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この人と1週間


熊本史学会会長 花岡興輝さん(71)


思い出深い「志岐文書」発見

 細川藩五十四万石の根拠を突き止めた「慶長九年九月之検地帳」、竹崎季長の「塔福寺文書」(小川町)、「小早川文書」(八代市)など数々の発見にもかかわらず、控えめな花岡さん。ただ、数少ない中世文書のなかで、「志岐文書」の発見に話が及ぶと、ひと際声高になった。五、六年かけて探しあてた思い出深い文書だからだ。
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 「熊本県史」の史料集めに奔走していたころ。天草・苓北町で、鳥居に刻まれた「志岐守治」という人の名をふと見つけた。大正九年に建てられた鳥居の献納者。天草を支配していた天草五人衆の一人が志岐氏だ。志岐氏は、小西行長・加藤清正連合軍と戦ったこともある豪族。
 「こりゃあ、何か手掛かりがつかめるぞ」。はやる気持ちを抑え、近くの役場に飛び込んだ。
 「田舎の役場にはたいてい、町村のことは何でも知っとらす生き字引がおらすとですよ。『そん人は確か先祖が鹿児島で、東京におらす人ですタイ』と教えてくれました」
 そこで、花岡さんはピンときた。志岐氏の子孫は、縁せきの島津藩士を頼って出水(鹿児島県)に移っている。早速、鹿児島市の県立図書館を訪ね、「肥後十家衆」という史料を見せてもらった。そこで、志岐氏が薩摩藩士になっていたことが分かった。
 今度は市役所へ出掛け、除籍簿を見せてもらった。移転先は「東京市」。調べたら、そこは空襲を受けていた。
 関係あるとみられる人には、片っ端から移住先を尋ね回った。そのうち、東京・東村山市にいるらしいことが分かった。
 いきさつを話す花岡さんの表情は緩みっぱなし。よほどうれしかったのだろう。話は、さらに続く。
 東村山は、うっすらと雪が積もっていた。駅に着くと、分かろうはずもない駅員にも聞いてみた。駅員からは、物知りの雑貨屋さんを紹介してもらい、そこで三年前に志岐氏から届いた年賀状を見つけてくれた。
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 とうとう求める「志岐氏の子孫」を突き止めた。
 だが、応対した奥さんは「戦災に遭い、父は戦地に出掛けたんで、そんなもの(古い書類)はありません」と気の毒がった。
 ここまで来て「ハイ」と引き下がるわけにいかない。
 「押し入れ上の開き戸の中に、古い箱はないですか」と食い下がった。
 「そういえば、開けたこともないつづらがありましたね」
 つづらを開けてもらったら、「昔の文書がぐっさり」。体が震えた。
 その日の神田の夜。友人の山口修氏(元熊大助教授、熊本商大教授)と浴びるほど飲んだ。旅館に着いた足取りも覚えていない。


【写真】中世の「志岐文書」を5、6年かけて発見したという花岡さん=熊本市帯山の自宅

11月26日付熊本日日新聞夕刊



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