ディアラその謎の言葉を発した者は復活する、 そう教えてもらったのだった。あれは90年わ たしは鬼怒川源流への旅、5月だった。山を 歩いていると、猿に出会った。しばらくわたしと猿は相手を恐れのうちに観察していた。 たしか猿はディアラという謎の言葉をわたしの 胸に足跡として残し、悠然と栗山の深い森林へと去っていったのである。その夜、夢をみた。 わたしは蛇であった。山頂の枝に身をゆだね 里をながめているのだった。 <00年6月29日、新宿歌舞伎町「漫画王国」>

90年代総括−92年天文館幻想


PERFORMING JUNK感想
     1992年夏 現代演劇の記録
     藤沢・片瀬海岸「天文館」ゆらフェステバル

 PERFORMING JUNK  感想 1 塚原勝美

 ginger cafe´によるPERFORMING JUNK初演を体験した感
想を送ります。まとまりがある文章にはなりませんが、独りの観客として、なにを知覚
し、しなかったのか? なにを思考し、しなかったのか? これらを遊びの感覚で書いて
みました。
 天文館フェスティバル「ゆら」パンフレットの写真でのイメージから、おそらく照明
デザインとノイズ的音楽による高速度の疾走による、観客の眼と耳の知覚を侵犯し、制
度的日常的なわれわれの知覚を覆す方法による上演であろうと私は想像していました。
 しかし私がその空間と時間に体験した舞台の中心点には、まぎれもなく詩的言語と身
体的言語が存在する演劇であったのです。役者の音声と身体的言語・映像を媒介に表出
した固有の場所を具現化する、われわれ観客はおのれの身近なその場所を眺めているの
ですが、等身大の場所と人間をめぐるその断章の非連続の接続がかもしだす、その全体
の交換と時間は、やはり「船」的構造の空間にあったと私は思います。
 小劇場としての天文館の空間構造を、閉じ方においてある臨界点にまで圧縮し、その
エネルギーによって一点の出口を表出したのが、小松杏里と月光舎の上演「莫」である
としたのなら、その開かれた延長上にPERFORMING JUNKの空間構造は存
立していたのではないかと思われます。協働的世界形成の実践的構想力による想像力の
形態として。

 「ゆら」フェスティバルの意味構造とは、私の妄想によればおそらく、小劇場として
の天文館の舞台の中心点をめぐる探求にあるのかもしれません。舞台の中心点こそ、遠
心力と求心力の起点であり、ここから人間の世界同時性は出現するのであると思われる
のです。ある意識とある方法が発見されたとき、人間はさらなる遠くを目指す。
 月光舎上演「莫」が、この日本という自己欺瞞・他者欺瞞の隠蔽する自然生成的ゼロ
の記号と、過去の時間と空間を消却し変貌する文体が空気である「島」のドーム、この
閉ざされた人間の精神史をめぐる等身大の「現」の構造を、人間の記憶喪失として極限
的にあばきさらし、この「島」の文体から「外」にでるある一点を差し示し、他者との
新たなる出会いを求心し人間は一人一人違う人生の一回性にかけて歩きだす結語は、関
係性としての人間存在の交差点である街頭の身体的言語をあますことなく表出したと思
います。世界イメージと人間イメージの中心が崩壊したかに見える今日の変貌した自己
象を、おのれが立つ地上と歩く交換としての街頭の交差点における出会いとすれ違い。
 月光舎上演「莫」が世界イメージと人間イメージが崩壊した「現」の構造と、八十五
年以降のマネー・ゲーム欲望の暴走による光景の変貌による人間精神の不均衡とカフカ
的存在の誕生である閉ざされた「島」の文体をあばく。それは自己象の喪失をむき出し
の交差点にさらしながらも、人間の立つべき地を、地上四階から「地」をあるエネルギ
ーが、舞台に引き上げるという構造にありました。

 ginger cafe´上演 PERFORNING JUNKは、地上四階その
ものの構造をサマリヤビルから浮遊させ、等身大の個有の場所に飛行させるという「船
」の舞台構造にあったのではないかと思います。しかしながら劇中映像にある不満が私
には残りました。等身大の個有の場所と人間を映像によって切り取るとは、前衛の行方
ー新生紀演劇展ーの記録者として、1920年代の民衆演劇の実験性を、「いま」に再
出したものとして評価すべき一つの実験であるのですが、映像が劇空間を侵犯し破壊す
るといった衝撃力が欠落していたと思います。一言でいえば異様さがなかったのです。
 映像はすでにありのまま・自然生成的に、われわれ今日の人間の身体器官の一部と化
し、日常生活をドームのようにおおい、全体的・全面的転回として人間を取り込んでい
ます。映像が人間の感情・知覚を屈服させ、ある世界システムによる世界政治思想の支
配のために、多数世論を形成することが可能であることは、あの中東・湾岸戦争がみご
とに証明しました。今日の人間にとって映像はメディア・%%%%%%器官として自然生成し
ているのです。 

 日常的にわれわれの感情・知覚はモンタージュ映像によってメディア・%%%%%%されて
いる受信器官に落とし込められているののです。こうしたモンタージュ映像を能動的に
解体・異化する場合、私はコラージュによる方法でしかありえないと妄想しているので
す。映像を扱う場合、おのれの内部構造に自己批判・自己批評能力をつちかい、映像を
徹底して他者として一度突き放し、おのれの映像言語を独自的に建設しない限り、あり
のままの自然生成的映像は自己愛の延長としてあるナルシズムを表出するのみです。
 PERORMING JUNKの劇中映像は、等身大の個有の場所と人間に設定を射
程し、ある怪物的な異様さを表出しなかったとはいえ、映像の内部がもつナルシズム構
造を方法において切り裂いたことは間違いありません。しかしその裂けめはいまだわず
かのように思います。街頭の通行人の反復、天文館を異化するビデオ・テレビ映像と暗
幕に投射された個有の場所、これらは方法において共鳴するのですが、問題は白いスク
ーリンの制度的想像力です。はっきりいえばあの白いスクーリンを使って、もっと何か
異様の舞台的可能性を表出し、われわれ観客の制度的感受性を覆すことができたはずだ
ということです。セリフである文字を投射する実験性には同意出来るのですが、そこに
はやはり活字の破壊と爆発である「マヴォ」同人・萩原恭次郎詩集「死刑宣告」的なデ
ザイン構造があれば嬉しかったと、私の勝手な一方通行的な欲望は思うのです。さらに
白いスクーリンを切って落とすいさぎよさは壮快であったのですが、映画の銀幕・テレ
ビのブラウン管、まんがのコマ、書物・バブル建築こうしたわれわれの無意識と深層を
支配する20世紀のフレームたる四角の構造を破壊し転覆してもらえれば、私の欲望は
昇華したのに違いありません。「心の部屋」として20世紀人間の心の形はこの四角で
あり、制度的感受性とは、この四角のフレームに閉ざされ真相真理として日常的に生成
しているのです。都市とは四角フレームの収容所であり、私は日々四角人間として変貌
しつつあります。ポスト・モダンとはバブル建築のことであり、この四角フレームの充
満と頂点を表出し、「ゆらぎ」「ずらし」の商品差別化戦略であったのです。あの白い
スクーリンは切って落とした後に、スクーリンの白い布そのものがエイリアン生命体で
あるかのごとく、空間に浮遊し女優・加藤令子を包込み回収して舞う必要があったので
はないかと私は妄想しています。

 これは劇団Dream Drunkersの女優・加藤玲子への欲望にもつうじるの
ですが、何故あれほど等身大の「現」の構造を実験的に鋭く表出しながら、結語の回収
のされ方が、現在の閉ざされた「島」の文体・いくら矛盾がありながらも市民社会の安
定した幸福ー愛の構造に回収されるのか私にはわかりません。私の動物的直観でいえば
、あるアトミズム孤独の病理と人間関係の矛盾をかかえた受苦的存在としての人間は、
やがてある安定した愛の構造に昇華するはずだとするある牡歌性の内部を、集団的想像
力としての劇団Drem Drunkersはもっているように思えます。確かに受苦
的存在としての現在の人間のアトミズム・孤独の病理と関係性の矛盾をむき出しの物語
として舞台に表出することはきつく、ある昇華がなければ人間は救われないのですが、
如月小春が「工場物語」をもって都市と人間の関係をあいまいさを許さず徹底的にあば
き、「現」の構造を通過したように、劇団Dream Drunkersの身体的言語
は市民社会の「現」の構造と対決する必要があると思います。己の身体的言語が他者の
夢を侵犯するのか? それとも己の夢に異様な他者が介入し、夢において%%%%%%されて
しまうのか?劇団Dream Drunkersの主体としての身体的言語を検証する
時間は、早いうちに訪れると私は思います。「愛」の構造を人間の尊厳として保持しな
がら、可能性をもつ劇団Dream Drunkersは何者にも回収されえぬ独自的
な身体的言語の主体を形成すると私は信じています。武装的身体的言語は最後まで貫徹
されるべきであり、女優の%%%%スは%%%%性と実践的造形力の奪還としてあり、それは父
権社会の権力構造によって歴史的に「慰安身体と人間の生産身体」に歪められてきた制
度的%%%%スを、おのれの身体からつきやぶるエネルギーにあります。

 私の妄想で言えば1989年後の人間の想像力をめぐる世界同時性としての芸術表現
の根底には、街頭の身体的言語としての交差点が意識に誕生していると思います。アジ
ア映画・アジア演劇の表出は人間の世界同時性としての意識が、閉ざされた制度的密室
からすでに街頭に飛び出し、関係性の受苦的構造からある人間の人生と存在を物語って
いるように思えるのです。
 ホームレスを主人公にしたフランス映画「ボンヌスの恋人」は、今日の世界同時性で
ある受苦的構造にある人間の感性と精神その身体的言語そのものを曝すことによって表
出させました。1960年生まれの若き映画監督レオス・カラックスの想像力としての
動物的本能は、現代世界と人間の「現」の構造が街頭にあるとして設定したのです。今
日の受苦的人間の極限が路頭生活にあることは間違いありません。高度情報化社会の人
間の感性・精神・欲望とは、近代的自我の根拠たる密室的アイデンティティを奪われ、
情報という街頭に曝されどこまでも薄っぺらになることにあります。「目覚めよパリ!
」と叫びミシェルとアレックスは砂利運搬船に乗り、海へと向かっていきましたが、F
RFORMING JUNKのある中心性を担った、word,word,wordの
相沢 哲の舞踏と火見子の朗読はおそらく、ミシェルとアレクッスが乗った砂利運搬船
を対象世界に表出させていたのです。街頭の身体的言語から船の身体的言語へ。

 それは池野一広の舞踏が表出したわれわれの未来と重なり、人間の母である地球壊滅
後の宇宙船に乗ったわれわれの子孫の身体的言語であるのかもしれません。私の妄想で
いえば人間とは宇宙空間に浮遊するエイリアンとして変貌を遂げる存在であるのです。
荒廃した地球に残された人間たちも生き残るためには、生物学のDNA戦略によってど
んな環境にも生き残ってきたゴキブリの遺伝子を人間の身体に注入し、ある場所で眠り
につくのです。宇宙人の地球来訪を待ち、その他者の身体を知覚したと同時に侵入する
映画「エイリアン」の衝撃とは、そのエイリアンこそ未来の人間の姿であり、宇宙船に
乗りこの星に訪れた人間こそ宇宙人であるという逆説によって生成する未来からの予告
のような気がしてなりません。
 H・R・ギーガーのイメージ絵画は、人間がエイリアンに変貌する過程にある世界を
表出したのであると思われます。人間とは何か? 中心性を喪失する生物であると同時
に、失われた中心性を回復せんとする生物である自己矛盾的存在であり、中心性を喪失
した社会的生物は、永遠に満たされぬおのれの空白を埋めるために、変貌をとげるので
す。かくして高度情報社会化の人間は、記憶を不断に消却され、器官としての人間が誕
生するのです。その器官の進化こそエイリアンであるのです。

 衝動的・突然的に変貌する光景に人間の精神・論理は追いつくことができない、しか
しながら人間の知覚器官たる眼・耳・鼻・皮膚・口は受信器としてありのままに受け入
れてしまいます。知覚器官と精神・論理の落差・分裂は、思考することが苦痛になり、
とうとう人間は思考することをやめ、消費管理社会の日常におのれの中心性を譲渡し、
自己欺瞞・他者欺瞞としておのれの精神・論理をごまかしながら、テクノクラートに
操作された情報を受信する知覚器官の生物へと変貌するのです。

 W・ヴェンダース監督作品「夢の涯てまでも」の日本シーン・日本趣味のあり方には
ふざけるんじゃねえとおもいましたが、物語の結語である夢の映像にとりつかれアトミ
ズムの進化と深化の内部構造に病理として入り込んだ女が、記録者の言葉によって回復
をとげる意味は、夢の私的所有の追求であるアトミズムではけして人間は救われないば
かりでなく、病理を深化させるだけであるという、W・ヴェンダースの今日的な回答で
あると思います。協働的な関係性にのみ存立できる人間は、やはりコミュニケーション
を形成することができる言葉の力と、根源的な身体的言語によって、打倒され閉ざされ
たアトミズムの構造から復活することができるのだと思います。
 映画「夢の涯てまでも」はコンピュータ・映像の進化、機器の内部に人間は取り込ま
れていますが、その電子・デジタル構造の圧倒性の内部と、光景の変貌過程の内部に他
者として存在していた記録者こそ、私が注目した「現」の構造でした。彼・記緑者こそ
人間としてのメディアだったのです。

 もちろん現代演劇とはいくらマス・メディアに紹介されても、観客は少数であり、意
識の誕生の仕方においても、先端的な攻防の渦中にある政治・経済・哲学・技術の創造
的破壊から比較すれば遅れたメディアであることは間違いありません。そして現代演劇
は常に「逃げ」の構造に入り込む危険性を抱えています。しかしながら演劇はダイレク
トの幻想における関係性に「現」の世界を形成する、人間としてのメディアとして等身
大の人間の現在と記憶、いまだ言語化出来ぬある「気配」を表出する前衛的なメディア
であることは間違いありません。

 「さようなら、情けない男たち」と宣告された私はむしろ晴れ晴れとしました。八十
九年以降の世界史の転換と、この等身大の光景としてある神奈川の都市が、バブル経済
の暴走によって変貌をとげる数の自己欺瞞・他者欺瞞の精製に、意識と言葉が追いつけ
ず打倒され敗北した私にとって、この宣告はおのれの情けない現実を見極める必要とし
て、幻想の武装花嫁から挑発された言葉としてニヤリと受け止めました。これは私の妄
想ですが、日本という「島」の文体に取り込まれたわれわれは、わかれなどいやとゆう
ほど経験し、日常的に別離訓練を受けてきたのです。しかしながら他者を発見し他者の
尊厳を愛するという愛情訓練は受けてきていないと私は思うのです。消費管理社会とは
人間を歪曲し矮小化し徹底的に尊厳的な関係から疎外する収容所であるのです。人間の
内部は「モノと数」であり、スターリン資本主義の「島」の国民的街頭の文体は、モノ
と数と矮小化された人間の関係として毎日の別離訓練であり、毎日の喪失儀式の交差点
にあるのです。
 スターリン資本主義下の人間にとって他者は、生きた通貨であるのか死んだ通貨であ
るのかが判断基準になり、恐ろしくわれわれの感性・知覚・思考はこの収容所の内部で
薄っぺらに生成しつつあります。人間の記憶は死んだ通貨の記憶にとってかわられつつ
あります。映画「ポンヌスの恋人」でミシェルが「橋」から去り、真昼の太陽を浴びな
がら眠りから冷めたアレックスの冬の白い砂の孤独は衝撃的でありました。絶望する人
間としてアレックスは叫びます。愛し方は教えてくれたが別れの方法は教えてくれなか
ったと。ピストルで自分の指を撃ち己を破壊する行為は絶望の世界同時性として表出し
ました。ここでレオス・カラックスはある逆説の物語を語ったのではないかと思われま
す。今日の人間は別離の方法は日常的に訓練されているが、人間を愛するという訓練は
受けていないと。いったい人間を愛するということはどういうことなのか? H・R・
ギーガーの世界が心象内部である私は理解不能の途上にあります。

 こうした世界同時性の「現」の構造の内部で、PERORMING JUNKがひと
つの協働的世界形成として、再度人間の詩的言語と身体的言語に原点を置き、等身大の
人間と固有の場所の再発見に向かい「船」的空間と時間を表出させたことは共鳴します
。しかしそれはいまだヨーロッパ的文体の延長にあり、歴史的に東アジア人である私の
遺伝子を呼び覚まし、幻想において遺伝子の故郷に帰還する快楽を与えてはくれません
でした。これは私の勝手な過剰な欲望として理解してください。「船」の旅の快楽は多
分おのれの遺伝子の原点に帰還する幻想にあるのではないかと思われるのです。
 ginger cafe´の遺伝子の原点が何処にあるのかわかりませんが、初演の
翌日8月1日鶴岡八幡宮・舞殿での「アジアの音楽・鎌倉の響き」を体験した私は、耳
の器官を発動させ快楽によいしれました。とくに中国人演奏家・曹 雪晶の「二胡」演
奏は身体が共鳴しました。東アジア・ユーラシア大陸の幻想を感受したのです。同じ弓
を引く楽器でありながらバイオリンを聴くある遺伝子の異質感を、「二胡」は感受する
ことなく私の身体の遺伝子が共鳴するのです。それはさらにインド・ベトナム・中国・
朝鮮・沖縄の音の旅を集合させて作曲した、堀之内幸二による「シタール・タブラ・サ
ントゥール・シンセサイザー・二胡」の交響曲を聴くに及んで私の幻想的快楽は天女を
抱いていたのです。
 もちろんアジア音楽を聴く場合おのれの内部に自己批判・自己批評能力がなければ、
われわれは強力な「島」の内部たる天皇制の体系的言語にからめとられてしまい、大東
亜共栄圏の自己欺瞞・他者欺瞞の実践的構想力に敗北してしまいます。事実最初に演奏
した鶴岡八幡宮雅楽は宮内省の天皇制音楽課が指導している有様です。天皇制のある意
識ある知覚の回収のしかたはより自然生成的であるがゆえに、独自的な表出者の想像力
はより異邦人になるしかありません。東アジアにおける民衆的想像力の協働的世界形成
は可能であるのかどうか? 現代演劇に引き付けるとそれはアリス・フェステバル等に
おいて実践的な模索が開始されているように思えます。

 ヨーロッパ文体USA文体を日本の表出者が引用する場合、イタリア・ルネサンスが
表出する契機となった、「死の舞踏」としてあるペストとの死闘といかに対話するのか
が必要であります。近代から現代のヨーロッパ芸術の根底には、10世紀から14世紀
ヨーロッパ中世の絶望としてあったこのペストとの死闘「死の舞踏」をくぐりぬけ生き
延びたおそるべきパワーの構造にあるのです。この内部の圧縮された求心的死闘・エネ
ルギーによって彼らは外へ遠心力として侵略し、世界史の円環を完成させたのです。ヨ
ーロッパ文・対を自然生成的に引用すれば、引用者そのものの主体構造がヨーロッパ文
対の構造としてのパワーに吸収され、その舞台は何らわれわれ観客の遺伝子を喚起する
ことなく、見せかけに回収される危険性があります。高級ヨーロピアン志向の日本のバ
ブル映像・映画・テレビ・ドラマが、まさにバブルの泡として人間の主体と尊厳が崩壊
し、「飼いならせられた死」の精神構造を充満させながら、見せかけ上に回収されこと
ごとく無作為の権力として失敗しているのは、世界史との対話能力が決定的に欠落し、
映像のシステム機構が立ち腐れているからです。死んだ通貨の記憶では人間の存在を表
出することは出来ません。

 その意味で首藤 啓の可能性にきたいしているのですが、彼はいまだ独自的主体的な
おのれの表出方法と言語を形成しているとは言い難く、この日本の自己完結的な感受性
と対決し破壊するパワーを見せてはおりません。その演出方法はいまだ趣味的構造にあ
り、彼はおのれの能力の出し惜しみをしているのではないかと思えるのです。彼の場合
、世界の動的中心性をめぐるおのれのイデオロギーを内部に形成する必要があると思い
ます。自己存在が立つこの場こそ世界の動的中心であり、この場を起点として共同体の
内部に他者を再発見する、その他者との対決・協働を関係性の成立によって世界そのも
のを再発見し、おのれが対決し覆すべきこの「現」の構造の根源的根拠は何処にあるの
か? この矮小化され、歪曲化され、疎外され、卑屈になり、記憶をバブル建築の変貌
都市光景に奪われゼロの記号とされた身体器官。スターリン資本主義収容所の強力な内
部で巨大広告産業「電通」に操作された見せかけの愛の構造。その仮想現実たる幸福の
構造が、商品愛と自己愛がナルシズム言語と他者が介在しないマスターベーション言語
の充満がバブル経済のマネー暴走の「島」で頂点に達し、その飽和が破裂すると、実態
と虚構の区別が人間の精神世界で解体・崩壊し、この身体器官のボーダレスの誕生。
 なにが虚構でありなにが現実であるのか理解不能に落ちた身体器官の精神の森には酸
性雨が降り酸化腐食し枯れ果ててゆく。それはもはや自然が終焉し、自然と社会のアン
サンブル身体器官であった人間存在の肌が、プラスチック・シリコンへと変貌し、半導
体による数字言語が情報とイメージを操作するデジタル列島の完成。その中心に国造り
部として天皇制言語は国民の脳天に自然生成する。これらは私の妄想なのですが。

