天皇統治の性格
-天皇の基本的性格−
 

[1] 神話に見る天皇統治のあり方

天皇の基本的性格を考えるとき、歴史的事実を扱わざるを得ない。しかし、逆に歴史的事実のみを見続けると
物事の本質を見失うことも多い。そこで、しばらくは歴史的事実をはなれて議論を進めていきたいと思う。 

和辻哲郎博士は「国民統合の象徴」という著書の中で「祭事を知らせたもう者としての神聖性は同時に政治を
知らせたもう最高の権威である。従って、祭と政とはすでに分かれながらも一つである。」として、統治者と
しての天照大神(あまてらすおおみかみ)のうちに祭政一致を認めながらも続いて「大神は八百万(やおよろ
ず)の神々を集え、思金神(おもいかねのかみ)に思わしめて政治を行われる。大神はいつも問われるのみで
あって、自らの意志により命ぜられるのではない。神々を集えること、思金神をして思わしめることが大神の
政治を知らす仕方である。そこで大神の政治の作用を行う者は、大神の命令として妥当すべきものを、その集
議と思慮とによって作り出さねばならぬ。この仕事は決して祭事ではない。もし祭事に頼ってその思慮の努力
を放擲(ほうてき)するならば、それは大神の統治の作用を阻むことである。かくみれば大神の統治作用を遂
行する者の側にあっては、祭と政とは別れている。決して混同されてはならない」(*1)として、天照大神の政
事を行う方法を示している。そして、ここに言う思金神とは為政者の事である。(*2)           .
以上の中に、天皇統治の原型・理想形態があるとするならば次のようなことといえる。万世一系の天照大神の
子孫としておられる天皇は、思金神すなわち為政者をして政事をなさしめ、為政者は天皇の命令として妥当す
べき物をその集議と思慮により作り出さねばならぬ存在であるということになる。            .

ところで、統治するあるいは支配するという意味の古語に、シラスとウシハクと言う二つの語があり、両者は
はっきりと区別して使われていたという事実がある。シラスは「知ラス」「治ス」で権力関係を伴わない精神
的な統治を表し、ウシハクは「領く」で権力関係に基づく領有支配の意味を表すとされている。そして古事記
日本書紀を始めとする古典によれば、天皇はシラス者であり、決してウシハク者ではない。これは、自らは祭
事を主として直接政事に関わることはせずに、為政者をもって政事を行うという天皇における統治のありかた
を示していると言える。(*3)                                    .
また、このことに関して鳥越憲三郎氏の「天皇権の起源」の中に次のような説明がある。         .

「我が国古代の統治のあり方は、妹(又は姉)のもつ祭事権の下に、兄(又は弟)の政治権が存していたの
であるが、第一次的主権は姉妹の持つ祭司権にあり、兄弟の政治権は第二次的なものであった。しかも、
祭事権をもつ姉妹が現人神としてみられ、神としての彼女の神託によって、兄弟の政治権が保証されてい
たのである。」(*4)                                      .

以上における妹(姉)と兄(弟)の関係は、先に述べた古事記における天照大神と思金神の関係に大変似てい
る。つまり、妹(姉)が天照大神・天皇の立場であり、兄(弟)が思金神・為政者の立場となる。     .
これらのことより言えるのは、天皇は統治者として最高権威者であるが、政事に関しては為政者をもって政事
を行い、天皇は政事には直接関与しない存在と言うことになる。そして、天皇は第一次主権を持つ「祭司」で
あり、為政者の立場は第二次権限を有する「国王」といえる。                     .

次に、天皇と神官の関係について見てみる。天照大神は政事の時とは違って、祭事に関しては積極的に中心的
位置に立って祭りを行っていた。そして、その下で祭儀を担当する神々もいた。このことに関して田村圓澄氏
が、次のように指摘している。                                   .

「天の岩戸の物語では、八百万(やおよろず)の神の中から選ばれたイシコリドメが鏡を作り、タマノヤが
玉を作り、これを賢木につけて御幣とし、フトダマが御幣をもち、アメノウズメが神懸かりをして乱舞す
るのです。アメノコヤネは祝詞を申します。つまり岩戸の前で行われた神事では、アメノコヤネが他の祭
官たちを率い、八百万の神の願望を天照大神に奏した形になっており、祭事の主役はアメノコヤネであっ
たことが知られるのです。」                                  .
そして続いて

「アメノコヤネは中臣氏の、フトダマは忌部氏の、アメノウズメは猿女氏の、イシコリドメは鏡作氏の、そ
してタマノヤは玉祖氏の祖神とされていますが、この五氏はいずれも天皇家の祭官であり、中臣氏が宮廷
祭官団の上首として、天照大神を祭っていた事実を反映していると考えるべきでしょう。」(*5)    .

