
5エントリ「ARIA」「ARIA」「空虚…」「季節…」「男女…」
ARIA −失われた時を求めて−
TVアニメーション「ARIA」公式サイト DVD「ARIA」(amazon)
忘れていた自分の思い出と出会うなんて…。
(ARIA)
ARIA第10話「そのあたたかな街と人々と…」を見て…知らないうちに、
頬を涙が伝わっていた…、前回はゲーテだったけど、今回は完全に
プルースト…、私のプルーストの思い出が、私の胸を優しく静かに満たした…。
幸福の二重の意志、幸福の弁証法が存在する。幸福が賛歌的な形態を取るときと、
悲歌的な形態を取るときである。前者は前代未聞のもの、かつて在ったことのないもの、
(現前する)至福の絶頂である。後者は(ワーズワース的、プルースト的な)
根源的な最初の幸福の永遠なるもう一度、その永遠なる復元(想起)である。
この悲歌的な幸福理念――それをエレア派的と呼ぶこともできよう――
(ベンヤミン「プルーストのイメージについて」)
今回のARIA「そのあたたかな街と人々と…」は、ネオ・ベネチアの街の元々の
住人である藍華とアリスが、街に新しくやってきた存在である灯里の交友から、
昔の懐かしき記憶を想起する物語で――、私は見ていて、プルーストの果てしなき
想起の物語「失われた時を求めて」を想起せずにはおれなくて…懐かしい想い出が
蘇って――自然と涙が、溢れたよ…。私が、ベットの上で、無限の無為のなかで、
時間や日にちを気にせずに、ただずっと、「失われた時を求めて」を、ゆっくり、
ゆっくり読んでいって、その無限の想起のなかに、私の想起もまた重なっていった…。
この思い出、この昔の瞬間は、私のはっきりした意識の表面にまで達するであろうか?
よく似た瞬間の牽引力が、遥か遠くからやってきて、私の一番奥底の方を促し、感動させ、
かきたてようとしている。この昔の瞬間は?分からない。今はもう何も感じられない、
思い出は停止している、たぶんまた沈んでいったのだろう。その暗き夜からいつかまた
思い出は浮かび上がるだろうか?誰が知ろう?十度も私はやり直し、思い出の方に身を
寄せていった。そしてそのたびごとに、困難な仕事や重大な作業と見ればすぐ顔をそむけ
させるあの無気力さが、私にこう勧めてくる、そんなことはやめたまえ、お茶でも
飲みながら、苦もなく反芻できる今日の倦怠と、明日の欲望のことだけを考えたまえ、と。
そのとき一気に、想い出があらわれた。この味、それは昔コンブレーで
日曜の朝(それというのも日曜は、ミサの時間まで外出しなかったから)
レオニ叔母の部屋に行って、おはようございます、を言うと、叔母が
紅茶か菩提茶のお茶に浸して差し出してくれた小さなマドレーヌの味だった。
(プルースト「失われた時を求めて」)
プルーストの「失われた時を求めて」を読むということは、私にとって、想起すること、
悲歌的な幸福への一歩一歩の深い道のり、悲歌的な世界への歩みだった…。
古い、大切な、想いが、今、想起することで胸に広がり、想いの世界が開かれる。
若き日の想いは、年経てのち、豊かに満たされる。
(ゲーテ「詩と真実」)
以前、ゲーテの「詩と真実」を読んでいた時も、若きゲーテが美味しいお菓子を
作ってくれる大好きなお菓子屋さんに捧げる拙い賛美の詩を作るシーンがあって、
私も好意を抱いていた司書さんに同じように詩を作ったから、郷愁の想い蘇り広がって…。
その詩は誰にも見せなかったし、永遠に内なる歓びとして、私の中の想いとしてある。
事物の偉大なる力、内なる大切な想いが、蘇り、広がって行く、悲歌的な幸福の目覚め――。
ARIAは、私のマドレーヌ。なんて素晴らしい素敵な作品なんだろう――。
私が感動したのは、想像のなかで、すぐそばにありながら近づき得ないものとして
眺めていたフェレンツェに――たとえそのフェレンツェと私とを隔てている道のりが、
私自身の心の内部においては通行不可能であったとしても――別の手段で、遠回りして、
つまり「地上の道」を通って、到達できると考えた為だった。ベネチアとは、
「ジョルジョーネ派であり、ティツァーノの住居であり、中世建築の最も優れた
美術館なのだ」と、これから見ようとしている街にこんな具合に大きな価値を
与えつつ、自分に繰り返し言って聞かせるとき、私は幸福な気持ちに包まれた。
