番外編
『「奥特曼」対「パワーレンジャー」』
〜日本特撮ヒーローの海外激闘史〜

2003,6/24追加訂正 追加箇所

「奥特曼」という名前を御存じだろうか?これは、中国での「ウルトラマン」の呼び名である。1990年代、「ウルトラマン」シリーズが中国で放送され、大ブームになったことを御存じの方もおおいはずである。また、海外で人気をえた日本のヒーローものとしては「パワーレンジャー」がもっとも有名。『パワーレンジャー』は“アメリカで最も成功した子供番組”としてで今年(2002年現在)で放送10年目を迎える。「パワーレンジャー」はイギリスでも子供番組のトップ10に入り、フランスでは50%以上の子供達が視聴。ドイツ、オーストラリア、南アフリカその他世界中の国々でも高視聴率を獲得している大人気番組だ。この文章では、こういった日本の特撮ヒーローの海外での人気を分析してみたい。本ホームページは『第2期ウルトラ』の研究サイトだが、やや本ページの主旨からそれてしまうのを容赦ねがいたい。

「奥特曼」とブームとネオス
中国で「ウルトラマン」のシリーズが人気だったのは1990年代の前半こと。当時は現地のウルトラマンショーに客が殺到して中止になるという事態もあり、かなり爆発的な人気だったようだ。この人気を受けて、当時円谷プロは中国向けに新作の映画を作ろうとしていたらしい。聞くところによると脚本は佐々木守氏で、内容は日本の中国侵略をテーマにしたもの。高倉健が出演する予定もあった(!)らしい。筆者の記憶が正しければ、この時に作られて未使用だったウルトラマンのコスチュームが、あとに一部改造されてウルトラマンネオスになったとのことである。

 ここで、あえて筆者が注目したいのは、中国に輸出されたウルトラシリーズの中で、初期ウルトラシリーズは初代『ウルトラマン』だけ輸出された、という事実である。中国では『ウルトラQ』は白黒だったことが災いして放送されなかったようだ。また『ウルトラセブン』は、契約上のトラブルから中国では放送されておらず、ウルトラセブンは中国ではウルトラの父やゾフィのような、主演のシリーズをもたないウルトラ兄弟の一員として認知されているようである。ウルトラシリーズ最高傑作という評価のある『セブン』が放送されないのにもかかわらず、中国でウルトラシリーズは爆発的なヒットをとばしたのだ。ウルトラシリーズのファンは『セブン』至上主義をかかげている人が多いが、これにかねてから疑問をもっている筆者としては、この事実はなかなか興味深いのだが…。
『セブン』が中国で放送されなかった理由とは、筆者の記憶に間違いなければ、以下のようなことである。
 80年代に円谷プロは『セブン』をアメリカの全米ネットで放送しようと、アメリカの3大ネット局にセールスを続けていたことがある。この際に、なぜか円谷プロは「アメリカ以外の外国では『セブン』は放送しない」という契約をアメリカのテレビ局にしてしまったのだそうだ(なぜそのような契約を交わしたのかは不明)。そして、そういう契約をかわしたにもかかわらず、『セブン』は全米ネット系での放送はキャンセルされ、今だに放送されていないそうである。この契約の影響によって、中国で『ウルトラセブン』は放送されていないと筆者は記憶しているが、真相を御存じの方は御一報ください(涙)。
 
全米ネットの壁
『セブン』を全米ネットにのせられなかった円谷プロは、海外への本格進出をねらって、今度はアニメーションによる完全新作『ウルトラマンUSA』を制作。これは2時間のテレビスペシャルである。アメリカのテレビ界では、連続テレビ番組(テレビシリーズ)を放送するとき、事前に2時間スペシャルを制作する場合があり、これをテレフューチャーとよぶ。そして、テレフューチャーの視聴率がよければ、一回30分ないし1時間の連続テレビ映画として制作し、毎週放送するのである(この辺の事情は、タランティーノの映画『パルプフィクション』をみるとわかる?)。
 どうやら『ウルトラマンUSA』は、あとに連続テレビ番組にするつもりで制作されたテレフューチャーらしい。だが、これも全米ネットには乗せられなかったようだ。連続テレビ番組として制作されなかったところをみると、あまり人気も得られなかったらしい。
 この『ウルトラマンUSA』のあとも、円谷はアメリカテレビ界への進出をねらい続け、今度は海外のスタッフ・キャストによる海外むけの実写のウルトラシリーズの製作に着手する。それが『ウルトラマングレート』と『ウルトラマンパワード』である。どちらの作品も、初代『ウルトラマン』のリメーク的な作品であったが、海外のスタッフによる特撮映像には見るべきところも多かった。
 これらの作品はテレフューチャーは制作されず、最初から一回30分の連続テレビ映画として制作された。しかし、これらの作品も全米ネットにはのせられず地方局(シンジケーデット局)で放送された上、爆発的なヒットは得られなかったようである。
 アメリカの全米ネット系に、他の国のテレビ番組を放送するのは中々難しく、あの『サンダーバード』でさえ、全米ネット系では放送されなかったそうである(『サンダーバード』はイギリス制作)。また、アメリカではウルトラシリーズよりも前にピープロの『スペクトルマン』がアメリカ各地の地方局で放送されて人気をえており、ウルトラマンよりも知名度が高いそうである。本来ウルトラマンの亜流のはずのスペクトルマンが、アメリカではウルトラマンより有名なのは皮肉であるが…。
 蛇足だが、『SFエイリアン天国』なるB級SF映画を御存じだろうか? この映画は『裸の銃をもつ男』の主演レスリー・ニールセンが出演していたコメディ映画だが、この映画には『スペクトルマン』のフィルム(おもに怪獣登場場面)が流用されている。
 しかし、90年代半ばになって、全米ネットに進出をした初の日本のテレビ映画が出現した。それが東映の『戦隊』シリーズの1本『恐竜戦隊ジュウレンジャー』だった。

海外に食い込む「戦隊」
 この『恐竜戦隊ジュウレンジャー』のアメリカ版『パワーレンジャー』は、特撮シーンとアクションシーンが日本で撮影されたフィルムで、他はアメリカで新規に現地の俳優で撮影されたものである。だが、やはり日本で撮影したアクションシーンや特撮カットがそのままアメリカの全米ネットにながれ、大ヒットしたというのは特筆ものである。この番組は放送開始から1カ月後、2歳から11歳までの子どもを対象とした番組のトップの人気に立ち、爆発的ブームになったという。
 以来『ジュウレンジャー』改変版の第1シーズンが終了すると、『五星戦隊ダイレンジャー』の改変版が94―95年の第2シーズン用として放送された。これ以降、日本での戦隊シリーズの放送順にその改編版がアメリカで『パワーレンジャー』の新シーズンとして製作されて放送されるようになる。今年(2002年)で『パワーレンジャー』は10シーズン目を迎える。『パワーレンジャー』は1シーズン約1年間(40〜50話)なので、10シーズン目ということは10年間の放送が実現したことになる。全米ネットで放送されたというだけでも快挙なのに、それが爆発的ヒットし、10年もの長期間にわたって放送されるというのは更なる快挙だ。『パワーレンジャー』はアメリカ以外でもヨーロッパなどで成功をおさめ、欧米では定番の人気番組になり現在にいたっている。

『朝日総研リポート』1998年10月第134号に『米国に食い込む「戦隊」番組』という記事がある。この記事は、『パワーレンジャー』および海外での戦隊シリーズのブームを検証したものである。
 これによれば、97年末までに『パワーレンジャー』から東映国際営業部がえた関連するおもちゃの商品化権収入は3175万4000ドルに達したという。
 この『朝日総研リポート』の記事によると、『パワーレンジャー』はオモチャの売り上げもすさまじく、生産が追い付かないほどだったという。『朝日総研リポート』からそのまま抜粋すると「番組とほぼ同時に売り出されたPower Rangersのおもちゃは、めまいがする速度で売れ、初めのうちは主たるライセンス被交付者であるバンダイの製造能力をしのいだ。新たに入荷しているかどうかを真っ先に試してみるため、親たちは夜明け前から行列し、新聞の小広告にはヤミ取引が出現した」とあり、当時のブームの凄まじさを伺わせる。この『パワーレンジャー』の大ブームをヒントに映画『ジングル・オール・ザ・ウェイ』も製作された。
 また『朝日総研リポート』によると、戦隊シリーズは、アメリカ以外では、1980年代に東南アジア、ヨーロッパと南米で大成功を収めたという。1980年代半ば、戦隊シリーズはブラジルでも人気があったので、現地の放送局は1日に3、4回も繰り返し放映していたそうである。またインドネシアで『高速戦隊ターボレンジャー』は、大変人気のある戦隊なのだそうだ。
 アジアやフランスでは日本の作品がそのまま吹き替えで放送されていて、主題歌まで吹き替えられているという。『ウルトラマン』シリーズや『仮面ライダー』シリーズはフランスではあまり知られておらず、「戦隊シリーズ」や「宇宙刑事シリーズ」が人気がある。フランスでもっとも人気のある戦隊シリーズは『超電子バイオマン』だという。また、フランスでも『ウルトラマン』より『スペクトルマン』の方が知名度が高いという。

明暗分けた??
 後述するが、『ウルトラマン』のシリーズは中国以外ではタイでも人気があり、合作映画なども作られている。しかし、アメリカやヨーロッパへの進出は思うように進まなかったようで、『ウルトラマン』のシリーズの海外進出は、あまり成功したとはいいがたいようだ。海外進出に成功したのは戦隊シリーズのようである。この論文のタイトルは『「奥特曼」対「パワーレンジャー」』だが、この両者の勝負の結果は、「パワーレンジャー」(戦隊シリーズ)の圧勝といった結果のようだ。戦隊シリーズとウルトラシリーズ、どちらもファンである筆者にとっては、少々残念である(アジアでは人気があるので、『ウルトラマン』の海外進出も、完全に失敗とはいえないが)。

 ある文献には特撮評論家のT氏が脚本家の上原正三氏に「日本が世界にほこれるのは、ウルトラマンとゴジラです!」と断言したという話が載っていた。だが、先のような事実から推察すると、日本が世界にほこれるのは「ゴジラと戦隊シリーズだ」とした方が順当だろう(これは問題発言か?)。

「ウルトラマン」のシリーズが、欧米人のスタッフによって完全に新作を製作するという、大変リスクの伴うことをしたにもかかわらず、『パワーレンジャー』ほど人気を得られなかったというのは皮肉であった。
 これは、近年の円谷プロが初期ウルトラ、ないし初代『ウルトラマン』のリメイクにこだわっていることが裏目にでた結果のように思えてならない。初代ウルトラマンの設定は、やはり今日的にみるとシンプル過ぎるようにおもえる。筆者としては、『ウルトラマンUSA』の設定のままで実写映像化して放送して欲しかった。『ウルトラマンUSA』の設定は、女性1人を含む3人のウルトラマンが登場するという、戦隊シリーズ的な要素をもつ設定であり、これを実写映像化して『パワーレンジャー』に先がけて放送していたら、『パワーレンジャー』のシェアを奪って爆発的ヒットをしたのでは?などと考えるが…。

