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柄谷行人「隠喩としての建築」より 風景写真は肖像写真や報道写真などと区別されているが、私の考えでは、全ての写真は風景写真である。被写体がむごたらしい屍体であろうと、飢えた子供であろうと、それは風景である。 ひとびとは、写真が客観的なものではなく、撮影者の主観的な選択・解釈にもとづいているのだということを主張する。ある場合には、それは「客観性」のイデオロギーへの批判であり、ある場合には、写真が芸術的な行為であることの証しである。どちらにしても凡庸な見方であって、もともとそのいずれとも異質な何かとしてあらわれた写真を従来の認識論的装置の中に連れもどしてしまう。むしろわれわれは写真の≪客観性≫に驚くべきだろう。 たぶん誰でも自分の声をはじめてテープで聞いたとき、いたたまれぬようなおぞましさを覚えるだろう。「あれは私の声ではない」という思いと、「あれが私の声なのだ」という思いが交錯する。その思いはどちらも正しいので、われわれはその決定不可能性のなかで錯乱を覚える。確実なのは、レコードまてゃ音声の複製技術以前に、人間はこのような経験をしたことがなかったということである。・・・「自分の声」につきまとうなれあいを決定的に打ち破るのは、音声の複製技術なのだ。 肖像写真が出現したときも、ひとびとは同じようなおぞましさを感じた。・・・写真は鏡と違っている。常識的にいえば、写真にうつった私の顔は、鏡にうつる見慣れた顔とは左右が逆である。しかも、それは肖像画とちがって、有無をいわさぬ、ある≪客観性≫をもってあらわれる。それは誰のものでもない眼差しである。この≪客観性≫の位相は、写真技術の出現まで人間が経験したことのないものである。 認識論あるいは主観性を欠いていた古代の哲学への回帰は、たんなる「自己意識」に負うのではない。フロイトが精神分析を「内省」と区別したように、プレソクラティックな哲学がわれわれに近づきやすく見えるようになったのは、「内省」=鏡とはまったく異質な装置の出現によるというべきであろう。それは写真装置である。 実際、写真装置は古代のパラドックスをよみがえらせる。たとえば、「アキレスと亀」や「飛ぶ矢は飛ばない」というゼノンのパラドックス。ニュートンの微分・積分学は、方法的なものであるから、まだひとびとに現実的な衝撃を与えない。が、写真装置は、静止し固定した「瞬間」をヴィジュアライズする。ベルグソンがゼノンのパラドックスに対してあれほど真剣にとりくんだのは、たぶん写真が与えた知的衝撃によるといってよい。 写真装置は、近代の認識論(主観性)を突き抜けることによって、古代のパラドックスをよみがえらせる。・・・厳密にいえば、鏡は上下も左右も変わらないが、「前後」が逆なのである。この点に注意しなければならない。・・・鏡の与える最大の錯覚は、本当は前後が反転しているのに、左右が逆であるだけだと思い込ませることにある。 鏡と同じダゲレオタイプにおいては事態は変わらない。しかし、ネガの濃淡による反転焼付方式は、さまざま意味で、鏡の装置が作り上げた「世界」に対する異化としてあらわれる。この方式、実は前後の転倒を上下の転倒に転換するものなのだが、同時に従来の認識論と違って、「図」としての「世界」を露呈する。メルロー=ポンティは、「観念連合」説をゲシュタルト心理学の成果にもとづいて批判し、われわれの知覚ははじめから「地」の上の「図」として与えられるのだといった。しかし、おそらくそれが「現象学」的内省の限界であろう。「地」と「図」という把握こそ写真装置が与えたものである。のみならず、エッシャーの絵画のように、「地」と「図」が決定不可能であることこそ、現象学的にはついに接近不可能な分裂病的世界の必然性を開示する。この意味で、「鏡の国のアリス」のルイス・キャロルが注目したのは、「鏡」ではなく「写真装置」なのだといってよい。 ラッセルはクラスとそのメンバーはロジカル・タイプ(階型)が異なるといい、その混同を禁止することでパラドックスを回避しようとした。それが結局うまく行かないことをラッセルの著作そのものに即して証明してしまったのが、ゲーデルの不完全定理である。ベートソンがいうように、われわれはつねにロジカル・タイプの混同の禁止を破ってしまうのである。そこに、たとえば「幻のもうひとり」が出てきてしまわざるをえない理由がある。 三浦雅士の考察が面白いのは、その問題を写真装置と結びつけ、写真家が「幻のもうひとり」だといっていることである。写真家は現実に存在する人間であると同時に不在の人間である。しかし、なぜ写真装置がゲーデル的問題をもたらすのだろうか。それは、写真装置がかつてないような奇妙な“客観性”を実現してしまったことと関係している。それは鏡にもとづくような客観性(共同主観性)とは異質である。 September 11, 2002 |