61

雲を根に富士は杉形の茂りかな (くもをねにふじはすぎなりのしげりかな)

 どうも私はピラミッド型の組織が嫌いである。そして組織といえば、ほとんどがピラミッド型などで、結局組織というものが嫌いということになってしまう。日本の真ん中に立っている富士山、確かに美しいが、あれがピラミッド型であるということがかなり日本人の意識に影響を与えてこなかっただろうか。天皇制という特異な意識を日本人が育むのに富士山の形がかなり貢献してきたと言うことはないだろうか。あれがもうちょっとくずれた渾沌とした形の山だったらどうだったであろうか。日本の象徴が、富士山、日の丸、芸者ときたら、これはかなりたまったもんじゃなかっただろう。ちょっと古いかー。
 俳人達の組織もピラミッド型になりやすいが、これも私は嫌いである。。ピラミッド型でない組織はないのかなあ。

三十三歳(続連珠)

※杉形(すぎなり)  杉の木の聳えたような形。


62

富士の山蚤が茶臼の覆ひかな (ふじのやまのみがちゃうすのおほひかな)

 61からの続きですが。うん、このくらいの軽い気持ちで富士山を見ているっていいんじゃないでしょうか。

三十三歳(銭龍賦)

「俗謡に『蚤が茶臼を背たら負うて、背たら負うて、富士のお山をちょいと越えた』と歌うが、富士の形はその茶臼に覆いをかぶせたよう。」

※茶臼の覆い  渋紙・畳紙などで製し、茶臼にかぶせると富士山型の台形になる。


63

 佐夜中山にて

命なりわづかの笠の下涼み (いのちなりわづかのかさのしたすずみ)

 なぜ五七五という短い言葉で、俳句は時に、非常にたくさんのイメージを読み手の心に喚起することができるのか。結果的にいえば、読み手の記憶を利用していると言える。であるから、有季定型の人たちが言うように日本人共通の季節の記憶なくしては俳句は成り立たない、ということも一つの真実を突いているとはいえる。またこの時期の芭蕉が古典の世界を踏襲した作品を多く作っているのも、いわば作者と読者のその古典の共通の記憶を利用しているのだ、と言える。
 だが、私はこれがすべてだったら、俳句に魅力は感じない。上の二つの種類の記憶以外に、そしてもっと深いところの人間共有の記憶、いわば原初的な記憶があるのだ、と思いたい。そしてこの原初的な記憶を読者の心に呼び覚ます事が出来た時、それが名句だと言える。そうでなければ芭蕉の「古池や・・・」の句が世界中の人々に愛されている訳が分からなくなってくる。

三十三歳(俳諧江戸広小路)

「炎天下、佐夜の中山を越えようとすると、宿るべき木陰もない。ただ命と頼むものは、我が着る笠のほんのわずかな下陰だけである。」

※※西行の「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり佐夜の中山」(山家集)を踏む。


64

夏の月御油より出でて赤坂や (なつのつきごゆよりいでてあかさかや)

 私のパソコンはMacなのであるが、デスクトップを眺めるといろいろなソフトやファイルのアイコンが並んでいる。たとえばブラウザのアイコンをダブルクリック(Windowsでは右クリック?)すると、そこには膨大な量の記憶といろいろ複雑な機能を備えたブラウザが立ち上がり、私達はその世界を堪能するわけである。クリックしただけでは、そこにそのブラウザのソフトがありますよ、と認識されただけでその世界は立ち上がってこない。俳句の鑑賞も同じで、うまくその俳句をダブルクリック出来ると、そこには無限とも言える世界が立ち上がってくることがある。
 ところで掲出句、いくらダブルクリックしようとしてもうまくゆかない、ダブルクリックしてるつもりなのだが、その世界が立ち上がってこない。これは私のパソコンがいかれたのか、はたまたこのファイルが所詮それだけのものなのか。

三十三歳(俳諧向之岡)

「夏の月は御油の宿場を出て、ほんの目と鼻の先の赤坂宿に入ったのだろうよ。道理で出たと思ったら、すぐに見えなくなったわい。」

※御油、赤坂は東海道の宿駅。両駅間は約1.7キロで五十三次中の最短距離。


65

富士の風や扇にのせて江戸土産 (ふじのかぜやおおぎにのせてえどみやげ)

 私は人口3000人に満たない村の、家が5軒ばかりの集落に住んでいるのだが、村の人って案外シャイな人が多い。まともに挨拶をするんじゃなくて、いきなり「いい大根だねえ」とか「雨になりそうだねえ」とか言う、それもあまり面識のない人も言う。良くアメリカ映画などで、初めての人には自分の名を名乗りあって、握手をする場面がよくでてくるが、あれと正反対である。
 昔から日本には、歌や句に自分の心情を託してそれとなく相手に伝えるという素敵な習わしがあったようだが、これもシャイな民族性から来たものなのか。
 この句などもいかにもさわやかで、さらっとした挨拶句と言える。

