣を日本列島
にバラまき、バブル経済の有頂天を89年12月に現出させたのだあった。こうした
スキャンダル・ギャンブル・マフィア政治経済システムを永遠にかくし内部において
これを転覆する勢力を凶暴的に壊滅しようとしたのである。その構造は徳川幕府が永
遠の幕藩体制を形成するため、他者としてのキリスト教徒を徹底した血の弾圧で壊滅
した構造の反復にある。江戸文化とは「島原の乱」を壊滅し、他者との空間交換を隠
蔽し消却したところに花開いた無思考の文化なのである。かくして無意識の自然生成
が日本文化の形態として現在にもベッタリと貼り付いている。

無意識の自然生成とは、内部においては善良な人々たちによる他者空間の破壊を、
自分たちの血液の延長と思い込む人殺し文化のことである。それは平面知覚による
洗脳によって可能となる。

江戸浮世絵の構造は、あらかじめ他者空間を消却した場所に生成する安定した平面の
単線にある。安定した平面にユーラシア大陸の中国文化は全面的に回収され内部へと
隠蔽されていく。この時代、テキスト存在として人間・歴史・世界を思考することは
なかった。部族闘争による内戦と統一の戦国時代の方が、人間・歴史・世界をめぐる
思考はテキスト存在として創造されていた。こうした思考を豊臣秀吉は反革命として
回収し、民衆から武器を全面的に取り上げたあと国内の民衆運動を壊滅した後に、朝
鮮侵略を開始していく。それはスペイン帝国を動的中心としたヨーロッパによる世界
の円環の完成と、ヨーロッパによる世界史の誕生に対抗し、北京を首都とした北東ア
ジア帝国を建設するという世界同時性の植民地建設の欲望形態であった。

 だがしかし、他者としての朝鮮・韓は7世紀の日本誕生において既に隠蔽されてし
まったのである。稲作農耕・青銅鉄金属加工・馬を動的中心にした弥生文化とは、そ
の初期においてユーラシア大陸から100万人の渡来人による、縄文人の征服であっ
たことは日本古代史の常識である。日本の歴史源態とは部族闘争に存在しているので
ある。豊臣秀吉は敗戦後の高度経済成長の出発点になった朝鮮戦争におけるUSA軍
への物質調達以来、ドン百姓から太閤殿下への豊臣秀吉出世物語が日本法人資本主義
のモデルとされてきた。しかし彼の部族戦争における戦略戦術の発想は、古代騎馬民
族の遺伝子を持つものである。

 現在における人間の発想とは、突然表意的に神がかりとして表出するものではない。
いく世代にわたる系列の人間の思考の蓄積過程として、遺伝子の情報集積回路として
現在の人間に有している。人間の思考は見えない財産として、次の世代に引き渡され
ていくのである。こうした生きた人間のコンピュータは固有の空間が存亡をかけて闘
争する場所の磁場によって覚醒され、思考は能動的全面的に発動する。

かくして人間のコンピューターは情報集積回路の故郷を目指す。コンピューターとの
インターフェンスとは言語・画像・音・イメージの源態から飛躍をめぐる思考の弁証
法的形態のことである。コンピュータはある意味でヘーゲル哲学とマルクス哲学の弁
証法的思考形態を根源的に呼び出したのである。私は大学の体系的学問など全然しら
ぬ、無学無教養な高卒に過ぎね。その高校も登校拒否を日常化して、朝は新聞配達を
して、昼は貧乏長屋でマンガを描き近くの長峯公園で芝生の上に寝転び空ばかり見な
がら過ごしていた「ぼー」としていた少年であった。体系というシステムを何ら教え
られ獲得できねまま今日まできたのである。さらに幼少のころから性的行為そのもの
唯一の文化形態であった野蛮な村社会の伝承に適応し、マスターベーションがきもち
よく、脳細胞から麻薬が情報回路全体を「ぼー」とさせてくれる一時の天国であるこ
とを経験していた私は、知能指数は全国平均レベルよりも低下していた少年。

しかしワープロ・パソコンを武器とした弁証法的思考形態はこの「ぼー」としてき
た長い思考過程、そのつかみどころがない動物的本能による、ある妄想としての抽
象イメージ思考を、テキスト存在として現出させることが出来るのである。そして
現在は、帝国主義世界システムとスターリン主義世界システムによる地球政治分割
が崩壊し、自己欺瞞・他者欺瞞の解釈に解釈を積み木のように積み上げながら歪曲
し%%%%を遂げる、サブ・テキストの構造が消滅していく時代である。

 バブルは川の流れが急激で激流の場所に表出する。雪原にある枯れススキが遠くか
ら見れば金色のオアシスのごとく見え、冬の旅人はそこへ行けば疲れた身体を寝転ば
せ休めるものと思い込む。だが冬の旅人はその場所がオアシスでなかったことを思い
しらされる。固有のススキと固有のススキの間には距離があり、雪に支配された場所
であったのだ。自然形態の過酷さを彼は教えられ、自己生命の保守のためにはただこ
の冬の旅の出発時点にたてた目的地に向かったひたすら歩き続けるしかないことを、
動的中心の移動として場所の磁場から教えられるのである。

 80年代のバブル経済とは徹底した動的中心の移動・社会構造が激流に叩き落され
た空間と時間を源態から飛躍させたのだあった。労働者が過労死・労災死に追い込ま
れるほど法人資本主義は労働強制収容所へと、この「島の上部構造」を隠蔽したまま
変貌させ、バブルという金融・証券システムの仮想現実を動脈化させた。マフィア健
在のオアシスはこうして形態化されたのである。これは日本歴史始まって以来の精神
分裂である。これまで「島の上部構造」の人間は部族闘争に粉砕され社会を喪失した
とき自然を発見し自然を見出してきた。それは自然愛ではなく、自己感受性に鉄を加
工するかのごとく自然を内部に回収することであった。

 ・「・鴨長明(1153〜1216)は、神主の息子で、一族内の勢力争いのため
に、待ち望んだ神職を襲ぐことはできなかった。彼が後鳥羽院を中心とする宮廷社会
に接近したのは、歌人としてであり(「和歌所」の寄り人)、またおそらく琵琶の名
手としてである。宮廷の貴族社会ははじめから彼に属するものではなかった。その社
会が動乱にまきこまれ、崩れはじめたとき、長明は京都近郊の山中に小庵を結んで、
『方丈記』(1212)や『無名妙』(成立年代不明)を書く。」
             
                日本文学史序説(筑摩書房)  加藤周一

 この加藤周一氏の日本文学史序説は日本造形美術を思考するためには、かかせない
テキスト存在であろう。私は加藤周一氏から教えられ、感銘を受けてきた人間である
。加藤氏に感謝したいと思う。

 バブル構造とはあるそれまでの制度的社会が破産・崩壊するときに表出する。だが
日本文体はこれまでの歴史がそうナあったように、世界の喪失として対決することは
ない。「島」の思考においては、ある世界観ある人類観が創造されることはない。中
国を最初に統一した「周」帝国が滅び、流動・激動・動乱が開始された、部族戦争の
東ユーラシア大陸から100万人が金属と馬をもって、この日本列島に移動した。縄
文人としての日本原人は北と南においやられ、100万人の征服者は水が豊富なこの
土地に稲作農耕を開始するのである。20世紀の日本による東アジア侵略戦争はこう
した古代からの歴史過程においてしか解明はされないであろう。

 その意味で現代演劇はもはや政治経済の創造的破壊から逃げることは出来ない。8
0年代において、民衆と日本システム成員たちとの構造亀裂は後戻り出来ないほど深
まり、見せ掛けの衛生都市は、富と貧困の階級分裂を促進する大量失業時代を93年
以降表出するであろう。日本の1930年代のクーデターと革命による「ゆらぎ」の
構造は、形を変えた歴史の反復としての数の整合は、みごとに重ねあっているのであ
る。数の神学または数の祈祷これこそが天皇神学のまえに存在していた鬼道神学であ
る。日本誕生から日本消滅、われわれはこうした歴史過程にいる。

 天皇神学とは鬼道神学に土着しながら、韓国南部の騎馬民族・天孫降臨を無限の形
態として加工した神学である。では鬼道神学とは何か?その源態を中国古代にもとめ
なくてはならない。夏王朝の次ぎに登場した「殷」の形態である。
この前1050年から前1500年に表出した古代国家はまた「商」とも呼ばれて
いた。ますます現在の日本と生き写しではないか?

 天皇神学及び日本鬼道とは、こうした殷文化形成にその原態があるようにおもえる。
殷が周によって滅ぼされたように、日本も消滅していくであろう。1995年体制に
向けて現代演劇が表出すべき戦略的思考とは、日本消滅以降の世界におけるテキスト
存在と人間である。「言葉のみが残ればそれが寺山修司である」日本という国家が消
滅し、日本列島がプルトニウムに汚染され人間が蒸発しても、日本語の現代演劇は世
界各地のスラム街頭で表出されるだろう。
 
 こうしたしたたかな欲望を現代演劇は戦略的準備していく必要がある。その時、演
劇人の肌は放射能に犯され非人間の醜部と化しているかも知れない。その醜部を世界
にさらしながらも表出する欲望が、現在において形成されているのか?人間の現在と
は未来から規程され、人間の現在の欲望が未来を規程する。われわれは日本という固
有の時間の臨界点に存在していることを忘れてはならない。世界史におけるひとつの
固有の実験の時間は終焉するのだ。現代演劇がおのれのテキスト存在を防衛し、存在
から表出し、この現の極限を突破するためには、一度、日本の飼いならされた死とし
てのサブ・テキスト空間を、観念と妄想の想像力において創造的破壊・消滅させなく
てはならないのである。


2000年06月25日 20時21分28秒

90年代総括をめぐって6−仮想現実・演劇・人間
92年演劇とは何か



仮想現実・人間・演劇 (1)
    1992/8/23
(153行ー10615)     塚原 勝美

     1        1990年代の場所はこれまでの場所ではない。
     9        すでに日本列島は衛星通信回線とコンピューター
     9        ネットワーク、そのデジタル・システムによって
     2        生成している。東京・神奈川・千葉これら湾岸に
     年        表出した新しい衛生建築は、まさに半導体遺伝子
     8        によってデザインされたSF都市である。空間が
     月        平面画像へと回収されている。ここに江戸文化以
     世        来の平面知覚は完成をみた。そして人間のこころ
     界        という空間は、虚構と現実のボーダレスを生成さ
     は        せながら、ある平面へと規格JISマークに統制さ
     中        れようとしている。いま固有の空間が消滅させら
     心        れようとしているのだ。仮想現実をめぐる闘争は
     移        開始された。芸術表現は最初の人類の表現者が洞
     動        窟の壁に野生動物の絵を表出していらい、仮想と
     し        してのもうひとつの現実世界を記録しようとして
     た        来たことを忘れてはならない。仮想現実とは半導
              体遺伝子が誕生させた形態ではない。実は舞台こ
              そはいきた時間と空間を躍動させる仮想現実なの
     ?        である。こうした仮想現実をめぐる平面知覚と空
              間知覚による想像力の階級闘争が90年代の芸術
              方法の先端に躍りでている攻防なのである。場所
              の記録者は同時に現在を支配しているシステムを
              過去と未来から盗賊的欲望によって盗み、おのれ
              の固有世界へと回収し、おのれの固有回路によっ
              て現在を物語る。舞台はテキスト存在である。
 
   
 人間にとって傷とは何か?新宿梁山泊公演「それからの愛しのメディア」では、黒沼
弘巳が演じる早太が「なぜ人間は小さいときにかかえた傷を一生ひきずるんや!」と絶
叫する場があった。私はこれまで傷つきやすい存在であったし、そして多くの人を傷つ
けてきた。人間が傷つきまた傷つける場所は、人間関係としての表層空間である。それ
は具体的経験であるがゆえに物語にすることは困難がある。「現」の人間にとって一番
シビアなことは、「こころ」という空間・場所性に鏡を置き自己存在をみつめ、社会関
係の一人として自己を突き放し、自己と対決するときである。遠見裕子作「ガーゼ」の
物語構造は現代文学に換言しても、あるパワーを表出していると思う。

