5歳のとき、山が遊び場。 巨大な蛇が樹木の枝を支配していた。 地面にいたわたしは蛇の複%禝紊傍錣拭 むらの牛の眼球に童子は居た。 何故、あれほど牛のひとみは鏡なのか 不思議だった。

90年代総括−劇団SCOT「リア王」政治演劇とは何か
SUB:劇団SCOT「リア王」感想

    1993/2/14 藤沢湘南台市民シアター公演
                            塚原 勝美
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         三十代の男優たちと舞台の上で実際に取っ組み会いのけんかを
         してみると分かるが、やはり男性の力は強く、体も大きく、向
         き合うと恐怖心を感じるものである。手加減されるのは悔しい
         が、本気でこられると死んでしまう。残念ながら女性の力は弱
         いのだ。
            渡辺えり子 (1993,02,17 東京新聞 芸能TY蘭)
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 開演を待つあいだ私は劇場の構造を椅子に座りながらながめていた。私の席は舞
台中心から左対角線上に位置している。できれば前のほうに座りたかった。役者の
汗と息づかいをうけとめるのが私は好きなのである。そのほうがより幻想が増幅さ
れるからである。後ろを振り返ると、対角線右上に鈴木忠志が照明オペレーション
の前に座っていた。鈴木忠志はあえて観客席のはるか頭上にあるオペレーション・
ルームを使用せず、照明・音楽操作機器を観客席に持ち込んだのであろう。それは
どんなハイテク装置があらかじめ設定されている劇場であろうが、富山県利賀村の
合掌造りの劇場「利賀山房」仕様を、どこまでも貫くと言う体系にある。

 日本の一般その画一化の市民社会はイデオロギーと言う言葉を嫌悪する。文化か
ら政治まで、イデオロギーとは鬼のイメージで悪者とされていく。しかし思想およ
びイデオロギーとは教条の代名詞ではない。それは方法意識と実践から出力された
蓄積による体系なのだ。コンピュータ言語に換言すればデーターを蓄積しながら、
ソウトウェアを構築する実践としての体系性を内包する言語世界と思考世界なので
ある。鈴木忠志は演劇言語のソフトウェアを構築してきた人間である。ゆえに場所
のこだわりはその演劇展開の中心軸となる。

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 我々が、もし世阿弥に教えられるところがあるとするならば、どんな場でも、人
間的な事象に対する内省の徹底性さえあれば、人間の象徴的な在り方を鋭く射抜く
ということであろう。思想の恐ろしさとは、経験や学識の広さではなく、自分の
経験した事物が、何を言わんとしているかを徹底的にときあかす、その情熱の深浅
にある。そして、自分の経験の本質を追求することが、どれだけ他人や、他人の
行為まで及ぶ普遍性を獲得しているかだけが問題なのだ。
          鈴木忠志演劇論集「内角の和」 而立書房
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男は初対面の男と対面するとき、まず彼はおのれにとって、敵となる存在か、味方
になる存在かを、会話あるいはその表情、しぐさによってリアルタイムで判断しなけ
ればならない。まずその緊張は女には理解できないであろう。男性社会とは男にと
って、競争闘争関係にあり、女はこうした男のやわらかな慰安対象であるのが、歴史
に私的所有と権力制度が誕生してから日常生活であった。すなわち男達の役者だけの
舞台は、ある緊張を圧縮し力学的に放水するのである。劇団SCOTはこうした我々
の日常たる政治関係と言うものを表出したと思う。「リア王」は政治演劇であった。

 政治とはなにも選挙や議会工作、党派闘争だけのことではない。私は政治には無感
心であります、とそれが大衆社会のある共通言語に同化し安心している男はすでに
多数者であるが、このセリフを吐く男こそ政治的人間なのである。実は彼は多数者と
市民社会の気分に自己を迎合することが、自己存在の安定につながることを、計算
する、おのれの身の安全をつねに状況から計算する動物的本能に規定された、政治
的人間なのである。市民社会とはつまり政治的人間の競争闘争社会なのである。

 政治とは精神よりも肉体構造に存在し、下半身によって規定された日常である。
また政治とは肉体労働と言ってもよかろうと思う。よく女は政治の話しをすると、
なんか高度なお話ししていますのね。わたし、ついていけないー、アハッハ。と
言う。それは女の本能である快適なものを求める欲望が、なまぐさく肉体的なののを
意味嫌うからであろう。実は女こそ政治とは直感で、身体排泄器官の日常であること
を理解しているのだろう。おんなもやはり男以上に政治的人間なのである。こうして
おんなは家庭を清潔に浄化するごとく、男性権力社会のくそまみれになった政治議会
を快適にすべく登場してきた。

 劇団SCOTが「リア王」の娘を男優たちが演じ、男の役者のみの舞台であったと
は、はっきりしている。政治と言う人間の動物としての身体に規定された、やっかい
な裸力としての力学的日常を、むきだしにせんとした戦略であったからだ。やはり
女だけの舞台、男だけの舞台はぼうりょく演劇となって都市に襲いかかるのである。不均衡
は緊張をもたらし、緊張は%%%%を呼び寄せる。設定は精神病棟の内部における劇中劇
であったが、じつは舞台を眺めている観客こそ、新世界秩序と言う、いまや秩序が
解体された無秩序の精神構造に存在しているボーダーレスの表層にいきづいていた。

 こうしてわれわれの都市は、あらかじめ失われた建築様式と、雨戸の透き間から
差し込んでくる朝の陽によって、目撃される。鈴木忠志の照明は役者の身体の位置
から、役者にあて、さらに、天井に釣られた格子戸を、あてることによって、なつ
かしい、庶民の日本建築様式の記憶を立ち上がらせる。

 私はもはや失われた時となった、幼少のころ遊んだ農村の家屋を記憶に呼び出す。
厚い漆喰の壁の蔵に入ると、ひんやりとして真夏は気持ちがよかった。その窓から
陽が差し込んでくる。光線はいっそう闇をここちよくするのである。

 親父が生まれた親戚の農家とその庭でよく私たちは、かけづりまわって遊んだ。
わらふき屋根のその建築家屋は100年の歳月をえてきていた。裏にまわると屋根
から、木が生えている。それが私には不思議でしかたがなかった。さらにその家には
牢座敷があったらしい。そこはみたことがなかったが、裏のある一角だけは内部から
は行けないのである。しかし外の裏にまわると、そこに内部の部屋があることがわか
る。「リア王」はこうした、もはや日本の農村には存在しないだろう、牢座敷の内部
に閉じこめられた物語を表出したのではないだろうか? 消却された牢座敷の代替え
として、制度としての近代精神病棟は存在しているのである。

 劇団SCOT男優の身体のかまえは、私に鳶職人の身体を類型入力させた。
つまり武装せる身体であったのである。危険な労災事故といつも隣り合わせにある
建築労働者や危険な機械を操作する工場労働者の身体は、日常としての、気をゆる
せば確実に大ケガをすると言う、緊張した肉体労働である。そこに危険と精神が
格闘する武装せる身体が誕生する。SCOT男優の静止する演技は、激しい動きに
耐ええられる訓練による、空間美を体現できるのだろう。鳶職人の足のように。

 さらに私が注目したのは、SCOT男優の額のひろい美しさである。それは彼ら
の情報装置がつねに作動していることなのだ。異質なものとの出合い、他者との
出合いは、情報装置が全面的に展開していく日常となる。安定した日本言説の額と
は、在る意味で位相の額かもしれないと直感した。彼らが立つ場所は、快適都市に
ずっぷりと浸りながら、退屈に滅んで行く「島」ではなく、異質な出合い、他者と
いかにコミュニケーションを成立させることが可能なのか?それとも不可能なのか
を問われる場所に立っていたのだろう。おのずからそこは緊張した世界と呼ばれる。

 オリジナルティとはおのれとおのれたちの生成の原点と体系を生涯の名において
他者に投企していくことにある、と、私は最近教えられた。ゆえに舞台様式は、い
かなる劇場であり、利賀山房の空間が創造されていくのである。かつて鈴木忠志は
人間関係とは恐ろしいものである、と演劇論に書いていた。普遍・真理とは人間関
係をぬきにしたところ、つまり物神のごとく教条として存在しているのではない。

 普遍とはやはり関係を成立させ、他者の身体空間に表出し、そのことによってのみ
獲得される内容であるのだろう。普遍・真理とは固定ではなく生成していくと。
鈴木忠志・寺山修司・太田省吾・佐藤信・唐十朗たちは演劇の方法意識を、言語と
格闘しながら、演劇の現場に生成している方法を記録し、模索してきた。それは
独自な演劇論へと展開されていく。すでに教条は内容なき%%%%だったのだろう。

 演劇論が表出できぬ現場とは、おのれとおのれたちの経験を言語にできぬこと
にある。それはイデオロギーを鬼のごとく、あらかじめ排除しているからである。
イデオロギーは教条の代名詞ではない、戦略と方法を生成させる力だと言うこと
を、腹で感じとれぬものは、リアリズム反映論の下請けであった新劇のごとく、
おのれたちの現場に生成するソフトウェアを演劇論として出力できぬであろう。

 ハードウェアは目に見える舞台装置・演劇技術の集約であるが、目にみえぬ舞台
の生成はやはり演劇論として言葉によって表出されるほかはない。

 劇団は劇団との競争関係にあるが、批評者は批評者との競争関係にないのが、
朝日新聞の劇評である。かれらはいまでも客観的批評が通用すると妄想している
安定した教条のスターリン科学と真理の体現者なのであろう。そのような人々に
みえない舞台の生成と世界を発見してくれと、おねだりするのが、そもそも歪曲
の構造に敗北しているのだろう。

 演劇を語る言葉が貧しくなった、と、言われている。演劇が快適に消費されて
いくシステムを突き破るためには、イデオロギーが鬼として登場するしかないと
私は妄想しているのだが・・・。演劇のソフトウェアはいったい何か?

 劇団SCOT「リア王」の観客席に座っていた私は、もはや直感力を喪失した
動物的本能が欠落し、ずぶずぶと滅んでいく緊張感なき、たるんだローマ帝国の
市民であった。私の自己感受能力が摩滅していることを感じとった。それはすでに
身体が武装を解除して、ぶよぶよになっているからである。美に対する感動が欠落
しているのだろうか?私はやはり一番前に座り、役者たちの汗と言葉をはく唾を、
まのあたりに体験したかったのである。

                                1993,02,24

2000年07月15日 10時05分54秒

90年代総括−詩的現在とは何か
SUB:「あゐさい」感想 2


  2 架空線「L字金具 馬頭篇」 
    1993/3/7 作・演出 藤堂エイスケ  天文館公演    (90行)

 詩的現在をめぐる身体とはなにか?           塚原勝美

 馬頭とは冬、オリオン座の方向にある暗黒ガス星雲の形を言う。本当に馬の
頭に似ているのである。私は小学生の頃、村のガキ愚連隊が夜、テレビを近所
の住人と共にみる、経済力のある農家から10時頃帰り、自分の家に帰るジャリ
道で、冬の星座に圧倒されたことがある。
 そして社会という父に打倒されながら教育された60年代後半から青ざめた7
0年代の過程、夜、よく眠る前、イメージを天体に向けて走らせた。宇宙に比較
すれば人間なんて小さい存在だ、自分がいま抱えている問題なんて、たいしたこ
とはないんだ、と自己に言い聞かせながら。天体によって自己を励ました。

 架空線の演劇を観たのは昨年であった。それはある日突然、街の人間が牛へと
変貌してしまう、不思議なカフカ的時間であった。これはおそらく、ユダヤ的時
間ではないのかと、私は思った。夏の実験劇でも架空線の火見子の朗読を聞いた
が、彼女は長い時間と現在の詩的状況を表出できる役者ではないかと思った。