 柄谷行人はいとうせいこうや島田雅彦が語るごとく無根拠を論じたのではありません
。柄谷行人は日本イデオロギーそのものの根拠をあばき、日本イデオロギーと徹底的に
対決してきた哲学的批評者なのであると私は認めています。無根拠の論理などは、いと
うせいこうや島田雅彦の内部でイデオロギー格闘が欠落しているということであり、「
逃げ」の構造にあります。
 根拠をあばきその根拠を破壊する表出にこそ世界同時性のエネルギーが、動的世界の
中心を現出させるのです。これは首藤啓に対する私の欲望でありますが、ぜひとも彼は
無根拠の論理などおのれの糞とともに水に流し、日本イデオロギーの根拠とスターリン
資本主義収容所の人間存在の根拠と、徹底対決する表出者として誕生する存在であれと
期待しています。先端的な科学がカオスであるからこそ、その弱点につけ込み侵犯し逆
転する関係性として動的世界の中心性を目指すのであります。その場合実存と存在の「
現」の構造をつかむためには、一度そのものを成立させている歴史の受苦的構造とおの
れ自身が格闘し入り込み、人間の歴史の怪物と対話する必要があります。その怪物に粉
砕され打倒され絶望し、ニヒリズム街道を歩くことによって、われわれは根源的な根拠
を発見するのです。こうして動物的本能のエネルギーは内包され、観客の遺伝子を呼び
覚ます創造的破壊は誕生するのです。

 さらにPERFORMING JUNKへの私の欲望を述べさせていだだきます。遊
びの感覚で読んでください。やはり天文館の空間性は地上4階という建築構造に規定さ
れて、乾いていると思います。つまり空気の重力性がそれだけ薄く、不気味な「地」
「海」のイメージを表出する場合独自的な証明デザイン が必要であると思われます。
それがいかなるデザインであるか今のところ私には、新宿梁山泊の証明デザインしか思
いつきません。新宿梁山泊の方法は舞台に白煙を充満させ、群青の証明を投射すること
によって湿り気のある湿原的な森林にまぎれこんだ幻想を表出します。
 その対象世界が沼であり海であり「水」のイメージが存在していた「孤独」や「wo
rd,word,word」には、湿り気のある証明デザインが求められていたのでは
なかったのかとおもいます。私の欲望でいえばわれわれ観客の知覚器官である肌を鳥肌
へと変貌させるほどの創造的破壊が。人類を滅亡へと追いやる終末を予感させる洪水は
ヒタヒタと押し寄せてきているのですから、「水」への不均衡・不安知覚は重要である
と思われます。
 しかしながらPERFORMING JUNKによって私は、演劇にも「船」の構造
がありえることを発見しました。よく地球船という言葉が使われますが、その形容詞は
われわれの実態を表しているのかもしれません。われわれの時間と空間が宇宙から誕生
したのは事実なのですから。原子構造のもつ物質とは動的世界の中心として、あるもの
を呼び寄せ、あるものを反発させる力がある。この空間と時間には人間の夢の残骸と未
来から過去からの語りべ達の幻想が侵犯し、過去・現在・未来の制度的時間フーレムを
ある反復によって解体した人間をメディアとして生成させるのです。

 この夜 この夜
 夜にとけて夜を開く            夜にとけて夜を開く
 絵筆の音が聞こえる アトリエの窓から   紙と鉛筆の音が聞こえる

   この夜
   夜にとけて夜を開く詩人と美術人がいる 演劇人がいる
   混愛の夜の大空 その紺藍の海へ
   イメージの櫓をこぎ、想像力の舟は航海している
いくつも いくつもの舟が 輝く星の光に見えない暗黒星雲へ
暗黒こそ物質とイメージの起源だった 




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2000年07月07日 13時14分38秒

90年代総括-PERFORMING JUNK感想


PERFORMING JUNK感想
     1992年夏 現代演劇の記録
     藤沢・片瀬海岸「天文館」ゆらフェステバル


PERFORMING JUNK 感想 2



 「玄」の黒い言語をもつものはすでに国家の制度と帝国主義世界システムを形成する
テクノクラート操作高度情報化社会・市民社会の身体的言語からテイク・オフしており
、国民国家の共同体から果てしなく疎外された「玄」の人間の内部と深層は根拠が喪失
した不断の欠落知覚にあります。この強い欠落意識と内部解体から突き上げるエネルギ
ーによって「玄」の人間は、おのれを取り巻く光景が仮想現実であり市民社会の虚構を
あばき、黒い言語と身体的言語によっていまだ体験せね形とこれから訪れる出あろう
「出来事の気配」を根拠として現出するのです。体系的な一つの実践的構想力として、
他者に向けて表出せねば「玄」い人間は、かつて夢の中で乗船を拒否した幻想の黒い巨
大な宇宙船によって殺されてしまう恐怖感が「玄」い人間の畏怖構造なのです。

 演劇の「船」的構造はおそらく「タイタニック号沈没」において黒テントが表出させ
たのかもしれませんが私は残念ながらそれを体験していません。詩集はこの春、図書館
で借りて読んだのでありますが、重ね合わせ時間そのものの縦走・複合構造はわれわれ
人間の空間・時間が「船」にあることを再発見させた詩集でありました。時間・予測・
シミュレーションによって判断する登山の縦走者は、ある空間を地図によって読み「未
知との遭遇」に対処する、森林・山岳に圧倒され主体と中心を喪失し、羅針盤の「揺ら
ぎ」「ずらし」の黒い言語に惑わされ取り付かれた縦走者は、ルートから離れ森林山岳
の中心に引き寄せられて遭難者として変貌する、遭難者とは物質が内包する引力に主体
のシミュレーションが敗北し犠牲とされた人間のことです。海・森林・山岳・草原とは
物質が連結連動しながら巨大な体系性と中心を内包しています。その体系を連結連動さ
せながら地球の引力は自己運動ではなく、他者関係運動として太陽の引力と自己の引力
と遠心力によって反発し回転しながら、太陽系の円環運動を反復するのです。その太陽
系の引力構造はさらに銀河系の中心の引力に引き寄せられ反発しながら星雲の円環運動
として反復しています。さらに銀河星雲は宇宙の中心の引力に引き寄せられながら反発
し宇宙を円環し転回するわれわれのマクロ・ミクロを貫いた空間と時間は反復の中心に
存在しています。われわれの空間と時間は「船」的な構造にあり、物質内部の中心にあ
る求心力と遠心力の磁場の生成による、外部との応答関係を連結連動させながらマクロ
的な他者関係運動を反復とし転回する体系を形成します。

 ダイレクトな生身の他者「環」形成と人間としてのメディアがもつ「現」の構造を表
出する演劇の空間と時間は、動的世界の中心である引力の求心力と遠心力の磁場を作り
出す、その表れた磁場こそ舞台の中心といえると思います。故に人間とオブジュとして
の道具たる物質は最も舞台で輝きだすのです。観客の前で照明を浴び応答関係を成立さ
せる演者の身体は美しい。それは同時に集団的創造力が扱う舞台装置・舞台道具として
のオブジュも物質の中心たる磁場が喚起し嬉しいはずです。物質の形たるオブジュは躍
動的な空間と時間の連結連動構造に存在してこそ、生きいきと輝きだします。それを私
は「孤独」の断章において茂手木淳が舞台に置いた人形から感受しました。
 現代美術のインスタレーション・オブジュは展覧会場というブルジョワ・アトミズム
の私的所有鑑賞方法たる「見る・見られる」通行人的のぞき見の空間に存在する死んだ
偶像なのです。時間的躍動から切断され今なお二元論の構造に閉ざされているのであり
ます。その二元論の構造によって美術は投資家の欲望を限りなく喚起し生きた貨幣とし
て、ブルジョワ・アトミズム私的所有の構造に取り込まれ、死んだ通貨の記憶へと落と
し込められてしまうのです。

 機械の部品を見れば物質が躍動的な空間と時間の連結連動運動に歓喜していることが
発見出来ます。オペレーションとしての人間との他者「環」形成を物質は協働的世界形
成として成立させ、力つよい生命体のごとく求心力と遠心力の磁場たる中心が、他者物
質の中心に共振共鳴しながら、徹底的な反復の円環運動として連動し躍動します。オペ
レーション自動機械の発明と近代的工場制度の転回としてあった産業革命は、物質の根
源たる求心力と遠心力の中心たる磁場が、他者物質の中心と連結連動する反復的円環運
動によって、宇宙の星のDNAたる遺伝子が覚醒し開放されたことにあります。自動機
械とはまさしく宇宙物質の反復的円環運動そのものを体現しているのです。私の妄想で
いうばおそらく演劇が内包する反復的訓練と一回性のライブとしてある空間と時間は宇
宙の始原的運動と応答関係にあるのです。演劇の「船」的構造は人間と物質の遺伝子を
歓喜し空間と時間の原点に帰還する根拠をむき出しにするのかもしれません。

 しかしながら人間の欲望形態を私的所有の基準によって制度化した資本主義は、産業
革命によって暴走し、人間を自然・土地から引き離し近代的工場制度に送りこんだので
あります。物質の覚醒と開放は多大な民衆の犠牲の上に形成されてきたのです。自然・
大地から引き離されたということは、民衆が宇宙的空間と時間である反復的円環的人生
を破壊されたということであり、この憎悪の根拠が反革命に回収されたときファシズム
運動は人間の破壊として個人と物質そのものの死滅の極限まで暴走するのです。反革命
の神学たる天皇制はエイズ的な血液主義としての反復的円環自己運動であり、宇宙意識
を私的所有する自己絶対化の神学に存在しています。宇宙の時間と空間とは協働的世界
形成の欲望にあり、反革命の私的所有たる自己運動の欲望はこの宇宙の欲望を破壊する
歪曲された人間の滅亡を差し示しています。マクロ的な宇宙の中心はミクロ的な物質の
中心たる磁場に存在して、人間は物質の夢と幻想を思考形態においてにらう、物質の協
働的世界形成を全面的な能動的生物として形成する宇宙の欲望を切り開き体現する物質
の最高形態としての社会的動物なのです。人間一人一人には協働的世界の中心と物質の
歓喜たる協働的世界形成の宇宙欲望の中心が存在しており、ここに人間の尊厳が誕生す
るのであります。

 私は欲望のエネルギーこそが物質を発展させ人間世界の歴史を生成させてきたと思い
ます。だがその欲望が協働的世界形成の欲望であるのか、永遠の自己運動であるすべて
を私的所有せねば満たされぬブルジョワ・アトミズムの欲望の形態であるのかは決定的
に違います。私的所有の欲望を全面開花させた資本主義制度は、類的存在から人間を引
き離し自立した個人による欲望の独裁を完成させました。この欲望の独裁は東欧・ソ連
邦のスターリン国家社会主義経済を内部自解・崩壊へと追い込み、彼らをして資本主義
経済に屈服させました。スターリン国家社会主義経済の欲望が生産力第一主義に存在し
ていたからこそ、資本主義の欲望である世界システムに屈服同化することはある必然性
を内包した根拠だったのです。彼らの弁証法的唯物論は論理言説の展開方法としてあっ
た弁証法があらかじめ物質の内部に存在していると錯覚し、物質の概念を神に替わる位
置に祭り上げたのでした。しかしその弁証法とはマルクスが他者「環」形成として現実
存在そのものの構造を再度思考する人間が把握し、逆転した関係を能動的実践的な構図
の体系によって協働的世界形成への変革にむけた物語の方法だったのです。市民社会の
人間にとって当たり前の日常生活に身体化している商品・通貨の物質が、実はある階級
の私的所有のシステムと強力な内部で自然生成している、物質の中心たる磁場が根源的
にもつ協働的世界形成の欲望は、私的所有の欲望に矮小化され、よりある階級の欲望の
身体的血液に同化した通貨が人間の記憶と物質の記憶にとって替わるのであります。マ
ルクスは当たり前の表面を思考し、その表面の自己欺瞞・他者欺瞞システムの物語をあ
ばき、表面の「現」の構造そのものの歴史的形成過程に他者として入り込み、表面がも
つ強力な内部と徹底的な実践的思考の格闘をとうし、再度表面に帰還するとき彼は体系
的な歴史的形成過程の物語によって、ある階級のシステムによって意味が確立された表
面の意味と慣習を転倒するのです。マルクス死後エンゲルスは物質構造の内部にあらか
じめ弁証法が存在していると、ダーヴェン生物進化論を唯物論に換言し、フォイエルバ
ッハが成しとげたヘーゲル神学批判を葬りさることにより、ヘーゲル哲学の引力圏へ再
度帰還したのです。こうして物質の神学たる弁証法的唯物論は誕生しスターリンによっ
て自己完結されたのでした。

 ロシア革命とともに協働的世界形成として世界史の先端に踊りでた演劇・美術・文学
のロシア前衛芸術の展開は弾圧され圧殺されていったのです。詩人マヤコフスキーの自
殺はその悲劇と絶望の深さを表しています。民衆的創造力は貨物列車に乗せられ収容所
へと送還させられていったのです。言語と身体的言語は国家官僚システムの私的所有と
固定化され、弁証法的唯物論の芸術論は反映論として、客観的物質の神学が造りだした
意味の確立された社会の人間と事実をアートは正確に反映しなければならない、それが
リアリズムであると。
 しかしながら反復的訓練とイメージの建築とある執念によって表出する芸術は、根源
的に動物的本能を備え、物質の中心たる宇宙的磁場を有し、他者との対話可能な試練と
受苦性をもっています。私的所有の独裁機構はメディア・%%%%%%として意味の確立され
た慣習と制度的社会をシステム化し、事実はそれを造ったものによって媒介され回収さ
れゼロの記号として確立されるのですが、根源的な芸術は媒介され回収され変貌した事
実の空間と時間を超越し、人間と物質の中心たる求心力と遠心力の磁場とは記憶に存在
するのだが、この記憶の力を回復させるのです。記憶の力とは人間存在が物質の協働的
世界形成への欲望を記録する記録者であり、かつその欲望を実践的構想力の実現におい
て体現する世界同時性の未来を偶然と必然の結合によって生きた物質の本能によって引
き寄せ現在に表出するのであります。

 宗教団体は宇宙意識を私的所有して物質から切断された人間のアトミズムを囲い込み
仮想共同性の生成過程に神話物語との自己同一化を図る物語の絶対化によって、言語・
数・貨幣からの疎外を補完するのです。神の構造に世界同時性があるのではなく、人間
の実践的構想力に世界同時性があるのです。この世界同時性とはあるものの探求であり
、あるものの発見であり、そのものを他者にしらせたいとする情報伝導である協働的世
界形成の欲望の三原則にあります。世界同時性とは物質の最高形態である人間の反復的
訓練と実験におのれを動員する前衛者の動的中心に存在しているのであります。演劇の
「船」的構造は物質も躍動的空間と時間に演じる演者であり、コラージュの回転軸たる
中心には明確な詩的言語と身体言語があります。それは物質と人間の記憶が存在してい
るということであり、イメージの編集たるモンタージュ理論が記憶の理論なのです。ロ
シア革命の記憶者・記録者として映画の革命をもたらしたエイゼンシュタインのモンタ
ージユ理論は、彼が芸術の主体であり動的世界の中心たる磁場を覚醒させていたからで
す。それは実践的経験を実験によって理論化できる能力に他なりません。

 空間と時間に始まりが終わりである「演」の一回性を、協働的世界形成の欲望として
舞台に建築する表出者の建築物は、「演」が終えれば跡形も消え去る構造に規定され、
瞬間という世界同時性の感受能力と記憶能力のコミュニケーションに建築される幻想の
建築物は、演者の持久的な反復的訓練とその具体の蓄積過程に実践的構想力の可能とし
てある思考の具現化として、演者はひらめき・アイデア・デザインとして主体の磁場が
求心した未来と過去からの発信を受信し言葉の建築としてある理論を記録していくので
す。人間とはいかなるものであるのかを問う「演」の構造は同時に思想と理論の構造で
あるのです。

 私の妄想でいえば日本イデオロギーのパフォーマンスは新しく伸し上がってきた政治
支配権力を権威と神学によって取り込みながら、自由自在に変化するヌエ的怪物性にあ
り、その根拠は、単一民族の幻想と大東亜共栄圏構想のむき出しの欲望形態に存在して
います。変化するヌエ的怪物が民衆の言語と身体的言語を回収するとき、自然生成的な
形態をとることが可能なのは、和歌によって訓練された複合的な言語戦争を私的所有し
ているからであります。「島」の文体たる単一民族幻想の国民国家の内部で、自己欺瞞
・他者欺瞞の言語が認められ通用する根拠は、日本語そのものが複合的人為的なコラー
ジュによって形態化されているからです。日本語とはモンタージュ・コラージュ言語な
のです。日本語とは日本国家の血液が通る大動脈といっても過言ではありません。日本
語は現在も当用漢字として国家が制御し統括しているのです。意味を覆すことが可能で
あるコラージュ言語であればこそ、天皇制は歌を支配し国家テクノクラートは日本語そ
のものを制御するのです。

 例えば20世紀のヨーロッパに誕生した詩的言語としてのダダイズム・フランスのシ
ュールリアリズム・ドイツ表現主義の複合意識としてあるコラージュは、日本の場合、
和歌の誕生にすでに表れています。それは鉄と馬を戦闘形式にもつ騎馬民族特有の徹底
した部族闘争による、大王の継承をめぐる権力闘争と内戦として表出した、7世紀大化
の改新前後から、壬甲の乱。7世紀とはアラブにユダヤ神話から分派しキリスト教批判
としてイスラム共同体が動的世界の中心として出現し、キリスト教ヨーロッパはいまだ
蛮族の部族社会にしか過ぎませんでした。東アジアの動的世界の中心は「唐」であり、
朝鮮南部の「馬韓・辰韓・弁韓」の騎馬民族国家は部族の徹底した戦争によって自解し
百済・新羅へと統合されていきました。古代朝鮮南部と島としての九州は鉄と馬を生活
の動的中心にした部族国家集団として戦闘に明け暮れていたと思われます。われわれは
古代を柔らかな自然と人間の関係としてノスタルジア的に考えてしまいますが、その実
態は極めて固い物質を握りしめていたのです。第一自然である森林から草原・川原・海
辺に歩きだした人間は、第二自然を作りだしました。「形」の誕生です。その「形」は
「数」の意識を誕生させました。材木から住居を形成し、石から道具を造る。やがてそ
れは鉱物から鉄を抽出し、人間は思考力と想像力のイメージにしか存在しなかった形を
加工行為として具現化することに成功したのです。古代部族社会において母権と女の身
体がシンボルとなりまつりごとの中心に据えられたのは、女が子供を生む能力への男の
畏怖意識とともに、固い物質を道具として狩猟の緊張にあった男たちの救済として女の
身体はあったのだとおもいます。男たちの狩猟は不確実のギャンブル形態にあり、確実
に部族の飢えを日常的に救ったのは女たちによる採取経済であったのです。それは女た
ちのほうが生命維持本能が強い理由であるのだが、採取経済から農耕経済は女たちによ
って作り出された形態であると思われます。しかしながら鉄の誕生は狩猟にも農耕にも
部族闘争にも革命的事態をもたらしました。人間の思考力と想像力のイメージに浮かん
だ形を誕生させることが出来る鉄の加工行為は、女への畏怖構造を取外し部族の権力を
男たちは女たちから奪取していったのです。

 古代中国に誕生した漢字は、おそらくその造形力と造語力から見て鉄の誕生によって
形成された文字であろうと思われます。7世紀大化の改新後「倭」は百済を支援すべく
軍隊を送り出し新羅・唐連合軍との戦争で敗北しました。その後「倭」の大王継承をめ
ぐる内戦として壬甲の乱をえて、唐帝国との強大な他者関係性から「倭」そのものの記
憶を消却し「日本」を誕生させるのです。朝鮮・韓での「百済」「新羅」「高句麗」こ
の三国で展開されていた壮絶な戦争と動乱をみすえ、日本はこの三国の集団としての政
治亡命者を受入れ、中国から漢字・通貨・仏教・政治体制としての律令制度を取り入れ
、模倣造形しながら国家形成していくのです。その場合高度技術・高度情報をもった政
治亡命者が国造り部として活用されていくのですが、逃亡者・亡命者・漂流者がもつあ
る絶望ある断絶ある自己喪失が日本誕生には孕まれていたのです。それゆえに加工の想
像力としてある偽史の歴史叙述「古事記」「日本書紀」は律令国家形成の動的中心をに
らう神話物語として誕生したのです。これは朝鮮半島からイベリヤ半島までのユーラシ
ア大陸においては通用しない歴史叙述の方法であります。まさに工作者としての人間の
あるさざれ石の理想が偽史の形態において自己実現した神話物語を、この20世紀末ま
で動脈化した理由は、騎馬民族の制服者・漂流者にとってこの極東の島が、統治管理す
るのに手頃な空間であり理想の島だったのです。彼らが7世紀の朝鮮半島の動乱と唐帝
国との敗戦から総括したことは、王権権力闘争と部族闘争に明け暮れていては律令制度
国家体制が崩壊してしまうということでした。そのために現人神は必要であり、現人神
と連結連動する偽史の歴史叙述は誕生したのです。民衆の記憶・記録を消却して国家官
僚の偽史の想像力が、自己欺瞞・他者欺瞞として生成するのは、日本語としての表記記
号を建築の形態として反革命の王朝が鉄を加工するがごとく成しとげたからです。

