鬼怒天皇物語(きぬてんのう・ものがたり)4                塚原勝美(つかはら・かつみ)       4  1984年、5月末日、鬼怒天皇物語第1部の脱稿をはたし、鎌倉・由比ガ浜 を歩いていた。次は何か? 日本革命想像力論を書きたい。とてつもなく大きな 課題であったが、挑戦の欲望が心の奥から充満してきた。1988年に物語の再 開を約束したが、構想はひとかけらもなかった。  愛している女との過酷なフェテシズムの愛の関係からひととき離れることがで きる。それが唯一、安定した精神としてあった。共鳴する言語によって呪縛され てしまうといった性格をもつ私は、1979年の秋、その人の歌を最前列で聞き その人の静かに微笑むギターを抱えた麗しい横顔を、己の心に焼き付け刻印した 時から、私のなかで物語は確実に復活をとげようとしていた。 朝鮮戦争のまっだなかで、ディアラは産まれた。あれは遠い1953年。 3月27日。その年、スターリンは死んだ。やがてスターリン暴落が日本経 済に訪れる。そう、ディアラは落下の申し子だったのだろう。  ディアラは東京の調布市、都営住宅で産まれた。父は占領軍憲兵隊員が 監視する機関銃を造る工場で働いていた。父は旋盤工だった。 ある日、叫びながら家を飛び出し、調布の田園を走っていったと母は言う。 気が弱い父は、何者かの監視下の労働に、もはや耐えれなかったのだろう。  1955年、朝鮮戦争は終結した。それを期に日本共産党は地下・非合法 活動から、再び街頭に登場し、分裂していた左右社会党も、日本社会党とし て統一されていった。さらに保守党のつらなりは、右翼の児玉機関による、 闇の巨大資金によって、自由民主党として合流していく。 日本経済がこの戦争によって、復興し、昭和初期の経済を越えたことは、言 うまでもない。この時期の青春像のトーンは絶望であった。  この都市の8月、ディアラは2歳になっていた。いまだ彼の記憶装置は作 動していなかった。その瞳はただブッラクホールのように、帝都郊外の情景 を吸い込んでいた。長屋のような木造都営住宅の部屋で、ディアラは50年 代の空気を吸っている。その表情は魚のようでもあり、蛇のようでもあった。  朝鮮戦争と東京証券スターリン暴落の申し子・ディアラは3歳で記憶装置が 起動していた。あらかじめディアラには内部というものが欠落し、すっぽねけ ているように、ただ縁側から3月28日の庭をながめている。  農家の庭とは生産のための工場でもある。そこには、さまざまな農業生産と 食物を保存するための土の装置が形成されている、ゆえに農家の庭は巨大でな くてはならなかった。そしてその広場は村の子供たちにとって、よりよい遊び 場だったのである。  栃木県矢板市豊田村、ここは百姓塚原家の分家<まんどころ>と呼ばれてい る。里子としてディアラを養ってくれているミツ子は大正1年に、轡田(くつ わだ)家の3女として産まれた。あの平清盛が京都から政治の中心を移転しよ うとして造成しようとした福原の代々の家だった。  ミツ子の父は治之助、母はサヨ。サヨは福原の大きな寺の娘であったと言う。 治之助の12人子供をサヨに産ませた。ディアラの母、テルは9番目の娘であ った。轡田の先祖を辿ると、朝鮮からきた馬具に描く絵師であったと言う。 顔の骨格を見れば、轡田家の人間が朝鮮系統であることは判断できる。  塚原家の顔の骨格は、中国系統であろう。そして長く日本の百姓伝来の身体を 継承している。騎馬民族と農耕民族の血が交配できたのは、大東亜戦争の産物で ある。大正生まれの女は女学校に入れない身分であれば、高等小学生を卒業して すぐ働かなくてはならなかった。  大東亜戦争はそのような帝都の女労働者の相手たる男は、ほとんどが兵士とし て戦場に連れさられてしまっていた。まともに結婚できたのは身分がある娘だけ だったのである。ミツは栃木県大田原市佐久山の薬屋に嫁いでいた姉の家に疎開 した。そして豊田村の塚原家の分家<まんどころ>の家長であった、広継(ひろ じ)の後妻として嫁いでいったのである。  女が生きていくためには、帝都での男との出会い、職場での恋愛を捨てねばな らなかったのである。男達は戦場に取られ、帝都の生活圏には、もはや青年など いなかったから。大東亜戦争は大正に産まれた女から恋愛を奪ったのである。 大正デモクラシーとは庶民の女にとって、虚構でしかなかった。 近代の内部を通過したのは、0・1%の人間のみであり、それは現在まで続いて。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――    語り部は1989年12月5日。今日の仕事のデズラで、何とか4日分のドヤ代 を払えることができた。後、4日分の宿泊は確保できた。疲れていた。 