戻る

5エントリ「運命の領界」「ドリーマー」「萌え小説」「矛盾」「思慮、理知」

AIR −運命の領界−

KeyAIR Standard Edition」(amazon)  アニメ版「AIR」(amazon)

「ひとりになっても…どんなに苦しくなっても、がんばらないとね」
(神尾観鈴。「AIR」)

yu_iの日記さん「田中キャラと麻枝キャラ比較」
http://memoria.g.hatena.ne.jp/yu_i/20060606/p3
因果的物語(田中ロミオ) 
見た所断絶させたりするけど……。人間は物語を生きる生き物。
「普通」な人間は、起こった出来事に対し、説明を加え理解可能なものとして、
因果的な物語に寄りかかって生きていく。
非因果的物語(麻枝准)
現実の出来事は不条理である。避ける事ができない、
襲い掛かってくるもの、理解不可能なものである。
出来事そのものへの眼差しと、出来事に対する人々の振る舞いへの眼差し。


凄く良質な比較、GJです!!(^^)
私もこの比較に同意だなあ。田中ロミオ氏の世界観って、
SF的世界観(この世の全ては合法則的に説明できる、一見不条理
に見える世界を条理で説き明かす快感、ロジックミステリの謎解き)な
感じで、逆に麻枝准氏は、超越論的な、世界と人間の超えられない断絶、
そのことから生まれる運命的なものを重視している感じですね。

これって、つまりこの二人の…。

「この世には不思議なことなど何もない」
(京極堂)
「世の中には不思議でないものなど何もない」
(堂島大佐)

一見、麻枝准氏の作品の方がヒューマニティを感じさせる作品で
田中ロミオ氏の作品の方がアンチ・ヒューマニティな作品に見えるけど、
プレイして行くと実は逆で、田中ロミオ氏の作品はヒューマニティを
強く求めていて、逆に麻枝准氏の作品はヒューマニティを超脱している。
例えば、田中ロミオ作品のヒロインは邪悪な部分を含めて弱いことが多い、
人間的な温かみを感じさせる弱さを抱えているけど、逆に麻枝准作品の
ヒロインは人間性を超えた運命愛的な凄い強さを持っている。
死を受け入れる観鈴、死に立ち向かう渚。ギリシャ悲劇的。
アンティゴネとかも本質的に、これどこのKEYヒロイン?って感じですからね。

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/antigone.html
アンティゴネ:わたしを殺す以外にわたしに何か用があるの?
クレオン:いいや、何も用はない。それで充分だ。
アンティゴネ:だったら、早くしたらどう。あなたが何を言おうと、
わたしはあなたの言うことを一言も受け入れることはないわ。
そんなことがあるわけがない。
あなたもわたしの言うことには賛成できないはずよ。
でも、わたしは自分の兄を埋葬することで、どんなことをしても
得られないほど大きな名誉を得たんだわ。

(ソポクレス「アンティゴネ」)

ギリシア悲劇はヒューマニティによって自らが弱くなり、故に逆説的に
ヒューマニティを失って行くのをヒューマニティから超脱した世界を
描くことで防ぐ技法(偉大さによるカタルシス、同情(ヒューマニティ)の排出)
であって(アリストテレス「詩学」)、その点で、麻枝准氏の作品と
ギリシア悲劇の共通性を見るのは完全に正しいと私は思いますね。

http://www.geocities.jp/hgonzaemon/antigone2.html
アンティゴネ:ああ、わたしはこれからお墓に行く。それはわたしの花嫁の部屋、
地下にある永遠の牢獄。そこでわたしは一族の人たちと出会うのよ。
わたしの一族は殆どみんな死に絶えて、今では黄泉の国にいる。
人生半ばにして、誰よりも大きな不幸を背負って、わたしは最後に降りていく。


それでもわたしには夢があるわ。それは、あの世で、
お父さまにあたたかく迎えてもらえること。
そして、お母さま、あなたにも、お兄さま、
あなたにも、喜んで迎えてもらえることよ。
 
あなたたちが亡くなったとき、わたしはこの手で亡骸を洗い清めて、
お墓に供養のお神酒を注いだのだから。わたしが今日こんな目にあっているも、
ポリュネイケス、あなたの亡骸に埋葬の儀式を施したからよ。
 
でも、わたしがあなたを葬ったことは、今でも正しかったと思っています。

(ソポクレス「アンティゴネ」)

もうゴールしていいよね。私のゴール…ずっと目指してきたゴール。
わたし、頑張ったから、もういいよね。休んでも…いいよね。

(神尾観鈴。「AIR」)