  ある固有の自然言語におのれの感情を複合的重層的に入力する倭歌の発生は、ダイ
レクトにおのれの感情を表記して、それが他者に読まれれば王朝部族権力闘争に利用さ
れ、おのれの政治的死滅を招くという、構造と意識にあり、王朝歌会とは腹の探り合い
であったのです。何処までもゼロの記号に接近させることが優秀歌であり、自然生成的
に純化させ磨ぎ澄まし、言語にいかにうまく己の感情を表記し当事者に読了させるのか
、但しそれは他者が読んでもわからぬよう隠蔽されていなくては成らない、この暗号の
ような歌を王朝部族に教えるものが、歌の加工職人であった宮廷詩人でありました。2
0世紀末の宮廷詩人とはもちろんコピーライターであり、ある言語にコンプレックス形
式をかけその複合・重層によって、おもしろおかしくさせるCMメディアこそ日本文化
の伝統に存在しているのです。彼らは古い構造にベッタリと貼り付きながら新しさを装
い、日本語のリアリティと口語文体の建設に血を吐きながら格闘してきた主体構造を明
るく軽やかに破壊しながら、消費管理社会たる天皇企業文化の独裁を隠蔽するゼロの記
号をメディア・%%%%%%として推進しているのです。イメージのエイズとして。

 日本文化の発生とは意味の闘争であるコラージュだったのです。王朝権力闘争と部族
闘争は内戦としての戦争形態として戦国時代まで続きますが、常に昇華されぬ「怨」の
構造が蓄積されてきました。この「怨」の構造が現在に幽霊が物語る日本の伝統演劇た
る「能」を表出させました。意味の闘争をめぐるコラージュと幽霊仮面が物語る怨の構
造こそが騎馬民族の部族闘争が発生させた詩歌と演劇の根源的な磁場なのであります。
それは繊細なやわらかな感受性とは反対の固い物質である鉄を握った感受性であり、馬
が疾走するスピードに乗った動的中心の移動感受性が、その仮面の裏に隠蔽されている
のであります。演劇の「船」的構造とは動的中心の移動感受であり、それはわれわれが
馬とともに生活形態をとっていた遺伝子を呼び起こすのです。

 PERFORMING JUNKの文体とコラージュはヨーロッパ文様でありながら
日本の歴史的伝統的な表出構造に存在していたのです。われわれの前衛的実験の空間と
は古代の磁場と連結連動しているのかもしれません。さらにそれは言葉と身体言語の再
建にあったと思います。断章で演じたLumiere Noireにおける池野一広の
舞踏、金属音と鋼鉄物質、固い鋭利な感触としての身体的言語は未来を暗示していると
ともに極めて古代的なのです。つまり古代から近代まで人間は石や金属の固い感触とと
もに生活してきたのであり、現在も鉄筋コンクリート・鉄骨建築群に囲まれて生活して
います。しかし世紀末の高度管理消費社会は人間から固く鋭利な感触を奪い真綿で首を
絞めるかのごとくやわらかな構造によって隠蔽した日常に囲い込みます。私は世界史が
転換する89年頃、よく感触のある夢を見ました。それは自己の現実世界への感触が稀
薄化し、感性が薄っぺらと成っていく予告であったのだと今思っています。 性的人間
である私は2年前まで土木作業員でありましたが、建築工事現場で大量の生コンを型枠
に流し込むコンクリート打ちの労働をするたび、狂おしく女性のやわらかな身体に触れ
抱きしめたい衝動に駆られました。女の肌が救済であるかのごとく。生コンはまるで精
液でありポンプはきんたまでバッスン・バッスンと巨大な音を反復する光景は恐竜の性
交でありました。バブル経済の過程で表出し現在も光景を変貌させ、人間の記憶をなし
崩しのままに消却し、空間変貌の落差を無意識に蓄積する魔天楼ビルディングの誕生と
無機質でやわらかなデジタル情報空間はおそらく物質の動的中心である磁場で%%%%%%%%
をしているのであります。もはや世界経済のネットワーク・システムと地球に網のごと
く張りめぐされ飛び交う電子回路に、物質の意識は人間から学習し誕生しているかもし
れない、私は妄想しています。

 東欧・ソ連邦崩壊によって弁証的唯物論は%%%%な夢の残骸として敗北しましたが、他
者関係としての物資とはなにかをめぐる妄想は人間存在とはなにかをめぐる演劇的思考
なのです。気がフレおのれの人生を棒に振った私は、でくのぼう・あほだら・愚者・性
的人間として演劇的思考にこもっていこうと思います。核兵器は物質の動的中心である
磁場の原子・中性子を破壊することによって、爆発させるビック・バンであります。そ
れは物質の磁場が持つ協働的世界形成の欲望を自爆させることによって、恐れるべき破
壊エネルギーを引き出すことにあります。アインシュタインの相対性理論思考は物質の
磁場に巨大なエネルギーが存在していることを発見し、そのエネルギーを取り出すため
には磁場そのものを破壊すればよい、破壊するためにはウランを燃やして抽出するプル
トニウムが必要である、そのミクロ的構造の発見は時間と空間・物質をめぐる宇宙存在
の探求によって具現化されました。アインシュタインはなぜその発見を封じ込めなかっ
たのか? おそらく協働的世界形成の絶望と切断アトミズムの執念がUSAの世界戦略
に回収されていったのです。

 協働的世界形成が解体・崩壊し絶望によって自己喪失した人間は、武器をとって昨日
までの隣人と戦い血を流す民族内戦を促進する旧社会主義国の自己運動のアトミズム欲
望は世界政治経済システムの私的所有の欲望形態に回収され、ここでは兵器をたれ流す
死の商人があらかせぎ、眠りから醒めた戦争屋が画策する構造にあり、民衆はいつでも
ほんろうされ傷つき、故郷を追われ難民へと落とされていくのです。現代世界の絶望形
態は人間と物質世界の破壊として進行しているのです。民衆による協働的世界形成の欲
望の再建にこそ救済の道は存在しているのであると思います。自分に絶望することは世
界に絶望することなのですが、それでも私は絶望する人間を信じ、一握りのみすぼらし
い希望の存在を信じたいと思います。

 演劇の宇宙船は何処に帰還するのか? それは持久的な反復訓練としての協働的世界
形成の場所であると思われます。PERFORMING JUNKの空間と時間に挑発
され、おもいつきのままにワープロをうってみました。長い手紙になったのは性的人間
である私がPERFOMING JUNKの可能性のある若いエネルギーに対決せんと
したからです。ginger cafe´の今後の実験欲望と未知との遭遇に期待して
います。


 追伸  8月9日(日)NHK教育テレビ芸術劇場、蜷川幸雄演出オペラ「さまよえ
るオランダ人」を見ました。ワーグナー世界と対決し、ヨーロッパオペラ歌手と日本オ
ペラ歌手の協働による劇世界の構築は感動しましたが、巨大な貿易航海船とオランダ人
が乗る幽霊船が現出し、蜷川がもつ充満的エネルギーとダイナミック躍動空間は表出し
ていましたが、それは演劇の「船」的構造ではありませんでした。建造の空間と時間で
ある物語の構造にあったのです。
 続いて15日、劇団DreamDrunkersの「夜の秋」を体験しました。結語
の回収のされかたに注目しましたが、ナルシズムとマザー的愛の構造から脱出し、衛星
通信電話回線都市の構造と、そのデジタルドームの内部で無防備のまま生成する青春像
の等身大・生の現在を観客に投企する結語でありました。私は嬉しくなりました。
 若い集団的創造力のたくましい飛躍と他者との回路が開かれた主体形成を発見したか
らです。

 『想像力の起源は舟である。洪水と舟の伝承は、古代から世界各地に埋もれていた』

                 1992-8-11 塚原 勝美



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2000年07月07日 13時09分24秒

90年代総括-PERFORMING JUNK感想


PERFORMING JUNK感想
     1992年夏 現代演劇の記録
     藤沢・片瀬海岸「天文館」ゆらフェステバル


PERFORMING JUNK 感想 2



 「玄」の黒い言語をもつものはすでに国家の制度と帝国主義世界システムを形成する
テクノクラート操作高度情報化社会・市民社会の身体的言語からテイク・オフしており
、国民国家の共同体から果てしなく疎外された「玄」の人間の内部と深層は根拠が喪失
した不断の欠落知覚にあります。この強い欠落意識と内部解体から突き上げるエネルギ
ーによって「玄」の人間は、おのれを取り巻く光景が仮想現実であり市民社会の虚構を
あばき、黒い言語と身体的言語によっていまだ体験せね形とこれから訪れる出あろう
「出来事の気配」を根拠として現出するのです。体系的な一つの実践的構想力として、
他者に向けて表出せねば「玄」い人間は、かつて夢の中で乗船を拒否した幻想の黒い巨
大な宇宙船によって殺されてしまう恐怖感が「玄」い人間の畏怖構造なのです。

 演劇の「船」的構造はおそらく「タイタニック号沈没」において黒テントが表出させ
たのかもしれませんが私は残念ながらそれを体験していません。詩集はこの春、図書館
で借りて読んだのでありますが、重ね合わせ時間そのものの縦走・複合構造はわれわれ
人間の空間・時間が「船」にあることを再発見させた詩集でありました。時間・予測・
シミュレーションによって判断する登山の縦走者は、ある空間を地図によって読み「未
知との遭遇」に対処する、森林・山岳に圧倒され主体と中心を喪失し、羅針盤の「揺ら
ぎ」「ずらし」の黒い言語に惑わされ取り付かれた縦走者は、ルートから離れ森林山岳
の中心に引き寄せられて遭難者として変貌する、遭難者とは物質が内包する引力に主体
のシミュレーションが敗北し犠牲とされた人間のことです。海・森林・山岳・草原とは
物質が連結連動しながら巨大な体系性と中心を内包しています。その体系を連結連動さ
せながら地球の引力は自己運動ではなく、他者関係運動として太陽の引力と自己の引力
と遠心力によって反発し回転しながら、太陽系の円環運動を反復するのです。その太陽
系の引力構造はさらに銀河系の中心の引力に引き寄せられ反発しながら星雲の円環運動
として反復しています。さらに銀河星雲は宇宙の中心の引力に引き寄せられながら反発
し宇宙を円環し転回するわれわれのマクロ・ミクロを貫いた空間と時間は反復の中心に
存在しています。われわれの空間と時間は「船」的な構造にあり、物質内部の中心にあ
る求心力と遠心力の磁場の生成による、外部との応答関係を連結連動させながらマクロ
的な他者関係運動を反復とし転回する体系を形成します。

 ダイレクトな生身の他者「環」形成と人間としてのメディアがもつ「現」の構造を表
出する演劇の空間と時間は、動的世界の中心である引力の求心力と遠心力の磁場を作り
出す、その表れた磁場こそ舞台の中心といえると思います。故に人間とオブジュとして
の道具たる物質は最も舞台で輝きだすのです。観客の前で照明を浴び応答関係を成立さ
せる演者の身体は美しい。それは同時に集団的創造力が扱う舞台装置・舞台道具として
のオブジュも物質の中心たる磁場が喚起し嬉しいはずです。物質の形たるオブジュは躍
動的な空間と時間の連結連動構造に存在してこそ、生きいきと輝きだします。それを私
は「孤独」の断章において茂手木淳が舞台に置いた人形から感受しました。
 現代美術のインスタレーション・オブジュは展覧会場というブルジョワ・アトミズム
の私的所有鑑賞方法たる「見る・見られる」通行人的のぞき見の空間に存在する死んだ
偶像なのです。時間的躍動から切断され今なお二元論の構造に閉ざされているのであり
ます。その二元論の構造によって美術は投資家の欲望を限りなく喚起し生きた貨幣とし
て、ブルジョワ・アトミズム私的所有の構造に取り込まれ、死んだ通貨の記憶へと落と
し込められてしまうのです。

 機械の部品を見れば物質が躍動的な空間と時間の連結連動運動に歓喜していることが
発見出来ます。オペレーションとしての人間との他者「環」形成を物質は協働的世界形
成として成立させ、力つよい生命体のごとく求心力と遠心力の磁場たる中心が、他者物
質の中心に共振共鳴しながら、徹底的な反復の円環運動として連動し躍動します。オペ
レーション自動機械の発明と近代的工場制度の転回としてあった産業革命は、物質の根
源たる求心力と遠心力の中心たる磁場が、他者物質の中心と連結連動する反復的円環運
動によって、宇宙の星のDNAたる遺伝子が覚醒し開放されたことにあります。自動機
械とはまさしく宇宙物質の反復的円環運動そのものを体現しているのです。私の妄想で
いうばおそらく演劇が内包する反復的訓練と一回性のライブとしてある空間と時間は宇
宙の始原的運動と応答関係にあるのです。演劇の「船」的構造は人間と物質の遺伝子を
歓喜し空間と時間の原点に帰還する根拠をむき出しにするのかもしれません。

 しかしながら人間の欲望形態を私的所有の基準によって制度化した資本主義は、産業
革命によって暴走し、人間を自然・土地から引き離し近代的工場制度に送りこんだので
あります。物質の覚醒と開放は多大な民衆の犠牲の上に形成されてきたのです。自然・
大地から引き離されたということは、民衆が宇宙的空間と時間である反復的円環的人生
を破壊されたということであり、この憎悪の根拠が反革命に回収されたときファシズム
運動は人間の破壊として個人と物質そのものの死滅の極限まで暴走するのです。反革命
の神学たる天皇制はエイズ的な血液主義としての反復的円環自己運動であり、宇宙意識
を私的所有する自己絶対化の神学に存在しています。宇宙の時間と空間とは協働的世界
形成の欲望にあり、反革命の私的所有たる自己運動の欲望はこの宇宙の欲望を破壊する
歪曲された人間の滅亡を差し示しています。マクロ的な宇宙の中心はミクロ的な物質の
中心たる磁場に存在して、人間は物質の夢と幻想を思考形態においてにらう、物質の協
働的世界形成を全面的な能動的生物として形成する宇宙の欲望を切り開き体現する物質
の最高形態としての社会的動物なのです。人間一人一人には協働的世界の中心と物質の
歓喜たる協働的世界形成の宇宙欲望の中心が存在しており、ここに人間の尊厳が誕生す
るのであります。

 私は欲望のエネルギーこそが物質を発展させ人間世界の歴史を生成させてきたと思い
ます。だがその欲望が協働的世界形成の欲望であるのか、永遠の自己運動であるすべて
を私的所有せねば満たされぬブルジョワ・アトミズムの欲望の形態であるのかは決定的
に違います。私的所有の欲望を全面開花させた資本主義制度は、類的存在から人間を引
き離し自立した個人による欲望の独裁を完成させました。この欲望の独裁は東欧・ソ連
邦のスターリン国家社会主義経済を内部自解・崩壊へと追い込み、彼らをして資本主義
経済に屈服させました。スターリン国家社会主義経済の欲望が生産力第一主義に存在し
ていたからこそ、資本主義の欲望である世界システムに屈服同化することはある必然性
を内包した根拠だったのです。彼らの弁証法的唯物論は論理言説の展開方法としてあっ
た弁証法があらかじめ物質の内部に存在していると錯覚し、物質の概念を神に替わる位
置に祭り上げたのでした。しかしその弁証法とはマルクスが他者「環」形成として現実
存在そのものの構造を再度思考する人間が把握し、逆転した関係を能動的実践的な構図
の体系によって協働的世界形成への変革にむけた物語の方法だったのです。市民社会の
人間にとって当たり前の日常生活に身体化している商品・通貨の物質が、実はある階級
の私的所有のシステムと強力な内部で自然生成している、物質の中心たる磁場が根源的
にもつ協働的世界形成の欲望は、私的所有の欲望に矮小化され、よりある階級の欲望の
身体的血液に同化した通貨が人間の記憶と物質の記憶にとって替わるのであります。マ
ルクスは当たり前の表面を思考し、その表面の自己欺瞞・他者欺瞞システムの物語をあ
ばき、表面の「現」の構造そのものの歴史的形成過程に他者として入り込み、表面がも
つ強力な内部と徹底的な実践的思考の格闘をとうし、再度表面に帰還するとき彼は体系
的な歴史的形成過程の物語によって、ある階級のシステムによって意味が確立された表
面の意味と慣習を転倒するのです。マルクス死後エンゲルスは物質構造の内部にあらか
じめ弁証法が存在していると、ダーヴェン生物進化論を唯物論に換言し、フォイエルバ
ッハが成しとげたヘーゲル神学批判を葬りさることにより、ヘーゲル哲学の引力圏へ再
度帰還したのです。こうして物質の神学たる弁証法的唯物論は誕生しスターリンによっ
て自己完結されたのでした。

 ロシア革命とともに協働的世界形成として世界史の先端に踊りでた演劇・美術・文学
のロシア前衛芸術の展開は弾圧され圧殺されていったのです。詩人マヤコフスキーの自
殺はその悲劇と絶望の深さを表しています。民衆的創造力は貨物列車に乗せられ収容所
へと送還させられていったのです。言語と身体的言語は国家官僚システムの私的所有と
固定化され、弁証法的唯物論の芸術論は反映論として、客観的物質の神学が造りだした
意味の確立された社会の人間と事実をアートは正確に反映しなければならない、それが
リアリズムであると。
 しかしながら反復的訓練とイメージの建築とある執念によって表出する芸術は、根源
的に動物的本能を備え、物質の中心たる宇宙的磁場を有し、他者との対話可能な試練と
受苦性をもっています。私的所有の独裁機構はメディア・%%%%%%として意味の確立され
た慣習と制度的社会をシステム化し、事実はそれを造ったものによって媒介され回収さ
れゼロの記号として確立されるのですが、根源的な芸術は媒介され回収され変貌した事
実の空間と時間を超越し、人間と物質の中心たる求心力と遠心力の磁場とは記憶に存在
するのだが、この記憶の力を回復させるのです。記憶の力とは人間存在が物質の協働的
世界形成への欲望を記録する記録者であり、かつその欲望を実践的構想力の実現におい
て体現する世界同時性の未来を偶然と必然の結合によって生きた物質の本能によって引
き寄せ現在に表出するのであります。

 宗教団体は宇宙意識を私的所有して物質から切断された人間のアトミズムを囲い込み
仮想共同性の生成過程に神話物語との自己同一化を図る物語の絶対化によって、言語・
数・貨幣からの疎外を補完するのです。神の構造に世界同時性があるのではなく、人間
の実践的構想力に世界同時性があるのです。この世界同時性とはあるものの探求であり
、あるものの発見であり、そのものを他者にしらせたいとする情報伝導である協働的世
界形成の欲望の三原則にあります。世界同時性とは物質の最高形態である人間の反復的
訓練と実験におのれを動員する前衛者の動的中心に存在しているのであります。演劇の
「船」的構造は物質も躍動的空間と時間に演じる演者であり、コラージュの回転軸たる
中心には明確な詩的言語と身体言語があります。それは物質と人間の記憶が存在してい
るということであり、イメージの編集たるモンタージュ理論が記憶の理論なのです。ロ
シア革命の記憶者・記録者として映画の革命をもたらしたエイゼンシュタインのモンタ
ージユ理論は、彼が芸術の主体であり動的世界の中心たる磁場を覚醒させていたからで
す。それは実践的経験を実験によって理論化できる能力に他なりません。

 空間と時間に始まりが終わりである「演」の一回性を、協働的世界形成の欲望として
舞台に建築する表出者の建築物は、「演」が終えれば跡形も消え去る構造に規定され、
瞬間という世界同時性の感受能力と記憶能力のコミュニケーションに建築される幻想の
建築物は、演者の持久的な反復的訓練とその具体の蓄積過程に実践的構想力の可能とし
てある思考の具現化として、演者はひらめき・アイデア・デザインとして主体の磁場が
求心した未来と過去からの発信を受信し言葉の建築としてある理論を記録していくので
す。人間とはいかなるものであるのかを問う「演」の構造は同時に思想と理論の構造で
あるのです。

 私の妄想でいえば日本イデオロギーのパフォーマンスは新しく伸し上がってきた政治
支配権力を権威と神学によって取り込みながら、自由自在に変化するヌエ的怪物性にあ
り、その根拠は、単一民族の幻想と大東亜共栄圏構想のむき出しの欲望形態に存在して
います。変化するヌエ的怪物が民衆の言語と身体的言語を回収するとき、自然生成的な
形態をとることが可能なのは、和歌によって訓練された複合的な言語戦争を私的所有し
ているからであります。「島」の文体たる単一民族幻想の国民国家の内部で、自己欺瞞
・他者欺瞞の言語が認められ通用する根拠は、日本語そのものが複合的人為的なコラー
ジュによって形態化されているからです。日本語とはモンタージュ・コラージュ言語な
のです。日本語とは日本国家の血液が通る大動脈といっても過言ではありません。日本
語は現在も当用漢字として国家が制御し統括しているのです。意味を覆すことが可能で
あるコラージュ言語であればこそ、天皇制は歌を支配し国家テクノクラートは日本語そ
のものを制御するのです。

