大人と幼児では大人の勝ち

大人と幼児では大人の勝ち
―何故、理論的な説明を聞くことが不可欠なのか―


日本語を本気で勉強するために日本に留学にきた外国人と、その外国人が日本で勉強しはじめるのと同時にオギャーと生まれた日本人の赤ちゃんとが、日本語学習競走をはじめました。
さて、2年後にどちらがより高いレベルに達しているでしょうか。

殆どの方は「当然、赤ん坊の勝ちだ」と思っています。
本当にそうなのでしょうか。

本気で日本語を勉強するために日本に留学してきた外国人は毎日必死で勉強します。
そうすると、二年後にはその外国人は新聞を読んで概略内容を理解することが出来るでしょう。
テレビのニュースを見ても大体どんな事についてのニュースなのかは理解することが出来るはずです。
ドラマを見れば、話しの大筋は掴めるし、全てを聞き取るまでには至らなくとも、ドラマを楽しむ状態になっているはずです。

翻って、赤ちゃんはどうでしょうか。
赤ちゃんも毎日頭をフル回転させて、日本語にどぶ浸かりの状態で、日本語を吸収しています。
でも、2歳になったばかりの赤ちゃんが新聞を読んで、文意を掴むことが出来るでしょうか。ニュースが理解できるでしょうか。ドラマを見て楽しむレベルになっているでしょうか。
勿論、答えは全てノーです。

ここでは勿論、天才的な赤ちゃんを想定してはいけません。天才的な赤ん坊を想定するのであれば、外国人に就いても天才的な外国人を想定しなければ比較が出来ませんが、その外国人が天才的な人であれば、上記のレベルよりずっと高いレベルに達するでしょうから。

こういう反論もあるかもしれません。
赤ちゃんは生まれてから1年くらいは殆どしゃべれないのだから、その分差し引いて考えるべきだと。

しかし、赤ん坊は生れ落ちた瞬間(或いはお腹の中にいるとき)から、ものすごい勢いで日本語を吸収しています。全く口がきけない時から、言葉をどんどん吸収しているのです。

息子が未だお座りも出来なかった頃、私は大きな鈴を息子の前で振って見せながら、「すず」と何回か言って聞かせました。その後その鈴は紛失してしまい、長い間見つかりませんでした。
何ヶ月も経って、子供がカタカタで遊んでいるとき(多分八箇月未満の頃)に、偶然その鈴が見つかったのですが、息子はそれを見ると、大変な喜びようで、直ぐに「すず」と言い、鈴を手にとって、私に向かって振って見せました。
幼児がその発音が出来るかどうかということとは無関係に、習得は可能なのです。

さて、赤ん坊の負けだということはお分かりになったと思いますが、ここで最も大切なのは、何故、大方の予想に反して大人の勝ちになるのか、何故一般には「幼児の勝ち」と信じられているのか、その理由です。


大人が持っている武器

赤ちゃんに鉛筆を見せて、「えんぴつ」と何回か繰り返し言ってあげれば、赤ちゃんはその鉛筆という物体と「えんぴつ」という音とを結びつけて記憶するでしょう。
物には名前があるのだということは未だ分からなくとも、結び付けて記憶することは出来ます。
でも、鉛筆を見せながら「これが鉛筆という物だということを、お前は理解したか?」と問いかけても、理解しないでしょう。
「理解する」という概念は、普通の赤ん坊には理解不可能なのです。

では、外国人の場合はどうでしょうか。
日本語の「理解する」は貴方の母国語では何々に相当します(実際には日本語の或る単語と完全に一致する外国語の単語は存在しません。この問題に就いては別に述べます)と教えた瞬間に理解してしまいます。
大人にはこのような能力があるからこそ、「語学の天才」である筈の赤ん坊に勝つことが出来るのです。
では、この予想外の大人の能力は何処から来ているのでしょうか。

それは、その大人がそれまで生きてきた人生そのものから来ているのです。
その人はその人の母国語で学校教育を受けてきました。学校教育を受ける前から、生れ落ちた瞬間から、この世界に就いてのあらゆる情報を吸収してきました。
数の概念も,その人の親が、赤ん坊の頃のその人の目の前で「一つ,二つ・・・」と数えながら教えたでしょう。
色々な人間,色々な状況の中から多くのことを学んできたでしょう。
多くの経験を積み、或る事物がこれからどのように展開して行くかを、経験に基づいて推測することも出来ます。
そして何より、その人の母国語の世界の中で言語生活を営んできたというものすごい蓄積があります。
物には名前があること,動作にもそれを表す言葉があること、言葉によって自分の考えや感情を別の人に伝えることが出来るのだということ、美しさや醜さを言葉によって表すことが出来るのだということを知っています。
思考方法についても多くのトレーニングを受けてきています。
これを端的に言い表せば、母国語を通じて蓄積されてきた知識と経験と言うことが出来ます。

