
書評「アフロディテ」 −輝かしき性愛−
その世界(キリスト教の誕生以前の古代ギリシア世界)では、
愛はこの上もなく官能的なものであって、そこから我々が
生まれた神聖な愛は穢れを知らず、恥とも罪とも無縁であった。
(ピエール・ルイス)
五月はエロゲが全然でない…。
うああああああああ!!!!!
ああ、耐え難い焦燥を感じる。私は官能の刺激を満足させる作品を
求めているのに、五月は全く出ない出ない出ないでない出ない出ない!!
もう、凄く、凄く、苦しい。私は新しい、今までにない官能を
味あわせてくれる激しくエロティックなエロゲに、いついかなる時も
常に陶酔していないと、禁断症状を起こすんだ…あふぁ!!
五月にエロゲが出ないのは私の力では変えようのない、どうしようもないことなので、
代替の品でなんとかしようと思い、エロス系の本としてピエール・ルイスの
「アフロディテ」を購入、そして、読了――。ああ、なにこれ、凄い良い本だ!!(^^)
この本は美の極致なる肉体を持った輝かしき神聖娼婦クリュシスを、その肉体(裸体)
の美しさと聖にして性なる魅力を詩文に載せて称えながら、その奔放で美しい性生活を
描いている作品なのだけど、キリスト教が発生する以前のアレクサンドリアを舞台に
しており、みんな、物凄く大らかで、”綺麗な裸は美しい、美しいものは素晴らしい”
って考えていて、クリュシスの奔放な肉体の魅力を素直に称えているし、クリュシスも
それに素直に応えて、肉体が美しいってことを一切の虚飾なしに言祝いでいる。
類なく美しい肉体を持ち、肉の快楽を愛し、エロスを通してしか男を知らぬ女、
クリュシス………(「アフロディテ」で描かれる伸びやかで自然なギリシア的性愛は)
「陰翳礼讃」を(谷崎潤一郎が)唱えたのと全く対照的といってよい。………
ここには陰翳はなく、すべては白日のもと、ギリシアの神のように輪郭明瞭である。
そう、ギリシアの神のように。――娼婦クリュシスは男を誘ってやまぬエロスの力
によって、まさにギリシアの女神アフロディテそのものと同化を遂げるのだ。
(多田美智子「エロスの秘儀参入」)
いやあ、目からうろこっていうか、こんなの今の日本じゃ考えられないよね。日本じゃ、
裸体は秘すべきものだし、裸体を美しいっていう正直な気持ちにはいつも禁欲が掛かっている。
なんでこんな、キリスト教圏の国々以上に、裸体を蔑むような国に日本がなっちゃったのか
分らないけど、でも、この本読んで、ああ、日本って、窮屈な国だなあと思ったよ…。
アフロディテで描かれる古代アレクサンドリアでは、みんな、美しいものは素晴らしい、
ゆえに綺麗な裸は素晴らしいって云う、人間の自然な情で素直に生きている。
まさにこの本には、今の日本のエロゲにはないものがあるね!!
それは、裸体の美しさを無垢なる声で歌うこと!!\(^^)/
今の日本のエロゲ、そしてポルノグラフィ全般って、キリスト教国でもあるまいに、
キリスト教圏以上に、裸体を恥ずかしいもの、隠すべきものとして、そしてそこから
エロティシズムを稼動させていますけど、そのせいで、肉体の美しさを素直に称える
ようなことは決してできなくなってしまっていますからね。これは余りに不健全で、
エロスの力を衰弱させていると思いますよ。エロゲは国粋的な性文化で日本の
セクシャリティは世界で最も優れているとか、そんなようなことを書いたブログが
以前話題になったようですけど、肉体の美しさを素直に言祝ぐということに掛けては、
このアフロディテを出したフランスとかのヨーロッパ諸国の方がずっと優れているよ。
日本は逆に非常に裸体に対して禁欲的じゃないですか。禁欲の中から出てくる
”秘すれば花”的エロティシズムも認めるけど、それでも、やはり”秘すれば花”
のエロティシズムしか持っておらず、裸体の自然な美しきエロスを言祝ぐことが
できないのは、日本のセクシャリティの決定的な貧困であると私は思いますね。
例えば、世界の主要先進国で、性器にモザイクを掛けているのは日本だけですよ。
性器に対する蔑視感覚が日本人の根底にあることは否定できないでしょう。
以前、ヘア修正問題で論議を呼んだ映画「美しき諍い女」の主演女優
エマニュエル・べアールが日本の検閲制度(映倫)で自分の姿が修正されたことに対し、
「検閲は創造に対する冒涜である」と云っていたけど、私も彼女の云う通りだと思う。
そして結局のところ、それは日本人の肉体に対する蔑視が生んでいるのだと思うよ。
キリスト教はエロスに毒を飲ませた。
エロスは死にはしなかったが退廃した娼婦になった。
(ニーチェ「善悪の彼岸」)
愛とそれにともなっておきる諸々のこと(性交、身体の結びつき)は、
ギリシア人にとっては最も徳性に富み、最も偉大に豊かな感情であった。
ギリシア人は、キリスト教の教義が我々に齎した、淫らさとかふしだらさを