恐れないとは難しいことです。ならば、今よりは恐れを軽減すること。
自分の感情を押し殺すためでない限りは、大いに笑うのは良いことです。
他者に支配されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません
――女性の場合は、今も今後も一生を通じてそういうことがありえます。
屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
傾注すること、注意を向ける、それが全ての核心です。
眼前に在ることをできる限り自分のなかに取り込むこと。
そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、
自らの生を狭めてはなりません。傾注とは生命力です。………

美は理想化の歴史の一部を為している。その歴史とは、慰謝の歴史の一環である。
だが、常に美が慰謝を齎すとは限らない。顔や姿の美は苦悩を引き起こし、
服従を強いる。美は(人間に対して)専制的である。人間的な美、創られた
アートの美――両方とも、所有幻想をかきたてる。超然とした美のありさま、
これは自然の美から来ている――遠くにあり、全体を包み込むような、
所有することのあたわない自然。

1942年12月冬のロシアで警備に立っていた
ドイツ軍兵士が書いた手紙から、以下に引用する。

「これまで見た一番美しいクリスマス。すべてが超然とした感情だけでなりたっていて、
けばけばしい飾りは全くない。広大な星空のもと、僕は完全に一人だった。
凍った頬をつたい流れた涙が思い浮かぶ。痛みの涙でも喜びの涙でもない。
それは、濃密な経験が生み出した感情の涙だった……。」

たぶんに脆く、そして儚い美とは異なり、美しいものに圧倒される人の受容力は
驚異的なほどたくましい。きわめて厳しい混乱のさなかでも生き延びる。
戦争すら、何らかの死の予感すら、その力を消し去ることはできない。

(スーザン・ソンタグ「良心の領界」)

参考リンク
AIR論」

参考作品(amazon)
KEY「AIR Standard Edition

アニメ版「AIR

KEY「CLANNAD‐クラナド‐」

ソポクレス「ギリシア悲劇」(アンティゴネ)

スーザン・ソンタグ「良心の領界」

アリストテレス「詩学」

京極夏彦「京極堂シリーズ」

ビューティフル・ドリーマー

「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」(amazon)

そうだ、わたしの兄弟たちよ、創造という遊戯のためには、「然り」という
聖なる発語が必要である。そのとき精神はおのれの意欲を意欲する。
世界を離れて、おのれの世界を獲得する。

(ニーチェ「ツァラトゥストラ」)

萌え理論blogさん「「なぜオタクはキモイのか」の補足」
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060620/p3
ここから先は憶測が多くなりますが、(オタクがオタクであることを
選ぶのは)たぶん子供のままでいたいからではないでしょうか。
もっと正確に言うと、多形倒錯的な子供の欲望や小児的な全能感を
大人の立場で満たしたいとして、主体的に選ぶのでしょう。………
オタクは懐古主義というかノスタルジックな心情を持っている気がします。
オタクが物を捨てられなくて部屋が汚くなってしまうのも、物に思い出
というか情が移ってしまうからではないでしょうか。


おお、これは見事な考察ですね。オタクはビューティフル・ドリーマーですね(笑)

「ダーリンやお父さまやお母さまやテンちゃんや、終太郎やメガネさんたちと、
ずうっと、ずうっと楽しく暮らしていきたいっちゃ」

(ラム。「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」)

こういったオタク的感性、「楽しさ」を一番大切にする感性は、
昔、それこそ紀元前からある感じですね。ソクラテスの弟子の
アリスティッポスなんか、もう完全にオタクな感じで、ギリシャ文献
読んでて吹きました(爆)以下は、アリスティッポスの言葉。

(ソクラテスにどのような者のグループに入りたいか聞かれて)
少なくとも私としては、人々を支配することを望む連中の仲間に私自身を入れる
ことは決してしないでしょう。だって自分に必要なものを賄うことが大切なのに、
それだけでは足りなくて自分以外の人々の為に彼らが必要とするものを調達
することまで背負い込むなんて、全く阿呆のやることとしか思えないからです。
それに自分は自分の欲しいものの多くを(指導者として)我慢しなければ
ならないのに、民を率いる者は、もしも民が望む全てのことを首尾よく
やり遂げられない場合にはその罰を受けなければならないなんて、
どうしてこれがとんでもなく馬鹿げたことでないことがありましょうか。………

私自身は、出来るだけ楽しく、しかも快適に暮らすことを望む者達の
仲間に入りたいと思います。………

いや、私としては勿論、自分を奴隷の仲間入りさせるつもりは全くありません。
私には何かそれら二つの道(主人になるか、奴隷になるか)の他に第三の道が
あると思うのです。その道こそ、私が歩もうと努めているのです。
その道は支配も隷従も通ることなく、自由を通って続いているのであり、
それこそは幸福へ繋がっているものなのです。