 例えば20世紀のヨーロッパに誕生した詩的言語としてのダダイズム・フランスのシ
ュールリアリズム・ドイツ表現主義の複合意識としてあるコラージュは、日本の場合、
和歌の誕生にすでに表れています。それは鉄と馬を戦闘形式にもつ騎馬民族特有の徹底
した部族闘争による、大王の継承をめぐる権力闘争と内戦として表出した、7世紀大化
の改新前後から、壬甲の乱。7世紀とはアラブにユダヤ神話から分派しキリスト教批判
としてイスラム共同体が動的世界の中心として出現し、キリスト教ヨーロッパはいまだ
蛮族の部族社会にしか過ぎませんでした。東アジアの動的世界の中心は「唐」であり、
朝鮮南部の「馬韓・辰韓・弁韓」の騎馬民族国家は部族の徹底した戦争によって自解し
百済・新羅へと統合されていきました。古代朝鮮南部と島としての九州は鉄と馬を生活
の動的中心にした部族国家集団として戦闘に明け暮れていたと思われます。われわれは
古代を柔らかな自然と人間の関係としてノスタルジア的に考えてしまいますが、その実
態は極めて固い物質を握りしめていたのです。第一自然である森林から草原・川原・海
辺に歩きだした人間は、第二自然を作りだしました。「形」の誕生です。その「形」は
「数」の意識を誕生させました。材木から住居を形成し、石から道具を造る。やがてそ
れは鉱物から鉄を抽出し、人間は思考力と想像力のイメージにしか存在しなかった形を
加工行為として具現化することに成功したのです。古代部族社会において母権と女の身
体がシンボルとなりまつりごとの中心に据えられたのは、女が子供を生む能力への男の
畏怖意識とともに、固い物質を道具として狩猟の緊張にあった男たちの救済として女の
身体はあったのだとおもいます。男たちの狩猟は不確実のギャンブル形態にあり、確実
に部族の飢えを日常的に救ったのは女たちによる採取経済であったのです。それは女た
ちのほうが生命維持本能が強い理由であるのだが、採取経済から農耕経済は女たちによ
って作り出された形態であると思われます。しかしながら鉄の誕生は狩猟にも農耕にも
部族闘争にも革命的事態をもたらしました。人間の思考力と想像力のイメージに浮かん
だ形を誕生させることが出来る鉄の加工行為は、女への畏怖構造を取外し部族の権力を
男たちは女たちから奪取していったのです。

 古代中国に誕生した漢字は、おそらくその造形力と造語力から見て鉄の誕生によって
形成された文字であろうと思われます。7世紀大化の改新後「倭」は百済を支援すべく
軍隊を送り出し新羅・唐連合軍との戦争で敗北しました。その後「倭」の大王継承をめ
ぐる内戦として壬甲の乱をえて、唐帝国との強大な他者関係性から「倭」そのものの記
憶を消却し「日本」を誕生させるのです。朝鮮・韓での「百済」「新羅」「高句麗」こ
の三国で展開されていた壮絶な戦争と動乱をみすえ、日本はこの三国の集団としての政
治亡命者を受入れ、中国から漢字・通貨・仏教・政治体制としての律令制度を取り入れ
、模倣造形しながら国家形成していくのです。その場合高度技術・高度情報をもった政
治亡命者が国造り部として活用されていくのですが、逃亡者・亡命者・漂流者がもつあ
る絶望ある断絶ある自己喪失が日本誕生には孕まれていたのです。それゆえに加工の想
像力としてある偽史の歴史叙述「古事記」「日本書紀」は律令国家形成の動的中心をに
らう神話物語として誕生したのです。これは朝鮮半島からイベリヤ半島までのユーラシ
ア大陸においては通用しない歴史叙述の方法であります。まさに工作者としての人間の
あるさざれ石の理想が偽史の形態において自己実現した神話物語を、この20世紀末ま
で動脈化した理由は、騎馬民族の制服者・漂流者にとってこの極東の島が、統治管理す
るのに手頃な空間であり理想の島だったのです。彼らが7世紀の朝鮮半島の動乱と唐帝
国との敗戦から総括したことは、王権権力闘争と部族闘争に明け暮れていては律令制度
国家体制が崩壊してしまうということでした。そのために現人神は必要であり、現人神
と連結連動する偽史の歴史叙述は誕生したのです。民衆の記憶・記録を消却して国家官
僚の偽史の想像力が、自己欺瞞・他者欺瞞として生成するのは、日本語としての表記記
号を建築の形態として反革命の王朝が鉄を加工するがごとく成しとげたからです。

  ある固有の自然言語におのれの感情を複合的重層的に入力する倭歌の発生は、ダイ
レクトにおのれの感情を表記して、それが他者に読まれれば王朝部族権力闘争に利用さ
れ、おのれの政治的死滅を招くという、構造と意識にあり、王朝歌会とは腹の探り合い
であったのです。何処までもゼロの記号に接近させることが優秀歌であり、自然生成的
に純化させ磨ぎ澄まし、言語にいかにうまく己の感情を表記し当事者に読了させるのか
、但しそれは他者が読んでもわからぬよう隠蔽されていなくては成らない、この暗号の
ような歌を王朝部族に教えるものが、歌の加工職人であった宮廷詩人でありました。2
0世紀末の宮廷詩人とはもちろんコピーライターであり、ある言語にコンプレックス形
式をかけその複合・重層によって、おもしろおかしくさせるCMメディアこそ日本文化
の伝統に存在しているのです。彼らは古い構造にベッタリと貼り付きながら新しさを装
い、日本語のリアリティと口語文体の建設に血を吐きながら格闘してきた主体構造を明
るく軽やかに破壊しながら、消費管理社会たる天皇企業文化の独裁を隠蔽するゼロの記
号をメディア・%%%%%%として推進しているのです。イメージのエイズとして。

 日本文化の発生とは意味の闘争であるコラージュだったのです。王朝権力闘争と部族
闘争は内戦としての戦争形態として戦国時代まで続きますが、常に昇華されぬ「怨」の
構造が蓄積されてきました。この「怨」の構造が現在に幽霊が物語る日本の伝統演劇た
る「能」を表出させました。意味の闘争をめぐるコラージュと幽霊仮面が物語る怨の構
造こそが騎馬民族の部族闘争が発生させた詩歌と演劇の根源的な磁場なのであります。
それは繊細なやわらかな感受性とは反対の固い物質である鉄を握った感受性であり、馬
が疾走するスピードに乗った動的中心の移動感受性が、その仮面の裏に隠蔽されている
のであります。演劇の「船」的構造とは動的中心の移動感受であり、それはわれわれが
馬とともに生活形態をとっていた遺伝子を呼び起こすのです。

 PERFORMING JUNKの文体とコラージュはヨーロッパ文様でありながら
日本の歴史的伝統的な表出構造に存在していたのです。われわれの前衛的実験の空間と
は古代の磁場と連結連動しているのかもしれません。さらにそれは言葉と身体言語の再
建にあったと思います。断章で演じたLumiere Noireにおける池野一広の
舞踏、金属音と鋼鉄物質、固い鋭利な感触としての身体的言語は未来を暗示していると
ともに極めて古代的なのです。つまり古代から近代まで人間は石や金属の固い感触とと
もに生活してきたのであり、現在も鉄筋コンクリート・鉄骨建築群に囲まれて生活して
います。しかし世紀末の高度管理消費社会は人間から固く鋭利な感触を奪い真綿で首を
絞めるかのごとくやわらかな構造によって隠蔽した日常に囲い込みます。私は世界史が
転換する89年頃、よく感触のある夢を見ました。それは自己の現実世界への感触が稀
薄化し、感性が薄っぺらと成っていく予告であったのだと今思っています。 性的人間
である私は2年前まで土木作業員でありましたが、建築工事現場で大量の生コンを型枠
に流し込むコンクリート打ちの労働をするたび、狂おしく女性のやわらかな身体に触れ
抱きしめたい衝動に駆られました。女の肌が救済であるかのごとく。生コンはまるで精
液でありポンプはきんたまでバッスン・バッスンと巨大な音を反復する光景は恐竜の性
交でありました。バブル経済の過程で表出し現在も光景を変貌させ、人間の記憶をなし
崩しのままに消却し、空間変貌の落差を無意識に蓄積する魔天楼ビルディングの誕生と
無機質でやわらかなデジタル情報空間はおそらく物質の動的中心である磁場で%%%%%%%%
をしているのであります。もはや世界経済のネットワーク・システムと地球に網のごと
く張りめぐされ飛び交う電子回路に、物質の意識は人間から学習し誕生しているかもし
れない、私は妄想しています。

 東欧・ソ連邦崩壊によって弁証的唯物論は%%%%な夢の残骸として敗北しましたが、他
者関係としての物資とはなにかをめぐる妄想は人間存在とはなにかをめぐる演劇的思考
なのです。気がフレおのれの人生を棒に振った私は、でくのぼう・あほだら・愚者・性
的人間として演劇的思考にこもっていこうと思います。核兵器は物質の動的中心である
磁場の原子・中性子を破壊することによって、爆発させるビック・バンであります。そ
れは物質の磁場が持つ協働的世界形成の欲望を自爆させることによって、恐れるべき破
壊エネルギーを引き出すことにあります。アインシュタインの相対性理論思考は物質の
磁場に巨大なエネルギーが存在していることを発見し、そのエネルギーを取り出すため
には磁場そのものを破壊すればよい、破壊するためにはウランを燃やして抽出するプル
トニウムが必要である、そのミクロ的構造の発見は時間と空間・物質をめぐる宇宙存在
の探求によって具現化されました。アインシュタインはなぜその発見を封じ込めなかっ
たのか? おそらく協働的世界形成の絶望と切断アトミズムの執念がUSAの世界戦略
に回収されていったのです。

 協働的世界形成が解体・崩壊し絶望によって自己喪失した人間は、武器をとって昨日
までの隣人と戦い血を流す民族内戦を促進する旧社会主義国の自己運動のアトミズム欲
望は世界政治経済システムの私的所有の欲望形態に回収され、ここでは兵器をたれ流す
死の商人があらかせぎ、眠りから醒めた戦争屋が画策する構造にあり、民衆はいつでも
ほんろうされ傷つき、故郷を追われ難民へと落とされていくのです。現代世界の絶望形
態は人間と物質世界の破壊として進行しているのです。民衆による協働的世界形成の欲
望の再建にこそ救済の道は存在しているのであると思います。自分に絶望することは世
界に絶望することなのですが、それでも私は絶望する人間を信じ、一握りのみすぼらし
い希望の存在を信じたいと思います。

 演劇の宇宙船は何処に帰還するのか? それは持久的な反復訓練としての協働的世界
形成の場所であると思われます。PERFORMING JUNKの空間と時間に挑発
され、おもいつきのままにワープロをうってみました。長い手紙になったのは性的人間
である私がPERFOMING JUNKの可能性のある若いエネルギーに対決せんと
したからです。ginger cafe´の今後の実験欲望と未知との遭遇に期待して
います。


 追伸  8月9日(日)NHK教育テレビ芸術劇場、蜷川幸雄演出オペラ「さまよえ
るオランダ人」を見ました。ワーグナー世界と対決し、ヨーロッパオペラ歌手と日本オ
ペラ歌手の協働による劇世界の構築は感動しましたが、巨大な貿易航海船とオランダ人
が乗る幽霊船が現出し、蜷川がもつ充満的エネルギーとダイナミック躍動空間は表出し
ていましたが、それは演劇の「船」的構造ではありませんでした。建造の空間と時間で
ある物語の構造にあったのです。
 続いて15日、劇団DreamDrunkersの「夜の秋」を体験しました。結語
の回収のされかたに注目しましたが、ナルシズムとマザー的愛の構造から脱出し、衛星
通信電話回線都市の構造と、そのデジタルドームの内部で無防備のまま生成する青春像
の等身大・生の現在を観客に投企する結語でありました。私は嬉しくなりました。
 若い集団的創造力のたくましい飛躍と他者との回路が開かれた主体形成を発見したか
らです。

 『想像力の起源は舟である。洪水と舟の伝承は、古代から世界各地に埋もれていた』

                 1992-8-11 塚原 勝美



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2000年07月07日 13時08分57秒

90年代総括−新宿梁山泊92年演劇とは何か



SUB:場所・人間・演劇     
新宿梁山泊92年9月公演「リュウの歌」感想
                                      
(255行ー18029)                 塚原勝美
    
 テキスト存在とは何か?それは固有の人間存在がテキストそのものであるというこ
とである。学問から程遠い、われわれ民衆にとって、学ぶべき大学とは社会であり、
場所と格闘する人間こそが教師である。ロシア文学者ゴーリキーの言葉は私の中で生
きている。労働者の協働形態とは教え・教えられる伝導にある。日本の現在において
は階層としての知識人などもはや存在しない。だから知識人攻撃をしたところで、主
体はどうしようもない虚無に落下するだけであろう。問題はマス・メディアや知識人
たちの文体や批評構造には何ひとつ期待はしないという、腹のくくり方である。

 やはり日本のマス・メディアと批評構造は、昭和から平成の記号代替わりに置いて、
日本的平面知覚に回収されてしまい、本質を追及する言葉を自壊させたのである。そ
れはおのれの知的実存世界を自ら崩壊させ、現世利権の古代部族構造に総屈服したこ
とでもある。記録者は現象を回収し本質を追及するのであるが、この現象が永遠につ
ながるメディア・レイプとして一般・画一化・規格化の深層空間に回収されれば、記
録者はもはやテキスト存在を表出することはできない。テキスト存在とは場所と格闘
する人間のことである。その意味で演劇はダイレクトに場所と人間を表出する。こう
して演劇思想とは場所と人間の固有の関係性を思考し、言語の連結・連動によって、
現在と肉体関係を結ぶ。

 ここでは新宿梁山泊9月公演「リュウの歌」と場所性を思考していきたい。演劇に
とって過去のできごとは交換のプロローグであり、現在のできごとはエピローグであ
る。そして演劇の空間は未来を胎動させる。演劇を語るものは記憶装置を呼出し、す
でに過ぎ去ったある演劇の時間と空間に、己の身体と妄想をファクさせ、ある固有の
空間世界を物語るのである。場所・人間・演劇とは三者連関構造に生成する。
                   *
 金久美子(キム・スンジャ)にあえる。なつかしい人間と再会するかのように私は
浅草フランス座に歩いていた。金久美子を初めて見たのは俳優座劇場であった。82
年の夏、黒テント「灰とダイヤモンド」に彼女は出演していた。その時私は舞台に仮
設された階段式の観客席から舞台を上から見降ろす形で体験していた。金久美子はま
だ恥ずかしさが抜けていない役者であったように思える。あれから10年がたった。
92年春、テレビで金久美子を見た。私は彼女の額が好きになった。私は思考する女
の額が好きなのである。

 「日本民衆からの真の叫び声はあるのか?」黒テントが発行していたA5版の小雑
誌に、韓国民衆演劇マダン劇の報告が掲載されていた。82年の頃で、私の遺伝子は
発動した。私の存在を投企したこの言葉は、場所と人間をめぐるテキスト存在となっ
た。黒テントから私は民衆的想像力の存在を学んでいったと思う。

92年夏、フジテレビ深夜放送のドキュメンタリーで、金久美子を見た。チョゴリ
を着た彼女は美しかった。「私達の演劇は日本の現在を表現する」NHKの朝のニ
ュース番組でのインタビューで彼女は答えていたが、フジテレビのドキュメンタリ
ーでも、私は彼女の光のような言葉に魅せられた。

 浅草フランス座で私は金久美子の声と身体を感受しながら、新宿梁山泊における彼
女の場所性を思った。私がここでいう場所性とは、ある人間がある集団である位置を
独占化しようとする、アトミズム政治的な意味での場所ではない。歴史的に生成させ
てきた人格としての場所である。私がここでいう場所とは協働的世界形成の格闘とし
ての現在のことである。近藤優花・村松恭子たち新宿梁山泊の若手女優人は、声の質
と身体の質において、金久美子が切り開いた地平を継承し飛躍させようとしているよ
うに思える。私は彼女たちの鍛えられた声の質が好きだ。草原の匂いがするのである。

 ダンボール城の高台において、近藤優花が演じたリュウの死にざまを、抱きかかえ
た金久美子はすぐ近くから、顔にライトを浴びていた。それは幻想には程遠い金久美
子のリアリズムと彼女の現在が、私には映像化された。彼女は恥ずかしさに揺らぎな
がらも自己存在の現在と観客存在の現在を、裸と裸の対決として連結連動しようとし
たのではないかと今、私は思う。10年前の「灰とダイヤモンド」の金久美子もそう
であったが、彼女は揺らぎを感受させる女優である。この揺らぎとは主体形成途上者
の背骨のエネルギーといってもよいだろう。

 私は格闘し対決するものとして、金久美子に注目していくだろう。彼女は世界を体
験している、しかし私は今だ世界を体験していない。彼女はすでにテキスト存在とし
て表出している。しかし私は今だサブ・テキストと妄想の過程に閉じ込められている。
私の金久美子に対する欲望は、それがモンゴル草原でも中国でも韓国南部でも日本で
も、古代東アジアに、動的中心の移動として、馬と鉄と風と人間が、一心同体となっ
て活躍した、騎馬民族の女王またはシャーマンを演じる彼女をいつか感受したいとゆ
う妄想にある。天と場所と人間の動的中心の移動その関係構造を、東アジアそのもの
のダイナミズムを体現する女として彼女が演じたとき、私は彼女の白い長い足に唇を
押しつけなめまわし、仮想現実においてセックスをするだろう。騎馬民族の戦闘甲を
とったとき、金久美子の長い黒髪は、ハラリと肩に落ち風に揺らぐのだ。その時、天
幕の窓からは広大な真昼の草原が表出し、天幕の外に出た金久美子の天には圧倒的な
星がきらめいているのである。

 演劇を語る言葉とは、観客と役者の妄想の肥大化においてしか生成はしない。今や
演劇の客観的批評など存在しないし、今だ通用しているとすれば、それはスターリン
言語であり、唯一、日本システムがスターリン統制資本主義であることを持って、主
体欠落の言語が生き延びているだけなのである。裸と裸の対決、それこそが演劇を語
る言葉なのであり、テキスト存在として表出できるのである。民衆演劇とは観客と役
者の思い入れ・思い込みによってのみ生成する。なぜならわれわれ貧乏人である民衆
は、数多くの演劇を体験できない。演劇批評誌「MUNSKS」の佐伯隆幸の「劇場
日誌・パリ篇」によって私は民衆演劇とは何かを逆説的に教えられた。 ・・
 
 = ある階級の「ゲストゥス」とか、「集団的想像力」とでもいうもの・いまなら、
きっと集団心性という・ の似姿としての劇場。わたしはどうもその関係性に関心があ
るのだ。(略) 安い席をもとめて売場のオバサンとやりとりあって、憤然と帰ってい
った老婆。クリスマスにフェードーを観ようとすると同時に自分の懐具合に徹底して
こだわる情熱。わたしはそれをいいと思う。悲しいかな、わたしには、これだけの芝
居を観ていて、そうした生活としての演劇がない。まあそれはともかくとしても、老
婆にはとんと無愛想だった売場のオバサンは、高い席を買うわれわれには、一転、手
の平を返すような微笑みを振り向けた。わたしは、ああマリニーもブルジョア劇場だ
なと当たり前のことを思った。ことのついでにいっておくと、こういう微笑みはこの
頃よく見かける。それどころか、われわれサル・ジャポネは、金を払う場では、いつ
もこういう微笑みで遇されているのではないか。=・・
                             佐伯隆幸      
         

 全世界にはこうした老婆や私のように、徹底して脳の計算装置は自分が現在、生存
維持のための通貨簿記を、シュミレーションしながら、演劇や映画を観る人間が存在
している。観劇代にビビリながら金を払うのだ。こうした通貨簿記をなんら脳の計算
装置に回路を持つことなく、生存の通貨簿記から解放され、安心して観劇できる人間
は、絶対的に少数者であろう。全世界の絶対多数者は、観劇に払った金は、何倍にし
ても取り返す、ふとどきな、がめつい、根性を持って楽しもうとするのである。こう
して民衆演劇は、観客の妄想と思い込みが限りなく肥大化する。役者と観客の腹のく
くった、騙しあいこそ、緊張した情熱なのだ。

 村上龍は日本の近代から現代文学は、病気と貧困の物語生成であったと、主張して
いる。しかし彼は、病気と貧困こそが戦略的準備のエレルギーであることを忘れてい
る。問題は日本のサブ・テキスト構造こそ憎悪するべきなのだ。それが上部であり下
部であれ、したたかな悪魔の如きテキスト存在と人間を、日本サブ・テキスト文体は
隠蔽してきたのである。堤清二の感性と趣味的西武文化人の実態が、もろくも自壊し、
渋谷東急文化人と池袋西武文化人の、高度消費文化とは、高級品の買いあさりであり、
どちらも経営スキャンダルの下品な人格を、テキスト存在として表出した。要するに
彼ら趣味的文化人が領導してきた80年代の浮かれたバブル気分とは、何ら歴史に蓄
積できぬ無作為の権力だったのである。戦略的準備なき浮ついた気分であり、ヘドロ
の死んだ湖に、底から現出するガスの泡だったのだ。消費広告戦略を構築してきた鉄
パイプ足場の根本は、腐食し立ち腐れと生成し、巨大組織の背骨はへし折られ瓦壊し
ようとしている。

 しかし今から戦略的後退をしようとしても、遅いであろう。日本スターリン資本主
義の日本的経営その巨大組織は、かつての日本軍と同じ運命をたどるであろう。中国
大陸と東南アジアにおいて戦線を拡大した日本軍は、毛沢東反日坑戦戦略と、アング
ロ・サクソン各個撃破・陣地奪回戦略によって、徹底して敗北させられてきたのであ
る。中国大陸では、10万人から延安にたどりついたときは1万人しか生き残ること
ができなかった革命軍が、この長征という戦略的後退によって生成させたガイストに
よって、日本軍の戦線をズタズタに分断した。この中国戦線の日本兵は生き残れたが、
東南アジア戦線では90%がアングロ・サクソンの戦略によって殲滅させられてしま
った。アングロ・サクソンとは固有の闘争者であり、一度彼らがおのれの生死観にお
いて戦争を決意すれば、徹底して敵を壊滅させる。

 日本スターリン資本主義の巨大組織は、大日本帝国軍隊の敗北をリアリズムにおい
て総括してこなかったのである。70年代の気分とは、周恩来によって、侵略戦争の
賠償請求から解放されたことによる、他者要因から生成した経済主義であった。日本
イデオロギーとそのシステムは、日清戦争により、中国から巨額の戦争賠償金を収奪
し、その資金の活用により、世界経済に伸し上がっていった歴史を隠蔽し、USAの
世界戦略を利用して、中国民衆に支払わなくてはならない損害賠償金をチャラにした
のである。何とゆう自己欺瞞・他者欺瞞の外交戦略であろうか?