しかし一層の幸福感に浸ったのは、用事で外出した私が、早すぎた春の幾日か後で、
(コンブレーでいつも復活祭の前の週に見かけるように)ふたたび冬に逆戻りした
天候の為に足早に歩きながら――同時に水のような冷たい空気に浸っている大通りの
マロニエの樹が、それでも几帳面な春の招待客として、もう装いをこらし、気落ち
することもなく、抑えることのできない蕾をふくらませ、それを凍った塊のような
姿に彫りあげはじめているのを眺めたり、またその蕾のすくすくとのびゆく力が、
生命を根絶する寒気によって妨害されても、完全に抑えこまれることはないのを
目にしながら――もう、ポンテ・ヴェッキオには、数限りないヒヤシンスやアネモネ
が咲きみだれていることだろう、春の太陽はベネチアの大運河の波を、くすんだ青と
高雅なエメラルドの色に染め、波はティツァーノの絵の足許に寄せては崩れながら、
その豊かな色彩をティツァーノの絵と競い合っているだろう、と思いめぐらすときであった。
(プルースト「失われた時を求めて」)

なんでもなかったものが、キラキラと輝きだす…。
(ARIA)
参考作品(amazon)
DVD「ARIA」
ベンヤミン「ベンヤミン・コレクション エッセイの思想(プルーストのイメージについて)」
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ARIA −ウンディーネ・マイスターの修業時代−
TVアニメーション「ARIA」公式サイト DVD「ARIA」(amazon)
「異なったもの同士から、最も美しい調和が生まれる」
(ヘラクレイトス「断片」)
ARIA第9話「その素顔の星たちは…」を視聴…。ああ…なんですか、
この神懸かったゲーテは…。「ウンディーネ・マイスターの修業時代」だね…(^^)
ゲーテは裡なる人間と外なる世界の調和を生涯を掛けて追求した芸術家ですが、
そんな彼の畢竟の大作「ヴィルヘルム・マイスター」を、ARIAを
見ていて思い出したよ…。ああ…。なんて、調和した世界…胸が切なくなるよ…。
私達の持っている天性は、徳となり得ぬ欠点はなく、欠点となり得ぬ徳もない。
(ゲーテ「ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代」)
ARIA第9話では、仕事でちょっとした失敗をしてしまい、自分の未熟さを痛感した
主人公の灯里が、自分の至らなさに悩んでいる時に、ネオ・ベネチアの街が計画停電
を迎えることになる。暗闇が苦手な灯里の為に、灯里の師匠、ウンディーネ・マイスター
のアリシアは、灯里が住み込んでいる社屋に一緒に泊まり、そしてそこで、蝋燭を
電気灯の代わりに沢山灯してゆく…蝋燭の、弱くてほのかな、たゆたう光の中で、
彼女が、失敗も成功も何もかも、全てが世界と在ることとして繋がっていくことを、
語ってゆく…、凄い、なんて凄いんだ、西欧のギルド師弟制度を、これほど完璧な
美として描いた作品が、日本から出るなんて!!ああ、私は、切なくて、涙が…。
「わっわっわっわっ、それ、ほうじ茶ですよ。紅茶の缶はこっちです」
「おそばのパンに、ほうじ茶のミルク。
(蝋燭で照らされた)別世界には相応しいんじゃない?」
(ARIA)
本作が凄い見事なのは、光を使って、世界は区分したり、分断したりできないことを示している、
失敗はある意味で成功であり、成功もまた失敗であり、光の中には影があり、闇の暗さ
は星々の輝きを際立たせる、全てはたゆやかなグラデーションのなかで調和している、
それは人間と世界を、私とあなたを、星々と大地を、全てをゆるやかに繋げた、調和――。
電気灯の眩さのなかからでは見えてこない、薄明のなかでたゆたうグラデーション。
世界を繋がりとして捉える眼差しを、光と影のゆるやかな調和のなかで示していて、
凄い、なんだこの感動、ゲーテの色彩論…、グラデーションの世界、調和の世界――。
電気灯は真っ白な絶対的な光を放ちますね。明りを付けていると明、絶対的な光、1、
そしてそれを消すと暗、絶対的な闇、0、そういったデジタル二分的、領域を分断するのが、
近代の光と闇の発想、二分法、分断思考、全てを区分けして、世界を分割してゆく…。
だけど、そういった区分けで世界はなりたっていない、世界は分割できない調和の
なかにある、光と闇、白と黒の間には無限の色彩のグラデーションが広がっている、