(アリスティッポス。クセノポン「ソクラテスの思い出」より)

(娼婦浸りの淫蕩さを他の哲学者仲間に批判されて)
「一番良いのは、快楽に打ち勝ってこれに負かされないことであって、
快楽を控えることではないからね」

(アリスティッポス。ディオゲネス「ギリシア哲学者列伝」より)

楽しくていいですね(^^)
また、永遠に続く過去への郷愁もその通りだと思います。
例えば、澁澤龍彦の「異端の肖像」で出てくる異端者達の特徴は、
子供っぽさ、過去への郷愁、物への執着なので、ちょうど合ってるなと。
私の好きな小説にプルーストの「失われた時を求めて」があるんですけど、
これなんか延々と過去を思い出しながら陶酔的オナニーに耽っているような、
とてつもない凄い大長編小説ですからね。ちなみに甘美な思い出として延々と
思い返されるのは、美味しい食べ物とか、綺麗な風景とか、芸術の美しさとか、
マザコンな思い出(母親への思慕)とか、ロリコンな思い出(少女への思慕)とか、
もうなんともはや…(^^;

後、現代作品で、オタクを描いた作品で見事だなと思うのは
平野耕太さんの「ヘルシング」ですね。これは、本当に見事。
明らかにこの作品で描かれるナチスの残党「最後の大隊」は
どこからどう見てもオタク集団です(笑)
特に見事だなと思うのは、最後の大隊は、一千人の吸血鬼集団
なのですが、吸血鬼は童貞・処女しかなれないというところで…。
つまり、最後の大隊は、童貞集団(爆)

私はこのお嬢さんと話をしている。
女の子と話すのは本当に久しぶりなんだ、
邪魔をしないでくれ、ボーイ!

(平野耕太「ヘルシング」)

これは非常に面白いんですよね。セックスというのは、
古来より古今東西において、大人になる為の通過儀礼と
されていました。セックスは、子供を作る行為であり、
親になるということは、否応なしに大人になることである、
それが、セックスの通過儀礼としての力を形成している。
例えば、夏目漱石の「それから」でも、オタク的主人公の代助が、
オタクでいられなくなってしまうのは、女性関係によってですし。

僕も、あんな風に一日本を読んだり、音楽を聞きに行つたりして暮して居たいな。
(夏目漱石「それから」)

しかしこれは逆に云えば、セックス(子作りとしての)を遠ざける
ことで、いつまでも子供の感性を保っていられるということなんですね。
最後の大隊のメンバーは、実年齢的にはもうお爺さん(何しろ、
第二次世界大戦のSSの生き残りですから)なんですが、隊員達は
みんな若々しい。それは彼らが、童貞という純血性を遊び(戦争)
に捧げたことによって、不老不死を得ているからであって、
実際はもう老人の年齢なのに、彼らは過去の郷愁(第二次世界大戦)
のなかでいつまでもいつまでも若々しく楽しく遊んでいる。
私はそんな最後の大隊を見るたびに、オタクだなあと思わずにはいられない。
最後の大隊は悪役として描かれていますが、その
「年齢を超越してずっと遊んでいる子供の姿」には、
私はどうしても、共感を覚えるものがありますね。

バタイユはジル(ジル・ド・レエ)を一人の子供とみなすのである。
ただ、この子供はほとんど絶対の権力を持って、汲めども尽きぬ財産を
自由にしていた。子供の怪物性というものを、私達は否定することが
できないのである。もし子供がジルと同じだけの権力と財産をもっていたら、
やはりジルと同じだけの怪物性を発揮したであろう。すべての子供が、
小さなジル・ド・レエなのである。私達が怪物と呼ぶのは、しかし
大人の目、理性の目をもってしているからであって、子供の世界では
怪物性などというものはありえない。蝶の羽を毟る子供や、兎の肉を
引き裂く虎は、怪物ではない。同時にまた文明の約束を知らず、
女や子供を陵辱することに生き甲斐を味わっていた古代ゲルマンの戦士は、
やはり怪物ではないだろう。ジルは中世世界に遅れてやってきた
古代的人間だったのかもしれない。………

中世の貴族社会においては、労働とは卑しむべき奴隷の持ち分であり、
貴族たるものは、あたかも義務を有しない子供が遊ぶように、自由に
遊びを楽しまなくてはならない。むろん、大人が子供のように遊びうる
ためには、特権階級でなくてはならない。特権を有しないものは労働に
身を落とさねばならず、特権を有するものは遊び、すなわち戦争を
しなければならない。戦争そのものが、一つの遊びであることの特権を
有していたのである。中世の戦争は、近代の戦争におけるように、
有効性の角度から眺められるものではなく、人間の理性的な活動とは、
まさに対極を為すものだった。つまり、純粋な遊びだったのである。

(澁澤龍彦「異端の肖像」)

諸君 夜が来た
無敵の敗残兵諸君 最古参の新兵諸君
万願成就の夜が来た 戦争の夜へようこそ!!