 ユダヤ的時間とはイスラエル原理主義のことではない。ユダヤ的時間はヨーロ
ッパが誕生する以前の都市、すなわちメソポタミア文明、エジプト文明、ギリシ
ア文明、ローマ帝国と、世界文明の中心地のゲットーで、つねに存在のゆらぎの
なかで商品をつくりそして売りながら、生き延びてきた時間である。ゲットーの
想像力とはユダヤ的時間のことである。架空線「L字金具」の舞台おけるユダヤ
的時間は、衣装、遊牧の民、牧者の衣に類似する布が立ち上げたのであろう。

 藤堂エイスケは物語において、折口信夫、といった民俗学の学者を登場させな
がら、もうひとつの遠野物語を誕生させたという、佐々木喜善に焦点をあてたの
だろうか? 私は柳田国夫も折口信夫も佐々木喜善の著作は読んだことがない。
しかし藤堂エイスケの問題意識には共鳴するのである。

 映像の遠野物語をつくったのは、すでに亡くなった小川監督である。ドキュメ
ンタリー映像を記録として、世に送りだした小川プロは三里塚農民闘争から、
出稼ぎ農民が故郷に帰れず、やがて寄せ場に流れてくる日雇い労働者の街・横浜
寿町に記録の場所をうつし、そして農の現場たる遠野へと記録の場所を移動させ
ていった。

 三里塚は成田空港の第二期工事によって、その場所は強制的にあるスピードで
変貌させられてしまった。私は1980年、70年代の総括を人知れぬ孤独な詩
的言語の作業として、盛夏、部屋にこもり、建築の意志として表出したことがあ
る。そこで発見したことは70年代を総括することは、20世紀を総括すること
でもあるということだった。そして日本の戦後の変貌につぐ変貌は、侵略兵士と
して朝鮮・中国大陸そして東南アジアから帰還してきた、兵士たちの悪意で形成
されてきたのではないか? という記憶皮膚の構造であった。やはり戦争で形成
された内部は、戦後の外部光景を形成していくのであろう。中国戦線で毛沢東・
抗日ゲリラ戦略によって戦線を切断された、日本兵士は第一自然が恐怖であった。
 また東南アジアでもジャングルへの深部へと、アメリカUSA軍に追いつめられ、
部隊は壊滅させられたのだ。青緑の極限の不安を通過した兵士たち。

 その恐怖こそが第一自然への憎悪となって、皮膚記憶を変貌させ、列島に帰還
したと同時に、その憎悪は日本の第一自然へと向けられ、日本列島改造を実現し
たのであろう。東京圏の一局集中とは帝国軍隊の指令システムを、外部光景とし
て実現したのであろう。
 それが、あらゆる意味でドイツの戦後と日本の戦後の違いではないのか?

 日本の戦後の変貌は、古代から蓄積されてきた民衆の文化なるものが、切断さ
れた精神史において出現し、ある悪意によって構造化されてきたのである。その
悪意は人間身体も含めた第一自然を焼きつくし、奪いつくし、破壊つくした記憶
皮膚に存在していた。日本精神史は侵略戦争において重大な精神と場所の関係を
破壊することによって、なにものかを喪失したのである。その文化精神の貧困は
今日を規定している。日本の空間とは個人が人権として認めれれ、誰もがそれを
文化精神として保守しなければならないという、コンセンサスの空気が希薄であ
る。法人国家社会主義の全体は、喪失とこの空虚感を埋めるために、ひたすら蓄
積の未来ではなく、喪失の未来へと突進していく。経済戦争として。誰もが急い
でいるのだ、だどりつく目的も場所もわからないまま。

 しかし、表現と思想そして詩は個人が背負い、押し出す世界である。
 おそらく現代の日本で民俗学が成立する場所は、すでに詩人が蒸発したように
消滅してしまったのではないだろうか? あえて藤堂エイスケはそれを確認した
ところで、折口信夫と佐々木喜善を舞台に表出させたのであろう。
 しかし、私は民俗学に対して無知であるばかりか、本も読んだこともない。
ただ、トウコを演じた火見子の声と身体から感受する、遠い世界その幻想にひた
っていた。美浦暗児の音楽も私の身体をここちよく開放してくれた。だから音楽
は、劇のなかばで止まることなく、終始、流れていてほしかった。

 空間の文化精神を、あらかじめ踏みにじる悪意をもった帰還侵略兵士の歴史の体
内で、私たちは生きてきた。
 私は40歳になったが、二十歳の原点から二十年間、この日本で生き抜いてこら
れたのは奇跡であると思っている。小心者で意志が弱い男である私は打倒され敗北
してきたが、あと20年間、60歳まで生き抜く決意を固めた。

 架空線の集団的想像力は、外部変貌の光景と拮抗する。そこに私は励まされる。
いつか私も佐々木喜善にたどりつくかもしれないと。
劇詩人とは限りなく空間を愛している人間なのであろう。架空線の今後に期待する。
詩的現在を支える身体とは、人間がどこへ帰還するかをめぐる表示である。
人間の故郷は未来にしかない。その未来を食いつぶすことによって成立してきたの
が、20世紀の「数」をめぐる外部変貌であった。この20世紀をいかにして総括
するのか? 現代演劇の詩的現在はそのような場所へ、注意深い細心と大胆さで、
突き進んでいるのかもしれない。                 
                               1993,4,20



2000年07月15日 09時52分49秒

90年代総括−コラ−ジュとは何か



SUB:[ あゐさい ] 感想
  「あゐさい」劇★派――架空線 ジョイント公演
  1993/3/7 江ノ島・天文館 公演
  ◆ 劇★派『スルーフェイス』作・演出/祭山寸花
  ◆ 架空線『L字金具馬頭篇』作・演出/遠藤エイスケ

                 (210行)         塚原勝美
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だから表出運動を本当に理解するには、あらゆる心理・物理的平行主義と縁を
きって、心理・物理的統一ということを土台にしなければならないだろう。人間
の内側に起こることが外へ向けて投影される表出運動は、決して感情の外的な随
伴現象ではなく、そのひとつの成分である。すでにできあがった体験をあらわす
だけでなく、体験を自分のほうへ引きこむことで体験を仕上げていく。感情を表
出することで感情に働きかえしていくことである。感情をありのままに表に出す
ことが感情の支えになる、感情自体に作用をおよぼすのは、私たちが実生活で絶
えず経験することだ。こうして表出運動(ないし表出行動)と感情(ないし体験
)とは、たがいに影響しあい浸透しあいながら、ひとつの統一を形づくっている
のである。
          「演劇入門」 千田是也  1974/10 岩波新書
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 この人間が何ごとかをいわねばならないまでになった現実の条件と、その条件
にうながされて自発的に言語を表出することのあいだにある千里の距たりを、言
語の自己表出として想定できる。自己表出は現実的な条件にうながされた現実的
な意識の体験がつみ重なって、意識のうちに幻想の可能性としてかんがえられる
ようになったもので、これが人間の言語が現実を離脱してゆく水準をきめている。
それとともに、ある時代の言語の水準をしめす尺度になっている。言語はこの
ように、対象にたいする意識の自動的水準の表出という二重性として言語本質を
つくっている。
  「定本 言語にとって美とはなにか 1」 吉本隆明 1990/8 角川選書
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 劇★派と架空線によるジョイント公演が、私にうながしたものは、表出運動と
いう形態である。劇★派においては身体の身ぶりによるコラージュ様式として。
架空線においては、言語と音楽によるユダヤ的時間と詩的状況の突き出しにて。
それらは人間の表出がこの現在に、いかに持続的な関係その接点が記録として、
蓄積できることが可能なのか? それとも、もはや不可能なのか? を問う。
 体験とはいったい何なんだろう? 人間の体験は一度、言葉あるいは身体の身
ぶりにおいて再現されないと、その体験は空白になるか、長期にわたり自己内部
でくすぶり続ける、こだわりとなる。人間の体験とは関係性においてしか成立し
ないことは確かだ。表出運動とは関係の可能性と限界を提示するのだろうか?

1、劇★派「スルーフェイス」 コラージュを支える身体とはなにか?

 コラージュが登場したのは20世紀の詩と美術、ダダイズムとシュールリアリ
ズム運動からであろうか? それらの感受は産業革命以降の爆発的展開と、人間
が第一自然から追い出され、工場へと囲いこまれる場所と人間の分裂を表出する。
 土地から追われ都市へ吸収された人間の復讐が、「ねたみ」と異質なものの排
外に組織されるとき、ファシズム運動は爆発した。われわれは産業革命以降の最
後の人間であり、それまでの自然人とは違い、心理は二重性として分裂している。
 おのれの複雑な心理生成を制御できるかどうかが、日常生活の規範となる。
彼がもしも、受信機という媒介を通さず、電波が聞こえると言えば、もはや彼は
幻聴病として判断され、精神病棟におくりこまれるだろう。いまだこの社会は、
機械器官という媒介に絶対的な信用を置いているのである。
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 これまで繰り返してきたように、享受し、喜び、楽観してしまうのは、まった
く容易なことだ。裸体は我々を挑発し、我々はその仕掛けられた罠に、そうと知
りつつ、自らの欲望を泳がせる。もっとも親しみのある部分・・・せっくすその
ものさえも、そしてオブジュ的に裸体を捕らえるときですら、我々は写真家の眼
に頼り切りになっている。
 それは裸体写真が構築した、不可視な「権力」的構図であると言ってもいい。
我々は見下し、安堵しながらも、その段階からすでに、裸体と写真の組み上げて
きた「権力」に、組み敷かれてしまっているのだ。
 裸体は日常である。しかし、一度権力の配下になってしまった感覚にとって、
網膜の映した光から、かつて見た裸体写真を締め出すことは不可能になってしま
う。
   「裸体というエクリチュール」   高橋周平
   リアリズム変貌展         ツアイト・フォト・サロン
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 何故、現代の表出運動そのものがコラージュという形態をとらざるえない
のか? それはつまり、われわれの日常がリアリティの管理として器官化されて
いるからである。この私の網膜はすでにあらかじめ写真機、ビデオ撮影機、そし
て映画やテレビのフレームによって愛情訓練されている器官である。
 深層には日常を支配するある制度の物語が「日本人」という一般の原理主義が
幼児期から埋め込まれてきた。ロシア・マルクス主義の破産は国家革命からイン
ターナショナルへの壮大なロマンその物語を、後景に退けた。
 こうして現在、宗教と民族主義そして高度資本主義国においては、経済の数字
一元的価値観への原理主義が、自己同一化の要塞となる。世界は原理主義の変貌
へと帰還しているのであろうか?
 一方にはイノベーションのマシンへと自己同一化する器官細胞。他方にはこの
高度情報システムから排除され取り残された最貧国の宗教原理主義。これら不均
衡の上に成立しているのが現代世界の原理主義である。コラージュはこうした内
臓を提示することができる方法である。コラージュはフレームを切り裂くことに
よって、それを主体が編集することによって、この現在を確認することができる。
 もはやすべてが逆説的になってしまったのだ。これまでコラージュはある不均
衡を提示した。メディア・マシンへの反抗として。その意味でウオホールの方法
は、ダダイズム・シュールリアリズムの流れから切断されたところに位置する内
容なき、メディア・マシンへの補完装置としてあった。
 コラージュの根源は情報操作システムを覆す意味の闘争として誕生した。ウオ
ホールは、イメージの反復方法をマス・メディアの補完装置としたのである。
「まったく同じものを何度も見れば見るほどそれだけ意味が消えていき、それだ
け気分がよく、それだけからっぽに感じられる」と言う、空虚こそかれの主題で
あったのだろう。
 空虚およびからっぽといってもそれは快楽の構造にあり、すでに生存の闘争か
ら離陸し高度消費社会の自由を謳歌する、アメリカUSAドル世界支配の通貨によっ
て成立したのである。日本現代文学の空虚こそは、そのものまねに過ぎない。
通貨としての「円」は世界経済のドルに変わりうる、貨幣には上昇することはでき
ないが、強い貨幣であることは間違いない。
 その貨幣の帝国の言語形態は、言語が場所にへばりつきながら生活しているリア
リティから離陸し、空虚が主題になっていく。実はこれこそが帝国衰亡をありあま
るほど、表出しているのである。コラージュは権力によって日常的に生成させられ
ている気分を転倒し、意味の闘争としてある想像力の階級闘争として出現する。