として、天照大神を天皇として見た場合、五部神がその祭官として仕えることを指摘している。これらのこと
から祭儀権についてまとめると次のようなことが言える。天皇は第一次的主権を持つ「大祭司」の立場であり
その下にいる神祇官や祭官は第二次権限を有する「祭司」という立場になる。              .

以上のことより、天皇の基本的性格としてまとめてみるならば次のようなことと言える。天皇は祭政における
第一次的主権者であるが祭事に関しては自ら積極的に臨み、政事に関しては時の為政者に委任する。これが、
天皇の基本的性格であり、日本の国体と言うことが出来る。                      ,

[2] 古代の天皇

次ぎに、前項で論じてきた天皇の性格がどの様にしてそれぞれの時代に反映していったのかを論じていきたい。

「魏志倭人伝」によると、邪馬台国の女王卑弥呼は「鬼道を事とし能く衆を惑わす」力を持ち、宮殿の奥深くに住
み人の前に姿を現さず、弟が一人あってそれが卑弥呼の言葉をとりついで政事を行ったとある。これを見るなら
ば、卑弥呼は祭祀に専念し政事には関与しないで実際の政務をその弟が執り行っている。          .
このような祭政二重主権の統治形態は、古代日本の天皇統治にも現れている。鳥越憲三郎氏は著作「神々と天皇
の間」の中で、古代日本において統治者の第一子は祭事権を持ち聖なる人として独身を守り、第二子は政事権を
持って政務を担当していた。国を代表する王者は第一子だったが、第一子には妻子は無く次代継承は祭事権を持
つ第二子の子によってなされた。そのため皇統譜の作成は血縁をたどって当時の第二子を天皇と認めてきており
これが第十四代仲哀天皇の時まで続いたと指摘している。(*6)                      .

しかし、第十五代応神天皇からは国家統一を達成したために、莫大な富と権力が朝廷に集中し祭政二重主権に変
化が起こることになる。それは、今まで妻帯しなかった第一子が妻帯し、この時を期に第一子が強大な統治権を
持つ大王として君臨することになった事である。しかし、この様に強大な統治権を持ったとしても大王は、あく
まで国家の安寧と繁栄を祈る神祭りをすることを主な務めとした。これに対して政事は今まで通り弟が行い「男
弟王」と呼ばれて大王を補佐した。この統治形態は天智朝まで続いていく。                .

以上のことは和歌森太郎氏が著作「天皇制の歴史心理」の中で次のように説明している。          .

「随書の倭国伝に「開皇二十年(B.C.600)倭王有り。(中略)使者言う、倭王は天を以て兄と為し、日を以て
弟と為す。天未だ開けざる時、出でて政を聴き(中略)日出ずれば便ち理務を停め、云う我が弟に委ねんと
」とある。(中略)(天皇は)朝早く起き出て、単に政を聞くということが中心になっている。未明の頃に
起き出して神祭りを神主として行う。これは、のちのちまで天皇の務めになってきている。(中略)「天を
以て兄と為し、日を以て弟と為す」というように、まったく人間という立場よりも天空の、いわゆる高天原
に立脚している日の神をあやつるものとされていたのである。だから太陽が出てからは、理務をとどめると
いうわけで、もう昼間の仕事は太陽に任せるというくらいに処していたというのである。この様な意味で、
日の神の根源としてさえ、日本の古代での「天が下シラス大王」は性格づけられていたのである。」(*7) .

これらのことから、古代天皇がいかに祭事を重んじていたかが理解されたと思う。そして、ここに日本の天皇統
治の原型があると言える。                                      .

[3] 天武天皇

次に、天武天皇の時代について見てみたい。天武朝の大きな特徴は、男弟王の制度を廃止し、それまでの祭政二重
の統治形態に代わり天武天皇が祭政両権を持つことになったことである。(*8)当時の日本は、唐の強大な力の影響
を受けていた。六六三年には白村江の戦いに負け、唐・新羅連合軍がいつ日本沿岸に来襲するかわからない状態で
あったし、天武帝自身におかれても、壬申の乱を体験し国情が不安定なときでもあった。このような内外の状態で
あったために、天武帝は男弟王を廃止し祭政を一手に握り、国家の危機を乗り越えようとしたと思われる。とする
 ならば、天武天皇は今まで見てきた様な日本古来の大祭司としての天皇とは異なる性格の天皇であったのだろうか。
清水 潔氏によると、                                         .

