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素晴らしいシリーズ映画の世界


1959年、「大人は判ってくれない」で衝撃長編デビューを飾ったフランソワ・トリュフォー。しかしこの自伝的物語はさらに続き、主演のジャン=ピエール・レオを自らの分身として合計5作、20年にわたって描くことになりました。そんなトリュフォー=レオが手をとって描き出した、おかしくも哀しい人生航路とは? 脚本家でもある村田 恭子さんがシンパシーを込めて語ってくれます。


 

 

 闘争、バランス、変わらないこと

 「アントワーヌ・ドワネル」シリーズ

 Le "Cycle Doinel" de Truffaut et Leaud

 (The "Doinel Stories" by Truffaut and Leaud)

 村田 恭子

 by Kyoko Murata

 

 

 フランソワ・トリュフォーの映画が好きですか、と訊かれると、もちろん、と答える。

 でも、どのくらい好きかを例えるとすれば、それは“恋人”でも“最愛の人”でも“配偶者”でもない。“初恋の人”だ。それも、決して今でも忘れられないというわけではない。好きだったけれど、人生のある時期、意識が急激に変わり、脱ぎ捨てざるを得なかったなにかと一緒に、どこかに押し込めてしまった感傷。トリュフォーの映画はそれに似ている。

 ちょうど、トリュフォーへの愛が最高潮だった時期に、彼が亡くなってしまったことも大きかった。遺作『日曜日が待ち遠しい!』(1982)とともに、もう二度と新作を観ることのできない哀しみから逃げるために、いったん私はトリュフォーを卒業してしまったのだと、今にして思う。

 だけれど、押し込めてしまったその感傷は、今でも、いつでも、まぎれもなく私の一部分なのだ。だからときどき、封印をとくように『突然炎のごとく』(1961)や『柔らかい肌』(1964)や『隣の女』(1981)を観たくなる。そして、まるで“昔の女”に再会したときのような、懐かしくも激しい想いを自分の中に見つけ出す。

 

 “昔の女”というのはおかしいんじゃないか。それをいうなら“昔の男”じゃないのかというご意見はあろう(私、いちおう女だし)。でも、それでいいのだ。かつて私が恋したのは、トリュフォー映画の女優たちだったのだから。激しくもろく美しく、エキセントリックでありながら凛々しくかっこいい女たち。

 それに比べるとトリュフォーの男たちは、臆病で屈折していて、どこか滑稽でもあり、それでいながら意外に頑固でしぶとい。大好きな『突然炎のごとく』と表裏をなす『恋のエチュード』(1971)が苦手なのは、主人公たるジャン=ピエール・レオーの屈折かげんに(わかっていても)ついていけず、業を煮やしてしまうからだ。同じダメ男でも、ゴダールの『勝手にしやがれ』(1959)のジャン=ポール・ベルモンドのように、人生を遊びになぞらえるのような乾いた知性を持たない。しかも、ダメであることはすなわち“反逆”の謂いであるとツッパる率直さにも欠ける。

 いや、トリュフォー映画の男優たちが、ことごとくトリュフォーその人を投影している存在だということは、重々わかっているのだ。しかしながら、そのいささか自虐ぎみな肖像に、私はいつもトリュフォーの矜持の匂いを嗅ぎとらずにはいられなかったし、その匂いの放つ意外な生真面目さに、これまたいささかうんざりしていたことも事実なのだ。

 

 でありながら、トリュフォーの男優ものの白眉である「アントワーヌ・ドワネル・シリーズ」について書きませんか、と夫馬さんからメールをいただいたとき、即座にお受けしようと思ったのは、どうしてなのか(やっと本題にたどりついた)。

 理由は簡単だ。シリーズ第一作(にして、監督フランソワ・トリュフォーの長編第一作)『大人は判ってくれない』が、心の底から好きだったから。だから、シリーズ中観ているのが『大人は判ってくれない』と『逃げ去る恋』だけという無恥をも顧みず、お引き受けするという暴挙に及んだ。そして、及んだことを一度も後悔しなかった。

 いや、むしろ、これまでシリーズをちゃんと観ていなかったことを後悔した。「ドワネルもの」は、トリュフォーの男優映画に対する私の認識を、少し修正してくれる役割を果たしてくれたからだ。

 

 ご存じのように、「アントワーヌ・ドワネル・シリーズ」は、J・P・レオー扮するアントワーヌ・ドワネルを主人公に、その成長を追って撮られた以下の5本の映画からなる、半ば自伝的なシリーズである。

 

・大人は判ってくれない(1959年)

・二十歳の恋(1962年)

・夜霧の恋人たち(1968年)

・家庭(1970年)

・逃げ去る恋(1978年)

 