 コラージュとはイメージの編集であり、権力による物語と天上の言語からのイメ
ージその表層皮膚をはぎ取り、再度、人工的なイメージへと編集する。その行為は
物語に奉仕するのではない、物語の解体としてある。理論的にはアインシュタイン
が発見した崩壊物質M’およびM”であろう。原子を破壊したとき物質は、おそる
べきエネルギーを放出する。それがヒロシマ・ナガサキに投下された原子爆弾であ
る。つまりコラージュとは核兵器以降の崩壊物質M’M”をめぐる想像力のありよ
うなのである。

 アメリカUSAポップアートなどは世界通貨ドルの補完装置でしかなかったのだ。
崩壊物質M’M”の20世紀の想像力をなにひとつ提示することはできなかった。
USAポップアートを賞賛してきた日本の人々は多かったが、それは太平洋戦争で壊滅
させられ、USAのインダストリア・デザインに圧倒された物語上にあった。

 人間とは物語の動物である。つまり衣食住およびせっくすのように、物語なしでは
やってはいけない動物なのだ。ある意味で物語をめぐる闘争は権力闘争でもあり、階
級闘争でもある。いかなる物語で現在の人間の身体をとりこにするのかに、政策者た
ちは機関を全面展開する。こうして物語は身体器官を支配していく。こうした世界で
コラージュを表出する人間とは書物をその手と腕で引き裂き、解体し崩壊させる人間
である。書物は物語であり、そこには多くの多様な人々の労働の蓄積によって表層へ
と現出してきた世界だ。書物の解体はこうした労働のエネルギーを放出させる。
 
 もはやコラージュはこれまでの物語に奉仕はしない。物語を切断するのであるから。
しかしながら、原子爆弾以降の崩壊物質M’M”の素描をわれわれの前に提示する。
それはとりもなおさず現代をめぐる表出の身体でもある。

 劇★派の演劇は権力の物語によって隠されてきた、この現代の表層潮流である崩壊
物質M’M”の日常を、役者の身体によって提示した表出運動であろう。ある意味で
20世紀とは19世紀の物語によって隠されてきた。ゆえに人間の身体は19世紀の
亡霊によって理解不能にされながらも、20世紀の人間はおのれの精神と身体をだま
し、だまされながら場所にしがみついて生き抜いてきたのである。そこでの関係はギ
キシャクとして、ガラスに爪をたて音をたてる振動となる。理解不能の収容所にわれ
われは生かされており、生き延びるためには無関心というよろいで武装する。こうし
て関係はあらかじめ無関心が深層となるのである。この関係を解体し再度、関係をと
りもどすとき、方法はコラージュによる連鎖となっていく。

 女優陣があおむけになり両足を舞台の中心に上げ、前面から奥へと一直線上、足に
よるロードを形成する。その逆転した身体。鍛えられた女の足を観て、私は写真機の
裸体からリアリティを奪還することができた。まじまじと天を指し示す女の足を観て
再度、テクノロジーによって愛情訓練された20世紀のフレーム・フィルターから、
女の身体をとりもどした。女の足とは天をささえる足でもあったのだと。

 コラージュをささえることができる身体とはつまり、男優にしても訓練された身体
である。ゆえに足は武装しているのである。市民社会の無関心という日常を提示し、
崩壊物質M’M”によって関係が解体し、その爆発をようやく精神の制御として、あ
ぶないギリギリの線上で闘争している物語の囚人たる不条理の20世紀人間。その空
間の裂け目から関係の身体を提示するのが、想像力の階級闘争であろう。

 しかしながら劇★派はいまだこの20世紀がいかなる関係の場所へと着地するのか
模索している。幼児期への記憶へと帰還する結語はわれわれにとっての表層をいかに
変革するかの困難さを提示しているように思えてならない。崩壊物質M’M”が深層
から表層皮膚を突き破り、そこからの逃亡不可能を全面化させるのは21世紀であろ
うか? あと7年で20世紀は終える。おそらく19世紀の亡霊は満足しきった顔で
退却し、20世紀の亡霊にその支配をゆずるであろう。21世紀世界とは20世紀の
亡霊が配役する世界となるのかもしれない。

 点と線は人間の脳からあらかじめ誕生したのではない。それは天体の星の群との、
対話から誕生したのである。ギリシア文明は抽象を思考する人間を、生産関係の余剰
として成立しめた。いわゆる思索を言語化する学問の時間と空間を、奴隷制度によって
生産から自由になり形成することができたのであろう。

 ギリシア哲人は満天の星を見つめ、星の点から星の点へと線を引く、こうして直線
および形は誕生した。人間の抽象形象そのものは地球自然から誕生したのではなく、
天体から誕生したのである。地球自然は人間にとって闘争の対象であった。人間は天
体それら星群との想像力の対話によって、形を表出し、この先行したイメージによっ
て、やがて自然形態をわがものにしていく。つまり人間の抽象力はおのれの闘争対象
である地球自然の表層からわがものにしたのではなく、天体その星群との対話から生
成させてきた。人間は第一自然を加工し、加工の巨人構築たる第二自然を労働によっ
て生成してきた。われわれの内部と深層とは加工構築のインダストリアル・デザイン
である。このデザインと数学の根源は古代人類が天体星群との対話から出発させた。

 つまりコラージュはこうした天体との対話その人間の想像力の根源へと帰還する。
劇★派の結語はある意味で星祭であったのかもしれないと。汗を流しコラージュをさ
さえる身体は、現実のわだかまりの関係を提示すると同時に、その連鎖は現実を越え
観客を満天の星の対話へと押し出すのである。しかしながらわれわれは自己の内部に
崩壊物質M’M”の原子爆弾をかかえている。この不均衡こそ、現代世界の解体を促
進させる原動力となる。コラージュはこうしたわれわれの内臓をもまた提示する。深
層とは内臓器官のことである。天体の星群と人間の内臓は対話している。

 第二次世界大戦後の冷戦構造というのは世界二元論で安定した表層皮膚であった。
それが89年事態により一挙に、崩壊物質M’M”の作用からひきはがされたとき、
内臓世界はわれわれの日常に登場してきたのである。ある意味で原理主義とは人間の
深層という内臓の全面展開であろう。それはもはや各国の利害調整器官たる国連の、
表層皮膚をもってしても、この飛び出した内臓を隠すことはできない。人間の内臓と
地球の内臓はインターフェンスしながら出来事を表出する。それは天体星群との対話
により誕生した人間の形象への想像力と抽象力による、第一自然への統合支配が完成
したかに思えた時、その闘争し加工してきたのが地球の表層皮膚であり、この表層皮
膚が急速に砂漠化という表土喪失の現在に地球の内臓が姿をあらわすのは当然のこと
かもしれない。現代世界とは内臓の動きが、人間の深層にある崩壊物質M’M”と対
話し、カオスの竜巻を起動させたのである。コラージュはこの面貌をかいまみせるこ
とができる方法である。

 コラージュとは内臓のデッサンである。それは安定してきた二元論の感情その表層
皮膚の権力の物語群へは融合できないことをもって、主体はからっぽ空虚へと落下す
るのだが、おのれ自信をこの空虚の地獄から悪魔のごとき執念で、表層皮膚へと登り
つめる情念が、いかなる場所でもある世界を起動する表出運動を提示する。帝国の貨
幣「円」は理念と主体そのスタイルが世界から軽蔑される通貨なのだが、その通貨に
裏付けられた空虚とその気分という消費の表層皮膚に主体があぐらをかくとき、日常
的なニヒリズムと空虚との闘争は欠落している。空虚からなにものかを建築する意志
こそ、コラージュをささえる身体であろう。

 劇★派の演劇運動がわれわれの内臓と深層に渦をまき、地球世界のカオスと連動す
る20世紀の動的中心と亡霊たる崩壊物質M’M”の全貌を舞台に表出させることが
できるのか? それとも星祭を結語としていくのか注目していきたい。
 劇★派はリアリティの管理その表層皮膚をひっぺがえそうとしているのだろう。
 人間は21世紀になっても、場所にへばりつき生活する。このあたりまえの内臓と
 表層関係の面貌をあばくことこそ、コラージュの表出運動であろう。
                                  1993,4,4













2000年07月15日 09時45分33秒

90年代総括−地球の私生児


SUB:「NaturalChild」感想
  「NaturalChild-DADA 地球の私生児」  劇団DreamDrunkers公演
   作/演出 仲本サクラ  1993,2,21 藤沢湘南台市民シアター

 (182行)                      塚原勝美

 演劇を観る楽しみは、生成過程の劇団と役者が舞台で存在感を力強く押し出し、
よりその主体と表現の可能性を切り開いているのを、実感することにある。
劇団DreamDrunkersは昨年夏の天文館公演「夜の秋」より、大きく飛翔した。
それが私には楽しかった。

 燃料廃棄物格納塔が国家行政によって建設された街DADA、そしてそれは滅びを
自然であるとする感受性を自己身体にもつダダイズムをめぐる時間と空間であった。
演劇は非日常と幻想としての白日夢を現出するのだが、一方その時間と空間は現在
の日常の場所を回収してしまう。宇宙と宇宙を結ぶつるのようなホースとして。
演劇の植物であるつるは世界を枝のように、はりめぐらし、その想像力の触感はつ
るとして伸び、劇場に回収するのである。ゆえに舞台の中心には植物としてのつる
が生成している。
 それは「NaturalChild-DADA地球の私生児」(以降、地球の私生児)の場合、造
形された塔であったが、あれは密林ないしは古い邸宅を覆う、つるとしての植物で
はないか?と私は思った。すなわち劇団DremDrunkersの幻想力の原理は植物性に
あると私は妄想した。夜になると樹木の妖精は根元からあらわれてくるという。
幼い頃、私は田園の村から山に囲まれた自分の村に帰るため、夜、山を越えねばな
らなかったが、そのときの恐怖は森林の樹木が会話しているように思えたことであ
る。私は樹木に連れさらわれてしまうのではないかと畏怖しながら、山路を急いだ。

 閉鎖され囲まれた街DADAは、旧ソ連邦のスターリン体制によって形成されられた
核実験の都市、あるいは日本の原発の街と通低していた日常であった。10年前、
「新宿に原発を!」をという原発反対派の皮肉のスローガンがあった。それは原発
を持ち込まれる場所の人間に立って、発想しなければ、永遠に亀裂を転嫁される場
所とそこで生活する人間の苦悩は理解できないというメッセイジーであった。
反対派を懐柔するためには、どこでもまず、お金が住民にバラまかれてきた。通貨
はシステムによって管理されている。ゆえに貨幣と場所・意志を交換すれば、人間
はまず、故郷を喪失し、変貌していく。
 DADAの街の住民はこうして貨幣と交換することによって、燃料廃棄物格納塔を受け
入れていく。それは同時に街が外部から閉鎖され、通信販売の消費形態とギャンブル
のみが、日常となっていく、日本にはどこにでもある光景であった。そのような真昼
一匹のネコに姿態した女を連れた男がDADAにやってきた。ダダイズム宣言以降のハギ
ワラである。
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 傷みて なほも ほほえむ 芽なれば いとど かわゆし こころよ
 しずまれ しのびて しのびて しのびよ
  ■
 こよいも いたく さみしき かなしみに 包まり 寝れむ 
 さはあれ まどの かなたに まどかに 薫(く)ゆる ゆうずき
  ■
 痴愚の なみだを ぬぐいて わが しかばねに 見入れよ 
 あふけば 青空を ながるる やはらかき 雲の こころね