 しかし日本経済の幻想が、夢の残骸として立ち腐れしつつある90年代は、いかな
る意味構造においても、70年代80年代の浮かれた気分に止めをさすだろう。その
歴史が自己欺瞞・他者欺瞞の歴史であろうが、結語は必ず表出するのだ。私の現在の
精神的危機とは、終わりの始まりの過度期に、自己動物的本能が未来から規定されて
いることによる。

 記録者の原点とは皇帝権力に、おのれのきんたまを切って落されても、徹底した執
念で歴史を叙述した、司馬遷「史記」の表出形態であろう。ある体系を創造するため
には十年単位で仕事を孤立無援でしなくてはならない。クラウゼッヴィツの「戦争論
」、マルクス「資本論」、こうした人間の長期持久のパワーに私は興味がある。

 新宿梁山泊のシンボルは龍である。司馬遷「史記」の言葉は蛇身人首で神聖の徳が
ある神龍から物語が開始される。龍とは人間に言葉を伝導する神話的動物なのである。
この11月初頭、日比谷通りの松岡美術館で中国中世の水墨画を観た。荒々しいユー
ラシア大陸の空間が記録されているのである。仙人画であっても他者関係としての空
間の匂いがあるのだ。本質が持つテキスト存在と人間を、力ずよく感受できるのであ
る。中国水墨画を模倣したサブ・テキストの日本画は、あらかじめ他者関係としての
空間が、隠蔽されナルシズムの生成として歪曲されてきた。テキスト存在として表出
したのは、鎌倉時代の美術である。江戸時代においてはより空間が消却され、平面の
単一化として形態化される。

 圧倒的な日本コミック雑誌の発行部数と、消費する読者の平面知覚、そのナルシズ
ム構造は江戸時代からの延長形態にある。日本の映画・テレビ番組で世界に売れるの
は、唯一アニメーションである。平面の線画とその色づけによる動画。他者関係性を
隠蔽する平面知覚こそ、日本イデオロギーの本質なのである。しかしもはや日本語を
読み書き話せる他者は、世界に数多くなってきた。彼らの空間知覚は、これまで日本
が隠蔽してきた空間をあばくであろう。日本スターリン資本主義のマフィア構造をあ
ばいたのも彼ら西洋人エコノミスト・ジャナーリストとしての他者である。記録者と
は固有の空間と場所と人間を教え伝導する人間である。日本のマス・メディアが本質
的な情報を、われわれ貧乏人に流さなくても、「島」にとざされた民衆はこうした他
者から本質的な情報を受信し、この「島」の構造を相対化することができるのである。
もはや、日本語によって世界から日本システムを隠しとうしてきた構造は、日本語を
話し読み書きできる圧倒的な在日国際人の出現によって崩壊している。

 新宿梁山泊の「リユウの歌」は場所性をめぐる演劇であった。江戸という世界都市
の形成において、台東区浅草一帯は下層民衆の町として、身分制度化されてきた。
「リュウの歌」は山谷の演劇でもあったのである。プロローグはフランス座前の路上
演劇からはじまった。梶村ともみがホームレスとして、観客の後に並んでいた私の前
に現われたとき、寿町の恵子さんが何故ここにいるのだろう?と、私の記憶装置・判
断回路は混乱してしまった。釜ガ崎で見た人だろうか? それとも笹島で見た人だろう
か?しかし寿町の恵子さんに似ている。私は梶村ともみがフランス座の舞台に現われ
たのを見て、はじめて彼女が役者であったことを知覚できたのであった。

 私はプロローグの路上演劇、リアリズムあるホームレス労働者として登場した彼女
の出現に緊張した。寄せ場は私が仲間達と労働し生活してきた場所であったからであ
る。浅草は山谷の労働者が歩くところであり、梶村ともみが演じた人間がフランス座
の路上に存在していたとしてもおかしくはない。梶村ともみに衝撃を受けた私の構造
こそ問題なのである。私の動揺した身体は、すぐ近くにいた鄭義信(チョンウイシン
)によって確認されたにちがいない。新宿梁山泊と私の関係はおそらくテキスト存在
と人間としての格闘の関係なのである。演劇のリアリズムとは場所に閉じ込められ、
場所世界と生活そのものが生存闘争であるテキスト存在としての人間の空間表出であ
ることを、私は梶村ともみから教えられた。しかし彼女はもっと役者として腹をくく
るべきであろう。彼女はやがて路地のはじでうつむいてしまったからである。寄せ場
で生存闘争をしている人間は、市民社会の人間に対してうつむいたりはしない。もっ
と対決的なのだ。路上における梶村ともみの武装的身体は最後まで貫徹されるべきで
あったと思う。

 しかし私は主体の破産と重いうつ病に落ち込み、寄せ場の仲間達の前から逃亡した
のである。動的中心が移動してしまった私は、いかに残酷な人間・裏切りもの・最低
な人間・非人間とののしられようと、寄せ場に労働者として復帰することはできぬで
あろう。不況で寄せ場には、経済の構造的矛盾が押し寄せ、労働者の生存はおびやか
されている。街頭で日雇い労働者は殺されていく、むきだしの日本経済。
しかし私は復帰できない。私は最もずるい卑怯な人間なのである。

 ビルの谷間に展開されたダンボール城はおそらく、90年代に起こるであろう関東
大震災後の世界である。巨大ビルのみが生き延び、荒野と化したその舞台装置のはじ
に、キリストの顔が見えた。

 衛生管理都市を推進する実戦部隊長を演じた朱源実は、かつて「光る風」からナン
センスギャグまんがへと動的中心を激しく移動させた、山上たつひこ的世界を表出さ
せたと思う。「それからの愛しのメディア」においても、不動産業を倒産させ、労働
者へと転生した彼の姿をみて、私の記憶装置は寄せ場から朝早く横浜港に向かう港湾
労働者を引き出した。演劇のコスチュームとは情報類型としての装置なのである。

 朱源実に対する私の欲望は、彼がさらに身体を鍛え、いつか韓国南部の古代騎馬民
族が身に着けていた、鉄の戦闘鎧を取り込んで欲しいとゆうことである。全州中央舞
台の役者は、実に古代騎馬民族的な骨格を感受させてくれた。鉄と人間は馬と人間の
関係のように一心同体であったのである。

 近藤優花のエネルギーは女のエロスを切り開いたように思える。テキスト存在と人
間それは原始の裸像であり未来の裸像なのだ。裸力の対決それが演劇の役者と観客の
交換なのかもしれない。紫陽花の中に一体化していた近藤優花は美しかったが、「リ
ュウの歌」のラストシーンも輝いていた。自然が終焉した今日、植物の対話は演劇の
力によって復活するのかもしれない。

 金久美子がその樹を見あがていたとき、私は幼少の頃の故郷の秋、風に頭をおどら
せる、黄金の稲、田園を思い出していた。1961年、豊田小学2年生であった私は、
小学校からの帰り道その美しい黄金の稲の田に、引き寄せられ田の中を駆けずりまわ
った。しかしそれは農村にとって罪だったのである。翌日、私は担任の先生から耳を
ひっぱりあげられ身体に罰を受けた。学校に通報した人は、何故その場で注意してく
れなかったのだろうか?と、私は不思議だった。街道があるその豊田村から、山を越
さねばならぬ場所、山に囲まれた小さな集落「ましろく」に住んでいた私たちは、豊
田村から見てあるテキスト存在であったのである。田園の動的中心に対して、私たち
は不気味な山の動的中心であったのだ。

 「リュウの歌」の結語、イミテーシュンに輝く大きな樹木は、私から山が遊び場だ
った遺伝子を呼び起こしたのである。私の遺伝子は山のダイナミズムによって生成さ
せられたといってよい。現在の「ましろく」の山は、東京の不動産企業に買い占めら
れ、宅地造成へと変貌してしまった。しかし私は消却された山の記憶を必ず復活させ
るだろう。それが私にとってのテキスト存在と人間である。その時はじめて私は、金
守珍(キム・スジン)、鄭義信、小檜山洋一たちの物語創造力と対決できるのだ。

 私にとって方法としての相対は、韓国の詩論として70年代初期に出版された「民
衆の声」に教えられた矛盾と矛盾の衝突を、この日本の場所で方法として記録する構
造にある。私の相対的表出は主体形成途上者としての方法であり、階級と階級の空間
をテキスト存在として表出させることにある。そのためにマス・メディアのサブ・テ
キストを盗みまくり、意味構造を逆転させ、むきだしの「現」の空間に集約させるの
である。本質とは執念のパワーの連結・連動にあるのだが、いかに本質なき日本のサ
ブ・テキスト結語の先には、さらなる先によって回収されてしまうかを、固有の事実
としてむきだしにすることこそ私の欲望形態である。

 固有の場所との格闘、それが演劇のリアリズムを生成させる。私が言うリアリズム
とは、空間のことである。新宿梁山泊の「リュウの歌」は、山谷・吉原・浅草一帯の
歴史と人間の格闘構造・場所を演劇の動的中心によって回収し、場所と人間の情念と
幻想を昇華させたように私には思えた。場所には人間と物質の情念と幻想が渦巻き、
それがテキスト存在と人間の動的中心を生成させる。固有の場所とは、人間と生物・
植物・物質の情念と幻想が幾層にも形成されているのである。80年代とは行政官僚
とスターリン資本主義が連結・連動したマフィア構造による場所の占領と変貌であっ
たが、場所を確保せねば生き残れない90年代の現代演劇は、揺らぎつつも動的中心
を形成し、場所の回収と場所の身体的言語の昇華に向かっているように思えてならな
い。

 固有の男と女には,けして一般には回収されない物語がある。人間にとって最大のテ
キスト存在とは誰でもない自分自身である。私は幼少のころから心という空間が不思
議でしかたがなかった。それは対話すれば対話するほど深いのである。いつからか私
は自分のこころと遊ぶようになってしまった。この私のこころの空間と他者のこころ
の空間はどう違うのだろうか? 私は今でもわからない。こころとこころの出合いと
自己が問われるこころの関係は緊張する。この緊張から現代演劇が逃亡したとき、そ
の向こうにまっているのは「飼い慣らされた死」である。

 私は現場からの逃亡者であるが、すくなくても飼い慣らされた死は拒否したい。ア
ダムとイブが失楽園に追い出されたように、私ももうすぐ世界と出会うだろう。その
世界とは何か? おのれの腹をくくり、自己存在をテキスト存在へと表出させること
のできる、緊張したそれでいて、なおかつ激励される関係の世界である。この固有と
はかけがいのない固有なのである。新宿梁山泊は民衆の辺境の場所へと空間と時間を
置き、そこから固有の物語を立ち上がらせる。そこに私は感銘する。しかし私の欲望
は民衆の辺境の場所と、同時多発的に進行しているローマ帝国の執行人たちの円卓、
そのもうひとつの辺境をかいまみせてもらいたいのである。その場所が永遠に隠され
ている以上、そのテキスト存在は想像力の辺境から幕を切って落とし、むきだしにせ
ねば、全体空間をめぐる演劇へと上昇することはできない。司馬遷がなにゆえに龍神
から「史記」を叙述したのか? その答を私は求めていく。

           1992,12,04








トップへ 2000年07月05日 21時18分21秒

90年代総括−映像と表層・最後の人間
SUB:映像と表層

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映像と表層・最後の人間 世界同時基調色の現在と今後の予測   塚原 勝美

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 アメリカ新大統領に当選したクリントン戦略のキーワード色は青系統の色で
あった。それは彼らの勝利宣言集会をおもいだせばよい。クリントン氏・ゴア氏
両人とも、いずれも濃紺のコスチュームであり、弁護士のヒスラー夫人にいたっ
ては、鮮やかなコバルト・ブルーだったのである。日本においても現在、青系統
の印刷インクが大量に使用されている。工場の生産が追いつかないそうである。

 さらに私が注目したのは、ゴア氏夫人のコスチュームであった。その色は明る
いピンク色であり、世界同時基調色の現在と今後の予測を妄想するキーワードに
なった。さらに注目すべき色が、その勝利宣言集会では表出していた。選挙参謀
ジエームズ・カービルは明るいグリーンのジャンパーを着ていた。

 私の妄想によれば、世界同時的表層空間の基調色は青緑色であり、それはおそ
らく1995年まで続くであろう。1995年以降は赤を基調とした赤茶系統の
色になるはずである。現在アメリカンUSA哲学はヘーゲルをよびだしマルクスさえ
もよびだそうとしているらしい。これは柄谷行人の動物的直感から教えられた説
であるが。世界資本主義の構造的不況は、有限的な地球資源の限界と、産業革命
以降のエネルギー消費の爆発とその展開に規定されて、人間の場所は喪失し荒廃
しつつある。遠藤彰子展のエピローグに表出されていたのは、燃える居住空間で
あった。われわれは今、凶暴的でむきだしの空間へと向かっている。

 このような対決構造による世界はただ、テキスト存在しか生き残れない。マル
クスのテキストは再度、アメリカから復活するだろう。80年代黒の基調色は、
とうに過ぎ去っているのである。ゴア夫人のコスチュームである赤系統色は、コ
バルト・ブルーと濃紺の全面的展開の後に流行色となるはずである。それは19
95年以降の空間を予測する。

 もはや世界同時的空間の色彩はこの1992年8月において、動的中心はダイ
ナミックに移動してしまったのだ。色彩と人間、その関係性とは何か?私がここ
でめざすのは、このような妄想である。女の動物的本能はある時代を飛び越すこ
とがある。それは女の身体%%%%構造が宇宙と連結・連動しているからだろう。こ
れは大江健三郎の文学再入門から教えられたことでもあるが。男の動物的本能を
鍛えるためには、おのれの地獄と孤独・創造的破壊の性的人間として、現代の恐
れるべき表層空間と格闘するしかない。社会関係性にしか存立できない男はだだ
社会によってしか訓練されないからである。


「青緑色から赤茶色へ」これが1995年以降の私の妄想のキーワード
であった。しかしその色の形態は自然色ではない。古代以来、人間が扱ってきた色
彩は第2自然としての加工物質であった。鉱物から金属を抽出し、銅・鉄を加工し
てきた人間は、植物のエキスを抽出し色彩も加工してきたのである。また粘土をこ
ねくりまわし、それを高温で焼くことによって器を加工してきたのである。

 第1自然の源態から第2自然へと加工し変貌させる者、それが人間である。色彩
と人間の関係とは、物質と人間の関係のことに他ならない。小学生の頃、源 頼朝
がたちよったという、故郷の神社で、夏休みよく遊んだ。本堂の建物の壁には地獄
絵が一面に描かれていた。それは北関東の荒々しい風土とよく合っていた。私たち
子どもは、恐れながらそれを「これは鬼だんべえ。人間が食われていらあ。それに
しても、おっかねえなあ」それはガキ愚連隊にとって、理解不能の他者存在であっ
た。古い木造建築の威厳がある壁。そこにかすれながら描かれていた赤茶色の火。
死そのものの畏怖。やがてガキ愚連隊はその神社で「おにごっこ」して遊ぶのであ
る。畏怖の場所でいつもガキ愚連隊は遊んでいた。物質と人間の関係をこどもは遊
びの冒険の過程で身体訓練していく。

 その地獄絵はおそらく鎌倉時代に描かれたものであろか?鎌倉時代は京都という
それまでの日本の政治・経済・文化に対して、創造的破壊を試みた特異な空間であ
ったと思う。京都の貴族政治はつねに高度戦略を発動しながら、鎌倉という場所を
潰そうとしていたのである。鎌倉はつねにゆらぎのまっただなかにあった。こうし
た二重権力の裂け目から、鎌倉仏教に集約される民衆思想と民衆美術は誕生する。
鈴木大拙「日本的霊精」によれば、平家と源氏による徹底した内戦が、民衆にはじ
めて内省と省察をもたらし、鎌倉仏教を表出したと説明されている。

 「ゆらぎ」そのものは、民衆の試行と芸術を表出する。日本が誕生した7世紀の
東アジアもダイナミックにゆらいでいたが、鎌倉時代もユーラシア大陸ではチンギ
ス・ハーンによって統一されたモンゴル騎馬軍団が、ヨーロッパ・ロシア・インド
イスラム・アラブに「すべての都市文明を草原にもどしてやる」と襲いかかり、世
界帝国のエネルギー生成過程にあった。この時代の世界同時的基調色と動的中心は
東アジア・モンゴル草原にあった。

 この時代ヨーロッパは4人に一人は死んだという「死の舞踏」としてあるペスト
地獄絵に突入しつつあった。場所と場所の連結・連動として生成する人類史は同時
性がある。鎌倉時代の地獄絵はまたヨーロッパ民衆の空間でもあったのである。や
がてキリスト教・ヨーロッパはペストとの死闘に打ち勝ち、イタリア・ルネサンス
を表出していく。こうしてヨーロッパ絵画の源態は平面知覚から空間知覚へと飛躍
していくのである。おのれの世界が滅亡してしまうかもしれない地獄の試練は、古
代ギリシア哲学・美術の再発見に向かい、テキスト存在との対話は、おのれが立つ
空間を見据えるという他者存在を前提とする人間の誕生でもある。

 人間の精神その基底には、ある色彩トーンが存在している。日本的精神の基底に
ある色彩トーンは木工としての茶色系統であろう。ヨーロッパ精神の基底のある色
彩トーンは石工としてある白灰系統ではないかと思える。われわれの日常をとりま
く色彩は、通貨のように生活に一体化しているが、色彩は通貨が誕生する前に存在
していた。おそらく人類は色彩知覚を、第1自然を加工し第2自然を創造する過程
において、言語とともに生成させていったのであろう。
 

  色彩とは物質と人間の関係であり、おのれの世界が滅びてしまうかもし
れないという地獄絵を表出した鎌倉時代、それに場所として世界同時的に、連結
連動していた、ヨーロッパ・ペストの死闘の時代を妄想しました。しかしその後
の展開は、いかにその地獄絵をある共同体の人間がくぐり抜けたのかで決定され
ると思います。

 やがて大航海時代によって新大陸を発見し、世界の円環を形成させた西ヨーロ
ッパ遺伝子のパワーは、まちがいなくペストとの死闘によって源態から飛躍を遂
げたのです。それまでヨーロッパは世界の周辺であり、文化形態も遅れた貧困な
地域であったのです。古代ギリシア文明とローマ帝国の遺産を引き継いだのは、
ローマ帝国の雇兵としての部族であり、その内部でエネルギーを蓄積し、やがて
西ローマ帝国を滅ぼしたヨーロッパではありませんでした。その遺産を引き継い
だのはユダヤ民族であり、イスラム帝国であったのです。ヨーロッパが引き継い
だのはキリスト教であったのです。そのシンボルとして十字架は、部族戦争と体
力のみで生き抜いてきた彼らのパワーの象徴なのです。

 その十字架に吊るされた処刑されているキリスト像は、ヨーロッパ部族精神の
戦闘的精神としての基層を、ある意味で隠ぺいするために、西ローマ帝国を滅亡
させた後に制度化されたのではないかと、私は妄想しています。ヨーロッパが今
日の世界史を制覇するまで、どれほどの固有の文明を滅ぼしてきたかを思い出せ
ば、彼らの戦闘精神のパワーに私は驚嘆してしまいます。

 まず西ローマ帝国を滅亡させた彼らは新た成る敵を発見するまで、停滞してい
ます。7世紀のイスラムパワーの登場まで、彼らは貧困な土地を改良していまし
た。この時期はまさに飢えとの闘争であり、おのれの遺伝子を絶やさぬ為、人肉
さえも喰っていたのであります。彼らの貧困な土地に比べれば「島」としての日
本は森林と豊富な水量に恵まれた豊かな土地でありました。それゆえに弥生人と
よばれるユーラシア大陸の騎馬民族は移住してきたのでした。

 彼らヨーロッパ戦闘精神は強大な敵を発見したときに、エネルギーは根源から
呼び起こさせます。十字軍を遠征させた、長期に渡るイスラムとの戦争は、彼ら
にギリシア文明の発見をうながしました。他者との闘争をとうし他者から学ぶこ
とこそ彼らの主体形成なのです。H・R・ギーガーの「ネクロノミコン」は、こ
うしたヨーロッパ精神の遺伝子、根源としての基層をテキスト存在として表出し
たのではないかと私には思えてなりません。それは未来を暗示させる空間である
と同時に、ヨーロッパを誕生させた古代的なのです。

 おそらくイタリア・ルネサンスはイスラムという他者が存在せねば表出しなか
ったし、モンゴル騎馬軍団の地中海遠征を挫折させたのはイスラム軍であったの
です。イスラム軍が東アジア騎馬軍団によって壊滅させられていたのなら、ヨー
ロッパは、ロシアのごとくモンゴルのくびきを打たれていたかもしれません。そ
れは芸術の形態もちがっていたはずです。

 つまり色彩が物質と人間の関係であるということは、同時に固有の場所をめぐ
る、共同体と共同体の戦争も含めた交通関係その世界史的な場所と人間の営み、
その空間の記録に存在しているのではないかと私は妄想するのです。いったい地
球を発見し、世界を制覇したヨーロッパ精神と文化形態、、芸術形態とは何か?
他者存在としてのヨーロッパとは、どういう遺伝子なのだろう?
   