 文学小説とは、ある固有の人間・ある固有の場所・ある固有の同時代、これら人間関
係性を言葉によって表出する空間芸術である。読者はその言葉と文体によって空間に存
在する人間と場所空間を想像入力しながら言葉の連結・連動を感受していく。それゆえ
に文学は思考の重要な位置を占める。こうして思考の言葉である批評と創作は文学にと
って連結・連動している。人間の傷の同時代的構造を文学はこれまで表出してきたし今
後もし続けるであろう。しかし日本の現代文学に興味は無い。受苦的人間存在の世界同
時性が欠落しているからである。日本現代文学は李恢成による本格的世界小説させも全
身で受け止める感受能力を喪失し、人間をめぐる現代世界と格闘するエネルギーが衰弱
している。人間の発見を教える磁場の動的中心は現代文学から現代演劇に移動したので
ある。しかし言葉を扱うマス・メディアは今も現代演劇を無視し本格的に扱おうとはし
ない。その理由は明確だ。劇詩人と役者は常に、制度化され画一化されて生成する90
年代の都市構造の皮膚をはぎ取り爆発に身構えているからである。

 マス・メディアがこうした変人・奇人の集団的創造力と格闘し、本格的な批評構造を
形成すれば、「一般」「大衆」「国民的流行文化」の神話が崩壊する。世界最大の広告
企業帝国「電通」や「博報堂」、ここから巨大な広告金が部族の収益金を生成させる東
大卒業者のエリート・マスメディア「朝日新聞」や「読売」「毎日」の新聞社、それに
テレビ画像を「電通」や「博報堂」に買ってもらうテレビ・マス・メディアの部族は神
話の崩壊を世界同時エネルギーから防衛すべく、永遠に現代演劇は無視され内部に隠蔽
される。現在の構造を表出し、現在の人間を現出させる現代演劇とマス・メディア部族
構成員が本格的に格闘し、批評構造を形成すれば彼らの神話と論理が破産してしまうか
らである。己の神話と論理が破産すれば、部族構成員の明日は存在せず、部族内部の競
争に敗北した人間として精神病院に訪れなくてはならない。しかし現在の日本のおとな
しいアトミズムの極限の病理進行をひたすら隠蔽し、権力とまともに闘ったことが無い
マス・メディア部族構成院の神話と論理の防衛戦争は勝利するであろうか?
 
彼らが内部に取り込んでいる「日本文学」「日本音楽」「日本演劇」「日本映像洋画
・邦画」「日本政治経済評論」「日本出版」は今や何が何だかわからないと静かにお
となしく、ハイ・テクノロジーとアトミズムの極限で自怪死している。もはや彼らの
神話と論理であった「一般」「大衆」「国民的流行文化」の画一的な欲望構造など存
在していない。国政選挙の棄権票が半数に魔主が伸びているように、欲望はそれぞれ
の固有へと帰還してしまったのである。しかしマス・メディアの記録・ニュース記事
・評論構造は固有の欲望と対決できない。警察犬力からありがたく奴隷のごとくニュ
ース記事をいだだく、マス・メディア部族構成院は他者のメンタリティーを理解しよ
うとする訓練を受けていないのである。かくして彼らの特権的なエリート意識たる内
部は固有の欲望表出と対決できない。
つまり固有の具体的経験を言語化できないのである。

 現代演劇の固有の世界と対決することは「この私でしかありようがない」自己の固有
の世界と対決する存在論的止揚の構造にある。80年代の日本文化の先端的現象は少女
たちの欲望が走ってきたと私は妄想する。少年たちの欲望はシミュレーション・ゲーム
である任天堂戦略の奴隷となってしまった。少年たちはもはやわれわれ大人たちの自己
欺瞞・他者欺瞞を憎悪しこの制度を破壊してやるといった同時代の世代創造的破壊エネ
ルギー内部を欠落されているように私は妄想している。彼らのマイ・ホーム家庭はそれ
ほどまでに居心地がいいのであろうか?やはり世界一の金万国家の単位を構成するマイ
・ホーム家庭は豊かで快楽の構造にあるのかもしれない。しかしすべてを明確にし、他
者との対決・格闘・闘争を問うして他者のメンタリティを理解しようとするアメリカU
SAの少年たちに比較すれば、彼らが大人になったとき、日本は間違い無く没落するで
あろう。他者が存在する限界・限定としての世界はすでに治療すべき自然のは母は死に
絶えており、どの固有の部族がこの限定された地球に生き残れるのかをかけてすざまし
い生存闘争が開始されているのである。

 任天堂のシミュレーションで育った少年たちはこの部族生存闘争の地獄からはいずり
上がった怪物的な人間エネルギーの前で木端微塵に粉砕されてしまうであろう。村上龍
がいうように日本の希望は少女たちの欲望にあるのかもしれない。しかし日本社会は権
力を少女たちに明け渡すことは無いであろう。日本の金玉構造はこの90年代でも「従
軍慰安婦」の%%%%%%国家なのである。われわれ日本社会「単一民族」の男は、この天皇
部族のおのれのきんたまをじっとみつめる勇気も無い。この私のきんたまは、他民族の
娘を%%%%%%した侵略兵士のきんたまと直結している。売春旅行にいった日本の男がフィ
リピンやタイの女からどう言われているのか?「日本の男は%%%%にしか関心が無い」と
言われてきたのだ。侵略兵士にとって従軍慰安婦の人格・人権・精神は彼の内部ですで
に殺している。ただ一方通行の%%%%%%%%をやることだけが重要なのである。

 石井部隊の「細菌戦実験収容所」においては、その強制収容所の内部で実験材料とさ
れたアジア人ロシア人は、日本人から「マルタ」と呼ばれていた。この「マルタ」とい
う言語は敗戦後から今日まで日本の男が表出する%%%%%%%%侮蔑用語としていき続けてい
る。日本の男は今でも%%%%%%%%をして女に積極性が無く、男に体を預けたままになる女
を形容して「あのおんなはマルタだ。マルタを抱いていたようだったよ」と友達に言う
のである。侵略兵士のきんたまを遺伝子として歴史的にひきずっている現代日本の男セ
ックス文化は、他者としての女のメンタリティを理解しようとする欲望を見事に欠落さ
せている。隠して女には男の制度的%%%%%%%%文化を満たすべく過剰な演技が要求される
。女の人格はこうして男の%%%%%%%%文化とマス・メディアに洗脳された潜在意識に規定
されてしまい分裂させられていく。若い女が日本の内部から外部にストレス解消と欲望
の充満を求め元気よく飛び出していくのは理由があるのである。

 人間の精神を殺しながら生成してきた侵略兵士による80年代の統制的バブル経済と
、%%%%のみに関心がある制度的日本の%%%%%%%%文化は過剰な外傷を女にもたらしてきた
のである。一方的に供給されてきたデジタル・%%%%%%ビデオと他者との格闘構造があら
かじめ消却されたデジタル・テレホン%%%%%%%%・マスターベーション洪水の内部で、男
たちの%%%%ス感受能力は壊滅されてきた。男たちは人間としての女を口説き落としはめ
てやるとゆう欲望を喪失し大人の女に脅えている。ナンパの構造は群れとして%%%%%%・
ビデオの欲望を代役するアトミズムの極限にある。精神のコミュニケーションはあらか
じめ殺されている。現在、武装する少女たちのグループは、こうしたナンパを車を転が
しながら繰り返し一晩限りで女を捨てる男たちに立ち向かっている。今だ全面的な戦争
にはなっていないが、遠からず「出来事」は表出されるであろう。無防備な男たちは武
装せる少女たちによって復讐されるのだ。他者への%%%%の歴史は内部からテロルを受け
る。 アジアの復讐の女神はいよいよ日本社会を、無防備のまま奴隷としてウィルスを
注入され人体改造の実験材料とされた「マルタ」の空間へと生成させているのである。
少女たちはこの不気味な胎動を気付き始めた。すなわち自己世界で現実と虚構の境界が
ボーダレスになっていることを。しかし少年たちは部屋に閉じこもり任天堂ゲームに夢
中になっている。これまで街頭は少年たちのものであったが、今や夜の少年はコンビニ
エンス・ストアーの前で群れとしてうずくまっているだけだ。少女たちの生命維持装置
は動きだした。幼い少女が、%%%%スを%%%%%%・ビデオによって消滅させられ洗脳された
男たちによって殺されていく精神無き日本文化の構造に対し、少女たちの生命維持装置
は武装し始めたのである。こうして少女たちの欲望は人間としてのメディアとして存在
する現代演劇に向かっている。マス・メディアは少年たちと共に没落するのである。「
男はぜんぶ消滅しろ!」少女はパソコン通信に今日も流している。

 私は「ガーゼ」の演劇構造は文学であると思った。おそらく劇団イルリップも観客に
言葉を求めていたに違いない。劇場に入るときえんぴつを渡されたとき、いささか過剰
なサービスであると思ったが。私は感想を書けなかった。その理由ははっきりしている
。一言では集約できなかったのだ。七十年代最後のころ、桃井かおりが主演した「もう
頬づえはつかない」という映画を見たことがある。映画監督は忘れたが、その映画監督
がパンフレットに「若い女性は恐ろしい存在だ」とかいてあった。なにが恐ろしいかと
ゆうと、若い男と女のカップルがある映画を見にいった、映画劇場から出て男はベラベ
ラと己の感想を語り、「君はどうだった?」と女にも感想を求める、女は「うーん、そ
うね」と男をかわし、しゃべらないが内心では男を軽蔑していたと言うのである。「感
動したなら沈黙の時間が必要なのよ、男ってどうしてすぐ感想を話しがたりたいのかし
ら?男って軽いのよ」その映画監督は女性たちの会話を聞いて、女とは恐ろしい存在だ
と思った。「ガーゼ」の演劇が終わりいざアンケート紙を手にとったとき、あの映画監
督の言葉が記憶構造に出力されてきた。私は女の畏怖構造にかまえて鎧を着てしまった
のである。
1992,12,05

2000年06月25日 20時10分07秒

90年代総括をめぐって−7

       2
  (298行ー21151)                  塚原勝美
              
              演劇は舞台空間を役者のエネルギーその衝突
              によって、第5の層たる始源としての意識下
              の意識を立ち上がらせる。それこそが半導体
              遺伝子による仮想現実の平面知覚を存在とし
              てぶち破ることができる、人間にとしてのメ
              ディアなのである。演劇とは生命力を伝動す
              る仮想現実の空間と時間に生成するための、
              反復的訓練と一回性にかける、奇人・変人・
              詐欺師たちによって表出される。かくして半
              導体遺伝子による仮想現実はこうした演劇の
              詐欺師たちによって偽造されてしまう。
              「事実は死んだ!アッハハハハ」
                 寺山修司・万有引力・レミング
              「シミュレーションして遊びましょ!」
                 遠見裕子・イルリップ・ガーゼ


 演劇の第五の層とは<意識下の意識>として生成し、役者と役者の対決・衝突これら
生命力としての%%%%ティシズム・エネルギーによって空間と時間が振動し、それはある
裂けめを切り開く。その裂け目から過去・未来・現在という時間はブラック・ホールに
吸いこまれるようになだれ込み、ある特異点としての空間を現出させる。それが演劇の
幻想性である。この幻想性に実は過去・未来・現在と言った時間の束が一体的に出現し
ている。それは思源としてある根源的な物質と動物的本能の空間の奪還としてある。演
劇の幻想空間は、かつて現出した出来事、そして今だ現出していない出来事を、この第
五の層によって表出するのではないかと思われる。万有引力「レミング」が動物的本能
としての遺伝子を覚醒させたのは、新宿駅南口から渋谷方面に歩きスペース・ゼロに来
た人間としての観客ではない。地下・下水道にうごめくネズミと蛇たちの遺伝子を覚醒
させたのである。この空間からカミュ「ペスト」への想像力はそう遠くない。やはり壁
の消滅は大地震による東京壊滅を待つほかは無い。その前にネズミたちは群れとして帝
都の街頭に出現し安全地帯へと動的中心の移動を開始するだろう。