「天武天皇は神仏を尊ぶ念が厚く、伊勢神宮には特別の崇敬を捧げられ、式年遷宮を始めとする神宮制度の整備
発展に尽くされた。大和の広瀬・竜田の神を毎年まつることもはじめられた。仏寺にも厚い保護を加えられ、諸
国の家ごとに仏舎を作って仏像と教典を礼拝させられた。こうして神仏の加護によって国家の永遠の栄えを期さ
れた。」(*9)                                            .

と述べている。これを見るなら、天武帝が祭政を一手に握ったとしても、天皇の主要な務めはあくまで祭事にあると
見ることが出来る。又、この様に祭政の権限を一手に握ることになった背景に、実際に男弟王を置くにしても適当な
人物がいなかったり、国外の脅威に対抗するために国力の充実や国内の安定を図らなければならなかったという事を
考慮に入れなければならない。天武帝自身、政事権を掌握するということ自体が目的だったのではなく、国の安寧と
繁栄を願う立場からそうせざるを得なかったのではないかとも思われる。                   .

先にも述べた様に、天皇統治の原型は天皇が祭政の第一次主権者としてあることが基本なのだから、政事のことを時
の為政者に委ねた結果、為政者が天皇は政事に関与すべしと政治的判断を下した場合、天皇が政治に関与することは
別に天皇が持つ祭司性と矛盾するものではないと言える。事実、次代の持統天皇の代からは太政大臣として男弟王が
復活し、天皇は国家の安寧と繁栄を祈る祭祀を主とする祭政二重主権の古来の統治形態に戻ることになる。    .

[4] 藤原及び武家時代の天皇

七○一年、大宝律令の完成によって天皇中心の国家組織は固まった。その組織を見てみると、天皇の下には神祇官と
太政官が置かれ、神祇官は神々の祭祀を行い、太政官は一般の政務を行った。これらのことは、天照大神のもとで祭
儀を行う天児屋根命等の神々と、政事を行う思金神がいた事と同様である。天皇は、思金神の太政官に政務を行わせ
自らは大祭司として神祭りを執り行い、神祇官がそれを補佐したのである。                  .

藤原時代になると、摂政・関白が政治の実権を握る摂関政治が行われる様になる。この時代になると政治の実権は藤
原氏が握ることになり、天皇は主に祭事を担当するのみとなる。その後、院政が行われるようになり政治の実権は上
皇や法王を中心とする院に移るが、天皇が政治から切り離されているのは変わりなく、そしてあくまでも祭事を第一
として朝廷内の数々の儀式・行事を行う大祭司としての天皇は、変わらずに勢力を保ち続けている。       .

一一九二年、征夷大将軍として源頼朝が任命されて鎌倉幕府が開かれ武家政治が始まる。しかし、武家政治の初期に
はまだ幕府の力は全国には伸びておらず、公家の政治も平行して行われていた。武家政治が本格化してくるのは武家
の封地が広大になっていく室町時代からである。(*10)いずれにしても、政事の実権は将軍を中心とする幕府が握る
事になるわけだが、しかし、将軍はあくまで天皇より任命された一官職であって、天皇が国家の中心であることは変
わらない。つまり、国家の体制が大きく変わったのにも関わらず、天皇は廃されることなくむしろ幕府の護符として
担ぎあげられたのである。                                        .

一二二一年、承久の変が起こった。これは後鳥羽上皇を中心とする公家勢力が、頼朝が死んだ後の幕府混乱のすきを
ついて武家から政権を奪おうと企てたものであったが失敗する。このことによって武家の政治力は力を増し、皇室の
皇位継承問題にまで口を挟むようになっていく。ただ、承久の変では院と幕府間の政権争いであり、天皇は直接関与
していなかった。その後、鎌倉幕府が滅びると、一三二一年、後醍醐天皇の「建武の中興」が行われる。     .

これは、先に述べてきた天皇の一次的な祭祀権と為政者の二次的な行政権において、位置関係が逆転していたことに
対する反発であったと言える。天皇の祭司性は、天照大神から来るもので、天児屋根命から来るものではない。しか
し、為政者が皇位継承に口を出すことは、天照大神から来る祭司性を天児屋根命にまで下げることに等しい行為であ
った。つまり、第一次的な祭儀権を否定するに等しい行為だったのである。それゆえ、その誤りを是正するために、
この様な運動が起こったと言うことが出来るのである。具体的には建武の中興は二年で終わることになるが、その失
敗の原因を鳥越憲三郎氏は次のように指摘している。                            .

