あなたは髪をきる11月の誕生
都市の騒音消えてあなたは雨の歩道に傘をさして帰る

いつかみた青い空
夏の雲
林の梢が風とたわむれる葉の群れ

山形発、新潟行きの観光バスだった。女が読書
をしている。高速道路から西会津の風景を窓からみる。
この旅が終えたらニュ−ヨ−クに帰ろう、そう女は思った。

わたしは見知らぬその人をみていた。観光バスではときおり
いい女に出会うことがある。最初、背が高いのでフランス人
かと思った。

わたしは20年前のオホ−ツクの旅を回想していた。
印刷工員だった。正月休みをいつも北海道の旅にあてていた。
津軽海峡冬景色のように、誰も無口だった。しかし旅人は
沈黙のなかにこころの交流があった。
敗北を経験した旅人は北をめざすのだろうか?

ふと、その人と目があった。声が聞こえる。
また病気がはじまったのだろうか?
幼少のころからひとりが好きだったわたしは、平家落人の
ような村で、兄たちが小学校へ登校してしまうと、いつも
ひとりで遊んでいた。田んぼがある。道がある。山へ入る
野がある。そこで、わたしは立っていた。こころの仮想へと
深く降りていく遊びを知ってしまった。
山の神がわたしに降臨し、山の子となったのである。

1978年4月、わたしの友人、長谷川さんが死んだ。
胃がんである。日本革命の闘士だった。彼は%覿箸BR> 電器会社の工場で働いていた。党細胞と青年組織の
指導者であった。だからいつもしめつけが工場内では
厳しかったのである。1977年反動の季節、日本列島は
変革をきらい、復古が反復していた。あらゆる組織は
つぶされようとしていた。わたしはふるさとでの運動から
逃亡した。長谷川さんを残し。

その長谷川さんが病気で倒れ、1978年正月、栃木県
矢板市の塩谷病院に見舞いにいった。部屋から出るとき
彼の情念と執念がこもった視線に刺された。
「おまえは逃亡したのだ」と。

そして4月最初、工場の同志から電話がかかってきた。
「長谷川さんが亡くなった、葬式が長谷川さんのふるさと
である西会津である、待ち合わせは、明日の朝8時、
塩谷病院玄関で」わたしはすぐ電車に乗った。上野駅近く
の深夜喫茶で東北本線下りの始発を待つ。

矢板駅についた。塩谷病院玄関で待っている。まだ誰もきて いない。やがて恵子さんがあらわれた。恵子さんはわたしの 幼なじみである。東京から敗北して戻ったのは1974年 だったが、うたごえ喫茶にいったとき彼女がいた。そして 長谷川さんと出会う。音楽が生きがいの人だった。 彼のギタ−伴奏に合わせ、おもいきっり、喫茶店で歌うの ある。

雪が降ってきた。なごり雪である。やがて友人たちが集合して きた。10人くらいである。それぞれ分散して車に乗る。 西会津をめざす。国道四号線を福島へ北上するのである。

長谷川さんの家に着いたのは昼頃である。葬式には まにあった。工場の党員同志たちも着ていた。 「この子は、みなさんに何か迷惑をかけていませんでしたか? お金をかりたとか、あればいますぐ言ってくさい」 そう長谷川さんのお母さんが言った。会津武士の厳格さが あった。「長谷川さんはそういう人ではありませんでした、 お母さん」山梨出身の工場労働者同志が言ってくれて、わ たしたちは救われた。

冠の前で、青春を歌った、友らは嗚咽をあげ涙する。
わたしはバランスが崩れる、自分を保守するに精一杯だった。
わたしは、長谷川さんに謝るのに精一杯だった。

やがて長谷川さんは墓へと運びだされる。
雪はふるふる。雪に積もる白い西会津の村。雪が溶ける
黒いアスファルト道路。麻であんだ武士衣裳、村人男たち、
長谷川さんのお兄さんが冠を運ぶ。男たちは唄をうたいながら
裸足である。会津戦争で敗北した会津の死者たちは、薩長官軍
によって埋葬することを禁じられた。死者を愚弄した官軍
をいまだ会津はいまだ許していない。歴史は雪に埋もれている
に過ぎない。だから雪が溶けた黒い道を男たちは裸足で
共同体の青春途上の無念な若き死者を弔うのであろうか?

雪よ誰のために降る

長谷川さんは土深く埋葬される。わたしたちは村人から
教えられる。土を手で墓のなかに入れてかぶせてあげるんだよ。
わたしは一握の土を手に取る。凍った土である。
長谷川さん体が入った冠に投げる。

暖かいお茶を飲んでいきなさい、近くの家で、わたしたちは こたつに入れてもらい、お茶をよばれた。 みんな沈黙の悲しみにあった。

わたしたちは長谷川さんの村から帰る、隣の県へ。 西会津から会津若松へ、そして猪苗代湖へ。雪は激しくなって きた。郡山に入るとますます激しく。わたしは車の窓から ただ路上の街灯をみていた。雪が舞う。白河を過ぎ、国境へ 入る。一台の車がとうとう動かなくなったので、おいていく。

わたしは黒磯駅でおろしてもらった。 アニメ−ション会社の職場に戻っても、わたしは沈黙の
悲しみにいた。1978年4月。

世紀末の10月の意味、それは存在ではないだろうか?
ふと高速道路の観光バスでわたしはそう思う。
みちのく、おくのほそみち。
わたしの人生が集約されるような声が聞こえる。
山の海、あなたとわたしは川の岸辺にいた。

言葉とは社会的な物理である。ハ−ドディスク。
言葉を発生させる身体こそソフトウェィアかもしれない。

やがてバスは新潟市についた。信濃川はとうとうと流れて。
新潟は北の都市にある水の都だった。海の向こうから
ユ−ラシア大陸のにおいがくる。

読書する女は風景を眺めていたが、停車場で降りると万代橋
の方向に歩いていった。わたしはその後姿を記憶装置に録画した。
消却されることはないはずである。