全くやる気のなかった中高時代
父は何ヶ国語か話せて、若い頃にはドイツ人の恋人がいて(父は結婚後も、そのドイツ女性からのラブレターを取っておいたのですが、母に見つかって、全部焼かれてしまったそうです)、母親は広東人で・・・
などと人に話すと、子供の時からさぞかし素晴らしい外国語教育環境で育ったんだろうと思われてしまいますが、実際にはそうではありませんでした。
私が外国語を勉強し始めたのは、基本的には大学に入ってからのことです。中学には勿論英語の授業があリましたが、自分の勉強には全くなっていませんでした。
今でこそ、勉強とは何のためにするのか、その勉強のために、学校とは不可欠の場なのかなどの問題について、多くの方々にお話していますが、当時の私には、学校に通うことはあまりにも当然のことで、考慮の対象にも批判の対象にもなりませんでした。
当然、英語の勉強についても、何のためにやるのかなど考えてもいませんでした。こういうことに就いて、どうして父は何も啓発してくれなかったのか、今考えても不思議なことです。
背が高く、大変真面目で、数ヶ国語を学習し、恐ろしくハンサムで,文武両道に秀で、博覧強記だった父から見れば、僕は余りにも馬鹿息子で、何を言う気にもなれなかったのかもしれません。
とにかく、自分の時間を生きていなかったという点で、貴重な一生の中で大変な無駄をしたと考えています。
大学以後
入学して直ぐ、授業が始まるか始まらない頃に、教授の家に呼ばれ、分厚い原書を渡されて、全部日本語に翻訳しろと言われました。
しかもその本は19世紀に著わされた極めて難しい言い回しの本で、基本的に英語など勉強したことのない私には歯が立たない代物でした。
私にとっては大ショックでした。直ぐに、大学の行き帰りの電車の中で英語の勉強を始めました。これが、私が能動的に外国語を勉強した最初の経験でした。
この英語以外にも、大学に入ってからは、幾つも外国語をやりましたが、全て研究のための文献を読むためだけで、喋れるようになろうなどとは考えもしませんでした。
なぜ考えなかったのか,今思い返しても全く理解できない位ですが、外国というものに全く目が向いていなかったのでしょう。「英会話」などという言葉にも全く関心が有りませんでした。
勿論、その当時はウオークマンなどこの世に存在していませんでしたから、私の電車の中での勉強も、耳から音を入れるものではありませんでした。
「私のハードウエア−史」の所で述べているように、私はウオークマン1号機がこの世に誕生するよりも前からウオークマンしていましたが、それを始めるまでには、更に数年の時間が経過することになります。
チベット語の経験−1
或る国立の機関が1ヶ月間程度のチベット語の講習会を開きました。東大や京大の大学院の学生(私もその中の一人でした)を始め、日本各地の学者や学者の卵たちが参加していました。私はこの時初めてチベット語の音に接したのです。
最初の時間に、チベット人がチベット語の文字を一つづつ発音しました。
チベット語は、いくつかの文字が組み合わさって一つの音節が構成される場合が多く、そのような音節は明確な声調があるのですが、一文字だけを単独に発音しても、極めて微妙な声調があります。
その時、チベット人は一文字づつ単独に発音したのです。そしてその極めて微妙な音の上がり下がりを聞き取って,答案用紙に書くというテストでした。
テストが終わった後、正解が発表されて、自己採点します。「全部正解だった方は手を上げてください」と言われたので、手を挙げたのですが、手を挙げたのは私一人でした。
この講習会では,こういうことも有りました。ある日、先生(チベット現代語研究の世界的学者)が、授業中に、チベット語の或る一つの発音を説明してくれました。
ところが、模範発音をしてくれるチベット人の発音を聞いていると、その音は、直前に或る音が来たときに、先生が説明された音よりもほんの少し広口なっていたのです。
私は、その日の授業が終わってから先生のところに行き、この点に就いて質問しました。
先生の答えはこうでした。「全くその通りなんですが、そこまで細かく説明しても、違いが聞き取れないのではないかと思って、言いませんでし
た。」
チベット語の経験−2
その後、こんな事が有りました。
ある時、大学院でチベット語古典の世界的な学者と一緒に、6世紀頃に書かれたチベット語の文献を読んでいたとき、その教授にも意味不明のところが有り、その部分について、
私がチベットの現代口語(全く使っていなかったので、今は全く忘れてしまいました。いずれはやり直したいと思います)の知識ではこういう解釈が可能ではないかと自分の意見を言ったところ、それで問題が解決してしまったという経験をしました。
勿論、私は、チベット語はほんの少々齧っただけですから、そのレベルは世界的な学者と等比較すべくもないのは当然です。それでもこんな事が起きるのです。
それでようやく、その外国語の語感を身につけることが肝要だということに気が付いた訳です。人に言うのも恥ずかしいくらい間抜けな話です。
それからは、文献を読むための外国語も、口語から入ることにしました。
ネイティブスピーカーが原理的に存在しない!?