 演劇の%%%%とは何か?これを私はイルリップ「ガーゼ」と万有引力「レミング」の連
関構造の連結・連動に発見した。万有引力「レミング」を記憶構造に出力させたのは、
イルリップ「ガーゼ」を言語化するためであった。ある劇団の演劇はあの劇団の演劇と
、現在の空間時間において連結・連動している。詩人とは動物的本能と遺伝子による感
受能力を全面的に発動させ、いかに誰よりも早く見えない生成を発見するかの競争構造
に存在しているのだが。<見えない生成>とはやがて現出するであろう出来事が現在に
おいて誕生している出来事の生命体のことに他ならない。詩人とは詩を書くから詩人な
のではない。観察と実験の知覚・臭覚・聴覚・触覚の動物的本能を研ぎ澄ましているか
ら詩人なのである。思源的な詩人は常に実践的構造の内部に存在している。こうして根
源的な詩人は演劇をめざす。劇詩人は一般の制度的な物語を認めない。彼・彼女の動物
的本能は固有の物語の激突である人間の交差点に存在しているからである。

 もはや大衆などと言う概念は70年代に死滅しているのだが、マス・メディアは一般
人という幽霊光景を相手にせざる得ない。大衆・一般人という言葉はマス・メディア構
成員が己の商品価値を自己正当化するための言語でしかない。今や大衆・一般という実
態は墓に埋められ、部族的な分衆と固有の物語が都市構造を生成させているのである。
イルリップ「ガーゼ」はその分衆に分割された人間と固有の物語さえも今や消却されつ
つあるのではないかと問う、深刻な現在の構造をわれわれに投企したのであった。

 如月小春とNOIESの「夜の学校」は、少年の動的中心によって消却された都市と
記憶の物語であり、万有引力「レミング」はネズミとウサギによってアパートの壁が消
却し、そこに他者の幻想と凶器が都市住民の四角の心に侵犯し、自分が自分であるとす
る事実の自信は消却されていく物語であった。ここには明確に現代演劇人の都市消却の
欲望が胎動している。1992年の参議院選挙は棄権票が「単一民族」の半数に到達し
ている。極論的に言えば、政治部族によって組織された人間しか投票所にいかなかった
のである。今や「単一民族」の半分の人口が日本の都市など消却され壊滅しても構わな
いという欲望を胎動させているのだ。場所を支えているのは辛うじて人間の求心力のエ
ネルギーである。その人間の心が場所に絶望し、心が場所を離れひたすら遠心力の心的
エネルギーの欲望が圧倒するとき、場所を支えるバランスは崩れ場所は一挙に崩壊する
。 

「夜の学校」と「レミング」は場所の消滅をめぐる演劇であったが、「ガーゼ」はさ
らに現在の人間を鋭く観察している。現在の都市構造が裸力の%%%%として「ガーゼ」
の演劇空間には現出していたのだ。われわれ観客の現在の光景が劇交換と時間に存在
していたのである。不動産企業の場が物語モンタージュとして進行していたとき私は
三日前の光景を記憶装置に出力していた。

このアパートを管理しているN宅建に家賃を払いに行ったときのことだ。いつもの机
に座っている連中が今日は妙にギスギスしているのだ。それにいつも私が家賃をその
手に渡すやさしい憧れの福田さんがいない。去年の夏、福田さんは私が家賃を多く払
っていたことに気付いて、後から追い掛けてきて呼び止めてくれた。大船駅東口で私
は頭をかきながら「いつも頭がボーッとしてるもんで」と福田さんに礼をのべた。や
はり若い女性は美しい。その福田さんがいつも座っているイスと机には私と同年配の
女性が座っている。おそらく管理職なのであろう。「いつもここにいる福田さんはど
うしたんですか?」と聞くと彼女の部下らしい女が「いつもここにいるのはこの人で
すよ」と言う。その言い方が何故か不動産企業の防衛戦争に準備しているかのごとく
おかしくもをトゲトゲしいのである。

 私が淋しくうなだれながら家賃を払い、領収書を待っていると、電話が鳴りその電話
から指示を受診した女が事務所全体に宣言した。「今、社長からで、今日、仕事が終了
してから会議を開くって!」事務所全体は緊張し深くうなずく。私は家賃の領収書を受
け取るとバックにしまい事業所のドアを開け階段を降りたがいつもの元気がよい「あり
がとうございました」の挨拶は無い。私はニヤニヤしながら理念無き不動産経済の防衛
戦争は壊滅する日が来るだろうと確信した。「ざまあみやがれ」と思いながらも福田さ
んがここから消却されてしまった、とてつもなく淋しい感情には決着つけなくてはなら
ない。結局この淋しい感情をひきずらないために、己の日常的記憶装置から福田さん自
身を消却しなければならないのである。その変換こそわれわれの日常的消却訓練なのだ
から。ある日突然やさしい心を感じさせる人は場所から消えてしまうのだ。

 残された光景はときめきの無いガサツな荒廃した夢の残骸としての場所なのである。
こうして場所は経済の裸力の%%%%によって占領されていく。人間の人格はこの落差に分
裂し、十人十色ではなく、一人十色として生成し、二重人格ではなく、四重・六重・八
重の人格複合構造の存在こそが現在の人間である。もはや私は自分自身に人格など存在
していないし、自分が何物であるのかもわからない。ただ遊びの欲望だけが存在してい
るのである。その遊びとはシミューレーションである。すでに女への%%%%スは「テレホ
ン・クラブ」やQ2サービスの電話回線から聞こえるメディアによって解体され、ポル
ノ・ビデオによって規格・基準化されてしまっている。人間的な内容をすべて喪失した
日常こそ私の日本文化である。

 イルリップ「ガーゼ」はこうしたわれわれの現在の光景と都市の%%%%構造を舞台空間
に現出させたのである。現在の%%%%演劇とは荒々しい戦場的な舞台装置に出現するので
はない。極めて洗練された美しくシンプルなデザインとコスチュームによって表出でき
ることを私はイルリップ「ガーゼ」から教えられた。%%%%演劇とは、いかにわれわれを
無意識のまま深層・潜在意識下において日常的に傷つけ記憶構造を解体させている都市
の表層変貌たる光景%%%%を、物語構造において経験させるかである。仏教によれば人間
が一番恐怖心を持つのは具体的な人間に対してである。演劇が役者である人間としての
メディアを媒介に現在の都市の表層空間の皮膚をひっぱがしたとき、それはおのづから
%%%%演劇と呼ばれるのだ。イルリップ「ガーゼ」は観客の肌を鳥肌へと震憾させ、続い
て背筋に危険信号を走らせる冷凍庫の%%%%演劇だったのである。物語の黒子装置はわれ
われ観客の現在の具体的経験であったのだ。日本一を争う東京・横浜の高層ビルは傷口
をばっくりと開け、ガーゼを必要としている、しかし自然の母はもう存在しない。

 例えば私は73歳の老母と生活しているのであるが、この老母にももはや統一的な人
格は無い。母は典型的な躁鬱病者であるのだ。そう状態とうつ状態はある期間を置いて
変換する。そう状態のときは元気があり食欲もあり働きにも出る。そう状態のときに西
友デパートなどいくと大変である。ローンの借金地獄がすぐそこに待っている。うつ状
態に入るとテレビばかり見ている。とにかく自分自身を怜悧に見据えると言う思考を拒
否しているのだ。「考えるとろくなことは考えないから嫌なんだよ」「テレビを見てい
るしか無いんだよ」それはまるでテレビの奴隷の姿だ。この老母との衝突・怒鳴りあい
を通して生活してきたが、いよいよ私は母が何者であるか判断停止・理解不能に陥って
いる。ただこの母の構造には敗戦から高度経済成長の日本史の裸力の%%%%の傷口が見え
て来る。

 侵略戦争と国家総動員体制はアジアの民衆生活を破壊したと同時に日本列島の民衆生
活も破壊したのである。非常識な体制においては常識は形成されない。母の世代はそれ
までの民衆生活の常識を継承されていない。ある家庭においては米をといて炊くことを
しらず、米をそのまま炊いていたと言う笑えない話しがある。

 日本の現代史とは常にマス・メディアによって洗脳されてきた歴史でもあった。まず
言葉が洗脳され、つぎには敗戦記念日である8月15日、昭和天皇のラジオ放送によっ
て耳の洗脳が始まった。日本列島の人間をすべてラジオの前に集め耳を制度化し洗脳し
たことは「単一民族」の完成であり、マス・メディアが上座に治まったことである。テ
レビが家庭の中心に存在する位置構造は、1945年8月15日にすでに準備されてい
たのである。日本の母の構造とはマス・メディアによって洗脳された奴隷の傷口に他な
らない。こうした母の構造をイルリップ「ガーゼ」は自己同一性の解体として創造的破
壊をしたのであろう。

 人間の青春は孤独を極限化したとき、対話すべきもう一人の自己を分身として誕生さ
せる。その代表的な文学がエミリー・ブロンテの「嵐が丘」である。私は「ガーゼ」の
物語構造の内部で過去の女の語りべの幻想が、劇空間の裂け目から顔をだしている妄想
を知覚装置に電気信号として走らせていた。私の妄想が園子と継子に注目したのは当然
である。継子は園子の自己対話が誕生させた黒い少年であった。園子の素心は都市のむ
き出しの%%%%の前で傷つき、恐れべき人間関係の交差点である表層空間の%%%%の前で立
ちつくし自己破綻した人間であった。ふたみは彼女の復讐と悪意によって都市に呼びこ
まれた人間であったのである。園子を演じた飯塚優世は素心まるだしで「私」という近
代的自我がすっぽ抜けている雰囲気を持っている。こうした「気」をかもしだす女に私
は興味がある。「私」が抜けている感じがする女こそ実は自己葛藤が激しいのである。

 継子を演じた柳沢三千代は現代の仮想現実としての%%%%構造を物腰も軽やかに表出し
たのではないかと妄想する。黒い少年継子のトーン色は黒であったが、黒には多様な色
が隠されている。継子は青緑の映像であったのだ。青緑の映像こそ90年代のわれわれ
の潜在意識を支配するトーン色である。1991年1月17日、USA軍によるバクダ
ット空爆の映像は夜を透視したデジタル映像であった。何十億の人口をテレビの前に釘
ずけにしたこの青緑のトーン色こそ90年代の基調色なのである。マス・メディアに屈
服した美術批評はすでに次ぎのような奴隷の言葉を吐いている。「今日、テクノロジー
の発展には圧倒的なものがある。それに比して思想やアートといったものは、こじんま
りとしている。湾岸戦争で『クリスマス・ツリーのよう』と形容された空爆の光ひとつ
とってみても、それにまさる美をうみだしたアートなどはない。今やテクノロジーに影
で、思想やアートは無力だ。仮想現実感もしくは人口現実感と呼ばれる技術の登場は、
この傾向を加速さらにした」こうして洗脳社会と欠落現実感の世界新秩序の基調色は青
緑のクリスマス・ツリーとしてデズニーランド化されていく。つまり90年代とは継子
によって自己同一化されていくのだ。継子は20世紀最期の救世主なのである。

 継子がふたみに「シミュレーションして遊びましょう」と声をかけたとき、私は恐怖
に震え上がった。背筋に寒いあの青緑の電気信号が走ったのである。継子は園子の孤独
が呼び寄せた夜の亡霊だったのである。その意味で柳沢三千代の演技は始めにから結語
まで論理構造の円環を形成している。それは物語構造に体系の骨格が存在していたとい
うことだある。われわれ観客は「ガーゼ」の空間と時間に日本の伝統演劇である亡霊の
物語「能」を見ていたのだ。黒い夜の青緑色の%%%%ス、それは人類が爬虫類としてジャ
ングルの沼に生息し、やがて哺乳類として樹木の上で生息していた始源的な森林の遺伝
子にある。イルリップの演劇は観客の動物的本能としてある記憶装置の身体が回路とし
てもつ人間のシミューレーション装置を呼出し、その場所に衣拠する演劇なのである。