(平野耕太「ヘルシング」)

参考作品(amazon)
「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」

平野耕太「HELLSING

澁澤龍彦「澁澤龍彦全集 第7巻」(異端の肖像)

クセノポン「ソクラテスの思い出」

ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 上巻」

ニーチェ「ツァラトゥストラはこう言った 下巻」

夏目漱石「それから」

萌え小説批判批判 −小説は神なき世界を無限に開く−

テキストの外部は存在しない。
(ジャック・デリダ)

ココヴォコ図書館さんが萌え批判(≒ラノベ含む大衆文学批判)をしておられますね。

ココヴォコ図書館さん「小説読者の質は果たして落ちたのだろうか」
http://anotherorphan.com/2006/06/post_308.html
「エモい人」はいつだって世界の中心にでっぷりと座り込んで、
エモエモ涙を流していたのだ。………
「小説の質が落ちたのは読者の質が落ちたことに連動しているのだ」
という議論も、成り行き上僕は否定しないといけない。実際のところ、
小説の質は、いつだって低いのだ。一万のくだらない小説を、一億の
くだらない人間が読み漁る。それが小説や文学と言うものだ。


はたして質の判定をしているのは誰かという問題を除外して、
上記のように小説の質は低い、萌え最悪だ、大衆は愚物だ!
そいつらが読む小説も愚かしい!みたいな論陣を張るやり方
には私は全く賛成できませんね。
先に挙げたように、小説の質の判定を行うは誰か、という問題を
全く度外視している。結局のところ、それぞれの読者がそれぞれ
相対的に質の判定を行っているのであって、歴史がそれらを
統合的な形で淘汰してゆく訳ですが、私が述べたいのは、
そういった歴史の評価(大文学的な位置づけ)ではなく、
個々の読者一人一人にとっては、その作品の価値はその
読者の手に委ねられていて、それをまるで神であるかのように
気取り、上から見下ろしたような「一億の下らん連中の下らん読み物だ!」
みたいに切って捨てることは、私は非常に良くないことと感じますね…。
そういった高みから全てを裁く権利があるようなやり方は
形而上学的権威支配に堕する。

例えば、世間的にどんなに低く価値を見られても、その読者が非常に面白い、
これは素晴らしい作品だと思えば、その作品はその読者にとって良い
作品であるし、それを、「その作品は下らん!お前は間違っている!!」
と云う決め付けはできない。「その作品は下らん!」というのも、
またそれを述べる人間の恣意に過ぎない。例え、それを述べる人間が
歴史の評価を権威としてバックに持っていても、結局は恣意に過ぎない。

私の経験から云えば、例えば古典をランダムに三冊読むのと、ラノベをランダムに
三冊読むのであれば、前者の方に私の深い感情、物事への思索が強く喚起される
可能性が極めて高いと思いますが、しかしそれはあくまで私の感性であって、
逆に後者(ラノベ)の方に深い感銘を受けるという人間がいるのは全くありえる
ことだし、そして、後者の感性が支配的権威によって圧殺されるということは、
あってはいけないことだと思う。前者が読んだ本の価値を高い低いをいい、
後者が読んだ本の価値を高い低いと云うのはそれぞれの意志表明であり全く自由な
ことだと思うが、前者が、「歴史的に屑だ!!」みたいな外部からの権威によって、
小説を読むことの体験から受けた感銘ではなく、小説の外の権威によってその小説や
後者の言説を断罪するようなことはあってはならないと思う。
それは文学の破滅に他ならない。
人間は決して神ではなく、いかにして正しく振舞うかなど分かりはしない。
その認識から始めて、自己の認識と他者の尊重がでてくるのであって、そういったことを
排除して、ただ権威に形式的に従うことだけを行えば、人間はどこにもいなくなる。
権威はあくまで、実用的なる己の理解をより深める為にあるもので、断罪の道具ではない。