その分断できない、世界の連続する色彩の中に、私達も、物事も、何もかもが在る。
それを感じること、世界のグラデーションのなかに、私もあなたも世界も、みな
熔け合っていることを感じること、個と世界の調和、内と外の呼応しあうコスモロジ―。
ああ、凄い作品だな。ゲーテ的なもの(調和世界)の現代における最高峰作品だよ…。
こんなせはしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
(宮沢賢治「春と修羅」)
星々は、こんなに明るかったんですね…
(ARIA)

「僕たちと一緒に乗って行こう。僕たちどこまでだって行ける切符持ってるんだ。」
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
参考作品(amazon)
DVD「ARIA」
空虚の苦しみと充溢への意志 −在ると無いの狭間で−
ゼーガペイン公式サイト DVD「ゼーガペイン 第1巻」(amazon)
「いいんだよ、きっかけにさえなれば。こういうの(創作物)って、
そういうもの。中身が嘘でもいいの。
それがいつか、本当になることもあるかも知れないし」
「嘘でも、本当になる…」
(ゼーガペイン)
萌え理論blogさんから、私の二次創作物について感想を
頂きました、ありがとうございます〜。
萌え理論blogさん「連載一話にしてもう二次創作が」
http://d.hatena.ne.jp/sirouto2/20060602/p5
先日の第一話を読んで、最初が夢の話で、最後が「これはひどい」
なので、メタ物語かと思って、ああ、メタ物語に更にメタな二次創作
を作ったら面白いな…と思いまして。私の凄く好きなメタ物語エロゲに
「2nd
LOVE」、「書淫」とかあるんですけど、どちらも、物語を作ること
の物語なんですね。そして、物語の作り手と、物語自体は、それぞれ
リンクして相互に影響を及ぼしあっている。「2nd
LOVE」だと、描かれる
物語は、命を失った主人公の彼女が、再び戻ってくる物語ですが、それは、
実は、失われた彼女の方が、本当は生きていて、そして彼女が、命を失った
彼(主人公)のことを思いながら描いている物語。そして、その物語を彼女が
描くことによって、彼女のなかの空虚が、だんだんと埋められて行く。それを、
彼女が描いている物語の方のみを描写することで描いていて、見事でした。
「書淫」は更にそれが発展していて、過酷な遭難をして、心理的に深い
傷を負った人々が、遭難事故とは別の舞台を背景にしたサイコドラマ(心理劇)
を演じることで、だんだんと立ち直ってゆくのを、劇からの視点で描いていて、
非常に上手い。そして、私も、何かを創造するということは、それが書くこと
であれ、描くことであれ、述べることであれ、組み立てる事であれ、彫ることであれ、
組み合わせることであれ、なんであれ、全て、己の中の傷(空虚)を埋めて行くことと、
思っているので、メタフィクションという物語、すなわち創造の根源性を描いて
ゆくような物語が、凄く好きで…。アニメ「ゼーガペイン」なんか、その辺に
真正面から取り組んでいて(虚構創造に対する意識の物語、シミュラクルの創造
こそが、人間を人間ならしめる力ではないか、ということ)イーガン諸作品とかと
通じる凄い傑作アニメだと思うんですが、最近のアニメの話題はどこもマーケティング
の天才的な某作品一色で、ゼーガペインのような地味だけど凄く意欲的で、メタ物語として
良く出来た作品が、あまり注目されていないのは、私にとっては悔しいし、残念です…。
萌え理論blogさんの創作は、メタを夢と組み合わせているようなので、
どのように発展するか、とても楽しみにしております。
セックスなんてくそくらえさん「痛みを忘れたあなたへ」
http://d.hatena.ne.jp/noon75/20060525
文章の上手い、下手は、適切な勉強をすればほとんど誰でも
上達することができる。職業的な作家は、みなそれを知っている。
だが、学ぶことができないものというものもある。それが癒すことの
できない空虚であり、何をもってしても削ることのできない過剰さである。
私は動物(特に猫)が大好きなんですけど、動物というのは、完璧なんですね。