三十三歳(蕉翁全伝

「故郷への江戸土産として、涼しい富士颪の風を扇にのせ、謹んで進呈します。」

※「蕉翁全伝」に延宝四年六月帰郷の折り、旧友高畑市隠亭で催した歌仙の発句と伝える。


66

百里来たりほどは雲井の下涼み (ひゃくりきたりほどはくもいのしたすずみ)

 現代の我々が芭蕉の時代の頃の旅を思って、電車も車も無い徒歩旅行で大変だったなあ、嫌だろうなあ、辛いだろうなあ、などと思ってしまいがちだが、果たしてそうだろうか。案外、徒歩旅行などというものは現代にはない、たいそうな贅沢な事かも知れない、とこの句を読んで思った。自分が歩いてきた、はるかな道のりを思いながら、心地よい疲労感の中で下涼みをする、いいですねえ。
 先ごろ、マラソンの高橋選手が国民栄誉賞をもらって、私などは柔道の田村亮子選手が少し不当に扱われている感じを持ったりしたものだが、これってあのマラソンの距離感が人々に与える感銘というのが大きいのではないだろうか。一瞬にして勝負がついてしまう柔道と、長ーい距離を走るマラソンの違い。人々はそんなところに郷愁をもっているのかもしれない。

三十三歳(蕉翁全伝)

「江戸から伊賀の上野まで、百里の旅をしてきた。まさに『ほどは雲井』の思いだが、いまその故郷の雲の下で、安らかに涼んでおりますよ。」

※古歌の常套句「ほどは雲井」を踏み、「雲井」(はるかな所)に雲の意をきかぜた。


67

詠むるや江戸には稀な山の月 (ながむるやえどにはまれなやまのつき)

 私は今は山国である農村にすんでいるが、昔は都会に住んでいた。いわゆる自然を求めての移住者であるが、都会に住んでいたときは、月をじっくりと眺めたという記憶がない。俳句を作るようになったせいもあるだろうが今はよく眺める。私の家の前は庭というか畑というか、かなり広い空間があるのであるが、私は小便をしによくその空間に佇む。家の中の便所でするよりよほど気持ちが良いのである。その時にじっと月を眺めることが多い。あちらこちらの月を眺めて歩いた芭蕉のような月の見方もいいが、私のように生活のかたわらにいつもいてくれる月もまた良いものである。

三十三歳(蕉翁全伝)

「山国の故郷に帰り人ごみで汚れた江戸ではけっして見られぬ、清澄な月を眺めることよ。」

※出典に渡辺亭で桑名某が催した句会での作とある。
※「江戸」に「穢土」を掛け、美しい故郷を讚えた挨拶句。


68

なりにけりなりにけりまで年の暮 (なりにけりなりにけりまでとしのくれ)

 私はあまり鏡を見ない。たまに髭を整える時に覗き込むくらいだが、いつも「これが俺かあ」と思う。若い頃は若い頃で、どうも青二才という感じがしたし、今はどうもジジイくさい。頭は禿げているし、歯は抜けている。「これがまあ、私のこの世での仮の姿と思って我慢するかあ。」
 なりにけりなりにけりまで五十四

三十三歳(六百番誹諧発句合)

「今年も押しつまって、とうとう年の暮に『なりにけり、なりにけり』だわい。」


69

 門松

門松やおもへば一夜三十年 (かどまつやおもへばいちやさんじふねん)

 私が死を一番強烈に意識したのは二十一歳の時。その時以来、死は怖いものではなくなった。だが生はもっと手強かった、そして今でも手強いと思っている。インド旅行、結婚、さまざまな職業、そして今は百姓仕事をしながら絵などを描いたりしている。そしてもうじき五十四歳。若かったころ、尊敬する知人が酔っ払いながら言った「生なんてほんの一日だ。」。五十四年生きてきて、私もそう思う。そしてこれは何年生きても変わらない事実だろう。ああ、生がいとおしい。
 もっともこの感じは掲出句の感じとは少しずれているかもしれないが。

 参考までに私が二十二歳の時にインドに行った時の事を、その五年後くらいに書いた一文があるので、興味の有る方はご覧ください。私自身少し青臭いという感じがするのだが、これも私の通って来た道だからしょうがない。こちら

三十四歳(六百番誹諧発句合)

「一夜に千本生えたという北野の一夜松じゃないが、門松を立て、一夜明けて三十の齢を迎えると、まるで一夜のうちに急に年が増えた思いがする。」


70

 霞

大比叡やしの字を引いて一霞 (おおひえやしのじをひいてひとかすみ)

 私は一休が大好きである。彼は仏弟子であるがこんな事も言う「釈迦といふいたづらものが世にいでておほくの人をまよはするかな」。わっかるなあ、この辺の呼吸。本当にその人への愛が深いと、その人をからかうという事もありうるのである。

三十四歳(六百番誹諧発句合)

「比叡の山腹に、一休和尚の引いた巨大なしの字のように、春霞が横に長々と棚引いているわい。」

※一休が比叡山の山法師どもから読みやすい大文字を望まれ、金堂から麓の坂本まで紙を継がせて、七、八尺の筆に墨を含ませ、一気に駆け下って「し」の字を書いたという笑い話、による。