萌えについて、「エモ」とか非常に揶揄した云い方をし、大文字の権威を振りかざして
神のように「一億の下らん連中の読む下らん小説」と読書する人々とその小説を断罪する
ココヴォコ図書館さんのやり方には私は全く賛成できない。それは形而上学的な権力だ。
文学の研究者や小説家希望者は小説に対してアンビヴァレントな愛憎を抱いていることが
多いですね…。しかし、だからといってそれが形而上学的権力を振るう言い訳にはならない。

「なんだと、短い小説を五つ六つ書いただと。なんだなんだそんなものくらい」
蟻巣川は次第に舌たらずな物言いとなり、涙を流し続けながらデスクを連打した。
「わしなんかもっともっと書いているんだぞ。しかも学術論文をだ。
小説なんかじゃないぞ。学術論文だぞ。学術論文だぞ。
これを見ろ。この棚に入っているのがそうだ。
これは「キップリングにおける帝国主義」の載った学会誌だ。
これには「バーナード・ショウにおける毒舌の分析」が載ってるんだ。
これは「ゴールズワージイの社会的良心」だ。
これは「イエーツにおける象徴」だ。
「エリオットのカトリック信仰」だ。
これもそうだ。これもそうだ」
片っ端から学会誌や紀要を抜き出して、彼は次々書棚から床に落とし始めた。
「これもだ。これもだ。どうだ凄いだろう。どうだ凄いだろう。
ぼくに勝てると思っているのか。ぼくには勝てないんだぞ」

(筒井康隆「文学部唯野教授」)

デリダは云う、outside the text……、テキストの外には何もない。テキストは世界だ。
世界の外に世界を支配する神はいない。テキストの意味はテキストの外部を想定したり、
テキストの背後に隠されて存在する客観的なものではない。テキストは無限に開かれている。
それは読者の手によって、解体され、爆破され、散布される。ディコンストラクション。
テキストは無限に開かれている。そのテキストに異なる価値を与えるのは読者一人一人。
個々なる読者の内在する意識がテキストに命を吹き込み、開かれた価値を創りだす。
私は自身がテキストを読むことの快楽を愛する、私は自身がテキストを語ることの快楽を愛する。
私は人々がテキストを読み語ることの快楽を愛する、私は無数の快楽に開かれた世界を愛する。

このロラン・バルトはほとんどマゾヒスティックなくらいの
エロティシズムを読者に望んでるの。
わけのわかんない作品の、からみにからんでもつれあった網の目
から自分が粉々に砕け散っていくのを見るというそのスリルを
楽しめってんだからさ。
前衛的快楽主義。悦楽。ああっ。そのしびれるような官能。
読書の喜びはオルガスムスだ。わたしエマニエルよ。
セックスだ。セックスだあ。

(筒井康隆「文学部唯野教授」)

http://c.m-space.jp/child.php?ID=041104&serial=85096
小学生の時、母親に「セックスってなに?」と聞いたところ
母親は「男の人と女の人が仲直りするおまじないよ」と答えた。

その日の夜、両親がケンカした。俺は
「セックス!セックス!みんなセックスし続けろ!激しく!もっと激しく!
ペニスとヴァギナをこすりあって!愛液と精液を混ぜあって!
肉と肉がとろけ合うまで交わり続けろ!いづれは学校中の生徒も参加させてやる!
善人顔した教師達もだ!学校中の女達の穴という穴すべてに精液を流し込んでやる!
校長も教頭も皆、家畜の様によがらせて、可愛い教え子達の膣にペニスをぶちこむのさ!
学校の次はこの町、全てを巻き込んでやる!ただすれ違っただけの見ず知らずの奴ら同士を、
いきなりセックスさせてやる!例えそれが親子であろうと!兄弟であろうと!
女同士であろうと!男同士だろうと!子供だろうと!老人だろうと!赤ん坊だろうと!
全員残らず、性器を結合させて、愛液と精液にまみれさせてやる!
セックス!セックス!セックス!どいつもこいつもセックスさせてやる!
膣やペニスがすりきれて、血まみれになっても腰を振り続けさせてやる!
血と精液と愛液にまみれながら、喉が渇けばそれをすすらせ、
腹が減ったら互いの肉を噛み千切らせる!そして永遠続けさせてやる!セックスを!
セックスだ!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!
セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!
セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!セックス!」
と止めに入ったら父親からボコられた。


参考作品(amazon)
leaf「雫 リニューアル版」

東浩紀「存在論的、郵便的」

ジャック・デリダ「グラマトロジーについて 上巻」

ジャック・デリダ「グラマトロジーについて 下巻」

ロラン・バルト「テクストの快楽」

ジュリア・クリステヴァ「テクストとしての小説」

ジョナサン・カラー「ディコンストラクション 第1巻」(品切)

