
花と実と一度に瓜の盛りかな (はなとみといちどにうりのさかりかな) 我が家は自家用野菜だけを栽培しているのが、夏のキュウリに関して言えば、収穫地獄というものがある。毎日毎日とらないと間に合わないので、追い立てられるような気分である。キュウリは大きくなってしまうと不味いからである。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(木がらし) 「普通の草木は春に花が咲き、秋に実を結ぶというのに、真桑瓜だけは、夏の間に花を咲かせ、実を結んでしま。まさに一度にどっと盛りを迎えると言わんばかりだ。」 ●夏ー瓜 |
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古川にこびて目を張る柳かな (ふるかわにこびてめをはるやなぎかな) この三日間、新しく借りたほうの家に行っていろいろ掃除などをしてきた。この家は裏に山がせまっていて雨の日などには雨水が家の裏側の土台の所まで浸水してくる。そこにはU字溝が本来あったのだが埋まってしまって用をなしていなかった。これを掘り出す仕事を主にしてきた。また家の裏には古い材木の腐ったものなどが沢山あったので、それを燃やしながら仕事をした。 木を燃やし火を見て飽きず秋の暮 どれがいいか。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(矢矧堤) 「春まだ浅く、草木も枯れ色の荒涼とした古川端で、柳だけが日に日に若芽を膨らませ、しなやかな枝を春風になびかせている。そのさまはまるで艶めかしい女性が古川に流し目を使っている趣だ。」 ●春ー目張り柳 |
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榎の実散る椋の羽音や朝嵐 (えのみちるむくのはおとやあさあらし) 三週間前に糖尿病の薬を変えた。血糖値を改善するためだ。体調がおかしいので、今日自分のもっている簡易血糖測定器で食後血糖を計ってみた。331という高い値だった。こんなに高い値は今までになかった。しまったと思った。もう少し早く計ってみればよかったと思う。そうすれば、早く対処が出来たはずである。まあ、取りあえずは残っている前の薬に戻そうかと思っている。死も恐くはないし、失明も恐くはない。が、それが自分の手落ちだというのは残念である。精いっぱいこの肉体を大事にして、そのあかつきに死や病がやってくるならそれはそれで十分に満足の行くことなのである。妙な喩えだが、十分丁寧に着古したシャツは捨てるのに惜しくないのである。ありがとうと言って捨てられるのである。 まあ、そんなに完ぺきに面倒見られるものではないが。60点くらいは取りたい。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(笈日記) 「榎の大樹をねぐらとしていた無数の椋鳥が一斉に飛び立つ。その羽音がひとしきり、朝の静寂を破って嵐のように響き、榎の実がはらはら散りこぼれる。」 ●秋ー榎の実・椋鳥 |
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この宿は水鶏も知らぬ扉かな (このやどはくひなもしらぬとぼそかな) 昨日の続きの話になるが。今日朝食前にまた、血糖値を計ってみた。驚いた、300以上あるのである。空腹時に300以上の血糖値があるなんて、とんでもない値である。早速病院へ電話して、車で出かけた。行く途中、「ああ、俺も年貢の納め時が来たのか」と思い、また「そう言えば、最近、どうも体の調子がおかしかった」などと思いながら車を走らせた。で、結果はどうだったかと言えば、病院での血糖値の検査では血糖値はむしろ少し良好なほうなのであった。これは我が家の血糖測定器がいかれている、と考えるより他にはない。という分けで、ほっとして車を走らせて帰宅した。帰りの車では、今までの体の不調感が嘘のように体が軽く感じられた。何が言いたいかといえば、人間はいかに数字に自分の感覚が左右されているか、ということである。これは現代人が頭でっかちになったせいなのか。はたまた私の心配性のせいなのか。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(笈日記) 「草深くひっそりと住みなすこの住まいは、人はもとより、湖辺も水鶏さえ気がつかぬ、世俗の喧騒を離れきった、まことに好ましい住まいである。」 ●夏ー水鶏 |
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雪間より薄紫の芽独活哉 (ゆきまよりうすむらさきのめうどかな) 懐かしいような写生句である。懐かしいというのは、今の自分にはもうこういう句は作れないという意味もある。作ってもしょうがないし、作っても陳腐だし、一番大きな理由は単純に自然の景物に感動できなくなっているということかも。時代がそういう単純な時代ではなくなっている。いやむしろこれは私自身の時代に翻弄されやすい性格から来ているのかも知れない。「戦争は俳諧に何の影響も与えなかった」という虚子の言葉を考えれば、時代とは無関係な俳句のあり方もあるのであろう。それはそれでいいが、私には作れないということ。だからまた懐かしい。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(誹諧翁草) ●春ー芽独活・雪間 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(誹諧翁草) ☆ 伝不祥。前髪姿、すなわち元服前の少年だろう。 ●春ー若草 |