  色彩とはある共同体と共同体の交通関係であることを妄
想しました。シルクロードとは色彩の道であったのです。すでに7世紀唐帝国はビ
サンチン・東ローマ帝国と交通関係にありました。この8月西部美術館で「シルク
ロード 唐の秘宝展」を体験しました。そこには多くのラクダが、遥か遠い中央ア
ジアの砂漠に想いをよせて、たっていたのです。かつて誇れる冒険者としての商人
達が命がけで切り開いた通商ルートこそ、芸術生成の表層空間であると私は思いま
す。一時期、深層にある思い入れをもって、表層空間を侮蔑する人々が存在しまし
たが、表層こそ思考すべきテキスト存在である、そのことを私は柄谷行人からおし
られました。

 古代は私たちにとって、他者としての表層空間なのです。他者と表層とは私の妄
想のキーワードであります。他者とは自己同一生活と、おのれの深層に%%%%%%され
てしまった国家神学体系から、異質な者として排斥されてしまう存在であり、すで
にメデイア・%%%%%%として、制度化されている日本的市民社会のサブ・テキスト形
態からは理解できぬ人間とその空間を、私は他者と呼びます。

 さらに表層とは、人間関係が激突する、矛盾と矛盾が衝突し、そこで人間は打倒
され、傷ついてしまう場所としての空間です。その場所こそまさに人間の現場なの
です。日本システムの批評装置は、ほぼ壊滅しつつあると私は妄想しています。そ
れは場所性の喪失にほかなりません。表現者がテキスト存在として表出する世界を
受けとめることができず、対話・対決するベクトルなき、消費の純愛はすでに、新
生活・新感性・おいしい知の戦略とやらの西部ー堤 清二的なるものが、壮大なゼ
ロとして内部から否定されているのが現在なのですから。もはや堤 清二的なるも
のは、終えんしているのですから。まさに気分に過ぎなかった芸術のステーテスの
構造は形骸化されてしまったのです。夢の残骸として残ったのは、身体のむくろた
る骸骨でした。すべてはまた純利益の純愛に回収されていくようです。

私は他者としてのヨーロッパを妄想しました。現在ヨーロッパはEC統合
の実験過程にあります。それはブリュッセルEC官僚が民衆的構想力を先取る形で
展開しているのですが、近代民族国家の枠組みを創造的破壊するパワーは、やはり
ヨーロッパの古代基層に存在すると妄想します。何故、西ローマ帝国を滅ぼした彼
らは、その帝国文化を破壊しキリスト教のみを継承したのか?

 その理由は明解です。キリストはローマ軍に精神的レジスタンスとして抗拒し、
孤立無縁で処刑された勇気ある英雄として、ローマ帝国の植民地であったヨーロッ
パの戦闘精神は受け入れたのです。キリストはまさにローマ軍による植民地政策、
その腐敗がもたらした精神構造に、たったひとりの倫理革命者として、立ち向かっ
て行ったのですから。キリストは新しい人間像、あるべき正義にみちた共同体倫理
をテキスト存在として、ローマ軍の植民地政策その圧制と抑圧に苦しんでいた民衆
に指し示して行ったのです。

 ヨーロッパもまた蛮族と帝国から呼ばれ、蛮族がすむ場所と呼ばれ、長期に渡り
ローマ軍に支配されてきました。なんとかこの支配から解放されたいと、ローマ帝
国軍と闘争してきたのです。植民地収奪によって成立しているローマ帝国文化は彼
らにとって、軽蔑すべき腐敗形態だったのです。ヨーロッパが西ローマ帝国を滅ぼ
したとき、すべてを破壊したのは正当な理由があったのです。こうしてキリスト教
は、彼らの試練を根源的にささえる心的エネルギーとして生成したのです。ヨーロ
ッパ芸術とキリスト教は切り離すことなど、できないばかりでなく、根源的な関係
であると私は妄想します。

 和辻哲朗「風土」よると、ヨーロッパの土地は改良しやすかった。それゆえ彼ら
は自然の脅威を恐れることなく、世界の土地をわがものにできると考え、世界を植
民地にすることができた、こう説明していますが、私は嘘であると思います。まっ
たくその逆なのです。原始ヨーロッパの土地は氷河期によって規定され、石ころの
土地だったのです。それゆえにヨーロッパ精神の基層たる石工の色彩トーンは誕生
したのでした。埋まっている膨大な石ころを取り除きながら、ヨーロッパ民衆は土
地を、気がながくなる時間をかけて改良して行ったのです。深層とはまさにこうし
た表層空間の格闘の上に蓄積されて行くのです。

 和辻哲朗「風土」はただ日本的精神風土に光景を回収したのです。それは他者を
理解することではなく、おのれのアトミズムに盆栽のごとく生成させたのかもしれ
ません。しかしもはや日本的回収形態そのサブ・テキスト生成に、終わりがきたこ
とはまちがいありません。キリスト教・ヨーロッパ・アメリカンUSAは、いつまでも
すべてのテキストを隠す日本マフイア政治経済システムの、膨大な黒字構造を見過
ごしたままにしてはおかないでしょう。システムにテキスト存在としてのポリシー
と理念が崩壊していれば、システムはおのずから死滅して行きます。

 もはや日本とは世界の仮想現実なのですから。次回はこの仮想現実をめぐる色彩
とは何か? を妄想したいと思います。仮想現実とは今日の芸術にとって、キーワ
ードになっているし、そこでは最後の人間が笑っているのです。

  他者としてのヨーロッパ、その精神の基層を妄想してきました。それ
はなによりも、いったい日本とは何か?をめぐって妄想したいとする、私の欲望の
ためでありました。庶民の一人である私の人生は敗北と汚辱にまみれた連続の人生
でした。私の幼少のころから父は精神病院に入院しており、父不在のもとで、私の
父とは社会であったのです。つまり日本の社会とその歴史こそが私の父なのです。

 1971年、ある高校生たちの変革の願いが、その父によって打倒されて以来、
私は20年間、父の歴史と現在を思考してきました。まんが少年であった私は、当
時、虫プロが発行していた月刊誌「COM」に連載されていた手塚治氏の「火の鳥」
と、青林堂が発行していた月刊誌「ガロ」に連載されていた「カムイ伝」、これは
白土三平氏による物語でしたが、この大河物語に大きく影響されたのです。ある意
味で私の妄想力は、「火の鳥」と「カムイ伝」によって基礎システムが構築された
のではないかと、両氏に感謝しています。

 そしてさらに、あれは1970年の少年としての最後の夏休みでしたが、大江健
三郎氏の新潮文庫「性的人間・セブンティーン」に衝撃を受けました。それが文学
の出合いであったのです。庶民の典型としていきるはずだった私のナルシズムは、
みごとに創造的破壊されたのです。私は予感しました。性的人間のようにいつかお
れも、電車で%%%%をする人間になるかもしれない。その予感にふるへながら私は、
夏休みが終わると同時に、政治少年としてのセブンティーンとして、全面的に突入
していったのです。夜、私はよく、母が借家であった長屋の奥に増築してくれた2
畳ほどの勉強部屋で、反乱の決意をひきだすべくうなり声をあげました。思えばあ
の時から、私の時間意識・精神はストップしてしまったのです。

 それから20年が経過しました。私の経験は敗北と汚辱にまみれた負の連続であ
りました。つねに精神の危機にあたった私を大江健三郎氏の言葉は励ましてくれま
した。今、私は大江健三郎氏の言葉に感謝をしたいと思います。仮想現実をめぐる
妄想に入る前に私は自己史を追憶しました。そうしなければ、現在の芸術・哲学の
先端的攻防にある仮想現実の前に、私そのものが粉砕されてしまうからです。

 仮想現実の色彩。それが突然としてわれわれの生活空間に飛び込んできたのは、
1992年1月17日でした。いうまでもなく湾岸戦争のUSA軍が全世界を衝撃
に陥れたバグダット空爆です。

「こんにちテクノロジーの発展には圧倒的なものがある。それに比して思想やアート
といったものは、こぢんまりしている。湾岸戦争で<クリスマス・ツリーのよう>
と形容された空爆の光ひとつとってみても、それにまさる美をうみだしたアートな
どはない。いまテクノロジーの影で、思想やアートは無力だ。仮想現実感もしくは
人工現実感とよばれる技術の登場は、この傾向をさらに加速した。」
   電脳社会と仮想現実感     布施英利
                  朝日新聞1992,8,16 読書覧

 バクダット空爆の色彩がアートであり、現代世界の最高の美である、と宣言する
美術批評者の美意識に対し、私は妥協することができません。さらに、思想やアー
トは無力だ、と宣言する構造に対して、私の動物的本能はエイリアンのごとく、表
層皮膚を突き破って、日本システム批評装置の壊滅を予告せざるえないのです。

 いったい仮想現実の色彩とは、はたしてなんだろう? 黒い闇にイミテーション
のごとく表出した、あのバクダット空爆の色彩、その青緑色こそ、メディア・レイ
プ、あるいは身体知覚のボーダレスとしての、仮想現実の色彩であると私は妄想し
ています。それは同時に人類がいまだ森林の樹木の上で、蛇や,は虫類に脅かされな
がら生活していた人類誕生以前の色彩知覚を、仮想現実は呼び起こすのです。人類
の始源的な遺伝子を呼出し、こうして最後の人間は、これまでの人間というフレー
ムを、仮想現実が眠っていた遺伝子を現在に呼び出したことにより、解体されてい
くのです。それはまさに不気味な渦を巻く青緑色の沼であるのです。

 最後の人間が夜間透視機器をつけて不気味に笑っている、映像は黒い闇に浮かび
上がる青緑色の光景でした。映画「羊たちの沈黙」の基調色は、バクダット空爆と
10万人のイラク兵士を埋め殺した陸上戦の基調色と連結・連動していたのです。
こうしてUSA新大統領クリントン戦略の基調色たる青緑色が、いかなる現代世界
を生成させるのかを、予測することは可能となります。

 それはおそらく、レーガン・ブッシュと続いた共和党戦略よりも、現代世界を挑
発と不安・動乱にたたき込むことは間違いありません。ケネディはベトナム戦争と
キューバ革命によって泥沼にはまり込んだ、USA内部のクーデターによって暗殺
されてしまいました。クリントン戦略がその二の舞を踏むとは思いませんが、US
Aの強力な支配圏にある中南米と南アメリカの動的中心は、古代の遺伝子が覚醒し
あらたなる創造的混沌へと移動すると思います。そのときクリントン戦略は世界と
の共存を選択するより、USA第一主義を唱えることは間違いありません。

世界同時基調色の青緑色とは、冬の澄んだ青空ではなく、沼であり海の不気味な
色なのです。さらに仮想現実システムとは、やっかいな人間を忘れさせてくれる
快楽の構造にあり、不均衡・不安定の表層空間によって生成します。それは人間の
アトミズムとナルシズムをくすぐりますが、通貨のように、わが手のぬくもりから
すぐ離れて行きます。そうです。われわれが日常使用している通貨こそ、仮想現実
のもっとも典型的な形態であると私は妄想しています。その紙っぺらはただ、ある
システムの神話によってのみ維持されているにすぎないのですから。国家通貨の色
彩とは、われわれの深層に埋め込まれた仮想現実なのです。ゆえに仮想現実は数字
言語によって人間を殺してしまうこともあるのです。問われていることは人間の誇
りとは何か? その答を模索することに私の妄想はあるのです。

         1992,11,28

2000年07月02日 15時00分18秒

90年代総括−映像と表層
2000年07月02日 14時56分00秒

90年代総括−情報演劇の夏
SUB:情報演劇の夏 1
  PrivaeEiephansClubTheater公演
            1992/8/30 天文館
  「もっと!イルカの生活」 感想 1
                  塚原 勝美
                     
     

 「何時の間にか日が暮れているときがある。あるいは、何時の間に
か夜が明けているときがある。起きていた筈なのにそのあいだの記憶
がない。いや、正しくは、“ぼーっとしていた”記憶だけである。知
人に、“毎日夜の十時から十二時までの記憶がない”というのがいた。
机の前に座っていると知らぬうちに真夜中になっているというのだ。
私は半分心配しつつ、残り半分は嗤っていた。うたたねでもしていた
に違いないと思っていたのだ。けれど、今はわかる。彼女はまぎれも
なく起きていたのだ。そしてしっかりと“ぼーっとしていた”のだ。
振り返って、彼女を愛しく思う。」 仲本サクラ

 「8月も半ば、夏は真っ只中。浜辺には人があふれ、海の家が建ち
並び夏ならではの賑わいをみせる湘南海岸。肌に痛いくらいの熱い太
陽と、焼けた空気に揺れる街。そんなものを横目で眺めがら、モグラ
になったように、暗幕に包まれたここ、天文館に潜り込んでいる、皆
様と私達。」                  馬場明子

 如月小春「夜の学校」遠見裕子「ガーゼ」仲本サクラ「夜の秋」こ
うした女たちの作/演出による演劇はいずれも「ひんやりとした空気」
を表出していた。いずれも消却のデザイン構造である。美術において
は樋口薫が表出した。その絵画の古代銅器鏡的な人物像からは、いず
れも顔・足の身体器官が消却されていた。こうした女たちの動物的本
能が感受し創造した「こころ」というテキスト空間から、私の子宮器
官に射精された種を演劇的思考によって誕生させたとき、日本国家の
消滅が表出してきた。

 人は「バカなことをいってんじゃあねェよ!」と笑うであろう。サ
ブ・テキストからテキスト存在への日本構造変換は1992年8月で
ある。これが終わりの始まりだとする私の妄想は個人的な結論である。
自分が天皇一族の血を継承する者だと医師に物語る父のように、ある
いは私も精神分裂病になっているのかも知れない。しかしいかに人が
笑うとも日本国家の消滅という結語は、1980年から格闘してきた
私の詩的言語の物語において円環を形成している。

 私は固有の女と人間としての%%%%%%%%をした経験は、1975年2
2歳の1年間しかない極めて愛の構造から疎外された男である。しか
し固有の場所とはそれがいかに敗北の連続であったにしろダイナミッ
クに%%%%%%%%してきたつもりである。思考・詩的言語・総じて思想と
は固有場所との格闘構造においてしか表出しない。だからこそ場所に
こだわる演劇に興味があるのである。この8月の熱帯夜に私の禿げ頭
は妄想に噴火をあげていたが、それは私の動物的本能が見えない何物
かの生成を発見しようとしていたからである。

 その生成とは固有としての日本構造が基本から消滅に向けて変換し
た構造であった。第2次世界大戦ではファシズム同盟国として、東ア
ジアの皇帝国として伸し上がろうとした日本は、そのテキストにおい
て敗北した。新回路配線後、テキストは総括されなかったばかりでな
く、「単一民族」を完成させながら、USAのテキストを利用し、サ
ブ・テキストの国家としてエコノミック・アニマルの頂点を1989
年12月に現出させた。日本国内の反体制力をすべて「昭和」から「
平成」への皇帝代替わりに闘争を向けさせながら、制度の動的中心で
ある東京は、警備警察機動隊の戒厳令を敷いたのである。この警察機
動隊の戒厳令に守られながら、政治経済のシステムを支配するマフィ
ア政財界は億単位の通貨を思うがままに動かし、その脳天はユートピ
アとパラダイスに快楽をむさぼっていたのだ。天皇制というテキスト
が必要なのは、こうしたギャンブル・スキャンダル・マフィア政治経
済のサブ・テキストを永遠に隠してくれるからだ。

 マス・メディアは時代的な現象をあおることによって、こうしたマ
フィア構造のサブ・テキストを永遠に隠蔽する。だからこそ巨大な広
告費が彼ら部族成員たちの収益に転がりこむのである。こうして固有
の空間は壊滅させられマス・メディアの平面によって占領されてしま
う。それは同時に思考する人間を苦痛に投げ込むことである。こうし
てわれわれは判断停止・思考停止の平面列島に収容されてしまう。現
代演劇の「ひんやりとした空気」はこうした平面列島を挑発し、変換
してやると言った劇詩人の欲望によって逆襲される。1992年8月
はこうした演劇人たちの欲望によって、平面列島の動的中心は空間列
島へと移動させられてしまったのだ。

 日本は1945年敗戦後から、この92年の47年間、冷戦分割を
利用したサブ・テキストの政治経済社会として生き延びてこれたが、
とうとうこの8月全世界の人間に、マフィアたちの社会構造であるこ
とをテキスト国家として認知されたのである。もはやマフィア政治経
済屋は世界政治から信用されない。キリスト教世界を甘くみてはなら
ない。最後の社会倫理を投げ捨てた国家は、キリスト教世界政治シス
テムによって孤立化させられ、世界十字軍であるUSA西洋同盟の軍
隊によって解体させられる出あろう。

 世界の国家は現在内部に抱えたマフィアと戦争をしているのである。
マフィアはコカインを資金源として国民国家の屋台骨を腐らせようと
しているからである。USAのブッシュがコカイン戦争としてパナマ
に侵略し、大統領であったノリエガ将軍を逮捕し、USAの裁判にか
けたことを忘れてはならない。それほどまでにマフィアのコカインは
USA国家を犯しているのである。ロシア国家においても同様だ。ソ
連共産党のシステムは解体されたが、ソ連マフィアのシステムは解体
されなかった。このソ連マフィアは戦闘機から戦車も売りさばき、コ
カイン・売春まで扱う世界最強のマフィアとなった。

 そしてマフィアたちの地球ネットワークは1分1秒も休むことなく
疾走している。中国のマフィアもUSA・ロシアのマフィアに接近す
るほど伸し上がってくる。中国マフィアは華僑経済圏という東アジア
の歴史的動脈を犯しながら登場してくるであろう。ヨーロッパ・マフ
ィアもユーゴスラビア内戦に死の商人として武器をたれ流しながら収
益をあげている。今後、ユーゴスラビア解体による内戦の長期化によ
り、この内戦形態はヨーロッパに拡大していくであろう。ヨーロッパ
・マフィアはソ連マフィアから戦闘機・戦車・武器を輸入しながら、
ヨーロッパ内戦を踏み台にして巨大化してくるであろう。イタリアに
おいては政治・経済・マス・メディアの上部構造まで犯していたこと
を忘れてはならない。内部に抱えこんだマフィアとの死闘、これこそ
が90年代世界の国民国家政治権力者のまえに突き付けられている表
層空間である。

 ところが日本の独裁政権は、リクルート・証券・金融・共和・佐川
急便スキャンダルにおいて、政権党がマフィア構造そのものであるこ
とを、テキスト存在として世界のキリスト教国家が認識したのである。
彼らからみれば日本人とは理念・原則を腐らせ金にまみれた人間たち
として、すぐさまイメージされる。軽蔑と追放の対象であり、その憎
悪は日本国民国家を世界から消滅させるであろう。日本語が生き残れ
るかどうかの問題は、日本国民国家消滅後、他者の国で詩人・劇詩人
・文学者が、徹底した孤立を背負い、日本語で記録し物語を表出せる
力と欲望が存在するかどうかによって決定されるであろう。

 地球世界の円環を完結し、世界史を誕生させたヨーロッパ。彼らの
一人一人の遺伝子にはペストとの死闘をくぐり抜けてきたパワーがあ
ることを忘れてはならない。この90年代世界の破壊・混沌こそ、ヨ
ーロッパの遺伝子が最も得意とする全面発動の構造なのだ。ヨーロッ
パの遺伝子は歴史的に不均衡空間において鍛えあげられてきたからで
ある。それゆえに個人の格闘・闘争として数々の固有のテキストを表
出してきたのである。いつ固有の自分が没落し消滅するかも知れない。
こうした日常的な危機意識こそヨーロッパ人の身体愛情表現であり、
闘争の形態なのである。

