遊佐正憲選手について




 遊佐正憲選手は、32年ロス、36年ベルリンオリンピックの水泳800リレーで金メダル、100メートル自由形で銀メダルを獲得している。
 また、当時人気女優だった逢初夢子さんと結婚、娘のナオコさん(本名、遊佐真温子さん)は、「青春とはなんだ」最終回や「これが青春だ」第14話に出演している。
 (尚、ナオコさんは、私の好きな柴田昌宏さんとは舞台で共演しており、う〜ん、当時舞台を観に行けた人が羨ましい)
 この記事は読売新聞の香川版に掲載されたものである。




 「前畑ガンバレ、ガンバレ」の絶叫がラジオから流れたのは、昭和11年の第11回オリンピック・ベルリン大会だった。日本のオリンピック史をひもとく時、忘れられないのがベルリン大会と、昭和7年のロサンゼルス大会である。


 昭和6年、満州事変が勃発。さらに、翌年に血盟団事件、5・15事件、昭和11年には2・26事件が発生するなど、日本は暗く長い“冬の時代”を迎えた。相次ぐテロ、軍部独走に国民は声もなく、歴史の歯車は、いやおうなく“挙国一致”に傾いていった。


 暗雲たれ込めたこの時期、人々に明るさと夢を与えたのがロサンゼルス、ベルリンの両オリンピックであり、数々の熱闘が今なお語り継がれている。ロサンゼルスで7個、ベルリンで5個の金メダルを得た日本。なかでも水泳の躍進はめざましく、“水泳日本”の名を世界に誇示した。


 多度津出身の遊佐正憲も、“水泳日本”の一員としてロサンゼルス、ベルリンの両大会に出場、県人初の金メダリストとなった。人気女優の逢初夢子との結婚で話題となったが、遊佐の一生はオリンピックに彩られた華麗なものであった。


 1年から県大会に


 多度津の町並みを流れる桜川。今でこそヘドロに覆われているが、かつては清流があった。大正4年1月20日、遊佐は桜川に近い通称本町(現多度津町本通り)で産声をあげた。父親の金治は国鉄職員というが、遊佐の幼少期に他界。助産婦の母ヨシが、女でひとつで育て上げた。


 桜川で水遊びに興じた遊佐は、スクスクと成長した。昭和2年、旧制多度津中学に入学し、県下でも1、2位を争う水泳部に入った。体は小さかったが泳ぐことが好きで、4歳年上の兄誠一が活躍していたのもきっかけとなった。


 多度津中学は現多度津工業高校の前身である。設立は大正11年。初代校長に嶺錬次郎が就いた。嶺は新設校の教育に、ひと味違った情熱を燃やした。
「遊泳は五体の鍛錬に最高だ。地に利を生かし、多中の水泳を日本一に」
 嶺は、校長として水泳を奨励した。毎年7月には、全校遊泳を実施。嶺も自慢の赤ふんどしで陣頭に立つほどだった。


 遊泳部の練習も、当然力が入った。プールのない時代である。多度津測候所裏の海や白方ドッグ、桜川河口が練習場だった。


 遊佐が入学した年、嶺らの奔走で25メートルプールが完成した。建設資金8450円は、町内きっての実力者である景山熊造が寄付した。


 プールの水は塩水だった。つまり、満潮時に桜川を逆流した海水を取り入れたのである。


 景山熊造は讃岐最初の鉄道を走らせ、讃岐電気を創始した甚右衛門の子である。父の薫陶を受け、若くして四国水力電気の経営に参画、後に屋島ケーブルを創設した。傍ら、教育面にも力を注ぎ、多度津中学の整備・充実に尽くした。


 さて、遊泳部員として、遊佐は1年から県下中等学校水上大会に出場するなど、非凡なものをもっていた。遊泳部長は、第8回オリンピックに出場した東京高師出身の宮畑虎彦であった。宮畑の指導は、実戦に裏打ちされたものだけに説得力があった。クロールという近代泳法も、宮畑によって教えられた。