不思議な縁
 先の『朝日総研リポート』によると『パワーレンジャー』が全米ネットで放送された切っ掛けは、アメリカのテレビ映画配給会社『サバン・エンターテイメント社』の方から、東映にオファーがあったためだそうである。円谷が必死に全米ネット局に売り込みをかけていたのとは、実に対照的であった。

『サバン・エンターテイメント社』の社長であるハイム・サバン氏(Haim Saban)は、1984年に日本を訪れた際、たまたまホテルのテレビで戦隊シリーズを目にしたという。「愉快で、子ども向けエンターテインメントになり得るほど、純粋で健全だ」と考えた彼は、東映と交渉して、アジアを除く地域でのこの番組の配給権を獲得した。時期的にみて、この時サバン氏が目にした作品は『超電子バイオマン』だったと思われる(『東映スーパー戦隊大全』(双葉社)の吉川進プロデューサーのインタビューによればこの時サバン氏が見たのは『サンバルカン』だったという。だとすれば再放送か?)。サバン氏は、この作品を英語に吹き替えた見本版を、全米ネット局に売り込んだ。しかし、この時はあっさり失敗してしまったという。

 サバン氏は、実はこれ以前にも、東映と付き合いがあった。東映動画(現、東映アニメーション)が75年に製作したテレビアニメ『UFOロボ グレンダイザー』が78年、「Goldorak」としてフランスで放映され、平均視聴率70パーセント以上という大人気を博したことがあった(最高視聴率はなんと100パーセント)。このとき、サバン氏は、パリで音楽プロデューサーをしており「Goldorak」のテーマ曲は実はサバン氏がプロデュースしたものだった。この時サバン氏は奇遇にも東映と接触をもっていたのである。
 80年代に、戦隊シリーズの全米ネット系の配給に失敗したサバン氏は、90年代になって2度目のチャンスとして、『ジュウレンジャー』をもとに「Dino Rangers」というパイロットフィルムを製作した。この「Dino Rangers」は、『SFヒーローまぼろしの冒険伝説』(ミリオン出版)によると、一部俳優や登場キャラクターなどが異なるが『パワーレンジャー』第1シーズンとほぼ同様の内容だったらしい。これが全米ネット局『Foxチルドレンズネットワーク』の初代社長マーガレット・ローシュ(Margaret Loesch)の目にとまり、『パワーレンジャー』として日の目をみる。
 ここで面白いのは、サバン氏が以前から東映と接触があったのと同じく、Foxチルドレンズネットワークの社長ローシュ氏も、以前に東映と接触があったという事実である。
 ローシュ氏は、かつてマーベル・コミックのテレビ製作部門であるマーベル・プロダクションズ(Marvel Productions Ltd.)の会長(最高経営責任者)だったこともある人物。ローシュ氏はマーベル・プロダクションズに在籍していたころ、東映が製作した実写の『スパイダーマン』(レオパルドンが登場するアレです!・笑)を、米国ネットワークに売り込もうとしたことがあったという(この売り込みは失敗におわったらしい)。ローシュ氏も東映とは不思議な縁があったのだ。
 ローシュ氏は東映の特撮作品が気に入っていたようで、いつかは東映の特撮作品を全米ネットに乗せたいと考えていたようだ。ローシュ氏にとって『パワーレンジャー』の放送は、東映作品の市場価値を試す2回目の機会だったのだ。
 ローシュ氏は、50年代に『ゴジラ』や他の日本製SF映画に魅せられており、最初にパイロットフィルム「Dino Rangers」を見た際、それらを思い出したという。『ゴジラ』は東宝の制作で東映の作品ではないが、海外の人間からすれば、日本の特撮作品は、どの会社のも東宝の特撮と似たような印象を受けるらしい。これは日本の場合、東宝以外の映画会社の特撮スタッフも、ほとんどは円谷英二の門下生やその弟子たちであるため、基本的な手法が東宝のそれと似ているからであろう。

 近年の『パワーレンジャー』の制作では、東映側から使用済みのヒーローや怪人の着ぐるみがサバン社へ送り続けられている。これによって、戦闘場面をアメリカで撮影することも可能になっている。つまり、その気になれば戦闘場面から何から、全編アメリカで撮り直すことも可能なのだ。にも関わらず、『パワーレンジャー』シリーズは、未だに日本で撮影したアクションシーンや特撮シーンを流用することにこだわっており、完全にアメリカで撮り直してはしない。それは、ローシュ氏やサバン氏がもともと日本の特撮作品が気に入っているため、日本の特撮作品のもつ独特のイメージをなるだけ残したい、という両氏の狙いがあるのではないだろうか。経費節減などの事情もあるだろうが、それだけでもなさそうである。
 外人の俳優が出演している本編に、日本で撮られた特撮やアクションをつなぐと、特撮やアクションの印象が違って見えるというのは、『パワーレンジャー』を見た日本人の多くが感じていることではないかと思う。日本で撮影した戦隊のアクションシーンを『パワーレンジャー』の1シーンとしてあらためてみてみると、香港の映画の空手アクションとくらべて決してひけをとっていないように思える。戦隊シリーズのアクションは、細かいカット割りや編集技術でスピード感を出してあり、こういった点は香港のアクションとはまた違った個性があることに気付かされる。

『パワーレンジャーターボ』でのVRVマシンが初登場する話などをみると、特撮研究所が撮った特撮も、日本で撮影したフィルムそのままなのに、まるでITC作品の特撮かそれ以上の出来なのではないか?などと筆者は思ってしまった。日本人の一般の映画ファンから日本の特撮技術が低く評価されるのは、多分に先入観が作用しているのではないか。先入観というものは、一度植付けられると、当人が自覚するのが難しい。『パワーレンジャー』は日本人が抱いている日本特撮への先入観を棄てさせるという点でも大変意義のある作品であろう。日本人にとって『パワーレンジャー』を見ることは、いままで自分が信じてきた価値観が揺るがされ、覆されるというある種刺激的な体験といえるのかもしれない。なぜ我々日本人が戦隊シリーズや日本国内の特撮映画に対し、歪んだ先入観を抱いてしまうのか?ということについては、後述する。

撮り直しの原因
 サバン氏もローシュ氏も、共に『パワーレンジャー』以前に東映の特撮ものを全米ネットに乗せようとして失敗している。この失敗の原因は、日本製の作品は出演者がすべて日本人であり、これがネックになっていたようである。
 アメリカに住む白人たちの多くは、東洋人への差別意識を持っている人が今だに多く存在する。この辺の事情は、ショーコスギ著の『アメリカンサバイバル』を読むとわかりやすい(わかり過ぎてトラウマになるかもしれないが・涙)。
 おそらく、アメリカ人(主に白人)は、出演者が全員東洋人の映画やドラマを、生理的に拒絶してしまうことが今だに多いのではないかと思われる。これが、いままで東映の番組を全米ネット局が放送しなかった最大の理由ではないかと、筆者は推測する。
 こういった差別意識に対処するには、まず日本人の出演場面をへらす必要がある。
 『パワーレンジャー』では、特撮シーンとアクションシーン以外をアメリカで撮影しなおし、変身前の日本人5人の俳優の出演シーンを全てカットし、メンバーの3人を白人にすげかえた(ただし、番組の「政治的公正さ」を保つため、のこりの2人は黒人と東洋人が演じている)。
 また、『パワーレンジャー』は、日本の作品を元にしていることを公表せず、あくまでアメリカ製の番組として放送した。これも白人の東洋人への差別意識に配慮したものかもしれない。第1〜第2シーズン放送当時は、『パワーレンジャー』が元は日本の番組であるという事実を知らないアメリカ人が多かったそうだ(一説によると、今だに多いとも聞くが…)。

 欧米に輸出されている日本製のアニメーションの多くは、実はこのように、日本製であるということを公表せず、あたかも国内製作のように見せ掛けて放送していうケースも多いらしい。こういうケースも、差別感情への配慮とみていいだろう。

 サバン氏の経営する『サバン・エンターテイメント社』は、日本製のアニメの配給を中心に行なう会社。たまに自社で番組の製作などもおこなうこともある。同社は『トランスフォーマー・カーロボット』のアメリカでの配給も行い、こちらも人気になっていて、『トランスフォーマー・ビーストウォーズ』以降、やや下降気味だった『トランスフォーマー』の人気が、これによって再燃しているという。

どの程度「変わった」か?
 話はもどって、『パワーレンジャー』はアクションシーン以外がアメリカで撮りなおされたということもあり、設定やストーリーは変更された。文献によっては「内容は大幅に改編された」としているものもあるが、筆者が実際に何本か視聴してみると、日本版の脚本にかなり忠実な作品も多い。
『ジュウレンジャー』をもとにした『パワーレンジャー』の第1シーズンは、ヒーロー側の設定が大幅に変更されたが敵側の設定は日本とほぼ同じだった。怪人の設定(能力など)も日本とほぼ同じである場合がおおい。これらの理由によって、第1シーズンは、おおまかなストーリー展開が日本の作品と似ている話も多かった。
 また、『星獣戦隊ギンガマン』を改変した『パワーレンジャー・ロストギャラクシー』以降になると、毎回のストーリー展開が、より日本の内容に忠実なものが多くなり、オリジナルを知っている日本人がみると、懐かしさと嬉しさを感じるものがおおい。基本設定は日本とかなり違う場合もあるが、毎回のエピソードは、テーマやドラマ面まで日本の脚本にかなり忠実だったりするである。
 ここでは、その一例として『〜ロストギャラクシー』の7話『ケンドリックは大スター?』を紹介しよう。この作品は、ピンクレンジャーの変身前の女性ケンドリックとそっくりのアイドルが登場し、一時的にピンクと入れ代わるというもの。この内容は『星獣戦隊ギンガマン』の第14話『二人のサヤ』とほぼ同一であり、登場怪人も同じだった。

 ここで興味深いのは、この『〜ロストギャラクシー』7話は、単にストーリー展開が同じなだけでなく、ドラマのテーマも同じであるという点だ。ケンドリックのそっくりさんのアイドル、キャロリンは、なんでも辛くなるとすぐに投げ出してしまう性格で周囲を困らせていた。そのキャロリンが仕事をさぼるために、自分にそっくりなケンドリックと入れ代わる。ケンドリックはキャロリンより真面目で、敵との戦闘で足を怪我していたにもかかわらず、足の怪我の痛みにたえて懸命にキャロリンの代役をつとめるのだった。痛みにたえて努力するケンドリックをみたキャロリンは、かつての自分を反省し、努力の大切さを知る。