       月映 告別号より 田中恭吉 
    荻原朔太郎詩集「月に吠える」1917年(大正6年) 感情詩社発行
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 この田中恭吉の遺作である版画の挿画が好きになり、荻原朔太郎詩集「月に吠え
る」と荻原恭次郎詩集「死刑宣告」の復古版を手にいれるため、1979年、私は
ホルプ社から、月賦で高い買い物をした。
 1917年といえば、その年の11月にロシア革命が全世界を振動させた。それ
から70年後の1987年が、現在の世界構造を現出するマグマを形成した年では
ないかと私の動物的本能は直感した。それはおそらく月との引力に関係があるかも
しれない。1987年のカレンダーを突き破り、引力の魔手は現在を規定したと。

 女の身体が月との引力との関係を内包しているように、人間の自然・社会も月の
引力によって規定されている。インド神話によれば月とは、あの破壊神としてのシ
バ神が太平洋をえぐりだし、宇宙空間に放り投げた。それが月の誕生であり、太平
洋の誕生であったとされている。
 古代、「まつりごと」は政治と祝祭に分離していくのだが、日本の場合、政治が
太陽神の世界であれば、祝祭は月神であたっと思われる。ゆえに伝統演劇である、
「能」にしても月のあかりがその世界となるのではないだろうか?
演劇の時間と空間は月神の夜とその唇なのではないか?さらに、舞台を建設しては
ばらし解体し、次ぎなる舞台に向けて建設を開始する行為はシバ神の世界である。
蜃気楼のような演劇人とは月神の申し子なのであろう。
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 ローマ神話の狩猟と月の女神ディアナはギリシア神話ではアルミテミスという名
前で、ゼウスとレトの娘にしてアポロの双生の妹である。純潔を守るディアナは水
浴中に猟師アクタオインに裸体を見られたため、彼を牡鹿に変え、猟犬に喰い殺ろ
させて罰した。この女神の狩猟場面はルネサンス以降数多く描かれた。しかし画家
たちは、広大な狩猟場面を表現するための一つの手段として、この神話主題をしば
しば取り上げたのである。赤味がかった空の遠景へと舵行する長い川は都市の眺め
を分割している。また城壁で囲まれた都市の景観は、神話的風景のなかでくり広げ
られ古代風の光景と驚くべき対照を見せている。
 この絵はティントレットの影響を受けているが、フィアミンゴの風景画に見られ
る典型的な特徴をも、そのマニエリスム様式のなかに認められる。ホーズは人為的
で、前景から後景へ展開する風景も人工的な芝居の場面を見ているように感じられ
る。
 「狩りをするディアナ」パオロ・フィアミンゴ 解説(K.Y)
 「芸術と自然」展   東武美術館1993,3
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 人工的な空間と時間をつくりだす芝居は、数学的に形成されている。つまり舞台
とは数学的な世界でもある。役者の位置。照明の設定。音楽の設定。言葉の音と役
者の身体みぶり。それらが総合して舞台は誕生する。つまり舞台に展開する、演奏
者であれ舞踏者であれ、舞台とは位置と空間と時間それら場所をめぐる論理的さら
に目的意志がつくりあげる世界なのである。この目的意志の緊張した情熱がだらだ
らであれば舞台は破産するだろう。ある意味で舞台とは物語を建設する時間と空間
の狩猟場として演劇人の前に現出する。やはり月の女神ディアナは狩猟の神である。
 
 あの劇団DreamDrunkersの不思議な開孔部による舞台美術は、やはり月の光であ
ったのだと、私は発見した。ゆえに彼ら彼女たちの集団的創造力にとっての独自性
とオリジナルティは、「地球の私生児」によって、さらにおのれたちの生成の原点
を、われわれに押し出す舞台となったのだろう。月神の申し子として。

 敗戦後の激突を「高度経済成長」「資産倍増」として、日本国民のコンセンサス
にした、太陽神としての政治・経済は、光景と社会を怒涛のごとく変貌につぐ変貌
として生成させてきた。65年以降、私は修学旅行のバスの窓から、これらどの街
でも建設工事・ビル建設・店舗新装工事を見てきた。そして畏怖をもった。こころ
が砕けてしまったガラスの破片となっていくように感じ、ただ旅行バスの窓から街
の新建築の連続を、どう理解していいかわからず呆然と見ていた。

 私は高校生のとき友人と「まんが研究会」を校内でつくったのだが、一学年下の
女子高校生の描いた絵とイラストを、肉筆回覧誌でみて、その女の情念と時代感受
の先取りに静かなショックを受けたことがある。その肉筆回覧誌は私と友人が卒業
してから後輩によって編集されたのだが。そこに彼女は砕け散ったガラスを背景に
それでも出発する自画像その身体を描いたのである。1970年当時の政治少年と
少女の敗北した無残な感性を、彼女は政治少女でなかったにもかかわらず、先取り
として現出したのである。1974年に東京の企業に勤めた彼女に会った時、その
性的武装に私は畏怖した。それが青ざめた70年代のサイケデリックな化粧方法で
あったから。都市の太陽神を浴び、女は男よりも先取りとして時代感受を現出する
のかもしれない。

 宗田香織里が演じたネコこそは、女とはネコを演じながらも都市を狩猟する姿態
の象徴であろう。さらにネコはもっとも人間を観察してきた動物でもある。
 女とは血を流しながら、同時代の都市を狩猟し、その月の引力を内包した力でも
って、なにものかを先取りする動物であるかもしれない。私は妄想する。このブッ
ラクホールのような「新世界無秩序」と「カオス現象の渦」こそ、狩猟と月の女神
ディアナによる世界ではないのかと。なにゆえにアメリカUSAと旧ソ連邦は月面探検
を後景化させ、宇宙ステーション計画に変えていったのか?その理由がわからない。
しかしながら現代世界の政治・経済の流動化現象は、月との引力に関係があるので
はないだろうか? ダダイズムは産業革命以降の爆発的変貌と更新を、おのれが滅
びることによって、都市を射ぬく詩的言語の精神運動であった。それは20世紀の
夜を照明する月の光でもあった。80年代に私が決意したことは、ダダイスト詩人
荻原恭次郎のように太陽神に屈服した詩的転向を、なんとかして繰り返さぬことで
あった。

 アオヤマを演じた霜雄一朗は都市の白日の象徴でもあった。白い衣服は産業社会
の象徴でもあり、行政地図とセールスマンの地図でもあった。
 黒い衣服は夜の臭いがある。そして夜の布を取れば、月の明かりが照らす。
その夜を演じた辰巳準也のハギワラが、ラスト・シーンで燃料廃棄物の象徴「ダ
ダ」を破壊したとき、ダダの街はチェルノブイル原発事故へと動転する。
その空間の照明デザインを現出した加藤淳一とY.J.Cは、照明デザインのあらたな
る領域を切り開いたと思う。全体と細部が全面展開されたのだ。
ダダの塔から一直線に光が上昇する。まるで樹木が天へと頂点を伸ばすかのよう
に。磯野カツオの音楽は宇宙船へと融合し、植物の枝つるのごとく耳器官を振動
させる。
 しかし地球の私生児たちは全滅しなかった。あらたなる環境に身体の遺伝子が
変化し適応したのである。地球環境破壊以後に生き残る人間はアフリカ人である
という村上龍の説がある。アフリカは今、砂漠が拡大し内戦による社会基盤の崩
壊で、多くの民衆が飢饉によって毎日、死んでいく。しかしそれがやがて全地球
がアフリカ現象となる未来に生き残る、前適応能力を鍛えているのだと言う。い
ささか乱暴な説であるが、人類は祖先の誕生の地アフリカへ帰還するのだろうか?
 南北問題でいえば、今、われわれは北で高度消費社会のあふれる商品の帝国で
生存している。しかしそれは地球環境激変に適応できる条件ではない。問題は商
品ではなく、砂漠化と温暖化現象による気候異変つまりエデンの園から追い出さ
れた新世界でも、生き残る意志と身体を準備しているかどうかの前適応能力なの
である。
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剣はやがて猛烈な白熱とリビア砂漠の焼けつく大気にも似た
 熱気を発し、今までの温和なあたりの風土を焦がし始めた。
           (略)
 彼らは、ふりかえり、ほんの今先まで
 自分たち二人の幸福な住処の地であった楽園の東にあたる
 あたりをじっと見つめた。その一帯の上方では、神のあの焔の
 剣がふられており、門には天使たちの恐ろしい顔や燃えさかる
 武器の類が、みちみちていた。彼らの眼からはおのずから
 涙があふれ落ちた。しかし、すぐにそれを拭った。
 世界が、ーーそうだ、安住の地を求め選ぶべき世界が、今や
 彼らの眼前に広々と横たわっていた。
        「失楽園」 ミルトン 訳/平井正穂 岩波文庫
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 こうして仲本サクラの母性は滅びの美学ダダイズムと決別したのであろう。
それは物語構想力の基盤を文学から、造形・建築の意志へと突き出したのだろう。
それはエデンの園から追い出された地球の私生児たちへの、ラブコールでもあり、
「地球の私生児」の物語構造はカフカ的ゲットーの想像力でもあった。
ゲットーの想像力はゲットーの外側の都市を回収する。市民社会で今、どのような
出来事が起きているのを、市民よりくわしいのは牢獄の囚人である。彼らは外部の
情報に飢え、牢獄は外部の情報入力の場所として起動している。彼らは新聞と週刊
誌を一つも漏らさず読みあさり、外部の流動的な世界像をつかむ情熱者である。
ダダの街はけして特殊ではなく、市民社会の日常なのである。それは植物の側から
ネコの側から見た都市と地球であるかもしれない。

 集団的創造力がくぐるべき転換を、ある劇団が全力でくぐり抜けたとき、その、
おのれたちの原点である独自性とオリジナルティは、社会に現出し、その表層世界
との対決が、外延的発展と内延的発展を切り開く。
劇団DreamDrunkersの役者たち、その存在の飛躍過程こそ演劇の楽しみ方である。

地球の私生児の行方を記録する星、それが月なのだろうか?
                       1993,3,24










2000年07月14日 21時30分07秒

90年代総括−ちはやふる1




天文館企画公演「ちはやふる」感想
         1993/2/14江ノ島天文館
    作/演出 小松杏里
                                    
                                塚原勝美

 これまで私は砂の演劇を過去に2回ほど観たことがある。1981年か1982
年に。ひとつは別役実/作の「赤い鳥のいる風景」であった。本多演劇研究所公演
・で演出は松原犀火による、下北沢ザ・スズナリを砂場に転換し小学校のジヤング
ルジムへと転化した舞台装置であった。観客席は前と後ろに、わずかばかり設定さ
れて、役者は当然にも砂場で演じ、それを向こうとこちらの観客の知覚の欲望がさ
らす。砂の感触は観客と役者に根源的なあるなつかしさを呼び出す。その実験劇の
前で私は演劇の想像力とはいかなる空間にも転換する行為にあるのだな、とショッ
クを受けた。幼児体験として誰もが砂場で遊んだ感触は、やがて社会関係の激突を
経験し、身体と精神の亀裂に砂が降臨する感触へと移動していくのである。