ジョナサン・カラー「ディコンストラクション 第2巻」

筒井康隆「文学部唯野教授」

筒井康隆「文学部唯野教授のサブ・テキスト」

支配者のパラドックス −自己と他者の境界−

自分のものを保持することを望む君主は、どうしたら善良で
なくなれるかを学ばなければならない。

(マキャベリ「君主論」)

Screw Pile Driverさん「僕はこの事実を小学生に教えるべきだと思うんだ。」
http://d.hatena.ne.jp/vr6ubqg/20060625/p1
謙虚に生きることは損だ。最終的に消極的な善人は積極的な悪人に駆逐される。


上記エントリはマキャベリ的な発想だと思いますが、内省的に
生きることの歓び(いいこと)というのもあると私は思うな…。

支配者のパラドックス、つまり、自分の意志を抑圧し、人々に迎合する
ことで人々の支持(支配の力)を得ても、それは果たして幸せであるのか、
ということについても、考える必要があるのではないでしょうか。

例えば強引に人をおしのけて生きることが悪いと思う人が、人をおしのけ
生きるようにしても、それはその人にとって悪い生き方だと思うのです。
マキャベリの思想も、君主という国を守る立場から、国を守る為の必要悪としての
善の否定と悪の肯定を説いている。それは支配者の地位から要求されるものなのです。

また、これも逆説的なことですが、他者を他者として尊重し大切にするという
ことは、自分を尊重し大切にすることに繋がっている。支配するということは、
他者に対して踏みこんで接し、自己のリソースを他者に割くことですが、他者を
尊重し大切にするということは、他者に踏み込む代わりに、他者と自己の
境界を大切にし、自己の境界内のリソースをしっかりと守るということでもある。

我々はマキャベリが描いたような実際の君主ではないんだし、内省を貴び、
自分にとっての理念を大切にして生きるということは、あっていいことと思う。

それを、内省や理念よりもマキャベリ的功利主義が一番大切であると
学校教育などで教えるのはちょっとどうかなと思うのです…。
公教育とはなるべく出来うる限り価値中立的な教育を目指すべきかなと。

高き地位にある人々は三重の僕(しもべ)である。君主あるいは
国家の僕であり、名声の僕であり、仕事の僕である。それゆえ彼らは、
自身の行動にも時間にも、いっさい自由を持っていない。
権力を求めて自由を失い、あるいは他人を支配する力を求めて
自分を支配する力を失う。これは奇妙な欲望である。
高い地位に登ることは苦労の多きものであって、人は苦痛(権力闘争)
によって、更なる一層大きな苦痛(更に大きな権力闘争)に至るのである。
それはまたしばしば卑しい(反理念的)なことであって、人は卑劣によって
(支配者の地位という)高貴に至るのである。しかし、その立場は滑り易く、
一歩退けば転落か、少なくとも名誉の失墜であり、痛ましきことである。………

高き地位にある人は、自分を幸福と思うためには他人の意見を借りねばならぬ。
自分の感情によって判断しようとすれば、幸福を見つけることができぬから
である。彼らは他人が自分をどう思っているか、また他人が自分のような人間に
なりたがっていると思うならば、言わば良い評判でも聞くように、幸福を感ずる
のである。もっとも、おそらく内心ではその逆を見出すかもしれない。
彼らは自分の過ちを発見するのは最後の人間であるが、自分の悲しみを発見する
のは最初の人間だからである。大きな幸運(支配者の地位)のなかにあるものは、
自分自身には他人である。そして、多忙の生活にあくせくしながら、自分の健康
にも気をつける暇はないのである。(セネカの著書「チュエステス」はこう語る)
『(支配者として)沢山の人々には知られすぎるほど知られていても、自分自身を
知られないままに死ぬ人の上には、死が重くのしかかる』

(フランシス・ベーコン「随筆集」)

誰彼を問わず、およそ多忙な人の状態は惨めであるが、なかんずく最も惨めな者と
いえば、自分自身の用事でもないことに苦労したり、他人の眠りに合わせて眠ったり、
他人の歩調に合わせて歩き回ったり、何よりも一番自由であるべき愛と憎とを
命令されて行う者達である。彼らが自分の人生のいかに短いかを知ろうと思うならば、
自分だけの生活はいかに小さな部分でしかないかを考えさせるがよい。

(セネカ「人生の短さについて」)