 いま私は15年前のテレビドラマを記憶装置に呼び出した。それは三田佳子が主演し
た精神病理のサスペンス心理劇であった。三田佳子が演じる主婦には二人の女が存在し
ていた。昼は造成住宅街ならどこにでもをいる静かでかわいい若妻である。ところが夜
になると行動的になり人格は変換されまったく別な女へと変貌する。女は都心にとびだ
していく。このような若妻は今日めずらしい存在ではない。おそらく昼においても夫に
見せる顔とは違う、別人として欲望をむさぼっている若妻は圧倒的に存在しているだろ
う。ところが当時は一人の若妻が人格もろとも分裂し、もう一人の別の名前を持った女
が現出することは衝撃的だったのである。やがて三田佳子が演じるその自己破綻した若
妻は精神科の医師によって、彼女の「こころ」とゆう空間の奥底に沈められ、幼少のこ
ろに受けた外傷から原光景としてのイメージが呼び出される。それは青緑色の渦が巻く
「沼」だったのである。

 70年代80年代日本の都市計画と区画整理はこうした不気味な「沼」をひたすら埋
めて整地してきた。不気味な「沼」が消滅した変わりに人間の人格はアメーバーの原生
動物的に細胞分裂している。イルリップ「ガーゼ」は自分さがしの演劇と言ったマス・
メディア洗脳言語で集約することはできない。黒い夜を透視する継子は現在の世界同時
的基調であるシミュレーションの%%%%構造をあばいたのだ。夜間を透視するハイ・テク
ノロジーの機器に写しだされる映像は、不気味な青緑色が渦巻く「沼」であった。人間
のハイ・テクノロジー機器の進化と人間のアトミズムの深化の交差点に点滅するのは青
緑色の信号機である。

 「わたろう、わたろう、青になったらわたろう」こうした歌を私は小学校のときに洗
脳された。交差点においては青緑の信号が点滅してからわたることを身体言語として訓
練されてきた。赤色は危険信号であり、交差点では死を呼び込む色である。「赤」の国
家として侮蔑され、世界地図は赤で塗られていた東欧・ソ連邦社会主義国家は消滅した
。こうして安心・安全の色であった青緑色は世界基調色と生成した。しかし何故か不気
味であり、安心・安全というよりは破壊と荒廃の匂いが漂っているのだ。映画「羊たち
の沈黙」は見事にこの90年代の基調色を結語において表出した。若い女を誘拐しその
肉体を玩具のごとく扱い殺してしまうアトミズムの極限において類的存在を破壊した男
が、黒色の闇につけていたのは夜間を透視することができる機器であった。仮想現実ゲ
ームによいしれている男の眼球をおおうマスクを思い出せばよい。         
          
 91年「クリスマス・ツリー」と形容されたバクダット空爆、10万人の無抵抗なイ
ラク兵士を砂に埋め殺した陸上戦に使用された夜間透視機器に写しだされた映像はすべ
て黒色に漂う青緑色の光景だったのである。こうして美術批評を特権的に私的所有する
日本の大学教授どもは「あれに優る美があるだろうか!いまや思想やアートは無力にな
った!」と洗脳社会と欠落現実感に、言説の群れとして総敗北・総屈服し、世界新秩序
の世界基調色に迎合していく。しかし彼らは危険信号の赤の存在構造が消却したことは
同時に、その対極に存在していた安心・安全の信号が、人間とハイ・テクノロジー機器
の交差点で不均衡に不気味に揺らいでいる構造を隠蔽している。

 地球の自然生形態にこれまで青緑色はそのシンボルとして帰還することはできたが、
これまで人間・社会の病理を治療し看護してくれた地球の母は対話能力を喪失し終焉し
ているのだ。故に90年代の基調色はシミューレーションが渦巻く「底なし沼」なので
ある。やがて青緑の川は皮膚が破壊され赤土がふきだし泥が流れる赤い川へと変貌する
であろう。そして地球は美しい青緑の星から赤茶色の惑星として変換されていくのであ
る。日本のエリートたちはハイ・テクノロジーの新世代に活路を求めているが、それも
やがてゆきずまるだろう。真理は人間に存在するからである。アンドロイドは過去空間
の記憶を持たず、関係の変貌に傷つくことも無く絶望することは無いであろうが、人間
は己の固有の歴史を背負った動物である。人間の時間はデジタル・数字が打ち出す時計
ではないのだ。他者空間との関係性に成立するやっかいな空間精神動物なのだ。

 永田町に本部がある世界最大の%%%%団「劇団自由民主」の政治支配と上部構造の統制
管理を、ずぶずぶと変革できぬままできた、だらしがなくなさけないわれわれの日本社
会はいまだ親分子分といった卑屈な制度的社会だ。くだらない卑屈な構造が空間にベッ
タリと貼り付いているのだ。テキストがそのままデイレクトに他者関係性として理解・
解釈される社会ではない。表出されたテキストをそのまま理解し・解釈すればわれわれ
は愚かな人間として、世界最大の%%%%団「劇団自由民主」とそれを支える世界最大の官
僚機構によってだまされてしまうであろう。こうした社会は「善意の道は地獄へと敷き
詰められている」格言道理である。こうしてテキストは疑心暗鬼にさらされ、サブ・テ
キストを解釈する能力のみが発達するわけである。

 マス・メディアによる推理小説と「2時間テレビドラマ/OO殺人事件」が圧倒的過
剰に供給され需給されてきた80年代の物語構造には理由がある。この社会では日本語
を話す同一国民であっても、関係性としての他人は推理しシミュレーションしない限り
落とし穴に蹴落とされてしまう。日本国民たる社会人はマス・メディアによって自己の
自由時間はこの推理とシミュレーションの自己訓練に当てぬ限り、日本社会の空間で生
き延びることはできないのだ。もちろんサブ・テキストとは演劇用語である。テキスト
に真理があるのではなくサブ・テキストに真理があるとする空間構造は、親も敵として
蹴落としてしまう下剋上の空間構造だ。敗戦後、戦国時代のNHK大河テレビ・ドラマ
が日曜日の8時になると、男どもが見なくてはいられない競争社会のシミューレション
訓練構造は、いまだ日本社会の表層空間が親分・子分の系列部族社会であるからである

 個人の固有表出と思考形態を彼が徹底して充満させ、究極まで走ろうとすれば、自己
と他者に対し冷徹な人間でない限り、彼は系列部族社会から自己破産を宣告され自殺す
るか廃人へと追いつめられるであろう。こうして天皇制は疑心暗鬼の国民がすべて腹芸
をする腹黒いサブ・テキストの演劇社会表層空間において、日本人とゆう固有名詞の血
管となる。日本人の一人一人は己の遺伝子にある青緑色の渦巻く「沼」において、天皇
制が消滅すれば固有の物語と幻想・観念を持った固有の人間は独立宣言し、個人として
人間宣言することを予感している。

 演劇人は演劇とは麻薬であることを良く自覚している。サブ・テキストに真理がある
腹黒い腹芸の日本社会とは生きた仮想現実の生成なのである。故に日本人の脳と身体言
語は常に推理とシミュレーションの麻薬にどっぷりとつかっており、このドラック体験
の快楽はただ天皇制によって自己存在を消却させてくれるからである。こうして系列部
族の%%%%した群れのエネルギーを全身で受け止めてしまったロック音楽人は、もはやド
ラックに頼るしか無い。しかしそれは天皇制とマス・メディアに解体され洗脳された老
人が、継ぎから継ぎえと病院を替え薬に頼るクスリずけの晩年の構造でしかない。演劇
人がドラックをやらない理由は、はっきりしている。演劇とは生きた仮想現実としての
麻薬なのだ。

 固有空間を問題にする演劇世界は同時に大状況の現在たる表層皮膚を、新鮮なナイフ
の動物的本能がひきはがして挑発しているのだ。制度化され画一化された都市構造を爆
発せんと身構えている若く可能性のエネルギーをもち造形力のある新しい劇詩人は、い
かなる時代であれ存在しているのである。若い世代の演劇をこじんまりとした固有の物
語にわだかまる自分さがしの演劇であるとかたずけるマス・メディア洗脳言語はいかな
る構造にあるのか?

 それは人間をめぐる現代世界の動的中心が大きく転換し変貌したとゆうあたりまえの
現実をいまだ身体的言語が認めていないのである。人間世界の転換と変貌を己の身体言
語が認めるということは、己のこれまでの観念が一度崩壊をとげねばならない。人間は
こうした外傷としての受苦的存在の経験の格闘をくぐりねけることによって、人間世界
の転換と変貌を身体言語として認めるのである。ところが日本のマス・メディア洗脳言
語はいまだ言説・物語構造をエリート部族スターリン体制として、上部構造から一方的
に供給過剰している。彼らはこれまでの見せかけの物語構造を保守しきっているのだ。

 いくら彼らの物語が「サセペンス殺人事件」「バブル・トレンド物語」から複合不況
経済に規定された神経がズタズタになった「バブル崩壊人間破産サスペンス物語」へと
路線転換してもそれはどこまでも見せ掛けの物語構造にある。彼らのバブルの泡が破裂
したことによる現在の「スキャンダル・ナーバス物語」は永田町の世界最大の%%%%団「
劇団自由民主」の染色日本銀行券心理と下半身うずく、きんたまであり、帝都東京の崩
壊に脅えるナーバスだ。もはやそこに人間の知恵は消滅している。

 新しい身体知覚・新しい物語知覚・新しい交換知覚と本格的に対決すれば彼らの論理
は破産し、存在は崩壊をとげてしまうであろう。故に若い世代の現代演劇は永遠に彼ら
の物語構造によって隠蔽される。「夢の遊眠社」「第三舞台」に続く観客動員力を持っ
た劇団のみが新世代の新感覚派として現象化され、スターリン体制の部族物語構造の内
部に回収されるのである。日本の現代演劇が現代文学と同様の位置を占めることは彼ら
スターリン資本主義体制とエリート部族が許さねであろう。なぜなら劇詩人と役者は常
に、彼らの制度的画一的物語構造を覆してやると身構えており、彼らを挑発しているか
らである。
              1992,12,05
2000年06月23日 21時35分23秒

90年代総括をめぐって-8

        3

 (277行ー19761)                           
                      塚原勝美
              
              1971年春にはすでに打倒されていた日本
              全国高校のテキスト存在を求めた反乱は、多
              くの自殺者・退学処分者という犠牲を払いな
              がらも、意味はこの20年間で消却されてき
              た。大学全共闘のみが脚光を浴びてきたので
              ある。深部にいまもうずくバックリとあいた
              傷口をかかえ沈黙してきた20年間の青春像
              と、90年代の青春像はどう接点があるのだ
              ろうか? もはや、ないのかもしれない。
              劇団イルリップは青春像の傷口を手当する見
              えないガーゼという布の演劇によって、現在
              と1971年の光景を立ち上がらせたのである。
              女の演劇とはつまり、布と人間の根源的な関係
              を表出する。布を最初に織った人類は女であっ
              たからだ。布とは女の髪のように記憶の磁場を
              胎動させているのかもしれない。

 そろそろイルリップ「ガーゼ」に対するこの演劇感想文も破産しようとしている。私
はこの8月、熱帯夜にうんうん唸りながら演劇感想文や美術感想文をパンツ一丁でかい
ていた。私は荒野のごとく禿げ頭であるが、その禿げ頭から火柱がたち爆発しそうであ
った。それは9月・10月・11月・12月と続いている。私の欲望はこの8月、横浜
・江の島で上演された、劇団DreamDrunkers「夜の秋」・劇団イルリップ
「ガーゼ」・P・E・C・T「もっと!イルカの生活」の連関構造を言語化したいこと
にある。何故なら私は1980年から1991年1月までこの神奈川という固有の場所
と格闘してきた人間だからである。あるときは住宅外装工事受注セールスマンとして神
奈川の街という街を歩き。あるときは寄せ場というゲットーの労働者として。日本語も
満足に話せない口ベタで英語も話せない私はすべてにおいて主体の崩壊によって自己破
綻し逃亡したのであるが。やはり神奈川という固有の場所に興味があるのである。