 もうひとつは連合赤軍事件を題材にした「転位・21」公演の「砂の女」であっ
た。山崎哲/作/演出による。これもザ・スズナリが劇場であったが。
それはある時代の内省のエネルギーと外への直接性と街頭の激突が、中国・周恩来
による日本に対する戦争賠償無条件放棄に規定され、日本の市民社会が戦争犯罪の
重から、気分的にときはなされ、消費社会の成熟に向かっていく全体に、スケープ
ゴー トとして、排除され日本近代史の罪を一身に背負わされた反抗者のわが解体
であった。

 排除され解体されていく者は、身体と精神が摩滅する砂へとつぶされていく。
 こうして全体の矛盾はつねに排除される反抗者に背負わされたきたのが、徳川家
康から誕生した日本における近代合理主義の経緯である。ある思考は世界同時性と
して表出するのが場所としての世界史である。徳川家康は日本のデカルトだった。
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ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある

  雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬

             坂口 弘    朝日新聞歌壇入選作
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山崎哲・作/演出「砂の女」のラスト・シーンは、全国指名手配として逃亡して
いた女が、警察官によって逮捕され、そのとき、一条の砂が天から降臨してくる
のであった。舞台は砂ぼこりにおおわれ、完成した美の照明は落ちて闇となる演劇。
砂はコンクリートの第一素材である。そのようにテキスト存在は、ある悪意をもっ
て制度管理する神話の権威者と政策執行人たちによって、埋められてきた。そして
近代日本史の総括はつねに、コンクリートの獄中の閉ざされた空間で起動する。
在る意味でもはや日本語は獄中者たちによってしか生命を保守できないのかも、知
れない。市民社会の日本語はすでに仮想現実としての数の言語に変貌していると。
それはアンドロイドの日本語である。三どめに観た砂の演劇「ちはやふる」は
言葉を奪還する、人間と神話そこから、「おれたちの言葉」「おれたちの世界」を
つくりあげることが、可能なのか?それとも不可能なのか?をめぐる実験劇であっ
た。

 マクロ経済においては日産座間工場が2年後に工場閉鎖をすると言う。それに
対して、経団連の労務担当である労働組合はなんの反発もできないでいる。もはや
反対勢力など壊滅しているかのような気分こそ、現在なのである。そしてわれわれ
は世界最大の1300億ドルの貿易黒字収益金がいったいどこに、流れているの
かも知らない。

 われわれは明治官僚による近代日本語の制度としての当用語以来、標準語を日常
的に使用してきたが、天上の言語は庶民には隠された記号言語によって成立してき
たことに無自覚であった。いまなお表層の上部機構でなにが起動しているか、さっ
ぱりわからない庶民である。つまり日本の高度情報化社会とは神秘的部族社会で
あり、上部機構では上代語は話されているのである。その支配者の記号言語は庶民
には、理解できず、永遠に隠されていくだろう。

 統制言語としての標準語が国民言語として制度化されたことは、政治言語として
の意味をもった。方言もある意味で、徳川幕府のスパイ・よそものをすぐさま発見
できるように制度化された政治言語だったのである。江戸がきわめて政治政策とし
て人口的につくられたように、地方言語もかなり目的意志的に生成していった政治
言語だったのである。日本の自然感とはあらかじめ人為の加工が前提にある自然感
なのである。われわれは人為ととしての加工によってつくられた内容を、いつのま
にか、自然生成として思いこんでしまうように訓練されているアンドロイドである。

 明治の文学青年たちは血を吐きながら、口語体文体の建設に刻苦奮闘してきた。
プロレタリア文学とは、自由民権運動と主張としての文学運動の流れの構造にある。
日清戦争から開始された後発資本主義国としての、兵舎国家建設は、人間の権利と
個人の生存権をもとめる自由な表現者・芸術を、牢獄のリンチで屈服させ、あるい
は屈服せねものは虐殺してきた。つまり大王部族のごとく、個人のパーソナルティ
は許されなかったのであった。すべては働きアリ、働きバチのごとく、システムと
しての女王に従属せねばならないと。それが国家生活者としての属性であった。

 こうして自分の言葉をパラダイム・シフトとして発見したものは、人間の顔が見
えない国家社会主義属性との対決が開始されていく。戦前・敗戦後においてもこの
青春像の構造は変わりがない。自分の言葉を自分の世界をつくろうとするものは、
属性にかわりうる、もうひとつの場所を建設しようとする。こうして劇場はあらか
じめ、砂場に餌をもとめて、動き回るアリの伝説から闇が明ける。「ちはやふる」
の時間だ。

 砂場そして奥には住宅地の粗大ゴミ置き場。明日にでも行政に回収されようとし
ている何台ものテレビ受像機、冷蔵庫、家具、それら、まだ使用可能なのであるが、
人間から見捨てられた物たち。やがて経済の工場閉鎖から街頭に放り出されたホー
ムレスたちが、踊りながら出現する。どうやら彼ら彼女たちは、この高級住宅地の
粗大ゴミをリヤカーに積みどこかに持ち運び貨幣に交換しようとする人々ではない
らしい。

 日本原人としての弥生人に滅ぼされた縄文人であるのかも知れない。また騎馬民
族に部族共同体の権力を奪われた出雲人かもしれない。おそらく古事記・日本書紀
の神話は出雲共同体の神話を盗用したのに違いない。それは政治権力を国ゆずりと
して天孫降臨の大王部族に明け渡すかわりに、祭ごとを出雲神話によって行うこと
を認めさせた縄文人たちのしたたかさでもあった。だからこそ、古事記・日本書紀
は再発見され続けていかねばならないのだ。小松杏里と長渕基江は演劇史としての
1920年代を再発見する過程において、日本とはそもそも何なのか?を問い、そ
れは古代神話の再発見へと向かっていったのであろう。日本の1920年代・30
年代が実存の自己批判としてギリギリの主体飛躍として、問われたのは主体形成の
現場のみであり、この時期、芸術はバブル経済のごとくポスト・モダンなどと浮か
れていたのが実体ではなかったのかと思っていた、私にとって天文館の演劇史を内
省する企画は演劇内容の何を守り発展させねばならないかの問いかけであると思っ
た。

 つまり「ちはやふる」は1992年ゆらフェステバルの内発的発展して、舞台化
されたのだと思う。それは印刷メディアにおいては情報誌シティーロードに取り上
げられたが、演劇誌が話題にしたかどうかはさだかではない。おそらく今なお、演
劇世代論とその現象を語れば、ゼニになると思いこんでいる、帝都のスタリーン・
メディアたちからは無視されたに違いない。

 かくして砂あるいは泥の深層から、イザナミとイザナギは死霊のごとく誕生した
のである。砂がコオロコオロとうごめく、にょきっと、手が地中から表出するとき、
劇的狂気の力は、観客の息を静止させる。旧約聖書においてもアダムとイブは土す
なわち泥から誕生するが、それはあながち細胞史にとって間違ってはいないだろう。
細胞は泥すなわち粘土によって、形づくられた。私たちガキ愚連隊はよく小さな小
川にいって、粘土を採集した。粘土は多様な形をつくることができる、それが面白
かった。

 人間にとって土との関係はある根源を成立させている。しかしやがて足と手の感
触は、化学工場から送り出されたきた接触へと全面展開されていく。われわれは何
処から来たのか? いうまでもない産業革命からやってきた人間であり、それまで
の人間から変貌した化学触感と物理触感によって生成する人間であった。

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 たとえば、「原初の水」では、不気味な形態をした生き物が水しぶきを上げる大
洪水のようなものに呑み込まれるような状況が描かれているように見える。それは
旧約聖書の創世記のノア伝説を、あるいは古事記のイザナギノミコトとイザナミノ
ミコトによる国造りの神話等を連想させながら、より普遍的かつ根源的な記憶のな
かにのみ存在する風景を呼び起こすのである。さらに、渡辺のこの小さな作品は、
絵画が時空を越えた現象を再現することを、観念的な意味ではない無限の空間を表
現し得ることまでを思い出してくれる。
   大阪発信  渡辺紅月展批評 中井康之  美術手帳1993/2月号
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神話的イメージを呼び出す表現は、どうやら演劇としての「ちはやふる」だけで
はなかったらしい。美術においても展開されていたのである。だがそれは使い古さ
れた文化人類学の方法でないことは確かだ。ではなにゆえに今、神話なのであろう
か?

 それは固有としての日本がある時間の頂点にたどり着いたからであろう。ゆえに
先端的な感受性は、神話の補完ではなく想像力の奪還として古代実験を体現する。
お前は一体、何者だと。ゆえにおおむかしの上代語での芝居はより他者性をつきだ
すのであった。近代日本語としての標準語はこうして「ちはやふる」によって、異
化されてしまう。言葉と格闘する演劇本来の時間は、実は古事記・日本書紀こそ演
劇台本であったことを、われわれに教える。ギリシア悲劇の神話物語もそうである
が、神話はやはり人間のむき出しの感情と肉体をさらけ出すのである。つまり凶暴
性があるのだ。

 「なぜ俺を生んでしまったのだ!」と、すべての責任を親に転嫁する。一度とし
て動物的本能の生命力を、引き出さねば、この困難を突破できぬ経験を与えられぬ、
家庭内%%%%の不能青年が、やがて親によって復讐されてしまう、環境整備の勉強部
屋と優しい子育てごっこ。やっかいな神話の凶暴な肉体感情は、すべての矛盾を家
庭に転嫁することによって、いっさいの問題を隠すシステムこそが生み出す。

 日本の家庭とは上部構造を安定させるための、矛盾処理工場なのである。いわゆ
る日本システムのガスは単位としての家庭に発射されてきたのである。ゆえに近代
でありながら、いまなお、単位家族の肉体感情は古代神話の凶暴性を内包している
のである。均衡が崩壊したとき、場所はギリシア悲劇へと変貌する。黄泉の国にお
けるイザナギとイザナミの愛憎の死闘。ある意味でこれがいい人、いい子である、
装いがもはや続行不能になったとき、神話の死闘は現代の家庭に出現するのである。

 テレビや新聞、ミュージュックが明るさを「らしさ」を演じることができるのは
すべての暗さを、単位家庭に押しつけてきたのが、80年代のバブル現象と言われ
た構図だ。日本の統制システムがいかに腐りきっても、覆されることなく安定して
きたのは、すべての矛盾を固有の単位家族・家庭が呑んできたからである。

 上部構造が現象から現象へと乗り移り可能な形態は、こうしていっさいの問題を
単位家庭に転嫁することが社会生命体のごとく身体化されているからだ。単位家庭は
社会の排泄器官なのであり、それゆえにわれわれは自分のことで精いっぱいなので
ある。世界最大の貿易黒字を達成できる社会とは同時に、単位家庭は上部機構のく
そが吐き出される器官なのである。はずかしいものは隠さなければならない、これ
が日本市民社会のけだるい午後の惨事である。

 わたしはそううつ病の老母の頭を何度、叩き割ってやろうか!と、何度、このけ
だるい午後に感情をむき出しにしたことだろう。それは古代神話の死闘の肉体感情
と直結している。そのとき、おれがお袋を殺したら、きっと、テレビ局・ワイドシ
ョーが、わんさわんさとこの近所に押し掛け、ご近所にインタビューするだろうな
あ、ワッハッハッハ、と、笑うのである。この笑いに救われなければ、わたしは古
代神話の再現をしてしまうに違いない。

 そのとき日本とは共同体社会に基礎をおく、共和制でないことを、あらためて思
う。われわれは自己の肉体感情に古代神話をいまも内包している。近代的個人世界
パーソナルティ精神世界とは縁遠い、全体のうちにひとりひとりが分断されうごめ
いている、指令アンテナを受信するアリかも知れないと。社会生命体維持装置であ
る女王の触感は空気を電導し感じるのだが、永遠にアリはその女王の全体像をつか
むことはできない。