「天皇が政治に足を踏み入れたらだめなんですよ。それを後醍醐天皇は大きく踏み込んで結局大失敗する。後醍醐
天皇は大覚寺統であるから、持明院統からは反対され、五摂家のほうからも反対されていた。つまり後醍醐天皇は
理想だけは持ちながら周囲の政治事情を観察する腕を持たない人だった。」(*11)              .

確かに後醍醐天皇は政治手腕に優れた天皇であった。しかし、だからといって天皇がその様な政治手腕を発揮すれば
するほど、天皇の基本的性格を自ら離れていく事になり、時の政治に混乱を引き起こす一因になったのではないだろ
うか。むろん、この件だけで原因の総てとは言わない。あくまで内的な原因という意味である。         .

建武の中興以後、南北朝時代を経て室町時代へ入ると、朝廷は政治的な権力を失い経済的にも苦しい状態へ追い込ま
れることになる。特に応仁の乱以後の戦国時代には全国的な争乱となり、下克上・一揆等は、日常茶飯事となってい
く。そのため、朝廷を顧みる者はなく皇室の財政は極度に悪化していく。しかし、この様に国が荒れ皇室も苦しみの
中にあればあるほど、天皇は国家の安寧と繁栄を祈ることを祖宗から任せられた責務として、朝儀・祭事の復興を行
い、人民の平和を祈願することになる。例としてあげるならば、後奈良天皇が(*12)疫病と飢饉の禍を祓うために、
般若心経を親写されて全国の一宮に奉納する事を実行されたことは有名である。                .

江戸時代に入ると、江戸幕府は公家諸法度を定めて皇室の政治的活動を抑制した。そのため、江戸時代には皇室は完
全に政治の圏外に置かれ、天皇の祭司性が徹底されることになる。                      .

[5] 明治天皇

一八六七年、二六○年あまりに渡った江戸時代が終わり、王政復古の大号令の元に天皇中心の新政府が樹立された。
この時を機に日本は近代化へと大きく前進していくわけだが、その中で天皇は、どの様な立場で社会への関わりをも
っていったのかを次ぎにみてみる。                                    .

明治政府は今までの体制を廃止し、新しく総裁・議定・参与の三職を置き、神武創業の頃に戻ることを施政方針とし
て掲げた。この様にして天皇中心の新体制が誕生するわけだが、明治天皇は最初から専制君主として登場したわけで
はなく、政務は総裁がその役割を持っており、天皇がすべての政務を採決するわけではなかった。このことに関して
司馬遼太郎氏は次のように述べている。                                  .

「明治帝はその間(小御所会議)御簾の中にちゃんといるんですよ。しかし、ただの一度も発言はない。これは非
情に象徴的なことで、山崎さんははじめ明治天皇はヨーロッパの皇帝に一番近い天皇だとおっしゃったが、それで
もまだ大分へだたりがあるような気がしますね。」(*13)                         .

又、和歌森太郎氏は次のように述べている。

「明治改元の詔の中に「万機ノ政ヲ親シクス」とあるから、いかにも天皇親政という実が打ち出されたかのようで
あるが、この親政の内容は、わずかに政務に関する重要会議の場に天皇が親臨するという形であって、天皇が影を
表すということだけでも、政治の力を強めることが出来るという意味での保証的機能をうながしたのが、この時期
の天皇のあり方であった。」                                      .
として次ぎに

「明治のごく初期には、天皇は親政もしなければ親裁もしない、ただ親臨的な存在であった。」(*14)      .

と言っている。この指摘でもわかるように、明治初期においての天皇の位置は、まだ君主と言うには遠く、どちらかと
言えば祭司の役割の方が重んぜられていたのである。内外の危機を乗り越え成立した明治新政府であったが、この当時
政府としての基盤はまだ固まっておらず、さらに欧米列強の植民地主義政策の圧迫もあり、基盤固めは急を要していた
のである。そのためには天皇の権威を持って、新政府をまとめて行かなければならないような状態であった。明治四年
になると、官制を太政官制へと改め、律令官制にならって整備され、太政大臣が天皇を補佐する事になった。この様に
一方では神仏分離と大教宣布等を通じ天皇の神的権威の高揚に力を入れ、又、片方では祭政一致をもって天皇の権威を
新政府へ結びつけ、新政府の基盤を固めようとしていく。この動きは、明治六年の征韓論をめぐる内紛を機に、岩倉・
伊藤を中心として、天皇が政治面で積極的に力を発揮出来るような形での憲法作成という方向で結実していく。   .