 場所という空間と格闘しないものは永遠に場所が持つ縦走的な構造を発見できない。
場所はある人間にとっては政治地図であり、ある人間にとってはビジネス地図である。
しかし場所のみえない精神の生成を発見するのは演劇人と詩人たちである。隠して演劇
人と詩人はどちらが早く「出来事の気配」を発見しどちらが早く表出させるかの競争構
造に存在している。ある演劇に詩人が他者として介入するとき、人間ドックではなく人
間ドラックの演劇の麻薬構造は「沼」に渦巻く青緑色のそこに入り込み、詩人は生きた
仮想現実として生成する演劇におかされた麻薬中毒者として現生活は見事に破産する。
演劇とは恐ろしい人間のメディアだと詩人が気付いたときはもう遅いのである。こうし
て彼は睡眠薬の常用者となる。個として表出する詩人が演劇の集団的創造力の前に敗北
することはわかっているのであるが、「ひとつはめてやろう」とする下品な%%%%%%根性
が欲望として先行してしまうのである。しかし欲望の衛生管理する日本の都市は場所か
らこうした危険な麻薬中毒者を消却し、すべてをツルツル・ピカピカにしてしまう。隠
して詩人の欲望は制度化され動物的本能は壊滅され、生きた仮想現実としての演劇は劇
場に閉じ込められる。都市の多様な重層的空間は消費空間のみに独裁的に変貌して、危
険な人間は消費空間をより強化する補完記号として回収されてしまう。

 85年以降の神奈川の都市開発はすざましいものがある。「生活文化人」をキーワー
ドにしたルミウィグとやらが、この9月18日大船でオープンした。これでいよいよ神
奈川の全領域でのステーション都市開発は完了したとおもはれる。敗戦後の闇市空間は
完全に消却されてしまった。この空間変貌の推進力は東京に住む人間には想像を絶する
ものがある。つまり東京の全領域の街のほうが空間は変貌をとげていないということだ


隠して東京の演劇はある危機感が無い。空間変貌と人間記憶構造の落差に対する衝撃
が東京の演劇は薄いのである。隠して東京の演劇空間はじつにアット・ホームの演劇
%崚である。神奈川の若い観客は一人一人が実に冷めている。演劇%%屐Υ儺劼貌
権的にわかりあえる部族言語は存在しない。観客も役者もある外傷をかかえているか
のようだ。故に神奈川の演劇は東京の演劇に比較して、全体の完成度は低いかもしれ
ぬが、ある真剣で深刻な問題を投企するのである。それは人間主体が切り裂かれてい
くような格闘構造にある。

 東京の演劇はマス・メディアや構成員の演劇批評家・帝都の大学文学部で演劇史を教
える教授・助教授たちに任しておけばよい。演劇のテキストはいつでも表現技術の内部
として解釈されるであろう。隠してテキストのダイレクトの世界構造は隠蔽される。何
故なら東京の演劇は揺らいではいないからだ。揺らぎの無い安定した現代演劇構造は、
これまでのように無視するか、現象が表出すれば部族言説の卑屈な群れ本能として迎合
すればよい。サブ・テキストに占領された東京の現代演劇構造はびくとも揺らいでいな
い。いつでも名無しのごんべいに帰還できるからである。

 60年代後半に表出したアンダーグランド演劇の知的青年の「逃げの構造」と、「ぴ
あ」を動的中心にした現代演劇の「逃げの構造」は歴史的に継承されている。それは東
京という観客構造が実に知的で安定しているという構造の歴史的伝統にある。それはわ
かるほどにわかってしまうと言う存在と、おのれのマニュアルにはありえないものとし
て無視する存在である。東京の観客・批評構造はこの二つの在り方なのだ。この分裂し
た二つの構造はどちらも表現世界との他者関係性を欠落させていることで通低している
。東京の現代演劇はこの二つの構造によってあまりにも安定しているのだ。東京の劇場
は既に観客にとって何ら疎外されず自己同一化できる情報ラベルのステータスの場なの
である。観客は優越感とゆう文化人として入場するのである。こうした観客構造を創造
的破壊しない限り、東京の現代演劇の動物的本能は去勢され制度化されてしまうであろ
う。

 例えば夏の天文館に来ればよい。江の島海岸には東京から群れとして押し寄せて来る
海水浴の家族・ギラギラとした太陽に若い肌を焼く男・女のきんたまと%%%%%%%%の健康
的な欲望があまりにも明るく輝いている。その輝く夏の群れをかきわけながら天文館に
入場する観客は既に違法人である。観客は自分の白い肌が病人のように思えて来る。観
客は既に実存主義者である。劇場にはいることが、ある群れてき市民社会との葛藤の構
造にあるのだ。見れば役者も病人のごとく白い肌をしている。ここでは観客も役者も奇
人・変人であるとゆう演劇の河原乞食精神・存在論的格闘の構造が見事に生成している

 文化のステータスの場として成立している東京の劇場にはこうした葛藤の構造が欠落
しているのだ。劇場そのものに都市現象から疎外されているという「ゆらぎ」の実存意
識が無い。例えば夏の相鉄本多劇場に来ればよい。このビルは映画劇場が主流であり、
家族ずれと若いカップルが映画劇場を動的中心にして出入りする。男はマニュアル雑誌
で覚え込んだテクニックで映画を見ながら連れの女をいかに愛撫しようかシミュレーシ
ョンしながら大劇場に入るとゆう実に明るくきんたまと%%%%%%%%がどきどきする健康的
なビルなのである。ここでの演劇観客も実存的に揺らいでいる。だがこの「ゆらぎ」こ
そが観客と役者の演劇的存在を生成させるのである。

 「ゆらぎ」は確かに自己完結的な全体の完成された演劇空間を保証してくれない。東
京の観客と違って神奈川の観客は一人一人が揺らぎの構造にあるからである。そこでは
わかり過ぎるほどわかる、あたしの純粋で純愛の教義に合わないから無視してやる、と
いった安定した観客・批評構造が成立していない。空間変貌が徹底的に、「神奈川県の
予算はフイリピンの国家予算よりも多いのであります」とうねぼれの保革あいのり無闘
争県政によって、衛生都市開発が暴走してきたのである。システムの動的中心である帝
都の指令によって。8月の神奈川の演劇である劇団イルリップ「ガーゼ」・P・E・C
・T「もっと!イルカの生活」劇団DremDrunkers「夜の秋」は、こうした
神奈川の空間変貌に対してどう人間が決着をつけるかをめぐって表出した、固有の場所
と固有の青春の物語である。舞台では「ゆらぎ」の構造が徹底的にテキストにされたの
である。その青春のテキストと禿げ頭の私は1992年8月の実存的格闘の名において
連帯したい。

 新宿梁山泊「それからの愛しのメディア」において黒沼弘巳の妹役であった近藤優花
の死にざまは美しかった。彼女は冬の圧倒的な青空を身体言語によって奪還したのであ
る。近藤優花はわれわれ観客に人間の「こころ」とは身体の内部に閉じられているので
はなく、身体の外部たる空間に存在している構造であることを表出した。恐れるべき世
代の誕生である。おそらく彼女たちの世代は空間を超越しある脳波と身体言語によって
、電波・電子通信機のごとく対話を生成させることができる世代なのであろう。禿げ頭
である私が少年のころまんがやSF小説で読んだある人間と人間のインターフェンス構
造は世代として誕生しているのだ。現代世界のコンピューター内臓機器と横浜・品川の
ウォーター・フロントに出現した魔天楼は既に今日の表層がSF社会であることをわれ
われに告げている。そうであるならば、人間と人間の創造力をインターフェンス構造と
して生成させる世代が誕生しても驚くべきことではないのだ。

 驚くべきことは1945ねん8がつ15にち、「単一民族」を完成させた昭和天皇の
ラジオ放送によって耳を洗脳されたものどもによって、「思想とアートは無力になった
!」とスピードをもって埋められていく洗脳社会と欠落現実感の空間である。彼らはこ
れまでも真理とは人間に存在することを隠してきたし、これからも永遠に隠蔽していく
ことであろう。新人類という造語は82年にある音楽雑誌に表出し、それを既に主体を
内部崩壊させ死滅した朝日新聞社が盜用して一般化したのであるが、その時はいまだ新
人類とは世代として登場していなかったのである。それはマス・メディアがある固有の
表出を隠蔽し、先取りして言語を充満させ空間を埋め、テキスト本来の人間としての真
理構造を消却し人間的な内容を壊滅させるとゆう、従来の日本現代史で総転向・総屈服
しながら生き延びてきたマス・メディアの論理と場所を保守し防衛せんとする部族闘争
の知覚である。

 自己欺瞞・他者欺瞞の日本においては、テキスト世界には真理は無いしテキストの世
界同時性を永遠に隠蔽する。しかしながら存在そのものがテキスト世界であるかのよう
な新人類は世代として登場した。近い将来、解釈に解釈を重ね合わせ、テキストそのも
のの意味事実存在を壊滅してきたサブ・テキストの自己欺瞞/他者欺瞞の空間は没落す
るであろう。近藤優花の動的中心たる世代的登場はそれを予告している。なぜそれが人
間としてのメディアとして生成する生きた仮想現実としての演劇で表出しているのか、
私はいまだわからない。イルリップ・P・E・C・T・DreamDrunkersの
演劇構造は、新宿梁山泊の役者構造と連結・連動している。「ゆらぎ」の空間と格闘し
ながら存在そのものがテキスト世界として表出するのである。こうして1992年8月
の構造とは日本現代史がサブ・テキスト世界からテキスト世界へと転回して、月として
の引力がある何者かを誕生させた原点として生成したのである。

 私の禿げ頭が火柱をあげ爆発しそうになったのはこうしたテキスト世界からの挑発を
動物的本能が受信していたからである。 遠見裕子は現在の都市生成現場を通過したの
だ。如月小春が「工場物語」で80年代の都市生成現場を通過したように。その通過と
は己の内部で都市の生成を自壊させることに他ならない。イルリップ「ガーゼ」はシミ
ュレーションによる現在の都市生成現場を生きた仮想現実である演劇によって自壊させ
たのであろう。さらに現代演劇の物語構造を創造的破壊した。役者の動的中心である存
在のテキスト世界を体系の骨格を形成する一点に定め、場を移動させたのである。舞台
設定が園子の部屋からホステスが店を開く前にミーテングするクラブへ、さらに不動産
の物件へと移動したとしても、役者の体系の骨格は物語のテキスト世界をキープする。

 自己欺瞞・他者欺瞞として、解釈に解釈を重ね合わせ、やがて崩れ落ちる積み木の構
築に夢中になって遊ぶ子供のように、日本現代史は生成してきた。その場その場に適応
する能力は全面的に発動されてきた。個人はあるテキストを主張しそのテキストによっ
て明確にし他者を説得するというUSA社会と違って、個人は己のテキストを主張しな
いが、天皇法人資本主義の集団構造にはみえない場の空気たるある強制が働いている。
個人はサブ・テキストによってこの隠された空気を脳天から突き出たアンテナと表層皮
膚によって解釈し、深層と内部の見えない強制の意思を先取りして己を適用させなけれ
ばならない。こうして日本市民社会の人間は一人十色となり、その人格は4重5重6重
人格として生成する。他人を信用せぬ疑心暗鬼の世界はただ天皇制によって隠されてい
るだけである。「単一民族」の構造とは自分さえも信用できぬ「複合猜疑心」の沼の渦
の上に構築された魔天楼なのである。

 例えば電車に乗って自分より世代が上の乗客を見ればよい。彼・彼女たちの目んたま
は三角となっている。無表情であるがいかにも下品な顔だ。はつらつとしたものがなく
死者の如き土色になっている。これが疑心暗鬼と猜疑心の顔であることは間違いない。
イルリップ「ガーゼ」はこうした現代史のすべてが隠されたサブ・テキストのシミュレ
ーション構造によって外傷を受けた青春群像を、テキストとして舞台空間に表出させた
のである。友達の肩に手をかければ%%%%的にふりほどかれてしまうのではないか? こ
うした自己意識を持ちながら生きてきた園子はわれわれ観客の同時代を告発する。園子
だけではない、今日では圧倒的多数の人間が他者とコミュニケーションを成立させるこ
とができぬ自己に対し絶望しているのである。私もその一人である。