 この作品は、苦難にたえて努力するということがテーマになっていて、このテーマ自体も『ギンガマン』第14話と同一であった。この作品をみて分かるのは、苦難にたえて努力することを、アメリカ人も決して否定していないという事実である。
 日本の言論人のおおくは、努力や忍耐を美徳とする思想は日本人固有のものだと批判し、欧米人はそういう考えは持たないと言い切る。しかし、欧米人が努力や忍耐というものを否定しているのなら、この『ギンガマン』第14話の改編版である『〜ロストギャラクシー』7話のストーリーは原形をとどめないほどに大幅に変更されたはずだ。このことから「努力」「忍耐」を美徳とする思想は、なにも日本人固有のものではなく、万国共通のものであることがわかる。

 第二次大戦中、ナチスによって強制収容所に入れられたユダヤ人の心理学者V.E.フランクルが、この体験をつづった小説が『夜と霧』である。「今世紀の最も重要な書物の一つである」とカール・ヤスパース(ドイツの哲学者)に言わせしめるほどの名著である。
『夜と霧』の165ページ『七 苦悩の冠』には、苦難にたえることを美徳とする記述がいくつかある。
「彼等(収容所のユダヤ人)は、ただしき苦悩の中には一つの業績、内的な業績が存ずるという証しをたてたのである(167ページ)」などである。
 またフランクルの書いた『神経症の理論と治療』という論文には
「真の運命を正しく耐え、率直に苦悩することは、それ自身、行いであり、まさに人間に許される最高の成就であり業績である。」という一節がある。
 このように、フランクルは、苦悩や苦労に耐えて生きて行くことを「最高の成就」とまでいっている。また、アメリカ人の発明家エジソンが
「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」という言葉を語ったという話は小学生でも知っている余りにも有名な事実だ。これらのことからも「努力」「忍耐」を美徳とする思想は日本人固有のものではないだろう。

『〜ロストギャラクシー』は、日本の『ギンガマン』とくらべて、敵組織や戦闘員が変更になったうえ、物語の舞台が「テラベンチャー」なるスペースコロニーになるなど、一見すると、大幅な改編がくわえられているように見える。だが、『ギンガマン』の「ギンガの光」の争奪戦や、ブルブラックの設定とそれに伴うドラマは、『〜ロストギャラクシー』でも同一である。

暴力描写の是非
 
アメリカでは、一部の政治家などが、子供番組の暴力シーンを批判しており、『パワーレンジャー』やその他の日本のSFアクションアニメにもその鉾先は向いている。暴力シーンというと聞こえが悪いが、ようはアクションシーンのことである。海外に輸出されている日本のアニメはSFアクションものが大半であり、そういうことから、日本製アニメ=暴力アニメという図式をつくって、日本アニメを批判する外国人もいるそうである。

 しかし、こういう批判は、実は日本のアニメ作品だけでなく、現地製作のアニメ『ニンジャタートルズ』や『X-メン』などにも向けられているのだ。よって、アメリカでの日本アニメの暴力シーンの批判は、とるにたらないものと考えてよいようである。日本の一部の神経質な親が、ドリフのお笑い番組にケチをつけているような次元の他愛ないものと考えてよい。事実、パワーレンジャーは、アメリカ最大の反ドラッグ・反暴力プログラムのティーン代表大使に選ばれたこともあるそうで、決して大人たちから批判ばかりされているわけではない。
 むしろ、現地製作のアメコミキャラ『X-メン』や『ニンジャタートルズ』を差し置いて、『パワーレンジャー』が人気になったという事実は特筆ものではないか。
(補足だが、『X-メン』は作画のみ日本(サンライズ)で製作している。だが、プロデュース、演出、脚本はアメリカ人によるものなので、やはりアメリカ製作の番組だと考えてよい)

 前述の『朝日総研レポート』によると、アメリカでは、ポール・サイモン上院議員の主唱で、テレビ番組の暴力調査「The UCLA Television Violence Monitoring Report(UCLAレポート)」というものが行われている。このレポートは、「有害番組」の排除のためのVチップをテレビ受像器に内蔵させる動きを促したとされるものだ。
 ここでは数本の番組が暴力番組として指定をうけ、それには『パワーレンジャー』もふくまれている。リポートは、『パワーレンジャー』の暴力シーンが、他の暴力番組のそれに比べ特にひどいわけではない、と述べてはいる。
 しかしその上で、暴力番組と指定された数本の番組(『パワーレンジャー』をふくむ)の暴力シーンは、以下のように批判されている。
「それは暴力のための暴力である。それら暴力的な行為を、何らかの適切な脈絡において表現することはめったにない。」
 
 筆者としては、『パワーレンジャー』の戦いはそれなりの「適切な脈絡において」行われているとおもうのだが…(この批判は第1〜2シーズンに向けられたものらしい。この時期は筋立てが荒っぽかったので、何本かは「適切な脈絡のない」暴力が描かれていた可能性があるが…)。
 しかし、アメリカで暴力シーンがこういった批判を受けるということになると、暴力は、どういう場合に正当性が認められるのか?という問題も浮上するだろう。

 この問題は、『パワーレンジャー』や日本のヒーロー番組だけでなく、『スターウォーズ』や時代劇など、古今東西の「アクション活劇」すべてに内在する問題であろう。

しかし、筆者としては、他者からの暴力に対して防衛するための暴力は、容認できるのではないかとおもえる。その根拠として、イタリアのアナーキズムの活動家、エンリコ・マラテスタの以下の言葉を挙げよう。
「暴力が敵の暴力に抵抗するのに必要とされることは、明明白々である。」
「自分自身や他のものの防衛に使われる時に、暴力は義務であると同じように、正当で、善で、『道徳的』だ、とわれわれはいう。もし暴力が他のものの自由を犯すのに使われるなら、それは悪であり、『不道徳』である。…」
(『権力の拒絶--アナキズムの哲学』(秋山清/編 風媒社)154ページより。マラテスタ編集によるイタリアの日刊紙『ウマニタ・ノーヴァ』1922年10月21日号の抜粋)このように、マラテスタは、防衛のための暴力は正当性があるとしている。

マラテスタは、50年以上もの間、世界を股にかけて活動をつづけたイタリアの代表的なアナーキストであり、最後はムッソリーニのファシスト政権に軟禁されて82歳で生涯を終えた(アナーキズムとは無政府主義のことで、左翼系の思想)。

「アナキストはただ、正当防衛の手段としての暴力を認める。」これもマラテスタの言葉だ。
(前掲書、155ページ、『ウマニタ・ノーヴァ』1920年7月18日号)

マラテスタは、防衛のための暴力は認めており、アナーキズム社会に自発的な民兵を創設することも提唱している(前掲書、145ページ)。
しかしマラテスタは、国家間の戦争には激しく反対した。それは、彼が無政府主義者であり、国家というものの存在自体を否定していたからに他ならない。
彼はいう。「国家間の戦争それ自体こそ常に反対されねばならぬ。」「国家間の勝敗は、民衆にとって革命と関係がない。戦争は革命によってのみ阻止されねばならない。(前掲書、276ページ)」

蛇足だが、日本の有事法制の問題についての筆者のスタンスは、このマラテスタのスタンスに近い。
自衛隊は中央集権的な国家である日本政府がもっているものなので、防衛のためとはいえ有事法制には賛成できないのだが。筆者は別の文脈からも憲法9条については護憲のスタンスだが理由は後述。

田宮高麿著『わが思想の革命』(新泉社)と坂口弘著『あさま山荘1972』(彩流社)などによると、日本でも70年代に出現した極左の赤軍派は、日米安保やベトナム戦争には反対するスタンスでありながら、同時に「ゲバ棒から銃へ」などといって銃や爆弾で武装していた。彼らは武力闘争を志向し「世界革命戦争」を起こさんと活動していた。このように、かつては日本の左翼も全てが絶対非暴力主義ではなく、必要に応じては武力闘争も辞さずとしていた一派もあったという事実もある。

トッド・ギトリン著『60年代アメリカ 希望と怒りの日々』(彩流社)によると、ベトナム反戦運動をやった反体制運動家集団「ウェザーマン(別称:ウェザーアンダーグラウンド)」も「戦争を国内へ」をスローガンとして、武力闘争で反戦運動をおこなっていたという(550ページ)。アメリカの新左翼のベトナム反戦運動は、アメリカ政府を打倒するための武力闘争を指向するグループもおおかった(これらの事情については、『マーティン・A・ヘリー、ブルース・シュレイン共著『アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命』(第三書館)にもくわしい)。

また、防衛のための暴力は認められるという、もう一つの根拠をあげる。それは「正義」について研究しているハーバード大学名誉教授ジョン・ロールズによって提唱された「自由で民主的な民衆の間で妥当する正義原理」と「正しい戦争のルール」である。

『現代思想の冒険者たち23 ロールズ──正義の原理』(川本隆史/著・講談社)242ページによると、ロールズはNGO主催のある講演会で「自由で民主的な民衆の間で妥当する正義原理」というものを提唱している。それは7つの項目からなるが、そのうち「アクション活劇」の暴力を考える上で参考になるのが3項目と6項目めである。

 3項目は、「諸民衆は、自衛の権利はもっているが、戦争への権利は一切もっていない」というもの。
ここでいう「自衛」、「戦争」とは何であろうか? 筆者としては防衛としての武力行使を「自衛」、侵略のための武力行使を「戦争」としているとおもわれる。

 また、6項目は「諸民衆は、自衛のためにやむなく始めたものであろうと、戦争遂行に課せられた一定の諸制約を尊守するべきである」というものだ。これを読むと、ロールズは「自衛のための戦争」を事実上認めていることになる。だが、ここでいう「戦争遂行に課せられた一定の諸制約」とは一体なにか?