自己を自己として、世界を世界として、充足して生きている(ように見える)。
それに比べて、人間は欠如欠損だらけ。あらゆる欠如の苦しみの中で生き、
そして耐え難い空虚を抱いている。ただ、人間はその空虚を埋める為の努力、
何かを創って行くことが出来て、そして、創るということで、ほんの少しでも、
その空虚を埋めて行くことができる。理想のなさに苦しむときに、物語として
理想を描けば、その空虚をほんの少しでも埋めることが出来る。そして、その
物語は現れていないもの(非現前)から、現れたもの(創造)へと変わる。
それが、自分にまた新しい影響を与えて、自分を変えて、自分のなかの空虚を、
消すことは出来ないけれど、また別の形の空虚へと変えてゆく…。変わってゆく。
書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と
生きながらえる助けになったからであり、さまざまな妄執も表現されてしまえば
弱められ、ほとんど克服されてしまうからである。書くことは途方もない救済だ。
(シオラン「オマージュの試み」)
私にとって、書くこと、創ることは途方も無い救済だと感じていますね…。
この世界に唯一望みがあるとしたら、それはコミュニケーションとかシステム
とかにあるのではなく、個々人の空虚と創造のなかにあるのだと思っています。
私自身も、自身の空虚の苦しみと、そして充溢への意志を抱いて、
文章を綴ってゆく、自身に誠実であることを、いつも胸に問いかけ、
自身の一番深い想いを大切に抱きながら、文章を綴っています。
「司馬遷」の著者、武田泰淳氏は、《窮して志をのべる》ところに文学の意味
を見出した。《憂愁幽思、心憂え物思う、ただその為であった。歴史的事実
としてみれば、まことにはかない事実である。一つの心理、一つの影に過ぎない。
しかし司馬遷は、ここに『文学』を認めた》と武田氏はいう。
だが、憂愁幽思すること、《窮して天を呼び、苦しんで志をのべること》、なにも
文学者の専売特許ではなく、作家、詩人の専有でもない。真に《窮して天を呼ぶもの》
がたまたま文学をつくりだす。心憂え物思い、《憤りを発して》ほとんど死のうと
するのはもともと人間の本性からでた行為である。なぜ窮するか。それは彼が実行を
断念しなければならぬ場所にいるからである。なにゆえに志をのべるか。しかもなお
黙して首を垂れるのをいさぎよしとしないからである。文学は挫折から開始された
行動によってなる、と私は書いたことがある。もとよりこれは別のことではない。
なぜそうするか。それ以外に、人間の精神の自由を立証するすべを知らないからである。
だから、文学は風流韻事でもなければ、政治、社会、などのもろもろの価値と無関係な
別天地でもない。人間の本性に発し、他の価値から切りはなしがたい行為である。
ここに文学者、大工、農夫の区別はあるまい。特別の約束事、作法、形式などは、
知的俗物ならいざ知らず、文学者にとっては本質的な価値ではなかろう。
《苦しんで志をのべる》とき、作法はおのずからなり、約定はおのずから超えられる。
なぜなら、それはひとりの人間が自分の存在を証拠立てようとする肉声の叫びだから。
(江藤淳「若い批評家の信条 −窮して志を述べること−」)
参考図書(amazon)
DVD「ゼーガペイン 第1巻」
ROCKY CHACK「ゼーガペインED リトル・グッバイ」
季節を限って恋をしよう −儚いからこそ愛しい−
恋愛というものは常に一時の幻影で、必ず亡び、さめるものだ、
ということを知っている大人の心は不幸なものだ。若い人たちは
同じことを知っていても、情熱の現実の生命力がそれを知らないが、
大人はそうではない、情熱自体が知っている。恋は幻だということを。………
孤独は、人のふるさとだ。恋愛は、人生の花であります。
(坂口安吾「恋愛論」)
昨年の出生率1.25 過去最低(アサヒコム)
日本人女性が産む子どもの平均数を示す05年の「合計特殊出生率」が
1.25と、過去最低を更新したことが1日わかった。これまで最低だった
03年、04年の1.29を0.04ポイントも下回った。
見事に減ってますなあ…。私は国(共同体)が人口の自然減少などの平和で
自然な形で衰退してゆくのは、自然の摂理として受け入れるべきことと
思っているし、それを共同体の論理で身勝手にも、男女は子供を産むべきだ!