 女子高校生ふたりが対話する夕焼けの校舎の舞台は美しかった。大学進学という社会
関係性がふたりをそれぞれに規定し、サブ・テキストのみえない構造がふたりの関係を
切断していく。友達関係は終焉しコミュニケーションの時間はそれぞれのアトミズム構
造へと回収されていくかのようである。あれはもしかしたら園子とふたみの関係であっ
たのかもしれない。

 われわれ観客のみすぼらしい希望は外傷を受けてもたちあがり、結語において舞台空
間が覆された外部への道をたくましく歩きだす、ふたみのエネルギーに託すしかない。
イルリップ「ガーゼ」は外部へ出ることをめざした演劇であったのである。そのために
は集団と自己の潜在意識・深層内部をあいまいさを残さず徹底的に曝す必要がある。建
前と本音の分裂と、すべてが隠されサブ・テキストとシュミレーションの自己欺瞞・他
者欺瞞の%%%%都市の空気に引き裂かれた青春像の主体を「ゆらぎ」として、自己像の浮
遊するあいまいさを、内部に自らを閉じ込め徹底化することで自壊させたのである。つ
まりわれわれのアトミズムと孤独の自己対話・極限が生み出した「継子」に止めを差し
決別宣言した演劇だったのだ。

 われわれが孤独とアトミズムに閉鎖され、こうした自己を慰めてくれるアトミズム地
獄の落下の沼の底で生み出した、「継子」的青緑色言語と遊んでいるかぎり、われわれ
は永遠に他者とコミュニケーションできないし関係を成立させることはできない。そし
てわれわれは永遠に他者にとって理解不能の存在であろう。園子の存在とはわれわれ観
客の現在であったのである。われわれはサブ・テキストの空気とシミュレーション・ア
ンドロイド的生成の内部を、徹低的に創造的破壊することによって、己自信を人間主体
のテキストとして形成すべく、ふたみのように外部への道を歩きださなければ人間には
なれない。

 ふたみがその道を歩いていけば、すぐさま恐れるべき人間関係の表層としての交差点
に出くわすだろう。しかしある外傷からみごとに立ち上がったふたみは、自己存在が一
つのテキストとして他者の前で主張できる存在であるに違いない。われわれはもはや他
人の言葉が建前であるか本音であるかなど、くだらないことを考えるのは日本統制経済
・に本当製政治・日本官僚と日本統制行政にまかせておけばよい。こうした巨大な組織
はいま内部から崩壊しつつあるからである。自分のことを他人はどう思っているのだろ
うか?などとサブ・テキストをこねくり回すのはもうやめだ!コミュニケーションを成
立させるためにはまず自分の考えを他者にぶっつけなければならない。90年代とは固
有のテキストの時代である。園子はサブ・テキストによって壊れた人間だったのだ。

 日本のきんたま%%%%%%%%殺しの文化においては、他者のメンタリティを理解してやる
と言った欲望がみごとに欠落している。故に園子みたいな素直そうな女がきんたま性度
によって要求される。しかしその素直とは何でも聞き入れ合わせることができる自己分
裂の地獄絵の道が敷き詰められているのだ。隠して素直な女や男は永遠にわからない存
在になってしまう。1970年代初期に大学と高校の反乱が殺され、その後反革命の教
育制度が統制され、衛生教育の構造が完備し完成されてから20年が経過している。古
い世代の制度を憎悪しぶち壊してやると言った欲望を持つ、同時代を形成する創造的破
壊の世代的登場は永遠に回復することは無いかのようである。それが韓国と日本の青春
像の決定的な違いなのだ。韓国においてはいまだ世代的同時代の創造的破壊が現代史と
して継承されている。ところが日本においてはこのベクトルが殺され切断されてしまっ
たのだ。

 その責任は全共闘世代のあとから高校において反乱に立ち上がったわれわれの世代の
責任でもある。私たちが政治少年・少女として街頭へと自己動員し、高校で反乱を運動
構造に毎日形成していたとき、すでに全国の反乱の潮は引き潮にかかっており、本音建
前の安定した市民社会のサブ・テキストはよりを戻していた。私たちのみすぼらしいテ
キストは粉砕され、青春途上の自殺者を抱えた敗北の過程こそが私たちの青春群像であ
ったのである。私たちは沈黙した。それが唯一の誠実であるかのように。このように如
月小春の世代が高校生になったころは、ただ夢の残骸が残されていただけだったろう。

私たちは敗戦後から継承されてきた世代的同時代の創造的破壊のベクトル構造をぶっ
たぎったのである。それは園子が自分が受けた外傷をある復讐の「怨」の構造として
の、無意識の悪意としてふたみに転化した構造でもある。私たちは沈黙によってこの
「怨」の復讐を70年以降の時代にインプットしてきたのである。

 世界的音楽アートの坂本龍一は「1969年が高校3年であったか2年であったかは
決定的に違う」と村上龍の特集誌にこの言葉を寄せていたが、私も同意する。私の記憶
によれば1969年は東大の入試試験が中止に追い込まれた年である。それは日本の自
己欺瞞・他者欺瞞のサブ・テキストが世界テキストに変換されるかに見える可能性に満
ちた反乱の季節だったのである。ここでは己のテキストをぶっつけない限り、制度の奴
隷としてみなされ信用はされない。彼・彼女が何を解釈したかのサブ・テキストよりも
沈黙し行動する存在の人間としてのテキストが決定的に評価された。大学に進学しサブ
・テキストを獲得することよりも、存在のテキストとして労働者になることが奨励され
た。 中学生から反乱に参加したものは高校にもいかず労働者となった。この時代の青
春群像にとっては、テキストは裸力の%%%%としての社会に存在していたのである。反乱
の青春群像は社会激動とダイレクトに連結・連動しており、世代的同時代はOO高校と
いう壁を突破らい、みすぼらしいガリ版孔版印刷のテキストを表出し政治少年・少女と
して主張する。かくして一年学年が違えば、社会激動と連関しテキスト感情も違って来
る。反乱を表出できぬ高校は制度の沼に沈没しているとして「あすこはどうしようもな
く遅れているなあ」と軽蔑の対象にされる。

 坂本龍一や村上龍の世代から一年遅れただけで私たちの世代は、自分たちの高校をバ
リ封鎖出来ぬまま1971年の春、無力な敗北者として労働者あるいは学生としてテキ
ストとしての社会へ出ていった。こうして私たちは歴史を語れぬものとなったのである
。私たちは「こうゆう大バカ者がいた」と教師がいえば後輩たちの笑い声が教室にひび
くサブ・テキストへと回収されていった。もはや永遠にこの日本においては高校の反乱
がテキストとして回復することは無いであろう。いまだ高校生が街頭の政治闘争の現場
へ参加する韓国の青春群像は、人間存在のテキストを追及し、世界同時性としての動的
中心を継承し発展させている。発展とは自己の空間の深部に力と自信を感受したときの
テキストの同時代的表出のことである。その燐国の青春群像の現在テキストを、老衰し
た日本マス・メディアの言説機関は経済決定論によって「あれは日本の60年代だよ」
と、サブ・テキストの内部へと回収する。遅れているのは日本の青春群像であり、その
没落は近未来が証明するであろう。

 しかしいかに没落する青春群像であってもテキスト的存在の人間は出現する。いかな
る世代にもひたむきで誠実な人間が存在しているように。その青春群像の全体が没落を
深めれば深めるほどに、その青春群像が抱えている問題を一心に引き受ける個人が現出
するのである。その個人の葛藤と格闘の構造は、われわれ前世代が10年をかけてテキ
スト化したものを、すぐさま主体化し現在を乗り越えて実践化していくことの出来る強
い主体構造を形成している。私はこうしたすざま強い葛藤・格闘の内部空間を持ち、存
在をテキストとして表出する新世代の女・男にあざやかなエネルギーを感受してやまな
い。われわれ前世代は、やがて崩れ落ちる積み木のように、解釈に解釈を重ね合わせる
自己欺瞞・他者欺瞞の言語と構造のサブ・テキストに洗脳され汚染されている。

 ところが新しい新世代の個人は、こうしたくだらないサブ・テキストなど死んだもの
として捨てている。自分を振動させ、存在として教えてくれるテキストとして表出して
来るエネルギーが感受出来なければ死んでいる存在として識別するのだ。こうして新世
代の個人はプロフィシュナルとメジャーリーグをめざす。格闘と表出をめぐる空間とし
てのプロフィシュナルとメジャーリーグのことである。

 サブ・テキストのくだらない情報の洪水にあるマス・メディアの積み木こそがアマチ
ュアでありマイナーリーグなのである。私は武装的なかまえかたと格闘のダイナミズム
と動物的エネルギーのことをいっているのだ。テキスト存在表出の欲望を欠落させたも
のどもは、反革命の教育制度と管理消費社会によって洗脳された没落する青春群像によ
ってのみ生成できる。一般の帝国に欲望が画一化された没落する青春群像はマス・メデ
ィアによって統括された言葉のみを表出する。人間の行動思考を同一化・規格基準に当
てはめるJISマークの規格化はマニュアル社会と呼ばれている。
                1992,12,05
2000年06月23日 20時55分44秒

90年代総括をめぐって−9(仮想現実とは何か)



 仮想現実・演劇・人間4
 (188行ー13049)                    塚原勝美
              
              仮想現実と人間の感受装置であるこころの
              空間とはどう関係しているんだろう?
              いったい心とは何か?
              男の感受装置には情報を挿入され、それを
              受け入れる子宮構造が存在し、女の感受装置
              にはきんたま構造が存在している。
              女の演劇とはこうして都市のむきだしの%%%%
              を舞台に現出させる。
              「シミュレーションして遊びましょ!」
              男の背筋に恐怖の%%%%がはしる。
              そこに世界同時基調色が立ち上がる。
              女の動物的本能は宇宙と世界の磁場と
              連結・連動しているのだ。
              世界の男どもの精子を仮想現実へと
              落下させるUSAマドンナの欲望は
              ある復讐によって男の%%%%スを解体する
              女とは悪意を隠すメディアでもあるのだ
              女の存在とは何か?
              男は永遠に発見できないかもしれない
              女の演劇は現在の都市を回収する
              能動的なきんたまとして武装している

 USA社会は移民によって形成された多民族複合国家である。かくして産業経済を成
立させ、工場の生産形態を維持するには自動機械の機器を操作するための、テキストと
してのマニュアルがどうしても必要とされる。ところが多民族など存在していないと他
者を「外国人」というフレームで隠しとうす日本のマニュアル社会はテキストとして構
造化されていない。「単一民族」の欲望を統制し画一化し制度化するマニュアル社会な
のである。かくして物語はサブ・テキストの情報洪水となる。園子の現在はこうした社
会によって外傷を受けたロスト・アイデンティテイーとしての自己喪失の構造に存在し
ていたのである。だがそれは自分さがしの演劇ではない。没落する同時代の青春群像の
内部を閉ざし徹底化することにより自壊させる演劇であったのだ。それは柄谷行人が外
部・他者を発見するためにとった戦略でもあった。

 イルリップ「ガーゼ」の青春群像より私は20年以上の時間を経験し、今や禿げ頭の
おじさんである。あるいは%%%%%%じじいと呼ばれる存在だ。しかし自分たちの殺された
青春群像を新ためて思考せずにはいられなかった。1970年から1992年というこ
の23年間の日本のサブ・テキストの時間・空間とは何であったのだろうか? 高校の
反乱をテキストの人間存在表出として行動し敗北した私たちの同時代世代は、いまも日
本社会の自己欺瞞・他者欺瞞のサブ・テキスト構造を徹底的に憎悪している。呪詛の言
葉こそ私たちの共通項だ。私の感情は17歳でストップしたままだ。とにかく憎悪の遺
伝子が身体細胞にインプットされてしまっている。