 それに該当するのがロールズが提唱する「正しい戦争のルール」(『〜ロールズ──正義の原理』248ページ)だ。これは1995年にある雑誌で発表したもの。一見すると、かなり好戦的に聞こえるフレーズだが、これはもともと、アメリカ軍が第二次大戦中に行った東京大空襲や原爆投下を批判するためにロールズが提唱したものである(本当は「戦争の正しいルール」とした方が適切かもしれない)。
ロールズは、本来は武力行使自体が不正であるとしながらも、その不正のなかにも道徳的な判断が必要であるとし、正義に則った「戦争のルール」を提唱しながら、一般市民をねらった東京大空襲や原爆投下は、侵略からの防衛という本来の目的を逸脱しており「すさまじい道徳的悪行(253ページ)」である、と批判している(このように、ロールズの考えは武力行使自体が不正であると認めているために、いわゆる「正戦論」とはちがう)。

 映画『パールハーバー』みてもわかるように、アメリカ人には、いまだに東京大空襲や原爆投下を妥当と考える人がおおい。そういったなかで、アメリカ人でありながら東京大空襲や原爆投下を否定するロールズの存在は大変貴重だ。
「戦争のルール」は6項目からなるが、以下、要約して列記する。

1、「武力行使の目的は目下の敵との間の永続的な平和である」
2、「戦争相手国は非民主的国家である」
  (註・ここでは、武力で他国への侵略や圧政を行う国家を「非民主的国家」としているようだ)
3、「戦争責任は相手国の指導者にあり、兵士たちには責任はない」
4、「相手国の非戦闘員、兵士の人権を尊重しなければならない」
5、「軍事行動に正義を自負できる民衆は、自分たちの戦争の目標を明示する」
6、「軍事行動が、戦争目標を達成するための必要以上の害悪をもたらさないように手段をえらぶ」

 6つめのルールは特に重要である。これは、戦争による被害を最小限に押さえるためのものであるといえるだろう。

 これらのことから、ロールズが言わんとしているのは何だろうか? 筆者としては「武力行使自体が本来は不正かもしれないが、自衛のためにやむなく武力行使する場合は、被害を最小限に押さえるための判断が必要」ということだとおもわれる。そして、そういう判断を行うことが「正義」なのだろう。
 手段をえらばないで武力行使を行った国は、「戦争をおこなった」ということ自体の罪に加えて、必要以上の破壊を行うという、2重の罪を背負うことになるわけだ。
戦闘による家屋や建造物の破壊といった二次災害を最小限にとどめるというのが、戦闘時における正義なのである(この際も、常に非戦闘員の人命は、守られなければならない)。

 これらのことから、筆者はこう考える。「戦い」というもの自体が本来は不正かもしれないが、正義をともなわない「戦い」は、無制限に被害を拡大させる可能性があるので、さらに危険なのではないか、と。
(アメリカ軍のおこなう、近年の武力侵攻は、先の「戦争のルール」から逸脱していて、ちっとも「正義」ではないようにおもえるが…。とくに4と6のルールをかなり逸脱している。)

アメリカでは、リバタリアニズムといわれる自由至上主義が保守(右翼)の思想、リベラリズムといわれる自由主義が左翼となる。ロールズのスタンスはリベラリズムであり、よってロールズは左翼の思想家である(『倫理とは何か』(産業図書)179ページより)。

ここでは戦争についての話になってしまったが、筆者としては、戦隊シリーズなどの変身ヒーローものは、戦争ほどの大規模な戦闘(空爆や核攻撃)はあまりやってほしくない。せめて刑事ドラマや時代劇、スパイものの規模で抑えてほしいというのが、筆者の個人的な希望である。

また、変身ヒーローものでは、ラストにヒーローが怪人を殺すという展開が多い。これは怪人を殺害して処刑しているのではなく、怪人が殺しにかかってくるのでヒーローは正当防衛でやむなく殺害しているのだ、と筆者は解釈している。

死刑廃止論の本ではもっとも代表的な本である団藤重光著『死刑廃止論』(有斐社)の216ページでは正当防衛について触れていて、一応この本でも正当防衛は無罪だとかかれてある。
「例えば相手が切りかかって来たときに相手を殺すような場合には、これは犯罪にはならないので、これを正当防衛として権利の一種として見るのが普通であるが、もし個人に「殺す権利」といったものを認めるとすれば、こういった場合に限る。(216ページ)」

このように死刑廃止論の観点からみても正当防衛は違法ではないようである。といっても本当は現実的には殺さないで解決するに越したことはないのだが…。

ジャンボーグAの海外進出
 
話が東映作品にかたよっていたので、話を円谷作品にもどそう。円谷プロが海外進出の第一歩として、70年代からタイの映画界と接点をもっているのは知っている人も多いだろう。タイと円谷の合作映画でもっとも有名なものは『ウルトラ6兄弟対怪獣軍団』(監督、東條昭平)だ。しかし、この作品はタイと円谷の合作映画の2作目であり、実はその前に円谷の『ジャンボーグA』とタイのヒーロー「ジャイアント」を共演させた映画『ジャンボーグA&ジャイアント』(監督、東條昭平)が製作されている。

 タイでは、これらの作品が公開されるにともない、『ジャンボーグA』とウルトラシリーズのテレビ放映も行われたようで、いまだに『ジャンボーグA』とウルトラマン(タロウまで輸出されたらしい)はタイの人たちに人気があるようだ。輸入玩具を扱う模型店などに、近年タイ製の『ジャンボーグA』や『ウルトラマンタロウ』のソフト人形を見かけることがある。これらの人形は製作年度があたらしいことから、最近、またタイで人気が再燃したようだ。

明かされる新事実(笑)
『HelloJAPAN』というアジアのレポートをしているホームページによると、タイは、アジアの中でも特に日本アニメや特撮作品が人気があるという。
 昔から日本のアニメやヒーローものはほとんど時間差なくどんどんタイに輸入されていたということだ。実は40年以上にわたり、それらはタイ人に影響を与え続けてきたのだ。なにしろタイにはドイ・センベイという「日本のアニメをやるときには、センベイを出さないと視聴者が納得しない」というぐらい有名な日本アニメ専門の声優がいるくらいなのである。なんとこの人は、自分で日本アニメの配給会社までおこしたそうで、この会社では日本のヒーロー作品のショーの興業まで引き受けているらしい。

 そして、真偽のほどは分からないが、このセンベイ氏の口からは、なんと初代ウルトラマンのデザインについて、いままで特撮ファンの間で語られることのなかった新事実がかたられている。
 センベイ氏はなんと「実はウルトラマンの顔はタイ人が考えついたものなんですよ」と言い切るのだ(!!!)。
センベイ氏によれば、次の通りである。
「今、タイのテレビ界で有名なプロデューサーである、ソンポートという人(おそらく、『ジャンボーグA&ジャイアント』のプロデューサー、ソンポート・センゲンチャイ氏だとおもわれる。この人は、現地ではかなりの有名人なのだ)が若いとき、日本へ留学したんです。今から40年くらい前のことです。彼もテレビ関係者だったので、ツブラヤ(円谷プロ)に出入りしてました。そのときツブラヤはちょうど『マグマ大使』の製作が終わって(←ここは明らかな間違いだか・笑)、次の『ウルトラマン』の計画を考えていました。でも、ヒーローの顔がどうしてもいいのが浮かばない。そこでソンポートさんが『ブッダのイメージにしたらどうか』って言ったんです。結局、それがいいということになって、ウルトラマンの顔ができたんですよ」

 ウルトラマンの顔が仏像のアルカイックスマイルをヒントにしている、というのは有名である。これについてデザイナーの成田亨氏は「自分のアイデア」だといいきっていた。しかし、その後飯島敏宏氏が「ウルトラマンの顔を仏像にしようといったのは円谷英二氏だ」という新説を語った(『ウルトラマン大全集』(講談社)での座談会での発言による)。どちらが正しいのかはいまだ分からないが、ここへきて、じつは「ソンポート・センゲンチャイ氏だった」というさらなる新説が浮上したのである(!)

 以上、日本の特撮作品の海外での反響を紹介した。これらの事実だけでも、日本の特撮、アニメ作品が、海外の人たちからそれなりに好意的に迎えられているのがわかる。一部、海外でも批評家などからは批判を受けているようではある。しかし「批評家が支配しているマスコミ帝国主義社会」である日本とちがい、海外では批評家のそういった批判によって市民が扇動されることは少ないようだ。よって、日本アニメの海外進出は、今後もつづいていくとかんがえてよい。
「日本アニメは世界に恥をばらまくことになるぞ!」とは、某「国民的映画監督」のお言葉だが、先にのべた『パワーレンジャー』の放送の経緯などを辿ってみても、海外の配給会社から日本アニメを買い付けてくるというケースもおおいようで、日本人の方から「ばらまいている」とも言えないのが実態だ。

先入観の原因
 先にパワーレンジャーに触れた項で、日本人は日本特撮について、なぜ歪んだ先入観をもってしまうのか?という問題を提起した。この論文の締めくくりとして、このことについての筆者なりの考察をのべてみたい。

 日本では伝統的に、有名な作家や言論人が日本の特撮ものやアニメを否定したことが多かった。こういうことが蓄積していって、「日本特撮、日本アニメをみることは恥ずかしい」という風潮を国内につくってしまったとも考えられないか。それによって海外の人気と国内の人気に、極端な差がでてきたのではないか。
 著名なSF作家たちがウルトラマンやゴジラをSFだと認めなかったことを皮切りに、大江健三郎がかつて「破壊者ウルトラマン」というエッセイでウルトラシリーズを批判したことがあったことなどである。

 特に高千穂遥氏(SF作家)が『アニメック』(最初期のアニメ雑誌。現在は休刊)で提唱した「SFとニセSFの区別の仕方」という概念は、もっとも日本の特撮ものやアニメの価値をおとしめてしまった。これは「SFとニセSFの違いは感覚的な言葉では言えないもので、本物のSF小説を沢山読んでいる人間にだけ感覚的に分かる」という意見だ。そして、日本の特撮ものやアニメは、本物のSF小説を読んでいる人からすれば、ニセSFであるものが圧倒的に多いという意見だった。
 この意見は、実に経験主義的で客観性に乏しいものなのに、これが正論として日本社会に定着してしまったのは大変残念だった。高千穂氏は『ウルトラマン』や『機動戦士ガンダム』もSFではない、と批判したが、この高千穂氏の意見は『UFOロボ・グレンダイザー』がフランスで大ヒットしたという事が、全く視野にはいっていない。

 筆者からすれば、一般的には非現実的な展開のある作品は、非現実的な展開のない作品と区別するために「SF」と呼ぶのだとおもう。が、彼等SF作家は、彼等の目でみて面白くないものだけ「ニセSF」と呼ばせるという、奇妙な習慣を社会に提案しだしたのだ。
 筆者としては、とりあえず「非現実的な展開のある創作物」の総称を「SF」とし、そのうえで、SF作家たちにとって、つまらないSF作品があったら、彼等はそれを「つまらないSF」と言えばいいだけの話のように思えるのだが。

SFという言葉が科学性を重視したもののみを指すのであれば、筒井康隆氏の『怪奇たたみ男』などはSFと言えるのだろうか? 筒井氏のエッセイ集『やつあたり文化論』の『現代SFの特質とは』には、筒井氏のこんな言葉がある。

「少し程度を落として百科事典的に処理すれば、『SF』は『サイエンス・フィクション』の略であるから「科学」をテーマにした小説であると言ってしまえるのでしょうが、今やこの説明によって現代の多様化したSFを一括することができないことは子供でも 知っていますし、こんな説明ではもはや誰をも納得させることが できません。科学とは無関係なもの、自然科学はおろか社会科学とさえ無関係なものが多数あり、それもSFの名で呼ばれている事実があるからです。(河出書房新社・152ページ)」