みたいに個に対して国が介入、強制するのは、絶対によくないことと思っている。
無理やり、国が子供を増やす為に介入するくらいなら、自然の摂理で人口が減って
衰退した方がいい、国に出来るのは、ある程度の援助、例えば出会いの場を設ける
とか、育児補助とか、労働条件改善とか、そういったことに限定すべきと思っている。
まあ、既にそういったことはやっている訳で、それでも、人口減少に歯止め
が掛からないことを見ると、おそらく自然的に日本は衰退期と思いますね。
私は、人々が自由に生きて、それによって共同体の力が弱まるなら、それは共同体が
甘受すべきことと思うし、共同体は個の幸せの為に存在するのであって、共同体の為に
個が生きるなんてのは本末転倒と思うので、人々が自由に生きることを自ら選択して、
それによって共同体が消えて行くのならば、それでいいんじゃないかと思いますね…。
私はバイロン卿の「恋がいつまでも」という、愛の儚さと、そして愛は一瞬一瞬の
情熱で、激しく燃え上がってそしてまた消えて行くからこそ、その刹那が素晴らしい
ということを見事に歌った、反・結婚主義的な詩が個人的に大好きなので、ご紹介。
ジョージ・ゴードン・バイロン。「バイロン詩集」より。
「恋がいつまでも」
「恋」がいつまでも
川の流れのようにつづくものならば
そして「時」がどんなに刃向かおうとも
すべて空しきもがきにおわるものならば
この世の、どんな歓びも
恋とはくらべようもないのだが。
そうであれば、宝のように
その絆を抱きしめるのだが。
ところが、人の世では
嘆きは墓の彼方までもつづくが
恋は、翼をもっているものだから
いつも、その翼を広げて飛び立とうとする。
このようなわけなのだから
季節をかぎって恋をしよう。
そして、その季節も恋の春だけにしよう。
恋人同士が別れるときは
胸も潰れる思いがして
希望はみな滅びはて
死ぬほかないという心になるが
ほんの少し歳月が経てば
ああ、あれほどに吐息の元であった
かのひとを眺める眼差しは
なんと冷たくなることよ。
二人が寄り添って
雨が降ろうと風が吹こうと
「恋」の翼から、その羽根を
毟り取っていたのならば
恋は飛べなくなって留まるかもしれないが
春が過ぎたならば羽根が無くて
哀れっぽく身震いするばかりだろう。
何々党の王様と同じく
恋の生涯はただ活力のみ――
うるさい世の約束事などにこだわれば
恋の心は自由に振舞うことは出来ず
その栄光には陰がさす。
君主として君臨できぬのならば
恋は、そのような国を
蔑みながら飛び去って行く。
前進、また前進!