 足かけ20年に及ぶこのシリーズは、1957年に短編映画で監督デビューしてから1984年に亡くなるまで、トリュフォーの監督人生の随所随所に登場する。

 年譜を見ると、トリュフォー全映画作品のちょうど真ん中あたりに位置する時期に撮られているのが、『家庭』であることがわかる。監督人生の前半生において、おそらくドワネル・シリーズはトリュフォーの中で重要なモチーフのひとつだったのだろう。それ以降1本しか撮っていない――しかもその1本『逃げ去る恋』は、過去4作の映像をふんだんに使った完結総集編のようなものだ――ことを考えると、トリュフォー自身の中では、ドワネルものは『家庭』を撮った時点ですでに“なんらかの”役割を終えていたということになる。

 

 個々の作品を、シリーズの大まかな流れとともに見てみよう。

 

『大人は判ってくれない』(1959)

 まさにトリュフォーの原点といえる名作であり、トリュフォーが生来の“闘争の人”であることを表明した、記念碑的作品である。大人の常識や偏見と闘うアントワーヌの、力強くも繊細なモノクロ映像の美しさ、その衝撃を忘れることはできない。

 しかしながらその闘争の方法が、論理的というよりは情緒的であり、いささか屈折したものであることを、私はこの作品によって早々に知ることになる。

 自らに降りかかる出来事、それによって受ける不当な扱いに、アントワーヌが子どもらしく声をあげることはほとんどない。いつもじっと聞き耳を立て、値踏みをするように上目づかいで大人たちを見、人目を盗んで、必ず頑固に自分の欲望を押し通す。

 欲望とは生きることだ。落書きをすることも、お金を盗むことも、学校をさぼる口実に母親を「殺す」ことも、家出をすることも、アントワーヌにとっては生きることそのものなのだ。

 15歳のJ・P・レオーは、そのしぐさ、表情のひとつひとつで、少年アントワーヌの生々しい実感を伝える。感化院で医者に「女と寝たことは?」と訊かれたときの、悪戯を見つかったときの子どものような稚気と、ひねくれすさんだ大人の老獪を併せ持つ上目づかいの笑み。あの暗く、しかし奇妙に生命の輝きを感じさせる笑みは、いつ見ても胸を衝かれる思いがする。

 映画の中で描かれている母親像は、アントワーヌの人生にとって重要なファクターである。彼女もまた、欲望に忠実な女性だ。夫以外に愛人を持ちながら、自分の世間体、自分の人生のために息子を感化院に放り込むこの女性を、しかしアントワーヌは憎んではいない。母親からの褒美を切望し、かえって墓穴を掘って疎まれる切なさ。永遠に迎え入れてはくれない、最も近く、最も遠い存在

 感化院から逃げ出し、海辺を彷徨いながら、近づいてくるカメラを凝視するストップモーションは、一人で生きようとする決意の強さがうかがわれる、印象的なラストシーンだ。

 

『二十歳の恋』(1962)

 『突然炎のごとく』と『柔らかい肌』の谷間に製作された、30分足らずのこの珠玉のフィルムは、仏、伊、西独、ポーランド、日本5カ国の新鋭監督が競作したオムニバス映画の1本として製作された。

 ひとり暮らしを始めたアントワーヌは、ある音楽会でコレット(マリー=フランス・ピジェ)を見初める。何度かデートを重ね、彼女の住まいの真ん前のアパートに引っ越し、両親にも気に入られたアントワーヌだが、肝心のコレットの気持ちがつかめない

 一途なアントワーヌと、彼の考え抜いた作戦をあっさりと受け流してしまうコレット。追いかければ逃げ、拗ねれば呼びにくる奔放なコレットに振り回されるアントワーヌ。恋の愉楽はなかなか舞い降りてくれない。早くから一人立ちしたアントワーヌと、まだまだお嬢さん気分の女子大生コレットとの間の溝は、さりげなく深い。

 ほかの男とデートに出掛けてしまうコレットに、彼女の両親とともに取り残される間の悪いラストシーンは、失恋を悟ってしまう瞬間の無防備さ、ほろ苦さに満ちている。

 ちなみに、この映画でのアントワーヌは、フィリップス・レコードに勤める音楽好きな青年という設定。レコード・プレスの情景が挿入されるなど、ディテールが楽しい。

 また、オムニバスを構成している日本編を監督しているのは、あの石原慎太郎である。過激なる現東京都知事の若き日の監督作品、観たいような観たくないような。

 

『夜霧の恋人たち』(1968)

 兵役を解かれてパリに戻ってきたアントワーヌは、クリスティーヌ(クロード・ジャド)と付き合っている。またもや音楽学校に通うお嬢様、しかも両親込みのつき合いであるところに、母を捨ててきたアントワーヌの奥深くに潜む“家族”への憧憬を感じる。