さらに付け加えると『サンダーバード』などのイギリスのSFテレビ番組のプロデューサーとして有名なゲーリー(ジェリー)・アンダーソンも、SF作品を制作するにあたって科学性ばかりを重視しているわけではないらしい。アンダーソンは1981年の徳間書店『タウンムック増刊 スーパービジュアル6』でのインタビューで以下のようなの発言をしているのでである。
「私は完璧なまでに、科学的な正確さを追求すると番組自体が退屈なものになると思うのです。」
「私は表題が『SF』である以上、フィクションを強調します。」
(以上、110ページより)

 海外では『パワーレンジャー』などが社会現象をおこしているのに、国内では『秘密戦隊ゴレンジャー』以降、全く社会現象になっていない。『秘密戦隊ゴレンジャー』の放送は70年代中期であり、先の高千穂遥氏の日本アニメや特撮作品への批判はそのあとの70年代末期におこっている。こういったタイミングから考えると、高千穂遥氏によるこういった批判は『ゴレンジャー』以降、日本特撮作品が社会現象級のヒットに恵まれない最大の要因にもおもえる。

 80年代以降から、日本特撮は幼稚園児が主な視聴者になった。すくなくとも、『ゴレンジャー』のころまでは、幼稚園児より上の年令の子供も日本特撮作品を見ていたのだ。幼稚園児しか日本特撮作品を見なくなった原因というのも、ひょっとしたら高千穂氏の行った日本アニメや特撮作品への批判が原因かもしれない。日本特撮作品が再び社会現象級のヒットをするには「幼児しか日本特撮を見ない」という、この現状を打開することが必要であろう。

 一時期、日本特撮を扱うサブカル雑誌のライターたちは、日本特撮作品が幼児しか受けない原因を「作品がリアル指向ではないからだ」と分析した。その彼等の分析に従って、『ウルトラマンティガ』や『仮面ライダークウガ』といったリアル指向の特撮テレビ作品がいくつか製作された。しかし、これらの作品も、おもな視聴者層はやはり幼稚園児であり、爆発的なヒットは起こらなかった。
 『超合金魂2』(徳間書店)での、プレックス(バンダイの子会社のデザイン事務所)のデザイナー大石一雄氏の発言(76ページ)によると、アメリカでは、『パワーレンジャー』は小学生や中学生も見ているとのことである。
『パワーレンジャー』は、今までさんざん触れたように東映の戦隊シリーズのフィルムを流用した作品なので、登場するキャラクターやメカは日本と同じで特別リアルではない。また内容はアメリカで改変しているとしても、ストーリーは、むしろ日本の戦隊にくらべ、かなり単純なものだったりするのである。それなのに、『パワーレンジャー』がアメリカで小学生や中学生にも受けているということを考えると、今の日本の特撮ヒーローものが幼稚園児にしか受けいれられない原因は、「リアル指向であるかどうか」ではないことがわかる。やはりこの原因は「国産のアニメや特撮ものをみることは恥」という今の日本国内にあるムードにあるのではないか。

 そういえば、昔のバットマンの映画『バットマン オリジナル・ムービー』(66年)の冒頭では「荒唐無稽の楽しさ、バカバカしさを愛する人にこの映画を捧げる」という字幕がでる。この映画は子供向けにつくられたものではないが、そのうえで荒唐無稽にすることを作品のコンセプトにしている。「リアルにしないと子供向けになる」という類いの評価を下す評論家がなぜか日本ではおおいが、海外ではこういう作品があることも念頭において評論してもらいたいものである。

SF作家や著名な言論人が、みな国産のアニメ、特撮作品を酷評し、この批評が「絶対化」されたことによって、多くの日本人は、国産のアニメ、特撮作品のファンを蔑視するようになった。そして国産のアニメ、特撮作品のファンは社会的なスティグマ(烙印)を押されてしまい社会から居場所を喪失したのである。国産のアニメ、特撮作品は国内で「とるに足らないもの」とされた。

いわゆる「オタク」という言葉は、国産のアニメ、特撮作品を好む好事家のなかでも内向的で神経症的な人間に向けられた言葉だったといえる。宮崎事件以降オタクバッシングが起こったとき「アニメ等が好きでも、神経症的な人間ではない人はオタクではない」として分類されて、バッシングの対象外になっていたとおもう。そうなると、オタクバッシングをした人たちは、オタクがアニメ等が好きかどうかはあまり問題ではなく「内向的で神経症的な人間」であるかどうかを問題視していたということになる。つまり内向的な人間、神経症的な人間を迫害することが本来の目的ということになるのではないだろうか。

神経症的な日本特撮ファンやアニメファンへの蔑称が「オタク」という言葉だとおもわれる。それらの作品のファンに神経症の人間がおおいのか、それともそういう作品のファンのなかの神経症の人間が、たまたまマスコミでクローズアップされてしまったのかは良く解らない。が、仮に「日本特撮ファンやアニメファンに神経症の人間がおおい」と仮定しよう。そうなると、なぜ神経症の人間が多くなるのか、という疑問が生じる。

『うつ病と神経症』(渡辺昌祐,著/主婦の友社)55ページには、山下格(北海道大学名誉教授)が研究した対人恐怖の基本的な症状がのっている。
これによると、
1)自分に重大な欠点があるという妄想的信念をもつ。
2)周囲の他人のふるまいや行動から、患者は直感的にこうした自分の不足している箇所を見て取る。
3)これらの欠陥は他人を不快にするという確信がある。
4)対人恐怖を除けばほかの精神症状はない。
以上の4点が、対人恐怖の特徴だそうだ。

「日本特撮ファンやアニメファンに神経症の人間がおおい」という疑問について考える際、上記の山下格氏の挙げた4つの対人恐怖の基本が手がかりになるかもしれない。

1番目の「自分に重大な欠点があるという妄想的信念をもつ。」というのが、対人恐怖の原因なのなら、これと特撮、アニメファンの立場には接点があるといえなくもない。

現状では、国内の特撮作品や宮崎アニメ以外のアニメがすきなファンは、社会的なステータスが低くなってしまう。これはやはりマスコミや言論人たちがそれらの作品を認めなかったということが関係しているとおもえる。言論人たちが批判するものを好むということは、今の日本社会において、社会的なステータスを下げる要因になるだろう。

そうなると、おおくの特撮ファン、アニメファンはこのことを「自身の欠点だ」と思い込むことになるだろう。そうなると、これが山下格氏の挙げた「対人恐怖の基本」の1番目「自分に重大な欠点があるという妄想的信念をもつ。」につながっていくのではないだろうか。これによって多くの特撮ファン、アニメファンは、神経症を発症してしまうのではないかとおもえるのだが。

つまり言論人が国内の特撮作品や宮崎アニメ以外のアニメを認めないということが、実はそれらの作品のファンを神経症にした最大の原因ということになる。

言論人は、あくまで作品を低く評価したのであって、それを好む人の人格を否定したわけではない、とおもう人もいるかもしれない。しかし世間一般的には「その人が何を好むか」という個人の趣味趣向は、人間のパーソナリティの一部として語られることがおおい。そうなると、ある特定の芸術作品が社会的に低い評価を下されると、それを好む人のパーソナリティも、社会的に低く評価されてしまうということがいえるだろう。

 世の中の「常識」というものは、その時代の「権威」のある人間たちがつくり出したものではないだろうか。日本の変身ヒーローものは、大昔にSF作家たちに叩かれたおかげで、視聴することが恥という常識が日本社会に出来上がってしまった。『ドラえもん』や『ドラゴンボール』も子供向けのものだが、これらは大人がみても恥にならない。しかし、大人になって変身ヒーローものを見ることは、なぜか恥だといわれてしまう。これは、SF作家は『ドラえもん』や『ドラゴンボール』を叩かなかったからだろう。

宮崎事件以降の知識人たちは、「子どものいない大人がウルトラマンや仮面ライダーをみているのはおかしい」という常識をふりがざし、その常識という型に人間をはめ込んでいる。それこそ個人の個性をみとめていない。そういう知識人の態度が、国内の特撮作品がすきな個人を追い詰めているのではないか。

「ハロー効果」という心理学用語を御存じだろうか。社会的に実績や権威のある人間が何か語ると、それが例え間違いだったとしても一般の人はその発言が正しいと思いこんでしまう効果の事である。
知識人、言論人は社会的に実績や権威ある人間たちだ。知識人、言論人のいうことを一般人が信じやすいというのは「ハロー効果」であり、心理学的に証明されていといえるだろう。マスコミでの知識人、言論人の発言は大衆を扇動する強い影響力を社会の中でもっている(「ハロー効果」についての記述は人事考課関係の本(学術的なもの)に多い。三省堂『大辞林 第二版』にも載っている)。

『ドラえもん』も、科学的、現実的にみてありえない設定や展開はおおい。なのに、『ドラえもん』の場合はそういったことが指摘されて批判されることは殆どない。そして、なぜかロボットアニメや特撮ヒーロー作品ばかりそういった点が槍玉にあげられ批判される。これはやはりSF作家がこれらの作品を批判したことが影響しているからだろう。SF作家たちが批判したことから「ロボットアニメや特撮ヒーロー作品を叩く人間はインテリだ」という認識が日本人の中に生じ、ステイタスになってしまったとおもわれる。これはハロー効果によるものではなかろうか。

ある人物を評価するとき、その人に目立って劣った特徴があると、その人物や物事のすべてを劣っている、と見なすということもハロー効果なのだそうだ。日本特撮ファンやアニメファンの言動が他の人間より奇妙にみえると言われることも多いが、それは本当はこのハロー効果によるものである可能性もあるのではないか。前述のように日本特撮やアニメはマスコミによって酷評されたため、それを好む人たちのパーソナリティも低く評価される。そのために日本特撮ファンやアニメファンの言動がハロー効果でおかしく見えるのかもしれない。

血液型で人格を判断する「血液型性格判断」のテレビ番組が2004年に日本で問題視された。朝日新聞社『AERA』2005年1月24日号(17ページ)によれば「放送倫理・番組向上機構(BPO)」には、そういう番組の影響で「子供がいじめを受けている」という苦情が視聴者から寄せられているという。(『日経エンタテイメント!』2005年2月号の23ページにも同様の記事がある)

血液型性格判断の番組の影響で特定の血液型の人間がイジメにあうという実例が存在するとなると、マスメディアの報道によって、特定の人間たちへ偏見が生まれ迫害されるということはあり得るのではないか。