これが赤ん坊が逆立ちしても勝てない、大人だけが持っている圧倒的パワーの武器なのです。
この事実を手がかりとして、大人が外国語を学習するときは,どの様にすればよいのかと言う、最善の方法論が導き出されるのです。


先入観の発生源


しかしその前に、「大人は幼児にかなわない」という誤った先入観がどの様にして形成されるに至ったのか、そのメカニズムを見てみたいと思います。
この点をしつこいくらいに明確にしておかないと、「大人の勝ち」という結論も、そこから導き出される方法論も、皆さんにしっかりと理解していただくことが出来ないからです。

「大人は幼児にかなわない」という先入観は、「外国語の学習においては,幼児の母国語習得プロセスを可能な限り正確にトレースすることが最良の方法だ」という、世界中に遍く行き渡っている、言語習得方法に関する根拠の無い迷信を前提として生まれたものなのです。
これは極めて重要な点です。「大人は幼児にかなわない」という命題には,このような前提があるのだということを取り敢えず心にとめておいてください。


言語習得方法に関する迷信

そこで先ず、言語習得方法に関するこのような迷信が何故生まれてきたのか、この点を考えてみましょう。

その原因は、幼児が持っている、神秘的とも言える言語習得能力そのものに在ります。
幼児の言語獲得プロセスは、見ていると,殆ど無から有を生じているとしか思えないような物凄さです。
上述の「鉛筆」のような具体的な「物」の名前は、幼児がそれを獲得するのに説くに不思議は感じませんが、「理解する」のような抽象的な言葉をどのように獲得するのか、それは本当に不思議な能力です。

色々な状況で、その幼児が接したことのない抽象的な言葉に遭遇したとき、その幼児が既に獲得している単語、概念を使って、その新しい抽象的概念を説明して把握させようとして、
色々工夫するのですが、大抵の場合、既得の概念をどう組み合わせても説明のし様がないのです。
ですから当然、理論的に考えて、その幼児がその抽象概念を理解する可能性は無いということにしかなりません。
にもかかわらず、幼児はその抽象概念をいつのまにか獲得してしまいます。(幼児の言語習得に就いて述べることが目的ではないので、これ以上の議論はしません)

幼児のこのような驚異的な言語習得プロセスを見せつけられている私達は、「何とかしてあのように楽々と、しかも完璧に外国語を習得できないものかな〜・・・・そうだ、目の前にそれをやってのけている幼児がいるのだから、幼児の母国語習得プロセスをそのまんま真似ればいいんだ。それしかない、それが最善の方法なんだ」と考えるようになったのです。
それでも中々所期の成果が得られないため、「中途半端な真似方じゃだめだ。完全に真似なければ。幼児は理屈なんか全く考えずに言葉を習得しているぞ。だから大人も、理屈を考えちゃだめなんだ。何にも考えずに、赤ん坊に成り切らなきゃ」と考えるようになったのです。

迷信の問題点

しかし、この考え方には二つの大きな問題があります。

第一の問題は、幼児の言語習得プロセスを真似ようとすること、幼児に成り切ろうとすることは、取りも直さず言語習得に於いて大人だけが持っている最大最強の武器の使用を自ら放棄してしまうという、破れかぶれの自殺行為であるということ。

第二の問題は、幼児が備えている驚異的能力は、大人は発揮することが出来ないように封印されているため、幼児の真似をすること自体、本来不可能であるということです。(何故発揮することが出来ないのかに就いては、別のコーナーでお話します。)

ですから、幼児の母国語習得プロセスを真似るという方法は、
1、圧倒的パワーの武器を捨ててしまい、
2、使用することが不可能な武器を、使用することが出来ると誤信して、
戦いに臨むということなのです。

結果は火を見るよりも明らかで、大人の惨敗です。冒頭の「大人と幼児ではどちらが勝つか」の結論は、「当然幼児の勝ち」になってしまいます。
「大人は幼児には絶対かなわない」という絶対的確信とも思われる先入観はこのようにして形成されたのです。


但し書きが付いていた

でもちょっと待ってください。上に述べてきた先入観形成のプロセスを冷静に見てみれば明らかなように、「当然幼児の勝ち」という結論は、「大人が持っている強力な武器を捨てて、幼児と同じ土俵に立てば」という前提の上での結論なのです。
大人の外国語マスターは極めて困難だと一般に考えられていますが、それには、「幼児と同じ土俵に立つ限り」「幼児の真似をする限り」という但し書きが付いていたのです。

ところが,「極めて困難だ」という結論に、このような但し書きが付いていることは誰も気付いていませんでした。
出発点となった「幼児の言語習得プロセスを真似すること」が、あまりにも当然のこととして批判的検討の対象になっていなかったからです。

しかし、「幼児は、言語習得について驚異的な能力を備えている」という命題と、「幼児の母国語習得プロセスを再現することが、大人が外国語を習得する最善の方法である」と言う命題とは何の論理的関係も有りません。
幼児が驚異的能力を持っているということと、大人がそれを真似するべきか否かとは、全く別問題なのです。