君は単純に、自由に、よりよきものを選び、これをしっかり守れ。
(マルクス・アウレリウス「自省録」)

参考図書(amazon)
フランシス・ベーコン「随筆集」

セネカ「人生の短さについて」

マルクス・アウレリウス「自省録」

マキャベリ「君主論」

はたして情念、強引さは幸福か −思慮、理知−

ソポクレス「ギリシア悲劇2」(アンティゴネ)  エウリピデス「ギリシア悲劇3」(メディア)

Screw Pile Driverさん
「真面目なコメントを頂いたのでちょっとだけ自己フォロー。」
http://d.hatena.ne.jp/vr6ubqg/20060626/p12
自分を守れるのは自分だけ。お人好しに生きることができればそれに
越したことはないのだけど現実的にはそうもいかない場面が多々ある。
この世界にはいくらでも酷いことがあるという現実をとっととお子様に
叩き込んだ方が幸せになれるんじゃねーかなーと思ってます。


これはまさに仰る通りだと思います。現実は理念と違い厳しい。
けれど、それでも頑張って、人は自己の歓びを目指して生きる。
ゆえに、子供らには、この世界の有様をきちんと教えておく必要がある。
それについて、私は大いに同感です。ただ、果たして、「強引さ」
(この世はやった者勝ち)や権力などが幸福への道であるか、
というのは、遥か古代より大きなアポリアとなってきたことですね…。
現実の有様を教えることは大切と思います。ただ私は、強引さや、
コミュニケーションやポジティブさの教育よりも、生涯のものとなる
深く強い思慮、理知を育てる教育を大切に思うのです。

ギリシア悲劇の「メディア」「アンティゴネ」は、この問題について
深く示唆を与えてくれるテキスト、少しこれらのテキストを紐解いてみます。
以下のテキストは、メディアにおける最も有名なシーンの一つ、メディアが
イアソンへの復讐の為に自らの子を手に掛けることについて独白するシーンです。

「どんな邪悪なことをしでかそうとしているか、それは自分にもわかっている。
しかし、いくら分かっていても、たぎり立つ怒りの方がそれよりも強いのだ。
これ(情念)が、人間の、一番大きな禍いの因なのだが――」

(エウリピデス「メディア」)

ここでメディアは、自分の行為が邪悪だと分かっていながら、なお断行する。
こういった強引な行為が、果たしてメディアにとっての歓びであるか、それには
大きな留保をつけねばならないと思うのですね。もしも、メディアが、もう少し、
怒りを抑えることができれば、王女メディアの悲劇は罪なき者達の凄惨な死という
絶望的、悲劇的な形では幕を下ろさなかったでしょう。E・M・W・ノックスは、最後に、
メディアが太陽神ヘリオスの使わした車に乗って、復讐を遂げたイアソンを倣岸と
見下ろしながら立ち去ることについて、メディアは夫-妻の規範、親-子の規範、そして
社会の規範を、怒りと憎しみの情念によって全て超えたことで、人間以外の存在――神に
なったと解釈していますが、それは、果たしてメディアにとって幸福なことなのでしょうか。

私は、規範的な精神、理念的な精神、そういった情欲を抑えることの出来る力を
メディアが手放したとき、メディアにとって、幸福はなくなったと思います。
規範、理性、理念というのは、人を幸福にする為の機能であり、そうあるべきもの。
それらを全て手放して、自らの情念のままに生きることは、果たして幸せでしょうか。

次に、「アンティゴネ」を紐解いてみましょう。
「世界の古典つまみぐい」さんから引用させて頂きます。
http://www.geocities.jp/hgonzaemon/index.html

アンティゴネ:あなたにわたしといっしょにやる気があるかどうか、
わたしに力を貸してくれるかどうか考えてほしいのよ。

イスメネ:あなたはまた何をやらかそうというの?いったい何を考えているのよ?

アンティゴネ:わたしといっしょに遺体を運んでくれるか聞いているのよ。

イスメネ:それでは、遺体を埋葬しようと考えているのね、国が禁止しているというのに。

アンティゴネ:あなたがいやでも、わたしはそうするつもりよ。
だって、あの人はわたしたちの兄弟ですもの。

イスメネ:まあ、恐ろしいことを、(王である)クレオンがするなと言っているのに。

アンティゴネ:わたしを自分の身内から引き離す権利は、あの人にはないわ。 ………

イスメネ:わたしは神の掟を馬鹿にするつもりなんかありません。
でも、国家に逆らうなんて、そんなこと、わたしにはとても出来ないわ。

アンティゴネ:あなたはそうやって言い訳をしていればいいんだわ。
わたしは誰よりも大切な兄のためにお墓を作りに行って来ますから。

イスメネ:ああ、馬鹿なことを。わたしは姉さんのことがとても心配だわ。

アンティゴネ:わたしの心配なんかやめてよ。あなたはあなたで幸せに暮らすのね。

(ソポクレス「アンティゴネ」)