 古事記・日本書紀の神話には、つまりギリシア神話のように、人間の原初として
の肉体感情が発現している。動物と人間の交配関係はそれを物語る。ローマ神話も
狼がその原初としての象徴である。ところが世界宗教神話は宇宙と言葉が原初とな
る。天孫降臨神話があらかじめ宇宙と言葉の創造を、隠蔽したのは、宇宙を叙説す
れば、天孫降臨の論理が破産してしまうからだ。宇宙への想像力をあらかじめ欠落
させたのは、「島」をめぐる国ゆずりの象徴としての物語だったからである。

 アマテラス太陽神は地上の延長でしかない。それは地上を超越する精神ではない。
ところが旧約聖書の神は地上の想像力から超越した宇宙のすざましい、おそろしさ
を内包する畏怖に満ちた他者なのである。世界を滅ぼす力をもった宇宙として。

 日本神話はインド神話とも決定的に違う。インド神話は宇宙の体系にまでおよぶ。
宇宙論なき神話は世界宗教へと上昇することはできない。せいぜい場所の象徴的文
学として生き延びる。旧約聖書の神話から発生したキリスト教神話、イスラム教神
話、そしてインド神話から発生した仏教には、宇宙論が存在している。

 神話は反復するから神話なのであり、その場所こそ、単位家庭である。あらかじ
め宇宙と普遍、神との内的対話の回路が存在せね神話こそ、天孫降臨である。そこ
には即物的に土着にこだわる肉体感情の世界観がある。肉体感情があらわに現出す
る場所こそ、単位家庭なのだ。ゆえに日本神話はこの場所で反復するのである。

 SFテクノロジー世界における神話の反復と廃虚。粗大ゴミ置き場にあらわれた
古代言語を話す若衆たち。それは家族がみな朝に親は出勤、兄弟は登校し、ひとり
取り残された少年がモノたちと会話する光景なのかも知れない。

 「ちはやふる」の舞台は、現在の日本の時間の位置を現出させたと思う。
 それは神話の反復としての日本の時間が、ある臨界点にまで到達し、いよいよ、
あのなつかしい廃虚へと帰還する軌道に乗ったということだろうか? 廃虚の経験
はそして、天孫降臨の神話を反復するためには、かかせない補完装置なのである。
京都は内戦による廃虚を幾たびも経験し、東京も廃虚を経験してきた場所である。
 われわれは永遠にこの神話の反復から逃れることはできないのであろうか?

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 ひとつの源泉から発した供犠の儀礼と、政治権力という両者の曖昧な関係が、天
 皇制の矛盾と苦しみを産んでいる。われわれは、建て前としての政治権力を「天
 皇」によって正当化することはできないが、「天皇」を廃棄すれば、ときの政治
 権力はおろか、現在の政治体制そのものが根底的に崩壊するのではないか、その
 ことがわれわれの恐怖のもとになっている。

             「感性のぼうりょく」 佐々木孝次 
              イマーゴ 連載 1991年11月号 発行 青土社  
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トップペ−ジヘ 2000年07月12日 18時55分31秒

90年代総括−ちはやふる2




「ちはやふる」感想ノート・演劇の時間 2
塚原勝美
                
 ここでは天文館企画として上演された小松杏里/作/演出による「ちはやふる」の
劇的方法と劇場の外と内部としての演劇の時間を、廃人ならびに、狂気者である、
私の妄想のノートを送信していきたい。あらかじめ、ノートと言う方法をとったの
は、引用による構成をとっていきたいからである。「ちはやふる」においては、多
様な装置と方法が出現していた。まず古代言語としての上代語での上演。そして、
コンピューター・グラフィックの活用。「ちはやふる」は古事記・日本書紀神話を
めぐる時間であったと同時に、現在の先端的な時間であったのである。
 そのとき私は胃袋がぐうぐう鳴っていた。私にとって実験劇は目の欲望を喚起し
てくれるのではない。胃袋の欲望を喚起してくれるのである。

-------------------------------------------------------------------------
   ここまでの考察は、次のことを示している。電子メディアは、通常単なる
  事物であると考えられているが、実は、一種の他者として、少なくても萌芽
  的な他者として、われわれに対じしているのだ、と。われわれは電子メディア
  の使用に没入しているとき、メディアに対して、端的な事物に向かうように
  接することはむずかしく、それが、さながら「魂」の原始的な形態であるかの
  ように接してしまうのである。こうして生じてしまうのが、電子メディアの
  メッセージ性である。
       「メディア的変容・メッセージとマッサージ」 大沢真幸
        InteCommunication No2 NTT出版 1992,10,1
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 ここで大沢真幸氏が言う他者と「魂」とは同義ではないかと思える。それは、内
面で対話せざるを得ない、もうひとりの自己存在であろう。「ちはやふる」に電子
メディア形態を取り込んだことは、神話世界の舞台装置として、もっとも、ふさわ
しかったのである。電子メディアも原初的な他者へと帰還しているからだろう。

 小松杏里はイザナギがイザナミを追う黄泉の国のイメージや、火のイメージ、お
よびタヨタマビメが産屋でサメに変身するイメージを、CGと何台ものモニターを
つかい現出させた。その形態こそ原初としての時間を異質にさせたのである。いや
あるいは、テレビ・モニターこそが、すでに映像の始まりであったのだろう。

 わたしが始めてテレビ・モニターを見たのは、小学生1年の入学式、4月10日
であった。1959年である。その日は現天皇と皇后の結婚式パレードであった。
母は町の女土方として働いていたので、叔母が入学式のつきそいとなってくれた。
帰り道、叔母は村でテレビを買った豪農の家に、私を連れて立ち寄った。めずらし
いテレビというものをお前に見せてやるから、いい子にしているんだよ、と叔母は
私に言い聞かせ、その大きな豪農の家に入った。

 暗い座敷にはんてんを着た女たちが3人ほどいて、叔母の着物はよそゆきだった。
私は口をおおきく開けてテレビを眺めていた。群衆の歓声、日の丸が全体に揺れて
いる。祝賀パレードの馬車は進んでいく。にこやかな笑顔で手をふる、幸福に満ち
溢れた顔が流れていく。私にとってテレビの遭遇が大王神話へのアリとなった記念
すべき日だったのである。それから、私は口を大きく開けるのが癖になってしまっ
た。小学校の旅行の記念写真では、いつも何故か私一人が、アホ面のごとく、大き
く口を開けているのである。おそらく私はあのテレビ初体験によって、映像という
ものに対して畏怖をもったのであろう。だから写真機の前では無防備になってしま
うのである。

 戦前のラジオが大王神話のメディア装置でり、敗戦の8月15日にその完成をな
しとげたように、1959年からはテレビがその位置に座ったのである。上座へと。
 ゆえに古事記・日本書紀の神話世界の舞台装置にテレビ・モニターは必要として
の武器となったのであろう。それは大王部族の結婚フィーバーに全体として突入す
る、現在の時間なのである。われわれの内面はテレビ・モニターなのである。

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ところで、今回の不況は、石油危機や円高などの外的ショックによるものでなく
長期の好況やバブルによって行き過ぎた経済が調整されることによって生じたもの
で、いわば経済の内発的要因によってもたらされたものだ。外的ショックへの対応
は1970年代以後しばしば経験してきた日本経済も、内生的な変動に対してはと
まどいがみられた。
   大予測(1993年版)日本経済  長銀総合研究所 KKベストセラーズ
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 自己省察ができぬ現象として、今日の精神なきある全体の映像のフィーバーは、
乗り移り現象として「けだるい午後のテレビ・モニター」を、つけだるにする。
 日本の権威とは、いかに大王部族の近いところの場所に席をしめているかに、あ
るのだが、そこにはもはや死んだ内容と実体しかないことを、かれらシステム成員
たちは、いまだ自覚できぬ破裂した見せかけのユニットとしてある。
 かくしてテレビ・モニターは、主体なき現象乗り移りを全体化する、われわれ、
ロブスターを喰わされ、日々国家生活の家畜として生成している部屋から、劇場へ
と奪還されるべきなのである。もはや今日、生活の王様として場所を支配している
電器具・家具は、再度、演劇によってしか、対象化はできないのであろう。

 こうしたモノたちを小松杏里と「ちはやふる」スタッフは、奪還したのであろう。
 たしかに美術はこれまでも、これら生活器具を解体し異化してきた。ところが、
演劇は舞台に再度それらを再編することによって、物語の時間に組織するのである。
こうしてモノは人間との交換関係によって、いきいきと空間で飛躍する。舞台装置
とは演劇の内発的欲望によって、生成する。演劇は美術を空間で生成させるのであ
る。こうして1993年の演劇は、外的要因によって生成してきた劇場の外部に、
ただよう内発的な戦略なき日本経済の気分を挑発するのであろう。

 今年の年賀状に登場した鶏は、国家生活の家畜のシンボルであったことを、よう
やく、私は、「ちはやふる」舞台のテレビ・モノターによって、教えられた。それ
は一方的通行としてこの生活空間に飛ばされている、テレビ電波とはなんであろう
と、考えた。それはおそらく共同体に基礎をおく、公共性とはほど遠い、言語占有
として、われわれの内面と深層に、生コンクリートをぶちこむポンプ装置なのだ。

 一度として独立した個人としての内面も精神も内在化した歴史をもたぬ、1億2
千万の家畜のひとりである私とは、この世界にとって何者なのか?こうして古事記
日本書紀の神話は、内発的要因によってバブル経済が破裂し、すべての矛盾が庶民
である個人と単位家庭に、吐き出される現在、その肉体感情をめぐって、とらえ返
される必要がある。そうでなければ、内的対話からつくりだされる固有の精神活動
は、テレビ・モニターの占有電波による現象の占領によって、孤立化され分断され
壊滅させられてしまうであろう。あの日本神話の肉体感情によって。

  その肉体感情が家庭において爆発し、テレビ・ワイドショーの餌食となり商品
として一方通行電波にされるとき、そのギリシア悲劇は、あの幸福に満ちた笑顔が
こぼれる祝賀パレードをいっそう輝かせる、補完装置になるのであろう。こうして、
単位家庭の悲劇は、権威ある聖家族の幸福に奉仕していくのである。

 天上の言語は地上の言語を支配する、そのために天孫降臨の神話は反復してきた
のである。貴族も武士も資本家も国家官僚も、この権威に変わるべき人間または社
会の原理・原則を樹立することはできなかった。そこに上部機構の主体的弱さがあ
った。つまり日本の上部機構は天孫降臨の神話におのれの権威をこすりつけ、世界
精神としてのイデオロギーを、今日まで樹立できなかったのだろう。 

1993,3,13







トップペ−ジへ 2000年07月12日 18時47分39秒

90年代総括−ちはやふる3


「ちはやふる」死と生の時間 結語
                        塚原勝美

 演劇の時間はその幻想においてある舞台からある舞台へとインターフェンスして
いる。小松杏里・作/演出による「ちはやふる」は、私が過去に観た舞台を呼び出す
のだった。そのひとつは木下順二作「子午線のまつり」である。知盛の「おれのな
かではらりと落ちるものがあった」その平家滅亡とおのれの死をみすえる言葉が、
私の胸に染みこんできた。そのとき嵐圭史の声は美しかった。

 私は女を愛する能力を喪失した男である。私にとっては黄泉の国でのイザナギと
イザナミのフェテシズムの死闘こそ、より自己の顔をうつす銅境としてある。私は
女と闘争しないことには、愛を確認できない。それは私に父性が欠落しているから
であろう。おそらく%%%%スは十代後半の思想の基礎を形成する時期に、決定される
のであろうと思われる。 