全く別の世界が見えてくる

ここまで述べてくればもうお分かりのように、
1、圧倒的パワーの武器を捨ててしまい
2、使用することができない武器を使用することが出来ると思いこんで
泥沼の戦いに突入する・・・このことの愚に気付いたとき、丁度その逆の方向に全く新しい世界が見えてくるのです。

即ち、
1、圧倒的パワーを持つ大人の武器を徹底的に活用する。
2、使用不能の武器を使用可能だと考える思い込みを捨てる。
ことこそが、大人の外国語習得の唯一にして最善の方法なのです。

「本サイトの構成」の中の「広東語(外国語)習得の本質」という項目の中に
「どんなことでも、結果が出るには、出るだけの理由があります。 
外国語を習得しようとしたときには、どういうメカニズムで、その「習得」が可能になるのかを、妥協のない態度で考え、知らなければ成りません。
理由も根拠もなしに、「習得」という結果が手に入るはずはないのです。 
「何となく、そのやり方が普通だから」と根拠のないことをやっていられるほど、人生は長くないのです。
自分の学習を構成する要素について、一つ一つ、冷静に、明確に批判して、確実に有効な要素を採用し、明確な意識をもって学習を進めなければなりません。
そのためには、外国語の習得とはどういうことなのかを徹底的に考える必要があります。」
と述べていますが、この言葉が一体どういう意味なのか、かなり見えてきたのではないでしょうか。
いつもこれを忘れないでいてください。


母国語を起点にベクトルで捕らえる

さて、では「大人の武器を徹底的に活用する」とは具体的にはどういうことなのでしょうか。

大人の武器を、発音の習得、語彙の習得、発想の習得などに具体的にどの様に活用して行くべきかは、各々のコーナーで述べますが、一言でいえば「母国語を出発点にして、全てをベクトルで捕らえる」ということです。
母国語を基準点として、学習対象の外国語の発音なり語彙の意味なりが、どちらの方向にどれだけずれているのかについての、可能な限り十全な情報を手に入れること、即ち(理屈による)十全な説明を受けることです。

こんなことを言うと、従来の先入観で凝り固まった人は、直ぐに頭に血が上って「母国語を基準にするなどとんでもない。どれだけ母国語の影響をカットできるかが問題なのに、完全に逆方向だ」
「大人は理屈を先行させるから、いつまで経ってもマスターできないんだよ、アホかお前は!」と反論してくるでしょうが、
この方法以外には、大人が正確に外国語をマスターする方法は無いのです。

発音も日本語訛り、単語の使い方も日本語式で構わないと言うのなら、それはそれで構いませんが、まともにマスターしようと思うのなら、母国語を基点として全てをベクトルで捉える以外の方法は無いのです。

何故なのでしょう。


母国語の呪縛から抜け出す

大人の外国語学習における最大の課題は、どれだけ母国語の影響をカットできるかに在るという点は争いの無いところだと思われます。問題はその方法です。

「発音は何故完璧にならないのか」で詳しく述べているように、人間の動作は全てアナログです。そのため、人間の発しうる音の種類は無限です。その無限の音を極限られた数の音に切り分けて使っているのですが、切り分ける対象である音そのものには切り分けの根拠は存在していません。

切り分けの根拠が存在していない音について、色々な言語が好き勝手に切り分けているのですから、異なる言語の切り方が一致する可能性はありません。

単語の意味範囲についても状況は全く同じで、切れていない物を無理矢理切って単語を作っているのですから、やはり異なる言語の間で切り方が一致する可能性はないのです(この点についての詳しい説明は「虹は七色か」「単語の用法は何故間違える」等を見てください)。

日本人の大人の脳には日本語の切り方の一式がセットされています。脳がそのように切れていると考えても構いません。そして重要な事は、大人になってからでは、新たに別の切り方一式を日本語の切り方一式とは別にセットしなおす事は出来ないという点です。

この点はしっかりと認識してください。大人になってからでは、複数の切り方の体系を脳にセットする事は出来ないのです。

大人の脳に存在しうる切り方の体系は(子供のときに複数の切り方をセットしていない限り)1セットのみなのです。

ここまで考えてくると「外国語の習得は理論的に不可能」と言う結論に達します。この状態で、幼児の真似事のような方法で外国語を脳に入れようとすれば、当然その外国語についても全て日本語の切り方で把握する事になります。

その結果、相手が外国語を話していても,日本人の耳に聞こえているのは日本語の発音でしかなくなるわけです。

ではどうしたらよいのでしょう。上で見たように、日本語の切り方は外国語には通用しません。一方、日本語の切り方で切れてしまっている脳を、別の切り方できりなおすことも出来ません。

出来る事はただ一つ。日本人が持っている唯一の切り方である日本語の切り方を基点として、外国語の切り方がどちらの方向にどれだけずれているのかという正確なベクトル情報を脳にセットする事で、擬似的に複数の切り方の体系を脳内にセットするのです。

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