最終的にはクレオン王の命に背き、兄の亡骸を弔ったアンティゴネはクレオンに
よって死に追い込まれますが、しかし、強引に自らの信念を通したアンティゴネは
愚かで、長いものに巻かれろのイスメネが正しいのでしょうか?私には、どうしても
そうは思えない。ここでは、現世的な打算利益を超えた、自らの理念が表れてきている、
そして、その理念に殉じたアンティゴネには、少なくとも私は崇高さを感じます。

もう一つ引用しましょう。アンティゴネの恋人で
クレオン王の息子ハイモンが王に諫言するシーンです。

クレオン:わたしはこの年になってこんな子供に分別を学ばなければいけないのか。

ハイモン:わたしが間違っていると思ったら無視して下さって結構です。
ただ、わたしの年齢ではなく、わたしの話の中身をよく考えて下さい。
 
クレオン:というと、おまえはわたしに悪人を敬うようにすすめるのか。

ハイモン:わたしが悪人を敬えとすすめるわけがありません。

クレオン:それでは、なにか? あの娘は悪人ではないとでも言いたいのか。

ハイモン:テーバイの国民はだれもあの娘を悪人だとは思っておりません。

クレオン:すると、国がわたしに何をすべきか指図するということなのか。

ハイモン:おやおや、これはまた子供じみたことをおっしゃる。

クレオン:わたしは人の考えに従ってこの国を治めねばならないというのか。

ハイモン:国は一人の人間のものではないのですよ。

クレオン:支配者が国を好きなようにできないとでもいうのか。

ハイモン:それなら、あなたは人のいない国の支配者になるといいのです。 ………

クレオン:これだけわたしに好き放題にけちをつけたからには、
ただではすまないぞ。さあ、あの憎たらしい女をここへつれてこい。
この花婿の目の前でいますぐに殺してやる。

ハイモン:いやだ。そんなことは考えてはいけません。あの娘が目の前で
殺されるなんてまっぴらです。もう父上にお目にかかることはありません。
あなたは気の合う連中と馬鹿をやっておられるといいのです。

(ソポクレス「アンティゴネ」)

国王として絶対の権力を持つクレオン王は、強引に、自らの思いのままに
振舞っていますが、これは彼にとって幸せでしょうか。クレオンがアンティゴネ
を死に追いやったことにより、息子ハイモンはアンティゴネの後を追って自害し、
それを知ったクレオンの妻エウリュディケもまた自害します。クレオンは愛する
家族の全てを失うこととなる。絶対の権力を持って絶対的に振舞うことで、
愛するものを全て失ったクレオンの人生が、果たして幸せでしょうか。

クレオン:(歌う)わたしをここから連れ去ってくれ。この愚かな男を。
おお、息子よ、おまえと、そこいる妻よ、おまえを、心ならずも殺して
しまったこのわたしを。ああ、なさけない。わたしはどうすればいいのか、
何を頼りにすればいいのか、分からないのだ。わたしの手がけたものは
全て失敗し、その上、耐えがたい運命が、頭上からわたしに襲いかかった。

老人:(音楽に合わせて語る)思慮分別は、幸せになるために、何よりも
大切なもの。神々に対しては、決して不敬なことをしてはならない。
思い上がった大言壮語が手痛い報いを受けて、人は年老いてから分別を知る。(了)

(ソポクレス「アンティゴネ」)

人生というのは人それぞれであり、それを形式化することは誰にも出来ません。
生に対する人々の生き方はさまざまであり、先の強引さにも様々な形がある。
私は、アンティゴネの強引さには崇高を感じるが、クレオンの強引さには、
アンティゴネに感じるような崇高さは感じられない。強引さ、一つとっても、
それをどのように使うか、もしくは使うことを留まるか、という様々な個々の判断が
あり、そしてそれを司るのは、己自身の思慮であり、理知であると思うのです。
教育とはそういった思慮、理知を育ててゆくものであることを、私は願っております。

参考図書(amazon)
アイスキュロス「ギリシア悲劇 第1巻」

ソポクレス「ギリシア悲劇 第2巻」(アンティゴネ)

エウリピデス「ギリシア悲劇 第3巻」(メディア)

エウリピデス「ギリシア悲劇 第4巻」

戻る