日本の愛の構造はイザナギとイザナミのごとく、男と女の闘争を露呈するのでは
ないかという疑問が私にはある。本当に男と女は人格としての信頼関係に基礎をえ
て、愛をつくりあげているのだろうか? 私にはわからない。

 その意味で1992年9月、新宿タイニス・アリスでの「セオリチョッター歳月の恵み
」は、私の孤独を救ってくれた舞台であった。岸田理生の作で、演出は韓国現代演劇
の李潤澤(LeeYunTak)であった。そしてこの舞台は韓国の役者と日本の役者による、
協働的世界形成として、われわれの前に現出したのである。この舞台を体験して私は
なにが自己に感受し生成したのかを、言語化したい欲望をもっていたのだがその契機
を発見できなかったのである。「ちはやふる」はその契機となってくれた。

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演劇の基本的な原理を伝統から発見する。伝統は、:今::ここ:から遮られてい
る。伝統はむしろ呼吸法、身体のリズム、情緒などに、比較的無庇で保存されている。
名も知れぬ無数の人々の知恵と経験が、呼吸法や体の動かしかたや、発声のしかたな
どを生み出してきたのだ。それが伝統だ。
伝統の中にひそむ原理!死んでしまった原理!今はもう誰も使おうとしないこの原理
から、生と演劇についての知恵を学びたい。
 この、今はない原理を、どのようにして;今;;ここ;に、つまりわれわれの方法
として引き入れるか?
 伝統、すなわちこの原理は、それぞれの民族によって差があり、時間的な限界もあ
るが、その一方、普遍性を持っている。ギリシア劇にもアジアの饗宴劇にも共通する
原理がある。これが重要な発見である。

「歳月の重み」は私にとって、上のような、小劇場運動についての考え方とその方法
論を実験してみる楽しい作業であった。これまでの韓国、釜山のカマコル小劇場で作
業してきた演戯団コリペの方法をまず試し、衝突する韓国的なイメージと日本的なイ
メージとを、;第三の視点;で総合したいと思った。
 この;第三の視点;とは、東アジアの伝統という意味である。共通する東アジアの
伝統、原理をいかにして現代演劇の方法として再生するか。それが私の実験であった。
前衛としての私の仕事は、死滅した伝統を解体し、再構成することであった。

  「歳月の重み」演出ノート 李潤澤    訳 金有出
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小松杏里も「ちはやふる」の時間によって、日本語の伝統なるものと、神話を解体
し、ここから「おれたちの言葉」「おれたちの世界」をつくりあげることが、可能か
どうか、再構成したのであろう。何故なら今日、われわれが日常的に使用している日
本現代語は、すでにマス・メディアによって、われわれの内面にぶちこまれている、
コンクリート・ポンプ装置だからである。われわれの言葉は自分のものであると錯覚
しているだけで、実はマス・メディアの言葉を使用しているに、過ぎない。

 つまり、われわれの価値判断・日常的会話はスターリン言語によって生成させら
れているのである。テレビ・モニターによって育てられた光景とは、言語なるもの
の内部とは、人間や自然環境によって教えられるのではなく、スターリン電波とそ
のメディアによって、教えられるのである。子どもが誕生する前に、ポンプ装置と
しての、テレビ・モニターは天上の言語として存在していた。

 ここに、日本的自然観がさらに、人為的・人口的な言語と映像を、あらかじめ、
自然生成のごとく思いこませる増幅装置となる。テレビによって保育されてきた、わ
れわれとは、テレビこそが母性であり父性なのである。それは新聞・ラジオ・テレビ
へと家庭のメディアが変貌した経験をもつ、大正生まれの老人であろうと、変わりが
ない。彼らこそ天上の言語と天上の神話によって、天孫降臨の奴隷としての家畜であ
たのだから。こうして戦前から敗戦後、大経済主義による高度成長をえて、過労死を
促進させた人権無視のバブル有頂天、その破裂まで、国家生活の余剰なるものは、
ゴミとして消却されるか、あってはならぬものとして壊滅させられてきたのである。

 しかし演劇の時間は母性・父性なる人間の時間帯を、保守・そして防衛してきたの
ではないかと思われる。人間は必ず死んでいく。これまでの人間は土へ帰ることがで
きたかもしれない。しかし最後の人間であるわれわれはもはや土へ帰ることは、す
でに、人間が帰るべき死後の世界を消却した現代都市によって許されない。

 人間の死は都市によって汚されているのである。都市は死後の世界、つまり黄泉
の国など存在しないと宣言している。それが商品の生成を謳歌する消費社会だ。
あふれる商品と消費にとって、黄泉の国は汚らしいイメージでしかない。畏怖の世
界と他者世界の入り口はいま、%%%%消却場の煙突であるのだろう。

 旧約聖書・コーランの叙説のごとく、人間はチリとして帰るのだろうか?
空にただよう煙、そのあまりにも軽い質感こそ、今日の黄泉の国なのだ。ゆえに、
演劇は煙幕と照明によって、もうひとつの世界たる黄泉の国を奪還する。

 私が「歳月の重み」の舞台装置によって、孤独を救われた。その理由は、奥になら
んでいた、死者たちがすべて夫婦あるいは恋人たちであったからだ。それまで、私は
人間は一人で死んでいき、死後の世界も永遠に孤独であると思っていた。しかし、そ
の発想は転換された。男と女の連れ添いの死者たちを観て、ある暖かさを私は、感受
したのだった。

 結婚した経験をもたぬ私は夫婦という実体をしらないし、永遠に体験することはで
きぬであろう。しかし幼少の私を、ある時期まで育ててくれた、村で「まんどころ」
という屋号をもつ親戚の叔母夫婦。その叔母とは私の母の姉であり、「まんどころ」
という村の農家に後妻にきたのである。私が「まんどころ」のじいちゃんと呼んで
いた叔父は、叔母が亡くなると、後を追うようにあの世へと他界していった。

 あれは74年の春だった。「まんどころ」での、叔母の葬式で、私はその叔父か
ら、お前は冷たい人間だと、とおまわしな言葉で批判されたことがある。私は病院
にも「まんどころ」にも、叔母の見舞いに行かなかったからである。叔父の表情に
は、あんなにもお前が小さいとき面倒をみて、かわいがってくれたじゃないか! 
それなのにお前は見舞いも来なかった。叔父は私に無言でそう言っていたのである。

 70年安保の怒涛と、反戦労働者・宇都宮大学のバリ封鎖などの場所に、17歳
から参加していた私は、街でも「アカに染まった少年」として有名だった。警察も
私たち一族の中心である村の「本宅」に聞き込みに来ていたし、それは当然、村で
も噂になっていたに違いない。あいつは連合赤軍だと言う記号が、ある右派労働組
合の悪意ある政治的人間たちによって、流され、それらの記号は私の背中におしか
かってきたのであった。

 その当時、日本全国どこにでも存在する守本流としての政治的人間たちは、連
合赤軍の記号を使い、共同体の反抗者たちを、そのマス・メディアの記号で認定し
孤立化して、反対勢力を壊滅していったのである。ゆえに連合赤軍問題とは、70
年代の同時代の問題であり、その出来事は日本神話・天孫降臨をめぐる、日本誕生
の思想的課題として、私は死ぬまでこだわりづづけていくだろう。

 問題はこうなのだ。戦前における1930年代思想史その転向の場所とは、やは
り、自ら人間関係を歴史的共同体から切断してしまったのである。天孫降臨の神話
は土地をめぐる闘争にある。反抗者がおのれの土地つまり歴史的共同体の人間関係
を自ら切断してしまえば、それは土地を占領する大王部族とその権威によって、お
のれの利権を増幅する日本保守本流にとって、都合がいいのである。

 天孫降臨とは記号をめぐる神話でもあるのだ。記号とは金属鋳造から誕生した人
の工作言語としてある。こうして日本近代史・現代史で反抗者はつねに、天孫降臨
によって、記号化され、牢獄へと追いやられて来たのである。

 私の叔父は選挙違反の容疑で街の警察の留置所に入れられた人でもあった。だから
村のなかでは、話しができた人間であったのではないかと、今思う。しかし、その時
私はまだ若かった。ある人間がいかに孤立しようとも、おのれの歴史共同体関係と、
一族の人間関係は保守すべきであるのだ。この固有の自己をこの世界に押し出してく
れた一族の歴史は、大王部族の歴史に還元できぬ、独自な歴史を持っているからであ
る。今、われわれはおのれの家族史を再発見していかなくては、永遠に歴史を語れぬ
者として、消却されてしまうだろう。

 もはやテレビ・モニターから吐き出される一方通行の言語と映像の全体化と占領。
そのうすっぺらな内容と、底の浅い物語の過剰な繰り返し。マス・メディアとしての
テレビも大衆新聞も、毎日毎日、物語を展開しているのだが、その愚劣な物語はもは
や、任天堂のゲームによって敗北させられている。 誰でも「情報」とは、「やらせ」
であることはもう認識している。

 「ちはやふる」ラストシーンは、上代語の主人公が現代語をとつとつと話すので
ある。つまり現代語は天を形成した神の言葉であったのだ。それは逆説であるのだ
が、われわれは歴史を神の視点で思考しているに過ぎないおごり者であることを、
あばいたのであろう。その意味で現在とは放漫に満ちた時間なのである。そこに人
間の現在の落とし穴がある。現在を過去と未来から規定された格闘の時間として、
位置づけぬことができぬ者は、平家滅亡を反復するだろう。現在とは言葉を発見す
る場所なのである。それが「ちはやふる」の結語であった。

 「ちはやふる」の役者たちが砂のなかから、おのれの言葉を発見し、その言葉を
空間の裂け目に向かって、爆発させたとき、劇場はその固有のそれぞれの言葉によ
ってカオスの始現の渦を流動化させた。私の身体は物質の協働的世界に振動した。
こうして演劇は詩そのものの根源を、奪還したのである。

 そして詩の根源は「歳月の重み」のラストシーン、美加理が古代騎馬民族のシャー
マンまたは耶馬台国のヒミコのごとく、とりつかれた身体でもって、「おてんとう
さまー」と叫ぶ、日韓合同実験劇の場所へと、連結・連動したのである。
 ある詩人の振動はある詩人の振動の場所へと、時間の器官がつながっているよう
に、演劇の振動その劇場の空間としての器官は、もうひとつの演劇の時間、もうひ
とつの劇場の空間と連結・連動しているのである。その力こそ詩であり言葉であり
役者の身体なのであろう。

 岸田理生/作 李潤澤/演出「セオリチョッタ歳月の重み」は、かつて古代の朝鮮
半島と日本列島の民衆が、海を乗り越え往来していた古代の時間を呼びだした、も
うひとつの神話の世界であった。そして私はやがて7世紀の日本誕生によって、そ
の交流世界が切断し、古事記・日本書紀が集約した以後のわれわれの身体を観た。

 新宿梁山泊の役者、近藤弐吉は日本の壮絶な権力闘争をめぐって沈澱してきた、
「怨」の身体とその孤独を現出させたと思う。韓国演戯団コリペの役者、河龍夫
(HaYong)は、その日本の内戦の矛盾を侵略として外傷され沈澱してきた、韓の「恨
」の身体を現出させたのではないか? そう私は感受した。

 ク・ナウカの宮城サトシと演戯団コリペの鄭東淑(ChonDongSuk)は、古事記・日
本書記が集約させた以前の、東アジアの民衆交流のやわらかな身体を現出させたと
思う。村松恭子の身体は草原的でありながら、日本の女の孤独をも私に感じさせた。
そして美加理の身体から、古代共同体の母性なるものを私は感受したのである。や
がてこれら沈澱した多様な身体は生命の喜びを爆発させ、輪に躍るのである。