90年代以降、日本特撮や日本アニメのファンはマスコミで「オタク」という蔑称で呼ばれることがおおくなった。「オタク」は他人との人付き合いが少ない人間がおおいといわれる。オタクのこういう傾向をマスコミは、「オタク」の方から社会を避けていると分析して批判する。しかし、扶桑社『週間SPA!』2005年2/1号の『誤解と偏見の「オタク迫害」に異義アリ!』という特集では宮崎事件の直後にアニメファンがいじめにあったらしい(20ページ)。

こういう事実があるとなると、実際は「オタク」の側から社会を避けているのではなく、マスコミやマスコミに登場する知識人たちによる日本特撮や日本アニメへのバッシング報道の影響を受けた一般市民たちが「オタク」を疎外してしまっているのが実際なのではないか。また、宮崎事件以降、マスコミは「オタク」を批判する報道を行い続けたが、こういうバッシング報道の影響を受けた一般市民が「オタク」を疎外して、ますます「オタク」は社会から疎外されているのかもしれない。

上記のように血液型性格判断のテレビ番組の影響で、特定の血液型の人間がイジメられるという実例がある以上、これらの可能性は濃厚ではなかろうか。

80年代、浅田彰の『構造と力』を切っ掛けに「ニューアカ」ブームがおこる。これは、日本国内の一般市民にインテリ層への憧れが少しずつ強まりはじめたことをものがたる。その後に『ソフィーの世界』が流行って、哲学ブームがおこるが、これも市民のインテリ層への憧れを後押しする。市民がインテリ層に憧れている状態でインテリ層の人間の言論人がなにかいえば、市民はハロー効果によって言論人のいうことになびいてしまうのである。
大江健三郎のエッセイ『破壊者ウルトラマン』は文壇雑誌『世界』(岩波書店)73年5月号に掲載されたものだが、その後75年に単行本『状況へ』(岩波書店)に収録されており、80年代以降でも図書館などで閲覧が可能だったとおもわれ、あとの時代の人間に少なからず影響を与えたと予想される。

(大江健三郎はノーベル賞を受賞したが、ノーベル賞とて絶対的な功績とみなすのは誤りであろう。ロボトミー手術を考案したエガス・モニス教授がノーベル賞(1949年)を受賞しているのだから。現在はロボトミー手術は危険な行為として禁じられているが、当初ロボトミー手術は精神病の有効な治療法と思われていたためモニスはノーベル賞を受賞したのだ。)

オタクという固定ファンが形成された理由は、ニューアカに代表される90年代の国内マスコミの流行が原因とも考えられる。
90年代から国内マスコミは、個人主義、資本主義といったブルジョア・イデオロギーに該当する価値観を「左翼」と誤解して、それに準じた様々な流行をしかけていった。ニューアカのブームも、こういう流行のなかの一つである。

しかし本来は、個人主義、資本主義は経済格差によって社会に階層をつくるために「右翼」と分類され、これに対抗する形で、財産の共有化、平等化をはかる共産主義(社会主義)がうまれ、この共産主義に通じる政治的スタンスが左翼である。マルクス/エンゲルス著『共産党宣言』の有名な一節「人類の全歴史は階級闘争の歴史であった」に象徴されるように、社会の階層をなくすことこそが左翼の本来の基本的なスタンスなのである。おもに90年代において、これらのことは忘れ去られていた。
(この件についての詳細は、本サイトの論文、作品研究1補足『ニーチェと少年犯罪についての一考察』の『9,80年代以降の日本とは?10,リバタリアニズムとニーチェ』『2,ニーチェとアナーキズム』『15.公と個の論争の検証16,さいごに』を参照されたい。)

90年代のこういう状況において、アニメや特撮番組は、90年代の国内マスコミの仕掛ける個人主義、資本主義の流行が反映されていないものがおおかった。ゆえに、業界的にはアニメや特撮番組は「流行に合致していない」がゆえに「センスの悪い」作品といわれて蔑まれ、さらに90年代の国内マスコミの流行が嫌いな人たちはアニメや特撮番組しか見ない状態になり、いわゆる「オタク」になったという可能性もある。

なぜアニメや特撮番組に、90年代の国内マスコミの仕掛ける流行が反映されなかったのか? それは、そういう流行が反映された作品をつくらない(あるいは作れない)クリエーターは、それが理由で「センスが悪い」などと業界でメインカルチャーを作っているクリエーターたちから馬鹿にされ、メインカルチャーからサブカルチャー(特撮ものやアニメ)へと職を追われてしまうからなのではないかと考えられる。

特撮ものやアニメは子ども番組であり、子ども番組は通常は業界的なステイタスは低く、ゆえに業界的には本来は「左遷組」の仕事である。ゆえに「センスが悪い」という烙印がおされたスタッフはアニメは子ども番組をつくらざるを得なかったのではないか。しかし、上記のように90年代の国内マスコミの仕掛ける流行は、重大な誤解のもとにできあがったものであるがゆえに、皮肉にも「左遷組」の作品こそが世界に通用するものになったという可能性がある。
(90年代において、洋画などの海外の創作物は、国内の批評家が、作品内容を強引に個人主義、資本主義のテーマに読み替えてレビューをかき、強引に90年代の国内マスコミの流行に合致させていたようである。また、洋画を批評家が「ストーリーに見るべきところはない」と評価して、映像のみに市民の注意を向けさせるということも頻繁にあった。)

また、この国産のアニメのなかで、宮崎駿の一連の作品やガンダムシリーズは、作品がニューアカブームと合致したイデオロギー批判の作品であり、ゆえに例外的にバッシングの対象から除外された。ここでいうイデオロギー批判とは個人主義、資本主義といったブルジョア・イデオロギーが除外されたうえでおこなわれるもので、90年代の国内マスコミでもっとも特徴的な思想的スタンスである。

話は前後するが、日本の場合は前述のように21世紀になっても未だに封建制(天皇制)と資本主義(おもに国鉄民営化や小泉政権における「構造改革」)の間を行ったり来たりしており、なかなか資本主義の次ぎの段階にすすめない。こういう現状においては日本はいまだ「自衛のための戦争」を解禁する段階には到達していないと考えるため、憲法9条は守るというスタンスが妥当だろう(北朝鮮や旧ソビエトのように独裁国家に変質した社会主義というのも、やはり「自衛のための戦争」を解禁できない段階といえるが)。

話をもどすが『パワーレンジャー』がアメリカで大ヒットした当初、日本国内のホビー雑誌、サブカル雑誌では、『パワーレンジャー』のことを小さくしか取り上げられなかった。あれだけのヒットをしていながら、扱いが小さいかったのはなぜだろう?(近年、ようやく大きな特集がくまれるようになったが)。
 やはり、これは雑誌の編集者やライターが最近の東映作品が嫌いな人が多いからだろう。もし、これが彼等の好きな『ガンダム』系のアニメや平成ウルトラシリーズ(『ティガ』『ガイア』)だったら、大騒ぎしてブームの直後から雑誌で大特集を組んでいたのではないか? つまり彼等にとって『パワーレンジャー』の国際的なヒットは、事実として認めたくないことなのだろう。

 サブカル雑誌の編集者やライターたちは、東映の変身ヒーローものより『ガンダム』系のリアルでシリアスなロボットアニメを好み、こういう作品こそ海外に認められて然るべき、と考えている人が多いようだ。
 しかし、『ガンダム』系のアニメの1つである『宇宙の騎士テッカマンブレード』は「Teknoman」という題名でアメリカで放送されており、たいした評判は呼ばなかった。そのうえ「Teknoman」は、先に述べた暴力調査「UCLA レポート」に、『残忍な戦いの暴力』の番組として批判されたのである。

「Teknoman」は、アメリカのテレビ用に若干改編されているにも関わらず、内容はほぼ日本版と同じだったようだが、これがあだになって批判されている。
「無秩序な宇宙での戦闘や白兵戦のシーンが、この番組にはたくさんある。この漫画アニメーションの暗いテーマ、戦闘場面に次ぐ戦闘場面、戦って破壊することだけを目標とするキャラクターたちなどのせいで、この漫画アニメーションは『残忍な戦いの暴力』の分野に、ぴったり当てはまる」とUCLAレポートでは批判されている。

 このレポートをみると、「暗いテーマ」や「戦って破壊することだけを目標とするキャラクター」といった、むしろ日本国内のサブカル雑誌のライターたちが好みそうな要素が、有害として批判されているのである。
 また、アメリカのケーブルテレビ、カートゥーン・ネットワークにて、2000年より『ガンダムW』が放映が開始され、同時間帯の最高視聴率を記録したそうだ。『ガンダムW』は、それなりにヒットしたようではあるが、あくまでケーブルテレビにおける人気番組なので、全米ネット系放送の『パワーレンジャー』のヒットにくらべれば、かなり小規模のヒットといえる。『ガンダム』系のリアルなロボットものは国内では評価が高いが、海外では思った程の人気は得られないようだ。

 初期の『宇宙船』(朝日ソノラマ)も、80年代、90年代は戦隊シリーズなどの現行の東映特撮作品はあまり取り上げなかった。近年やっと多く取り上げられるようになったが、平成ウルトラにくらべれば今でも東映特撮作品はやや冷遇されているようで、『宇宙船』で大々的に取り上げるのは、『鳥人戦隊ジェットマン』などの、過去の戦隊シリーズに、やや批判的なスタンスをとった作品に限られていた。

 80年代以降の東映作品がサブカル誌で扱いが小さいのには理由があるようだ。というのも、初期『宇宙船』のライターは、『宇宙船』創刊前に、東映版『スパイダーマン』の企画にタッチしていて、この時、彼等の考えたアイデアなどが東映側のスタッフに受け入れられず、東映側ともめて彼等は番組を降りたそうである。どうも、この時の感情的なわだかまりというものが後にもずっと続いていると考えられる。
 初期『宇宙船』のライターや『アニメック』のライターたちは、今だに出版業界内で、それなりの発言力を持っていて、彼等に嫌われると業界内でやっていけなくなることが多いそうである。サブカル雑誌やホビー雑誌で80年代、90年代の東映作品(おもに戦隊シリーズ)が冷遇されるのは、こういうことが原因の一つのようだ。

 マスコミというのは、先に業界内にいる人間たちが、自分達と違う考え方の人間を業界に入れないようにすることで、簡単に異分子排除ができてしまい、少々困りものだ。

『自由からの逃走』(東京創元社)はエーリッヒ・フロムというドイツの社会心理学者が書いた本である。一般的にはナチスがドイツに台頭してきた理由を分析した本としてしられているが、この本はそれ以外にも、とくに近代におけるマスメディアの影響についてにも触れている。

 『自由からの逃走』によれば、人間は他者の影響を受けた思想や感情などを、自分自身のものだと思い込むこともあるという。この例として新聞の影響をあげている。一般の新聞読者に、ある政治問題にについてたずねると、その人はその新聞に書いている意見を、自分の思考の結果と思い込んで語るのだという(211ページ)。また、こういった刷り込みは芸術作品に対する評価にも影響するそうだ。この本ではその一例として、美術館に訪れた人間の美的判断を分析している。有名な画家の絵を眺めると、普通の人はその絵を美しいという。しかし、こういう人間の判断を分析すると、本当はその絵に対してなんの特別な内的反応は感じておらず、その絵を美しいと考える理由は、その絵が一般に美しいものとされているからだということが分かるのだという(211ページ)。

このように、マスメディアなどの影響が人々にあたえる刷り込み効果はおおきい。なので、戦隊シリーズが過小評価されたり、アニメファンや特撮ファンが奇妙に見える理由もマスコミによる刷り込みである可能性は十分にありうるのである。

 今の社会で、マスコミを批判できる媒体というものは見当たらない。メディアの影響力を調査する民間のグループはいくつかあるが、これらの団体がメディアを批判したとしても、少部数の機関誌かホームページで批判する程度であるため、現状では世論を動かすほどの影響力はもっていないと言えるだろう。つまりマスコミは事実上、誰からの批判を受けることもなく、自分達の言いたい事だけ言え、そのうえ、人々をアジテーションする影響力をもっている。また、業界内では異分子排除が公然と行われており、自己批判など滅多にやらない。さしずめ、いまの社会は、「マスコミ帝国主義」といえる状況なのではないだろうか??