戦旗を輝かせながら
その兵力を増やしながら
次から次へと進軍してゆく。
休養は心をうんざりさせ
隠遁は魂を朽ち果てさせる、
衰えた王位を守ることに恋々とすることはない。
甘い恋人達よ、待ちわびながら
幾年も重ねて行って
今さら夢から目覚めたように
気がついたりするものではない。
変わり果てた相手の心を
お互いに怨みながら
憤ったり、罵ったりは
やめるがいい。
愛の衰える兆しがみえて
まだすっかり消えてしまわないときに
すべての情熱が傷ついて
尽き果てるまでじっと待とうとは思うな。
一度衰えはじめたならば
もう恋の天下はお仕舞いなのだ
仲良く別れたまえ――ちゃんと別れの挨拶をして。
愛情の力によって
過ぎ去った日々の思い出を
懐かしく君達の心に
蘇らせて楽しみたまえ。
飽きたり嫌いあったりして
君達の情熱が満腹状態となり
むかむかさせはじめるまでは
幸いにも待っていなかったのだから
君達の最後の別れの抱擁も
冷たい後味は残しておらぬ――
昔と少しも変わらぬ
愛しい顔が眼に浮かぶ。
君達の楽しき過ちを映す
鏡のようなその瞳は
最後の、だが消えてはいない、恍惚を湛えている。
まことに、別離は
耐え切れぬほどのものだ。
どんな自暴自棄が、昔から
そこから飛び出したことか!
といって、いつまでもしがみついているのは、
一度冷めはじめたからには、
牢獄の壁にもたれている胸の思いを
まるで牢の鎖に繋いでおくようなものだ。
「時」は恋の倦怠を生みだし
慣れてくると恋は消え失せる。
翼を持つ若者「恋」は
結局、若者向きのものさ――
いまに君達も悟るだろう、
その歓びが磨り減らぬうちに、断ち切るのは
随分と辛いが、しばらくの苦しみなのだということを。
いやあ、バイロン卿は私の最も愛する詩人の一人ですが、その詩の
中でも、私は特にこの詩が一番大好きなんです、物凄く共感する!!(^^)
私も、恋した時は物凄く燃え上がって、ああ、この女の為なら、俺は
全て捧げられる!!と思うけど、時間がたつと急激に醒めて行って…、
あれ?今は何にも感じないな、あれ?みたいな。だから、私の感覚的には、
この詩でバイロン卿が歌っていることは正しいと思うし、愛のない結婚生活
よりは、愛のある恋人との生活の方がずっといいと思うので、例えば、
結婚している人が不倫したら批判されるけど、私は、本当にどうしようもなく、
旦那さんor奥さんよりも不倫相手の方を愛してしまい、相手もまた愛して
くれているならば、結婚生活を壊してでも、不倫に走った方が人間的だと思う。
勿論、結婚生活を否定している訳ではなくて、愛が冷めても情みたいなものが
二人の絆となって結ばれているような結婚生活はなかなか素敵だなと思うし、
結婚生活に向いているタイプの人もいる訳で、そういう人にとって、結婚は
凄く良いものだと思うし、そういった結婚は祝福したい。ただ、私自身は、儚く、
一瞬で燃え上がり、そしていつのまにか幻のように消える、刹那の情熱が私の根幹。
情熱は、私にとって、一瞬の幻、儚き瞬間だからこそ、貴く愛しい――。
君の心の空のいつまでも晴やかであらんことを、
君の美しい微笑のいつまでも明るく、平穏無事であらんことを、
そしてまた法悦と幸福の瞬間に君の上に祝福あらんことを。
それが君が一人の孤独で、感謝に溢れた心に与える幸福でもあるのだ!
ああ!至上の法悦の完全なひととき!
人間の長い一生にくらべてすら、それは決して不足のない瞬間ではないか?