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春の夜は桜に明けてしまひけり (はるのよはさくらにあけてしまひけり) 加藤楸邨の「松尾芭蕉集」に次のようにある。 「春の夜がほのぼのと白んできて、視界は、満目の桜となって明けてしまった」という意。古解も、現代の解も、この句を「春の夜の桜を賞しているうちにいつか時間がたって夜が明けてしまった」と解しているが、それでは理屈に堕してしまう。春のほのぼの明けの感じをとらえたもので、「桜に」は「桜を賞しているうちに」の意ではなく、ほのぼのと明け白むけはいが、明けるにつれて次第に眼前の桜となって、いつしか明けてしまったことをさしているのである。 なるほどと思った。私は初め読んだとき理屈っぽい解釈のほうを取っていた。しかし芭蕉の書き方もどちらとも取れるものなので仕方がないとも言えるし、実際芭蕉がどちらを意図していたかは分からない。ちなみに蕪村には「白梅に明くる夜ばかりとなりにけり」があるそうだ。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(誹諧翁草) ●春ー春の夜・桜 |
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分別の底たたきけり年の暮 (ふんべつのそこたたきけりとしのくれ) 〈欲があって物が欲しくなる〉のか〈物があって欲が出てくるのか〉 前者は〈必要〉と呼ばれるもので当然の事でありm多分芭蕉の時代の庶民はこの範囲の中にいたに違いない。だからこのような句も庶民性があってほほ笑ましい。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(誹諧翁草) 「いずこも同じせち辛さ、年の瀬を越すやりくりに、われ人とともに分別のありったけをたたき出す。」 ●冬ー年の暮 |
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☆1正成(まさしげ)之像 撫子にかかる涙や楠の露 (なでしこにかかるなみだやくすのつゆ) 今日は一日猿達との追っかけっこをやった。猿達はこの辺りの山を徘徊して、近隣の農家の畑の目ぼしい作物を失敬してゆく。今までは主にトウモロコシがその標的になっていたが、もう殆どトウモロコシは収穫されてしまったので、今度は大豆などの豆類をねらいだした。我が家も今年は大豆をかなり作ったのであるが、それをねらって猿達がやって来るのである。この大豆畑は我が家のすぐそばにあるのであるが、そんなことはおかまいなしにやって来る。追っ払うとしばらくは姿をかくしているが、私が家の中に入るとまたすぐに近づいてくる。こんなことをやっていても埒が明かないので、少し収穫には早いと思ったが大豆を全部収穫してしまった。疲れた。猿め。 |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(芭蕉庵小文庫) ☆ 1 楠正成の画像 「楠の木の葉末から滴り落ちる露は、木陰に咲く可憐な撫子の花にかかる慈愛の涙なのだ。」 ●夏ー撫子 |
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昔聞け秩父殿さへすまふとり (むかしきけちちぶどのさへすまふとり) 昨日は、猿に畑の作物を荒らされる話を書いたが、テレビによると最近はいろいろな農産物をごっそりと盗ってゆく泥棒がいるらしい。もちろん人間の泥棒である。米が600キロ700キロとやられたり。出荷前の栗がやられたり。それも、米は高く売れる銘柄米を選んで、また栗は泥を落として出荷するばかりになったのだけを盗ってゆく、というのだからこれは猿もまいったまいったと言う他はない。そのほか、リンゴ、ブドウなどの果物等々も盗難が多いらしい。猿の場合は自分が食べる分だけを盗っていくのだが、人間はこれを転売して儲けようという魂胆だから農家としては余計に腹が立つだろう。畑の作物はいわば無防備状態におかれているから泥棒としても盗りやすいのだろうが、金持ちの家に入って宝石類などを盗んで行くという泥棒に比べて、いわば底辺に生きている百姓のものを盗っていくというのはいかにも憎たらしいし、やはり人心の荒廃を感じてならない。もっとももっと卑劣なのは、ヤミ金融で、借金を重ねて首が回らないような人を狙って法外な利息で金を貸し暴力団まがいの取りたてでしゃぶりつくしてしまう。何人も命を断った人がいるとか。この国の行く末はどうなるのか・・・ |
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元禄七年 四十一歳〜五十一歳(芭蕉庵小文庫) 「昔話を聞いてみろ。かの名だたる大名の秩父殿も、長居という大力と取っ組んで相撲を取ったというから、言ってみれば、昔は秩父殿さえただの相撲取りだったのだ、なんと素朴な話ではないか。」 ●秋ー相撲 |
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