 ロールズは「正義」を「社会のなかで最も公正とされること」であるとし、信仰の自由、思想の自由、政治的自由、言論や集会の自由といったものを、平等に人々に分配することが「正義」だとした。

 人間にとって、「自由」「平等」は欠かすことのできないものだろう。しかし近年のマスコミは「自由」ばかり唱えて「平等」という言葉をあまり使わない。それはマスコミ業界が、著名な作家を頂点とした中央集権的な封建社会であることを象徴しているのだろうか?(アメリカでは、人間の平等を否定する考え方こそ右翼になるが、日本のマスコミトップは、なぜか平等を否定することこそ進歩的だと思っているふしがある)。

 著名な作家(映画監督や脚本家、ライターを含む)に嫌われると、彼等から圧力がかかって業界から追い出されるという今のマスコミは、とても多元主義的な社会とはいえない。
 こうなったのも、今の社会で、芸術批評が絶対化されたことが原因ではないだろうか。芸術批評が絶対化された今の社会で高い評価を受けた作家は、マスコミ業界や、ひいては日本の社会全体において絶対権力者になりうるのだ。

 近年の日本の言論人たちは、不人気の作品を猛烈に酷評し、映画など芸術の価値を画一化したがる。これはナチスの退廃芸術展に通じるのではないかとおもうのだ。芸術の価値を画一化、絶対化するということは、立派なファシズムなのではないだろうか?

『デザインの現場』(美術出版社)1999年8月号の、海野弘の連載『モダン・デザイン史再訪』の39回『インディペンデント・グループ』という文章によると、芸術の価値を絶対的なものとする考えはポストモダン以前のモダニズムなのだという。

この文章によると、イギリスの美術界では、1950年代に、モダニズムを啓蒙しようとするロンドンの現代美術研究所(ICA)の首脳の批評家とポスト・モダニズムを確立させた若手の芸術家の集団インデペンデント・グループ(IG)とが対立したという。現代美術研究所の首脳たちは「よい芸術」の見分け方を啓蒙しなければならないと考えた。これに対し、ポストモダンを志向するインデペンデント・グループは反発した。
「よい美術を決める絶対的根拠といったものはあるのだろうか。(138ページ)」モダニズムのような芸術の絶対的な価値というものを否定するのがポストモダンであるポップアートなのだとインディペンデント・グループの芸術家たちは反発したという。
「よい芸術といった絶対的価値はない。あくまである社会条件、あるパラダイムにおける相対的な価値でしかない。(中略)よいと悪い、ハイとロウといった芸術の区別の根拠はない。(138ページ)」これがポストモダンであるポップアートのスタンスなのであるという。

「よい芸術といった絶対的価値はない」というポスト・モダン的な芸術批評は、映画批評にも適用されてしかるべきではないかと筆者は考えるが、なぜか近年の映画批評は、まったくポスト・モダン化される気配をみせない。世にある名画といわれる映画は、その時代に何らかの社会的な条件によって高い人気、評価をうけただけの作品なのかもしれない。
映画批評は、いまだにモダニズムの次元から脱却できないでいるのではないか。絶対的な「よい作品」というものの見分け方を啓蒙するのが批評家であり、それに物言いとつけるのは社会的なタブーとされる。名作に該当しない作品をこのむ人間は「オタク」という差別語で社会から抹殺されてしまう。

 日本の特撮やアニメが、現在国内と海外で著しく人気が異なるのは「映画批評は相対的なものに過ぎない」ということを象徴しているとはいえないか。「映画批評の相対化」というものが、これからの社会にとって重要になってくると筆者は考えるし、これなくしては、本当の意味での社会の多元化というものがさまたげられるといっても過言ではない。「映画批評の絶対化」は海外(主に欧米)にも見られる現象かもしれないが、そういった部分はあまり影響されない方がいい。
 先にのべたように、日本社会には「国内の特撮ものやアニメは否定しなくてはいけない」という伝統がある。筆者の行っている日本特撮、アニメの再評価は、なにかと国産の特撮、アニメを批判したがる日本人の「伝統」への「反逆」なのだ。だが現在、そういう「伝統」に従って、「日本の特撮ものやアニメを作り替えるべき」という意見を唱える関係者やファンがおおくなっている。そちらの方が、逆に「伝統への反逆」などといわれてしまうのは残念だ。<了>

備考(2003,06/15)
『朝日総研リポート』は現在休刊のようで、バックナンバーも入手困難のようである。この文章で引用した『朝日総研リポート』1998年10月第134号の『米国に食い込む「戦隊」番組』のパワーレンジャーに関する記述の多くは、洋書『Toy wars』の第9章『メード・イン・ジャパン』の翻訳、抜粋である。以下、参考までに『Toy wars』のデータを記しておく。

Miller, G.Wayne "Toy wars:the epic struggle between G.I.Joe, Barbie, and the companies that make them" Random House, New York, 1998.


補足1(2002,4/28 2003,8/25一部追加)
日本国内で、宮崎駿監督作品と人気マンガのアニメ化作品だけは、例外的に見ても恥にならない国産アニメである。
しかし、『Newsweek日本版』2002年4月3日号の特集記事『ジプリの魔法』では、宮崎駿監督作品の『もののけ姫』の全米公開が惨敗したことが公表されていた。日本公開時には日本記録を樹立したこの作品が海外で惨敗したとなると、やはり映画批評というのは相対的なものだということが言えるだろう。

 また『千と千尋の神隠し』の全米公開は、アカデミー賞受賞直前の集計とおもわれる2003年3月16日までで560万ドルの興行成績をあげたそうだが、560万ドルという額は日本円で約6億7000万円で、この興行成績は日本国内でも惨敗というような数字である。

 参考までに、東映アニメフェアは、通常の興業収入が10〜30億くらい(昨年の夏のは4億5000万円でマスコミから惨敗とほうじられた)。 それなのに、一部マスコミでは『千と千尋の神隠し』が全米で大ヒットしたみたいに書くので、これも一種の情報操作のようにおもえる。

 また最近の米アカデミー賞というのは金銭による受賞狙いの工作が政界並みに横行しているそうで、あまり権威のない賞のようである。意地の悪い推測だが、結局今回の米アカデミー賞の受賞は、全米公開の興業成績が悪いことでジプリの面子が潰れないようにと、ジプリの広報がいろいろ根回ししたのかと思えてしまった。

アメリカ政治にくわしい副島隆彦(評論家、常葉学園大学教育学部特任教授)による映画評論本『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』(講談社)における、クリント・イーストウッド監督・主演『許されざる者』(1992)についての評論(p16〜)はアメリカのアカデミー賞について考える際に、大変興味深い内容である。

ハリウッドの映画人たちは、基本的にリベラル派であり、スピルバーグもリベラルなのだが、そういうハリウッドの体質のなかで、クリント・イーストウッドは、めずらしい「リバタリアン(自由至上主義、市場原理主義。資本主義のかなり過激なバージョン。)」のスタンスの人間であり、自ら監督した作品のいくつかは、そういうリバタリアンとしてのクリント・イーストウッドの思想が色濃く反映されており、『許されざる者』というのは、そういう作品のなかのひとつである。

『許されざる者』の内容は、アメリカ政治のリベラル派の政治家を西部開拓時代の保安官にたとえて批判し、その保安官をリバタリアンの賞金稼ぎのガンマンが倒すというものである。この作品では、賞金稼ぎのガンマンが主人公であり、こういう部分に、アメリカの保守主義である個人主義(すなわち「自分自身と、自分と親しい関係の人の得になること意外はやらない」という思想)があらわれているといえる。

この『許されざる者』は、アメリカ本国でアカデミー賞の作品賞を受賞してしまった。この事実からわかるように、実は、アメリカのアカデミー賞の審査をする側の人間たちは、保守派がリベラル派と同程度の力をもっているようで、こういうリバタリアン保守主義の作品が賞を取ったりすることもあるのです。日本の批評家のおおくは、こういうことを知らないだろう。

なので、「アカデミー賞をとった作品は、すべてリベラルである」とか「保守主義の作品が映画賞なんてとれるわけがない」と思い込んでいて、おおくの国内の批評家はアカデミー賞の受賞を絶対的な価値としてみているといえます。そういうことからいっても、もう国内の映画批評家たちは、そろそろ「映画賞をとったからいい映画」とか、そういう批評をやるのはやめましょう。映画賞だって相対的なものであるという観点に立つのが本来の多元主義ではないだろうか。

ちなみに、前掲の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(下)』で、ハリウッドにリベラル派の人間が結集しているという記述があるのはp33。スピルバーグがリベラルであることについて言及されている部分としては、p43〜の『インディジョーンズ 魔宮の伝説』やp46〜の『シンドラーのリスト』についての記述がわかりやすい。

補足2(2002,4/28)
本文でも触れたが、『グレンダイザー』がフランスで放送された時、視聴率100%という数字を弾きだしたのは有名である。この視聴率はフランスでは前代未聞の視聴率なのだそうである。

このフランスでの『グレンダイザー』人気は、ベルギー・イタリア・スペインら他のヨーロッパ諸国に広がったそうだ。フランスでは、あとに『ガンダム』も放送された。が、それ以降でも『グレンダイザー』の方が『ガンダム』より知名度や人気が高いようで、1999年のフランス・アジア映画祭「FANTASIA」のポスターには、デカデカと『グレンダイザー』のイラストが書かれている。