 遊佐は練習好きである。こんなエピソードが残っている。


 ひと通り練習が終わった後、遊佐は下級生を呼び止めた。「4対1で200メートル泳ごう。勝ったら、帰りにかき氷をおごろう。」下級生のリレーに対し、遊佐一人で相手になろうというわけである。かき氷にありつけた下級生グループは1組もなかったという。


 練習に明け暮れ、遊佐の泳力は学年を追うごとに伸びていった。昭和6年、県大会の自由形全種目を制した遊佐は、自信をもって大阪で行われた西部中等学校水泳競技大会に出場。100、200メートル自由形の2種目に優勝し、一躍オリンピック候補選手となった。


 スカウト合戦


 オリンピックの年の昭和7年4月、遊佐は日本大学予科に入った。他校からも熱心な誘いはあった。今でいうスカウト合戦である。明治大学は、第9回アムステルダム大会200メートル平泳ぎで日本初の金メダリストになった鶴田義行を送り込んだ。しかし、遊佐は兄の在学する日本大学に進み、予定通りオリンピック選手となった。弱冠17歳である。


 7月30日、第10回オリンピックは開幕した。この大会、日本は水上、陸上ともに好調な出足だった。8月3日に陸上三段跳びで南部忠平が優勝。水泳100メートル自由形では、遊佐の良きライバルであった浜松第一中学の宮崎康二が、常勝アメリカを下し、日本躍進の口火を切った。


 遊佐は800メートルリレーの要員であった。宮崎の晴れ姿を眺め、激しく燃えた。


 8月9日、試合の日がやったきた。後日、遊佐のオリンピック日記が紹介されたが、その中で緊張感と不安感が次のようにつづられている。


 『早や白々と窓のあたりが白む。軽い陸上ウォームアップのあと朝食を食う。再びベッドに横になって試合のことを考える。…心の緊張か、いやに体がだるい。これで泳げるかと心配だ。言葉を口にするのも嫌だ。いつまでもこうして横になっていたいような気がする。時間は容赦なく過ぎる…』


 初のヒノキ舞台に、遊佐の気持ちは極度に高ぶった。必勝を祈願し、お百度参りをする母ヨシの姿が脳裏をかすめた。


 800メートルリレーは日本、アメリカなど6ヵ国が出場した。予選なしの一発勝負。優勝候補はアメリカ、追うのが日本という予想であった。


 日本の第一泳者は、100メートル自由形1位の宮崎。若い宮崎は100メートルの余勢をかって一気に飛び出し、150メートルではアメリカに7メートル近い差をつけた。第ニ泳者は遊佐。夢中で飛び込んだ遊佐は、レース直前までの不安感を一掃するかのような力泳だった。日記は続く。


 『後のことは何も考えぬ。ラスト50メートル。死んでも3、40秒だ。手足を動かせばいいのだと思うと嬉しかった。タッチ。急に気が緩むのを覚えた』


 アメリカに20メートルの大差をつけ、日本は勝った。しかも、記録は史上初めて9分の壁を破る8分58秒4であった。
 その後、日本水泳陣は面白いように上位を占めた。1500メートル自由形で15歳の北村久寿雄(高知商業)1位、牧野正蔵(見付中学)が2位、100メートル背泳ぎでは1位から3位までを独占した。さらに200メートル平泳ぎでも鶴田が2連勝、小池礼三が2位となった。時あたかも、日本は中国侵略の野望に取りつかれ、諸外国の反日感情は強まるばかりであった。そんな冷たい目をはねのけ、若い泳者たちは世界の頂点に立った。


 ロサンゼルス大会を機に、遊佐は一段とたくましくなり、短距離界の第一人者となった。昭和10年8月には、100メートル自由形で57秒8を記録。宮崎の持つ58秒0の日本記録を3年ぶりに更新した。さらに、同年9月に出した57秒0の記録は、昭和29年まで破られることはなかった。昭和8、9、11年の日本水泳選手権でも100メートル自由形を制し、当然のように第11回オリンピックでも、国民の熱い期待を受け派遣選手に選ばれた。