 この遺伝子はときたま禿げ頭・白髪頭を突きやぶり火柱をあげてしまう。永遠に私は
安定した生活など送れないであろう。死ねまで感情は不均衡のままで、17歳の遺伝子
は禿げ頭から火柱をあげ続けるのだ。それでいいのだと思う。現在、私の世代はいよい
よ40男としてマス・メディアの事件ニュースに破綻した男として三面記事化される機
会が多くなっている。私はいよいよ17歳の遺伝子が表層皮膚を突きやぶりエイリアン
のごとく、「日本人類」の市民社会に襲いかかっているなあ、とひとりマスターベーシ
ョンしながら妄想にふけっている。遺伝子の沈黙は長ければ長いほど、ある日突然、憎
悪すべき対象であるサブ・テキストの感情に襲いかかるのだ。

 私たちの17歳の遺伝子は、自閉・絶望・孤立・解体・破綻・疎外を栄養として誕生
したがゆえに、自己が追い込まれれば追い込まれるほどこの遺伝子は動物的本能の生命
維持装置として作動を開始する。17歳の遺伝子の執念は私の身体を子宮器官として成
長してきたのだ。私は自分がいまだ何者であるかわからない。おそらく私の身体と細胞
はある遺伝子の子宮器官であることは間違いない。男は子宮器官を持たぬ動物であるが
、おそらく自己の全身体が世界の精子を受け入れる子宮構造であるのだ。これまで男は
それまでのテキストを模倣し受け入れながら全身体の子宮構造で実践的に検証し、己の
テキストを表出しながら歴史的空間を生き延びてきた。テキストの激突・対決といった
欲望を欠落させ、すべてを隠蔽する衛生管理社会は男の没落を促進させる。

 こうして男の子宮構造が消滅すれば、女の子宮器官も変貌する。女の身体はテキスト
を発射する攻撃的な金玉構造を持った全身体へと武装を開始するのである。私の妄想は
新世代の女がテキスト存在として誕生していることに畏怖している。少女たちの欲望は
現代演劇をテキストとして受入れ回路をもった。惑星の引力リズムを動的中心に持つ女
の動物的本能は、やはり生きた仮想現実を愛したいのである。

 こうして仮想現実をめぐる階級闘争は90年代世界にダイナミックに、表層皮膚と深
部において進展していくであろう。一方が没落する少年たちが遊ぶコンピューター・グ
ラフィックによる死んだ仮想現実のゲーム。これは死滅しつつあるコミック雑誌まんが
・アニメーションの延長にある、近代産業の動的中心である四角のフレームに囲まれた
平面知覚の構造にある。テレビ映像の世界だ。底に動物的本能の遺伝子が火柱をあげる
対話能力は無い。ツルツル・ピカピカの衛生管理都市の世界なのである。他方としての
麻薬的な生きた仮想現実としての現代演劇がある。この仮想現実は平面知覚とは対極に
存在する。徹底して空間知覚と擬似体験を覚醒させる呑め理込めば廃人になってしまう
幻想に電波を飛ばし、それを受信するといった非日常の世界である。クスリなしのドラ
ック体験、その生きた仮想現実こそ演劇の空間時間交換である。

 さらにコンピューター仮想現実においては機器とテクノクラートがあらかじめ編集し
たソフト回路がメディアであるが、演劇仮想現実においては歴史的空間に誕生した奇人
・変人の人間と呼ばれる役者がメディアである。役者は常に電波を飛ばし観客と都市の
動的中心を挑発する仮想現実を表出するメディアである。さらに劇詩人の悪意はコンピ
ューター仮想現実を相対化させイメージをねじ曲げてしまうといった挑発性に満ちてい
る。永遠に少女・少年である劇詩人は、コンピューター・ウィルスを電話回線でシステ
ム動的中心に挿入させ、システム構造を破壊してしまうコンピューター犯罪少年のゲー
ム動物的本能に存在している。生きた仮想現実をテキスト化する劇詩人とは空間交換と
時間の詐欺師のことに他ならない。こうした詐欺師たる劇詩人はコンピューター仮想現
実のように今日明日誕生したのではない。その遺伝子は一万年も継承されてきたのであ
る。どちらに歴史的生命力があるかは、この仮想現実をめぐる今後の階級闘争によって
実証されるであろう。この創造力の階級闘争は人間の時間交換・空間交換・場所交換を
めぐる闘争である。コンピューター仮想現実の衛生管理テクノクラートは、人間が人間
に向けて電波を発信し人間がその電波を受信し協働的世界を想像するという、人間のテ
キスト存在を甘く見ないほうがよい。コンピューター仮想現実は人間とはなにかを解釈
するサブ・テキストに過ぎないのだ。やはりわれわれは恋人をめぐる闘争として「はっ
きりしろ」と園子に迫る真奈のように、自己を傷つけ友達を傷つけたとしても生きた人
間を愛することによってアトミズムの外部へと出られるのである。

 そこで私は「経済学・哲学手稿」のマルクスの言葉を思い出す。「人間を人間として
、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提としたまえ、そうすれば君は
愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、等々というように交換することができる」
「もし君が他の人間たちのうえに影響を及ぼそうと思うなら、君は他の人間たちのうえ
にほんとうに刺激的促進的にはたらきかけるような人間であらねばならない。君の、人
間にたいするーそして自然にたいするー関係は、いずれも、君の現実的な個性的な生の
或る特定な、君の意思の対象に照応するような表出であらねばならない」「もし君が愛
して、返しの愛を呼び起こさないとすれば、すなわち、もし君の愛することが愛するこ
ととして返しの愛を生み出さないとすれば、もし君が、愛しつつある人間としての君の
生の表出によって君自信を、愛されたる人間にするのでないとすれば、君の愛は無力で
あり、一つの不幸である」(訳藤野渉) 私はこのロマンチズムにあふれたマルクスの
言葉が好きだ。

 要するに仮想現実をめぐる階級闘争の構造とはつぎのような結語となる。人間は一人
一人違う。固有の空間を持つ。それが「こころ」と言われる内実だ。この「こころ」は
他者の固有の空間である「こころ」と連結・連動している。ゆえに人間は永遠に傷つい
ていくだろう。しかしその傷がアトミズム構造へと回収されたとき、人間の「こころ」
は近代的自我である四角の密室の空間となる。こうして死んだ仮想現実は或る場所へと
ひたすら逃亡する。われわれが日常的に使用交換する紙幣のフレームをまじまじと見れ
ば四角の構造にある。それは直線によって自己完結した人工的な形である。自然源態に
は存在しない形である。人間はこうした形に見せられ従属してしまう。

 だが人間の身体は四角ではない。極めて複雑な空間構造を持っている。その空間とは
常に流動化している。一定の形に留まっているのは彫刻である。そして人間の頭脳とは
シミュレーション空間に存在する。これが想像力と言われる内容だ。その空間は常に疾
走している。生きた仮想現実はこうした人間の空間時間交換知覚、そのものの源態構造
を飛躍させる。つまりシミュレーション身体空間における未来と古代の格闘エネルギー
を、現在の人間の潜在空間にぶちこみ関係性としての人間を復活させるのである。とこ
ろが死んだ仮想現実はどこまでも平面の構築物でしかない。いかにそれが立体に見えよ
うともアニメーションの自動化に過ぎない。それはどこまでも人間の空間知覚たる動物
的本能を壊滅するサブ・テキストの構造なのである。

 世界史・人間史の格闘と対話する能力を欠落させたサブ・テキストは永遠に現在の空
間を隠蔽する。故に日本のコンピューター技術は、ある臨界点を構造化しただけに過ぎ
ぬ。その平面の構築物は明確に機器のバブルとして破裂したのだ。オペレーションの欲
望源態が、自己欺瞞・他者欺瞞の社会源態に制度化され規定されているかぎり、次ぎな
る市場構造は形成出来ない。やはり半導体・コンピューター機器の内部にスターリン弁
証法的唯物論など存在はしていない。主体はオペレーションする側、人間の表出その欲
望源態に存在しているのである。こうしてコンピューター機器は人間の生きた仮想現実
をめぐる階級闘争の道具となる。

 これまで資本主義リアリズムは予測というシミュレーション構造を特権化し私的所有
してきたが、シミュレーションの動的中心は生きた仮想現実を表出させる階級闘争に移
動している。資本主義リアリズムはマルクス的人間の動物的本能その欲望を甘く見ない
ほうがよい。スターリン社会主義リアリズムが敗退したように、資本主義リアリズムは
その欲望源態が飛躍すること無く敗退していくであろう。

 草原と騎馬民族の遺伝子を持ったものは、日本列島壊滅後、世界に拡散する準備をす
る必要がある。他者の国でも生き抜くことが出来るよう、心的エネルギーを蓄積し身体
を鍛えておく必要がある。われわれは世界史の動的中心の移動を甘く見ないほうがよい
。自己欺瞞・他者欺瞞のサブ・テキストの国家は必ず消滅してきたのだから。本物のパ
ワーを執念に表出するテキストのみが生き残ってきたのである。サブ・テキストの「古
事記」「日本史」などは日本という国家が消滅してしまえば、サブ・テキストとしても
生き残ることは出来ないばかりでなく、その前に地底から本物のテキストが表出してく
るだろう。

 劇団イルリップへの私の欲望はぜひとも今後、現代日本の青春群像の階層分裂をテキ
ストとして舞台化してもらいたいことである。映画「トパーズ」は村上龍監督による作
品であるが、%%%%ゲーム人材派遣会社で働く女がトイレで、バブル成金の女たちから笑
われるシーンがあった。階層分裂の構造がどう現在の青春群像の内部において進行して
いるのか?一体現在の青春群像は己の人生を規定する階層というものをどう受け止めて
いるのだろうか?一晩限りの%%%%%%%%をして女を捨てる自動車産業文化のナンパ構造に
対して、武装せる少女たちが立ち向かっている光景を思考しても階層をめぐる闘争がこ
の日本から消却したとは思えない。むしろバブル経済崩壊の後、気分という霧は吹き飛
び、もてるものの家庭と持たざるものの家庭は明確に確定されてきているのである。娘
たちは男以上にその家庭の財産と身分の構造に規定されてしまう。

 日本の女から始めて階層空間をめぐるテキストとして教えてもらったのは宮本百合子
の小説であり、労働運動・社会運動・底辺のボランティア実践的現場で格闘していた女
たちの言葉からであった。80年代の格闘構造はこの神奈川においても、それ迄の世代
の陷落を突破した女性主体が誕生している。こうした女性主体は或る空間構造のテキス
ト存在の激突をくぐり抜けて今日を形成しているのである。テキスト存在と動的中心を
内包した徹底した激突の主体形成、これが80年代の格闘の構造であったのだ。その空
間は決して消費管理社会では見えない構造であったのだ。

 こうして日本の女の表出欲望は、それがマス・メディア言語によって洗脳された平面
知覚であるか、それとも独自的な空間知覚であるかに分裂をしたことは確かだ。洗脳さ
れた平面知覚はいまもなお、没落する男たちの優しい制度的%%%%スに規定され女を演じ
続けている。こうした女は世界の現在、最もパワーが欠落した遅れた女たちであろう。
日本の圧倒的多数の女は、「石井細菌戦・人造実験収容所」のマルタ的存在へとテキス
ト化されていくであろう。都市の午前10時から午後3時にかけて、交通機関に群れ的
に乗っている女たちや、デパート・パチンコ・レストランで金を消費する女たちを欲見
ればよい。彼女たちは空間存在の淋しさに粉砕され、その顔は土色になっている。マル
タの顔だ。どこにも転がっていた戦国時代の死者たちの顔だ。精神が死んでいるのだ。
もはやハッとする生命力を喚起する女はこの都市の真昼空間・表層皮膚から追放され消
却されてしまったのかもしれない。

   しかしながら空間知覚をもった女は創造力の武装として、芸術空間に
   表出してきた。日本においては紫式部の時代以来、女の表現者はつねに
   空間と人間をある感情のこころとして表出してきた。紫式部がユーラシア
   大陸の言語である漢文とは無縁であったと思いこんではならない。
   紫式部はその時代の漢文に精通し先端に存在していたのだ。
   ゆえに体系としての物語装置を表出したのである。
   80年代とは空間知覚をもった女にとって
   戦略的準備の蓄積・主体形成としてあった。
   今、仮想現実をめぐる最先端の攻防に
   きんたまをぶらさげた女が登場してきたのだ。
                     