サバン氏が製作したフランス版の主題歌とは『Goldrak le grand(ゴルドラック〜偉大なる者〜)』という題のシャンソン風の歌だという。また、日本のオリジナル主題歌のフランス語版もつくられていたそうである。

補足3(2002,5/15)
『愛蔵版スーパー戦隊超全集』(小学館・2002年版)によると、2002年度の『パワーレンジャー』である『パワーレンジャー ワイルドフォース(『百獣戦隊ガオレンジャー』のアメリカ版)』は、なんとディズニーの配給なんだとか!
ディズニーが配給する日本アニメ(キャラクター作品)は宮崎作品だけじゃないんですよみなさん。これもっと日本の一般マスコミが報じてもいいよなあ〜。宮崎作品の時はあんなに大騒ぎしたのに〜。

補足4(2003,3/24)
2002年9月から、『ウルトラマンティガ』も全米ネットにて放送されたが、視聴率が低迷し打ち切りになったという。

補足5(2005,4/13)
2002年6月3日の日本経済新聞(夕刊)の『ヒット生む「宣伝仕掛け人」』という記事では宮崎駿の作品の『風の谷のナウシカ』から『となりのトトロ』までの観客動員数が書いてあるのだが、その数字は意外に低い。『〜ナウシカ』が91万人、『天空の城ラピュタ』が77万人、『〜トトロ』が60万人だったという。
『〜ナウシカ』が当時あまり客が入らなかったのは有名だが、『〜トトロ』はキネマ旬報ベストテン日本映画1位、第31回ブルーリボン賞特別賞、芸術選奨文部大臣賞などを受賞したのに観客動員数60万人というのは想像以上に少ない。『〜トトロ』あたりから、評論家が騒ぎ出してジプリ作品が神格化されていくので、一般的にはもっと客がはいっているイメージがあるがそうではないのである。

この『となりのトトロ』の60万人という数字は、邦画の中でもあまり成功したとはいい難い数字である。邦画斜陽期に突入した時期の東宝の『ゴジラ』シリーズの観客動員数をも下回る数字だからだ。例をあげると、この斜陽期の『ゴジラ』シリーズ作品である『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』の観客動員数は178万人、同じく斜陽期の作品『ゴジラ対メカゴジラ』の観客動員数133万人、同じく斜陽期の作品『ゴジラ対メガロ』の観客動員数は98万人であある。『となりのトトロ』の観客動員数60万人はこれらを下回っている。

この記事では、その後の宮崎アニメに客が入るようになったのは宣伝に力を入れたためということがかいてあるが、実際は単純に宣伝効果だけではないだろう。実は宮崎アニメというのは言論人たちの間でブームになり、それによって、雑誌のコラムなどで言論人たちが宮崎アニメについてやたらにふれるようになったため、それによって宮崎アニメを認めない人間は雑誌が読めないというような状態になり、それによって一般市民たちも「見ざるを得ない」状況に追いやられてしまっただけのようにおもえます。


おまけの小論
ガンダムシリーズの功罪

(2007年11月3日 UP)

2007年の10月から、リーボックのスニーカーの限定モデルで、なんとゴライオンの超合金が付録したものが発売になった。ゴライオンは80年代にボルトロンという名前で輸出され、おもにアメリカで『トランスフォーマー』と人気を2分する人気をえたらしい。『映画秘宝』2007年9月号によると、アメリカではおもに黒人の間でヒットしたという話である。リーボックのスニーカーにボルトロンの限定モデルが登場したのも、こういう流れからすれば自然だとおもえますねえ。

これはなかなか衝撃的ですね。日本じゃ東映のスパロボ系の作品が、こういう形で脚光をあびるということはないでしょう。しかも『ゴライオン』は、国内では東映のスパロボ系のなかでも、とくに酷評された作品です。それが海外でヒットしたという現象も、まさに芸術作品の価値の相対性を示すものとして貴重なものです。
(註・スパロボとはスーパーロボットの略。ガンダムのような作品は「リアルロボット系作品」とアニメファンからいわれることがおおく、反対にガンダム製作以前のマジンガーZの流れをくむロボットアニメを「スーパーロボット系作品」とよぶ。リアルロボット系作品の対義語的な言葉。)

ちなみに、ボルトロンは海外に輸出された際、あまり大幅な改定をされなかった。『ダイラガーXV』の映像も混ぜて編集されたかのようにいわれるが、実際は『ゴライオン』のあとに「ビークル・ボルトロン」というタイトルで『ダイラガーXV』が放送されたのだという。ボルトロンの放送形態は以下のとおりである。

●第1シーズン:
『ゴライオン』52話+『ダイラガー』9話からなる「ライオン・ボルトロン」全61話の放映後、
『ダイラガー』の残りの話で構成した「ビークル・ボルトロン」全43話を放映。

●第2シーズン:

「ライオン・ボルトロン」の設定を元にした北米オリジナルの新作20話。製作は東映。脚本はワールド・イベンツ。

●TVスペシャル:

『ゴライオン』『ダイラガー』が競演する1時間スペシャル。

ボルトロンは、たまに無料画像サイト「You Tube」で視聴できるが、筆者が視聴したかぎりでは、OPとEDの映像と音楽が差し換えになっているがそれ以上のおおきな改変はくわえられていないようだ。

話をゴライオンスニーカーにもどそう。このゴライオンスニーカーは、国内では、青山とか渋谷にあるセレクトショップで入荷されている。こういう青山とか渋谷のセレクトショップでゴライオンの超合金がうってるなんて、筆者が夢に見た光景ですねえ。

いまだに、メインのマスコミは、ロボットもので海外に通用するのはリアルロボット系のものだけだと言い張って、そういう報道しかしません。しかし、実際はフランスでグレンダイザーが空前の視聴率をとったことがあります。いまだにグレンダイザーのフランスでのヒットを、国内のメインのマスコミがまったく報じないのは、もう一種の報道統制といいましょうか。出版マスコミの評論家たちにとってつごうの悪いことは国内に報じないというのは大本営発表とかわならいという気がします。

そして、このようにゴライオンが海外であたってたりします。しかし、なぜかメインの国内マスコミはこういうことを一切報じないで「スパロボはオタクと幼児しかみないもの」という固定概念を国内の市民にうえつけています。
2007年に実写映画の大作としてアメリカで製作され公開された『トランスフォーマー』(マイケル・ベイ監督。製作総指揮スチーブン・スピルバーグ)にしたって、事実上のスパロボ作品です。

しかし、こういうことを目の当たりにしてもメインのマスコミは、かなり意地になって、ガンダムばっかり表にだしてきます。
実はボルトロンも、現在ハリウッドで実写映画としてリメイクされているとかで、これはなかなか期待できますね。個人的にはトランスフォーマーよりこっちのほうが楽しみだったりしますね。

2007年に、国内ではおしゃれ系の雑誌『Cut』11月号にガンダムの特集がくまれています。こういうことがおこると、また「おしゃれなのはガンダムのようなリアルロボット系の作品だけだ」というイメージが、国内の一般人たちにうえつけられてしまいます。

しかし、前述のように、海外ではゴライオンの限定モデルスニーカーが発売され、青山とか渋谷のセレクトショップで売ってるというのだから、スパロボ系のキャラクターだって、おしゃれなものとして扱ってしかるべきでしょう。ゴライオンの限定スニーカーは国内ではなく海外の商品ですから、海外ではこのへんの認識が、国内とむしろ逆だとさえいえます。

このスニーカーのすごいところは、ちゃんと大人むけの靴であること。そして靴のデザインが、ゴライオンのデザインにあわせたデザインになっていることです。とくに配色が完全に一致しているのは注目です。
80年代の第一次アニメブームのとき、玩具会社ポピー(現バンダイ)のデザイナー村上克司のおこなったメカデザインがカラフルなのを「子供っぽい」などとアニメ雑誌の評論家たちはたたいていました。しかし筆者はスポーツ用品にもカラフルなのはあるので、別段カラフルなことが子供っぽいとかダサいとか、感じませんでした。そういう筆者の持論が、このリーボックのゴライオンスニーカーで証明されましたね。

ガンダムというのは基本的に「戦争はイデオロギーでおこる」という、ニーチェ主義的なイデオロギー批判であり、この部分はかなり問題があるようにおもえる。
ここでいう「イデオロギー」というのは、ブルジョアイデオロギーである資本主義、個人主義が、なぜか除外されたうえで語られる、90年代の国内マスコミ特有ともいえる「イデオロギー」であり、戦争というのは、なにかしらの禁欲主義的ないし利他主義的な価値観がこじれたうえで起こるという、国内マスコミの変な戦争観に根ざしている。

ガンダムで描かれている戦争というのは、『華氏911』や、筆者が読んだベトナム反戦運動やケネディ暗殺関連の本にかいてあることと全然ちがうんで、じつはガンダムというのはリアルじゃないんじゃないでしょうかね。
(註・筆者が読んだベトナム反戦運動の本とは、おもにマーティン・A・ヘリー、ブルース・シュレイン共著『アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命』(第三書館)や越智道雄・著『アメリカ「60年代」への旅』(朝日選書)をさす。またケネディ暗殺関連の本は『JFK ケネディ暗殺犯を追え』(ハヤカワ文庫)や落合信彦の『決定版 二〇三九年の真実』(集英社)など

上記のように、「戦争は禁欲的あるいは利他的な価値観がこじれたうえで起こる」という考え方は、結局「世の中金と力だけ」という、資本主義の全面肯定論にいきつきます。90年代のそういう価値観が、現在の格差社会の一因になっているのはいうまでもないでしょう。

また、2007年ごろから防衛省が本気でガンダムの開発にのりだしたらしい。11月7日から2日間にわたって防衛省技術研究本部が行なった「平成19年度研究発表会〜防衛技術シンポジウム2007〜」では、「ガンダムの実現に向けて(先進個人装備システム)」という題の展示がおこなわれたらしい(2007年10月30日、ギズモードジャパンの報道)。これは、つまり防衛省が、ガンダムをヒントにしたロボット兵器の開発に、実際にのりだしたことを意味する。

このニュースを読むと、やはり、ガンダムのようなリアルロボットアニメの好きな連中は、だんだん本気で現実の戦争に興味を持ち出すということがいえるんではないでしょうか。
スパロボのファンは、現実の戦争がスパロボの戦いとあまりに違うため、そもそも現実の戦争へあごがれをもたないといえます。実際、スパロボのファンでミリタリーマニアという人とは、筆者はお目にかかったことがありません。

ガンダムというのは、前述のように、内容が「戦争は禁欲的、利他主義的なイデオロギーでおこる」というテーマで、このテーマが資本主義の全面肯定論につうじる点が問題だが、そのうえで、さらに現実にロボット兵器の開発に乗り出す人間を輩出するという弊害をもたらした。

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