 他者の存在を前提とするヨーロッパ人の空間知覚は、他者の存在を
前提としない日本的平面知覚とまったく層が違う。ヨーロッパの遺伝
子から誕生した毒としての病原菌が南北アメリカ大陸の先史文明民族
・インディアンの人口を壊滅させたことを忘れてはならない。この強
陸なヨーロパの毒は、ほぼアフリカ大陸・南北アメリカ大陸の民族の
歴史を壊滅したのである。このヨーロッパの毒から何とか自分たちの
歴史を破壊されずにすんだのは、イスラム・アラブとアジアのみであ
る。草原のモンゴル軍団がヨーロッパが世界の円環を完結し世界史を
誕生させるまえに、アジアの恐ろしさをヨーロッパの遺伝子にたたき
込んだことが、アジアの歴史蓄積を可能とした。

 その意味で中世史は近代・現代史を物語るうえで決定的に重要なの
だ。長州・薩摩部族連合軍と脱亜入欧論・イデオローグよる日本近代
の誕生は、東アジアの中世史そのものに対して鈍感であったか隠蔽し
たのである。徳川幕藩体制の300年間、歴史学などは皆無であった。
つまり人間の歴史認識構造そのものが欠落していたと言ってよいだろ
う。日本において歴史学とは明治反革命の後、西洋から輸入し誕生さ
せた極めて歴史が浅い学問形態なのである。社会構造が解体崩壊する
とき人間は固有の歴史と対話し対決し固有の思考を形成させる。しか
し求めるべき歴史学が皆無であれば、人間は天皇制の神話物語にアイ
ディンティティを自己同一化し自信を持つ。

 おそらく戦国時代を終焉させた徳川幕藩体制の300年間は、ある
一定の確定された身分的場所で、制度と形式に従属していれば生活出
来た「長いものに巻かれろ」と言った思考停止の空間であったのかも
知れない。ところが鎌倉時代は、己の人間存在と場所を徹底的に見据
えた独自的な思考が、それが仏教に規定されていたとしても、物語・
歌・人間存在論において表出している。天皇制とは神話にあるのでは
なく、京都から常に鎌倉武士政権を転覆する欲望に燃えており、ギラ
ギラとした高度政治戦略を駆使して、鎌倉武士の部族連合を疑心暗鬼
によって分裂し解体するべく全国政治に裏からてをまわしていた現在
の人間であったのである。すべての人間が自己と格闘するテキスト存
在であった。こうした空間は躍動的であり善悪の制度的倫理を越え、
人間の思考と実践的存在は全面的に発動する。老人になっても若い乙
女と寝ることによって人間のエネルギーを吸収していた性的人間・鈴
木大拙による「日本的霊性」は鎌倉時代こそが、民衆の存在を覚醒さ
せたと物語る。

 関東大地震による帝都崩壊後、鎌倉を中心にした湘南地区には多く
の文学者・学者・経営者・財界人が住むようになったが、それは現在
において構造化している。ある特権的地位の場所ということだけでは
ない。この地域の固有の空間は人間の思考を覚醒させる磁場を有して
いるからだ。日本の動的中心を相対化させる思考を形成するためには、
東京から一定離れた場所に身を置く必要があるのかも知れない。老母
と毎日怒鳴り合いをしている私は、ここでは典型的な野蛮人であり、
貧乏人であり、崩壊家族と周りから認識されているが、ふところが深
いのである。おそらく他の場所であったら私達は既に追放されていた
かも知れない。演劇的思考を挑発し、誘発する演劇それが湘南地域の
演劇であろう。しかもその演劇は先端的であり、日本の動的中心の金
玉を握っているのである。

 「もっと!イルカの生活」は観客の想像力に依拠する演劇であった。
マス・メディアの広告においては人間の潜在意識のある欲望を挑発し、
商品への愛を喚起するサブリミナル・テクノロジーが全面的に使用さ
れていることは、ウイルソン・ブライアン・キイが「メディア・レイ
プ」によって暴露した。コスチュームの変換・コラージュの連続・身
体演技による見えない物体の表出、これらの舞台の動的中心は情報演
劇と呼ばれてよいだろう。人間の意識下の意識に入力するサブリミナ
ル・テクノロジーを逆手に取った情報演劇であったのである。

 テレビ視聴率の高さをキープしてきた「国民的アニメ・サザエさん」
の仕事を、77年冬から79年までやったことがある。私の仕事はエ
イケンの下請けとして、コスチュームに色指定をして、内職として自
分の家でセル動画にペイントしてくる主婦としての女たちが持ってき
たセル動画をチェクして、撮影に回す仕事であった。女たちは労働の
割には単価が絶望的に安過ぎる仕事をよくやっていたと思う。私は自
己矛盾に陥りその仕事を止めた。長期的に「サザエさん」が高視聴率
をキープ出来たのは、日本の光景が高速度に変貌するに反して、登場
人物の年齢がストップしていることと、あの丸いチャブ台を囲む家族
のユーモアにある。「サザエさん」の家の装置のいろは一貫として変
わらない。それがカツオの勉強部屋であり、家族が寝るフトンであり、
不変統一色は物語の体系と基礎を形成している。だからこそ子供のこ
ろにみた「サザエさん」と大人になってからみた「サザエさん」の家
と家族の構造は変化していないのである。われわれが自由に色指定出
来るのはただ登場人物のコスチュームのみであった。

 「サザエさん」に現在性が欠落していると思ってはならない。スタ
ッフはサザエさんの家族や登場人物のコスチュームに現在を表出させ
ているのである。私も「サザエさん」家族が小田急線で箱根に旅行す
る物語のため、色指定のため取材に行ったことがある。コスチューム
と現在の気分を表出させるためエイケンのスタッフは今も現在の人間
の日常を鋭く観察しながら情報を「サザエさん」に回収しているので
ある。

 「もっと!イルカの生活」はこうした不変と変化のコスチューム情
報演劇であったと思う。水族館で働くイノウエくんとイルカのゲンイ
チロウくんのみは、不変換のコスチュームであるが、彼らを取り囲む
13人の役者のコスチュームは高度情報化社会のように徹底的に変換
され、人物は怪人二十一面層になる。そう言えば小学校の夏休み、私
が住んでいた村には、まだテレビを持っている家は数少なく、村のガ
キ愚連隊であった私達は、朝はテレビがある農家に集まり子供番組を
みるのである。労働者の家はそのころ60年代前半まだ貧乏だったの
だ。テレビでは何故か正義の味方は仮面や覆面に突然変身するのであ
る。あるパワーを表出するため日常的人物から超越していくのだ。ガ
キ愚連隊もその気になって、遊びの中心であった土と砂利の道路で遊
んだ後、遠くの山や川に探検に出発したのであった。

 人間の脳には麻薬を分泌する回路があり、われわれが眠ることが出
来夢をみられるのはこの麻薬のおかげである。生きた仮想現実として
の演劇はこの脳回路にある麻薬を刺激するのではないか?かくして空
間の変換は空間と時間の詐欺師である役者の欲望によって実現する。
PECTの役者たちの遊びの欲望はこの転回にある。その方法とは映
画のモンタージュ理論にあるのだ。おそらくPECTの集団的想像力
は大胆にも映画の構造を生きた仮想現実の生成に奪い取る盗賊なのだ。

 村上龍「トパーズ」は映画の照明と言う光と影の表出において、深
みのある空間をフィルム化した。東京の%%%%%%%%産業で働く女の青春
の外部を記録したのだ。それは同時に女の青春像の階層分裂だったの
である。彼女を買った男の要求に従属し演じること。こうした%%%%プ
レイはすでに映画「トパーズ」を越えたマス・メディアが現在作り出
している流行現象となっている。欲望は常にマス・メディアによって
盗用され模倣され現象として制度化されていく。巨人東京は独自的な
欲望を何ら表出させることは出来ぬ、欲望の盗用・模倣の大都市なの
だ。かくして世界のテキストはおいしく食べられ、水洗トイレで糞を
たれ流しながら消費されていく。夜、はしゃぎながら東京の街を歩く
企業戦死の群れをみればよい。彼ら青年たちの男の群れには必ず女が
一人か二人いる。つまり彼ら群れてき存在の動的中心は女なのである。
女に明るい笑い声を演じてもらわなければ、彼らの群れは死んでしま
うに違いない。

 村上龍の作品が女たちから支持されているのは理由がある。企業の
女たちはもう制度的な男たちの規格・基準の要求に従属し演じること
に疲れているのだ。惑星間引力を身体リズムに持つ女は、男よりも表
層を縦走的に相対化することが出来る能力がある。彼女たちは部族の
権力を男たちに奪われて以来、千年以上も、サブ・テキストの構造と
制度的な男たちのわがままに従属し演じながら生き延びてきたからで
ある。新世代の女はこうしたサブ・テキストの構造などふざけんじゃ
ァねエよ!と言って、黒いゴミ袋に詰め行政機構に回収させるであろ
う。

 社会構造と価値観の転倒に早く順応出来るのは動物的生命力が強い
女たちである。取り残された男たちは女への%%%%スを解体し同性愛に
はしる。モスクワでは現在男たちの同性愛がブームとなっているそう
である。女たちはドルを獲得するため一生懸命なのだ。ソ連邦解体に
よってあみの目の組織機構ネットワークを維持したのはマフィア組織
だけだった。こうして女の身体は商品と生成する。

 マフィア構造と%%%%%%%%産業の超先進国・日本はどうか?今も女た
ちの身体と回線としてのNTTQ2マスターベーション産業の耳の洗
脳制度的規格・基準知覚は商品である。NTTはQ2サービスでマフ
ィアの資金形成に貢献しているのである。とにかくQ2は装置のみで
NTTから銀行口座に莫大な収益が転がりこむ。3カ月で1千万以上
は軽く銀行口座にNTTから振り込まれるらしい。日本はマフィアた
ちの天国なのだ。こうしたマフィアたちに商品化される女たちは面倒
な人間をやめて、快楽の猿へと進化する。とにかく笑いと合いずちと
ひやかしとあえぎ言語さえあれば男にほめられるのだ。「かわいい・
かわいい」と『ほめ殺し』されるのである。優しく善意の道は地獄へ
と通じているのである。

 しかし人間が快楽の猿へと進化することはどうしても無理がある。
そうなれば人間の遺伝子は自己防衛のため精神を破壊してしまうであ
ろう。人間の身体遺伝子には自爆装置があるのである。この自爆装置
は身体全体を防衛するために、人間の意識・精神世界の表層を破壊す
るのである。かくして日本の巨大な その仮想現実
の内部で『ほめ殺し』されている現在の女たちはやがて廃人として生
成するであろう。精神分裂とは自己防衛装置の発動なのである。人間
の遺伝子は快楽の意識精神の永遠的連続よりも身体の存続を優先させ
る。それが人間遺伝子の政策としての回路なのだ。

 女とは存在がメディアなのだ。そのメディアが廃人への道か?それ
とも人間としてのメディアをめざすのか?こうして女たちの動物的本
能は選択を迫られる。日本の女たちはもはや子供を生まぬであろう。
日本の女たちはあまりにも社会システムの権力を握り占めて離さない
男たちから『ほめ殺し』され、サブ・テキストによってだまされ続け
てきたからだ。こうして新世代の女たちはテキスト存在としての生き
た仮想現実をめざしている。彼女たちの動物的本能は現代演劇を人間
のメディアとして認知したのである。

 今後、現代演劇は権力によってつぶされない限り、新世代の女は観
客として参入し、多様な演劇人を排出させていくだろう。問題は現在
の劇団にその受け皿があるかということである。今、観客として参入
している、この新世代の女の欲望が何処から来たのか?その探求をネ
グレクトし、「おたく、電子・電波人間・自分さがし、幼児的」など
とマス・メディア洗脳言語に身を任せている演劇人は、モスクワの男
たちのように取り残され同性愛に走るに違いない。よく演劇批評家た
ちは日本の若い観客はおとなし過ぎる、観客は死んでいるのだとコケ
おろしているが、それは違う。新世代の観客は身体表現を奪われてき
ただけなのだ。顔と上半身は実におとなしいが、ある演劇が終了する
と新世代の女のきんたま器官は勃起しているのである。新世代の男の
子宮器官はよだれを垂らし開いているのである。だから彼女たち観客
は劇場からなかなか立ち去ろうとしないのだ。外の世界である自己欺
瞞・他者欺瞞の制度的社会には幻滅しているからである。もう少し演
劇の詐欺師たちが創造した時間と空間に浸っていたいのだ。

 「いらっしゃいませ!」私は一瞬、福冨太郎のキャバレー・ハリウ
ッドに来てしまったのではないかと錯覚してしまった。制服のホステ
スたちの出迎えにドキドキしてしまった。劇場に入ると今度は制服の
ホストたちが「いらっしゃいませ!」と頭を下げる。スケベな私の欲
望は水族館ではなくキャバレーの物語が始まるぞ!と妄想していた。
それでもなかなか幕は上がらない。早く幕を開けェ!貧乏人でスケベ
な禿げ頭の私は、1500円でキャバレーを体験出来るなんて安いも
んだ!としきりに計算していたのである。社会の逐電者である私は贅
沢なキャバレー遊びなど永遠に出来ないであろう。今日はもうかった
と、貧乏人根性丸出しで通貨を計算していた。しかし水族館だと思っ
て中学生夏休みの最後を楽しませてやろうと、一緒に来たおいのてま
え、あまりスケベそうな顔に崩れてはならない。私のおいは、現在全
国6万人の同志と共に、中学校の登校拒否を貫徹している人間である。

 イノウエくんがゲンイチロウくんに誘われて連れられて、水族館の
地下に潜り込んだとき幕は上がりキャバレーは始まった。しかし15
人ほどの役者が目のまえに勢揃いすると何故か私は恥ずかしくなって
しまう。イノウエくんは日本一のため息を吐くことの出来る青年であ
る。私も今年の春まで仕事もせず一年半ほどため息ばかり吐いていた。
判断停止の優柔不断はイノウエくんにそっくりである。とにかく私は
パチンコと読書に明け暮れていた。PECT「もっと!イルカの生活」
のキャバレーは映画のモンタージュであった。情報変換の探検演劇で
ある。

 イメージのモンタージュはエイゼンシュタインが方法化したのであ
るが、新橋の800円劇場でみた、「ソウルの虹」「羊たちの沈黙」
はイメージがより空間化され映像のコラージュを生成させている。動
的中心がイメージ交換の複合として、一人の自己完結的な目からみた
光景ではなく、複数の目からみたイメージによって構成されていたの
である。もはや近代的自我の光景など死んでいる。国民経済が世界経
済の動的中心に規定され同時的不均衡として構造化されているように、
イメージの不均衡こそがわれわれの自我の光景なのである。PECT
「もっと!イルカの生活」は現在的な情報と人間の関係性を表出した
のではないか?

 それを大胆にも観客のイメージ回路に「おまえの脳細胞に進入して
やる!」と遊びとしてぶちこんだのである。観客は次ぎから次ぎへと
ある類型の情報を自己回路から劇場空間に呼び出される。役者たちに
よって呼び出されたその情報類型は一人一人違うか、マス・メディア
によって埋め込まれた情報類型である。その埋め込まれている情報類
型はマス・メディア広告産業によって潜在意識に埋め込まれたサブリ
ミナル・テクノロジーによる情報類型だ。かくして劇場は役者たちに
よって呼び出された情報類型の創造的混沌の空間となる。役者こそ人
間としての最大情報探検のメディアである。

 PECT「もっと!イルカの生活」は観客の情報類型を呼出し、そ
れらを同時的に解体させ創造的破壊として、舞台に情報類型の連続を
建築する。こうしてPECTは観客の情報類型を盗む盗賊集団として
遊んだサブリミナル・テクノロジーの詐欺師たちであったのだ。世界
をまたにかけて遊ぶ盗賊・海賊こそがPECTの情報演劇の動的中心
である。観客のイメージから情報類型を呼び出すのが先か?それとも
役者が演じる情報入力が先なのか?おそらくそれらは同時一体的に進
行していたものと思われる。コスチュームの変換に次ぐ変換はかくし
て情報演劇の骨格を形成する重要な武器となる。役者のコスチューム
は観客から情報類型を呼び出す生きた美術であり、生きたコンピュー
ターなのである。かくして天文館は閉じられた小劇場であるのだが、
観客の情報類型が呼び出されることにより、電話・電波回線のごとく
都市全体の回路と接続される。その回路は国民経済を超え世界経済の
回路へと接続されていくのだ。

 PECTの情報演劇は既に国民経済から脱出している。さらに時間
は夜から朝へ向かうのだ。結語はイルカ工場の人々たちの遊びにほん
ろうされながらも、国民経済のおとないしい社畜として自立するかに
見えるイノウエくんが、ぼんやりと沈黙し回転する電気仕掛けの地球
儀と対話している。中嶋浩は発見したのだろう。もはや世界とは東京
デズニーランドではないことを。デズニーランドの都市はもはや終焉
してしまったのだ。私は中嶋浩が最後嘔吐を手で押さえたとき、もし
かしたら私が%%からいつものように屁を屁ってしまったのではないか
と錯覚してしまった。

        1992,12,02
2000年07月01日 17時58分09秒

90年代総括−情報演劇(2)
SUB:情報演劇の夏 2
          P.E.C.T公演
       「もっと!イルカの生活」感想 2
                        塚原 勝美

 PECT「もっと!イルカの生活」感想における私の妄想として結語、
それはやはり中嶋浩の最初のため息と最後の嘔吐である。そのテキスト存
在とは何か?ため息と嘔吐にこそ1992年8月の日本政治経済の表層皮
膚が現出したのではないか?USAは憲法と論争対決をテキストにした社
会である。合衆国憲法がなければ州政府と個人はピストル社会を剥き出し
にして殺し合いを始めるだろう。人間のテキストとは固有の歴史的共同体
の格闘・闘争の蓄積において形態化されている。テキストとは限界を持っ
た現在としての到達地平なのである。それでは自己欺瞞・他者欺瞞のサブ
・テキスト社会構造と明確にし対決するテキスト社会構造はどちらが生き
残るであろう。おそらくUSAはドル暴落を実践的構想力として、世界経
済を創造的破壊と創造的混沌に叩き込みながら生き延びるに違いない。日
本国民経済の動的中心はプラスからマイナスへと移動した。日本の大量失
業時代はまじかに迫っている。現代演劇のため息と嘔吐その延長に、日本
国家の消滅は、ゆっくりとサブ・テキストの幕が切って落とされ、テキス
ト存在の演劇は開始されていく。1992年9月はもはや昨日の構造では
ない。

 この「島」のスキャンダル・ギャンブル・マフィア政治経済のディズニ
ー・ランドに、中学生からお年寄りにいたるまで、我々はため息を吐き嘔
吐している。サブ・テキストにすべて隠され、空間の闘争をすべて消却し、
ある制度の規格・基準に欲望がプレス機の金型によって大量生産されてき
た。現代演劇はもはや、想像力による世界の盗賊・海賊をめざすしかない
だろう。超越的唯我独尊に回収される政治交換は、平面知覚による人間集
団のゲーム操作・「だれが一番手柄を打ち立てたか、それは俺だ!」のナ
イト・コンプレックスまるだしで、政治の場所をめぐる疑心暗鬼を形態化
する。超越的唯我独尊による自己運動・場所の闘争、それが日本の政治空
間である。それは一国一城の主をめざした戦国時代の様式に存在する。死
体の山、その固有の%%%%から鎧をはぎ取り、武器を回収し、死の商人に売
りさばくもの、それが日本の民衆存在である。私は中学3年のとき「お上
のために働きほめてもらう」自分の遺伝子の表出に驚愕したことがある。
友人と教員室に入り、担任の先生の前にいたときだ。その先生が消しゴム
を机から落とした。私と友人は机の下をさがした。やがて友人はその消し
ゴムを発見したが、私の近くに在ったので、私は奪うようにそれを拾いあ
げ「先生、在りました!」と大声をあげ手柄をひとり占めにしようとした
のである。貧乏人根性丸出しの遺伝子の衝動的表出に私は友人に対して恥
ずかしくなったしまった。私はあの日から自分という人間がわからなくな
ってしまった。藤沢の駅で10年前酒に酔った勢いで手相をみてもらった
ことがある。「あなたは戦国時代そうとう人を殺していますね! いまでも
その怨念があなたに取り付いていますよ!御祓いをしないと大変な危険に
遭遇します!」私はその言葉に納得し酔っ払ったまま、御祓い神殿につい
ていってしまったことが在る。御祓い代に1万円だしたが、いまでも後悔
はしていない。われわれ日本の民衆は戦国時代といわなくても、現代史に
おいてそうとう人を殺している。東アジアに2千万の%%%%の山を積み上げ
てきたのだ。私のじいさまも、関東軍軍曹として朝鮮支配・中国満州侵略
に活躍したらしい。私の父も徴兵検査に合格し、明日、関東軍に配属され
る日に敗戦を迎えた人間だ。栃木県Y市豊田村から、日の丸の歓声で送り
出されたが、次ぎの日は日本帝国の無条件降伏により村に帰るが、光景は
転倒していた。おそらく父は村人から「この役立たず!」「でくのぼう!」
「でれすけやろおう!」「ばかやろう!てめえがまごまごしてっからだあ
!」「のろまのあほだれ!」「いちばんはやくかえってきてよかったなあ!
こんちくしょおゥ!」「くたばりぞこないめェ!」と罵倒されたにちがい
ない。私が育った村はとにかくなんの文化性・精神的深さもかんじられぬ
野蛮に満ちた村なのである。人間感情はむき出しの裸力の%%%%として罵倒
言語へと表出する。都会で育った人間がその会話を聞けば、すぐにでもケ
ンカが始まるのではないかと恐ろしがるであろう。父は光景の変貌・価値
観の転倒の落差に追いつけず、空洞を抱えたまま、笑顔をたやさぬ仮面で
村社会に溶け込もうとしたが、やがてその空洞に呑まれてしまうのである。
父は精神分裂病者へと生成していった。父の名前は塚原宣(のぶ)という。
村人からはノーちゃん、ノーちゃんと呼ばれていた。明確にばかにされ、
からかわれていたテキスト存在であったのだ。私はその豊田村の小学校に
入学した1年生のとき、若い女の美しい%%%%スを太陽のごとく教室に明る
く光らせ子供たちの心を魅了していた教師から、「お父さんの名前は?]
と聞かれたことがある。「ノー」私は答えた。「え!」先生は目を丸くし
ていた。私が英語の単語を表出したと思ったのか?「とうちゃんの名前は
ノーつんだァ」私は東北ズーズー弁と北関東の狭間に形成された独特の%%
上がり訛り言語で答えた。「そんなはずはないわ!よく家の人に聞いてい
らっしゃい」おそらく先生は私の父の名前をしりながら、私を非常識な動
物的本能丸出しの野蛮な村社会から、感性と知覚を脱出させるために、イ
ンプットしようとしたのだろう。<あなたのお父さんは精神病院に入院し、
村人からノーちゃん・ノーちゃんとバカにされからかわれているが、宣言
の宣をとった『のぶ』という立派な名前なのだ>ということを教えようと
したのだろう。あの女先生はあのころが一番輝いていた青春時代であった
のだろう。小学1年生でありながら私はその担任の女先生と%%%%%%%%した
い欲望を誕生させながら、山道を歩き旧関東軍軍曹のじいさまと愛人のた
めに建てられた隠居の裏に申し訳なさそうに住まさせてもらっている貧乏
家族のもとへかえっていった。