又、有司専制に対する不満も強まり、                                    .

「有司専制の傾向にたいして、これを押さえつけて、勝手なことをさせないようにするためには、天皇に強い権威を
もつ権力者になってもらわねばならない。」                               .

という要望がでてきた。そして、

「天皇は政府自体からも政府を攻撃する世間からも、さらに一段と政治性を発揮するよう求められる、という実状で
あった。」(*15)                                            .
のである。

この様な動きの中で明治二二(一八八九)年。天皇主権を基本原則として定めた大日本帝国憲法が発布される。この憲
法発布によって、明治天皇は国家元首として行政・立法・司法の三権を含む統治権を総覧するという強大な行政権を持
つことになったのである。これは、天皇制絶対主義国家の誕生を思わせる。しかし、現実には大分隔たりがあった。こ
のことについて宮沢俊義氏は、次のように指摘している。                           .

「明治憲法の下でも、実際政治においては、「統治権の総覧者」というのは単に名だけのことであり、天皇の数々の
権能も実際には政府なり、帝国議会なりの権能にほかならなかったことは、何人も知るごとくである。(中略)政府
で決めた官吏の任免なり、条約の締結なりが天皇の意志によって左右されたことはただの一度もない。」(*16)  .

つまり、明治天皇は統治権の総覧者ではあっても、実際の統治権行使は無かったのである。従って明治憲法の成立をも
って絶対主義的立憲君主国家の成立とはみることは出来ないのである。                     .

絶対君主的なこの時期の天皇の性格は、明治政府と国民の一致した要請の中、プロシアの立憲君主制に模して作りあげ
たものだった。天武天皇の項でも論じてきたが、為政者が、天皇は政事に関与すべしと判断した場合、天皇が政事に関
与することは天皇古来の祭司性とは何の矛盾を生じるものではなかった。明治天皇の場合も、政府や国民の強い要望の
結果、強大な統治権を持つに至った。しかし、明治天皇が重大な政治的決定を下したという事実はみられず、政務は為
政者に任せていて、かえって祭事に力を入れ、伊勢神宮に親拝されることは四回を数え、又、           .

「とこしえに 民安かれと祈るなる わが世をまもれ 伊勢の大神」

の御製には、国と民を愛し、神への祈りを捧げる私心泣き大祭司としての天皇の姿を知ることが出来る。絶大な政治権
力を保障された明治天皇だったが、決して専制君主というものではなく伝統的大祭司としての天皇であったと言える。

[6] 昭和天皇

今までみてきたように、天皇統治の基本は「大神はいつも問われるのみであって、自らの意志によって命ぜられるので
はない。」という所にあることが理解されたことと思う。これは明治天皇の項でもわかるように、強大な統治権を持っ
たとしても祭事は自らが行い、政務は為政者に任せるという基本的な統治形態は変わらないと言うことでも明らかであ
る。そして、昭和天皇もこの伝統を守り、混乱の昭和期を乗り越えて行かれることとなる。その基本姿勢を理解できる
ものとして第二次大戦終結の御聖断をあげることが出来る。(*17)                       .

天皇が、開戦には不賛成であったことは一般に良く知られている。日米開戦を決する御前会議の席でも、      .

「四方の海みな同胞と思う世に など波風のたちさわぐらむ」

という明治天皇の御製を繰り返し読み上げられて、避戦を訴えられている。(*18)しかし、この様な天皇の心情とは反対
に日米開戦へと突入していき、日本国未曾有の敗戦を迎えることになり、終戦決定の御聖断が下されるわけだが、どの様
にして御聖断が下されたかその事情を見てみると、                               .

「旧憲法下にあっては、国家の意志の決定は内閣の補弼、補佐によって行われ、天皇はただそれを御裁可になる、と
いう形でした。しかし、この終戦にあたっての決断は、そういういつもの形ではなかった。最高戦争指導会議構成員
の意見が、三対三にはっきりと分かれて身動きならなかった場面で、陛下の御聖断によって「ポツダム宣言を受諾す
ることにおいて終戦」と決定されたのでした。」(*19)                           .