 多度津町民の期待は、ロサンゼルスに増して大きかった。昭和11年8月9日、遊佐は100メートル自由形に出場した。予選、準決勝を通して最高タイムを出した遊佐。当然、金メダルの期待がかかった。


 だが、思わぬ伏兵がいた。ハンガリーのチックが57秒6を記録し、遊佐を頭ひとつ押さえて1位となった。この試合、遊佐は2コース、チック7コースであった。結果論だが、チックが優勝候補なら、遊佐のレースぶりも変わっていただろう。遊佐からチックのコールをまったく見通せなかったことも不運だった。


 8月11日午後3時(日本時間同11時)、「日本のみなさま」を第一声に、河西三省アナウンサーの声がラジオから流れた。衛星放送のない時代である。波打つ河西の声に国民は耳を傾けた。


 午後3時35分、号砲一発、800メートルリレーは始まった。日本の第一泳者は遊佐。


 「遊佐選手、ぐっと出ました。出ました。」
 河西の声は高まった。
 遊佐に油断はなかった。あとに続く杉浦重雄、田口、新井を信じきるだけだった。約5メートルの差をつけタッチ。差はグングンついた。最終泳者新井がゴールした時、アメリカはまだプールの中央付近だった。「水上日本の覇業成る」「800メートルリレー、雪辱の豪華版」と新聞の見出しは躍った。


 その直後、女子200メートル平泳ぎ決勝が行われた。河西の「前畑ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ前畑」のあの熱戦である。前畑はドイツのゲネンゲルを振り切った。800メートルリレー優勝の興奮さめぬうちに、またも金メダルである。「勝った。勝った。前畑ありがとう」河西はマイクにかじりつき泣いたという。


 ロサンゼルス、ベルリンと続いた遊佐の活躍は、母校の水泳熱を一段と高めた。中止となったが、東京で予定されていた第12回オリンピックでは、宮本茂氏が代表に選ばれた。さらに、昭和39年、第18回東京大会で近代五種に出場した三野茂樹氏も同校水泳部出身である。


花咲くロマンス


 ところで、遊佐を語る時、話題になるのは逢初夢子とのロマンスである。


 逢初は本名横山八千代さん。昭和6年、エキゾチックな近代美人として注目され映画界入り。昭和9年、岡田嘉子と共演した「隣の八重ちゃん」で第一線スターの地位を固めた。その後も「海を渡る女」「三人姉妹」「日の丸行進曲」などに出演、近代的魅力にあふれ、若者のアイドル的存在であった。


 二人の出会いは、昭和11年ごろにさかのぼる。人気スターと一流選手の恋は、当然のように新聞、雑誌に大きく取り上げられた。昭和13年、遊佐は日本大学を卒業し横浜ゴムに入社したが、そのころから逢初の家に同居していた。


 八千代さんは語る。


 「遊佐は無口な人でした。プロポーズも私の姉のミツに言ったようです。すれ違いの生活でしたが、家では水泳のことも仕事のことも口にしない静かな人でした」。
 昭和17年、長女真温子さんが誕生し、二人は入籍した。


 遊佐の生涯は華やかに彩られた。横浜ゴムでは本社厚生課長、人事部次長、販売拡張部次長、タイヤ営業本部次長など歴任。水泳界でも、昭和27年のヘルシンキ大会にコーチとして参加し、高松市男木町出身の浜口喜博氏や"フジヤマのトビウオ"の古橋広之進らを指導した。さらに、日本水連常任理事となり、私生活を犠牲にして王国復活に賭けた。


 一方、香川の水泳は、遊佐の足跡そのものである。昭和36年には、中学生のレベル向上を願って「遊佐杯」が設けられた。また、多度津工業高水泳部も、遊佐の栄光を伝統としている。


 昭和50年3月8日、陽春の訪れを待たず遊佐は胃ガンのため息を引き取った。清厳院水明正信居士。60歳、あまりにも短い生涯であった。その墓は多度津・多聞院にある。