そうなると、今度は逆に、やる以上標準的な発音を完璧にマスターして、発音に関してはネイティブのアナウンサーレベルになることを目標にするようになってしまいました。
結構なことだと思われるかもしれませんが、想像もしていなかった問題にもぶつかりました。
「その言語のうちでも最も標準的な発音のネイティブスビーカー」自体が存在していなければ、そのネイティブの発音を習得することも、当然不可能なのです。
ネイティブスピーカーが存在していない等という事は有り得ないと思われるでしょうが、私は事実、そういう事態にぶつかってしまいました。
それは私がラテン語を耳から学習し、発音を完全にマスターしようとしたときでした。
当然の事のように、ネイティブの発音が録音されたテープを必死になって探したのですが、ラテン語のテープ教材など中々見つかるものではありません。
今ならインターネットで探すところですが、当時はインターネットのイの字も存在していませんでしたから、大変に苦労しました。それでも少しは見付けることができました。
ところがそこで、ハタと困ってしまいました。テープが作られた国によって、発音が違っていたのです。
一番分かりやすい例でいえば、Rの発音がそうです。フランスで作られたラテン語のテープのRの発音はフランス語のRの発音、アメリカで作られたものは英語のRの発音になっていたのです。
考えてみれば(と言うより、考えてみなくても当たり前ですが)、ラテン語は死語なのですから、「標準的発音」など存在する訳が無いのです。
このときの絶望感は皆さんには想像できないことかもしれません。何しろ、「その言語が話されている国の、首都が置かれている地方の放送局のアナウンサーと同等以上の発音」を目標水準にしているのに、「ラテン語のアナウンサー」など全く存在しないのですから。
死語の学習は、実はこの時が初めてではありませんでした。
インドヨーロッパ語の比較言語学や、ロマン溢れる印欧語祖語(インドヨーロッパ語族には沢山の言語が含まれますが、その共通の祖先のこと)の本を読んでいると、自然にサンスクリットやギリシャ語などに手を出すように成る訳ですが、
当時は、まだ現代語の語感を作るのが第一という考えは無かったので、このような古典語でも矛盾無く学習できたという訳です。
四日間でネイティブに!?
さて、本気で現代語をやろうと決めて、最初にやった外国語は、自分で参考書とテープ1本買ってきて、ゴールデンウイークの4日間で発音から読み物までやり、単語も2000語覚えました。
勿論、そんな程度の勉強では極初歩の段階であって、実力など全く有りませんでしたが、少なくともその時点で、自分が覚えた範囲内で話している限り、ネイティブだと思われるようにはなっていました。
この二つの体験(4日間でネイティブだと思われるようになったことと、チベット語学習での体験)で味をしめて、それから以後、少し本気でやるようになったという訳です。
音声なしで発音をマスター
話が前後しますが、チベット語を始めるよりかなり前、大学時代にフランス語も独学でかじりましたが、当時は外国語の入門書などにも音声教材はついていませんでした。
外国語の音声による学習をどうしてもやりたければ、レコードを購入してくることになります。当時、レコードの外国語教材としては「舶来」のリンガフォンのものがありましたが、大変高価でした。
当時、リンガフォンの教材で、フランス語のものがあったかどうか知りませんが、あったとしても私が買えるような金額でなかったのは確かです。
フランス語も全く音無しで始めました。使った本は、岩波書店出版の「新フランス語入門」という本でした。前書きの部分に「今までわが国では、外国語を学ぶ場合、ともすると発音を軽視する嫌いがあった」と書かれています。全く隔世の感がありますね。
この本は、音声教材をつけることの出来ない当時の状況で、フランス語の音を正確に伝えようと、国際音標文字を使い、発音の説明が詳しく書かれていました。
私は、全く発音を聞くチャンスのない状態で、この本の説明だけでフランス語の発音をマスターしました。後日実際の発音に接することが出来るようになりましたが、自分の発音がほぼ完璧であることが確認できました。
現在出版されているフランス語の教材を見ても、発音についての説明はかなりいい加減で、上記の本のようにきちんと説明されているものは皆無のようです。
CDなどの音声教材が付いているから、その音を聞いて学習するのが正しい方法で、言葉による説明などは基本的には不要なのだ、発音を言葉による説明で、「理屈」で「理解」するのは邪道だと、著者も出版社も思っているから、こういう結果となるのです。
外国語の発音が何故正確に出来ないのかのメカニズムがきちんとわかっていれば、音声教材以外に、正確な説明も不可欠なのだということが分かるはずなのですが、誰もこの認識を持っていないのは残念です。
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