    2000年06月22日 20時21分26秒

90年代総括のために−10


仮想現実・人間・演劇−5 結語
            

 (66行ー4174)                     

              かつて私の愛した音楽詩人は黒い巨大な天幕
              巨大な鳥の翼・その体内の鼓動とともに
              こう言ったのです。
              「始まりは終わりです。そして終わりは始まり
              でもあります。今、ぼくは遠くが見える」
              これから私は本格的に英語を習得せねば
              なりません。ユダヤ人・パレスチナ人のように
              他者の国家・共同体で生き抜いていく力を
              身につけるために。
              私が1992年夏の演劇・美術展それも女の
              表現その宇宙・世界の動物的本能から、
              おのれの子宮感受構造に知覚したのは
              日本消滅という動物的直感でありました。

 如月小春とNOIES「夜の学校」はマルタ的真昼の都市光景に対する逆襲であろう
。その物語構造は創造的破壊からクリエーティブ・ケーオスたる創造的混沌を表出させ
、結語において転覆する。だが底には或る体系の骨格たる言葉の執念が存在する。その
言葉とは物語の黒子装置だ。その黒子装置とはサブ・テキストの構造である日本の現在
である。私のおいは、中学校の登校拒否人間であるが、昼の学校を呪う少年に自己同一
化して涙を流していた。その人数は6万人にもたっする。自己欺瞞・他者欺瞞のサブ・
テキストの教育制度は問題解決能力を喪失しマルタの収容所へと生成しつつある。経済
民族主義の教育工場制度は現在のテキスト空間を永遠に隠蔽し、立ち腐れの構造として
没落していくのである。1945年から出発するはずであった教育制度はUSAを利用
しながら「単一民族」の完成をめざした規格・基準の平面知覚の洗脳であったのである

 おそらくテキスト存在としての「夜の学校」の少年は動的中心として、この日本の現
在に誕生していると見てよい。それは日本の構造そのものの消却を呼びよせる「怨」の
欲望を持った新世代の動物的本能だ。その恐れるべき「怨」の%%%%を甘く見てはならな
い。ある新世代の動的中心はある夜において、電波の受信・発信としていく層にも重な
りあう。それは未来においてある「出来事」を呼び込むのだ。その「出来事」とは日本
の消却である。「夜の学校」の黒子装置はこうしたシミュレーションに手をのばし、わ
れわれ観客の身体を償却したのである。どこまでを樹木と木材にこだわる触感において
。体系とは空間の一点である動的中心の表出のことに他ならない。それは空間のデザイ
ン構造に存在し、ここから物語は連結・連動していく。充満から消却へ。そのひんやり
とした空間こそ、如月小春と遠見裕子の現在に対する回答であろう。

 私の欲望はイルリップ「ガーゼ」がもう一つの結語があったのではないかと妄想する
。黒い少年たる継子が「シミユレーションしながら遊びましょう」と言ったと同時に、
役者たちが、パントマイムのピ%%%%となって観客席になだれ込み、一人一人と無言劇の
応答関係を表出し、道化の凶器的恐ろしさを遊びとして現出させるのである。その時照
明は全面的に発動し、劇場全体をあの青緑の沼の渦へと誕生させる。白煙は強制収容所
の猛毒ガスのごとく音を立てて劇場をおおってしまう。私は恐怖の断末魔をあげるだろ
う。続いて舞台はわれわれ現在の人間の外傷をあばくがごとく、赤茶色に染まる。われ
われの血が凝結していく色だ。ガーゼは天からいくつも円環をとかれ一本の布となって
揺れている。続いて舞台は青空だ。起き上がったふたみは希望を今日に託して歩いてい
く。

 日本のサブ・テキスト構造は臨界点を昇りつめたがゆえに崩壊していく。いよいよ復
讐の女神が固有世界の破壊に対し、ある結論をテキストとして出そうとしているのだ。

 私は恐怖する。ぬくもりを喪失した日本の表層皮膚は、疑心暗鬼のままマルタへと変
貌させられていくのであろうか? われわれの協働的世界形成の欲望が去勢され無力存
在と落とし込められたとき、われわれの空間はあの日本的内部である平面のアニメティ
・快適生活人によって埋められてしまうであろう。だがその完成は同時に日本という場
所が消滅する終わりの始まりなのである。

         声が聞こえる
         僕らは疲れてしまったのだろうか?
         否!断じて否!
         声が聞こえる 夜に問う声が
         僕らは何処から来て何処へ行くのだろうか?
                              1992,12,05
/E
                                       
 -----------------------------------------------------------------------------
 ここで1992年12月に書いた、劇団イルリップ公演「ガーゼ」感想、
 「仮想現実・人間・演劇」は、おそらく1992年11月25日に発刊
 された、「劇場としてのコンピュータ」 B・ローレル/著
                    遠山峻征  /訳
      発行 株式会社トッパン 情報科学シリーズ-29
に、連動していると思います。
私がこの書物をようやく読むことができたのは、1994年6月でした。

「劇場としてのコンピュータ」を、あわせて、読んでくださればうれしいです。


                     1994.6.24 塚原 勝美


  2000年06月20日 20時24分14秒

蛇から龍への指輪−1

      蛇から龍への指輪/1(コミュニティをめぐって−1)

 塚原 勝美です.
「村上龍,金融経済の専門家たちに聞く」:教育における経済合理性/最終回:
家に帰って再読したところです.やはりコミュニティ/近所をあらためて考えま
した.龍さんの対談はサッカ−のボ−ルのごとく言葉がスパ−ン!とくるからい
いですね.近所に自己批判性はありませんね.そこでは住民でない人間が来訪す
ると吠える飼い犬のごとく排他性があります.まぁ,そこでわれわれ変人である
芝居屋はどう生き延びるか,なのですが?・・・・

 まず、ここではアパ−トの住人は隣組から排除されております.回覧盤も回っ
てきません.どうやら戦時統制経済のときに誕生した隣組制度は,いまや日本経
済の階級決定論のごとく,住宅持ち家しか認知しておりません.あらかじめ,ア
パ−ト住人は経済不安層として,コミュニティから除外されております.確か戦
時統制経済では植民地被抑圧民衆にも選挙権を与え,われら経済不安層がファシ
ズム.コミュニティの軸を担っていたのだと思います.大日本帝国最後の天皇指
令が在帝国植民地国民から住民/国民権を奪い,在日外国人登録法を成立させた
のは,まさに戦後史コミュニティの排他を物語る象徴です.

 70年代の高度経済成長を得て80年代から90年代の20年間で,家を持た
ない人間は信用できない日本均一コミュニティが成立したのでしょうか? 和歌
山毒殺事件のますみ嬢邸宅こそが,日本住宅地コミュニティをありあまるほどに
具現しました.それから新潟少女9年間誘拐事件の邸宅も,コミュニティにおけ
る若き隠遁生活者の持ち家制度を具現しました.アパ−ト住民は異人としていつ
も持ち家制度コミュニティから監視されておりますが,一戸建て持ち家は9年間
も少女を閉じこめ,おもちゃとできる空間が許される母系コミュニティの闇が具
現しました.田園都市の邸宅と車は「羊たちの沈黙」を歪んだ快楽として没入す
る道具です.

 類型としてあるのが,あすこまでオウムの武装を無監視と無感知のまま没入を
許してきた母系コミュニティです.父系コミュニティは事大化してから決起しま
す.95年オウム/サリンテロで逆光線として具現させたのが,「日本の第二の
敗戦」と象徴的に呼ばれてきましたが,おそらくそのコミュニティ空間における,
危うい薄膜こそが,世界大戦後50年間にわたる一元的経済主義価値観のコンテ
ンツ内容でした.まぁ.日本のコミュニティはシステム工場制度に組み込まれて
きましたから.家電へのフェテシズムは自己完結するラインです.

 戦時統制経済体制のコミュニティ.決起する愛国婦人会と隣組,ファシズムは
人間連帯感の琴線を鳴らしますから,情感は%%%%%%%%%%%%に興奮し歓喜の雄叫び
あげます.いつのまにか現生ご利益の小市民が体制の突撃;帯;と変貌します.
その狂気は突然ではなく小市民コミュニティとは,いつも大きな過ちを犯すので
しょうか? 現生ご利益が実現不可能として絶望に転化したとき,小市民はねた
みと復讐の血祭をしますが,あれは小市民の感情解放だと思います.小市民の祝
祭こそがファシズムですから.コミュニティにそれは進行しているはずです.

 西田幾太郎とか田辺元とかヘ−ゲル哲学を日本に置換した人がいましたけど,
「一般」弁証法こそ戦時経済体制の哲学だったと思います.個別としての人間で
はなく,「一般」といった生き神に真理を置換してしまったのですから,これは
すごい歪曲だと思います.アカデミズムがその美学に回収されていく構造は,な
んという騙しの地平でびっくりします.「一般」「一般人」なんて言語は,日本
コミュニティの心臓であり,市民主義の中心ですが,それが「生き神の國」のご
とく無内容としてのからっぽですから,まさに「非連続の連続」「場所的一般思
想」これは古代道教の反復です.ゆえに「神の國」なのです.

 よく外から「神の國」と「国体」に帰ってくると,思考ができないと嘆く評論
家/学者がいますが,これはあたりまえです.「神の國」「国体」は人間の外側
に真理を置き,世界イメ−ジは「一般」と「普通」ですから,観念として人間の
精神史を深く分析し論理を建設しようとする特殊な思索は,空間に記述された歴
史と対話アクセス不可能へと追いやられ,頭が痛くなってしまうのです.日本の
空間はコミュニティを経済工場制度に組み込んでおりますから,日本のコミュニ
ティとは戦争の場所です.そこでは神と人間の蜜月としてあった怪物的な非人間
のギリシア神話が反復し,政治地図.営業地図.宗教地図を持った兵士が行進し
ております.

 龍さんの対談からコミュニティをめぐって,近所を思索の指輪と置換している
のですが,どうやらタイピングする指はおもしろくて興奮しております.興奮の
あとにはいつも幻滅が待っておりますから,これから大船駅へと自転車に乗って
出かけようかと思います.松竹大船撮影所と鎌倉シネマワ−ルドの廃虚を眺める
と,足利義満以後の京都が出現するかのようです.I(わたしは)T(対話する)
これが日本にとって必要とされるIT革命です.龍さんはIT革命の中心軸があ
ります.

 金大中さんと金正日さんの写真,あの幸福に満ちた金正一さんの笑顔には驚嘆
しました.9年間も監禁され解放された新潟の少女が,父親と再会したときの笑
顔もあのような幸福に満ちたエネルギ−であったと置換されます.本来的なコミ
ュニティとは6月の雨から久しぶりに顔を出してくれた太陽かもしれません.子
供が遊ぶコミュニティ広場に,わたしのアパ−トの駐車場はなっています.それ
は住人が貧しく誰も車を買えないばかりではなく.車を必要としない人々がひっ
そりと住んでいるからです.老人ではありません.覚悟を決めてわれらミサワプ
レハブ型アパ−トの4世帯は,近所の持ち家制度に負けはしない.家賃を滞納し
ようが死ぬまでこの場所で生活してやる気概で生きています.

 みれば前の邸宅は何台もの車を所有し,わずかな庭としての空間は車の駐車場
です.子供が遊べる空間は,このアパ−トの広場と前の小路だけです.コミュニ
ティの中心は子供ですから.わたしどもアパ−トの住人は永遠に車を持つことは
ありません.この駐車場を子供の遊び場として近所に無言で提供しないかぎり,
この近所から排除されることを,動物的に感知しているからです.そしてたまに
は酒乱になって大声で叫びます.「なんで回覧板をもってこないんだ!」と,コ
ミュニケ−ションをしながら近所にはどうかつも加える,「恐い人間」であるこ
とも同時的に認知していただくあり方こそ,日本小市民コミュニティの場所で生
き延びる方法であり,在るから居るへの覚悟です.そして子供とはコミュニケ−
ションがとれる能力こそ,芝居屋のものです.
2000年06月17日 18時55分34秒

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