このことからわかるように、最高戦争指導者が戦争継続に関して「三対三」の可否同数で決定を決めかねている時に、首
相からのお願いがあってはじめて「外務大臣の意見に同意」と御聖断を下されたのである。これらのことから改めて天皇
の政治への基本的関わり方を理解出来ると思う。それはあくまで「大神はいつも問われるのみであって、自らの意志によ
って命ぜられるのではない。」ということであり、時の為政者は、その「大神の命令として妥当すべきものを、その集議
と思慮とによって作り出さねばならぬ」のである。この様なことから、第二次大戦における日本の敗戦は、天皇の意志に
背いてきた結果現れた結果と言えないこともない。時の為政者としては常に大御心の把握が大前提なのである。    .

さて、第二次大戦は昭和二十年ポツダム宣言の受諾で終わった。翌二十一年、天皇は自ら「現人神」であることを否定す
る俗に言う人間宣言を行われた。(*20)又、同年、十一月三日公布された日本国憲法によって天皇は、「日本国統合の象
徴」と規定された。しかし、象徴天皇になられたとしても、その天皇としての本質は変わらなかった。このことは、村上
重良氏が次のように指摘している。                                      .

「天皇は、皇室祭祀を執行するさいに、私事と考えて最高祭司をつとめているのではなく、この国の祭司王である天
皇として執行しているであろうことは、いささかも疑う余地がない。歴史上の天皇は、なによりもまず、祭りをする
人であり、この本質は終始、天皇の宗教的権威の原基をなしてきた。敗戦後の日本国においても、天皇の最高祭司と
しての本質は普変であり、「祭祀大権」は基本的には揺らいではいない。」(*21)               .

以上のことから昭和天皇も今上天皇も、日本歴史を通じて流れてきた大祭司としての天皇の伝統を受け継がれていること
が理解されたことと思う。                                          .

以上、論じてきたように天皇の基本的性格は、日本の大祭司として国の安寧と繁栄を祈り、祖神を祭る祭司性にある事が
言えると思う。この点から、天皇の位置を見てみるならば、西欧の君主・国王というものではなくして、祭司長・法王的
存在であると言うことが出来るであろう。                                   .
 

「補注」

(*1)「国民統合の象徴」祭政一致と思慮の政治参照 和辻哲郎自筆稿本            .
(*2)博士は本居宣長を引用し、「思」は思慮、「金」は兼であり、思金神を、多数の思慮を兼
ね持つ者として説明している。(前掲書)                      .
(*3)「天皇制の歴史心理」和歌森太郎著 弘文堂 p49〜p51参照               .
(*4)「天皇権の起源」鳥越憲三郎著 朝日新聞社 p20                    .
(*5)「大王から天皇へ」所収−アマテラスと天皇制−田村圓澄著 p60〜p61        .
(*6)「神々と天皇の間」鳥越憲三郎著 朝日新聞社 p62〜p112参照            .
(*7)和歌森氏前掲書 p72〜p73                            .
(*8)「天武朝」北山茂夫著 中央公論社 p127参照                   .
(*9)別冊歴史読本「歴代天皇二十四代」所収−神を仰ぎ神と仰がれた天武天皇−清水潔著 p88
(*10)和辻氏前掲書「封建思想と神道の教義」参照                    .
(*11)歴史読本「天皇の日本史」所収−天皇実権と象徴の歴史− p50           .
(*12)土御門・御柏原・御奈良の三天皇は人民の困苦に心を痛めた仁君として有名。後奈良天皇
は当時の心情を次のように表されている。                  .
「朕民の父母と為りて、徳覆うこと能わず、甚だ自ら痛む」
(*13)「天皇日本史」所収−近代化の推進者 明治天皇−文芸春秋社 p164         .
(*14)和歌森氏前掲書 p169〜p170                           .
(*15)和歌森氏前掲書 p185                              .
(*16)「天皇制論集U」所収−憲法と天皇制−宮沢俊義著 三一書房 p413         .
(*17)二・二六事件の時も御聖断が下されたと言うが、事件当時は多くの重臣が暗殺されており
政府の機能がマヒ状態だったためである。                  .
(*18)「裕仁天皇五つの決断」秦郁彦著 講談社 p49                  .
(*19)「昭和史の天皇30」迫水久常氏の回想 読売新聞社編 p336           .
(*20)歴史上の天皇は、元々人間であり、現人神という属性は、明治維新以後に付加されたもの
にすぎなかった。(「天皇の祭祀」村上重良著 岩波新書 p217        .
(*21)村上氏前掲書 p217                               .