 その舞台の中心には母性と父性が存在していたように思える。それはあらかじめ、
舞台の奥にいた夫婦または恋人たち、その死者たちの人形であろう。その母性と父性
こそ、あの世から、現在の東アジアの伝統と原理の再生、民衆の協働的世界形成が可
能であるのか?それとも不可能なのかを、見守る、あたたかい精神のように、私は思
えた。演劇の母性と父性は何か?それを今後、私は思考していきたい。

 「ちはやふる」も演劇の母性と父性によって誕生したのであろう。
私が注目したのは、物語の語り部たる鄭治子と未来都市のイメージを現出させた、
とりいちえの存在である。

「ざわめく街、このままでは私の存在が消えてしまうように思えた」その言葉が
現代の都市と拮抗する。おそらく私という人間の存在を確認し証明するためにこ
そ、表現はあるのだろう。そして役者が舞台に立てば、プロであろうとアマであ
ろうと、表層世界と対決し、もうひとつの世界を構築する演劇人なのである。

 そう、詩人にプロフィシュナルとアマチュアの枠組みなど存在しないように。
演劇が詩の根源をめざすとき、役者はすでに、もうひとつの世界の人間なのであ
る。役者の身体の背後には、時間と空間の母性と父性の存在が立ち上がる。それ
は幻想のリアリズムであり、夢をみる動物としての流動的な空間の発見でもある。

 そして私はアマテラスを演じた山本艶や語り部の神を演じた鄭治子のように、
表現情熱を持続し、存在の消却ではなく存在の証明へと自己を激励していこう。
現代世界の「新世界無秩序」は、ある意味で、われわれに母性なるもの、父性な
るものの、人間としての再建設をうながしているのかもしれない。

 最後に「ちはやふる」の照明デザイン、舞台装置構造がいかに現代美術と連動
した形態にあったのかを、妄想するため、美術人の言葉を引用したい。演劇とは
もうひとつの生きた美術生成なのであり、そのオブジュは躍動する空間と役者と
の共新によって、物質本来の磁場を現出させるのである。あらかじめ、無断で勝
手に引用することを、おわびしたい。今後も私は印刷メディアと対抗することが
可能なのか?それとも不可能なのかを模索するため、積極的に、印刷メディアか
ら引用を試みるであろう。パソコン通信メディアの言葉のつらなりが、言葉をき
りひらくものとして、社会に登場するためには、一度、印刷メディアを徹底的に
収奪してやるという、盗賊的情熱が必要であろう。

-------------------------------------------------------------------------
あえていうなら、私の唯一の基準は、現代における芸術のプロブレマティックに
ついて、どれくらい深く洞察し、言語化しているかという点にあったと言えよう。

                多木浩二  美術手帳2月号 美術出版社
-------------------------------------------------------------------------

私は24歳の時、盲目の女性から「わたしの顔、笑っている?」と質問されて
パラダイム・ショックを受け、おのれの発想を転換したことがある。彼女は自己
の表情を、私という他者によって確認しようとしたのだ。そこに彼女の知覚の格
闘があった。そして私は彼女から学んだ。洞察とは、目のみではなく、自己身体
の全面的発動をもって、言語化していくことを。なによりも私は彼女から尊厳と
いうものを学んだ。

 もはや、画一化のパワフルなき日本語の現在を突破するためには、一度、徹底
的におのれの言語枠組みを解体し、「おれの言葉」を発見していく必要がある。
「ちはやふる」は現在の言語関係に対する、パワーシストを試みたのだ。

--------------------------------------------------------------------------
 驚くべき変化が我々を21世紀へと駆りたてている。
 つまり「パワーシスト」は、産業文明が世界的支配力を失ない、新しい勢力が
 興って地球を支配する際に、なお我々が直面する権力闘争の高まりについて述
 べたものである。
 世界中に共通したパワーの構造がかくも無残に崩れるのは、滅多にあることで
 はない。パワーゲームの全ルールがいつどきに変わり、力の質そのものに大変
 革が生じる事態は、歴史上極めて珍しい。
 とはいえ、これこそが現在、実際に起こっていることである。個人や国家を大
 きく規定するパワー、そのパワーそのものが規定し直されようとしている。
 世界の権力構造も同様に崩れ始めており、それとともにビジネスや日常生活に
 おける古い形の権威や権力の崩壊も速度をはやめている。
 こうした人間社会のあらゆる分野の権力構造を変える動きが、今後ますます激
 しく広範囲に起こることは間違いない。
 権力間のこの比重を変えようとするこの大きな動きは、大地震の前の不気味な
 地盤のずれに似ている。そしてそれは人類史上、特記されるべき出来事になる
 だろう。それは権力の質そのももの革命なのである。
 単に権力の比重が変わるだけでなく、パワーの形と質が変わる!
 それがパワーシストなのである。
 その結果、世界には何物をも吸い込んでしまうブラックホールがすでに口を開
 けつつある。

   「パワーシフト」アルビン・トフラー 訳/徳山二郎 フジテレビ出版
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 現在の日本の不況と金権腐敗状況は、産業・金融文明その権力構造の崩壊とし
てある。そして今年6月に頂点を人為的にあおる、大王部族の結婚フィーバは、
21世紀への生き残りをかけた、天孫降臨神話の世界戦略としてあるのだろう。
そのためにテレビ・モニターは国家総動員法として、天の言語・映像と唸る。
全ての矛盾と悲劇は個人と単位家庭に転嫁されていく。古い権威を上塗りするた
めに、民衆の一族の歴史と物語は、底の浅い天上の愚劣な物語の過剰占領によっ
て、壊滅させられてしまうであろう。おそらく日本システムの古い権威は、世界
の現在のパワーシフトが、日本に波及しないように、デジタル列島を全面管理し
天孫降臨の神話を、庶民の頭脳と身体にぶちこむであろう。

 現在の時間とは、言語・映像・物語をめぐるパワーシフトの闘争としてある。
そして現代の表現はブッラク・ホールの空間・その裂け目から、想像力を立ち上
げる。

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        ブッラクホール内視鏡

 いまからおよそ150億年前ビックバンによって誕生した宇宙は、膨張の果て
に収縮に転じ、いつか宇宙のすべてのエネルギーが一点に収束するビッククランチ
特異点で終えんを迎えると言われている。現在の宇宙に散在するブラックホール
は、重力崩壊した星の爆発と収縮によって生まれた特異点であり、無限大の密度
と重力を持つその限界からは光させも脱出することはできない。ブッラクホール
は宇宙誕生初期のミニブラックホールのように蒸発したり、物質や光を飲み込ん
で成長をつづけながら、宇宙の老化にともなって虫喰い穴状に広がりつつ究極の
特異点ビッククランチへと収束していく。こうしたブッラクホールの存在には、
誕生と死をめぐる全宇宙の運命が隠されている。
 20世紀の終わりに、相対性理論に予見されたブラックホールを観測した人類
は、21世紀初めには火星開発を計画し、太陽系の征服へと踏み出そうとしてい
る。現在に至る地球生態系の開発と破壊の歴史を顧みると、人類の変位的文明意
識は地球環境での悲劇をさらに宇宙空間でも再演しようとするものと憂慮される。
 火星と同様に無生命圏である地球上の砂漠は、生命圏である地球という小宇宙
における「ブラックホール」と言える。文明による温暖化と気候変動がもたらす
砂漠化は、宇宙をむしばみ死へと回帰させるブラックホールの増殖に相似する。
 わたしの故郷、中国ウイグル自治区のタクラマン砂漠では、核実験や天然資源
の開発による汚染、また多民族による先住民に対する宗教弾圧など、物心両面に
わたる環境破壊が行われている。地球上「ブッラクホール」内で目撃された光景
には、人類の宇宙開発のシュミレーションとその運命が映り出している。

 5つのブッラクホール状の筒内でビデオ・プロジェクターにより映写されるの
は、タクラマカン砂漠における危機とパフォーマンスの記録フィルムである。
観客は筒にあけられた開孔部を通して、砂漠から宇宙をループする人類文明への
警告のアートプロジェクトを内観することになる。

     1992年10月 故郷ウルムチにて 王新平(Xin-PingWang)

「現代性の問いかけ」"28"今日の作家展 横浜市民ギャラリー
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私の精神は91年、湾岸戦争そのテレビ・モニターの前で破砕した。
こなごなに砕けた内視鏡に、乾いた白い砂が降臨してきたのである。それが、
世界的パワーシフトの入り口であり、地球上ブッラクホールをむきだしにした、
ことは間違いない。砂に埋められた10万のイラク兵士たちと死者たちの、母性
父性とは何であったのか?

 「ちはやふる」は湾岸戦争以後のわれわれの感受性を現出したのではないだろ
か? 砂の舞台は火星であり地球上ブッラクホールの砂漠であったのだ。

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 彼女は神話をモティーフとすることによって独自性を勝ちえているわけではない。
 デフォルメされた頭部や手足、ちいさな人型、解析不可能な動物、植物といった
種種雑多なイメージを、カリグラフィな線、表現主義的な筆触、厚塗り、薄塗りと
いった不定型な描法で構成することによって独自の物語を生み出すのである。

   渡辺紅月展批評  中井康之   美術手帳2月号
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 現代演劇の小松杏里による「ちはやふる」も、神話世界によって独自性を建設し
たのではなかった。役者の格闘・舞台装置・照明デザイン・音楽によって、空間の
特異点その独自世界を現出させることができたのである。その方法はおそらく渡辺
紅月がとった不均衡という描法の世界であったと思われる。

 つまり現代美術、現代演劇においても、湾岸戦争以後の感受性は不均衡に存在す
ることを、再度、われわれに知覚させるのではないだろうか?

 そしてパワーシフトの現代演劇は、ブラックホールの内視鏡を胎動させながら、
その空間と時間の体験によって、人間の母性・父性なるものへと、求心力と遠心力
の磁場を舞台の中心に立ち上がらせるのではないだろうか?

 時間および空間は宇宙から誕生し、そして死んでいくのかも知れない。
 その死はもうひとつの世界である宇宙の母性・父性へと帰還していくのだ。
こうして天孫降臨神話は、「おれたちの言葉」「おれたちの世界」をつくりあげ
 るパワーシフトの若衆たちに、転倒されていくのである。
 21世紀へと駆け出すものどもは今、生命反応・存在証明として、砂漠の表層皮
 膚を突き破り、砂の底からゆっくりと立ち上がった。
 舞台の奥の協働性にある暖かい身体にこそ、母性・父性なるものの中心は存在し、
 民衆の一族その歴史を語る物語の担い手であったのだと。
1993,3,17
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1993年10月に、長淵基江さんの個人的な格闘を基盤に、湘南における
演劇と音楽発表の拠点であった、アート・スペース天文館は、閉館となって
しまいました。ここで、1993年春に上演された「月光舎」による、日本
書紀/古事記をテキストにした古代語による舞台の感想批評です。

ダウンロードしてくださって、ありがとう。
あなたが、講談社学術文庫からでている「日本書紀」「古事記」を読み、
そして、柄谷行人(からたにこうじん)による、<戦前>の思考 
発行は文芸春秋社です。ここににファイルされている「文学論」を、読んで
くさされば、とても、うれしいです。
私たちの日本語とは何か? ともに詩人として探求していきましょう。

今後、私は、アリストテレス「詩学」へと、挑戦し、吸収していこうと
思います。あなたのご活躍をいのります。元気で明日へ。

                    1994.6.27 塚原 勝美








トップペ−ジへ 2000年07月12日 18時41分28秒

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