日雇い労働者組合の仕事。労働者に相談された賃金不払い・労災モミ消しの問題も 解決しなくてはならない。さらに困難な問題は在日アジア人労働者の賃金不払い・ 労災モミ消し問題の解決だ。群馬県太田市の労働基準局まで行かなくてはならない。  日曜になると事務所に、次から次へアジア人労働者が訪れ、相談に来た。 聞き取り調査。しかし自分が食物を獲得するために、日雇い労働にも行かなくては ならない。彼は矛盾の重みに潰されさうであった。一緒に在日外国人労働者への連帯 救援活動している、キリスト者がうらやましかった。彼らにはボランティアの活動を 支える圧倒的な信者たちがいた。その組織力と謙虚と献身さに、彼は驚嘆した。  日本の左翼の組織など問題にならない。キリスト者に比べれば、おれたちは、何と いう貧しさと貧困な組織観だろう。それに世界的なネットワークもない。 日本の左翼・マルクス主義者は、キリスト者以上に固い観念に呪縛されているのだ。 ロシア革命が成功したのは、人民のなかに入っていった<人民の意志派>の存在が あってこそ達成できたのではないか? そう彼は思う。  彼は反レーニン主義者として判断されていたが、そんなことはどうでもよかった。  おれは鬼怒天皇物語の語り部なのだ。これがおれの生涯性なのだから。 彼は芸術でも政治でも前衛の場所にいる必要性があった。そのためには身体をその 空間と時間に置かなくてはならない。ここによって語り部の革命的想像力は学習でき るのだ。鍛えることができる。現実の先端に身体の位置をかまえてこそ、その時代の きんたまとおまんこをつかみ、それを握って表現した内容は、未来の射程を内包する ことができる。それが砂塵・塵芥に帰還する自然の本能歴史に抵抗し、生き残ること ができる唯一の想像力である、これが彼の表現に対する綱領であった。  大学解体・自己否定の68年テーゼを、継承した彼にとって、大学とは社会であっ た。政治・経済・生活経験が何度でも幾たびも敗北し破綻したとしても、この現実に よってしか、語り部は学習できなかったのである。その学習とは身体五感という動物 的本能のことであり、自然の摂理に抵抗できる語り部の生命力の内実であった。  人間の生活と生存とは、日本の最低辺と呼ばれる、ここドヤ街にあっても、闘争そ のものであるこは、マルクス以上に理解できる。街頭市場と賃労働の朝があける。  彼が参加していた日本革命党の哲学指導者が1988年夏に表出した論文 『マルクスの唯物史観と実践的唯物論-唯物論を神学化させる「物質の哲学」への批 判』によって、すでに彼の内部は自壊していた。 「物質の内部に弁証法などは存在しない。エンゲルス弁証法は物質の神学である」  この論点は、彼が17歳で共産党宣言を読み、ドイツ・イデオロギーを読み、 さらにエンゲルスの「空想から科学へ」を読んで、理解したと思い込んでいた弁証法 と物質の進化発展は、みごとに瓦解した。自己の唯物論弁証法は崩壊をとげてしまっ た。この内部の経験はその後の89年事態、ベルリンの壁消滅から東欧スターリン社 会国家の崩壊、さらにソ連の解体よりも、語り部にとっては、恐れるべき内部の崩壊 であったのである。彼はすでに1988年夏に、革命的な論文によて崩壊をとげてい たのだある。  おれは20世紀スターリン神学のひとつ物質に過ぎなかったと。  おれはスターリン没落の申し子であったことを、語り部はその空洞を見据えていた。  1989年になった。そのとき、語り部は、1983年に完成させた、鬼怒天皇物 語の第2部序章を描きたい、そのような欲望が浸透してきた。語り部は未来から規定 されている、それが人生の逆規定である。人はその人生の未来からインスピレーショ ンとして、起動されることがある。ただいまこの時間において、過去の自分は現在を 生活している。未来の自分も現在を生きている。時間とは相対的な鏡のような宇宙で あるから。もうひとりの自分が過去の宇宙に未来の宇宙に、ただいまこの現在に生活 している。インスピレーションこそ、そのもうひとりとの交信であろう。  時間の宇宙こそ人生の生命潮流なのだ。自然の摂理に抵抗する創造という名の。  語り部は1989年春、日本革命党の支部アジトから逃亡し、ドヤ街に入っていく。  彼はシベリヤ流刑地に向かう神学者スターリンのように山を越えて行った。  物質に弁証法などは存在しない、弁証法とは人間の思考方法である。  悪魔のごとき執念で70年前期、敗北の美学の廃虚から不死鳥のようによみがえり  中国革命から学んだ人民の意志と革命の刻苦奮闘。  それを語り部は、日本革命党から学んだことを感謝した。  支部アジトが山の頂上から見える。さらば、若き革命者たちよ。  おれは天皇制の転覆に向かう語り部として、鬼怒天皇物語を生涯、叙述していくよ。