 現代文学・現代演劇は明治反革命以降、すべて東京から発信されてきた。
しかし東京はサブ・テキストの模倣都市である。モダンあるいはポスト・
モダンを装う東京は朝鮮半島38°線を分割し、中国侵略の導火線を爆発
させた関東軍の根拠地であった、この関東地方の野蛮性と動物的本能丸出
しの場所性を隠蔽してきた。関東軍を表出させた場所をめぐる哲学的思考
はいまだ誕生していない。東京には数多くの大学が存在するが、どこも白
人テキストの翻訳と研究に忙しくて、おのれのきんたまをテキスト存在と
して思考する余裕などはない。大学人にとっては女の子宮構造はテキスト
存在であるが、他民族の女を%%%%%%してきた、われわれ野蛮な固有のきん
たまはテキスト存在であってはならないのである。われわれ野蛮なきんた
まは小便排泄機とマス・メディア操作欲望を通貨で演じるサブ・テキスト
の一般に回収されれば、永遠に自分の場所は安泰なのである。東京の制度
的現代文学・現代演劇を一言でかたずけるなら、現代史そのものの空間を
隠蔽しているのである。それは同時に大東亜侵略構造の%%%%%%・マシーン
と生成させ、朝鮮半島と中国大陸を、奪いつくし・破壊つくし・焼つくし
た、関東軍の根拠地たるわが関東大地の空間を、ひたすら隠蔽するために
白人テキストの永遠のサブ・テキスト構造は利用されてきたのである。あ
らかじめ他者存在を殺したうえで。東京は関東地方という固有の歴史的空
間を壊滅する形態において、日本システムの司令本部都市となってきたの
である。日比谷通りを歩いてみるがよい。光景は10年前とほとんど変わ
ってはいない。司令本部都市はそれなりにゆっくりとした時間がながれて
いる。労働運動・革命運動という政治経済システムを転覆に追い込むエネ
ルギーは、既に消却されているかに見える。関東地方と日本列島はこの日
比谷通りの司令部都市から発信されたある命令によって、徹底的に変身を
遂げてきた。天皇一族が京都から奪いとった江戸城を中心にしたこの空間
は「サザエさん」なのである。もちろんこの「サザエさん」空間は警視庁
高層ビルのハイパーシステムによって防衛されている仮想現実であるのだ
が。神奈川・埼玉・千葉に住んでいる人がこの空間を歩けば、この「サザ
エさん」的空気と自己が住む変貌空間の落差に驚くであろう。警視庁と日
本軍(自衛隊)が防衛戦争の絶対保守として管理されている、皇居を中心
としたこの場所は京都の空気があるのである。故に東京都は関東地方から
浮遊した都市空間なのだ。東京とは深刻さをシニカルに笑い飛ばし積極的
なテキスト存在人間をゼロの記号と生成させることの出来る、関東平野に
浮遊している衛生電話・衛生電波都市である。「サザエさん」の空間では
帝劇で「ミス・サイゴン」を上演している。すべてがサブ・テキストなの
だ。ベトナム戦争ではUSA軍の物質調達として巨大な収益とアジア経済
のJISマークによる規格・基準化の経済占領して、バブル日本経済のイ
ンフラを形態化させた現代史を隠蔽している。ベトナム戦争に参加したU
SA軍兵士や韓国兵士は、戦争の不均衡緊張空間によって精神が破壊され
今も固有としてのベトナム戦争は精神空間に続き、ある日突然、自己葛藤
の制御が破れ彼はレストランで機関銃を乱射しベトナム戦争を再現してし
まう構造を「サザエさん」的空間と帝劇はどのように受け止めているので
あろうか?自己欺瞞・他者欺瞞の「島」は現代史のすべてをサブ・テキス
トへと回収していくのである。そのサブ・テキストをおいしく食べた彼ら
は純愛の情感を込めて絶叫するのだ。テキスト授けてくれた白人の母に向
かって。「感動をありがとう!」「私は愛に目覚めました!」「ありがと
う!」
 
 私はPECTの中嶋浩のように、ため息を吐き嘔吐する人間を信用する。
「もっと!イルカの生活」はサブ・テキストによるディズニーランドの終
焉を、パジャマのコスチュームによって宣告したのである。今後PECT
はテキストの盗賊・海賊集団として世界を盗み続けていくであろう。海賊
の舞台は躍動感に満ちあふれハリウッド映画・バルセロナ・オリンピック
などは女優陣によって遊ばれ、まったく異様なテキストへと交換されてし
まっていた。何という贅沢でふざけた演劇であろう。PECTは解体し崩
壊した世界イメージ人間イメージをユーモアによって再建しようとしてい
るのかもしれない。

 観客の情報類型呼出しとしての情報演劇をPECTはテキスト存在とし
て表出した。それは1992年8月の最後を宣告する舞台空間でもあった。
自己欺瞞・他者欺瞞の「島」に生成してきたサブ・テキストはこの贅沢で
ふざけた固有の演劇によって死を宣告されたのである。イルカの電波言語
は何マイルも離れた海を移動する類的存在に向かって発信し受信するとい
う。幼少のころ育った故郷の磁場をスターリン体制によって壊滅され消却
されてしまった画家シャガールは、死ぬまで消却されてしまった幼少の故
郷を描き続けたという。少年・少女の記憶空間を社会人となり大人となり
老人となっても禿げ頭白髪頭となっても、死ぬまで表出することは別に恥
ずかしいことではないのだ。問題は徹底性にある。シャガールの絵をみた。
或る人物像の輪郭にそって表出していたその藍色の生成に私はシャガール
の執念を感受したと思う。現在には消却されている幼少の磁場と青空をシ
ャガールは記憶構造として持続しキープしきったのだ。そのヒューマニズ
ムとユーモアはわれわれ他者を元気ずけ解放する。柄谷行人が最近、概念
として問題提起しているユーモアとは徹底した執念のことではないかと思
う。

 日本国家消滅に向けて1992年9月の構造は歴史の終わりの始まりと
して、うじ虫がわき死臭を発散させながら腐りきった幕を切って落とした。
ニコチン中毒によって犯された私の身体は、歴史の終わりの世界史的結語
のテキスト存在として実態化されるであろう日本国家の消滅を見届けるこ
とは出来ないかもしれない。日本人は2千万人しか生き残れない。もし私
が生き残ったとしたら他者の場所へいっても、スラム街の街頭生活をしな
がら日本語でなにかを記録しているであろう。私は日本語しか書けないか
らである。日本現代演劇の欲望が持続し、記憶構造がキープされていれば、
日本語の演劇はUSAのある都市のスラム街で表出するはずである。日本
国家消滅後に日本の民衆を受け入れてくれる歴史的共同体はUSAしかな
い。「気違いの戯けた言葉だ!」と人は笑い飛ばすであろう。そんなサブ
・テキストの経済民族主義の歪曲構造による感受能力などもはや私は問題
にしていない。日本は永遠に不滅です!などと信じている純愛との構造こ
そ世界のテキスト存在を受け止めることは出来ないのだ。東アジアにおい
て日本は急速に場所性を喪失している。確かに政治経済は中国と覇権を争
いながら、大東亜共栄圏の復古的現象として表出するであろう。しかし日
本列島の圧倒的多数はこの国家の内部と場所に思考停止として絶望してい
るのである。場所に対する愛憎関係としての葛藤と格闘がなければ、いく
ら絶望度数が臨界点に達しても場所を支える人間の心的エネルギーは稀薄
化していくだけである。場所は辛うじて人間のエネルギーが支えているの
である。場所空間と人間めぐる闘争エネルギーが衰亡し、アニメティ空間
としての快適さのみを追及し衛生的な居心地のよさの四角の構造に閉じて
いけば、場所は地球生成運動によって地底から復讐を受けるであろう。人
間の磁場と地球の磁場は応答関係にあるのである。場所の人間の構造化さ
れ腐れきった絶望を笑ってごまかすサブ・テキストの生成度数が臨界点に
達したとき、場所は沈没しもはや人間は住めなくなる。

 テキスト法制度の消滅、金融機関の消滅、事業法人の消滅、証券会社の
消滅、日本銀行の消滅、政府当局の消滅、こうした劇場の外部に漂う妄想
を、PECTの情報演劇は私から呼出し空間をテキスト存在へと変換した
のである。

P.E.C.Tは現在、1993年夏の相鉄本多劇場における公演。
  「ヴァニラ(仮)」に向かって日常的反復の訓練をしているだろう。
  演劇とはたかだか一回の公演のために、一年間も準備するのだ。
なんとゆうぜいたくな芸術表現の時間と空間であろう。舞台装置・美術は
跡形も消えるただ一回性のためにある。演劇人は観客の記憶装置に依拠し
人間に熱き情熱を投げかける人々なのだ。こんどはいかなる世界を盗んで
くれるのだろう。想像力の盗賊集団P.E.C.Tよ。また会おう。
      1992,12,02

2000年07月01日 17時49分20秒

90年代総括−電話回線都市
SUB:衛生通信電話回線都市と青春像
・・・・劇団DreamDrunkers公演「夜の秋」感想・・・
・・  ( 江の島天文館初演92年8月15日初演  )
塚原勝美


 その日盛夏群青の空に疎外されておらはは眠りからようやく起き出した。
午後4時である。朝から判錠の睡眠薬を飲んで13時間を眠ったことになる。
「いびきをかきながら眠っていたよ」73歳になる老母がテレビを見ながら
つぶやいた。あきらかに私を非難しているのである。「ちきしょう、今日も
駄目だった」私は、雲一つない青空の敗北者として自分をののしった。でき
れば、お昼12時ごろにおきだして江の島の海岸でひと泳ぎして、このダニ
に犯され醜くなった肌を太陽光線に焼き修正したかったのである。腕にまで
ボツボツが出来てしまい、このままではエイズにかかった40男として断定
され、日本市民社会のスケープ・ゴートとして餌食にされ誤爆されてしまう。

 気怠い体・ぼんやりとした頭で俺は今日は天文館へいくのはやめようかと
思った。しかし予約をしたことだしまだ時間はまにあう。劇団DreamD
runkersは気になる存在であるし、ラストの回収のされ方を見度どけ
ねばならない。大船からモノレールに乗って江の島につくと、日に焼けた女
男たちが群がっていやがる。「ちきしょう、いいきなもんだ」おらはここで
も疎外された人間だった。

 天文館に入ると理解不能の舞台装置が後景にあった。石膏かコンクリート
で固めた造形を眺めながらおらはあれは亀ではないかと思った。亀であるな
らば時間と非時間を象徴しているのだろうか? しかしくくりねいてある構
造が連続あるいは非連続的にあるのは何故なのか? やがてそこから光が朝
の情景のごとくさしこみ、とても美しい造形を造りだしたのだが、私は今も
あの舞台装置の意味構造がわからない。それはとても不思議な造形であった。
演劇とは生きた情報のメディアである。観客はこれまでの己の生活と格闘に
おいてインプットされた類型の情報を引出し、舞台に進行する物語を入力す
る。しかし演劇人の類型を逆転させる挑発の欲望は、われわれ観客の類型情
報そのものを使用不可能に追い込む。演劇人はいまだ見ぬ新しい情報を出力
し、われわれ観客のイメージへ「現」の青春像を入力するのである。

 劇団DreamDrunkersはおそらく情報という構造を表出したの
である。人間のメディアとしてわれわれ観客の前に登場する役者こそ生きた
情報を持つ身体である。彼・彼女がこの「現」の舞台空間に登場するまでは、
幾億万年の宇宙時間・地球時間・生物時間・人間時間が、役者の身体に刻印
されている。衛生電話回線都市のコンピュータ言語はその情報量にたちうち
出来ない。機器体系である彼らの意識はいまだ半導体回路と電話回線に閉じ
込められている。しかし機器体系に無防備な人間は彼らの回路回線に閉じ込
められてしまう。

 NTTがアメリカンから「これは大儲けができるぞ」と導入した伝言シス
テム・Q2システムは、確実にわれわれの関係性を規定し、われわれの人間
像は電話回線の内部に閉じ込められている。電話回線は人間のアトミズム欲
望をすでに構造化しており、マファイヤの資金源になっている。電話回線は
変貌しエイリアン生命体のごとく人間を喰いつくすごとに成長してきたので
ある。われわれは無力のまま無防備に%%%%%%されてきた。 電脳社会とは回
線社会のことであり、「おまえの脳に入り込んでやるぞ!」とわれわれの脳
波はよりロボトミアン的に歪曲されてきたのだ。やがてu夜の秋」のごとく
電話回線から幸福の声と、キリスト的救世主の声は聞こえてくるのかもしれ
ない。Q2サービスから幸福の宗教が誕生することはまじかだ。この電話回
線の変貌が人間にとっていかなる構造を持つのか何ら哲学的批判もないまま、
日本列島は回路と回線の都市構造に息の根をとめられている。回線社会の青
春像はアトミズムの病理として進化と深化の交差点にある。回路と回線はホ
コリを最も嫌う。制度基準としての衛生社会が独裁帝国になる。日本の徹底
した衛生社会と半導体回路・電話回線社会は連結連動しているのだ。

 「夜の秋」はその不気味な日本の都市構造を現在の青春像に重ね合わせ「
いまだみぬ出来事の気配」として舞台に表出させたのである。人間の関係性
を再度奪還する願いを込めて。それが女の戯曲であり演出である理由はハッ
キリしている。亀や貝の甲らを火に焼その裂けた道筋から近未来のシュミレ
ーションを部族に物語っていたのは、古代の「倭」において女性だったから
である。耶馬台国の卑弥呼の構造が90年代の若い女性演劇人の遺伝子とな
っているから。その遺伝子は源氏物語を表出した紫式部よりも、もっとダイ
ナミックな構造だ。ある意味で日本は母系社会の遺伝子を現在にまで維持し
てきた固有の構造を持っている。政治・経済・法制度・教育制度などエコノ
ミックアニマルのシステム権力はガジガジの腐れきった男性権力構造である
が、民衆的創造力においては女の力が継承されてきたのである。そこにおら
は畏怖を感じる。

 日本の「女の時代」とは10年間のスパンでは理解不能になる。部族の権
力が男性に奪取された血の血統をめぐる王権政治の誕生から女が己に問うて
きた千年の問いの構造として現在に表出しているのである。この女の時代は
男性権力構造がコナゴナに崩壊するまで休息することはないであろう。現在
の革命的な政治闘争の集団においても若い女が組織を支えているのである。
現在の演劇も若い女が支えていることは間違いない。そして少女たちの自己
実現の欲望は、人間のメディアとしてある演劇にすざましく向かっている。
そして女性演劇人たちは現在の都市構造と鋭く対決し己の物語を創造してい
る。 しかしながら今だ日本はあらゆる分野でガジガジとわれわれ男どもが、
権力とシステムを握っている。出版の分野でいくら女性が進出したとは言え、
これまで私が読んできた本は、ほとんど男が書いた本である。70年代と比
較して市民社会での「フェミニズム闘争」は後退してきたと思う。男はある
観念の臨界点にまで己を自己動員し、ボロボロとなり徹底した敗北をいとは
ないが、女はその途中生命防衛本能が働き、ある臨界点にまで突き進むこと
は難しいのではないか?さらに日本の若い女性の場合、高度管理消費社会の
操作情報に『ほめ殺し』にされ、受動器官餌食とされているので、おのれの
物語構造を表出せんとする欲望を持つ女性表現者にとって孤立感は深い。こ
の表層との格闘の中で九十年代の女性演劇人たちはなにものかを創造しよう
としているに違いない。おそらく彼女たちは、この自己欺瞞・他者欺瞞の日
本社会に対し腹をくくったのだ。

 この物語構造は、如月小春とNOISEの最新作「夜の学校」における少
年が、次々と都市構造を消却させていく構造に、私は女による九十年代への
回答に思える。この消却の方法は現代美術においても樋口薫が表出している。
如月小春に続く遠見裕子や仲本サクラは現代都市の真綿で首を絞めあげる暴
力の構造を問題にしているように思える。

 実はこの日本の都市の%%%%的生成に最も傷付けられてきたものこそ、女性
の心たる空間の記憶構造であったのかもしれない。

 都市の街頭での会話・「何でもおかしいの、笑っていればそれでいいって
感じ、笑いだけを求めているって感じかな」こうして刹那と享楽の快楽にく
らいつく少女たちの群れ的欲望の構造には、消却された記憶構造の傷口が一
体化しているのかもしれない。女とは常に血を体内から流し、その体内リズ
ムは地球と月の引力構造に規定され、そのパワーからくる言葉は男を翻弄す
る。男は女に復讐される。私が他者としての女に感じる畏怖意識は、私が単
にマザコンとゆうだけではなく、私の根源的動物的本能がいつか女たちに部
族の権力を奪還され復讐されるのではないかという恐怖に存在する。

 八十年代とは、フェミニズム・女性解放を問題意識に持つ闘う女性主体に
とって苦闘の十年間であった。おのれがボロボロとなりながらも政治闘争の
現場へ自己を動員するいくつもの若い女性群像を私は記憶している。私と同
様に敗北していった女性も数多くいる。九十年代の若い女性演劇人の格闘の
パワーの構造はこうした連関・連結・連動の構図において私は思考する。格
闘こそが%%%%スの根源であるからだ。

 九十年代がいかなる構造であるのか?NOINSE公演「夜の学校」・劇
団DreamDrunkes公演「夜の秋」・劇団イルリップ公演「ガーゼ
」は、私にある手がかりを与えてくれた。これは私の妄想であるのだが、如
月小春、遠見裕子、仲本サクラの物語創造力の延長にインディアンの予言物
語が存在しているように思える。USAワシントン州にあるインディアン・
コミューンを形成している、あるインディアンの予言によれば、「近い将来
日本では大地震が起こり、火山が爆発、日本列島の大部分は海中に没し、ほ
とんど文明の痕跡は残らないだろう」(産経新聞夕刊9/3)と成っている
そうだ。さらに近未来に衛生通信電話回線帝都・巨人東京が壊滅するであろ
うと予言する

 他者としての前衛劇詩人は後を絶たない。この大地震に関しては、日本現
代哲学の先頭を走る廣松渉も周期の構造として予言している。消却の物語の
構造は女の動物的本能・直感が現在に表出する。 映画「エイリアン 3」
を見た。リプリーの体内からエイリアンが誕生し、リプリーはそのエイリア
ンの頭を愛おしくなでながら押さえ、溶鉱炉へと落下していった。世界同時
性としてなにものかが、この1992年8月に誕生したのだ。日本の驚異的
な高度成長ロボトミアン経済もいよいよマイナス経済へと構造転落した。自
己欺瞞・他者欺瞞として仮想現実の暴利益をむさぼってきた、不動産・ペー
パー債権・金融システムのブラック・ホールが実体経済まで飲み込んだのだ。
日本経済の大腸は糞が溜り過ぎて立ち腐れつつある。通貨の大動脈は血管そ
のものが縮小し銀行は部族闘争の自己防衛本能によって企業に金を貸さない
・信用保障を拒絶する。

 日本の原点は8月である。その原点は対決し格闘するものに呼びこまれる。
この8月劇団DreamDrunkers・劇団イルリップ・P.E.C.Tの
演劇公演を体験することによって私は独自的に生きるパワーを入力した。彼・
彼女たちの肌は白かった。この夏に孤立しているかのごとく。しかしその肌
はこの8月おのれの動的中心になにものかの誕生を知覚したはずである。そ
れは空間性をめぐる九十年代演劇構造への挑戦欲望であろう。霜雄一郎の武
装的身体と辰己準也の造形力に期待する。

             1992,12,02

2000年07月01日 17時36分29秒

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