 ところで、アントワーヌの多彩な職業に注目するのが、このシリーズの楽しみの1つでもある。クリスティーヌの父親の斡旋でホテルのフロント係となるが、たった1日でクビになったアントワーヌは、ホテルで知り合った探偵にスカウトされて探偵事務所の職員となり、内部調査のために靴屋の店員となって店に入り込む。

 その靴屋の経営者の妻、タバール夫人(デルフィーヌ・セイリグ)の神秘的な美しさに打ちのめされ、一目惚れしたアントワーヌは、まるでコマネズミのようにせわしなく、夫人の周辺を駆け回ることになる。

 せかせかとした慌ただしさ、よくいえば軽快さは、トリュフォー映画に登場する男たちの大きな特徴だが、『二十歳の恋』の一途さに比べると、タバール夫人に恋するアントワーヌには、ふっと笑いがこみ上げるようなほのかな滑稽味と余裕があり、少し距離をおいた視線の居心地の良さを感じる。

 しかし、家庭を欲しながら、一方で恋多き毎日を送らずにはいられないというアントワーヌのキャラクターは、次の『家庭』において、その心の矛盾のすべてを曝すことになる

 

『家庭』(1970)

映画監督としての円熟期に撮られ、以後『恋のエチュード』『私のように美しい娘』(1972)『アメリカの夜』(1973)『アデルの恋の物語』(1975)などの名作、問題作へと続いていく作品。

 『夜霧の恋人たち』で恋人になったクリスティーヌとの新婚家庭に幸福を感じながら、一方でアントワーヌの恋愛癖はとまらない

 トリュフォー作品中でも地味で、評されることも少ない作品だが、家庭を欲しながら家庭に安住できないアントワーヌを容赦なく辛辣に描くこの映画は、私にとっては、アントワーヌとの距離感、いささか投げやりとすら思える描写のさばけ方が、シリーズ中最も気に入っているフィルムだ。ネストール・アルメンドロスのカメラも美しい。

 街角であやしげな花の染色に従事する冒頭、花作りに失敗して職を失い、なにやらよくわからない水力関係の会社に再就職するアントワーヌ。クリスティーヌに子どもが生まれたばかりだというのに、ふと知り合った妙な日本人女性キョウコ(松本弘子)の誘惑に乗り、不倫に溺れもする。

 腰の落ち着かない男をひたすら描くという意味ではウディ・アレンの例もあるが、終始自己を分析し倒すことで世間と繋がっていたがるアレンに比べると、トリュフォーには、常識的に生きることを映画でもって拒否するという、自家中毒一歩手前の頑固さがある。惚れっぽく、女性との関わりという一点で世の中を描くのもこの2人の監督の共通項だが、アレンは女性に褒められたがり、トリュフォーは女性を賛美して関係をつくるというところも両極端だ。ちなみに、私はどちらの映画も好きである。

 けだし、描き方こそさばけてきたが、『大人は判ってくれない』以来の“闘い”が終わっていないこと、しかし、トリュフォー自身はそれを一歩引いて見られるようになっていることが、この映画から伝わってくる。

 人間はそう簡単には変わらないし、それでいいのだ、と。

 

『逃げ去る恋』(1978)

 前作より8年を開けて作られた完結編。

 クリスティーヌとの離婚問題、若いサビーヌとの恋など、相変わらず身辺穏やかではない毎日を過ごすアントワーヌ。『家庭』で彼が書き始めた小説が本作ではすでに出版されていて、それをきっかけにコレットとの再会をも果たす。さらには、母親の愛人だった男とともに、アントワーヌがモンマルトル墓地を訪れるシーンでは、トラウマの原点ともいえる母親の実像に初めて触れることにもなる。

 ちなみに、クリスティーヌとコレットがかわす、同じ男を愛した女同士の会話シーンは、トリュフォーの好んだ気の強い女性たちの姿が反映されていて、とても好きだ。

 過去のどの関係も元の鞘にはおさまらず、サビーヌとの新しい恋に身を投じるラストシーンには、トリュフォーが築いてきた人生観がかいま見えもする。

しかし、この映画の後には、最晩年の名作『終電車』(1981)、『隣の女』、『日曜日が待ち遠しい』の3本が控えるのみであることを考えると、トリュフォーを失った日のことが思い出されてきて、ちょっと切ない。

 

 『大人は判ってくれない』は、感化院上がりという過去への負い目と切り離せない形で撮られた作品だったが、シリーズを追うごとに、それは世間の常識とのずれやそれへの問いに形を変え、トリュフォーは次第に、アントワーヌと自分との距離を見定めていく。