(ドストエフスキー「白夜」)参考図書(amazon)
バイロン「バイロン詩集」
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男女の友情は成立する −コケットリーを超えて−
川原泉「メイプル戦記 第1巻」(amazon) 川原泉「メイプル戦記 第2巻」(amazon)
対等のプレイヤーとして、対等の人間として、
真剣にボールを投げてくれてありがとう。
(川原泉「メイプル戦記」)
島根県中学野球に女子エース登場(山陰中央新報)
エースナンバーは女子選手―。………
直球は最高で120キロ近いスピードがある豪腕で、制球力も抜群。
今季は練習試合などで7勝4敗の成績で、ノーヒットノーランを
3度達成した。監督は「スーパーエースだ」と信頼を寄せる。
川原泉の傑作野球漫画「メイプル戦記」を思い出したよ――(^^)
ふふっ、これは楽しみだ、心から応援したい気持ちにさせてくれる。
頑張って欲しいな…。女性の社会進出というのは、仕事だけではなく、
自らの楽しみとしての趣味嗜好や、仲間と共に戦うスポーツの世界でも、
もっともっと進展すべきべきだと私は思っているし、なにより嬉しいのは、
女性エースになれるということは、チームで男女問わず一緒に戦って、
それで、チーム仲間からの性別を超えた信頼があってこそ。いやあ…、
私、こういうの、凄く好きなんだなあ…。性別を超えて、共に戦う仲間
というのがね…、なんとも胸一杯に熱くなる気持ちにさせてくれる。
心から頑張って欲しい。応援してます。男性チームだけのチームに比べて、
男女混合チームで女性とともに戦うこのチームの得る経験は、本当に貴重な、
かけがえなきものにあると思いますね…。お題目で男女平等を唱えたって、
上手くいかないんですよ。一緒に戦う、一緒に頑張ることが、大切なんです。
男性と女性が共に過ごして、そして共に頑張っている女性の実力を男性が直に
感じた時、「ああ、こいつやるじゃん、こいつは仲間だ!」という意識が
芽生えて、異性に対する視点がドラスティックに変わって行く、異性として
の意識を超えて、「仲間」としての意識が目覚める、これが一番大切なこと…。
いい年なんだけど、おまえ(異性の同期仲間)と会うと
大学出たてのテンションになっちゃうよな。
(絲山秋子「沖で待つ」)
仕事だけじゃなく、趣味のサークルでも、友人関係でも、スポーツでも、
色んな人間関係において、こういった「仲間」としての意識が目覚めた方が
いい。今まで、男性と女性の間にそれぞれ仲間としての意識があまり
目覚めなかったのは、男性と女性の領域を強制的に分離してたからで、
そういった分離を超えて、男性と女性が共に切磋琢磨して腕を磨きあえる、
「ライバルにして親友」という関係になれれば、凄くいいなと思ってるんだ…。
「男女の間に友情は成立しない」みたいな馬鹿げた論調がありますけど、
端的に云ってこれは「嘘」以外の何物でもない。論より証拠、だって、私に
女性の友人はいますもの。異性間で友情が成立することもあるし、成立しない
こともある、それは同性同士の間柄と同じこと。もし、異性との間柄は必ず
発情するなんて奴がいたら、そいつはちょっとどうかしているとしか思えない。
普通に友人として、性愛的なもの一切抜きで男女は付き合うことができるし、
そんなのどう考えても当たり前なことです。私は異性の友人に対しては、
性愛的な感情は全然沸かないし、性別とか全く意識せずに話しますよ。互いに
合う趣味の話とか夢中でしている時に、性別のことなんて頭に浮かぶ筈が無い。
ジラールがコケットリーの理論として組み立てていますが、コケットリー
(媚態)は、男性の欲望の眼差しと、それを意識した女性の支配への欲望から
生まれます。作田啓一「個人主義の運命」が上手に纏めているので、ご紹介。
女性は彼女(自身)の肉体を所有していますから、その肉体(性愛)を
求める男性に対して、当然のことながら常に優位に立っています。………
彼が肉体を欲しがれば欲しがるほど、彼女は自らの専有しているもの
(肉体)の価値を認識します。そして自分の優位を男に誇ります。しかし
男が障害の大きさに尻込みして彼女から去ってしまえば、彼女は男を
支配する地位を失います。そこで、彼女はこの地位を保つために、男の所有
に帰さない程度において、彼女の肉体の価値を男に提示します。(=媚態)
(作田啓一「個人主義の運命」)
女性と猫は同じだ。呼ぶとそっぽを向くが、呼ばないと擦り寄って来る。
(プロスペル・メリメ「カルメン」)
死ぬほどに恋しいのだ!あの女をこの腕で抱きしめることを考えると、
喜びで胸も張り裂けんばかりだ。こんなにもわが身を狂わすあの女が憎い!
