土方巽(ひじかた・たつみ) 残る意思

三上賀代

 

 BUTOHの名称のままに20世紀を代表する身体表現として、世界の舞踊、演劇、美術、思想等に多大な影響を与え続ける暗黒舞踏の創始者・土方巽(1928〜86)。彼の拠点であった東京・目黒の「土方巽記念アスベスト館」が、銀行の不良債権処理のため競売に付され立ち退きを余儀なくされている。

 3月末日まで開催された「さらばアスベスト館、されどアスベスト館」と銘うたれたアスベスト館での舞踏公演には、土方を知らない新しい世代の舞踏家や外国人の観客、研究家も多数駆けつけ、アスベスト館存続を願う思いは熱い。

 アスベスト館は、敗戦後まもなく、土方夫人である舞踏家・元藤子(もとふじ・あきこ)によってハンセン病院跡地に建設された。土方との結婚後、土方によってアスベスト館と名付けられ、1960年代には、土方巽に魅せられた三島由紀夫、澁澤龍彦、ジョン・ケージ、オノ・ヨーコら国内外の芸術家の集う知的梁山泊(りょうざんぱく)であった。

 74年、弟子たちとの稽古場から3間四方の舞台、50人も入れば満杯のアスベスト館劇場に変身して公演活動を開始した。白塗りのアングラの活動に対し、都条例違反や消防法違反であるとする地域住民の反対運動により、劇場は76年から10年間ほど「封印」されたが、86年土方没後、元藤によって現アスベスト館が建て直され、土方巽記念資料館、稽古場および劇場としての活動を続け今日に至っている。

 土方自らは一度も海外に出たことがない。明治以降の初の日本から発信したオリジナルな現代舞踊としてBUTOHが世界を席巻したのは、ただひとえに肉体に向けられた土方のまなざしの徹底性に拠る。

 私が在籍した70年代末のアスベスト館には、犬と猫と5人の女弟子の棲むひそやかな気配があった。60年代の華やかな交流を断った時代、右と振り付けられても左しか行けない不器用な弟子の雑巾(ぞうきん)がけを覗(のぞ)く土方先生の姿、自ら箒(ほうき)を持ち腰をかがめる姿、稽古場の怒声と書斎に蹲(うずくま)る先生の姿が浮かぶ。肉体一本、無知と悲惨を母体とした舞踏の原点に立ち返り、肉体のたたずまいの中に新たな舞踏の展開を模索していたのかもしれない。「本当のことは誰にも教えられない」という先生の言葉が思い出される。

 やりたいだけやる日本の父であった。極端な豪奢(ごうしゃ)のままに、与え続ける土方のまなざしは厳しく優しい。土方の提起した口ごもり迂回(うかい)する「がに股(また)」は、まっすぐに伸びた手足という理路整然した近代を撃つ。「何故だかわからないけれど、涙が出る」という海外舞踏評の常套句(じょうとうく)は、歪(ゆが)み痙攣(けいれん)する裸の肉体に与えられるのではない。私が私であろうとする切実さに人は涙する。

 「舞踏とは、はぐれてしまった自分の肉体に出会うこと」。排除され奪われてきた私の肉体への希求は、私が私であろうとするいのちの豊饒(ほうじょう)さへの祈りである。舞踏の何たるかが不明のままに今なおますます高まる舞踏への関心は、「エゴを超えた地平の感知による救済」、「自分に向き合い、自分を壊すことだから舞踏は怖い」という表裏の感想に示される、舞踏の示し得た「私」の肉体の持つ力、いのちの豊かさに注がれる。

 今春、おそらく世界で唯一初めての大学での暗黒舞踏ゼミ生24人が京都精華大学を卒業した。異端の前衛であった暗黒舞踏など聞いたこともなく、表現者になろうと思ってもいない若者たちが「暗黒」と「肉体」に惹(ひ)かれる今日、まさに人間と世界が暗黒であることが露呈される。「本当のことをまっすぐに見つめなさい」という土方の遺志は、21世紀への課題としと私たちに残されている。

 

           2003年4月1日読売新聞夕刊掲載