 しかし、本質的にアントワーヌは変わらない。それはまた、トリュフォー自身のことでもあった。年齢とともに円熟が訪れたとしても、それが何だというのだ? 「映画づくりは子どもの仕事」というトリュフォーの言葉が教えてくれる彼の信念は、なによりも「ドワネル・シリーズ」において、最大限に発揮されているのである。

 そしてこの主人公が、ジャン=ピエール・レオーという1人の俳優によって、彼の成長をリアルタイムに映しながら演じられたということも、このシリーズに大きな“意味”をもらたした。トリュフォーにとって、自己像に限りなく近いものを「他人」が演じるということは、おそらく自分を外から見ることでもあっただろう。その面白さについては、ぜひ天国にいるトリュフォー自身の口から直接聞いてみたいという気持ちになる。

 

 最後に、シリーズとは直接関係のない、台湾の蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)監督の最新作『ふたりの時、ふたつの時間』(2001)の話をしたい。

 蔡監督は、台北とパリの二都を舞台にした『ふたりの時、ふたつの時間』の中で『大人は判ってくれない』の一部を引用し、パリのロケシーンでは、ワンシーンだけだがJ・P・レオーを出演させている。終始一貫して自作の主役に使っている李康生(リー・カンション)という男優と蔡監督との関係は、J・P・レオーとトリュフォーとの関係に似ている、とかねてから思っていたのだが、まるでその声が聞こえたかのような符合に、私は一瞬息を呑んだ。

 トリュフォー映画との距離に、おそらく彼自身も苦しんだであろう現実のJ・P・レオーは、しかしこの映画の中では“アントワーヌ”であり、あるいは蔡監督のトリュフォーに対するオマージュを大らかに受け止め得る存在として、そこにいたように思う。

 私はひとり、スクリーンを見つめながら、何度も何度も静かな感動を反芻していた。

 

 

 

 

<「アントワーヌ・ドワネル」シリーズ>

大人は判ってくれない  Les Quatre cents coups (The 400 Blows)  (1959)

監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー、マルセル・ムーシー

撮影:アンリ・ドカエ

音楽:ジャン・コンスタンタン

出演:ジャン=ピエール・レオ、クレール・モーリエ、アルベール・レミー、ジャン=クロード・ブリアリ

フランソワ・トリュフォー長編第一作で自伝的作品。パリの下町に住む13歳の少年アントワーヌ・ドワネルが少年鑑別所に入れられてしまうまでを描く。“ヌーヴェル・ヴァーグ”はここから本格的に始まった。

 

二十歳の恋 L'Amour a vingt ans - Antoine et Colette (Love at Twenty - Antoine And Collette)  (1962)

監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー

撮影:ラウール・クタール

音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:ジャン=ピエール・レオ、マリー=フランス・ピジェ

フランス(トリュフォー)/イタリア(レンツォ・ロッセリーニ)/日本(石原慎太郎!)/西ドイツ(マルセル・オフュルス)/ポーランド(アンジェイ・ワイダ)の5か国の若手によるオムニバス映画の一編として、トリュフォーは自身の長編デビュー作の続編をつくった。

 

夜霧の恋人たち Baisers voles (Stolen Kisses)  (1968)

監督:フランソワ・トリュフォー

脚本:フランソワ・トリュフォー、クロード・ド・ジヴレー、ベルナール・ルボン

撮影:ドーニス・クレルバル

音楽:アントワーヌ・デュアメル

出演:ジャン=ピエール・レオ、クロード・ジャド、デルフィーヌ・セイリグ、マリー=フランス・ピジェ、ミシェル・ロンズデール

兵役から探偵業へ何をやってもうまくいかないドワネルの恋の行方を描く。

 

家庭 Domicile conjugal (Bed & Board)  (1970)

監督:フランソワ・トリュフォー

撮影:ネストール・アルメンドロス

出演:ジャン=ピエール・レオ、クロード・ジャド、松本弘子、クレール・デュアメル

新婚ホヤホヤのドワネルが、神秘的な日本女といい仲になってしまう。1982年に劇場公開されるまで、長らく日本未公開だった作品。

 

逃げ去る恋 L'Amour en fuite (Love on the Run)   (1979)

監督:フランソワ・トリュフォー

撮影:ネストール・アルメンドロス

音楽:ジョルジュ・ドルリュー

出演:ジャン=ピエール・レオ、マリー=フランス・ピジェ、クロード・ジャド

ドワネル・シリーズ最終篇。過去の4作品に加えて「アメリカの夜」でのレオの場面までをドワネルの過去の回想シーンとしてふんだんに挿入した、ファンには嬉しい一編。

 

 

村田 恭子

東京にお住まいの村田さんは、「の・ようなもの」を見て脚本家を志し、それを実現させた方。先月はワールドカップで大興奮だったようです。

べるえぽっく

http://www.din.or.jp/~sode/murata/mura-in.htm

 


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