スペンディウス!あれを殴りつけたいとさえ思うほどだ!どうしてくれよう。
ああ、いっそのことわが魂をあの女に譲り渡し、奴隷となってしまおうか。
(フローベール「サランボー」)
別にこういうコケットリーと恋情を否定する訳じゃなく、私もファンム・ファタル
に凄く魅了されるところがあるから(猫みたいな高貴で強い女性は特に大好き)
コケットリーはそれはそれでいいと思いますが、全部が全部、性愛欲望の眼差し
を介した関係性というのも、不自然だなと。欲望の眼差しを介すると、そこには
必ず権力的関係が発動するけど、そういった権力的関係の発動しない、同質的な
人間関係――友情もまた、異性との間に結びつきとしてあっていいと思っている。
だから、性愛的関係を断る時の決め台詞としてある「お友達でいましょう」
という台詞とか、評判が悪いけれど、一体何が悪いのか、全然分からないよ。
性愛を受け入れるかどうかは、完全に個々の主体的な判断だし、性愛を
受け入れるのはNoだけど、友人関係ならYesという判断だって普通にある訳で、
それならそれでいいじゃないかと思う。普通に友人として付き合ってゆけば
いい話で、相手の女性に対して悪感情を抱いたりするのは、理が通らない。
友人同士の関係で得てゆけるものは沢山ある訳で、男女間で友情を育めない
というおかしな偏見は、人類全体にとっての大損失だと思っている。まあ、
今は女性の社会進出、特にビジネスでの進出が進んで、そんな偏見はほとんど
絶滅寸前だし、これはとても良いことだと思いますね。男女協働の良き側面かと。
優秀な女性はどんどん社会の主要地位を占めるべきと思う。私はロシアの名君、
天才的啓蒙君主エカテリーナや、ハプスブルグの女帝マリア・テレジアとか大好き!!
アメリカあたりは率先して女性大統領を生み出せばいいのにといつも思う。
私自身は感覚的に、あんまり男女の差は関係ない感じなので、男性とも女性とも
同じような感じで付き合ってますね。だから逆に女性的アピールの強い女性は
付き合い苦手なんですが…(^^;異性であることを強くだしてくるタイプの女性には、
う〜ん、なんだか…戸惑っちゃうことが多い…。別に男女それぞれ、性別を
そんな気にする必要はないんじゃないかといつも思う。男性でも女性でも
魅力的な奴は魅力的だし、ダメな奴はダメですよ。それは決して変わらない。
異性だからということで変に気を使う方が失礼だと私は思いますね。
男性女性の区別は結局のところ、生活領域が分断されていたことで生まれている
側面が大きいし、そういった分断のうち、生物学的なものに根ざさない不条理な
分断、変わってゆくべき分断は変わってゆくでしょうし、未来は、性別を超えて
男女が共に友情を育める時代にきっとなると私は思っているよ――(^^)
あらゆる面から若いひとたちは、社会的な活動に入ってゆくことで、
自分たちの社会観をひろく強くして行かなければならないと思う。
どっさりの異性の知人というものが、あるいは同僚があるような公共的な生活が
先ずあって、そういう土台からもっと私的なこまかい条件の加わって来る友情も
生れる空気が求められるべきだと思う。異性の友情という、どことなし従来の
婦人雑誌のトピック向きな空気の低迷した隅からぬけ出して、もっと心理が強健で、
もっと持続性と自主性とをもった両性の友情がはぐくまれて行くことを、私たちは
自分たちの生活の現実としての希望としているし、努力しているのだと思う。
(宮本百合子「異性の友情」)
参考リンク(青空文庫)
宮本百合子「異性の友情」
参考図書(amazon)
川原泉「メイプル戦記 第1巻」
川原泉「メイプル戦記 第2巻」
川原泉「甲子園の空に笑え!」
絲山秋子「沖で待つ」
プロスペル・メリメ「カルメン」
作田啓一「個人主義の運命」
うぃんどみる「魔法とHのカンケイ」