愛(性愛)と結びつけて考えるようなことは決してなかった。
ヘロドトスは(著書「歴史」の中で)自然な調子でこう語っている。
「ある種の野蛮な民族のもとでは、裸体は恥とされている」
(ピエール・ルイス)
まさに、現代の日本民族はヘロドトスが云うところの蛮族以外の何物でもないね。
私は日本人の一人として、日本人の性に対するこの野蛮に深い悲しみを覚えるよ…。
日本人のように性に対して野蛮に陥っていることは、愛を失いゆくことと等しいと思う。
愛とは、肉体の輝きを肯定した上で生まれる性愛の豊穣の中で育まれるものだから。
「アフロディテ」を読んで、私は、真実の愛、健やかな愛、力強い愛の交合というのは、
肉体を肯定し、愛する人の肉体を肯定することから生まれるのだと、心から思った。
本作の女主人公、神聖娼婦クリュシスはとても自然で魅力的で、私は彼女のような、
性は罪なんていう戯言を全く知らず、自然に性を楽しめる女性に一番魅力を感じますね…。
凄く、素敵な女性です。最後に、読んでて思わず彼女に惚れてしまった場面をご紹介。
クリュシス
「やさしくして欲しいというのなら、子供のように可愛がってあげるわ。
あんまり人の知らない快楽を味わってみたいんなら、わたしどんなつらい
ことでも嫌だなんていわないわ。黙ってろというのなら、口をきかないわ。
……歌ってくれというのなら、ああ、大好きなデメトリオス、あのね、
わたしあらゆる国の歌を知っているのよ。泉のせせらぎみたいにやさしい歌
だって、雷が襲ってくるときのような恐ろしい歌だって知っているわ。
若い娘が母親に歌って聞かせるようなとても無邪気でさわやかな歌も、
ランプサコスあたりじゃ聞かれないような歌も、それを聞いたら
エレファンティスなんか真っ赤になるだろうし、わたしだってほんとに
小声でしか歌えない歌だって知ってるのよ。
あんたが踊って欲しいという夜には、一晩中踊ってあげるわ。ちゃんと
衣装を着てトゥニカの裾をひきながら踊ってもいいし、
透き通ったヴェールを被ってでも、切れ目の入った下着姿でも、
乳房が見えるように両方が開いている胸当てをつけて踊ってもいいのよ。
でも、裸で踊ってあげるって約束したわね。あんたがそのほうがいいって
いうのなら、裸で踊るわ。裸で髪に花を飾ってでも、裸で波打つ
わたしの髪にくるまれて、神様の像みたいに身体に色を塗ってもいいのよ。
わたし両手の振り方も、腕で丸い輪を作ることも、胸を揺することも、
お腹を突き出すことも、お尻の肉をきゅっと引き締めることも知ってるわ。
爪先立ってでも、絨毯の上に横になってでも踊れるのよ。
アフロディテの踊りならどんなのでも知っているわ、ウラニアの神前で
踊るのだって、アスタルテの神前で踊るのだって。
人がとても踊れないような踊りだって知ってるのよ……
愛のしぐさをみんなに踊ってみせるわ……それがすんでから、
いいことがみんな始まるの。あんたに見せてあげるわ。
女王様はわたしよりお金持ちだけど、宮殿のどこにだってわたしの
部屋みたいに愛に相応しい部屋はありはしないわ。そこに何があるか、
いまはまだ教えてあげないわ。あんまり綺麗で、あんたにはそれが
どんなものか思い浮かべさせることすらできないものもあるし、
珍しすぎてとても言葉じゃいえないものだってあるのよ。
それから、あんたが見られるものが何かわかる?
ほかの何よりも素晴らしいものよ。
あんたが惚れ込んでいて、まだ知らないわたしの姿を見せてあげる。
そうよ、まだあんたはわたしの顔しかみていないわ。
どんなにわたしが綺麗か知らないのね、ああ、ああ!
……ああ!ああ!あんたきっと驚くわ。ああ、あんたは
どうやってわたしの乳首を弄ぶのかしら。あんたの腕に抱いた
わたしの身体をどういうふうにあんたは曲げるのかしら、
わたしの膝のあいだで締めつけられて、あんたは
どんなふうに身を震わせることかしら、くねって動く
私の身体の上で、どんな風にして気を失うのかしら。
それに、わたしの口はどんなにいい香りがすることでしょう!
ああ!接吻ときたら!……」
(ピエール・ルイス「アフロディテ」)
クリュシスたん…俺は君にマジで惚れたよ…愛しているんだ…(^^)
愛する人に捧ぐ自分の優れた美しさに自信を持っていて、しかもそれが
全然嫌味じゃなく、とても素直に伝わってくる、こういうクリュシスみたいな
女の子、私はほんとに最高に大好き…。オシオキSweetsの真明寺凛とか、
クリュシスに通じるものがある素敵な子で、凄く良かったな…。
「あたしのこのエロエロボディを独り占めできるのは和人だけなのよ」
(真明寺凛。「オシオキSweetsFD Sweets!!」)
参考リンク
藤木隻「エロスについて」(エロゲとエロスについての文章。素敵な文章です(^^)
参考作品(amazon)
ピエール・ルイス「アフロディテ」